店主の写真コーナー


模型の発売や時事ネタに関係のある写真を私の過去に撮った写真から紹介します。
へたくそは御了承願います。

 新規取り扱いメーカー「のぞみ工房」、16番ペーパーキットのメーカーです。17m国電のクモハ11 12、クハ16、クモニ13 20mノクモハ40、41 クハ55 クモユニ81などで昔可部線や宇部小野田線などで活躍した車両が手軽に?再現できます。旧型国電は3万円以上するピノチオの真鍮キットぐらいしかなく5千円程度で特に専門の工具がなくても出来るので当店も販売する事となりました。
 そこでイメージ写真、拝島駅のクモニ13002 77年8月11日 ニコンF2 ネオパンSS 夕刊を運んでいるのでしょうか偶然現れて内心「ラッキー!」。正面の連結器下はATS-S形の車上子、ヘッドライト横のアンテナは常磐線用の無線アンテナ、1両でも密度の高い車両です。クモニ13はその後山手線などのATS化により消えてしまい、私のクモニ13は前日撮った豊橋機関区の切妻車とこの写真の2枚しかありません。「ノザキのコンビーフ」の看板の方が気になりますか?      3月14日



 タイヤ改正で「なは、あかつき」が廃止になります。「なは」といえば「なは、日向」の世代ですがキハ82の写真は撮れませんでした。まともな走行写真はこの山崎の大カープの583系。「57.11」に向けて1両減車された過渡期
、82年10月22日 回22M  ニコンFE コダクロームKR
 「明星」で先回りして新大阪から103系で山崎に、サントリーの工場の前が撮影場所、しかし早く起きてそれなりに体を動かすと「生理現象」が...駅まで持たなくて近くの民家に「トイレ貸してください!!」ご迷惑お掛けしました。すっきりして次々やって来る列車を撮ったのは四半世紀前の事となりました。
 前々回の写真の続きですがサントリーの工場にもアルコールを積んだタンクローリーが続々入ってましたが中身はなんだったのでしょう。 3月9日



 谷村新次の「いい日旅立ち」のメロディにのせて呉線が登場するコマーシャル、JR西日本もついに自粛が解けて復活したと思っていると「犬」?と見ているとソフトバンクのCMでこけてしまいました。完全にJR西日本のパクリでしょうが関東でも流れているのでしょうか、その昔のサントリーの名作CMにも似ている。
 山口百恵の「いい日旅立ち」、郷ひろみの「エキゾチックジャパン」、?の「一枚のきっぷから」など国鉄のキャンペーンもいろいろありましたが始まりは「ディスカバージャパン」。万博の後の落ち込みを阻止しようと始めたキャンペーンでしたが某駅の片隅にまだそのシールがあるとは...。
 ある漫画で「アン子とノン子のディスカバー田舎」の巻があったような。



 2月も終わりになりますが寒い日々が続いています、寒い夜は熱燗で1杯の方も多いのでは?そこで「アルコール」のタンク車です。タム8106 東広島駅にて85年1月31日
 問題の積荷は「車標」の記憶がないのでわかりません、広島は酒どころ、「桶買い」で西条の酒が灘の酒に変身する為貨物扱いのなくなった西条駅の代わりに積み込んでいたか、廿日市の○国○造から「醸造用アルコール」を各地に運んでいたか(ほとんどの日本酒には添加されている)今となっては謎です。西条駅で扱っていた頃は積荷の酒を失敬して飲んで入換をしていた操車掛がいたとか。     2月26日



 このコーナーで多いのが「形式写真」。マニ37の写真のように車両を斜めから撮った写真、模型の制作にとても役に立ちます。そこで今話題の500系新幹線の形式写真、1月20日 徳山駅にて。
 通常こだま627号は西の300系ですが当日は500系が使用されおまけに徳山で12分も停車するので「形式写真」を撮るには最高と1号車から順番に撮影しました。昔の恨みを晴らすため右からと左の形式写真、横3分割の側面写真の1両あたり5枚、16両で80枚のはずでしたが11号車でタイムアウト次回にお預けとなりました。途中フィルムの交換がありデジカメはいいなとは思いました、逆光ぎみですがそんな事は言っておれません。
 当日は5名程度の「同業者」の方がおられましたがみんなデジカメは良いとして500系が「のぞみ」や「レールスター」に抜かれる写真を撮るだけで「形式写真」は私1人。500系は広島のような島式ホームの停車が多く形式写真を撮る対向式ホームはこのような時しか無理なので貴重と思うのですが。次回は2月24日薄曇りになってください!。
W6編成 3号車527‐11    ニコンFM フジカラー  2月19日
後日談 24日は雪が降ってまともな形式写真になりませんでした、残念!



 お客様ばかり「落としても」なんなので自分も落ちます。懐かしの80系クハ85 75年1月徳山にて。背景の出光のLPガスタンク車もなつかしい。
  30代後半以上のおじさんの身近な電車は80系で決まり!しかし模型は「旧型国電の最高峰」の300番台が多く発売されています、しかし山陽本線広島山口あたりは少なく初期車が多くいました。
 カメラを手に入れ最初はだれでも正面写真を撮ってしまうもの、このあと誠文堂新光社の「ガイドブック」を買って「形式写真」というものの存在を知って撮り始めた頃には80系は消えてしまいました。クハ85の形式写真はたった1枚。恨みは模型でと現在KSのキットを7両組んで゜います、ネットで探すと先人の方が写真を撮っておられます、感謝。クハ85 0+モハ80 0+モハ80 91〜+サハ87 0(サロ85 0)+モハ80 200+クハ86 0とごちゃまぜな編成、300ばかりではおもしろくありません。でもあとまだ10両近く未着手、クモニ83もぶらさげないといけないし いつになるやら。 コダックポケットカメラ コダカラーU    2月15日



 探せばありました、マニ37203の写真。84年8月26日 広島にて 新聞輸送で大阪からやって来た荷物列車の返却列車にて 荷1032レ広島発7時05分。この日「73系車両部品販売号」が呉から可部まで走るので「呉線73系の再来」乗りに行かんといけないと考え早朝広島駅で待っている時撮ったものです、早起きは三文の得。
 元スロ50 7→マニ37 3→マニ37 203となった車両です。手前の電池箱が増設されたもので12系以降の新型が付いています、エコーの新型でなくエンドウの新型客車の電池箱ですね、箱の奥行きが深い。となりのエアータンクも新型です、航送用のフックらしきものがあります(U字形のもの)。14系併結時代は車軸発電機を2台にしてこれで乗務員室の暖房にしたそうですが24ボルトの暖房でどれほと゛暖かかったのでしょうか(14系には蒸気暖房の引き通し管がないので最後部だと暖房が効かない為)。この写真の荷1032レは11両中マニ37が2両、他はパレット用のマニ44やワキ8000.運転扱いの車掌1人の為にEF58や61のSGを炊いていたのでしょうか。   ニコンFE トライX       1月18日



 14系の急行のお供といえば「マニ37」!グリーンマックスのキットやカタログを見て育ったお子様(現在はおじ様の手前)には馴染みのある14系併結改造の200番台。KATOの14系の前につなぎたくてウズウズしている方がおられるようですので奈落の底に落とす写真をどうぞ。80年9月21日 遠賀川〜海老津間203レ「雲仙、西海」ED7648
 10月の改正で消える14系急行の走行写真を撮る為、先行の「阿蘇、くにさき」で先回り、見知らぬ早朝の住宅地をウロウロして何とか撮った写真です。今となればマニ37の細部写真の方を撮っていた方が尊敬されたのでしょうが。その夜 夜行「かいもん」で鹿児島に次の日また夜行「日南」でと無茶な事をやっていました。今年佐渡酒造先生と同じ年になる現在ではとてもできません。 フジカラー400 ニコンFE



 KATO2008年上期新製品ポスターにHO14系客車が発表になりました。私にとって14系座席車といえば初めて見たのがこの「しおじ」です。74年8月徳山駅にて。
 夏の暑い日中に涼しげなブルーの客車は電車特急の485や583系より豪華に見えました、同じ新系列客車の12系と比べると屋根が低いので(夏冬兼用のカバー分車体が低い)スマートに見え憧れの車両でした。麻服の専務車掌の姿がまたカッコイイ。
 乗ったのは新幹線開業後の「雲仙」、外観と違って簡易リクライニングシートの掛けごこちと言ったら最悪、リクライニングを倒して寝かけるとバネにロックがないのでバタンと戻り寝られません。後に九州に撮影に行く時結構利用しましたがこの頃は「正しい14系座席車の寝かた」を会得したので睡眠できましたが。
 「いさみや」のペーパーキットが発売されるとお年玉で購入して造りました。
1月14日



 遅くなりましたが、「明けましておめでとうございます」。本年も当店をよろしくお願いいたします。
 さて、年始に新南陽出身の方が来られ当店のホームページの写真が身近で嬉しいと言われましたので今回は新南陽です。
 ヤ251 新南陽駅の東寄り走行中の電車から80年10月10日。新南陽のヤードがリニアモーター使用の自動化ヤードであった為その保守をする事業用貨車です。正式には吹田操常備です、試作のコキ9200(コキ50000の原型)を改造しユニッククレーンや電源用のディーゼル発電機を載せています、左のシートの中には「アント」があってこの貨車を押すことができるそうです。
 ヤ250にはクサ9000(カンガルー式の試作車)改造の250が塩浜操に、コキ9200のもう1両もヤ252に改造予定で山陽本線の岩国〜南岩国間にあった川下信号所に留置していましたが結局改造されませんでした。川下にはチラ1も留置され一度は写真をと思っていましたがいつの間にか消えてしまって後悔しています。
 新南陽の自動化ヤードもJR化後の今から10数年前に基盤整備で消えてしまいました。もったいないと言うか無駄と思われますが当時関係した古老曰く「リニアモーター地下鉄の実験線として役に立った」そうで国鉄の技術開発は今の都営大江戸線などに役立っているとなれば決して無駄ではなかったのではないでしょうか。  1月7日



 59年2月ダイヤ改正の貨物大合理化で余剰になったEF60の群れ、先頭のEF58100は宮原区から下関に転属後、ここ小郡で故障しそのまま留置されました。広島区のEF60や61が列をなして留置されるのを見るととても悲しい気持ちになりました。1両96トンあり4、5両まとめて回送したので橋梁などの強度不足などが懸念されたそうです。そしてこれだけ機関車が余ったとなると運転していた乗務員も余った事となります、激動の時代の始まりでした。    12月20日  ニコンFE コダクロームKR 84年3月17日



 ピギーバック チサ9000の試運転、この頃からまじめにメモをしていませんので撮影日ははっきりしませんが85年の夏と思われます。柳井駅にて、背景の「テルハ」が懐かしいこっちの方をまじめに撮っておくべきでした。
 EF66+スハフ12+チサ9000+コキ50000+スヤ11の編成、EF58が消える頃(84年)にも試験をしてましたので2回目の試験でしょう、後に東京行きのコンテナ列車で耐久試験をしてましたが実用化されずピギーバックはクム80000の簡単手軽な方が実用化されました。大型トラックを載せる野心作でしょうが直径350ミリの小径車輪の走行安定性(分岐器の欠線部)などいろいろ問題があったのでしょう。100キロで1分間にコキ50000の車輪は617回転、チサは1516回転、0系の新幹線が210キロでも1200回転なので軸受も相当大変です。現在もチサは車籍があり広島車両所の片隅に留置されているはずです、車両所祭で展示してましたか?
 ホビーモデルのトキ15000が発売された時、チサ9000の台車の元車両 クラ9000を作ろうかと思いましたが4.4ミリの車輪がなく消えてゆきました。



 あまり鉄道模型に関係ありませんが新井口駅開業の日のセレモニーの写真です「はーらいたまえ、きーよめたまえ」。85年3月14日
 この後広島都市圏に新駅が続々誕生する事となりました、そしてこれから後普通電車は8両までとなりました。
 なぜこの日私がここに来たといえば新駅誕生にほんの少し関係したからです。この駅はカーブの中にありホームを設置する為上りか下り線のどちらかか線路を移設する必要があったのです、その為新線を従来線の横に敷設し切替工事で移設する工事を担当したのが当時の私の職場だったのです。 
 保線区の事務で資材担当の私は五日市駅の側線でチキ車から新品のレールの取り卸しに立会い切替工事の当日は事務は職場で「留守番」「電話番」、当時の支区長と助役の張り切りようはすごかったです。線路移設後は「マルタイ」で整備しEF65の単機で線路を踏み固め切替工事は無事終了したのでした。もちろんその後は「打ち上げ」で大量の酒が消費されました。
11月23日



 遅くなりましたが小郡の935‐15の写真です。79年7月15日 小郡新幹線保線区にて。ニコンF2 トライX
 ワキ1(ワキ1000)改造の新幹線用(標準軌)救援車兼用緩急車です、DD13改造の912ディーゼル機関車に牽引される931形ホッパ車の最後尾の緩急車で推進運転の際は前方監視と作業員の輸送、ホッパ車の照明用の電源車として夜な夜な活躍していました。新幹線の延伸により増備されていったのでさまざまなタイプがあるようです、台車は標準軌用TR8006。
 Nゲージはマイクロが機関車を発売しているのでトミーのホキ800と河合のワキ1000をそれらしく改造すればらしく出来るでしょう、16番(新幹線になるとHOなので話がややこしくなるが)はホビーのワキとトミーのホキはいいけれどDD13はどうする?
 11月5日



 コキ5500の入った貨物列車、直行用のコキだけの20両編成もいいですが通常の貨物列車のアクセントとして数量入れてあげるのもいいものです。
 81年6月7日 996レ 岩田〜島田間 EF65117 闘争のあとがなんですが20両弱の模型で再現しやすい編成、タキ、コキ、ワム60000、70000、ワラ1、ワム80000、トラ、ヨとバラェティあふれる編成です。EF65にしては荷が軽い、996レは「解結貨物列車」で新南陽発東広島行、途中 下松、柳井、岩国、大竹で貨車を解結しながらのんびり走行します、いちばん前のタキは「山パル」のカセイソーダとなれば岩国行でしょう、はや四半世紀前とは。
ニコンFE コダクロームKR ズームニッコール80〜200mm 10月28日



 バックマンから「マルタイ」がHOサイズで製品化されています、「マルタイ」と言っても九州のラーメンでなく正式には「マルチプルタイタンパー」線路の凹凸を直す保線機械です。
 写真は柳井駅構内で整備をうけているところ80年3月19日、オーストリア製で一台1億円はする代物、飛行機並に難しいマルタイを操る「重機保線掛」は当時保線区の花形でした。当時下っ端の私はマルタイがつき固めできない箇所をハンドタイタンパーをか細い体で汗だくで作業していました。銀色に光る円筒形のタンクは水タンク、作業中粉塵が飛び散るのを防ぐ為の物です。岩国保線支区のマルタイには「にしき号」(錦川より)の愛称板が取り付けてありました。
10月19日  ニコンF2 コダカラー



 マニ30を撮るために豊橋に行ったのではありません、あれは偶然です。本当の目的は「りゅうでん!」他飯田線の旧国だったのです。豊橋機関区に行って構内で写真を撮らしてもらい駅に戻ると「りゅうでん」が...。
 鉄道ジャーナルの特集「旧型国電は生きている」に感化され旧国を求めてまず宇部小野田線に、そして東京に行く前はもちろん飯田線、この後「大垣夜行」で東京に向かいました、そして鶴見、南武、青梅線に。
 流電といえば「とれいん」誌などで御活躍でした鬼頭哲哉氏の訃報には驚きました、まだ39歳の若さでとは、ペーパー車両工作から鉄道模型に入った私としてはあの名鉄パノラマカーをペーパールーフで自作するとはすごい人がいると感心していました、御冥福をお祈りいたします。
ニコンF2 ネオパンSS        10月8日



 「荻原教」の新作マニ30!!ついに発売なのですね、私はワム(谷川のOEM)を持っていますが(完成しているのではない)。 
 私がこの車両=現金輸送車の存在を知ったのは昭和40年後半の朝日新聞の国鉄問題連載記事の写真に汐留駅で積み込む姿があったのが初めてでした。そして中学生の時買った「国鉄客車貨車ガイドブック」や高校の図書館にあった朝日新聞の「世界の鉄道」(ほとんど借りっぱなし)の客車特集など知識は増えてきましたが現物をみたのはこの写真の時だけです。77年8月9日豊橋駅にて マニ30 2003南シナ 
 もっと何カットも撮っておけばよかったのでしょうがこのあと大垣夜行に乗って花の東京で撮影すると思えば1枚がやっとでした、翌年徳山駅で見たときは二代目の2008でした。そろそろ製作しなければ...  ニコンF2 ネオパンSS  9月23日



 祝、「広トマ」標記入りスハフ42発売記念、岩徳線の客車列車。水清き錦川を渡る10両編成!! 82年3月7日 西岩国〜川西間 DE101045広 821レ。50系に置き換えられるので慌てて撮影に向かいました。この数ヶ月前に鉄橋の上のレール更換を行いました 怖かった...
 一日2往復の客車列車があり、岩国に8時前に着く通勤通学列車、折り返し徳山に10時台に着くお買い物列車、15時台に徳山を発車する学生の帰宅&買い物帰り列車、岩国を18時前に発車する通勤(退勤)列車と10両編成がそれなりにいっぱいとなっていました、今となっては信じられませんが。夕方の列車は周防高森でほぼ降りてしまうので学校帰り高水から乗車するとガラガラでした、座席に置いたままの「九スポ」をみて興奮していましたが...
 今では徳山に買い物に行かず周防花岡で降りて買い物に行く時代になりました、当時想像できませんでした。徳山の「スズヤ」が懐かしい。
 ニコンFE トライX        9月8日


カトーから「かもめ」が発売されました、61年10月に気動車化されたので乳児だった私には記憶がありません。キハ82にしても無情に徳山駅を通過してたので小郡で撮った1枚(次のコマはキハユニ15)が最初で最後でした。
 そこでオハニ36はいかがでしょう、79年8月8日 岩徳線824レの23番 広トマ 7月にオハニ61から置換わった直後です。23は特急用でなく58年には新潟に配置、後に名古屋で「阿蘇」に使用、73年の配置表によれば下関に配置山陰本線で使用、最後に徳山配置となり岩徳線で最後を迎えました(82年春)。
 「阿蘇」で使用したからでしょうか近代化改造され車体青15号でした、客ドアは「荻原教」で言う所の「ダルマHゴム」でした。8月8日はテアトル徳山で「銀河鉄道999」を見に行った帰りに撮影したようです。
ニコンF2 トライX       8月31日
※今回のスハフ42近代化のインレタの所属に広トマが入っていてたまげました。



 毎日暑いですね、残暑お見舞い申し上げます。暑くて模型どころではないですね、しかし模型業界はもう来年の2月の話をしています。マイクロ16番第3弾は私の予想どうり183系電車。関東で馴染みがあり、短いとかっこ悪い、いろんな色が発売できる、189もそしてEF63もあたりもやる気ですかね。当地広島ではまったく馴染みがなくどうしましょう。碓井峠フィーバーで189系「あさま」に乗られた方はいらっしゃるでしょうが183系の「とき」に乗られた方は広島でどのぐらいいらっしゃるのやら、そこで寒い写真をどうぞ。
 写真コーナーのだいぶ下の181系「とき」を撮影した翌日は大雪でした、有名な水上の鉄橋は近いのですが長靴でないので大変でした。81年12月14日 クハ183‐1012 「とき」
 大雪に懲りて高崎まで行くと天気は晴れ、空っ風の上州です。高崎から60キロで天候がここまで変わるとは。暇になったら(いつ?)水上とか伊香保あたりに行って見たいものです。ニコンFE コダクロームKR



 マイクロエース来年1月!の新製品にEF5835が発表されました、さす36号機でないのが埼玉県のメーカーらしい選択です、カトーを待ちましょう。35は見たことがないので36の写真をどうぞ、80年4月30日、米原機関区にて。
 社会人2年目のゴールデンウィーク 初めて「精勤」を使って、大阪〜東海〜甲府〜信州〜名古屋と撮影の旅の途中に立ち寄った時の一枚です。7つ窓のゴハチの変形機、当時米原の58は夜行ぐらいしか山陽本線西部では見かけないので貴重です、ただしパンタが片方しかあがっていない。
 のちに59.2改正で下関に転属しそのあと真っ二つに切られ広島五日市の丘の上に鎮座するとは当時考えられませんでした。そう言えば米原には111号機も配置があったような...。    ニコンF2 トライX 8月11日



 115系の前は80系電車、このあたりの40代以上の「おじさん」にとっては一番身近な電車でした。写真はサハ87 008広ヒロ 77年11月13日 小郡にて 時事ネタですがピンク.レディー全盛期の頃です。高校生がドアが閉まるのを待てないで撮った一枚、今となればサボ交換も懐かしい光景ですが。
 模型は300番の全金車が多く発売されていますが当地は0番が6割も占め80系と言えば車内ニス塗りのイメージがありました。以前にも述べましたが800、850番以外ほとんどの番台が配置され、80系の編成はゴチャまぜが美しいと思います。
 なぜ80系の写真と言えば現在KSのキットを組み立てているところだからです153系が約二十年かかって完成したので次は80系(これも十数年熟成されています)。80系初期車の楽しいところは帯金ハンダ付け三昧と室内の仕切りです。写真のようにシル、ヘッダーが妻板まで回り込みひたすらハンダ付けとキサゲの日々です、キサゲはほとんどサンドペーパー(タミヤの400番)で行いマッハとエコーモ使用します。手が真っ黒になるので工作後は車両といっしょにクリームクレンザーで汚れをとるのですが冬は手が荒れて大変です、夏は夏でハンダ付けは暑くて大変ですが。
 室内仕切りはデッキのある車両の宿命ですが80系には写真でもかすかに見えますが仕切りに窓があるのでさらに一工程が増えます、おまけにトイレは半室なので工作が大変。早く箱にしたい気持ちを抑えてひたすら準備作業をおこないます。そのあとモハは屋根上配管...。
 サハ入り6連と4連、0 200 300など80系だけで何両作らなければならないのでしょうか、いや何年かかるかな、クモニ83もぶらさげて。
ニコンF2 トライX  8月2日



 マイクロより115系2000番台西日本N40更新が12月に発売になります。数年前まで広島の電車が模型化されないと嘆いていたのに今ではほとんどの車種が発売になり(いつもあるとは限らないが)長生きはするものです。 
 さて写真は2000番の若かりし頃の姿、登場からまだ4年 82年3月10日 福川〜戸田間 クハ115-2005他 3122M まだ6連の頃の姿です。「セノハチ」の為の115系なので広島以西は111系が多く 毎日柳井までの通勤は行きも帰りも111系でした。夏は暑く冬は暖房の効きが悪く寒かった!たまに2000番や153系に乗ると夏の冷房は嬉しかった。
 2000も登場からはや29年更新されていつまで走るのでしょうか?
ニコンFE AIニッコール50mm コダクロームKR  7月24日



 7月8日をもって当店は開店3周年となりました、みなさまのおかげでここまで来れました、これからも宜しくお願いいたします。 
 さて今回の写真はトミー10月発売のレム5000販促、数量買ってもおかしくない写真。81年6月7日 岩田〜島田 3850レ EF65 33 稲二
 当時山陽本線の貨物に野菜、果物、魚類の生産地九州から関西、首都圏に向け「急送品」列車が4本設定されていました。鳥栖〜新鶴見2850レ、長崎〜大阪市場2250レ、鹿児島〜大阪市場2252レ、この写真の鳥栖(20:56)〜新鶴見(翌々日2:50)間3850レです。ずらりレムが8両連なるこの写真は確かに急送品列車らしい編成です、野菜専用のツム1000もよくつながっていました。市場に行くので冷蔵車はバラバラにつながずまとめて連結したほうがそれらしい編成になると思います。 エクタクロームEL ニコンFE



 「59.2」改正後グリーン車がはずれた後の「ちどり、たいしゃく」614D、84年5月9日 上深川〜下深川にて。5月の薫風を浴びて快走する急行気動車、田んぼも耕されもうすぐ水が張られる頃です。なぜこの日にここにいたといえば特大貨物が走るからでそのついでに撮影したものです。何事も「ついで」は大事です。 ニコンFE ズームニッコール80〜200mm コダクロームKR  6月22日



 年末12月30日の「ちどり」611D、三次駅にて 先頭車のキハ58 441広ヒロは一番前のクーラーが違う異端車。グリーン車と指定席が各1両となると自由席は2両、今と変わらないですね、グリーン車はガラガラでした。しかし三次から増結車が付いていたので今と比べたら乗車人員は多かった。
1983年 ニコンFE コダクロームKR



 さよならに便乗して芸備線の急行ネタで。
 夕日を浴びて快走する613D急行「ちどり」 83年10月23日 山之内〜下和知間にて。82年秋から84年春まで三次にいましたので芸備線の急行にはお世話になりました。特に夏場は冷房があるのは急行ぐらいで50系と比べたら別天地でした。「59.2」でグリーン車が廃止になったのでキロ入り写真も貴重です。ユニット窓に改造されています「59.2」以降広島駅の小荷物ホームの奥に留置されていました。
 よく見ると電柱が「ハエタタキ」ですね、同軸ケーブルでなく昔ながらの、そう言えば三江線の保守用車の申請に江津のCTCセンターに「模写電信(FAXみたいなもの)」を送ると三江も「ハエタタキ」なので(信号損失が多い=電話が遠い=文字がかすれている)見えんで苦労するんじゃ、と机の前の技術係のM氏が言っていたのを思い出しました。 ニコンFE コダクロームKR 6月2日



 東の都では中央線の201系が無くなると大騒ぎになってカトーからも201系国鉄時代が発売されるようですが本州の西のはずれでは・・・。もっともこちらは芸備線の急行「みよし」がついに無くなる事のほうが現実的でしょうが、勝手に田んぼのあぜ道に入ったりゴミを捨ててお百姓さんとけんかしないように。
 さて201系に縁のない広島県人に催眠術、昔山陽線にも201系が走っていたのでカトーの201系を買いましょう写真、日立笠戸試運転シリーズ第6弾、柳井駅を通過するクハ201-28他 西トタ 試9592M 1982年3月10日
 28はすでに今年の3月に廃車になっています、写真は生まれたばかりの姿。
 大正時代から蒸気機関車を造り始めた笠戸工場は昭和13年頃から艦船の建造が忙しくなった系列の大阪鉄工所(のちの日立造船)から客車製作を引き継ぎました。戦後80系湘南電車なと製作しましたが昭和30年初めに国鉄が車両発注をグループ別にし笠戸は客車、貨車メーカーとなりました(私鉄は別)10系20系客車がそれです、しかし客車の雲行きが怪しくなり36年からは重電メーカーの本業を生かし交直流電車指定メーカーになり421系を製造、新幹線指定メーカーの基礎を作りました。その後も交流電車、交直流電車専門メーカーでしたが48年には381系で直流電車に参入、113 115系も作り56年からは通勤形の105,201系まで手を広げました。3000両以上造られた103系も日立は筑肥線用の1500番台だけ。
ニコンFE コダクロームKR   5月28日



 そして32年前の同じホームです、屋根がありませんね。74年12月27日 3002M 広島県人必殺の「しおじ」貴重な300番台の写真です。
 新幹線開業前300番台のクハ481‐301,302が49年2月に304が3月にそれぞれ向日町区に配置されたので山陽特急では僅か1年の活躍です。電車も新車なのできれいですね、写真は退色がひどいですが。300番から正面の愛称幕も自動になったはずでうまく合わず間抜けな愛称の写真が見られます。  ゴダックポケットカメラ ♪ポケットにポケットが そこにコダックポケット カメラ〜とコマーシャルソングがありました。   5月22日



 32年前、山陽本線華やかし頃の痕跡。上左485系とキハ80系?、上右14系寝台、下左485系、下右581系。徳山駅1番ホーム西にて。
 当時このあたりはホームの上屋が無く乗車位置はこのようにペンキ書きで表示されていました。新幹線開業後に上屋が出来雨に直接うたれる事がなかったので現在まで残っているのでしょう。宮島口もまだあるのかな。
5月11日 ニコンFM



 今日からゴールデンウィーク後半戦、模型の塗装をしている人、キットを組んでいる人、「みよし」号に乗っている人、家族サービスをしている人、花電車を運転している人、仕事の人などいろいろでしょうが広島は5日まで「広島フラワーフェスティバル」(別名 ちゅーピー祭り)があります。中心部から離れた当店あたりはとても静かですが。
 さてフラワーといえば写真の「フラワーフェスティバル号」84年5月5日 広島駅にて クハ115‐608他 サハ115に運転台を取り付けた車両で現在はAU13が6個搭載され冷房化されています。オール非冷房の4連です。ヘッドマークはベニヤ製で造花で装飾されていました。「シティ電車」が増発されて消えてしまいました。     ニコンFE コダクロームKR 5月3日



 今月の「鉄道ファン」の特集は「常磐線」、E531系の投入であっという間に415系が消えてしまったので話題性は十分でしょうが広島の反応は?
 思いだしてネガを探すと常磐線の客車列車の写真がありました、四半世紀前 57.11改正で無くなる直前 82年10月23日 鶯谷にて EF80 30田 425レ
 山陽本線の普通列車は昭和40年後半にすべて電車化されたので電機機関車に牽引される客車列車に縁がなかったので大都会の真ん中にこのような列車が乗り入れるのは新鮮でした。荷物、郵便の関係で残っていたのでしょうが乗っておくべきでした。しかし鶯谷といえば「うぐいす谷ミュージックホール」を思いだすのは私だけでしょうか? 
ニコンFE トライX   4月24日



 ワールド工芸様製品化してください、土佐石灰工業所有のホキ5200(旧ホキ1800)、DF50に引かせるのに最高、個人的には16番で出してくれれば。
埼玉の奥にヲキはマイクロにやられたので今度は四国の果てはいかが?
 なぜにこの車両といえば撮影に行ったからと(このコーナーのだいぶ下に有)地元下松産の珍車両だからです、輸出流れのような日本にないスタイル、台車がTR41でなく「日立C-1」というのがあやしい。写真はホキフのようで実は撮り卸しの操作室。18両ぐらいで斗賀野〜多ノ郷間に運用されていました。20年ほと前にDE10時代のビデオがありましたね。
81年10月11日 斗賀野駅にて ニコンFE トライX  4月16日



 カトーの14系座席車が31日入荷なのでなつかしの快速「光、富海ビーチ」、80年7月27日、小郡駅にて 帰りの9432レ EF61 12広 
 海水浴場に適した砂浜が少ない広島の皆さん昔は山口県光市の虹ヶ浜か室積の海水浴場にやって来てました。10歳まで光の戎町(わかるかな)に住んでいたので自転車で室積に泳ぎに行っていたのですが確かに広島ナンバーの車が多かったような気がしました、それよりも学校の臨海学校で大挙して広島から来ていたような。「光に行ったが遠泳がやじゃた」とこの前来られた方も言われていました、今は高速で山陰方面ですかね。
 さてこの列車、新幹線開業のあと生まれたようで12系、14系客車が使用され愛称も「光ビーチ」「瀬戸内ビーチ」「光、富海ビーチ」などありました、末期はEF65にヘッドマークまで付いていました。冷房車が少なかった当時特急用の14系を使用した快速は破格のサービスでしたがいかんせん宣伝不足で車内はガラ空きでした。私は喜んで乗りました、写真を撮った後はEF61のリンク式の悲鳴にも似た走行音を聞きながら徳山まで乗車しました。 
ニコンFE サクラパンSS      3月29日



 「闇ネガ」もあまり適当にすると前回のように誰でもわかる153系クハ153 508の室内写真になってしまうので少しは考えて発表します。
 マイクロの予告にある103系1500番台の試運転の写真、日立笠戸試運転シリーズ第5弾。82年10月 佐藤栄作氏の為に貴賓室が2階にある田布施駅にて。車番不明 門ヒカラ 試9592M
 当日近くでマルタイ作業があり(中線に見えます)田布施の検査班で休憩、おまけに「早昼」(12時頃から保守間合があるので早めに休憩)なので「年休取らなくても仕事中に撮れる」となり弁当とカメラをマイクロバスに積んで仕事に向かいました。
 下松〜西条〜広島と試運転を行い翌日EF61に牽引されて九州に回送されました、写真ではつぶれていますが先頭車の連結器は自連が仮に取り付けてありました、当時の「鉄道ファン」の表紙がそれです。
 103系1500番台といえば、早く実物を見たいと日立笠戸の横の国道188号線からのぞいて監視カメラに見つかって注意された人がいましたね

   

 宇部、小野田線の旧型国電が105系に置き換わった81年3月19日(ゲ!26年も前!)、宇部新川駅では「新型電車出発式」が盛大に行われていました。私も駆けつけました。そして小野田駅に行ってみると役目を終えた電車が冷たい雨の下葬列のように並んでいました。それまで何回も宇部、小野田線の撮影に通いましたがこの写真が最後となりました。そして私のターゲットは東北に向かったのでした。  ニコンFE トライX
 余談ですが居能、宇部新川、宇部港、宇部電車区あたりをレイアウトにすると楽しいですよ。旧国、421系、気動車、貨物(一般、セキ6000、タンク車)などバラェティーに富んだ車両と私鉄風のシーナリー、編成も短く済むし
。       3月10日



 新幹線開業前、唯一いた485系300番台の写真、幕は間違って「回送」になっています。と言うのは大嘘で84年9月28日 回9204M クハ481‐344 つまり本当の回送です。しかし悲しい習性で局報に485系や583系の回送が掲載されると撮影してしまうのは32年前のトラウマでしょうか。隣で撮影していた方に「昔の山陽特急を思い出しますね」と声をかけると同じ答えが返ってきました。 ニコンFE トライX     2月27日



 徳山駅は今も昔も貨物列車の乗務員交代がある駅で、止まっている貨車の形式写真を撮るには便利なところです。ただし上下線のホームが揃っていないので、上り列車で言えば後ろの車両は撮れません。
 しかし走りだした貨車をながめていると「あ!ワム2000だ!」素早く撮りました。戦時設計のトキ900の部品流用で誕生した貨車で、最大の特徴は車軸が短軸という事です、隣のワム70000の単軸台車とくらべて見てください。16番やNゲージでは再現できません、13mmや12mmの方どうぞ。77年末で在籍数168両、当時2軸有蓋車の合計が63,700両!0.26%の確率です、おかげで当日はご機嫌な一日でした。 79年8月8日 558レ ニコンF2 トライX    2月
19日


 85年秋の改正で14系座席車を使用した「雲仙」などが廃止になるので走行写真を撮ろうと「阿蘇、くにさき」に乗り厚狭で始発の普通に乗り幡生に向かいました。80年9月15日 新下関〜幡生間 山陰線との3線区間で撮影しました、写真はそのあとやって来た35M「明星」です。「金星」の走行写真は簡単に撮れますが本州西端の「明星」の走行写真は貴重と思います。早朝なのでトライXをASA800にセットして増感現像しています、ASAと言うところが古いですね、高頭のキットはどうなった?  ニコンFE トライX   2月3日



 次に引いたネガは地元広島EF67 1の試運転、82年6月24日 360レ 八本松〜瀬野間。67の前はマヤ10 2001北オク「車両性能試験車」。
 今ならこのような試験列車が走ればカメラだらけになるのでしょうが当時はほとんど同業者の姿は見かけませんでした。
 上下線にあるポイントの出来損ないみたいな物は「横取り装置」です、駅間の長い区間、マルタイなどの保守用車の作業効率を高める為途中に側線があれば良いのでしょうがポイントでは本線列車に速度制限がかかるので「欠線」がないこの装置が開発されました。保守間合になると仮設のレールを取り付け保守用車が作業に向かいます、クロッシングがないので仮設線路は本線レールの上を跨ぎます。「ゴリゴリ」と車輪の軋む音がします。  駅間の長い神代〜大畠にもあり仮設のレールをとりはずしを何回かやった覚えがあります。 ニコンFE トライX   1月25日



 闇ネガ第2弾、1980年5月4日。就職1年でやっと「精勤」が使えるようになりゴールデンウイークに大阪〜名古屋〜静岡〜山梨〜長野〜名古屋と回った時の1枚です。今年の大河ドラマで有名な川中島にて。モハ80803名シン
 廃車留置中を車内から見つけあわてて飛び降りました、80系の博物館のような(現在は115系の博物館)山陽では見られない800番台です、地元で80系が消えて2年あまりまともに撮ってなかったのでここぞとばかり撮りました。ペーパーで80系を作りかけてた頃でもあります。8駅先の「西条」にもありクハ85300も撮影できました。模型は3年後80系300番台としてプラ板で6両完成しました、クハは簡単な85300でした。  ニコンF2 トライX 
1月20日 


 寒くてネガを探すのがおっくうなので適当にネガを探す「闇ネガ」で写真を登場させる事にしました。
 82年5月1日、東北本線 西平内〜浅虫間(現 浅虫温泉) ED75 1012長 4074レです。ちょうどトミーより16番のED75(今回は1000番台は発売なし)の再生産と新製品の案内があったので適当に選んでも良かった。
 東北新幹線の開業の年、最後のゴールデンウィークで東北線の北部に向かいました、12系の「八甲田」に乗って、早朝次から次にED75牽引の列車がやって来ます。EF65などの直流機と違った「小粒で力持ち」の印象です、おまけにバネが柔らかいのでふんわりした車体の揺れが印象的です。
 実物はEH500の増備で数を減らしておりこの数年が最後の活躍でしょう、あとは模型で再現しましょう。  ニコンFE トライX  1月12日



 新年明けましておめでとうございます、今年も当店をよろしくお願いいたします。 
 新年早々枯れた写真ですみません、年末のフジモデルの予告にまんまとはまられたお客さまの製作意欲(購買意欲)を増加する為の一枚です、ただしこれは17m車のオエ70 22です。80年5月3日 沼津客貨車区にて。戦災復旧車のなれの果てです、もっと細部写真を撮っておけばよかった、模型化するにはこの外板のヘロヘロ感をどう表現するのかがすべてでしょう、Nの方もマニ60やマニ50に「○○機関区救援車」や「○○運転所救援車代用」のインレタを入れ機関区などの片隅に置けばワンポイントになってよいのでは。
 二度と戦災復旧車の作られない平和な世界が続きますように、、、
 ニコンF2 プラスX 1月5日



 28日にEF63と489系が発売になります、写真は76年8月に金沢駅で撮ったものですがなぜ開放テコのある側を撮らなかったのでしょう、これでは489と証明できませんね。後ろに見える七尾線のキハ26もなつかしいですがこの金沢駅も高架になってしまいました。 コダックポケットカメラ コダカラーU 12月22日


 5月にマイクロエースから「SLやまぐち号」の客車と機関車が発売になります、いずれ発売されるであろうとは思っていましたがリニューアルで2種製品が発売できるので今になったのでしょう。
 個人的には「レトロ客車」は統一感のない編成で興味の対象でなく、当初の青い12系客車も魅力なくこの写真のように一般客車を牽引した時ぐらいしか写真を撮っていません。模型も昔「タツヤ模型」がキットの予告がありましたが他のメーカーからは無く、カラーリングもおしゃれで東京に近い「ばんえつ」と比べ本州の西の果てのSLにあまり似合わない客車なので製品化されなかったのでしょう。
 さて模型屋としては15年の実績のレトロ改造当初の製品と現在の製品、どっちが売れるのでしょう?  86年11月12日 津和野〜船平山 ニコンFE コダクロームKR       12月18日


 カトーからキハ82が再生産されました(N&16番)、そこで短命だった82の「おき」の写真、111系と153系をバックに小郡駅にて、76年9月 始めて親のニコンF2を借りて撮った一枚です。10月の改正で181系化されるので小郡に向かいました。
 「つばさ」に使用した181が電化で75年11月に失業し小郡機関区の181系検修の準備が整うまでの1年間柳井駅の留置線で休車になっていました。本当は名古屋に転属して「ひだ」に使用するはずだったのが「しなの」の181系の検修でひどい目にあったので拒否されたという話を聞いた覚えがあります。
 余談ですが「おき」の1往復は徳山車掌区持ちだったそうです、山陽線から優等列車が消え専務車掌の「士気」を高めるため1本特急列車を確保したのでしょう。    12月3日


 コキ19000の台枠の中にはこのような「支持金具格納台」がありました、5tの締結装置の後ろに見えるのがツイストロック式締結装置です、使用しない締結装置はここに入れておくのです、結局コキ10000、コキフは自作したのですが車高が低い19000は台車と台枠のクリアランスがネックになって断念してしまいました。コンテナはプラ板で原形を作りレジンで量産しました、プラッツの製品が出る10年以上前にこんな事をやっていました。



 こちらが正調TR203、コキ11000です、コキ10000を10tコンテナ専用に改造したもの、4両がやはり汐留〜東広島間で使用されていました。台枠上に見えるのがエンドロック式締結装置です、台枠の中の棒は通常の車両が手ブレーキハンドルから台車までがクサリですがコキ10000は傘歯車の為軸が台枠にあったのです。トミーのコキから手軽に改造できるのでは。



 コキ19000の台車TR203A 車高を下げる為、台車もTR203と趣きが異なります、ブレーキシリンダーが台車装備でなく車体装備が最大の特徴、カトーのコキは車体装備なのでエラーです。白く塗られた物はオイルダンパープロテクターでフォークリフトが当たっても保護するもので目立つように塗られています、トミーの製品も表現があるので白く塗るとアクセントになります。台枠の間の金具は10tコンテナ用のもの。



 トミーからコキ10000系が発売されたのでひねくれてコキ19000の特集、1969年に10両製作された5t/10tコンテナ兼用車で汐留〜東広島間で使用されていました、隣のコキ10000に比べ車高が90ミリ低いのが特徴です。台枠の上のゴツイ物がツイストロック式締結装置で、5t用の締結装置を跨いで10tコンテナを積載する為車高を低くする必要があったのです。86年頃 大竹駅で休車中を撮影、当時プラ板でコンテナ車をレジンでコンテナを製作しようと取材した時の写真です。 トライX ニコンFE  11月21日



 カトーから「碓井峠シリーズ」としてEF63と489系が発売されます、何もいまさらと思いますが首都圏ではまだまだ人気であろうし来年廃止10周年だし昔のカタログに予告が出ていたので売れるのでしょう。「はやくC59を出さんかい!」が広島県民の心境でしょうが。
 63はともかく489のほうが前人気があるようでとどめの写真をどうぞ、さすがに私は撮っていないのでお客様からの提供です、感謝。72年6月4日新幹線岡山開業の後、五日市〜廿日市間上り「みどり」です。当時カラーで走行写真を撮ったとはうらやましい限りです。
 71年向日町区に配置になった489系は73年4月金沢区に転属まで信越、北陸、山陽本線などで活躍していました、489系の代走に485系は「白山」に使用できないので予備車が多くこちらまで顔を出していたのでしょう、私もナンバーが485でない編成を見た覚えがあります。72年3月改正まで485系は「みどり」のみ583の天下でした、改正後583が5本、485が3本、181が4本、キハ82が2本が広島以東の勢力分布でした。181撤退と特急増発で485系の天下になりましたが75年までのたった3年!3年が当時の私達の記憶に大きく刻まれているのでしょう。
 ところで485は11連、489は12連、運用などはどうしていたのでしょう。
 これで広島の人も489を買わないといけませんね。   11月11日



 ようやくカトーから「とびうお、ぎんりん」が発売されました、写真は廃止になってからの後日談。「とびうお」では冬季東広島から「カキ(海のカキ)」を運ぶ為にレサ2両増結していました(このほうが補機付の確率は高かった)、柳井のみかん列車、木次線のラッセルの試運転、国鉄道後山の家のストーブなどといっしょに秋から冬にかけての鉄道関係の風物詩でした。
 コンテナ化され代りがこの冷蔵コンテナでした、「東広島〜東京タ」の表示がその証拠です。あれから20年コンテナでカキを運んでいるのかしら。
東広島(新幹線ではない)にて 1987年1月 ニコンFE コダクロームKR   11月9日



 委託品が少なくなりお客様の作品コーナーが復活、「なつかしの荷物列車+補機付」が展示中です。
 作品のEF58 5号機は鋳鋼先台車を履いた「ひだち(鉄道員はひたちと言わない)」のカマです、黒Hゴムの汚い浜松のカマですが今となれば懐かしいものでまともに撮っていないのが後悔します。徳山はちょうど跨線橋の下に止まるのです。59.2改正の前に廃車になりました。
 最近BONAのEF58パーツが発売されておりKATO用ですが天賞堂にも使えるらしいので中古をリニューアルして特定番号にするのもよろしいのではないでしょうか。  82年10月16日 荷34レ コダクロームKR ニコンFE



 朝日を浴びて東海道本線の根府川の橋梁を渡るコキ10000系のフレートライナー、下関発汐留行きの52レ、81年2月11日 大垣夜行で東京に4時40分に着いて折り返し当駅まで戻れば撮影時間になります。
 EF66のあとにワキ10000×5にコキフ1000そのあとに20フィートコンテナ用のコキ11000か19000が連結されています、トミーが発売になったらカトーのワキ10000も売らなければ。   エクタクロームEL ニコンF2  10月17日


 写真の新作が遅れて申し訳ございません、パソコンが「やぶけて」復旧は早かったのですが、データの一部消滅で時間をとられてしまいました。このセラ1の写真をアップする最中にハードディスクのコアレスモーターが「やぶけました」
 さてセラ1です、マックスモデルから年末に発売になります、九州メーカーの意地でしょう、今まで石炭車といえば東京人の大好きな北海道のセキばっかりでしたもの、天プラのキューロクも発売されるので絶好のタイミングです。
 問題は広島で売れるのか?炭も石灰石もタングステンも硫化鉱も産出しない地下資源のない広島です、店も悩みます。そこで昔近くまでセラ1が来ていた写真をどうぞ、それでも山口県の柳井ですが、79年7月11日、柳井に石炭を運んでいたのでしょうか?セラやセキは炭鉱から港の専用設備までの専用で小口の石炭輸送は無蓋車で行われていました(常磐炭も)。実は積荷は小麦だったのです、ホキ2200の代用で(輸送量が少ないからか)下関からやって来ていたのです、大畠〜柳井港の間にある製粉所行きと思われます。上にカバーらしき物がありシートで雨をしのいでいます。問題はどうやって取り降ろしていたのでしょうか?そこまで記憶がありませんがまわりに鳩が多かった記憶があります。セラなので65キロ制限の列車しか連結できなくて解結貨物の596レでやって来てました。 ニコンF2 トライX 
10月8日


 今D51が旬です、天賞堂D51半流形が当店の予想を上回る人気です。
一般流通商品で手持ちのパワーパックで簡単にサウンド機能が付いた商品はおそらく初めてでしょう、プラレールでもあるのに我国の鉄道模型は遅れていたものです。サウンドシステムはアメリカ製でいろいろ我ままな国ですが米国の鉄道模型の奥の深さです。
 半流は浜田機関区の1号機がこのあたりでは有名で東北タイプの重油タンクを撤去すればそれらしくなります。厚狭の8、長門の36などが末期まで配置があったようですが記憶にありません。D51といえばさよなら運転の「石州号」、鉄道写真を撮り始めたばかりの中坊とにわかファンの父と益田まで出かけました、撮影は父です。75年1月15日、ヤマトがバラン星に向かっている頃です。周りのファンで人気のほどがうかがえます。やはり蒸気は音が出ないと迫力がありません、ぜひ1台どうですか。
 ニコンF2 ネオパンSS     9月18日
 

6回に渡る「広島県 消えた貨物列車運転線区」最終回は芸備線の「奥」です。さすがに福塩線の貨物は撮ってません(福山駅高架がらみで廃止になったのでは)。
 83年12月25日 高〜備後庄原間 896レ DE10 1055 芸備線の貨物は東広島〜西三次(機関車は三次まで)と三次〜(機関車のみ)備後庄原〜新見と二分されていました、なぜかといえば広鉄局と岡鉄局の列車だったからでしょう、当時は塩町から先は岡鉄局、今は儲からない所はもらって比婆山までが広島支社です。四半世紀前までこんな所(失礼)まで貨物列車が走っていたとは今考えるとすごいと思います。緩急車を除くと4両に何を積んでいたのでしょう、トラ90000が庄原や東城にたむろしていたのは記憶にあります。やはり59・2の改正で消えてしまいました。しかしクリスマスの日にこんな寒いところで何してたんだろう。  ニコンFE トライX  9月8日

 
 59・2の改正で多くの線区で貨物列車が消えました、可部線もそのひとつです。三次に住んでいたので芸備線の下深川駅で降り徒歩で大田川の鉄橋まで向かいました。83年12月24日 上八木〜中島間 791レ DE101048
 その昔は可部より奥にも貨物がありC11などが木材を運んでいたのでしょう、下祇園にも三菱重工の側線があって「シキ」が留置されていたそうですがこの時点では可部のみ取扱、可部は鋳物の街なのでそれが関係するのか?  コダクロームKR ニコンFE  8月29日



 呉線広以東に貨物列車があった頃の写真、83年12月17日 安浦〜風早間 EF60 88広 694レ
 当時の職場は三次、保線区の事務係の忘年会が福山鞆の浦であるので福塩線経由で向かったついでに呉線で撮影した時の一枚。58の荷物列車も撮ってます。
 当時呉線の貨物列車は東広島〜竹原間でした。広までは3本、竹原までは1本でやはり「日勤」です。海田市、吉浦、呉、広、竹原が取扱駅でした。呉線の貨物はEF15や61の印象が強いのですが60も牽引しています。15とくらべて軸配置がB‐B‐Bの60,61,65,66は軸重が重く呉線内は65`の速度制限があったような覚えがあります。1両目はツム1000積荷は何でしょう。 ニコンFE コダクローム  8月14日


 昔貨物列車が走っていた線区シリーズ、宇品、芸備線に続く3弾は呉線。86年9月23日、広〜安芸阿賀間にてDE101041 1692レ。
 84年2月の貨物大合理化で呉線の貨物は東広島〜広間のみとなりました、往年はEF15やEF61が活躍したのですが末期は電化区間をDEが牽引するようになっていました。ラッシュ帯のあと東広島を出て夕方また戻る「日勤」です、ディーゼルなら構内の入換にも使用できるのでこのようになったのでしょう。タンク車はタキ24800硫化ソーダ専用でおそらく東洋パルプ関連の積荷と思われます。広は弾薬輸送があった(現在は?)のが軍事路線の呉線らしい所でしょうか。
 タキを撮りに広駅に行くと自衛隊経由で国鉄に入った高校の同級生に出会いびっくり、現在彼は西日本の本社に勤務しています、たしかに成績はよかったなぁ。
  コダクローム ニコンFE   8月6日 



 宇品線で発送されたホキ2200が西三次に向け芸備線を走行している写真。86年9月23日 撮影地不明 DE10 104 1692レ 
 稲穂が黄金色に色づく「日本の田舎」の秋です。ほぼ毎日ホキ車が3〜4両連結されており一日100t以上の飼料が県北に運ばれていた事となります、そんなに牛が飼育されていたのですね。  
 ニコンFE コダクローム   7月25日


 お客様からのリクエストで宇品線の貨物です、廃止が近い86年8月3日  DE10 1513 宇品から戻ってくる2便が猿候川の橋梁を渡るところ。
 DE10のあとはタキ5050、タム5000×5、ワム80000×1、タム5000×2、タキ5050、タキ24700の11両編成でした。ワムの積荷は不明ですがタムタキは「味の素」所有で「塩酸及びアミノ酸」、最近のベストセラー「食品の裏側」によれば、大豆に塩酸を加え加水分解するとアミノ酸ができ醤油などの調味料になるそうです。タムが最近まで残ったのは地方の醤油メーカーの小口取引に便利だったからでしょう、宇品近くにラーメン、うどんのだしを作るメーカーがあり大量に消費するのでこのような編成になったと想像します。
 ホキは「♪ニッシンセイフンカラアゲコ」でおなじみの日清製粉所有の小麦専用貨車、宇品の公共臨港線で積み込まれた小麦を岡山駅の西にある工場に輸送していました、当日はつながっていませんがホキ2200も西三次に飼料を輸送していました。
 宇品線は東広島駅の側線として、残り宇品駅周辺は「宇品四社(日通、トナミ、広島運輸と?)協定線」と「公共臨港線」となっていました。86年の秋に廃止となりレールの売却の為全線を歩いたのが保線区事務係の最後の仕事ととして印象に残っています。
  ニコンFE コダクローム  7月22日



 アクラスのワム60000発売で゜すぐに思いついたのは「ヤ400」です。付属のインレタに写真の標記がおまけで入ってたら「座布団一枚!」。 
 79年7月11日 柳井にて
 69年と76年にワム60000から16両、信号機器運搬用に改造された事業用貨車です。柳井にも信通区があり配給にきたのでしょう。
「額縁」タイプの初期(411のみ後期)から改造され、車内にはリレーなどを入れる棚があり床には積んだ機器の転動防止に丸環が埋め込まれ積み下ろし用の手動ホイストがありました。409〜415が安治川口常備で他は田端操常備でした、運用板も撮っておけば、結構貨物列車につながれいてました。
ニコンF2 トライX   7月8日


カトーのEF58上越タイプが発売されました、ひさし付は当地でもおりましたが電暖付で屋根が黒はさすがにおらず販売はイマイチです、しかし車輪のローフランジ化第2動輪のイコライザー化など見栄えと性能がが向上していますのでいかがですか?
 そこで販促写真、急行「鳥海」を牽引して終着上野を目指すEF58 90高二 804レ 81年6月21日 浦和〜南浦和の南浦和寄りにて 上越形そのものです
 その昔の鉄道ファン誌に宮澤孝一氏の鉄道写真撮影術コーナーがあり、夏至の頃は当地で東北、上越方面の夜行列車を撮影すると良いとあり私も夏至の日に撮影に出かけました。大垣夜行で東京4時40分充分現地に向かえます。フェンス越しにカメラを手に待てば「天の川、妙高、北星、津軽、あけぼの、能登、越前」などEF58や64、65に引かれて次から次にやってきます。手前に京浜東北線がありますが早朝なのであまりかぶりません。おまけにその後には東大宮から出区する昼行特急、急行電車や逆に入区する夜行(常磐線のゆうづるも)と息つく暇もないぐらいやってきます。
 パレット荷物車にマニ36、10系43系客車の急行列車も今では模型でしか再現できません。  ニコンFE トライX  7月3日



 今月のRMライブラリー83は「車を運ぶ貨車」で貨車好きから車好きまで好評で久々のヒットになりました、なにせ最近は地方私鉄ネタが多かったので。
 車運車の代表形式「ク5000」は私が鉄道に就職した79年にはもはや余剰となり各地に留置されていました、職場の柳井駅にも数十両いました。
 山陽本線にも当時1往復あり、定番の大島大橋からの撮影は夏至の頃なら撮れる時間帯でした。写真は82年7月10日朝もやの中を走る 北野桝塚発志免行きの5851レ EF60 「みずほ」の次です。この列車の最高速度は85キロですので車掌車はヨ5000,6000,8000となりワフは75キロなので不可です。模型で編成する時には気をつけましょう。
 途中東広島でも数量解放し旧2号線の宇品線をくぐったあたりの南蟹屋にモータープールがありました。   エクタクロームED ニコンEF 6月27日



梅雨真っ盛りですね、鉄道員だった頃は梅雨末期の大雨で列車が乱れて大変でした、現在はさらに人員が少ないのでさぞかし大変だと思います、しっかり超勤をもらって店に来てください!
 写真は82年7月24日梅雨末期の大雨で抑止されてしまった下り「金星」です。宰相佐藤栄作を生んだ(松村邦洋も)山陽本線 田布施駅にて。
 下っ端の保線区員でも大雨が長引けば警備(雨警)のお呼びが掛かります、田布施の検査班に行って二人一組で重いゴムの合羽を着て片道3キロ程度線路を巡回して異常が無いか見て回ります、数時間おきに巡回するのでその間は寝るのですがやけに外がうるさいと思ったら中線に「金星」が止まっています、それもパンタを上げたままで、MG、CPが動いているからです、乗客はいません。今では台風が来るとわかったらすぐにブルトレは運休しますが当時はなにがなんでも運転する時代でした。
 「いつ雨はやむのか?」と思いながら冷房もなく蚊取り線香の煙の立ち込める詰所で寝たりなぜかあるエ○トピアを見て暇をつぶしていました。「おーい!藤原、そろそろ巡回に行ってくれー」 
クハネ581‐13 エクタクロームED ニコンFE  6月25日



おまけ、赤羽線の板橋駅は貨物取り扱いがあり、セメント車とともに砂利を運んだ東武のトキが居ました。私鉄の貨車をまず見る事のない本州西の人間にとっては新鮮でした。      6月9日


カトーの予告に103系ATC山手線、京浜東北線10両セットの発表がありました。103系も東京では伝説の車両になったのですね。私は103系と言えば山手と京浜東北線のイメージが強いのですが年でしょうか。
 さて写真は85年夏頃、205系が投入されはじめ両方とも撮影出来ると思い恵比寿あたりで撮った一枚です。全車冷房車の編成と思われます。AU75クーラーの容量のデカさと扇風機の併用でしびれるような冷房の利きが103系冷房車の思い出です。
 山手線は名前の通り山の手の起伏の多い地形を走行するので勾配が多く変化に富んだ撮影が出来た覚えがあります、恵比寿周辺はのちに再開発され風景は一変した事でしょう。  ニコンFE コダクロームKR  6月9日



カトーレジェンドコレクション第2弾「151系こだま、つばめ」セットが発売されました、旧作の181系とは比べ物にならない出来でおすすめです。151系は当時の国鉄技術陣の電車特急に賭けた情熱が感じられる電車でレジェンドにふさわしい商品です。「カワイモデル」のカタログのコピー「国鉄が誇る流線形特急電車の美しいシルエットをあなたのレイアウトに!」の通りです。
 パーラーカー付の編成が東海道本線を活躍したのは4年4ヶ月、他線区で活躍した時期が長いのですが私は山陽の181系は間に合わず上越線の「とき」がなんとか間に合ったのですが181系の本数と時間帯の悪さで充分には撮っていません。写真は「岩原スキー場」付近で81年12月12日。風雪に耐えたスカート、凸凹の編成と末期の哀れな姿です、絵入マークはかっこ良くない。
 信越線より重要だった上越線ですが写真を見るとマクラギは木(ただしF型タイプレート付)で山陽本線とは格下に思われました。 ニコンFE コダクロームKR   6月2日



リクエストにお答えしてワムフ100の写真、トミーや河合の貨車でお馴染みですが実物を見られた方はどのぐらいいらっしゃいますか、後から前からどうぞ、石炭ストーブの煙が良いですネ、79年2月19日 大都会の徳山駅にて 380レ 配置は広ハタ(幡生)です。79年の在籍数が12両しかおらず広局が4両なので貴重な写真と自画自賛しております。
 2軸の車掌車やとんでもない乗り心地のTR223付のコキフ50000と比べたら軸バネ+揺れ枕付のTR24の乗り心地は客車並だったそうです。おまけにトイレもあります(掃除はしてたか)、反対に図体が大きくて使いづらかったのではなかったのでしょうか? 1両しかいらないような貨車をプラで発売したホビーモデルに感謝。
ニコンF2 ネオパン400   5月28日



トミーの新製品予告でコキ10000の案内がありました、寒地向けなので隅田川〜札幌タがモデルでしょうが当地広島にも馴染みがありました。汐留〜東広島、下関〜汐留のワキ付高速貨物です。ワキが5両程度連結されていたのでコキは15両程度ですみます、ただしコキ190000やコキ11000が連結されていたので深く悩まない事。
 もっと安くしたければこの写真、東広島止めのコンテナ列車を継走してコキワキが普通貨物列車で防府・東小倉・博多港に向かっています
、なにせ上下で発駅が違うので東広島と下関の間は結構10000系貨車が一般貨物列車につながっていました。ただし空気バネの関係で連結両数の制限がありました。
 コキ10000の色気はオイルダンパーのプロテクター、白に塗られて目立ちます、カトーの16番は省略されていましたが今度のトミーはどうかな。
80年11月27日 神代〜大畠間 EF6560 吹二 261レ ニコンFE エクタクローム


カトーの「ちくま」がホビーショーの関係で2,3日遅れて19日入荷します。
 12系+20系併結急行は西日本が主で「かいもん」「日南」「さんべ」の方がこちらには馴染みがあるのでしょうが(私もよく利用しました)マニやスユニを新規に制作したくないのと首都圏に馴染みがあるこの「ちくま」になったのでしょう。
 写真は長野駅でお昼寝中のナハネフ22 1022大ミハ。国鉄に入って1年、初めて「精勤」を使った旅行の途中の一枚です。 80年5月4日 ニコンF2 プラスX    5月16日


マイクロエースから121系が発売になるそうでよくこのような地味な車両を発売するのと感心するやら何とやら。
 昔レールロードのキットがありましたが213系に比べてやはり地味でした。
 写真は「日立笠戸試運転シリーズ第4弾」下松駅から試運転に向かう121系、クモハ121‐1 四カマ 試9951M 86年11月17日です。
 105系のステンレス版の121系、四国はディーゼル天国で電車運転士がいなかったので、ちょうど私が車掌見習を始めたこの頃、可部線で四国の運転士がよく似た105系を用いて転換教育を行い四国初の電車運転士となったのでした。     コダクロームKR ニコンFE   5月14日



改造気動車ネタ第2弾 キユニ18 2米ヨナ 伯備線925D 倉敷駅にて 80年7月20日 暑い!タラコ色の気動車でさらに暑い、正面ドアも換気で開いています。キハ16〜キハユニ18〜キユニ18と改造されました。
 写真のデータに「ニコンF2」が多く、こんな高校生ごときにもったいないと思われている方もおられましょうが、父のを借りて撮影したものでこの写真を撮った数日前に夏のボーナスで買ったニコンFEが自分専用の一眼レフカメラです。試写がてらに福山、倉敷、岡山に行ってその夜、夜行で九州に行きました、もうこのような事は無理です。  ネオパンSS   5月8日



トミーの新カタログにEF65PとFが30周年記念商品として発表されていました。今まで65500はカトーの独占だったのでトミーが65500をどのように料理するか楽しみです、特にNゲージャーの一部の方で車体は超ガニマタは気にせず、カトーの65やブルトレの車体長の間違えはうるさく言われる方には朗報でしょう。
 写真は大都会「徳山」駅にてEF65513吹二区 川車+川電 普貨260レ79年12月8日 ニコンF2 コダカラー400 端のキハ26がなつかしい。
JR後は首都圏中心で(だからトミーが発売するのでしょう)このあたりには縁のないカマですが昔はよく見かけましたので是非1台いかがですか、16番の方はBONAのパーツが発売されましたのでひさしなしなら簡単にイメチェンができます。最近の模型なら重連にしてもパワーパックが飛ばないでしょうし。  5月6日


カトーのスハ43系は好評でブルーは品切れとなってしまいました。メイクアップパーツも連休中で追加が来るかわかりません、もっと仕入ておけば良かった。
 さて写真はオハ46 697 広トマ 形式写真は徳山にて78年11月、車内は窓の外に農協が見えるので勝間停車中に撮ったものです79年5月。
 55年にスハ43 697として宮原区に新製配置、56年にオハ46に変更のちに広島に転属さらに徳山区に移動し岩徳線で使用されていました、近代化改造されアルミサッシになり、内装はアルミデコラ(薄茶色)、サークライン蛍光灯、灰色塗りつぶしの椅子枠になっています。床下の弁装置箱もエコーの716でなく新型が付いています。81年に50系化されると竜華区に転属になり86年に廃車になりました。
 通学でお世話になりましたがオハ35のTR23と比べてTR47の乗り心地は良く周防花岡駅手前の95キロ走行でも安定した走行でした、オシ16はこんな乗り心地かと想像しながら。  ニコンF2 ネオパン400、SS  4月30日



カトーのNゲージスハ43系がリニューアルされます、当地広島は九州急行は夜中が多く(しろやま〜屋久島の上りが8時9時なのでこれぐらい)芸備線は早々に50系に置換えられたのであまり馴染みがないのです。
 しかしかくれた珍車がいました、それがこの「オハフ33 630」です。オハフ33と名乗りながら車体はどう見てもスハ43系、実はスハフ42を近代化改造ついでに軽量化してオハフにしたものです、なぜかオハ35系のオハフ33の続番にされました。普通のスハフに似ていますがドアは軽量客車用、床下の電池箱も軽量用が付いています。車内は軽量客車の薄緑と聞いた覚えがあります。
 末期は山陰線の下関口で運用されていました、写真は廃車疎開留置中の小野田駅にて 81年12月29日 ニコンFE トライX
 この車両は新幹線開業前の下関〜新大阪間急行「音戸」の下関〜広島間でよく運用されていました、当時の時刻表には「寝台専用」とありましたか゜地元旅客の利便を図って自由席を連結していたのです。ただし防犯上の理由で機関車+オハフ+マニ+オハネフ〜と寝台に立ち入られないように独立していました。のちに「北斗星」にもこのような例があったような。
 16番はカトーから改造するのが簡単でしょうがアルミサッシが木枠とくらべて相当細いので「荻原教」のスハフ42のキットを買ってサッシも買ってしまいました。寝台は完成したのでこれが出来れば「音戸」が再現できるのですが。    4月22日


この世には「荻原教」という一団がおりまして昔のフェニックス、現在のKS、FUJI、KODAMA、岡山(製造元はすべて荻原製作所)のキットを買ってほとんど意味のない説明書(実際は部品表)を見ずに永年の経験と勘によって組立たりキットの山を築く一団の事を言います、(私も一員です)。
 最近はプラ完成品が多くなり基幹形式はこれに頼らなくても良くなったのですがこの写真のような「ゲテモノ」=「美しい」形式は発表されると飛びつくお客様がおります。 キユニ19 1 元電気式キハ44200〜キハ19〜キニ16〜とすばらしい経歴の持ち主です。79年1月4日 小郡にて、まもなくキユニ28の登場で廃車になりました。 ニコンF2 ネオパン400  4月16日




マイクロエースから115系3000番台が発売されました、今回が2バージョン目、3回目はないかも今回買っとかないと後悔しますよ、生産数は少ないようですし。
 さて写真は本物のデビュー時の展示会、82年10月9日 小郡駅にて
これ以来「新車」の展示会はないようで、これ以上その話題を書くとわびしいのでおしまい。  ニコンFE トライX  4月14日


101系の写真を探していると珍しい貨車の写真が 水運車「ミム100」。職場旅行で唐津に行ったら東唐津の構内に怪しい貨車が見え撮ったものです。
古いファンはエンドウの四角い水運車がおなじみでしょうがこれはおとなしいスタイルです。蒸気時代水質の悪い所にいい水を運ぶ為に使われた貨車ですがなぜこの時代にここにいたのでしょうか?機関区のアクセサリーにいかが、トミーのタムからそれらしくできるのでは。
昭和50年代初め柳井が渇水で貨車で飲料水を運んだと記憶にありますがどの貨車で運んだのでしょう。 82年11月22日 ニコンFE コダクロームKR
4月14日


カトー101系総武線、東京では売れているようですが広島は?、販促に1枚、メイクアップ売るためにシールドビーム車との競演です。82年10月22日 新小岩にて。101系が廃車になる頃で房総急行の撮影ついでに撮ったものです。
ニコンF2 コダクロームKR  4月14日


マイクロのクモニ83発売記念、なぜか広島にいた800番代の写真。83809 336M広島駅にて78年1月15日。張上げ屋根の801 802準低屋根の809 810と配置がありました。広島地区の荷物電車はいつまで扱いがあったのでしょうか、小駅の扱いは「鉄荷」のトラックになったはずで「セノハチ」を登る111系の補機として使用したと噂を聞いた事がありますがほんとうか?末期は運転所の牽引車代用だったのでしょう。このあとお年玉を握り締めた私は「ニイタニ」に向かい天賞堂の「パワトラ」を買いました。 ニコンF2 トライX 3月28日


以前光駅で撮った111系の写真のコメントに「とんでもない事に」と書いてそのあとのフォローが遅くなりました。結果はこれ、モノクロなのではっきりしないかも知れませんがスカ色の塗り分けで湘南色に塗ってしまったのです。幡生工場で隣のモハを見ずにクハの元の塗り分け線の上にマスキングテープを貼ったのでしょう。とても「キモイ」です。いずれKSの111系はこの塗り分けにしなければ。クハ111‐477徳山にて  77年8月11日  ニコンF2 プラスX  3月28日

長い間鉄道模型を販売していますが当地ではあまり売れない商品は真鍮キットです、N、HO共限られた方がユーザーです、カワイモデルのカタログではありませんが「ハンダ付けは自転車に乗るようなものです」の言葉どおりコツさえつかめば接着剤より簡単です。とくにワールド工芸のキットは「チョン付け」なのでフジモデルのキットのように塩化亜鉛の飛沫を浴びる事無く組めるはずです、なにせ完成品が発売されるのですから。
 貴重なお客様が尾小屋のDC12 2を注文されましたので実物の写真(と思う)をどうぞ、構内の隅っこのしょうもない写真ですが「やる気」を。
76年8月6日家族旅行で北陸に行った時兼六園に行かずに金沢駅や新小松で写真を撮りました。鉄道関係の本はなぜか朝日新聞の年鑑「世界の鉄道」から入ったので当時の特集「日本のローカル私鉄」に感化されて向かったのでしょう。最末期であまりに構内が寂しかったのであまり撮っていないのが残念です。 オリンパス ペン ネオパンSS  3月19日

マイクロエース8月発売予定品 DD50一次型の写真、三原生まれなので三原の方は是非!。ただし富山時代ではなく米原区で二休で廃車待ちの姿です。77年8月13日 満員非冷房の153系の「大垣夜行」の通路に寝て(静岡駅の缶入り麦茶が美味しかったけど高かった)疲れ果てて名古屋に着いてキハ81の「くろしお」など撮影したあと向かったのはDD50見たさに米原でした。当時から「ゲテモノ」好きだったようで。  ニコンF2 ネオパンSS  3月17日

トミーの581系「月光」発売記念。なぜトミーはサロ入りセットにしたのでしょうね、最初はモノクラスなのに。
 それはさておき 今回の主役モハネ580の写真です 78年4月2日 春休みで14系の急行に乗って下関で撮った「金星」のモハネ580-9(川崎車輌製)交直転換試験の最中か?。お手持ちのモハネ582と比べるとドア横に乗務員室があるのが582、床置クーラーがあるのが580です、乗務員の列車監視の関係で変更になったそうです。
 ちなみに山陽本線で下り列車の形式写真を撮影できる所は少なくこの下関駅は跨線橋の影もなく貴重な所です。しかし背景の「ニチイ」が懐かしい!!  ニコンF2 トライX

EF61 11号機の写真が発掘されました。83年12月3日 岩田〜島田間 荷34レ この後にサロンエクスプレス東京がやって来るので待っていた間の一枚です。59‐2ダイヤ改正の2ヶ月前 最後の力走です。 2月25日ニコンFE コダクロームKR

岩徳線では広島の方は興味がないようですので、広島県人の大多数の故郷?「芸備線」。カトーのキハ20首都圏色が発売されたので販促に堂々の8両編成の勇姿を。20‐422+20+47+47+23+20+23+20とオール両運転台車とFUJIモデルのキットを組み立てたら表彰ものの編成です。この734Dは三次〜塩町間は福塩線と併結運転なので8両でした。しかし真昼間に8両とは現在のほとんど単行と比べると昔が利用客が多かったのか輸送力過剰なのか20年の時を感じます。83年10月23日 神杉〜八次間 2月25日 ニコンFE コダクロームKR

左右の梁を合体させてシキは徳山方面に帰って行きました。なぜか走行写真を撮っていません。トランスはその夜山の中の変電所に運ばれて行きましたが狭い高水の駅からよく運んだものです、日通の人は凄い。特大貨物を見に来た私は物好きです。 2月13日 ニコンF2 トライX


クレーンはシキの再組立に使用するために待機していたのです。



せっかく岩徳線の高水駅なので旅客列車も掲載します。上り岩国行、キハ20+キハ25+キハ25〜「タラコ」色が混じり始めた頃です、当時の岩徳線はキハ25のバス窓の天下(1が配置)でした。今までとは反対側から撮影。


トランスは古代エジプトのピラミッドのように丸太の上を転がり横に移動します。木材は一見弱そうですが圧縮には強いのですね。後のクレーンは何のために待機しているのでしょうか。

トランスが板で支えられるとシキとのピンをはずして手押しで移動させます。


トランスの下の線路にはあらかじめ踏切のような板が敷かれています、これとトランスの間にも板を挟みます。


マイクロエースからシキ600,800が発売されました、いままで200tクラスはキットかホワイトメタル製しかないので欲しい方には朗報でしょう。しかし走る姿は見ても積み下ろしを見た方は少ないと思われます。そこでシキ600の汎用形シキ610の取卸の特集です「岩徳線にシキがやって来た」1979年2月15日高水駅にシキ614の特大貨物が到着した一部始終です。
 徳山方面からやって来て上り3番線に到着、入換で1番線に転線、私は高校3年で就職も決まり駅で情報を聞き撮影に向かいました、高水は高校の最寄駅(出身高がわかる)なので地の利があります。山側の国道2号線から撮影しています。


KATOのDF50が発売されました、ナンバーが転写式が賛否の分かれるところです。前回のDD51にしても当地広島には縁のない機関車ですが国鉄形は人気です。走る姿を見た方はどのぐらいいるのでしょう?
 私もまともな走行写真は四国ぐらいです、スルザーの焼玉エンジン風の音は覚えがありますがマンの記憶がありません。写真は土讃本線、吾桑〜多ノ郷間の「お立ち台」の土佐石灰専用列車、5795レです。高松から夜行に乗って出かけました。81年10月11日。後のホキ5200は輸出用の「日立C−1」台車を履いた地元下松の珍車です、同じ形式で操作室のある車両もありました。後にDE10になりそれも撮影に行きましたがこの列車も過去帳入りしてしまいました。 2月11日 ニコンFE コダクロームKR

カトーから183系1000番台が再生産されました、当地では縁もゆかりもないのですが、特急色なので売れるんですね、個人的には三流特急電車ですが。写真は受け狙いの「あまぎ」です、81年9月14日保土ヶ谷〜東戸塚間にて。153系が185(これは四流特急)系に置換え中の頃「あまぎ」が無くなるので撮った一枚。ほんとうは157系が見たかった!  1月31日

カトーから201系中央線が発売になります、201系も置換えが近く今が旬の電車で高円寺のあたりでは多く売れるのでしょうが当地のJRではインバーターはもとよりチョッパの電車も走ってないので「何の騒ぎ?」です。
 走るのは試運転だけという事で「日立笠戸試運転シリーズ第3弾」201系の巻。クハ201-28西トタ 試9592M 82年3月10日下松にて。日立笠戸は105系まで新性能直流通勤電車を製造していませんでした、交流、交直流電車を専門にしていましたが先行きが怪しくなって直流電車に参入したのでしょう。当時の試運転区間は下松〜西条〜広島の間でした、乗務する運転士や車掌には「日立弁当」がもらえたそうです。 なお第2弾は381系で大畠駅です。    1月19日

トミーの16番455(475)系が発売されました、基本とサロだけ発売になり本日(14日)残りが入荷の予定ですのでサハシ455の写真、新幹線開業直前の75年1月、徳山にて。中坊のへたくそな写真です、まだ「形式写真」という概念がなくビュッフェの写真が撮りたいが為に撮った一枚です。当時はもう営業はやめていましたがこの車には思い入れがあります。
 光から柳井の親戚に行く時よく「つくし」「玄海」「はやとも」に乗ったものです、普通列車の本数が少なく急行料金が手軽だったので乗る機会が多かったのでしょう。そして父はよくビュッフェに連れて行ってくれました、冷房があるから?ビールが飲めるから?か理由はわかりませんが私もジュースをカウンターで頂きました、妹はカウンターに届かなかったので補助椅子に座っていました。柳井に着いたら親戚は踏切のそばずっと眺めていました。 コダックポケットカメラ コダカラーU

あけましておめでとうございます 今年もこのコーナーをよろしく。トップページは「犬」でくだらない写真でごめんなさい。こちらはまとも?。
 年末ぎりぎりでKATOの24系25形寝台が発売になりました。20系と比べ相当進化しています、Nゲージの方もどうぞ。20系置換え当時の「あさかぜ」をプロトタイプにしている今回の製品なので写真は「美しき瀬戸内沿いで朝を迎えるあさかぜ」です。82年8月神代〜大畠間 昨年トワイライトが来た時30名も撮影者が詰め掛けた大島大橋の上からの撮影です。「金星」が無くなるのでそのついで、当時はほとんど同業の人と出会いませんでした。ここは当時私の職場、保線用のダイヤを見ながら撮影していました。当時車が無い私がどうやって朝「さくら」から撮影できたかは時効なので話しますが 当時大畠にあった検査班の詰所に泊まっていたのです。検査長さんにお願いすると「戸締りと火の元に注意してくれ」の一言でOK、いい時代でした。
 あさかぜが消え担当の下関車掌区の後身の下関乗務員センターの火事の報を今朝のニュースで知って一つの時代の終わりを感じました。車掌で何回も泊まったところなのでなおさらです。

KATOのレジェンドコレクション第1弾の101系中央線快速が発売されました、雪の為入荷が大幅に遅れてしまいました。
さすがKATO、101系ごとき(失礼)にも気合をいれています、しかし103系はともかく101系は当地広島にはさっぱり縁がありません。
しかし昔当地を走った事がありました、クモル145、クモヤ145などの改造の為広島、幡生工場の回送がありました、写真は改造待ちで柳井に留置中の写真、80年7月15日。先頭はオレンジ2両目はカナリア、運転台に入る仮設ATSのケーブルが自力走行の証拠です。
改造は工場で行われましたが鋼体は日立笠戸で造られ下塗り塗装の状態で65キロの解結貨物につながれ工場に運ばれました。

寒くておっくうでようやく探しました。マイクロ発売記念、371系のかぶりつき、東静岡あたりです「あさぎり」でなくホームライナー沼津です。静岡ホビーショーの朝前泊してわざわざ乗りました。沼津で留置中のコキ1000とコキ9000を撮影しました、371系デビューから間もない頃です。

本日10日ホビーモデルの103、105系キットが入荷します、グリーンマックスの乗りで16番が製作できるので皆様どうぞ。
103系1000、1200も発売されますが当地ではあまりなじみのない顔です。しかし20年前に自力でこの地にやって来ています。広島、幡生工場に105系改造の為に、この写真は改造前柳井駅に留置の時 84年4月30日。
この顔は可部線新性能化の時暫定で走っていましたがすぐに和歌山に去って行きました、まさか今戻ってくるとは、模型屋としてはうれしいですが。

店頭でもとこでも「広島の電車はボロばかり」との会話が聞かれ関西やはては千葉からの転属車で大騒ぎの当地区ですが昔も同じ、初期の80系が多かったところに新性能国電それも3ドアが転属してきたら当事の中坊は大騒ぎ。
この写真は新幹線開業直後の75年8月光駅にて111系の6連。普通列車増発で中間のモハ111は静岡から先頭のクハ111は大船から来た混色編成。見た事のないスカ色に感動して撮った1枚です。クハ111‐1311という地下線用まで広島に転属になっていました。のちに湘南色に塗り替えられたのですがとんでもない事に。

マイクロエースから発売されたEF59 24の写真、78年10月29日もちろん瀬野にて。EF61 200が登場してそろそろ危なくなった頃。1両だけの車で幸運でした、確かホームに撮影禁止の札があったような気がします。パンタ下の「ディスコン棒」の位置を示す二本線が目立ちます。デッキの上にある箱は何でしょう。


ようやくKATOからDD51が発売されました(ただし耐寒 暖地は18日)。当店の開店前日に案内があり昨年10月の予定が1年かかって発売になりました。
600両以上在籍していたのに広島県の配置はゼロ、三原の三菱では数百両生産してもあまり縁のない機関車です(耐寒は三菱のナンバープレート)。伯備、山陰、美祢〜宇部線や北九州が近いところです。
写真は山口線の貨物列車、95年11月。益田の大和防、江津の山パルに化成品を運ぶ専貨です。カセイソーダのタキ7750、2600 硫酸のタキ4000 重油のタキ9800 パルプ積のワム80000などバラエティに富んだ編成でした、昔はコークス積のトキ25000もつないでいました。この列車も過去となりましたが新たに同じ区間をDD51がタキ1100の列車を牽引しています。いつか撮らなければ。

先頭の次は中間のモハ110です常磐線じゃないよ、3000の中間の111系は湘南色が多く瀬戸内色は少数でしたこれは20番。短編成化で115系の冷改車と入れ替わり国鉄末期には消滅しました。どなたか「115系3000番台中間ボロ車の歴史」をまとめればRMライブラリーで出版できますよ?
 それはともかく中間ドアガラスに「締切」のシールを印刷する事と当時は字幕は使用していないのでサボのシールを入れてくださいねマイクロエース様。

マイクロエースのカタログが発売されました、巻末の予定品に115系3000番台 冷房車 瀬戸内色 基本8両(これは誤植で4両が正解)と冷房準備車 瀬戸内色 増結4両が案内されていました。前回の3000が発売された時「なんで3500の瀬戸内色を発売するのか?」とマイクロの担当に詰め寄ったら「いずれ111系と混結も発売したい」と言ってたとおりになりました。しかし20年前の編成なのでみなさん記憶にあるかどうか?そこで84年5月5日撮影の冷房準備車の写真をどうぞ。3121番です室内には冷房の風道もあり一歩進んだ冷房準備車でした。

KATOの485系初期型が発売されました、いままで発売されなかったのが不思議ですが期待を裏切らない製品で「やっぱりKATO」です。
 さて製品は昭和50年前半の北陸筋の向日町区の編成、でも私は50年以前の山陽特急の世代です、新幹線開業の2ヶ月前の徳山駅の485系「つばめ」の方向幕、当時の向日町の485系は上野から西鹿児島、宮崎までの広域運用で幕のコマが足りないので 岡山⇔博多の矢印1枚幕だったのでしょう。岡山〜博多が6時間、30年の時を感じます。

阪神タイガースが優勝しましたね、私は「東京メッツ」のファンなので関係ないですが巨人の前で優勝とはめでたい事です。ポジを探すと85年の優勝フィーバーの時国鉄が商売気を出して「猛虎号」など臨時列車を運転した一つが出てきました。11月1日とありますが日本シリーズの応援の帰りだったのか?14系客車で中はドンチャン騒ぎだったかな。阪神は元気ですがEF62はあと1年の運命でした。阪神といえば力道玄馬という恐ろしい打者がいましたよね?

歩いて隣の駅は南宮崎、電留線に並ぶ「にちりん」「彗星」昼夜走る583系の特徴を撮った一枚。左はタイフォンがスリットの来年トミーが発売する顔です、ただし21番なのでベンチレーターは一列。彗星も今月いっぱいで廃止、実は宮崎に出かけた理由は583系の「彗星」を耳川の鉄橋で撮影する為が本来の目的だったのです。59‐2改正で583系が撤退するからで゜今も昔もファンの性格は同じです。

宮崎市内を流れる大淀川を渡るキハ26+キハ26‐400×2+キハ47 83年11月3日
 キハ26、55の列車編成写真が少なくこれで御勘弁を、26‐400はキロ25の格下げで岩徳線にも1両おり通学の時喜んで乗っていました。でもタラコは哀れですね。キロより格下げの方が売れると思いますが。

6月には115系や381系の試運転も始まり両方撮影でき効率的でした。
381系の試運転、でもここは伯備線でないような?82年6月15日 クハ381‐141他 試9592M

トミーのキハ55系、10系が難産して予告期間が長かったですね。ポピュラーな気動車ですが芸備線は準急や「やまのゆ」の後はあまり縁がなかったです。岩徳線にはゾロゾロいましたが。
 これは伯備線、美袋〜備中広瀬間、82年6月12日 電化が近いのでキハ181「やくも」の撮影の合間に、キハ26 8米ヨナ 伯備線は長距離でキハ26,55が多く配置されていました。岡山〜津山〜新見〜広島〜古市橋と列車番号を変えてやって来る岡山区の車両がありました。

飯田橋といえば「マヌ34」でなくて「紙列車」です、カーブした構内を101系の間を縫って入換するのですから大変でしょう。私はEF60の500番台に合えたので喜んでましたが、DD13も入換にいそしんでいました。ここも過去の記録になりました。

カトー レジェンドコレクション第1弾発売でなんとか盛り上げなくては。
57年夏 飯田橋にて、カーブした構内を車輪を軋まして走る中央線快速。
東北、上越新幹線開業前の最後の夏、101系もそろそろなくなるのでと撮影しました。テールライトが新型(天賞堂の#101)なのでカトー発売のタイプ(天#91)でないので厳密には違います。正面のガラスを見れば101系らしさがよくわかります。

ワキ8000 8950 53年下関駅にて。
天賞堂のプラ貨車の予告に登場、古くはエンドウの真鍮製がありました。ホビーモデルのキット改造の記事が発売当時のTMSにあり私も2両製作しました。実物は新製とワキ10000角屋根改造があり8950はワキ改です。
しかしワキ10000は大量に製作してすぐにワキ8000に改造したのでしょうか。

 今月の広告の一番の関心は「アクラス」ブランドのレムフ10000とレサ10000です。16番プラ製品で発売が期待されていた車種です。カトー、ホビーに期待していたのですが、天賞堂も予告があったような?このメーカーなら期待出来そうです、一般流通しそうだし。
 で写真はこの系列が停車してホームから撮影できる唯一の駅です。東京寄は操車場や夜間なので無理です。それは「徳山」です。乗務員交代で停車します。53年1月 あさかぜが25型になるのでそのついでに。

今回は最新作です。17日徳山駅にて上り923系T5編成の試運転、8分間の停車なので形式写真をしっかり撮っておきました軌道検測車の923‐3004。本運用になると本線はおよそ10日に1回ありますが形式写真の取れる副本線の検測は年数回しかないので貴重です。昔T2、3も各駅停車をねらって海側と山側両側面の形式写真を撮影しました。当日は「その筋」の人以外幼児連れが数組おり先頭車をバックに記念撮影というほほえましい光景が見られました。でもみんなデジカメなのね。

同じ日小郡駅にて、下りの貨物の「国鉄バス」、トキ15000改造のチキに乗っています。タイヤはパンクさせて車両限界に収めているようです。国鉄バスの新車はまず「十和田」の紅葉シーズンの応援に使用してそのあと全国に配属されると聞いたことがあります。その昔海水浴シーズンに気動車の新車を千葉に応援に使ったと同じですね。どこの営業所のバスになるのでしょう?

河合商会から盆明けに発売されるワキ1540の写真、52年の秋 もちろん小郡駅にて。トミーのソ80グリーンとチキを白く塗って構内に留置しておきましょう。

同じ日の急行「十和田」のナハ21 8の室内、ナロネ21の改造なのでとてもゆったりした室内で屋根が高いので大陸的な感じがします。投入当時改造が間に合わなくてナロネのまま使用し網棚が無く通路が荷物だらけだったとジャーナルの列車追跡にありました。関西は「だいせん」があったのでカトーがナハ21を発売してもいいのでは、見たくないけど上の帯なし20系といっしょに。

アイコムというメーカーか゛144分の1スケールで「マイクロギャラリー」シリーズを発売しています。工事現場やトラックターミナルなどありエッチング抜きのパーツで台車やフェンスなどあります。
そこでパレット荷物車の代表「スニ40」の積み込み風景。82年10月22日上野駅にて急行「鳥海」。
東京で印刷した全国紙を山形 秋田に届ける思い出のシーンです。どこかエッチングでパレットを発売しませんか。

205系の試運転の前に荷物列車が2本続けて上ります。58を追い出した62も18年前には消えてしまいました、そして荷物車も、いちばん後はスユ15 2001です。

205系仙石線の発売が近いので205系の生まれたての姿を、85年2月14日、日立笠戸の試運転 2段サッシの試作車。この区間を自力で走ったステンレス車はこれが始めてではないでしょうか、軽い走行音が印象的でした。大野浦〜玖波間にて。

キシ80の室内、武田尾の旧線で朝食、昼は「大山おこわ定食」と食堂車を堪能しました。椅子の汚れが末期を感じさせます。大阪8時発 博多21時着さすがにグリーン車に乗車しました。


遅くなりましたがカトー キハ82発売記念でキハ80の室内。85年1月27日「まつかぜ」が廃止になるのでわざわざ大阪に前泊して全線乗車した時の写真。
雪の山陰本線を走行中。注目してほしいのは椅子と窓、同時期の電車特急は椅子の後はモケッと張りですがキハは塩ビ板張り、カーテンも電車は横引き布カーテン、キハは115と同じ巻上げカーテンと万事安く出来ていると言えます。

カトートラ45000の格好の改造ネタ。トラ43500のトップナンバー、80年11月7日柳井駅にて755レ。下松にある東洋鋼鈑のブリキ板を運ぶ物適貨車、トキ21500の弟分です、43年改造で11両の少数派。東洋製罐の関連会社の東洋鋼鈑は下松駅から「日立」「日石」と共に専用線がありました。ちなみに缶飲料の端にCANのマークがあれば「東洋製罐」製です。大口はワキ5000で小口はこの車だったのでしょう。プラ板で改造できそうな形態です、いかがですか?

 
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