店主の写真コーナー3


惰性で続きます
 
 新コーナー 「店主の映像コーナー」開始!
制作「生野屋プロダクション」、配給「まろねふ映画社」
     ここをクリック



 79年4月にあこがれの「国鉄」に入りました「奉職」。だが向洋の鉄道学園に向かうと、
あなたは柳井保線支区の準職軌道掛!!ガビーン「保線」一緒に入った高校の同級生は「乗務員予科」
その夜は泣きました。
 しかし翌日研修が終わって図書館に向かうとお宝の山!!車両の図面がいっぱい、誠文堂新光社の
「国鉄客車貨車ガイドブック」ぐらいした持っていなかった私しとては本当にお宝の山でした。借りて
コピーすれば良いのですが、当時コピー(小西六のユービックス、学園の資料もほとんど青焼でした)
が向洋の駅前の文房具屋で1枚40円、1万円もらって学園で1ヶ月なのでとても大量にはコピーできません、
レポート用紙に手書きで形式図の窓割を写していました。
 それから数年後「施設事務科」で学園に入り今度は前回の恨みを晴らすまでコピーしました。だから
このように表紙までコピーしています、これが貴重なもの、あの「黒岩保美」氏のイラストなのです(左下
に「K66」のサイン有)。
国鉄が消滅しているので版権がないと思われますので公開します。当時の最新鋭車両を下からのアングル
で「線画?」で描いています、スクリーントーンなど使っていません。「電車形式図」の書体が車両標記と
同じのが車両設計事務所らしいです。
電車形式図(追録)1966 中国鉄道学園図書室の印。2ページ目には「コノ図面ハ日本国有鉄道向車両以外
ノモノニ無断デ使用シテトナラナイ」と。
 国鉄書体、「ゆうづる」のヘッドマーク、グリーン車マーク、新幹線貨物電車のイラスト、キハ82のデザイン
など国鉄で活躍されたあとプレスアイゼンバーンで鉄道書の編集をされておられました。何点が表紙絵が
あるので順次公開します。
2018年5月29日



 黒岩保美氏の作品その2 「私有貨車形式図1963」、広島鉄道教習所図書室。
高度経済成長の夜明、貨車の大型化、積荷の種類が増加しだした頃、当時最新鋭の貨車の
シルエット、形式わかりますか?最新の貨車用三軸台車を履いた貨車が2形式も。
 国鉄形式のヨ6000も1962製の最新形。
7月31日

 ご無沙汰です、猛暑と製品に関係する写真がないので。そこで店主の写真コーナー
改め「店主の持っている物コーナー」
 115系3000番台が瀬戸内色に塗り替えられました、昨年言っていたのですが2022年は
東北.上越新幹線開業や伯備線電化開業40周年と共に115系3000番台「ひろしまシティ電車」
40周年じゃろ、瀬戸内色に塗り替えたらいいんじゃないと。シティ電車のヘッドマーク付けて走らせば
盛り上がるのに、結局やらずじまいで今年になって九州の103系1500番台(電化40周年)のまねをして
やる事に。
 そこで心配、色や塗分け大丈夫?瀬戸内色消滅から10年近く、塗装したのはそれより前、
エンドウの1/80 115系3000番台は帯の色が青15号(キットの説明に書いてあった)、そして
青20号の帯はシール(正式にはカラー帯)。

国鉄末期、車掌になるため広島鉄道学園にいた時図書館にあった図面をコピーしたもの
 帯はシールにするのか在庫がなければ塗装にするのか?EF65の青15号を塗ったりしないか?
ドアの所の帯の処理は(ドア手前30mm)、帯の角の丸みは(半径5mmの丸み?



 ニュースを見ると帯は塗装でした,吹き始めを見ると青20号の様です。
 そう言えば我が家に「アレ」があった、工作机の下のクリヤーファイルに挟んである。
見つけたのがこれ。
幅300mm、シールの裏は糊面、表の紙は保護紙、はがすと青色が、これは「瀬戸内」の青20号
のカラー帯の実物です。カットされているのは何かに使ったようです。
 1986年頃、幡生車両所公開の際「兄ちゃん、あげる」でもらったものです、82年から4年、3000
番台が全検の頃です。
 これがあれぱ「アレ」ができるぞ。 



 シールをカバンに入れて、「今日は瀬戸内色はいないかな?」と数日。
遂にホームに居ました、編成前方は運転手がいるのでワンマンになって
いない後部車両に、シールを取り出して当てて色の違いを見てみました。
「撮り鉄」「乗り鉄」じゃなくて「当て鉄」?
シールのほうが塗装より濃いいのがわかります。クリーム1号も薄いようで
全体的に薄味かな?下まわりがグレーなので余計に。
 塗料も昔はフタル酸でいまは水性なので下関のEF65を見ても昔とは何か
違う?




 トミーから72.73形可部線が発売されます。(10月予定)20年以上前に2両セットの可部線セットが
発売されました。ホビーショー限定でカタログには掲載されていないので皆さんの記憶にあるかどうか?
今回は新規金型も多く決定版(最後か?)になるでしょう。84年に引退したので39年前。
 可部線の73は出身別に1970年呉線電化の際松戸電車区からやって来た(Mc009.041.061.169.259
313.383 Tc004.214.308.312.501)(国鉄OBで路面電車の模型で有名な横田勝さんが松戸電車区にどの電車
がいいか見に行ったとおっしゃっていました)
1974年に広発の客車列車1本を電車化するために関西からやって来た(Mc001.021.027 Tc326.328.370.)
1976年に三鷹電車区からやって来た「山スカ」の73(Tc446.466)になります。
今回はクモハ73が関西出身の全金改造車、クハ79は呉線のトイレ付アコモ改造車と山スカ半鋼製最終形
の編成。3つの出身車の組み合わせとなります。
 新交通ができれば可部線は廃止よと言われてましたが今では利用者も増えてますが抜本的な改良はされて
いません、何とかならないものでしょうか。
 可部線最後の73は鉄道ジャーナル1984年9月号に詳しく掲載されています。
1984年5月27日 広島 クモハ73021 962М
2023年4月24日



 「化けサロ」と言うんですね、この手のグリーン車はそのように言われとるとは知らんかった、
「バケラッタ」ならわかるのに。
86年3月15日、広島駅にて、前日の14日に鹿児島車両管理室からサロ489‐24から改造のサロ110‐
1355、隣の1354(元サロ489‐22)と共に485系に挟まれて関東に。よく見れば字幕が「奥多摩」が
見える!字幕は多分「小糸」製だが鹿児島車管で発注したのか?
 金沢からの回送時は485系だったが改造後は113系、485系に挟まれて回送の時はジャンパー栓を
いじって繋いだのでしょうか?
 91年11月のTMS誌に中村哲氏の改造サロの記事があり、氏が関西でこの編成の走行写真を撮られて
いました。1月の小倉工場改造の1352と1353の写真もあり、この2両はスカ色なのに湘南色の塗分けに
なっていました。縁もゆかりもない工場で改造したので間違えたのかなと書いてありました。
2022年1月31日



 「SHOPねこまた」と言うふざけた名前のメーカーから「こんてにゃあ」と言うこれまたふざけた商品が
発売されました。
しかし中身は真面目な商品、カトーの旧500円貨車のコキ10000の6000形コンテナとC20コンテナの間を
埋める商品です(トミーのコム1に積載のC10コンテナはC20コンテナの塗替え品で12ftで嘘)。
積み替え可能でまともな10ftコンテナがようやく発売された事になります(トミーの#3132 T10コンテナは
スケールの10ftコンテナ)。
 お客様との会話でC11に更新されてC20みたいな標記になったのがあるよと言ったので証拠の写真を
探し、資料で吉岡心平著のRMライブラリー121を見たらそれは間違えでC11コンテナの後期型はC20
コンテナと一緒に製作されたので標記がC20と同じになったのが正解でした。
 下の写真がそれで1970年富士重工製 どちらも1979年徳山にて  2022年12月22日




建物が取り壊される写真 徳山の近鉄松下百貨店
 近所に鉄道が無く通学に国鉄バスを利用していたのであわゆく「バ〇マニヤ」になりかけたのですが
年に数回利用する鉄道の方に興味が湧いて今の自分になったようです。
その一つがこの近鉄松下百貨店、お中元.お歳暮シーズンになるとここでお買い物、大食堂。回転する
お菓子の機械をずーっと見ていたり。一番の楽しみは屋上!ミニ電車もですがここから眺める徳山駅に
出入りする列車をずーっと見ていました。
 社会人になってからは百貨店よりダイエーやカメラのワタナベ、テアトル徳山の方がメインになりましたが。
2013年に閉店になり周南市役所の仮庁舎として使用されていましたが、ついに取り壊し。
 誠文堂新光社の「国鉄客車.貨車ガイドブック」や国鉄ソ200の公式写真をお持ちの方はよく見てください。
中央に「ブラザーミシン」の看板がありその上に「松下」の看板がチラッと見えます。1960年(私の生まれた年)
なので日立の専用線は電化していますが奥の山陽本線は非電化、後ろの下松の山並みは今も変わりません。
1962年に松下商店から松下百貨店に、1965年に近鉄松下百貨店に。(松下のロゴの外側に近鉄のロゴが。
バスの防長交通も近鉄傘下に)
1階で売っていた「松下まんじゅう」なつかしい。
2022年2月




 カトーからEF61の製品化の発表がありました。昨年岡山での説明会で「EF61出して♡」言ったら「そんなに良いのですか?」
とカトーさんに言われたのですが。
 お客様の予約を見ると2台購入が多いのです、更に2台購入を増やす写真をどうぞ。定期重連であった「荷37レ」
EF58から61重連に牽引機を交換のシーン、8+11号機。背景にはホテルニュースヒロデンが・・・
 ただし今回の品番を見ると「枝」がついています、3093-1と。ぶどう色2号で急行「銀河」か初期「あさかぜ」か、
それともこの写真の2灯シールドビーム+PS22付仕様か、今後に期待。荷37レの事は次回また。
83年11月13日(38年前)広島駅にて



 荷37レの思い出
 私が鉄道に入った頃の荷37レはEF58の重連でした、その後58+61となりそのまた後はEF61の重連になりました。
荷37レが通過すると一時間の保守間合が始まるのでした(柳井発が14時18分)。マルタイ作業が多かったのですが、
秋から冬にかけてはレール更換(それもロングレール)の季節、1時間で200m以上のレールを一気に更換するのです。
 それを再現したのがこのモジュール、50Nレールから60キロレールに更換、カマは天賞堂のEF61重連!由宇~神代あたりをイメージ。
柳井保線支区だけでは人数が足らないので岩国と高森支区まで動員して(それでも足りない場合は他区まで動員して)
三人一組で作業に当たります。
荷37レの2本前の列車から徐行になるのでマクラ木の締結装置のボルトを4本の内1本だけ残します(現在の4本に1本PCマクラ木
が入っていると同じ)荷37レが通過すると後の1本も外し、レール山越器(通称門形、写真の黄色の物)をセット
両端の継ぎ目を外したら作業助役のマイクの合図で旧レール(50N(模型はコード83))を山越器で吊上げで移動させます、
軌道パットを剥がし、新軌道パットをゴム系接着剤で貼って60キロレール(模型はコード100)の交換に備えます。合図で線路端の
新レールを吊上げます「ちょいセキ」などと位置合わせの指示が、「OK」の合図でレールを下げて交換終了。60キロ用の締結装置を
セットしてボルトを閉めたら作業終了、その後は信号の方がレールボンドを取り付けます。
 ここまでは昔話ですが臭いエピソードがあります、荷37レの一つ前の列車(153系)が徐行で通り過ぎる際トイレ流し管から黄金色の
物体が事もあろうに60キロレールの上に直撃!!「エーっエーっ」時間は無い、レールを洗い落とす水もないどーしよう?
私の組の先輩が作業助役に相談、結果は「すまんやってくれ、代わりに超勤1時間で、頼む」。
 昼間に長距離列車のない山陽本線でもたまにあるとすれば昼間の優等列車の多い当時の東北本線などは大変だったと思います。
リンク式の独特な駆動音のEF61、20軸の車輪が目の前を通り過ぎるEF58の重連、ウン〇でなくSGからの蒸気のお汁、懐かしい40年前
の思い出です、当時の職場皆さんの半数はあの世でしょう。
11月25日



 メーカーから新製品の発表があると、決まって「この車両広島におったんか?」と言う質問が。
おったら買う、おらんかったら買わない考えなのでしょう。
 今回のキハ30シリーズ、写真のように岩国配置のキハ30がいたので(76・83)岩徳・岩日線には
おりました、小郡にキハ35が(151・214・215)30の31が厚狭にいたので山口県西部にもおりました。
 問題は広島です、1965年頃からキハ30 82.84が広島配置で芸備線や可部線で走行、ところが
1980年の配置表を見たら広島配置の一般形はすべて新車!キハ40・47しかおりません。
そんな事で広島では見かけないと思ったらさもあらす、岡山のキハ35(216 1/78の確率)が津山
~姫新~芸備線経由で広島の顔を見せていたのです。1980年当時869D新見15:25~広島20.52 
884D22:19~志和口23:15ヨ881D5:57~広島6;50 858D8:00~三次10:26~新見13:53。志和口最終と
始発に充当されています。元来客車列車で1980に気動車化、キハ×4+キユニの5両編成、当時の
岡山の配置からキハ20.25.26.30.40.47.55のなんでもあり、三次が10時36分発なので職場で今日は
どんな編成か見るのが楽しみでした、35を見た覚えがあります。さあ買った買った!
 写真はキハ30 76広クニ 79年2月19日 徳山駅にて 正面の補強板は付いていません。



 急行「きたぐに」の最後部オハネフ122076 大ミハ 502レ大阪駅にて81年5月5日
「きたぐに」といえば1972年11月6日の北陸トンネル火災事故です、当時の新聞記事で食堂車の
構造を初めて知りました。石炭レンジがやり玉になりましたが実際は電気暖房からの出火と言われて
います。
 さて末期のきたぐにのB寝台4両は全部オハネフ12、電暖のないオハネ12はともかくスハネ16でなかった
のか?座席車が12系になったばかりの頃はスハネが2両入っていました。
 なんでだろうと長年思っていたら「車両史編さん会」発行の10系客車の下巻に答えがありました。
北陸トンネル事故の後国鉄は車両火災の事故防止にさまざまな実験を行っています、その最たる実験は
列車を走行させながら火災を起こすもの、三陸地方のローカル線で行われました、テレビニュースで見た
記憶が。
 結果車両によってABCのランクができ、Aランクは内張がアルミ基板のメラミン樹脂、床板の構造がキース
トンプレート(波形鋼板)の20系、12系以降の客車。
Bランクは内張が硬質繊維板、床下はキーストンプレートの10系客車の新製車。
Cランクが床下の構造が台枠の上が板張りのスハネ16、スロ54、スロ62、オハ35、スハ43、オハ61など
 結果スハネ16はCランクなので火災事故を起こした「きたぐに」から積極的にオハネフ12にしたのでしょう。
スハネ16の冷房用発電エンジンの上は木張の床、防熱対策はしてるでしょうが確かに怖い。
オハネフ12も内張の取り換え、貫通ドアガラスの網入り化などして82年まで使用されました。
 実はAランクの車両もキーストンプレートの上は耐水ベニヤでその上に床材が貼られています、0系新幹線も
153系なども、153系も末期はデッキ部のべニアが朽ちてふわふわしていました、北陸トンネル事故以降新幹線
はベニヤからアルミに変わったそうで車内の騒音がうるさくなったそうです。
2021年1月10日



 JR西日本広島支社が移転します、広島駅の在来線と新幹線の間に。
支社は鉄道管理局の頃から「偉ーい」人が仕事をする所で平社員の私には縁の無いところ
のようであるのです。
 三次から広島保線支区の事務係になって「通勤費」「巡回旅費」「共済貯金」などの現金は
管理局の一階の「出納」に行きそこにある広島銀行から受け取る事になっていました。
ちなみに給料は「東京銀行」が直に保線支区まで持って来ていました。
 模型の会に入会すると局の人が数人おられ「おー藤原ちょっと来いやー」と鉄道電話が掛かり
本区に行くついでに局に行き地下の喫茶室でコーヒーをおごられて代わりに可部線の電車の
塗装をするはめになったりしました。
 JRになって「タブレット」の二階にあったレイアウトは支社の裏の「ニューメディア」の跡の建物
で製作しました(一階にあった初代は広島運転所で製作)。線路を敷設し試運転は空室の多かった
支社で行いました。これがその時の写真。早くしてなくなられた〇津さんが写っています。
 JRをやめる決断をして人事課にいた高校の同級生に話をしに支社に行ったのが最後でした。
 バブル期に支社を高層ビルにする話があったようですがCTCセンターの移転が大事で話が消えた
ようです、しかし昭和20年後半の建設で耐震もあったものじゃないでしょう、建替は時間の問題だった
のでしょうしかし古風な建物がなくなるのはさびしいものです、跡地はどうなるのでしょう。
2020年11月23日


 今日は日曜日ですが日直なので一人で出勤、ふと見ると「もみじ号」のヘッドマークを付けたキハ28が
、慌ててカメラ寮に取りに帰って撮った一枚、霧の街三次にて キハ283014 9330D左はキハ28 2484広ヒロ
83年10月30日 上り列車なので帝釈峡でも向かったのでしょう。
 平窓とパノラミックウインドの違いがわかる写真ですね、屋根の曲線もパノラミックウインドのほうが
緩くなって角っぽい、AU13クーラーを取り付ける前提で車高が平窓にくらべ60mm低い。職場が2階に
あったので横を通る急行のクーラーと屋根の隙間をみれば平窓かパノラマの区別がつきました。
平窓は限界ギリギリなので隙間があまりなくパノラマは余裕で隙間が広い。
2020年7月13日



 三島の二日前、名古屋でナハ10の試作車2901(カトー「きそ」の車番)をちゃんと撮っています。
関西本線225レ 名ナコ ドアが交換され窓枠もRのないものに取替られています、床下には電暖
トランスが。しかし妻のリブとドア上のRとTR50Xで試作車をアピールしています、台車のボルスター
アンカーはいつ外されたのでしょう。80年5月1日 名古屋にて
2020年6月14日



 モデルアイコンよりマロネ40キットの案内。これがプラで製品化されるとは!
次に私の頭の中で「三島」と「狩勝」が。
事業用車好きとしてはプラなら簡単に改造できそうで期待しています。
 写真は「東京第二工事局 三島躁機区」のソ200・ソ300、橋梁交換用操縦車の職員が工事現場で
寝泊りする「工事用宿泊車」オヤ41 2 静ヌマ 床下右側スッカラカン、冷房は右のオヤ10からもらい
ます。幌の上に見えるのがダクト、広電のMaxの天井にゴム製のダクトがありこれを思い出しました。
80年5月3日 三島にて
 就職1年目で「精勤」が使えるようになり5月の連休で「安芸」に乗って大阪~米原~名古屋~豊橋~
静岡~沼津~三島~甲府~長野~名古屋と撮影旅行した時の一枚。
2020年6月8日





 カトーからレム5000の写真はありませんか?の電話があったのは2ヶ月程前の事。
何かの列車に入れるようで何かなと待っていたら今回のポスター、花輪線のハチロク
3重連の貨物列車の1両になるとは。高校生の時小郡で撮ったものです。
 さて私のネガボックスに花輪線のハチロクの写真があります、さすがに私が撮るはず
もなく従兄の吉通君が撮った写真です。転勤族で仙台勤務の時でしょう、米坂線も同じ
ネガにあります。稲沢にも住んでた時「金星」名鉄パノラマカーで奥田の駅で降りて吉通君
のアパートに家族で行った事があります。早くになくなられてしまい残念ですが撮った写真
が今世間に公開されるとは本人も思っていないでしょう。
2020年3月14日



 カトーから郵便・荷物列車「東海道・山陽」後期編成の予告が発表されました。
マニ44など完璧な製品がなかったので朗報です。
 しかしラインナップの一つ「スユ152001」には?マーク。
見た目オユ12やスユ13にそっくりですが、なにかが違う、さあ何でしょう。
1972年4月に下り急行「阿蘇」の郵便車スユ433が岡山県で蒸気暖房による低温
発火現象で全焼し廃車になった代替の車両。オユ12から10年以上経っての製造
なので色々異なります。
79年10月10日 荷37レ 広島



 最近「マックスモデル&ジュニア模型店」連合のプラ客車キット攻勢のすごい事!
ただ戦前のダブルルーフ客車では山ほど作っていないキットを持っている身からすると
興味はあっても手が出せません。
 しかし次回作のジュニア模型店のスニ36500(後のスニ30)は使えます、後に多くの
車両が救援車に改造されスエ30になっています。広局管内では17と39広島、38下関、
48小郡、58徳山に配置されています。走行中の電車から撮影した徳山の58番。ベンチ
レーターが完全にありません、窓が一部埋められています、79年11月に廃車になっています。
今となっては貴重な記録になりました、71年に廃車になった18番だったら大発見らしい。
 救援車は車両とストラクチャーの両方を持った物でしょう、機関区の隅に留置するだけで
存在感がでます、扇形機関庫の横に留置するだけで・・・いかがですか?
77年5月3日 徳山客貨車区
2019年1月29日


 
 KATOから「カートレイン九州」の予告、TOMIXが手を出すと思いきや。ワキ50000もですが
最近のブームですかね。そうそう4月の新製品ポスターにこの「店主の写真コーナー」のワキ
50000の写真が採用されています、TOMIXの販促用がKATOの販促になるとは。
 列車の後ろは島田川、66の先には変電所、2018年7月豪雨で島田川が氾濫し変電所が浸水
した近くです。
 さてカートレインのワキ10000、広島増結のワキはJR西日本広島支社広島運転所の配置で
10182,10184,10185,10187の4両でした、シーズンオフは広島駅11番線の小荷物ホームに留置
されていました。さて問題はカートレインのワキは20系客車に合わせて「青15号」に塗られていま
すが広島のワキはどう見ても「青20号」、国鉄時代に塗り替えた広島車両所の人覚えていませんか?
2019年1月5日



 水野良太郎氏が亡くなられたそうです、享年82、うちの婆さんと一緒、まだ若い残念。
私達の世代はTMSの1コマ漫画。右の漫画75年4月号、「あんたッ、五木ひろしにヤキモチ
やいてるつもりなの?」。若い人意味わかりますか?。
 当時五木ひろしは27歳、氷川きよしより若い!奥さんが歌番組を見ている隣のレイアウト
ルームで旦那が模型を走らせている、今と違ってモーターの消費電力は多くブラシから火花
がバシバシ、テレビの画面や音も荒れて奥さんが怒るの図。
昔の平行線の頃の話、同軸ケーブルになってここまでひどくはなかったと思います。今や地
デジで全く心配ないのでは。
 そうそう、新幹線が開業して我が家の回りも電波障害対策でケーブルテレビになりました。
0系の16両が8基パンタを上げスパークを散らすので雑音がすごい、ラジオはもっとひどい。
沿線各地に国鉄が出資したケーブルテレビ組合が管理していました、JRに引き継がれ広島
支社の施設課に「環境・テレビ対策」部署がありました。地デジに移行する際電波障害の心配
はなくなりJRは設備をどうするか地元と協議し我が家のあたりは地元ケーブルテレビに引き
継がれました。
 左は76年8月号 特集「水野良太郎の世界」、当時TMSは大人の雑誌でした「エロいはないけれど」。
ご冥福をお祈りいたします。
2018年11月10日



 「ここをクリック」が邪魔して順番が後になっています。
非冷房のキハ28 32 広コリ 77年11月13日 41年も前! 小郡にて後ろはキハ17。
今とは違い昔は九州が暑いので優等車の冷房化は西から進められて行きました。
153系より475系の方が早かった、キハ58系の非冷房車は東日本が多かったのでこの
非冷房車の写真は貴重かな。
 ところが翌78年2月に広島工場で冷改されていますキハ282032、そして新潟に転属して
います、2002年の廃車まで1962年の製造から40年活躍したようです。
非冷房車ばかりの東北急行「おが」の映像は「店主の映像コーナー」「南浦和の朝」にあります、
22分50秒あたり。
2018年10月7日



 「ぎおんそーじゃの鐘のこえ~(中略)おごれるものは・・・」ク5000こそそんな車両でした。
900両以上も制作して数年で余剰、会計検査院が怖いので廃車にできず各地に留置。
柳井駅にもこのように留置されていました。天リウの配置、50年3月鷹取工場の全検標記
。セキ8000になったのかな?
80年3月19日



 三江線の最後が近づいています、雪害から復旧してまた多くの方が御名残乗車されるのでしょう。
RMlライブラリー222「三江線88年の軌跡」もよく売れています。36ページの「全通後の三江線」で78年
3月30日に江津CTCセンターが設置されたとあり、この写真。江津CTCセンターの制御卓と奥に見える
のが制御盤。
58年山陰水害も過ぎ、三江線でも乗りに行こうとすると、支区長が(三次保線支区)「おい藤原!江津を通る
のならいつも世話になっているCTCに茶菓子でも持って行ってくれんかな」と。江津に着いてCTCに向かい
菓子折りを渡してついでに撮ったのがこの写真、83年9月15日
 当時は広鉄と米鉄の境界は伊賀和志~口羽間78K700Mで三次支区が線路閉鎖工事や保守用車(モ
ーターカーやマイタイ)を行うには江津のCTCセンターに承認をもらわないといけません。
線路閉鎖の通告書を私の机の前の技術係が書いて「模写電信」(死語ですがファックスみたいなもの、トイレット
ペーバーぐらいの幅の感熱紙を使用)で江津CTCに送信、OKならCTCから承認済が送信。ですが電話線
が「ハエタタキ」なのでCTCから電話が掛かっても声が小さい!そうすると模写電信の画像もほとんど見えない
のです。向こうから送信が来たらOKみたいな事にしていました。



 保守用車通告書を持っていざ三江線バラスト散布に出発!83年7月28日
〇近作業助役、お元気ですか?
2018年2月26日



 ワキ50000は綺麗だ。ワキ10000も綺麗だけれど50000の方が好きだ。
78年のダイヤ改正で、徳山を8時頃下る高速貨物がワキ10000+コキ10000からワキ50000+コキ50000
に変更になって初めて見たとき、銀色と「とび色」のコントラストに感激しました。
81年5月30日 岩田~島田 1061レ EF6647+ワキ59008他



 中尾 豊(なかお ゆたか)氏が亡くなられたそうです、92才。
スタイルブックの図面・機関区のレイアウトセクション・「中」のマークの付いた車両・
「ムキ」教の教祖などTMS誌に掲載されていましたが、私にとって「なかお ゆたか」氏
と言えばこの折り込み図面!
75年2月からTMSを購読し(直接購読)バックナンバーの広告を見ると74年10月と11月に
581系の図面があるので早速注文、75年4月の381系とは細密度の凄い事。中坊の私は
イッテしまいました。これを元にペーパー車体で制作しました(その前に写真などから憶測
して3両作っていました)。
 ひとつ失敗、図面は凄いですが製版の関係で97%に縮小されて気づかず、あとから気づいて
もう一回作りなおした事。図面にはスケールを当てて確認する事!
 宝塚の「まるしん模型」の作品展を見に行き、蒸気機関車スタイルブックの原図を見たり
作品を拝見しました。
 合掌



 あれから35年! 伯備線381系の訓練運転の姿、82年6月12日 備中川西~方谷9133M。
「ゆったりやくも」か「がっかりやくも」か知りませんが私の記憶はこれ。
2017年9月11日


 思えば国鉄に就職して最初の職場が柳井だったのは良かった。親戚が柳井にあり(大水道)
土地勘はありました、よくそばの踏切に行って列車をみてました、まさかそこで仕事をするとは。
 良かった原因は柳井駅は新車と廃車の疎開先だった事。毎日職場への構内通路にはクハ86001
とモハ80001が、ク5000、マニ60、101系などの廃車待ちの車両、105系115系3000番台などの新車が
留置されていました。柳井機関区が乗務員区なので、教習用に電気機関車やナヤ11、各種電車が
時々留置されていました。写真のクモヤ90105も改造された直後教習用に留置されていました。
79年7月24日まだ準職員の頃
昼休みや仕事が終わった後は撮影タイム。今年の模型クラブの競作のお題は「試験車・事業用車」、
つまりこれです。早くからっと晴れてくれないかな。
7月29日


 広電に深入りしてはいけない、広島で路面電車は売れない、広島ケンミンは芸備線=汽車
が好きで、電車=ロングシートは嫌いと念じながら30年近く模型屋をしていました。
 もちろん広電も鉄道なので興味はありますが・・・
写真もあまり撮っていませんが「写真コーナー」新井口駅開業のあと近所の荒手車庫に寄って
写真を撮っており、その中に「鉄コレ25弾」広電1080の写真(正面だけですが)がありました。
車庫のどん詰まりに留置されて形式写真は撮れなかった。85年3月14日
暗いのでよくわららないのですが自連が縦に長い(異なった高さの連結器にも対応)。
2017年6月22日



 TOMIXから12系1000番台発売の案内がありましたが芸備線の12系1000番台の写真がありません。
仕方がないので12系2000番台の回送の写真、85年春広島駅にて。EF6618関+オハ12×2+オハフ13盛アオ
車番をメモしてないのですが広島車両所で改造されたオハフが1か42オハが49か74か96か97番でしょう。
 このあと「海峡」用の50系5000番台も広島車両所で改造されましたが、芸備線に乗って車両所の横を通った
時青い冷房付の50系を見て「芸備線の客車に冷房が!」とぬか喜びした人がおりました。
芸備線に冷房付の客車が入ったのはその数年後の事(1990年頃)、広島~三次専用なので方向幕を使用せず
「広島⇔三次」のシールを貼っていました、使用しない方向幕を後に某JR直営模型店で売ったなぁ。「若狭高浜」
なんて言う行先も入っていました。
2017年5月15日



 KATO 1/80 クモハ12052発売決定で販促写真、クモハ12027 広ウヘ 81年3月14日 宇部新川にて。
牽引車代用で、いつもは車庫の奥に救援車といっしょに留置され写真が撮りづらかったのですが、105系に
完全置換直前で車庫の線路が足らなくなり宇部新川駅にひっぱり出されたのでしょう。キレイな形式写真が
撮れましたパンタまで上がっている!(増設運転台側が前を向いてくれたのが良かったですが)、救援車は
なぜ撮っていない?ここがホームの端だったのかな、何せ36年も前の事。
 元モハ31095 昭和7年2月26日 日車支店製 モハ11257に変更 運転台増設でクモハ12057に。
可部線にもお仲間が、052は増設運転台が半室で運転台後ろの窓がつぶされているのが違いなので割り切れ
ば可部線・宇部小野田線ができます、クハ55+クモハ12で幡生工場入場列車を再現するのは如何。
2017年3月12日



 2016年からキハ40の顔に変化が、更新工事の際に埋めたはずのジャンパー栓受け用の凹みが復活したのです。
(写真左の40は復活前、右は復活後、左側のタイフォンと貫通扉の間、右のスカートの中に新しいジャンパー栓が)
それもジャンパー栓受けまでついて。キハ40が登場した頃、まだ液体式気動車の元祖キハ10系がまだ使用されて
おり「特急形以外はなんでもつなげる」と従来からのジャンパー栓を使用していますが、将来1本ジャンパーにする
準備工事として凹みを付けたようです。更新工事で埋められまた復活、これから何年使用するのでしょうか。
 30年前、車掌見習いで広島運転所で気動車の分併(分割・併結)のやり方を習いましたが2本ジャンパーは軽くて
おまけに栓にはめるのも楽でよいのですが、狭い空間で作業をするのでジャンパーを「たすき掛け」ならないように
確認して作業をしないといけません。現に翌日習った一人が「たすき」につないでショートしてエンジンが止まったそう
です。後に間違え防止にジャンパーと栓の片側だけ赤に塗る事になったようです。
 1本ジャンパーはそうゆうことはないですが、難点は重い事と栓受けのハンドルが固いらしい。(105系がそうらしいの
ですが私の車掌時代は分併は気動車のみ)
 聞けば保安装置の関係でジャンパーの芯数が不足するので変更するそうです。
2月12日



 TOMIXから583系「きだぐに」国鉄色の発売予告が出ましたので生まれたてのサロネ581-3の写真。
85年3月終わりか4月上旬、徳山駅にて。幡生車両所で改造された2両を485系に挟んで回送中の姿。
徳山駅に485と583系が見れるので即「年休」「つばめ」の再来だ!。でも何か変、そうだ583系と言えば
ベネシャンブラインド!それが無い、ロネなのでカーテンなのね。
 サロネは6両の内4両が幡生、2両が広島車両所で改造されました。3段から2段寝台になったので、
余った中段寝台のマットレスがこの後の広島車両所公開の際車両部品として販売されたのです。
寮の友人が買って(大勢の人が使用したのでよく天日干しをしたそうです)それが私の所に渡り今でも
現存しています。
2017年1月19日




 こちらが正当マニ44が2両入っている荷物列車。EF62 23関 荷37レ 86年9月14日 もう30年前なのね。
周りに同業者はいたかしら、今なら廃止が決まると大勢の人で溢れるのでしょうが。
古くはEF58やEF61の重連で有名な荷37レ、保線関係者では1時間保守間合が始まる列車番号で有名でした。
レールに落ちるSGの水が懐かしい、153系から落ちるウ〇コには閉口しましたが。
 11月のダイヤ改正まであと2か月を切り最後の活躍をする荷物列車、まさか数年後にEF62の貫通ドアを売る
ことになるとは。
11月28日



 マニ44バリェーション、「BIKE TRAIN ちくま」86年9月26日大阪にて 4801レ マニ442074
カートレインやモトトレインは有名ですが、これは。「HART」のステッカーは何?協賛企業か?
2074は翌年に廃車、合掌。
11月25日


 KATOの新製品、D51長野式集煙装置付を販売しながら「そういえば長門におったのでは?」で写真を探すとありました。
D51612 我が下松の日立製、北陸から中央西線に移り山口線そして最後が長門機関区。集煙装置が敦賀式から長野式に
交換され最後に広島工場でいじられたらしい。この集煙装置は何?、その筋の方の見解は広島工場で別の長野式集煙装置
に交換したらしく、この機関車のは「長野式」だそうです。勾配線区でも長大トンネルもない山陰西部なので集煙装置は使わず
開けっ放し、前照灯の斜め右の白く抜けた所が開けた証拠、鷹取式は開けてもこうならないそうです。だから広島でも50代の
お客様が買われるのは末期の山陰線で見たからなのでしょう。
74年11月24日 長門機関区にて、いまじゃこの辺りは更地に、ターンテーブルは東武鉄道にもらわれていった。
11月6日



 広島局、客車の間違え「オロネフ10 1・2」。20系客車以前の一般形客車は電気暖房「電暖」を取り付けると
元の番号に2000をプラスします。オハ50ではオハ50 1~27・2028~2042・43~104・2105~2118のように附番
します。オハ50 1があってオハ50 2001は絶対にありません。しかし広島局にはそれがいたのです。
 写真は厚狭駅に留置のオロネフ10 2広ヒロ 78年4月2日 オロネフ10はオロネ10を団臨用に緩急車化した
車両で1969年にオロネ10 2015・2049・2055がオロネフ10 2001~2003になり宮原区の配置となりました。
そのあと1974年にオロネ10 62・63があの幡生工場でオロネフ10に改造されたのですがなんと番号がオロネフ
10 1と2と附番したのです。本来ならオロネフ10 4と5のはずが間違ってしまったのです。広島運転所に配置と
なり、新婚旅行専用列車「南九州グリーン」(A寝台とグリーン車だけの編成)に使用されていたようです。
電暖化されたら本当に重複車番になる所ですが、それもなく78年5月に廃車になりました。
 写真のこと、始めて交友社の「77 国鉄車両配置表」を買って見ると、広島運転所にオロネフ10とオハネ12・スハネ
16・オハネフ12の配置があってこれは写真を撮りに行かねば!と78年1月に行ったら「もうおらん」と言われました。
20系寝台が団臨用に配置になって廃車になったのでした、残念!。ところが4月に九州に14系「阿蘇」か何かに乗って
厚狭駅で眠い眼をこすって見るとナシ20の隣にオロネフ10が!幻でなく本当にいた!帰りに撮ったのがこの写真です。
のちに九州の由布院に運ばれ最近まで車両はあったそうです、隣のナシ20も焼津駅のビアステーションになりました。
しかし当時の広鉄の客貨車課長は誰だったのでしょう。
10月17日



 これも同じケース、小郡の救援車「スエ30 48」、スエ30は17m級の初の鋼製客車の一族スニ30の改造が正規。
スニ30 73を1964年にスエ30 48に改造、そして1976年に廃車になったマニ36 303(元スロ60 3)と振替たのでした。
17mダブルルーフから20m切妻車体に「へんし~ん!」、当時の広島鉄道管理局の客貨車課長は誰だったのでしょうか。
 77年5月3日 初めて写真を撮りに行った車両基地は小郡機関区でした(DD11が撮りたかったので)、新幹線の高架もまだ新しい。
9月3日



 県北の大都会(そんな事を言っていた三次出身のローカルタレントがいましたね)三次あたりの写真が
当コーナーによく出てきますが、三次には82年11月から84年3月までしか居ませんでした。それも前任の
事務係が「共済貯金」を使い込みして退職した後を受けて・・・。でもテレビが民放4局入るので(山口は
当時2局)喜んで三次に転勤しました、TSSで「スペースコブラ」が見られる!(寒冷地手当も出る)。
 それはさておき当時三次運転区には救援車として「オエ70 38」が在籍していました、木造電車モハ10系の
鋼体化クハ65(後のクハ16 400 KATOが今回発売した鶴見線のクハ)が空襲で戦災、日国で1948年に
戦災復旧客車に改造されオハ70 69。1950年にスニ73 21荷物車に改造、1964年にオエ70 38救援車に
改造され三次に。
 写真は83年12月30日にいつもは運転区の隅に留置されているのが「撮ってください」な場所に鎮座してた
ので撮ったもの。いままでのこの客車の経歴からこの写真を見てなんかおかしくない?
17m級国電を改造したのにどう見ても20m級、というかマニ60じゃん、一部窓を埋めているのでマニ60改造
のオエ61じゃないかおまえは!戦災復旧客車の70台を名乗って実態は鋼体化客車。
 全検で幡生工場に入場したら状態が悪く修理費用が多く掛かりそう、どうしたらと悩んだとき偶然隣に廃車
になる厚狭配置のオエ61 207が、こっちの方が状態が良いのでオエ61をオエ70に改名・すり替え、本来の
オエ70は破棄したのではないでしょうか。厚狭のオエかどうか確証はないのですがマニ60かオエ61のどちらか
は確かです。
 全検から三次に戻った時、運転区の人はオエを見てどう思ったのでしょうか、しかしおおらかな時代でした。
6月28日


 パソコンが勝手にウインドウズ10にされてしまいました、ホームページビルダーには影響がなく一安心。
カトーからもトラ90000、カゴがどこまで繊細にできますことやら、配置が「新」「盛」では・・・やはり近場で
写真は芸備線東城駅のトラ90000。83年4月18日。当時は塩町より奥は岡山鉄道管理局、貨車も「岡」
トラ92503他、4段カゴに見えます。新見に出て伯耆大山の製紙工場に向かうのでしょう、今じゃ信じられない
事ですが。
 森林を手入れして、伐採した間伐材はチップにして利用、現在では山を手入れしないので木はうっそうと生え
山は荒れ、線路に落葉が積り車輪は空転、人里に鹿や猪や熊が現れる事になるのでしょう。昨年秋ウン十年
ぶりにこのあたりを乗車しましたが、線路は森の中、線路端を見るといたる所に「電気柵」だらけ、山の手入れ
をしないとこうなるのでしょう。6月4日


 カトーの新製品予告に781系、711系に続き北海道、それも国鉄時代。
縁もゆかりもない電車ですが下松には縁が。汽車製造と日立製作所が北海道用の電車を作り始め711系、
485系1500番台(これは失敗・汽車は川重に合併され川重が後を継ぐ)、決定版の特急電車781系も二社
で製造。下松から日本海縦貫線を通り津軽海峡を渡り北海道に、現在も船ですがH5系も下松から函館に。
 写真は781系量産車の甲種車両輸送の時、局報を見てすぐに年休!
今と違いギャラリーは私一人、「中見るか?」と言われ車内で撮った一枚。(いまじゃ到底無理です)クハ780-5 
札サウ 9852レ下松にて 80年6月1日 シートにカバーが掛けられて通路には部品が。
 EF6636がトラ145000 1両と781系+ヨを牽引している写真は「鉄道ファン」80年9月号に掲載されています。
あさっての月曜日は819系の甲種があるそうで下松駅は多くのギャラリーが集まるのでしょうね。4月9日



 「音戸」、広島の人は「安芸」でしょうが山口県は「音戸」、だって時間帯が良いので。新幹線開業直前で下りが広島着が
5時26分で早すぎて寝られん、しかし徳山は7時47分なので利用しやすい。
 1回だけ乗った事があります、それもカトーが発売する頃の編成、おまけに往復で。
1965年に母の兄の結婚式が東京であり父と一緒に東京まで(なぜ母は行かないの?)新大阪から先は開業間もない超特急
「ひかり」号!。5歳児なのでタダ、一緒に行ったのはこれが理由でしょう。光のおいしいお魚をクーラーボックスに入れ、
連れてもらえないで泣き叫ぶ妹を後に光?下松?駅に向かい列車を待っていると蒸気機関車が、あとで調べると山陽本線
全線電化後も「音戸」の下関~広島間はC62が牽引してたそうで私の記憶は間違っていなかった。客車も後に乗った10系に
比べて古臭くこれも「スハネ30」。あの狭い寝台に親子が寝たとは後の父の腹の出た姿からは想像できません。
 翌日は超特急「ひかり」号、8mmに映像が残っていたような、車内で食べたアイスクリームのおいしかった事。東京では東京
タワー、東京モノレール(宇宙人ピピのオープニング♪ピッピッピピピ)などに行った記憶が、はじめて銭湯にも行った。
帰りもやっぱり「音戸」で、その後の寝台体験は小学高学年の「金星」までなかった。  
 写真は末期の「音戸」ですが愛称板を撮っていない74年11月24日、宇部にて9時2分、現在6時発の「みずほ」に乗車して乗り継げ
ば厚狭には8時30分!、SGの湯気がいいですね。2月13日

 

 TOMIX 1/80の製品化予定にクモニ83が、長生きはするもんですね、こんな車両がプラで発売になるとは。
0番台で1個パンタ車は広島に1両006の配置がありました。(他はなぜか800番で801.802.809.810)
 写真はその006番77年11月13日小郡駅にて「あ!後ろにクモニが!」あわてて写真を撮った一枚、80系と駅うどん
が懐かしい。クモニは800番をKSのキットから制作して80系にぶら下げています、トミーが出ればT車をぶら下げなければ。
1月19日


 長い模型屋人生で一度にこれだけの数の蒸気機関車を仕入たのは初めての事でしょう。



 スユニ50、芸備線で運用されていましたが写真がない、広島駅の9番ホームに停車するので写真が撮れない、
三次に1年5ヶ月居たのに写真を撮っていません、写真は大阪駅にて80年4月30日 スユニ502015 大ミハ 734レ
 三次時代のスユニの思い出は「事業用」便、ファックス(模写電信はあった、知ってる?!)もメールもない時代、
広島保線区と三次保線支区の書状のやり取りや局報(今の支社報・運転報)「広鉄だより」「つばめ」「交通新聞」
そして給料袋!は「事業用便」として一般小荷物と一緒に(布団とこたつは小荷物で送った)スユニやキユニで運ばれました、
三次からも本区への報告物や出務表などの事務帳票を広島に送っていました。夕方到着する備後落合行きに
スユニが連結されており事務係の私はこれを受取に三次駅の小荷物に行くのが日課でした。
それでも間に合わない急ぎの物があると「藤原君、朝の急行で持って行って」と言われる事がたびたびありました。
12月12日


 東京のM模型から「あの機関車の屋根上の写真はないですか?」と電話があり写真を探していると別の写真が。
鉄コレ22弾の、岡山臨港鉄道キハ5001の保存車の写真、1996年夏。
 西条で貨物列車を撮影し車で行ったのでそのまま勢いで岡山へ「岡山模型に行こう!」の途中「そういえば岡山臨港
の気動車がどこかに保存されていた」と同乗の友人が、出始めた頃の携帯で岡山模型の主人に場所を聞いて旭川沿い
を北上、専門学校の庭にありました。
 元江若鉄道のキニ12、日車製の大型ガソリンカー、戦後ディーゼルエンジン化(マイターピースからキット発売予定)、
後にHゴム化(すごい顔)、江若廃止後岡山臨港に。
1984年の廃止まで活躍し最後はこの地に保存、後に解体されたそうです。
 正面にお猿さんのヘッドマーク、来年の年賀状に使おう。11月15日



 カトーから発売予定のの飯田線シリーズ、クモハユニ64。まだぶどう色の頃、豊橋にて81年2月14日644M。
隣はお馴染みのクハ86305 637M。元岡山運転所所属で赤穂線などで活躍し同区の115系化で飯田線に転属、
「流電」との競演はなかったはずです、正面運転台側がまだ木枠です、このあとの全検でスカ色になりHゴムに
なりました。こだわらなければassyで1両分を揃えふどう色にするのはいかがですか。



 宇部・小野田線旧型国電の末期に撮影に足しげく通いましたが、それと一緒に撮ってしまうのが「ピストン」。
美祢~宇部港間の石灰石専用列車、厚東川河口を行く。、来夏天賞堂から発売されますセキ6000「広」「西」の販促。1両だけ全検上が
りでピカピカ、ウエザリング!
 81年3月15日 際波~岩鼻DD51 850厚 5767ㇾ。1972年で1日33往復!(大幅削減まで33往復が続く、線路容量からこれが限度だったのでは)
30t×22両編成×33=21,780tすごい輸送量です、当時の貨物扱いトン数に宇部港は1位だった気がします。厚狭~宇部間が3線になり、際波・鴨ノ庄・
松ヶ瀬信号所が設置されたのもわかります。
保線からするとバラストに石灰石の粉が降り固着してバラストのクッションとしての役割がなくなって乗り心地が悪くなり保守に苦労したそうです。
代わりにマクラ木はPC。
 旧型国電やピンク電車(421系)美祢線からの気動車、一般貨物、それにこの「ピストン」このあたりは列車のバラエティが多く楽しかった所です。
10月11日



 カトーから発売される「クモハ12050鶴見線」をなんとか広島県民に売るには?
この写真で洗脳しなければ、お客様から貴重な写真を提供していただきました。
76年3月24日 左可部、右横川、車両はクモハ12055 鶴見線の仲間です、
違うところは①車体のリベットがほぼ無くなっている(縦方向のリベットが無くなっている)
②ジャンパ栓の位置が鶴見線は左③貫通側の前面の箱サボ入れが無くなっている
④連結器が自連!その関連でエアーホースがぶらさがっている。
 深く考えないで正面黄色に塗ったら可部線もどきができますよ。


 カトーから発売のタム500、実車は2000年に最後の2920と2932が廃車になり、
写真の2920は三重県にある鉄道貨物博物館に展示しています。
 新潟の沼垂駅常備ですが最後は岩国駅常備で岩国~八代間でガソリンでなく
亜硫酸パルプ廃液を運んでいたらしい。写真は96年頃岩国駅にて。
 トミーの香港貨車のタム6000はタム500みたいだけれど6000は「味タム」
の5000の続番でフリー、現在のタム500も500タイプなのでカトーの500は初めて正確な
タム500になる事を期待しましょう。
3月12日


 柳井駅構内に留置のチキ3197 古典的なTR20装備の戦前製長物車。
材木でもレールでもなく積むのは入替動車、右にちょこっと見えます。
下関駅常備で下関機械区の入替動車輸送専用チキです、床面にレール
が敷いてあります。柳井駅の入替動車の検査時、代車を乗せてやって来て
替わりに検査車両を下関に持って行く(車両限界に当たるのでキャブははずす)
、広島機械区にもありました、広島駅構内に機械区の検査線がありました。
チキの左側にウインチらしき物がありレールがスロープ状になって入替動車を
積み下ろしでいたのでしょうがそこは私は見ていません。せめて床面のレール
の写真を撮っておけば・・・
 ワールド工芸からNで走行可能な入替動車がプラで発売されたので、トミーの
チキ7000と組み合わせて再現してみてはいかがでしょうか。
79年8月29日


 
 カトーの品番8004と言えばワキ10000、最近までNは丸屋根しか製品がありませんでした。
問題はこの貨車の使用方法、コキ10000の列車の前に連結するのが正しく、一般の貨物列車にポツンと連結するのはダメです。
しかし例外がありこの写真のように一般貨物に連結された例があります。それも列車番号が569ㇾ!なぜ!をつける訳は65㌔制限の
解結貨物列車だからです、貨物列車の序列で最下位。線路工手時代(596ㇾは柳井を10時代、いつも時変で変596ㇾ)「なんでこんな
列車にワキ10000がつながっているの?と思っていました」。謎は吉岡心平氏のワキ10000の解説で解明。
 汐留~東広島間の高速貨物53ㇾはワキ10000とコキ・コキフ10000の編成ですが、一部5両は普通貨物列車に継走されて防府、東
小倉、博多港に向かいます、東広島止まりのワキも汐留に送る貨物がないので(広島には鉄道を使用する産業がない)一般貨物に
つないで宇部・新南陽・大竹などに送られました。コキも上りの始発駅下関まで一般貨物で送られました。
各地でプラスチック原料などを積載し写真のように一般貨物につながれ東広島に向かいました。結論、博多港から東広島間であれば
ワキ10000は一般貨物に連結してもよろしい、ただし空気バネの容量などで1両ポツンとつなげるのが現実的、貨物列車の編成にこだ
わる人がどこまでおられるか?
 下関を出発した52ㇾは長府・宇部・防府・大竹でコキ10000を連結し東広島で先着していたワキ10000を5両つなぎ汐留に向かいます。
52ㇾと53ㇾの編成が違うのはこのためです。10000系高速貨車は計画では専用列車で110㌔を目指していたそうですが貨物量の関係で
一般貨物列車に併結する場合もあるとの事で100㌔になったと吉岡心平氏は書かれています。



 カトーから50系客車が発売されます(でも2000番台)。トップナンバーが配置されていたのは広鉄局です。
あの頃は新車が多かった。
 写真は78年1月29日の徳山駅にて、オハフ50 21 広ヒロ 77年11月11日富士重製。鉄道ジャーナル誌
(そういえばレールウェイ・ライターの種村直樹氏が亡くなられましたね、ジャーナルと言えばこの人)に広島地区に
配置される50系の記事で見たのがなぜか徳山に、鉄道用語で言うところの「疎開」でしょう。疎開なんて鉄道
以外では死語でしょう。新車投入の際、車両基地に留置するスペースがない時各地に暫定的に留置すること、
逆に廃車の時も。
国鉄時代は側線に余裕があって各地に留置されていました。八本松、広、宮島口(海側の側線)、岩国(岩徳線寄
の引上線)、柳井(おかげでいろんな写真が撮れた)、小郡、本由良(115系2000番台を始めて見た)、厚狭、小野田など。
広島運転所の14系座席車など構内に余裕がない時は藤生駅の中線まで回送留置していました。
 そして現在、側線のある駅はほとんどない状態で来年3月までに第1弾として43両投入のの227系はどこに留置しておくの
でしょうか?いまの広島運転所は昼間車両でいっぱい、矢賀があったらよかったのに。話が戻ってオハフ50が留置
されている線は、徳山駅橋上駅舎工事のため一時的に撤去されて現在復元作業中、いずれ227系は徳山駅に疎開
留置されるのでしょうか?
 



 トミー鉄コレ第20弾の販促写真「クモハ123だけでない、このあたりを走った電車」)
クモル145+クル144 南シナ 80年3月27日 徳山にて 回6432M クモル145-10+クル144-10+クモル145-9+クル144-9
の4両編成、正面からでは代わり映えしないので、運転室後ろからの姿、後ろに写っている「テルファー」が懐かしい。
 写真コーナーのどこかにある柳井駅留置の101系の改造後の姿、101系の台車などに日立笠戸で製造した構体と1M用
の電機品を合わせ幡生工場で生まれた車両、その落成車を品川に回送する姿を撮ったもの。
 この車両が鉄コレで発売されるとは、そしてこれ専用の動力ユニットが発売されるとは。
 クモルと言えば「ロングおじさん」こと吉村光夫氏の鉄道ジャーナルの列車追跡記事の印象があります。
8月14日




 江戸の皆様の好きな車両を発売するカトー、広島で売れそうな商品がない!困ったものです。
「広島ではスカ色の電車は売れない」とジンクスがあります、飯田線がその最たるもの。
一応販促活動、クモニ83 102+クモニ13。82年4月29日 豊橋駅にて 1222M
魅力的な電車と思うのですが、広島の方はディーゼルカーがお好きなようで。
7月14日



 今月のレイルマガジン誌にも掲載されていましたが「山を降りた山男」EF62。
86年9月15日 広島駅7番線にて、あと2ヶ月もしない内に荷物列車が廃止となり、EF62も失業してしまう末期の姿。
84年3月から86年11月までの2年半の短期間、東海道・山陽本線を荷物列車を牽引していました。高速性能に劣る
EF62が最高速度95キロの荷物列車を牽引するのは大変だったようですが、蒸気暖房(SG)の操作がないので機関
助手や駅の給水の人員削減になったのは確かです。EF70をチョッパ制御の直流機に改造してEF58の後継に使用
と計画されたそうですが、時すでに遅し。宅配便の急激な発展で荷物列車も廃止が決まり、最後までのショートリリーフ
として使用されたEF62。上野駅で聞いた独特のブロワー音、3軸台車のジョイント音がまさか身近で聞けるとは、呉線
沿線の駅で交換待ちのEF62ノブロワー音がうるさく苦情が出たそうです。
 今週末にはトミーから1/80のEF62が発売になります、宣伝・宣伝。
6月22日



 10系寝台改造例、広島・山口に馴染み深い「ナヤ11」。東京人はナハフ11改の1・2番でしょうが西の果てはオロネ10改造の3番。
実物の説明は「店主の写真コーナー」のどこかにあります。
 改造は車体は窓埋め、手前4か所、反対側1か所、それほど苦になりません。反対側にルーバーを取付ます。
妻板ですが幌がないので幌を外すと窪みができるのでそこを埋めて平滑にします、手ブレーキハンドルの出っ張りを取付、
デッキに転落防止の柵を取り付けます。塗装時にデッキ内の色(薄茶色)に塗りましょう。
 床下は何もない、ブレーキシリンダーとエアータンクだけ。中央部の床板は切り抜き(骨は残す)エバーグリーンの波板で作り直します。
そこにエコーのパーツを取付ます。あとナヤらしい床下機器「コードリール」を作り取付ます。
 写真の後ろに写っているのは「ナヤ11」の形見、「日立」「昭和35年」(うちと同じ生まれ)と「幡生工場」「昭和51年」



 東京の模型ばかり発売されるので写真コーナーが久しくありませんでした、やっと、でも今回もやっぱり10系ネタ。
 10系ハネといえば天井に鎮座している冷房装置でしょう、デカイ!、そしてこの威圧感。冷房装置のなかで室外に出ているのは車両限界の
関係で245mm程度。おのずと室内側にはみだす事となります。上段寝台に寝ると目の前にドガーンとこの写真の物体が、直径800mm
厚さ?おまけに冷房装置から出る凝結水の配管が通路側に出ています(プラ製品は加工が楽なので穴を開けると良い)何がなんでも冷房化
したい一心の産物。。こんな大きな物を9個も取り付ければ床下の発電機と合わせてナハネがオハネになるのもわかります。
オハネフ12 45 米イモ 82年6月20日 826ㇾ 「山陰」車内にて。


                   広島にて                                            横川にて
 80年10月24日 広島駅で出発待ちの団体専用列車(回送)、前6両は普通の12系客車6連、手前はスロ62とスロフ62の2両。
1/80の10系客車セット、「オシ17は欲しいがスロ62はいらん」と思っているあなたに、こんな編成もあるのですよ。さてなんの
団体さんでしょうか?青1色のスロ62も良いものですな。
 答えは「sumo wrestlers train」そう「日本相撲協会」の団体臨時列車なのです。80年10月24日 臨回9201ㇾ EF58 81広+スロフ62 2021+
スロ62 2046天リウ+スハフ12 89他12系6両 大ミハの8両編成。局報を見てすぐに年休を申込み撮影に出かけましたが天気は雨、走行写真
は撮れませんでした。しかしお座敷のスロ81はともかくグリーン車のスロ62それよりもスロフ62が広島で見れたのもこれが最後だったかもしれません。
 右の写真を見ると下り列車なのにシートが上り向きにセットされているので山口県内で折り返してスモウレスラーを乗せたのでしょう。相撲取り
ばかり乗せ車高が低くなったスロを見たかったです。関取はグリーン車、それ以下は12系、どっちが良いの?いくらグリーン車の方が挌上ですが
台車はコイルバネ、ドアは手動。そんな鉄道ファン的な視点よりもスロのシートの幅は924mm相撲取り二人が入るのでしょうか?一人が二人分の席
なのか?12系のボックス席4人分を一人が使う方が広くて快適なのでは。
 いらんスロもこのような使い方があります、スモウレスラー人形が発売されると面白いのですが。
12月26日 



 カトーが始めた「飯田線シリーズ」、都会の人は田舎のローカル線でかつて都会で活躍していた車両たちが自然豊かなローカル
線をのんびり走る姿にあこがれるのでしょうが、所詮広島は元々田舎なので飯田線に興味がないのでしょう。
 クモハ53は追加発注が不可だそうで、田舎は販促に仲間のEF10の写真を、今回発売のタイプ21号機。高2の夏に周遊券を持って
(青春18きっぷはまだ存在していない)東京を目指した途中に寄った豊橋機関区。77年8月9日



 8月から9月にかけての天賞堂の新製品ラッシュには参りました。EF66に始まり青大将客車、EF57、
カンタムEF58、EH10、そして意外に良く売れたのが「コキ5500」。お客様に60代が少ないのでチキ5500
は売れずコキ5500が売れました。但し箱が20m客車と同じでかさばる事!、3人のお客様は元箱のダンボール
でお持ち帰りになられました。完売間近でR10積載の2種しか残っていません。
 チキよりコキ、5個積より4個積のほうが私にはなじみ深いです。79年6月2日 徳山にてコキ25977、1694レ
85㌔の急行(後の直行)で20両編成を組んでしんがりにヨ5000や6000(後には8000も)をぶらさげた編成も良い
ですが、写真のように普通貨物列車にポツンと1両だけ混じっているのが良い、4個積で2個か3個積が。
 改造で4個積にするには緊締装置をトミーのコキ50000から持ってきて取付けてと妄想しますがどうしましょう。
コンテナは取り外す事はあきらめて固定したほうが良いのでは、そうそう台車はF化しないと(TR63台車の両抱き
ブレーキを片押しブレーキに改造、写真の台車がそれ)、ステップも大型化しなければ。
10月13日


 鉄コレ国鉄42系身延線2両セットAの販促。名物のクモハユニ44併結の4連。
81年2月12日 堅堀~入山瀬。グリーンマックスのキットで有名ですね。
9月15日



 153系さよならヘッドマーク付の写真、82年11月14日そう57・11ダイヤ改正の前日、東北上越特急がほとんど廃止になる
世紀のダイヤ改正ですが山陽西部も153系が引退する日でもありました。日曜日?だったので「もしやさよならヘッドマーク
でもついてるかな」と徳山駅に向かうと付いてましたヘッドマークが。3123Mクハ153-508、種別幕もちゃんと「快速」が。でも
ホームには同業者の姿はなく、今だったら大騒ぎでカメラとケータイの放列、徳山乗務員センターの社員が一同敬礼する
かな?
 私も11月に柳井から三次に転勤となり一つの時代が終わったのでした。
6月15日


 最近ご無沙汰ですみません、カトーの発表する新製品が首都圏中心ばかりで。「田舎の模型屋を殺す気か?首都圏ばかり
栄えていいんか!」ホビーショーでカトーの人に言いました、でも「所詮自分も東京からの輸入品を売って生計を立てているの
だから」と。
 写真は首都圏のおじさまには懐かしい181系「とき」、82年10月23日最後の力走の姿です、鶯谷にて。右に写る看板には「ビニ
ール〇」の文字が?ちなみに鶯谷にはミュージッホールはなかったそうです。
最末期の姿しか見られませんでしたが「文字ヘッドマーク<朱鷺>」食堂車組込の頃じっくり見たかったものです。まともな形式
写真も撮れなかった。
 Nは明後日カトーから発売されますが16番では「のぞみ工房(発売はYAMA模型)のレーザーカットのペーパーキット151系の
発売が期待されます。むずかしいボンネットがレーザー加工で簡単?に組めれば151をはじめ161,181系の一族が再現できます。
屋根上機器もカトーのキハ82のASSYやトミーの485系用の分売パーツが利用でき車体は軽量、モハシ改のモハなど珍車&
異端車もペーパーなら手軽に再現できそう、発売が期待されます。
でもこの辺はやっぱり「しおじ」なのかしら。
5月28日


 
 久しぶりに広電に乗るため広電広島駅に、分岐器を更換したようで継目をみでびっくり「ろっろっろくじゅっきろレール!!!
ひろでんにろくじっきろをつかうとは!!!」継目のボルトの数が6つあれば60キロレールの証拠、大同特殊鋼のマンガンクロ
ッシングにも60Kの刻印が。特注品でしょうが金額はいくら?折り返しの為すべての電車が通るダブルクロスポイント、その奥
のポイントは異形継目板で50Nレールに接続されています。60キロレールは新幹線や幹線しか使用しないもの、山陽本線も私
が保線にいた頃は50Nレールから60キロに更換していましたが最近は60キロに更換していないでしょう。山陽本線に乗ったら
反対側の線路の継目をよく見て下さい。
 車両は軽いけど通過回数が多く広電で一番重要な分岐器ですので大金をかけて60キロに更新したのでしょう。「ピッコロ」で
騒いでいますがこっちのほうが私は感動しました。
3月3日
 後日見るとすべての分岐器が60キロに更換されていました。



 今日の朝刊の経済面を見てびっくり、元国鉄副技師長の星晃氏が亡くなられたと、12月8日93才。
湘南電車80系、スハ43系、10系、151系、153系、155系、157系、581系、0系などの設計に関わられ。
私が模型に残すのはみんなこの方が関わった車両ばかり、ご冥福をお祈りします。
 大往生でしょうが本人は出身地の富山まで北陸新幹線が開通したら乗りたいをおっしゃっていたそ
うで残念でしょう。一度私は左の写真の表紙を書かれた黒岩保美氏の写真展のイベントの星氏の講演
を聞いた事があります。氏の著書回想の旅客車、電車のアルバムは模型制作にも役に立つ書籍です、
合掌。
 


 KATOからEF30が発売すると発表がありました、本州の西の果て幡生を過ぎるとすれ違う貨物列車の
先頭の機関車の独特のモーター音、EF30です。高架駅の下関駅、駅うどん、ブルトレの機関車交換、交
直流電車の切替試験のABBのパシューと言う音、下にヤード海沿いにある林兼産業のくじらの看板、そし
て関門トンネル、抜けると交直転換、室内灯が消え点いたら門司に到着、ビール工場の甘い匂い。
 写真は79年3月22日門司駅にて関門トンネルに向かう自動車輸送専用列車(空車回送)5850?EF302+?
の重連。旅客は単機、貨物は重連、回送で三重連や四重連がありました。12月10日



 古い話ですがホビーショーに行くまでの写真、岡山から「サンライズ瀬戸」の「ソロ」の狭い一夜の空間。
どうせ寝る時間が短いので狭くても十分、FMラジオが聞けないぐらいです。サンライズも98年の登場
からもうすぐ15年、車内はそうくたびれていませんがそろそろリニューアルなどの動きがあってもおか
しくないのでは。乗車率もそんなに良くないようで(3連休の最後の日でしたが空室が結構ありました)
JR東海の一言で廃止にならないように祈っています。
 寝台券を広島駅で購入したのですが窓口氏は「虎の巻」を使わないと発券できないのを見ると広島
からわざわざサンライズに乗る人は少ないのを実感しました。



 シャワー室でオフロ、いままでは岡山駅発車後でしたが今回は早朝の朝風呂になってしまいました。
ジジィになってしまった。もし今地震が起きて停電になったら泡だらけの姿でどうすればいいんだろうと
心配すると安心してゆっくり使用できず「カラスの行水」状態になってしまいます。それでもすっきりして
眠気も消えてしまいました、壁の下が湿気で腐食ぎみかな。


 東京駅に着いたらすぐに上野に、駅前のコインロッカーに問屋への貢物と不良品を入れ地下鉄で浅草に。
浅草橋はよく行くのですが浅草は初めて、このビルの中から電車が発着するとは。


 駅の端は急曲線、模型のようにホームから離れます。車両が曲線部を通るときは、車両の両端部は曲線
外方に、中央部は曲線の内方に片寄る。これを「車両の偏い」という。曲線部において、建造物と車両のすき
間を直線と同じにするためには、偏い量だけ建築限界の幅を拡げなければならない。軌道中心線の両側に
拡大すべき寸法W(mm)は半径R分の22,500。と保線の教科書に書いてあるのでここはR100らしいので編いは
225mmとなるのでは。R100は国鉄の最小曲線、すごい駅ですね。


 8時発の「スペーシアきぬがわ」に乗っていざ〇〇へ、ちらりと見えるスカイツリーよりカーブポイントの連続
のほうに目が行く私。昔柳井や大畠の上り方に多数あったカーブポイント(正式名称は内方分岐器、外方分
岐器)の部分更換作業、下準備で基本レールやリードレールをレールベンダーという油圧でレールを曲げる
機械を使ってレールを曲げるのですが曲がったレールは安定が悪く転倒しないように慎重に作業したものです。
交換作業も安定が悪くけがをしないように慎重に行ったものです。この駅の分岐器の検査、保守は大変でしょう
ね。



 絶対に中国地方の人が行くことのない「春日部」。歌姫太田裕美の育った地、「かすかべ防衛隊」コウモリの
マークの「サトーココノカドー」「ふたば幼稚園」など有名?ですが春日部市の武里にあった「武里ホビー」が発売
したDF90のキットを思い出します。持ってます、あと塗装のみですが。


 スペーシアの座席、足置きはありますがテーブルがありません。左に少し見えるテーブルをイスの前に
置いて使うようです。スペーシアも1990年のデビューから22年、塗装は変更されましたが内装は多少古び
た感じ、でも前任のDRCも長い間使用したのでこの車両も長く使うでしょう。それはそうと車内販売がこない
浅草駅で買ってないので朝飯はどうする。



 新栃木を過ぎてやっと車販が来てサンドイッチはかったのですが終着の鬼怒川温泉はすぐ。ここの乗継時間
は2分!この写真を撮ったらすぐにAIZUマウントエクスプレス号に乗車。



 藤原模型店なのでこの駅は押さえないと。


 
 山の中の駅でGMのキットで発売している東武6050系と交換。



 山奥深く、トンネルと橋梁の連続、そして会津地方に進みます。野岩鉄道から会津鉄道に、下野と岩代を結ぶ
ので野岩鉄道、鉄道の駅に会津〇〇とあっても会津は旧国名でなく会津地方、周防花岡の周防は旧国名。
岩代〇〇と名の付いた駅はないですね、そういえば群馬県も上野ですが駅名は群馬〇〇ですね上野〇〇だと
上野駅と間違えるからか?。東武には野州〇〇と言う駅名があります。



 会津地方を始め雪深い東北地方の家の屋根に瓦ぶきの屋根をほとんど見かけませんでした。
みんな写真のようにトタン屋根、中国地方の雪の多い所は「石州瓦」所変われば屋根も変わる。


 
 廃車になったキハ30改造のトロッコ車両AT301



 乗車したAT650、転換クロスシートでトイレ付、快適な車内ですが車販はなく早くビールが飲みたいよ!
2005年新潟トランシス製、錦川鉄道のNT3000とよく似ていますが最高速度は100㎞。
 新潟トランシスは元の新潟鐡工所、昔アストラムラインの新車搬入の際「ちゅーぴー新聞」の記事で
「新潟の鉄工所」から運ばれた車両と書いてありたまげた事があります、「新潟鐡工所」と「新潟の鉄工所」
では天と地の違いがあります。街の鉄工所で出来たアストラムラインの車両になってしまう。



 鬼怒川温泉から2時間弱で会津若松に到着、ボヤッキー氏と笹川ひろし氏そして会津若松のお花ちゃんの
出身地として有名ですが山口の人間にとっては・・・。以前家族の者がここに行って「どこからこられたか」と聞か
かれて「山口」と言うと相手の顔色が・・・すぐに「山口でも周防の方と」言ってその場をしのいだ事があります。
「長門」より「周防」は知名度がなくて便利。乗り換え時間が2分しかなくすぐに列車に乗り込みました。



 719系のドクロベーでなく「あかべぇ」の乗って郡山へ。ほんとうは只見線に乗りたかったのですが。



 ♪会津磐梯山はたからーのやまーで有名な会津磐梯山、大華山と烏帽子ヶ岳ぐらいしか知らない物にとって
大きく雄大な山ですね。会津と言えば小原庄助さん、ゼンダマンの最終回で命のもとはここ会津にあって、ニャラ
ボルタが重要な役だったような。ボャッキー氏は同じ会津生まれの笹川ひろし氏がモデルと思われますが顔の
モデルは当事竜の子プロの演出家でのちに独立し「スタジオぴえろ(うる星やつらを制作)で現在のぴえろ(NARU
TOの制作で有名)の社長の布川ゆうじ氏がモデルと言われいます。鼻がよく似ている。笹川氏は「ささやきリポーター」
そんな事を思いだしながら列車は東に。



 その筋の方にとって聖地への入口「川桁」、沼尻鉄道の始発駅。会津磐梯山の恵み天然硫黄を運ぶ
軽便鉄道。石碑の車両は個人的には蒸気よりDC12の方が似合うような、乗ってみたかったな。



 719系「あかべぇ」郡山駅に到着、20分程の乗り換え時分がありやっと駅弁とビールが買えた。


 
 チャーンチャララチャーンチャラ~のバロック音楽の出来損ないのジングルと堺正幸 元アナウンサーと
フランス語風の英語の女性アナウンスを聞くとJR東日本の新幹線に乗ったと実感します。
このジングルは音階が途中で急激に変化するのが特徴ですが、数年前の音楽番組で偉大な作曲家の
息子の作曲家が同じ事を言っていました。「ミスタッチ」?結論は変化させて寝ている人を起す為の変化
ではないかと。
それに引き替え西日本の「いい日旅立ち」は暗い、そのまま寝てしまいそう。曲は名曲ですがジングル
に用いるのはどうかと思います。西日本の社歌の作曲は元アリスの堀内孝雄、いい日は同じく谷村新司、
アリス好きなのね西日本は。北陸新幹線が全通したら東と西でどんなジングルになるのでしょうかと思い
ながらやっとビールと駅弁を食べながら初めて板谷峠を越えていくのでした。写真は「つばさ」の車内。



 15時41分つばさ137号は新庄に到着、つばさ延長の時に小奇麗な駅になったのでしょう。



 新庄から先は狭軌区間、ロングシートの701系の旅。この電車と105系とっちが好きですか?
加速はすごくすぐに95㌔になります。キハ181がもがき苦しんだ及位~院内の急勾配もすいすい。



 やっと最終目的地大曲に到着、これから先の奥羽本線は乗車した事があるのでこれで完乗。
ほんとうは春日部と大曲を結ぶ旅、わかる人にはわかる組み合わせ。



 駅前では秋田美人がお出迎え。




 クモユニ74が発売されたら次はクモニ83かクモヤ90かと思っていましたがやはりクモヤ90が発売予定になり
ました。1M旧型国電の下回りが流用できていろいろな車種が発売されそうですね。
 写真は84年1月28日岩国にて 回9530M クモヤ90054+クモヤ90105 広ヒロ 廃車予定の111系モハユニットを
はさんで岩国に疎開留置したあとの姿と思います。ほかにもクモヤ+クハ、クモヤ+モハ+モハ+クハなどいろいろな
編成が楽しめます。
11月9日


 
 やっとおじさんの喜ぶ形式が発売されるようで、TOMIXのワム50000、板張りの原形と耐水ベニヤに交換された
2種。写真は交換後の姿、77年11月13日 小郡にて。左右のワム80000にくらべて古めかしいのは確か。昭和15年
から製造された「戦時設計」に近いなるべく鉄の量を少なくしようとした貨車です。77年で残存279両、多くは事業用
車に使用されていたはずで営業用を写真に撮ったのはこれが最後でした。
 当時のTMS誌にあの吉岡心平氏が中村精密のプラ貨車の加工例を発表しておりベニヤ化された姿を改造してい
ました。10月6日



 蒸し暑い時にネガを探すのがおっくうで4ヶ月ぶりとなりました、写真のネタがなくなりつつあるのも原因ですが。
鉄コレ105系が発売されました、入荷して仕分けるのが大変!4扉可部線、幌もなく良い出来ですがクハ105の顔
に少し違和感が。前面補強がない、上の写真は84年10月14日の広島車両所公開時のクハ105の改造風景。前面
に鉄板を張ってパテで仕上げています、けっこう目立つのでNゲージでも塗装の塗膜ぐらいで表現すると良いので
はないでしょうか。踏切の少ない都会から踏切だらけの可部線に転属なので補強なし前面では運転士も怖いでしょ
う。これから2年後まさかこの運転台に乗って仕事をするとは思いませんでした。
9月2日


 鉄コレから105系、当初の発表の3扉福塩線から4扉可部線に変更になりこりゃ売れるぞ。販促に写真写真4枚合成。
朱色も懐かしいけど奈良線色も置き換え直後は走っていました、そして今も!。クハ105-100は「シャコタン」と車掌は言っていました、
可部乗務は「電車ごっこ」。103系そのままのようですが正面に鉄板を巻いて前面補強しています、踏切が怖い。
 そのままでも良し、「ゆぅパック」色にするも良し、冷房改造(WAU202.WAU102両方近日再入荷)するも良し、スカート取付も
良し、黄色も・・・これはまだですね。
 蛇足ですが105系置換時点で73系の平均車齢は33.95年(クモハ36.4、クハ31.5)、現在の105系は36.46年(3ドア32、4ドア42.4)
計算するんじゃなかった。写真は84年8月、広島 横川 可部にて
4月24日



 私が思うに糸崎から先の尾道、福山はどうも広島県でないような気がします。国鉄も今のJRにしても岡山鉄道管理局や岡山支社なのだからでしょうか?旧国名にしても「備後」だし。
 1975年3月で終わった山陽本線栄光の歴史ですが備後地区では80年秋までグリーン車付の快速が走っていたのです。こちらも153系の快速はあったけれどモノクラスの6連。あっちは8+4の12連。
 原因は急行「鷲羽」の間合使用の快速。宮原所属のクハ+モハ+モハ+サロ+サハ+モハ+モハ+クハ+クハ+モハ+モハ+クハの6М6Тの12連、「セノハチ」は無理なので三原まで。大阪~名古屋ヨ~大阪~名古屋~大阪(ここまで急行比叡、8連)(これから12連急行鷲羽)~ヨ宇野(ここから快速)~岡山~三原~岡山~三原~岡山~三原~岡山~宇野ヨ(鷲羽)~大阪の運用でした。「ヨ」は日付が変わるの意味。
 中間のサハは117系投入の時からクハになったようです、写真は80年7月20日岡山にて、サロ165‐68 3446M 最末期の姿。隣のモハのトイレの下に汚物処理装置があるのが宮原区の証、両抱き制輪子のDT24でスペースがないので通常より小振りのタンクが特徴。
 秋の改正で「鷲羽」が廃止となり「比叡」も大垣持ちとなって1961年10月から運行開始の「びんご」から始まる宮原持ちの153系は消えたのでした。
だからといって備後のお客様が「サハはいくつ入れる?」と言われて「予約がなければ3つ」と答えると「え」と言われてもこの系統の列車をどこまで「安芸」の人が知っているでしょうか。やはりサハシ付の編成か。
2月11日



 年末からパソコンの調子がおかしく(冷却ファンの異音)ついに新しいパソコンになりました、会計ソフトが消えると大変なので。
何と!今まではウインドウズMeでダイヤルアップ接続だったのです。2000年に購入して今まで作動したのだから「VAIO」には感謝です。
一気にウインドウズ7にバージョンアップしてエクセル(97)などのソフトも互換性がなくこのホームページの移行も心配されました。バックアップを取ろうとしていたらホームページそのものが消えてしまいあせってしまいました。徳島の会社はえらい!7年前のバージョンと互換性がありネット上の藤原模型店のデータを取り込んで復旧できるとは。スキャナーも新しくなってようやく写真の掲載もできるようになりました。
 今まで何回も利用したグリーン車はサロ581とこのサロ163。当時の国鉄職員は寝台は定価ですがグリーン車は半額、若かったので「金星」の寝台でなくガラガラのグリーン車をよく利用しました。163は「大垣夜行」、東京に4時40分と早いのですが浦和あたりで東北線の夜行を撮影するにはとても便利でよく利用していました。
 サロ165とそっくりで、床下のブレーキ制御装置のカバーがない程度の違いだったような。しかし最近のカトーは首都圏中心の商品が多いですね。
サロ163‐2 名カキ 303M「東海」 81年12月14日 東京駅にて 2月3日



 1995年に発売されたKATOの16番のキハ58系、16年後にやっと部品を取り付けています。ここまで遅くなったのは、そのままでなく加工したかったから。
 クーラーの取替(TOMIXのAU13に)、屋根の再塗装、前面手すりは金属製に、タブレットキャッチャー&保護棒の取付、座席塗装、台車塗装、床下塗装、動力モーターをキャノンコアレスモーターに交換などですが問題はキロ28。
 KATOのキロ28はいろんなタイプの寄せ集めの形態で、写真の車掌室の下にあるルーバーがある車両は屋根上のベンチレーターがないのが正しいのですが両方ついている。ルーバーを削れば車体全塗装となり7両全部塗らないと色が揃わない、ベンチレーターを削るのは簡単ですがこのタイプは(109~138番)九州には少ない(安芸門徒でないので「ちどり」でなく山口西部でもないので「あきよし」でなく目指すのは「出島」か「青島」)のでどうしましょう。結局当時大分に120番の配置があったので竹下区に貸したでごまかそう、となりベンチレーターを削りクーラーの横にある小さなマッシュルーム形のベンチレーターは釘を使い表現しました、クーラーは写真とは違い角形のAU13のほうがキロらしい。
 蛍光灯用のトランジスターインバーター用冷却用にベンチレーターが必要とは。休日はキハ40広島色ばかり塗ってなかなか工作が進みません、バラバラに分解したので中断できないので暇をみて工作の日々。
キロ28118 分オイ「由布」、80年9月21日 博多にて
12月18日



 82年3月某日発行の局報(現在の運転報)を見てびっくり、3月21日に広島に向けて団体臨時列車が多数運転される。21日は祝日だし、こりゃあセノハチでも行って撮影するかとダイヤをメモして現地に向かいました。
 どうせ客車は12系か14系と信じていたら、EF58の牽引する一般形客車の団臨!あせってこのような写真しか撮れませんでした(客車の所のネガの傷は勘弁して)。9215レEF58 150宮+オハフ332447米ヨナ+オハ462038米ヨナ+オハ35444米トリ+オハ35288米イモ+オハ35491米ハマ+オハフ33289米イモと見事な寄せ集め編成。山陰からの臨時で伯備線経由で夜行だったのでしょう。列車は広島から先は回送で南岩国で折り返し9210レで戻って行きました。
 この日8本程度の団臨が運転されたのですが、広島で何があったのか(平和がらみと思いますがなぜ8月6日でないの)昔のちゅーぴー新聞でも探して見てください。
 こんなに臨時列車が走ったのに翌月の鉄道雑誌には投稿記事が無かったのよね。
11月6日



 客車列車、それも普通列車。岩徳線では大変お世話になりました、東北や南九州でも乗車しましたが記憶にないのが山陽本線の客車列車、それも頭はEF58。昭和40年代の半ばまで早朝徳山発広島行の客車列車があったようなのですが乗った事がありません。山陽線に旧型客車が走る光景が見たい!
 この望みは廃車回送の時だけ、EF58牽引の客車10両。岩徳線の廃車回送82年3月10日 福川~戸田 回9547レ EF58 38広 ニコンFE トライX
と思っていたら11日後の3月21日にEF58の客車列車が見れるとは、82年3月21日、広島で一大イベントがあった事を覚えていますか?
10月24日 



 毎年恒例の幕張模型ショーついでの旅行。今年は東武~野岩~会津~只見~飯山~長野新幹線と考えていたのですが、夏の水害で只見線が普通になり計画の練り直しとなりました。
 結局店を閉めて広島~米原~金沢(泊)~越後湯沢~渋川~長野原草津口~草津~軽井沢~上田(泊)~東京のルートになりました。683系「しらさぎ」、数年後には消える北越急行、29年ぶりの上越国境越え(岩原スキー場など懐かしい)、185系と八ツ場ダム、日本一短いトンネルとありましたが今回の目玉は「くさかる」。
 お客様が36年前のしなのマイクロのDF50キットを持ってきて「これを塗装して走るようにしてくれんかね」で工作していると、「アングルの高さがおかしい?」。当時のTMSを探し(昔のは背表紙で中味がすぐわかる)製品の紹介の記事をみると「アングルの取り付け位置の説明が不明確」と指摘が。「コレに引っ掛かったのね」とアングル付け直しになったのですが、この号の特集はEF63と碓井峠と草軽電鉄。草軽交通のバスがこのルートで走っているので面影を求めてこよような行程となりました。
 こんな所走るの?みたいな急カーブ急勾配を走り「北軽井沢」に停車すると幻が(上の写真)ジェフリー製電気機関車のオブジェでした。後半専用道路を走ると元の線路沿いを走っているようで少しは面影が。白樺並木の中を走るロマンチックな光景、「味噌汁軽便でなく白樺軽便」ですな。
10月15日



 さようなら徳山5番ホーム、9月半ばに5番ホームへの階段が閉鎖されこのような写真は撮りなくなりました。橋上駅舎になるようで私の子供から青春時代の徳山駅が消えてしまう...。
写真は77年8月11日通過している24系25形「富士」(販促)時間は写っている時計の通り。
10月7日



 なつかしいなぁ~クモニ83、だだっ広い駅は光駅。75年8月15日
過去の写真コーナーのクモニ83は低屋根800番台でしたが今回はノーマルの0番台、車番は運用板通りなら83006 広ヒロ
下り80系の先頭に立つ姿や上り列車の後ろにぶらさがる姿、いいもんですね。Nゲージはクモニ143が久しぶりに発売されるので115系にぶらさげてそれっぽくするかGMのキットを組んでつないでください。私はクモニ83は完成したので残る80系14両製作計画を進めなければ。
9月10日



 C62 2号機と3号機、そして「ニセコ」客車セットとは。江戸では大売れなのでしょうが安芸の国ではどうだか「山陽形はどこにいった」、いつものようにプロパガンダ。
 さすがに若いのでC62ニセコはありませんのでED76 500の「ニセコ」。80年8月28日札幌にて102レ
 C62で有名なニセコも小樽までは電気機関車牽引、写真をみると普通列車みたい、よく見るとスロ62が4両目にありかろうじて急行です。郵便荷物を本州から北海道に送るついでに旅客車をつないだ列車。
 昔の札幌駅の暗い雰囲気が出ている写真ですな、新駅には行った事がない。


 写真の更新がなくてすみません、暑いよりも模型クラブの競作の締切が近く写真を探す暇がないのです。なにせ朝の5時半から起きてやっているほどなので、完全に尻に火が点いている状態!夜遅くまですると翌日に響き、最近は早くから目が覚めるし(ほとんど年寄りになりつつある)おまけに朝からセミの大合唱で強制的に起こされる。
 特急「つばめ」青大将9両編成、明日の定休日でなんとか完成させなければ。21日の運転会でお披露目できると期待してください。21日(日)は臨時休業します。
 写真は青大将の一族スハフ43、86年5月1日 高松にて 8月16日




 トミーの新製品予告で16番で155系!153系の床下機器と113系の台車が流用できるのとメーカーは考えたのか。色も目立つし最大16両編成が存在したので大量購入をする「団塊の世代」を狙ったのか知りませんが広島で売れるとは思いません。臨時で網干区の155系が来たのはお客様が持ってこられた写真にあったので100%関係ないとは言えないのですが、ここは167系ですよね。
 写真は関西地区に117系が入り状態の良い153系が大垣区に転属になりあぶれた155系が醒ヶ井駅で廃車待ちの姿。80年4月30日モハ154‐10 名カキ
 パンタグラフが新性能電車なのに黒色なのが大垣区の電車の特徴らしい。
7月19日

 顔がEF59に似てるので買ってください。KATOのED16、ホキ2500の予告はカタログにありましたがED16とは。
 広島近辺ではまったく縁のない機関車でしょう、まして実物を見た人はどれだけ。なぜか私は撮っています、鉄道ジャーナルの「東京の鉄道」に感化され東京に行き青梅線まで足を伸ばしたのでした。76年4月3日 御嶽にて
 写真以外では歌川模型とエコーモデルに行き「Uカッター」と「バシャーのガン」などを買いました。あれから35年、歌川模型は廃業しましたがエコーモデルの阿部さんとはホビーショーで一緒にお昼を御一緒するまでになりました。
 EF59に顔が似てるのでED16買って! 5月16日


 セキ6000やセラ1は炭鉱から港まで石炭を運ぶ貨車です。工場の燃料などに使用する石炭を運搬する時はトラなどの無蓋車で運びます。専用の取降ろし設備が無い為ですし「ロセキ」なので65㌔の貨物列車しか連結できません。蛇足ながら常磐炭(四ツ倉など)を首都圏に運搬したのは石炭車でなく無蓋車でした。
 模型でも山陽本線の貨物列車にセキをつなぐとエラーになりますが、この写真撮ったのはバックを見てわかるように「徳山」です。それも黒崎駅常備の石原町-黒崎専用のセキ、なんだったのですかね車票を見とけばよかったのに、北海道に転属ですかね。
列車は596レ 75㌔がほとんどの車扱い貨物列車の中で、幡生から東広島まで65㌔で走行する解結貨物で65㌔ならではの珍しい貨車がよくつながっていました。79年10月22日 プラスX
5月3日