現在の状況、ご報告


黒田 正典


  昨年から今年にかけて三学会からご招待いただき、卑見を述べさせていただきましたことは、感謝にたえない出来事でした。昨年は日本心理臨床学会(東北大学)、今年は日本カウンセング学会(東北大学)、日本人間性心理学会(追手門大学、茨木市)です。東北大学退官後20年、学界からこのような優遇に接して感無量でした。
  昭和22年10月、私は戦後最初の日本心理学会大会(第11回、東京大学会場)の原理部門の演壇に立ちました。ところが、それまで普通の教室の広さを一通り埋めていた聴衆はほとんど一斉に立ち去って、残るは5、6名になりました。私の発表題目は「人生論的心理学について」というものです。この発表の内容は、今日「ヒューマニスティック心理学」(人間性心理学、人間主義心理学)といわれるものとほとんど同じもので、その方法論を述べようとしていたものです。
  発表者と学会の手伝い学生を除き、ほかには聴衆5、6人を前にともかく発表はすませましたが、私は愕然としていました。
  今日でこそ、「人間学的」とか「人間主義的」とか題する論文・著者も一応の敬意をもって扱われるようですが、当時は「何をいってるんだ、ピント外れよ!」と思われたのです。その頃は自然科学的心理学、解りやすくいえば動物モデル心理学、物理・生理還元主義の心理学が唯一、認めうる学間・科学だったのです。デルタイ(1833−1911)やシプランガー(1882−1963)の了解心理学は暫くの間、忘れ去られ、むしろ否定されていたのです。…余談ですが、シプランガー教授は昭和14年に日独交換教授として来日・来仙され、私どもの心理学科も訪れました。千葉先生はさらに、私が作った毛筆の筆速・筆圧測定装置による実験を準傭している心理学工作室までシプランガー教授を案内し、“sehr fein(たいへん精密)”な装置であると解説してくださいました。学友消息のこの原稿を書くまで、このことをほとんど忘れていました。学友消息よ、ありがとう!
  さらに余談になりますが、卒業論文で筆跡・書の研究にとりかかるまでは、先述の人生論的心理学のための理論心理学・科学哲学を勉強していたのです。しかし「それでは卒業論文にはなりにくい。」と忠告してくれたのが、当時、心理学研究室の肋手をしていた薄田 司 大先輩でした。私は素直にそれに従って、書の研究をすることにして、そのための毛筆の圧力と速さの記録・測定装置の考案と制作に入りました。その狙いは、東洋の書は美的価値を担っていること、しかも一方では筆圧と筆速という物理的測定可能な要素をもっていることで、物理的測定をしながら書の美という価値を研究できる点にあったのです。この路線で私は終戦頃までは、筆跡心理の専門家として心理学界で首をつなぎ、社会的にも少し知られるようにもなりました。
  しかしながら筆跡研究は私の妥協的行動でした。まことの科学は、私にとっては人生の学問であり、少なくもそれへの通路が示されている科学だったのです。とうとう我慢がならなくなって、上述のような学界発表に挑戦したのです。
  しかしその結果は悲劇に終ったのです。私にとってはそれは事件であって、私はニーチェの論文の一つの題名をとって、「悲劇の誕生」と、心の中で名づけました。私は学問観の変革を求め、日本心理学会の原理部門で毎年、あまり反響のない発表を続けました。また私に対する共鳴者を探しながら、そして発表の題目や内容に上述の「妥協」をしながら、他のいろいろの学界に顔を出してきました。
  それは私をすっぽり包んでくれる学会、いわば私の「永住の地」を求めての学界の遍歴だったのです。しかし人間主義心理学会や日本人間性心理学会ができるまでは、かなり相性がいいと思いかけても、やはり永住の地ではないという感じになり、そこを去って行くという遍歴を重ねたのです。これは私の追求が昔は学者たちにも無理な設定だったためのようです。私の求める人生の学問に近い臨床心理学という用語は、私の学生時代からあり、ドイツ語の専門雑誌もありました。方法論という語も哲学辞典にも出ており、日本でも数少ない専門家として中村克己氏(昭和27年没、東京文理大学教授)がおられたのです。しかし私は臨床心理学と方法論の結合という、理解されにくい問題を設定したので、他の方にもなかなか解ってもらえませんでした。それが前述の「悲劇の誕生」となったのです。この時以来、私は学界では反主流の孤児として孤独と戦い統けました。
  もっとも仙台では同窓の友人、先輩、恩師たち、神戸の岡本重雄先生、長野の竹内硬教授と両先生の門下の皆さんの暖かい雰囲気がありました。それで、友人の家坂和之教授から「君はぜいたくだよ。理解者がそんなにいるではないか。」といわれたことがあります。しかし全国的な学会に出かけると、私が厳しい眼差しに包まれたことは事実です。私の顔の皮膚には北風が吹きつけ、生理的にもヒリヒリと痛いように感じました。そんな感じでしたが、ともかく学会遍歴を続け、学会出席の回数も多かったため、贈られた名誉会貝という称号の数は六つにもなりました。しかし他方では、私の遍歴は浮気にすぎぬかと感ずることもあります。ゲーテの「ファウスト」の最終に、「永遠の女性なるもの、我らを引きて行かしむ。」という言葉があります。また源氏物語の光源氏の心理もそうしたものかもしれないと思うこともあります。彼も永遠の女性を求めて得られず、永遠の遍歴者になったのでしょう。…もっとも私をファウストとか光源氏に比するのは、図々しいかもしれませんね。
  それはさておき、私に吹きつけた「北風」が徐々に「春風」に変ったのは、1960年代に欧米に人間主義心理学が台頭し、その情報がわが国に広く伝わった1970年ころからです。その春風は私の論文を読んだためでなく、欧米が変ったためらしいことは残念です。
  しかしここ数年来、私の論文も配慮されるようになったことは、感謝にたえないことです。今は私は恵まれた状況にあります。あの「悲劇の誕生」は昭和22年、1947年ですから、半世紀たって、こうなったのです。要するに、どんなに逆風に逆らっても、半世紀もやっていれば、なんとかなるものですね。
  …ここで擱筆とするのが余韻があって、文章としてはよいのでありますが、読者に不安や誤解を与えないためにもう一言つけ加えます。心理学者の人口分布としては、自然科学的心理学、わかりやすくは動物モデル心理学と、人間主義心理学、わかりやすくいえば人間モデル心理学とが、ほぼ等しいくらいがよいと思います。人間主義が独裁的勢力になると体験・主観に溺れて、学問としてはひ弱になる恐れがありましょう。つまり心理学界の体制全休としては、だいたい50%対50%がよいと考えています。昔、永丘智郎氏(故人、産業心理学)が、「黒田さん、案外、神がかりではないんですね。」といいましたが、私自身は最も中道主義者だという自己概念をもっております。
  私の現在の状況につししてもう一つ付け加えたいと思います。平成元年5月から財団法人福来心理学研究所の理事長を勤めております。一般心理学の世界では、私は上に述べましたように恵まれて気楽な状況になりましたが、超心理学の世界では緊張の生活が必要なようです。確かに、最近数年は福来先生に対する評価・取扱いは学界・社会を通して異端ではなく、新しい心理学の先駆者として遇するようになってきました。例えば佐藤達哉・溝口元「通史・日本の心理学」(北大路書房、1997)、吉村浩一編「特殊事例がひらく心の世界」(ナカニシヤ出版、1996)、雑誌「歴史読本」(新人物往来社、1997年6月号)等のほか、日本心理学会情報誌サイコロジストでも超心理学を考慮すべき話題として扱っております。
  このように学界・社会の空気は和らぎ始めてきましたが、しかし完全とはいえません。超心理学的諸研究は日本心理学会等の通例の学会では発表されず、日本超心理学会等、特殊の専門的学会のみで扱われるにとどまっています。超心理学的研究が、関係すべきものと考えられるならば、どんな学会でも発表でき、討論の対象になるような「民主的」な学問的環境を招来するためには、私はもう孤独ではありませんが、まだまだ気を抜くことはできないと感じています。そしてその主な努力目標としては二つ、超心理的現象の経験的・実験的事実の蓄積と、超心理学的研究の科学哲学の開拓が必要であると考えています。
  以上が現在、私の置かれている状況であります。

【注】 この文は、東北大学心理学研究室 「学友消息」No,53(1998)への寄稿原稿の内、最後の2節を加筆したものです。

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