「心霊と神秘世界」 第二編  第一章 透 視

  第二節 長尾夫人の透視

   第一 霊能の発現

  私の研究した二番目の神通力者は、丸亀市の長尾郁子夫人である。彼女は透視能力者としてよりも、念写実験の元祖として心霊研究史上に不朽の名を留むべき人である。併し、其方面の研究に関する記事は後に譲ることゝして、爰では彼女の透視能力丈を簡単に紹介しようと思ふ。
  夫人の透視能力は明治四十三年六月の頃から現はれ始めたのである。其頃、夫人は千鶴子嬢の霊能に関する新聞記事を読み、子供達を相手にして、面白半分に透視実験をやって見た所、図らずも精神統一して透視することが出来たのである。夫人はそれに興味を感じて、熱心に練習するに従って、透視能力は段々上達して来たのであった。併し其力量は全盛時代の千鶴子嬢に及ばなかったやうであるが、爰に学術的研究の立場から見て、千鶴子嬢に優る点が一つあった。それは夫人が吾人の方に顔を向け、実験物に手を触れずして透視したことである。前にも述べて置いた通り、千鶴子嬢は実験物を手に持ち、而も吾人に背を向けて統一するのだから、吾人は彼女の手許を見ることが出来なかった。それが為め、折角純真な千鶴子嬢の能力も多数学者によりて疑はれるのであった。然るに長尾夫人は吾人の方に向ひ、実験物に手を触れずして透視したのだから、其手続きに就きて一点の疑ひを容るゝ余地もなかった。この事は夫人の能力の純真を証明する為めに最も大切なる点である。

  第二 通信実験

  私は明治四十三年十月二十三日の東京朝日新聞の記事と、丸亀中学校教頭文学士菊地俊諦氏よりの通信とによりて、夫人の能力の非凡なることを知ったのである。そこで私は十月二十九日の夜、次の如き実験物を作った。

長方形の小さき厚紙に任意の文字三個を書き、錫箱にてニ重に包み、封筒に入れ、封じ目に絆創膏を貼付し福来友吉と言ふ認印を捺す。
  上の如き実験物五個を作り、菊地氏の許に送り、夫人をして封入の文字を透視せしめることを依頼した。其後菊地氏から書面(十一月四日発)が来て、実験の結果を報告したのであった。それによると、菊地氏が右個の内の一個を重箱に入れ、それを机上に置くと、夫人は机の前に端坐し、重箱に触るゝことなくして精神統一したのである。そして透視の結果に就いては、次の如く報告してあった。
来吉の二字表面にあり。次ぎには光るもの何枚もあり。其奥に天成雨の三字あり


天成雨の三字は、開封の結果・全然的中であった。光るものとは錫箱のことである。来吉の二字とは封じ目に捺した認印の福来友吉の二字を透視したものである。だから、此一実験丈けによりて長尾夫人に透視能カあることは、確に認められた。

  第三 今村博士との共同実験

  上の結果によりて力を得た私は、京大の今村博士と共同的に研究する目で、十一月十日東京を発して、丸亀に向った。実験は十一月十ニ日から十五日まで四日間に亘りて、十五回行はれたのである。其結果は的中不的中相半すと言ふ程度のものであったが、兎に角透視能力の存在することは確実に認められた。今、十二日午前中に行はれた、三回の実験の結果丈けを紹介することにする。
  十二日午前十一時頃、私は今村博士、菊地文学士、大河内医学士、小野氏と同道にて長尾方に行った。実験に関係ある室の間取りは第八、第九、第十図の通りである。実験はAで行はれ、実験物はE室で準備されたのである。小野氏は実験準備室の監視者としてE室に居り、他の四人はA室に入り、第九図の示すが如く坐を占めた。C室に机があり、其後に席が設けられてある。長尾夫人は其の席に着き、我等の方に向って実験するのであった。
 

  第一回の実験 先づ夫人が是れまで慣れ来たった方法にて実験するのが宜いと言ふことに相談がきまった。そこで長尾氏の指名によりて、先づ私が実験物を作って提出することになった。私はE室に入り、四方の襖や障子を閉鎖し、中央に置かれた机の上にて、半紙半分に水天吉の三字を書き第十一図の示すが如くに折り畳み、それを黒檀の小箱に入れた。私はこの小箱を持ってA室に入り、C室に据えてある机の中央に置いた。夫人は先づD室の縁側にて口を清め、C室にて深呼吸を行ひ、全身撫で、然る後aの位置に着席し、立会人一同に向って一揖した。それから、上体を真直に立て、両眼を閉ぢ、眉間の辺にて合掌して精神統一に着手するのであった。暫時にして、両手を合掌したるまゝ漸次に下降し、終に膝の上に至りて、甲を上方に向けて左右の指を組んだ。同時に躯幹は少しく前に屈し、顎と胸とが接着するまで頭が前に垂れた。精神統一に着手してから、六分三十三秒を経たる時、夫人は雨眼を開いて一礼した。そして

水と言ふ字があります。天と言ふ字、吉と言ふ字がござります。
 と答へた。完全的中。
 

  第二回の実験 次ぎに実験物を提出したのは今村氏であった。氏はE室に入り、半紙半分に三字を書き、黒檀小箱に入れ、A室に帰りて、机の上に置いた。夫人の精神統一の手続きは前の通りである。六分五十秒の統一によりて、夫人は

三吾木
 と答へた。今村氏が箱から実験物を取り出し、細く折り畳まれた紙を開いたら三吾木の三字が現はれた。完全的中。

 第三回の実験 次ぎが大河内氏の番であった。氏は我等のと同一の手続きで実験物を作り、小箱に入れ、それを机上に置いた。夫人は五分十一秒の統一によりて、

赤十字
 と答へた。完全的中。
  上の結果によりて長尾夫人の透視能力を確実に認めることが出来た。

   第四 現像せざる乾板の物象に就いての実験

  右の実験を済まして後、私は十五日に丸亀を発して熊本へ行った。その目的は千鶴子嬢の手許を見届け得る方法にて、其透視を研究することであった。そして其結果は已に紹介した通りである。それから、熊本を引き揚げて東京に帰る途中、私は再び丸亀に立ち寄ったのである。それには私に取りて大なる目論見があり、そして其結果は其後の心霊研究に重大なる問題を引き起すべき端緒となったのだから、私の企てた実験方法と其成行に就いて紹介せねぱならぬ。
  千鶴子嬢の場合でも長尾夫人の場合でも、透視の実験は何人の目でも見得るものに就いて行はれたのであった。例へば名刺とか、白紙に書いた文字とか、骰子(さいころ)とかを容器に入れて実験されたのであった。容器に入れてあるから普通人には見えないけれども、外に取り出せば、文字でも、骰子の目でも、何人も能く見得るのである。そこで私は、容器から取り出しても普通人では到底見ることの出来ない物に就いて実験したらぱ、其結果はどうなるであらうと考へた。例へば炙り出しの文字は、炙れば人の眼に見得る様に現出するけれど、炙らない内は見えないものである。斯う言ふやうな物を実験物として使用したらば、どうであらうかと考へた。そこで私の思ひ浮べたのは、文字を撮影し儘、現像せざる写真乾板のことであった。文字を撮影した乾板を現像すれば、其文字は何人にも見える。けれど現像せざる時には、其文字は何人の眼にも見えないのである。これ丈けのことは何人にも能く知られて居る事実である。そこで私は、斯う云ふやうに文字を撮影した儘で、現像せざる写真乾板を霊能者に提出し、其文字を透視し得るや否やを実験したならば、如何なる結果を生ずるであらうかと考へた。若し其文字が透視出来るならば、透視と言ふことが愈々神秘的のものとなるばかりでなく、研究上に一大進歩を来すわけである。斯う言ふ考へから、私は文字を撮影したまゝで、現像せざる写真乾板を実験に使用することを企てたのであった。
  私が上の如き実験法を思ひついたのは、熊本に於て、千鶴子嬢に就いて最後の研究をして居る時のことであった。それで、十一月十八日午後二時頃、私は熊本市の写真師山本氏方にて、二枚の手札形乾板に、鳴と高との一字づゝを撮影してもらった。そして各自を未現像の儘にて、黒色紙にて三重に包み、ボール紙製の箱に入れた。其の夜、私が井芹氏、清原氏、千鶴子嬢と三浦亭で会食した時、私は高の字を撮影したる乾板を、ボール紙箱に入れたるまゝにて千鶴子嬢に渡し、文字の透視を求めたのである。彼女は暗き一室に入り、十二分間程統一に努めて居たけれど、終にわからぬと言って、乾板を私に返したのであった。それから私は彼女に別れて、丸亀に行ったのである。
  私が丸亀に到着したのは十一月二十日の夜であった。鳴と高との一字づゝを撮影したニ枚の乾板は私の鞄の中に入れてあった。ニ十一日の朝方、私は菊地学士に面会し、高の字を撮影した乾板を托し、長尾夫人の気分宜しき機を見て、透視実験を行ふことを依頼した。別に高の字をカードに書き、封筒中に封入し、封印を施して菊地に渡した。そして実験は次の条件によりて行はるべきことを依頼して置いた。
  (一)封入のカードは菊地氏の宅に置き、実験の終るまでは、決して長尾家に持ち行かざること。
  (二)透視実験の済んでから、封入カードを開封し、透視の答への的中不的中を検べること。
  (三)実験が終らば、直に乾板を東京へ返送すること。
  十二月六日、菊地氏から書面が届き、実験の結果を次の如く報告したのである。

十二月四日、午後四時、実験開始。
三分にして透視終る。
答 高の一字。
依りて封入の状袋を開封し見るに、全然的中せり。封入の状袋は外套の隠しに入れて、玄関(第八図E)に置きたり。
立会人は長尾氏、菊地氏、横瀬氏の三人。
試験物はボール箱の儘にて実験せり。
  上の実験によりて、現像せざる乾板の撮影文字までも透視出来ると言ふ、一新事実が確定されたのである。唯実験法として遺憾に思はるゝことは、高の字を書いた封入のカードを、実験の終るまで長尾家に持ち行かぬやうにと言ふ条件が破られて、実験の前から長尾家のE室に置かれたことである。反対学者中には、E室に於て何か怪しきことでも行はれるのでないかなどゝ疑ふものがあったから、かゝる疑念を一掃したいと思って、私は上の如き条件を加へたのであった。然るに此条件が破られたから、私は更に次の実験を行ったのである。
  十二月七日午後、私は文学士源良英氏と共に、大学の心理学実験室にて、哉天兆の三文字を二枚の手札形乾板に撮影した。その内、一枚は直に現像し、対象物として手許に置いた。他の一枚は未現像の儘で、黒紙にて数重に包み、ボール紙製の箱に入れ、菊地氏の許送った。別に、稀薄なる硝酸銀液にて、白紙に哉天兆と書き、黒紙にて包み、封筒中に入れ、封印して、乾板と共に菊地氏に送った。而して同時に、書面を以て次の如き条件を申し込んだ。
   (一)封筒は菊地氏宅に留め置き、実験の終るまでは、決して長尾家に持ち行かざること。
   (二)透視実験後に上の封筒を開き、内に入れある白紙を取り出し、火に炙りて文字を現出させ、透視の答と対照して、的中不的中を検べること。
   (三)実験が終らば、結果の報告と共に、乾板を返送すること。
  十二月十四日に、菊地氏の報告が到着した。それは次の通りである。
十一日午後試験したるに、其結果は左の如し。
試験室は離れ座敷の六畳。
立会人構瀬、飯田、菊地の三人。
試験物の乾板入紙箱を白木の箱に入れ、机上に置く。
夫人は無我になるまで十秒前後、四分弱にして哉天兆と自書す。(第十二図)
依りて直に車夫を私宅に馳らしめ、封入炙り出して取り寄せ、開封し見たるに、哉天兆の三字が極めて薄赤く現はれ居たり。更に炙りたるに、其色は益々濃厚となれり。
 上の報告によりて次の如く断定することが出来る。
   霊能者は普通人で見ることの出来ない、現像せざる乾板の撮影物象をも透視し得るのである。これは普通の透視より一歩進みたる心霊研究上の一新事実である。
  尚此の実験が縁となって、念写と言う大問題が生れてくるのである。其ことに就いては、念写の章に於て紹介しようと思ふ。

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