新潟物語

14 カムイ外伝 ‐ 万代橋の橋の下

 子供のころの悪口に、「お前なんか、万代橋の橋の下から、拾われてきたんで」、というものがありました。
 言われた子供は、そんなことはないと思いながらも、言うに言われぬ不安にかられたものでした。なかには、泣きだす子供もいて、それは、自分が父さんと母さんの子供であることを疑うこともない、そもそも、疑うということを知らない子供が、ズドンと鉄砲を打ち込まれたようなものだったのです。
 どんなに親に怒られても、自分がこの親の子供でないなどとは思わない。妹にばかりごほうびがあって、その不公平を不服に思っても、子供であることを疑わなかった。でも、「お前なんか、万代橋の橋の下から、拾われてきたんで」といわれると、奈落の底に突き落とされるような気持ちになったのです。
「拾われてきた」は、「捨てられていた」ということです。その捨てられるということも、恐ろしいことでしたけれど、子供にとっては、そういった目に見えない人事の不安より、「万代橋の橋の下」という、目に見える現実の方がもっと怖い。
 いつも暗くてじめじめしている。頭の上を自動車が通れば、その振動で、もう心ここにあらず。万代橋の橋の下は、子供たちにとって、身も心も凍りつく異界そのものだったのです。
 私の子供のころに、その万代橋の橋のたもとに、貧しさを絵に描いたような掘っ立て小屋がありました。その家がいつからあったのか、どうしてそこにできたのかは知りませんでしたが、その家を見るたびに、自分はそこの家の子供でなくてよかったと、子供心に思ったものでした。
 私の家は裕福な家ではありませんでしたが、極端に貧しいというのでもない。父親が破産して家を手放さなくてはならないということはあっても、飢えることはありませんでした。飢えることはなかったし、お坊ちゃま学校といわれる学校に上げてくれて、世間から見れば、とても恵まれた子供だったのです。
 お坊ちゃま学校には、裕福な家の子供がたくさんいました。あとはインテリの子弟。そんな環境では、社会の底辺など想像の域を出ない。学校の映画教室でみる「にあんちゃん」や「綴り方教室」は、まさに映画のなかの出来事で、それを学習しても、絵空事の学習でしかありませんでした。悲しいほどの貧しさや、いわれのない差別などぴんとこない。でも万代橋の掘っ立て小屋は、目の前にある生々しい現実だったのです。
 その家の子でなくてよかった、と思ったのは、私に偏見があったからです。その家の何ものをも知らないのに、見た目や、世間的な評価、根拠のない思い込みで抱く偏見。見た目は貧しくても、私の家より、はるかに心豊かな暮らしを送っていたかもしれないのに、勝手に貧しいと決め付けてしまうのは、目に見えるものしか見ていない、心の狭さが作り出した偏見です。
 知らないことがつくりだす偏見。見えないことから生まれる偏見。いつ、かの人たちと立場が逆転するかも知れないという不安が偏見を生み、人の心の奥底にひそむ、理由のない、醜悪な悪意が偏見をつくりだす。そしてその偏見がたちが悪いのは、自分が偏見を抱いていることに気づかないということです。気づかず、むしろそんな人々の立場を理解していると思っている。
 日露戦争の二年前に生まれた父は、中国人をチャンコロと、そして朝鮮人をチョンと呼んでいました。周りに中国人や朝鮮人がいなかったこともあって、その言葉と実際の中国人、朝鮮人をつなげることはできませんでしたが、あきらかにそれは人を小馬鹿にしたような響き。父の発した言葉でしたが、子供ながら心地よいものではありませんでした。
 人の悪口を言ってはいけないと諭し、人をさげすんではいけないと諭していた父親が口にした言葉。父の世代の多くの人は、その言葉をなんの抵抗も、違和感もなく口にしていました。そしてその言葉を発した同じ口でいう、「かわいそう」。
 見下していて同情する。口には出さずとも、態度に表わさなくとも、恐らくこのふたつの相反する気持ちは、すべての人が心のなかに秘めているものなのではないでしょうか。
「いい人なんだけど」で終わってしまう関係。普段の暮らしのなかにいくらでもある、お友達として付き合うのはいいんだけど、結婚となると、ちょっと。ご近所付き合いはしようがないけど、あちらのお宅はねえといった、自分が不都合なことに直面したときにでる、その「、、、けど」、という建前と本音の矛盾を、「かわいそう」は、見事にきれいごとにすり替えてしまいます。
 偏見(本音)と同情(建前)という、ふたつの感情を心のなかに抱いたまま、私は少年時代を送りました。
 私が私のなかのそのふたつの感情を初めて意識したのは、在日朝鮮人の友人ができたとき、そしてそれと前後して出会った白戸三平の「カムイ伝」によってでした。
 彼、S君が在日であることを知ったときの戸惑いによって、私は初めて自分の心のなかにある矛盾を思い知らされたのです。
 そして「カムイ伝」です。
「カムイ伝」は、六十年代に月刊「ガロ」に連載され、当時の若者たちに熱狂的な支持を得た漫画です。私も、主人公の忍者カムイの無敵を誇る強さに、そしてその忍びの技もさることながら、江戸時代の武士と農民と、士農工商という身分制度のさらに下に置かれた、被差別部落の人たちの現実を、毎回むさぼるように読んだものでした。
 差別のしくみ。そしてその差別と表裏一体の偏見。
「カムイ伝」のそれは、社会的な差別と偏見を問うばかりでなく、差別と偏見を生み出す人間の本性を問うているものでした。
 その「カムイ伝」の主人公、カムイが、忍者集団から抜け出すことで生まれたエピソードをつづった「カムイ外伝」を、崔洋一が映画にすると聞いたとき、これまで在日朝鮮人の現実を何本も撮ってきた崔なら、どのようにこの「カムイ外伝」を描くのか、期待もし、また一方で、なぜ「カムイ外伝」なのか、なぜ「カムイ伝」ではないのか、不思議にも思ったのでした。
 映画は、カムイがなぜ忍者になったのか、そしてなぜ抜け忍となったのかについてはほとんど触れず、それでは「カムイ外伝」ではない。
「カムイ伝」を二時間、三時間で描くのは無理と思ったのでしょうか、中途半端に終わるのなら、忍者物の娯楽映画にしてしまえということなのでしょうか、それなら、「カムイ外伝」なんかやらなきゃよかったのに。
 私は、杉浦茂の「猿飛佐助」で育った世代です。逆手で持った刀でチャンバラをしたり、ブリキで十字手裏剣を作ったり、カムイの変異抜刀霞切りや、飯綱落としを駆使した無敵の技も、児雷也が、お化けガマとともにドロンと現われる幻術も、ですから荒唐無稽なものではなく、そういうことがあってもおかしくないと思わせる、忍者の話は、子供たちにとっては実録ファンタジーだったのです。
 崔洋一には、いずれ「カムイ伝」を撮ってくれることを期待して、まあ、今回はしょうがないか。
 杉浦茂の「猿飛佐助」には、食べても食べてもなくならない羊羹の弁当箱がでてきます。羊羹が大好きで、自分で作って食べていた私にとって、その弁当箱は憧れの弁当箱でした。
 羊羹を作っているとき、小さな妹がずっとそばにいて、出来上がりを楽しみにしていました。妹は当然自分にもおすそ分けがあるものと期待して待っていたのでしょうが、もちろん出来上がったものは、全部ひとりでいただきました。そりゃそうです、大事な大事な手製の羊羹を、妹なんぞに分けてあげるもんですか。
 私は妹に意地悪をしたのです。決して妹がにくかったわけではありません。嫌いだったわけでもない。欲望が、兄弟愛に勝って生まれた悪意。その悪意が、羊羹を独り占めにさせたのです。そして欲望が満たされたあとの気まずさ。
 もし猿飛佐助の弁当箱を持っていれば、妹に意地悪もせず、気まずさも感ずることなく、私は妹思いの優しいお兄ちゃんとなっていたでしょう、ということは決してありえない。きっと、羊羹は独り占め。妹が欲しがろうものなら、泥棒呼ばわりしていたに違いありません。
                                   (2010・4・4)
  

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