新潟物語

15 薔薇の名前 ‐ 少年は大陸を目指す

 ミステリー映画のヒーローといえば、あなたはだれを思い浮かべるでしょうか。
 ミステリーといっても、次々に人が殺される、死人のいっぱいでるものもあれば、人は死なないけれど、深遠なテーマが、ひとつひとつ解きほぐされていく、謎解きの醍醐味を味あわせてくれるものもある。超人的なヒーローが人類を救うといった、スペクタクル映画と見まがうようなものもあれば、登場人物がお互いに罪をなすりつけあう、人の醜さに満ちたどろどろとしたものもあって、ミステリーもいろいろです。そのミステリーのひとつひとつにヒーローがいて、観る人の好みもいろいろですから、当然、それぞれの人の推すヒーローもさまざまです。
 明智小五郎やエルキュール・ポアロといった、名うての探偵をあげる人もいれば、名もなき登場人物が重大な謎を解く、それがいいという人もいる。いろんなヒーローがいて、そんなものひとりに絞れる訳がないという、まあ大概の人はそう言うに違いありません。
 私の好きなヒーローのひとりに、バスカヴィルのウィリアムがいます。彼は、イタリアの記号学者、ウンベルト・エーコの小説をもとにした、ジャン・ジャック・アノー監督の映画、「薔薇の名前」に登場する、フランチェスコ会の修道士。ミステリー映画のなかの、知の探究者を代表するひとりです。
 十四世紀初め、アヴィニョンの捕囚のあとのキリスト教会の混乱のなかで、清貧を旨とするフランチェスコ会は、富と権力をむさぼる教皇と対立していました。下手をすれば異端として会の存在が否定される。北イタリアの修道院で開かれる教皇の使者たちとの、会の存亡をかけた会談にむけ、フランチェスコ会は、会のエース、ウィリアムを、修道院に送り込むのです。
 ウィリアムは、若い弟子のメルクのアドソとともにその修道院を訪れますが、キリスト教世界随一の書籍の収蔵庫としても知られていたその修道院で、ウィリアムは、その会談とは別の厄介な事件に巻き込まれてしまいます。
 次々と起こる修道士たちの不審な死。収蔵庫の秘密。教皇の送り込んできた異端審問官との対決。
 ウィリアムは、恐ろしいほどの学識と、鋭い洞察力で、犯人を探り当て、収蔵庫の秘密を暴きますが、暴かれたとたん、収蔵庫は火に包まれてしまいます。かくしてウィリアムは、膨大な量の貴重な蔵書が消失することを防ぐこともできず、審問官たちとの論争で勝つこともできないまま、修道院を去ることになるのです。
 映画のウィリアムは、ショーン・コネリーが演じました。さすがにジェームズ・ボンド。様々な謎解きも、ウンベルト・エーコの原作のなかのウィリアムのようにもたもたせず、収蔵庫が燃えたときも、何冊かの本を持ち出してくる抜け目のなさ。審問官たちとの論争に勝つことはできませんでしたが、帰途につく教皇の使者たちが、事故で無残な死を遂げるという落ちまでつけて、まあ映画とはそういうもの。原作のウィリアムよりかっこよすぎるウィリアムではありますが、十分に魅力的なヒーローであることに間違いはありません。
 原作では、修道院が全焼するところで終わりになります。ウィリアムは、成果らしい成果を上げることができず、周りの期待にこたえることはできませんでした。しかしそれは、原作が時代背景をしっかりと踏まえていたからで、富貴に流れる時代で清貧を生きる修道士にとっては必然的な結果。そんな結果のなかで失意のうちに修道院を去るウィリアム(ショーン・コネリーでない方)の、だからといって魅力が損なわれることはありません。
 碩学とは、バスカヴィルのウィリアムのような人のことをいうのでしょう。古今東西の書に通じ、それらの書を曇りのない眼で読み解く。常に好奇心旺盛で、その好奇心に偏りがない。それであるからこそ、様々な難問を鋭い洞察力で読み解き、権威にしがみつくことに汲々としている教会の守旧派たちの、論理の破綻を見抜くことができたのです。
 バスカヴィルのウィリアムと出会ったとき、真っ先に思い出したのが、志賀哲夫先生です。ウィリアムは架空の人物ですが、私の知る実在の人物で、その碩学という言葉が当てはまるのは、志賀先生を置いて他にはいませんでした。
 志賀先生は、母校の英語の教師だった方です。在学中、先生から授業を受けたことはありませんでしたが、ご縁があって、先生の家の庭の仕事をするようになり、以来、お亡くなりになるまで、お宅にお伺いするたびに、授業を受けつづけました。
 もちろん英語の授業ではありません。知るということはどういうことか。自分が何者であるかを問うこと。知ることと生きること。それはつまり、書物によって得られた知識は、日常的な様々なことどもとつながってこその知識である。そういうことを学ぶ授業でした。
 私が聞き、先生が答える。時には、会話のなかで好奇心をくすぐられた先生が私に問うこともあって、それはまさにバスカヴィルのウィリアムと弟子のアドソの問答そのものでした。
 あるとき、カバラという、聖書を神秘的な解読法で読み解く秘儀の話になったときのことです。ヘブライ文字を数字に置き換え、それを様々に組み替えて読む、ノタリコンとかゲマトリアといった手法を面白がっている私に、先生は笑いながらこう言ったのです。
「悉曇声明愚僧の役だな、それは」
 私は、先生の言ったその言葉の意味が分からず、ぽかんと先生の顔を見ていましたが、その言葉の意味を知れば、すなわち、物事の本質からはるかに遠いところで、その本質をおもちゃにしてはしゃいでいても、それはそれで面白いかもしれないが本質の核心は見えない。本当のことはどんどん遠ざかっていくばかりだ。と私を、たしなめておられたことに気づくのです。
 アドソは、終生ウィリアムの真実を追い求める姿勢を尊敬していましたが(「薔薇の名前」はアドソが書き、エーコが現代によみがえらせた、ということになっている)、私にとっても、志賀哲夫先生は、アドソにとってのウィリアムそのものです。
 志賀先生は、定年を前に退官され、モンゴル語の研究をつづけておられました。
 何でモンゴル語なのか。その答えは、先生がお亡くなりになって聞けずじまいでしたが、先生の書庫を見て、なんとなくそうなのではないかなあという答えにたどり着きました。
 先生の書庫には、先生の研究分野とはまるで違う「大唐西域記」や「大航海時代叢書」といったたくさんの旅行記がありました。それはつまり見知らぬ土地への憧れが、先生のなかにあったのではないか。先生の少年時代だった昭和十年代の新潟は、今の新潟とは比べ物にならないほど大陸の近い港町でした。毎日のように大陸に向かう船が出港し、大陸の品物や人々を乗せた船が入ってくる。その港の活況を見て、大陸に思いをはせる子供たちはたくさんいたはずです。先生の育った場所は、港からそう遠くないところでしたから、先生がその少年たちのうちのひとりでなかったとはいえません。
 海が好きだった先生は、よく寄居浜にいかれたそうです。海辺にたたずむその先生の視線の先には、きっとはるかかなたに横たわる大陸が見えていたはずです。
 この答えを導き出す方法は、ウィリアムがアドソに教えた、いわゆるプロファイリングのひとつの方法です。先生は私にそのようなことは教えてくださいませんでしたけれど、アドソが先生の教え子だったなら、きっとアドソも私と同じような答えを導き出していたに違いありません。
 すべての時間とすべての空間を手のうちにした碩学は、時間も空間も飛び越えて、瞬時にして自分の思い描いた場所に行くことができます。先生が、書斎の机に向かい目を閉じると、そこにはモンゴルの草原を馬で疾駆する志賀少年がいる。モンゴル語はそのための「どこでもドア」だったのではないでしょうか。
                                (2010・8・20)

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