庭師の歳時記

1 庭のほそ道 ‐ 四季の移ろい取り戻す

 春には春、夏には夏、秋にも、冬にも、どの季節にもそれぞれの季節の風景があります。
 そんなことは当たり前のこと、とおっしゃる向きもおいででしょうが、その当たり前のことを、私たちはついつい見逃してしまっているのではないでしょうか。
 日々の暮らしに追われ、窓の外を眺める余裕はなくなっていないでしょうか。勤めの行き帰りに周りの景色に目をやる余裕はどうでしょう。木や草の芽吹きを目にして春の訪れを感じていたのが、いつの間にかテレビや新聞で伝えられる便りで、季節を感じるようになっていませんか。
 冷暖房の行き届いた住まいで暮らしていると、ふと自分が今どの季節にいるのか戸惑ってしまうことがあります。快適ではありますが、一方でせわしない暮らしが、衣食住から季節感を奪い、そんな暮らしが当たり前になって、当たり前の四季の移ろいを見過ごしてしまうようになりました。
 日々の暮らしの当たり前に慣れ、つい見過ごしてきた四季の移ろいというもうひとつの当たり前。ちょっと家の外に出て、そのもうひとつの当たり前を取り戻してみてはいかがでしょうか。
 一里(ひとさと)はみな花守の子孫かや 芭蕉
 かつて人々はみな花守だったといいます。花を愛で、茂る青葉を愛で、色づく秋の木々を、冬枯れの林を愛でて、先人たちは、その四季の移ろいを歳時記として言い伝えてきました。
その花守だったころの記憶をたどれば、せわしない日々の暮らしのなかにも、きっとあなたなりの歳時記を見つけることができるのではないでしょうか。
 「奥のほそ道」をあらわした松尾芭蕉は、日々の暮らしのなかに旅を思い、花を思い、風を思い、人を思って、その思いを言葉に綴りました。その芭蕉に倣って庭師が綴るのは、「庭のほそ道」。今日から始まるこのコラム「庭師の歳時記」では、庭師が庭のなかで、あるいは日々の暮らしのなかで見かけた木や草の四季の移ろいを、庭作りのヒントを交えて、綴っていきたいと思っています。
 さて庭師のたどるほそ道は、どのような道になりますことやら。
                                 (新潟日報 2006・4・7)

写真説明 新潟市鷲の木の桜遊歩道公園。休みの日には花守ならぬ酒盛りでいっぱいになる。

庭師の歳時記 index

TOP PAGE