庭師の歳時記

30 サクラの木の下で ‐ 満を持し 満開のサクラ

 花見といえば、それはサクラの花見のこと。チューリップの花を見ても花見は花見ですが、でも花見といって思い浮かべるのは、日本人ならまずサクラ以外にはないでしょう。
 何ヶ月も前から開花予想が伝えられ、サクラ前線の北上とともに、花見の日取りが決められる。開花が近づけば毎日のように新聞やテレビで、やれ五分咲きであるとか、やれ満開であるとか。花見は、いつの頃から、正月やお盆と同じような国民的行事になったのでしょうか。
 それにしても、日本人はサクラが好きですよねえ。花は方便、団子があれば何でもいいのだという人もいるかもしれませんが、あの薄桃色の花が咲き乱れる様を見れば、何やら心がざわめき、サクラには日本人の心を捉える魔力のようなものがあるようです。
 お祭りや花見といった、何か特別なことのある日を、ハレの日といいます。日常から離れた特別な日。日々の暮らしの単調な繰り返しのなかで失いかけているものを取り戻す。あるいは単調で退屈な毎日の憂さを晴らす。そんな日常ではない、非日常の一日をハレの日として、なかにはその日のために一年を暮らすという人もいるといいます。
 サクラもまた、春のその日のために、一年のあいだ力を蓄えます。葉を茂らせ、太陽の光をいっぱいに浴びて、体のなかに栄養を蓄える。そして満を持して解き放たれたそのエネルギー。サクラにとっても開花の日は、特別な日、ハレの日なのです。
 サクラの木の下には、死体が埋まっている。
 梶井基次郎や坂口安吾、野坂昭如といった文人たちが、サクラの花の妖しさを、そう言い表しています。
 そう言われればなるほどと思える、サクラの花の妖しさ。死体とは言わないまでも、もしかしたらサクラは、その木の下に集う人々の精気を吸い取り、翌年の花のための栄養にしているのかもしれません。
 仲むつまじい恋人たちが、その木の下で愛の言葉をささやきあっていたサクラと、別れ話の挙げ句に取っ組み合いの喧嘩を始めたふたりの精気を吸い取ったサクラ。はたしてこの二本のサクラの翌年の花はどのようになるのでしょう。
 もしかしたら一方のサクラは翌年の花を見ることなく枯れてしまった、なんてことになって。そうなると栄養になる人を選べないサクラは、哀れというほかありません。
                                 (新潟日報 2007・4・20)
写真説明
満開の桜も散り始め、人々も日々の暮らしへと戻ってゆく。新潟市西堀にて

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