晴雨計

9 虚無への供物

 バラの話をもうひとつ。
 バラの愛好者には特別のこだわりを持つ人が多い。そのなかで私が真っ先に思い出すのは、今は亡き作家の中井英夫である。中井さんはその著作にだけでなく、こだわりが高じて『薔薇土(ばらーど)』という名のバーまで作ってしまった。
 かつて戦後三大ミステリーのうちのひとつにあげられていた著書『虚無への供物』は、ポール・ヴァレリーの詩の一節からその名をとったバラが、まだ硬かったつぼみを膨らませて芽を出し始めるまでに起きた事件の話である。
 金色に光るというそのバラはどのバラの本を見ても載っていない。実在するという人もいて一度は見てみたいと思うのだが、著者の亡くなった今はもう確かめようがない。中井さんには若いころ何度かお会いする機会があったが、そのころの私はこれっぽっちもバラに興味がなく、今にして思えば悔やまれてならない。
 話はちょっと変わって、渋沢龍彦の盟友加藤郁乎に、『バイロスの誘惑』という小文がある。明晰でちょっといかがわしいその文章と、もっといかがわしいバイロスの絵に、若いころの私はいっぺんにとりこになってしまった。フランツ・フォン・バイロス。弥彦にその名を冠した美術館ができる、それも知る人ぞ知る名編集者伊藤文學さんが開くと聞いたとき、どんな形の美術館になるのかと、期待に胸をふくらませたものだった。
 その美術館ができたのも、伊藤さんが中井さんの『薔薇幻視』という本を見たのがきっかけだった。
 バイロスの名がつけられたのは併設のレストランで、美術館は別の企画展のためバイロスはほとんど展示されていなかったが、バラがいっぱいの美術館であった。
 それはそうと、『虚無への供物』という名のバラ、もしご存知の方がいらっしゃったらお教え願えないものだろうか。金色に光るバラ。そんなバラはそのままでミステリーである。
                                     (新潟日報 夕刊 2002・9・26)

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