白い花 秋山清著作集刊行に寄せて

白い花 普通の人の普通の感情

 秋山清詩集 白い花

 ヒメエゾコザクラという野草があります。別名をアッツザクラ。春、白い花をつけたその姿は、名前から受ける印象そのままに可憐で、好きな野草の名にその名をあげる人も少なくありません。
 そんなヒメエゾコザクラのことを私が知ったのは、まだ庭師という仕事につく前。新宿花園の「モッサン」という酒場で偶然出あった老人の、その老人がかつて詠んだという一編の詩のなかででした。
  アッツの酷寒は
  私らの想像のむこうにある。
  アッツの悪天候は
  私らの想像のさらにむこうにある。
  ツンドラに
  みじかい春がきて
  草が萌え
  ヒメエゾコザクラの花がさき
  その五弁の白に見入って
  妻と子や
  故郷の思いを
  君はひそめていた。
やがて十倍の敵に突入し
  兵として
  心のこりなくたたかいつくしたと
  私はかたくそう思う。
  君の名を誰もしらない。
  私は十一月になって君のことを知った。
  君の区民葬の日であった。
   (詩集「白い花」より「白い花」昭和十九年)
 太平洋戦争のさなかに詠まれたこの詩は、反戦詩あるいは抵抗詩が語られるときには決まって取り上げられる一編ですが、十九だったでしょうか二十歳になっていたでしょうか、その時の私は、その詩も、その老人、秋山清さんのことも知りませんでした。
 それはたまたま顔見知りの那須正尚さんがいるというだけで同席した酒宴でしたが、その中心にいたベレー帽を被った童顔の老人を、私は若者たちと酒を飲むのが好きな、どこにでもいる好々爺としか思っていませんでした。
 そして酒宴が終わりみなが帰ったあとで店のマスター、太田さんが教えてくれたのが、その老人、秋山清さんの何者かと、「白い花」。私はその太田さんの話に、そしてその一編の詩に驚きを禁じえませんでした。
 戦後生まれの私は、「白い花」が書かれた昭和十九年を知りません。しかし昭和十九年に生きていた人たちの戦争というものに抱いていた感情が、戦時という状況のなかでどんなだったかは、想像に難くありませんでした。
 「白い花」は、決して声高に反戦を叫んでいるわけでもなく、正義をうたっているわけでもありません。ただ戦中を普通に生きている人が普通に抱く感情が書かれているだけです。その普通の人の当たり前の気持ちによって、昭和十九年の実際がひしひしと伝わってくる。私の驚きは、そこにありました。
 その驚きは、吉本隆明の解説で納得に変わり、さらに秋山さんが不意に発したひと言で確信に変わりました。
 何度目の酒宴だったでしょうか。同席していた若者が、「外国に行って、見聞を広めてこようと思っている」と言った言葉に、秋山さんが反応しました。
「私は、日本にまだ行ったことのない町が、たくさんある」
 秋山さんの言葉があまりに断定的だったために、若者は次の言葉を飲み込んでしまいました。そして私もまた、その若者と同じように息を呑んでいました。若者の言葉は私の言葉でもありました。
 日本の外のことを知りたい。それは程度の差こそあれ、若者なら誰もが抱く気持ちです。当時ジャズがなくては夜も日もあけないという毎日を送っていた私も、アメリカを知り、ジャズの生みの親である黒人の現実を知らなければ、よりジャズに近づけないと信じていました。
 若者の外に目を向けたいという心情を、秋山さんが理解していなかったとは思いません。ですから秋山さんのその言葉は、その若者の言葉を、そして私の気持ちを否定したものではなかったと思います。しかしその穏やかな物言いとは裏腹な、若者の心に重くのしかかってくるその言葉。その言葉に、私たちは圧倒されたのでした。
 その秋山さんの言葉が、自分自身に向けられた言葉だということに気付いたのは、ずっと後になってからのこと。秋山さんの詩に見える、普通の人の普通に抱く感覚が、秋山さんの揺らぐことのない目線の高さによって書かれているということに気付いてからでした。
 年齢を重ね、社会的な経験もつみ、人との交わりも増えて、知らず知らずのうちに、虚勢を張ったり、高慢になったり、人を見下したり、おもねったりしている自分に気付き、愕然とすることがあります。
 そんな時に感ずるのは、自分の目の高さが定かでないということ。周りに流されるままに、自分の意思を、意識をないがしろにしているということです。
 大きな流れに流されそうになったとき、秋山さんはどうしていたのか。戦争という異常な状況のなかで、普通の人の普通の感情を持ちつづけることは尋常なことではなかったはずですが、そんなとき、秋山さんはどのようにしてその気持ちを維持しつづけたのか。
 「私は、日本にまだ行ったことのない町が、たくさんある」
 この言葉にこそ、ヒントがあるに違いないのです。
 秋山さんの「白い花」という詩集には、新潟の日和山海岸で詠んだ「砂丘」と富山県境の車中で詠んだ「おやしらず」という、新潟を詠んだ二編の詩があります。
 「砂丘となぎさとが/はるばるつづいている。/なぎさに白い波がうちよせる。/沖はくらく/空はくらいなかに/ほのかな夕焼の名残がある。」(詩集「白い花」より「砂丘」昭和十七年‐抜粋)
 秋山さんがどういう経緯で日和山の砂浜の砂を踏んだのか、そのことをお聞きすることのないまま、私は新潟に戻り、秋山さんは昭和六十三年にお亡くなりになりました。
 秋山清著作集の刊行が始まるという話を聞いたのは、昨年の十二月のこと。いつも酒宴におられた坂井ていさんという方からでした。秋山さんの揺るがない目線の高さがどのように維持されてきたのか。白か黒かの二者択一を迫る、あるいは劇場型といわれる、大きな流れですべてを巻き込んでしまおうという、何かしらいつかの時代と似たような雰囲気になりつつあるこの時代を、秋山さんならどのように見るのか。もしかしたらそのことは秋山さんの著作のなかにすでに書かれているのかもしれません。
 酷寒の地で咲くヒメエゾコザクラ。耐えるということだけでは、花は咲かないのですよねえ、秋山さん。
                                     (2006・3・12)

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