曾良のほそ道 一 越後路 (1)

 右 まつざきみち
 墨の跡も鮮やかな、真新しい道しるべが立っていた。
 追分の道しるべを左へ行けばすぐに阿賀野川の渡しに着く、どこで渡っても新潟への道だが、もうひとつ先の河渡の渡しから行ったほうが近道だ。と築地村の次市良に教えられていた。
 これがその道しるべだろうと、ふたりは、その言葉に倣って道しるべを右にすすんでいった。
 往来を行き来する人が増え、それも新潟が近いからだと思えば、ふたりの歩みは自然に早まる。
 江戸深川を立ってから、早くも三月が過ぎていた。
 文月も二日。
  草の戸も住み替はる代ぞ雛の家
と翁が詠んだのはついこの間のことだと思っていたのに、もう七夕がすぐそこにまで迫っていた。道端の薄が穂先を開きはじめている。雲は高く刷くように空を染め、鳴き声だけで暑さを感じていたアブラゼミの声も今はなく、代わってヒグラシの物悲しい鳴き声ばかりが聞こえてくる。
 昨夜来の雨はすでに朝のうちにあがっていた。重く垂れ込めていた雲も昼前にはすっかりと晴れ渡り、しかし、雲が切れれば日は容赦なく照りつけてくる。文月とはいえまだ日差しは強く、歩きつづける体からは汗が吹き出し、墨染めの衣をじっとりと湿らせていた。汗に湿った肌を、吹きはじめた東風が心地よくなぶっていく。このような穏やかな東風は、数日前まではなかったことだった。一時のように油照りの日がつづくこともなくなっていた。時折の暑さもその日限りのことが多くなり、日一日と秋の気配が濃くなっていくとはいえ、しかしまだ残暑がしばらくつづくことは覚悟していなくてはならないだろう。
 それにしても今年の夏はことの外暑かった。そして暑さに加えての雨。江戸を出てほぼ半分が雨のなかの旅だった。長い旅には気候の不順が一番つらい。いくら旅なれているとはいえふたりとももう若くはなく、それほど無理のきく体ではない。しかし雨だからといってそうそうひと所に長逗留することもできず、篠突く雨のなかを行くこともたびたびだった。
 その無理がここにきて祟っていた。俳席も度重なり、翁には身も心も休まるいとまのない旅だった。余程のことがなければ俳席が取りやめになることはない。土地土地のものは翁との俳席を心待ちにしていたし、翁にとってもそれはこの旅の大きな目的のひとつでもあったので、いくら体の具合が悪いからといってそう簡単にやめにしましょうというわけにはいかなかった。またいかない事情も、翁にはあった。
 翁の体調が思わしくないのも無理からぬことだと、曾良は翁の後ろ姿を見ながら思っていた。
 曾良自身、しばらく前から鳩尾の辺りが差し込むことが多くなっていた。翁の前ではできるだけ平静を装うようにしてはいたが、時に耐えられなくなることがある。その曾良の苦痛の表情を見ても、翁は何も言わない。そして曾良も何も言わないまま旅をつづけていた。
 何も言われないことが、曾良には自身の不調よりずっとつらいことだった。
 翁の身の回りの世話をすることで伴を許された旅である。胃が痛いからといってその仕事を疎かにすることはできない。病気のせいで世話ができないなどといっていたら、何のために伴としてついてきたのか分からなくなる。
 翁の無言は、暗に役たたずと言っているように曾良には思えた。役たたずとは言わないまでも、頼りない男だと思っていることは、ぴりぴりと伝わってきた。それが翁の疲労が目に見えて濃くなり、体の不調を訴えるようになってからは露骨になった。不機嫌を隠そうとしない。言葉遣いがきつくなり、俳席のおりに、人目もはばからず厳しい言葉で叱責されたこともあった。
 すでに翁の奥羽への旅は、象潟で終わっていた。旅の終わりが、翁のなかに張り詰めていたものを解いてしまった。そしてその心の中で張り詰めたものが解けたときが、翁にとっての体の限界だった。翁の心はすでにお気に入りの門弟、北枝らの待つ金沢にあり、大垣にあった。しかし、限界だからといって旅を仕舞いにするわけにはいかない。今日も、明日も、そして明後日も歩きつづけなくては金沢にも大垣にも辿り着くことができないのだ。
 もううんざりするほど歩いてきた。しかし歩くことが旅であった。それは初めから分かっていたことであったが、実際にほぼ毎日、多い日には十里近く歩きつづけていたら、もう旅の目的などどうでもよくなってくる。ただ右足と左足が交互に前にでる。その動作の繰り返し。それが旅の正体だった。曾良には歌枕もなにも二の次だった。すでに象潟の前から、名所旧跡はほとんど義務的に見て回るだけだった。しかし、土地のものに案内されればいやがおうでも応じなくてはならない。翁の手前それも仕事とは思っても、もう沢山と声を上げたくなることがあった。そんな思いをして見たものは、感慨も何もない。何日か経って思い返してみても、印象の薄いものばかりだった。
 翁の気持ちは象潟の辺りから、歌枕とは別のもうひとつの成果にばかり向かっていた。曾良の胃がきりきりと悲鳴をあげるようになったのは、ちょうどその頃からであった。曾良は、あと金沢まで何日かということばかり考えるようになっていた。金沢まで行けば北枝がいる。後は北枝がなんとかしてくれるだろう、とそればかりを考えていた。
 道しるべからすぐだからと教えられていたが、次の渡し場はなかなか見えてこない。かなり無理をして歩いてきたせいか、翁の足取りがばったりと重くなった。
 幸いまだ日は高い。ここいら辺で少し休んだ方がいいなと思い、曾良は街道の松の木に格好の日陰があるのを見つけ、翁に言った。
「ひと休みいたしましょう」
 翁にはできるだけ馬を手配するようにしていた。昨日も手をつくして探したが、あいにくと不首尾であった。村上から直接新潟にいくのなら、村上の港、岩船から船もあったが、村上の家老榊原様から、名刹だからぜひ見て行くようにとすすめられた乙宝寺に回ったので、とうとう歩くことになってしまった。
 次市良が、今新潟の周辺は馬が不足しているのだと言っていた。新潟の港に陸揚げされた荷物の荷役に使うため、近在の牛馬がことごとく高い値段で借り上げられているのだ。築地の村でも、馬はもちろん、農作業に使う牛まで新潟に出払っていた。四つ足でありさえすれば猫でも荷役に使いたい、と次市良が苦笑いをしながら言っていたが、曾良にとってもできるものなら猫でもいいという気持ちは同じだった。馬に乗れるときとそうでないときで、翁の機嫌は天地ほどの違いがあったからである。
 上機嫌不機嫌がはっきりしてきただけでなく、このところ翁の気紛れがひどくなっていた。一日中曾良以外のだれとも言葉を交わさないことがあったかと思うと、もう日も暮れようというのに野良仕事をしている百姓に長々と話し掛けてみたり、馬に乗っている間中馬喰と話しつづけていたりと、これも翁の心労の為せるわざと思ってはみても、曾良にはその時々の対応の塩梅を計りかねることがあって、翁に叱られることも再三であった。
 行く先々で世話になる人たちには間違ってもそのような態度をみせたことはないし、添え状の相手がどのような人間であってもそこそこの応対をされ、さすがにそこいら辺は如才無いと思っていたのだが、それもここ数日雲行きが怪しくなってきた。俳席で参会者に無愛想な視線を投げ掛けたり、思いがけない厳しいことばを吐いたりすることがあった。それはまったくの翁の気紛れなのだが、気紛れだからこそ厄介であった。
 翁にはいつも上機嫌でいてほしい。気紛れを押さえるためにも、翁の機嫌を損ねないようにしなくては、とそう思えばこその馬探しであったが、そのような事情があるのではしようがなかった。
 曾良の言葉に、翁はうんとうなずいただけだった。
 松の木の下には女の先客がいた。
「ちょいと失礼しますよ」
 曾良が声をかけると、女は振り向いて陰気な疑り深い眼差しをふたりに投げかけ、申し訳程度に尻をずらした。
 この悲しい眼は貧しい百姓のものだと曾良は女の背中を見ながらそう思った。百姓たちが警戒心をあらわにするときに見せる目と同じものを、曾良は女の眼にも見た。後ろに束ねた髪はほつれて絡み合ったまま背中に垂れ、わずかに見える横顔の日焼けした肌には深い皺が刻まれ、しみが浮き出ていた。歳の頃は四十、いや見様によっては五十に手が届きそうなほど老けて見える。ぼろに見紛うばかりの野良着と裸足という身なりからして近在の百姓の女房といったところだろうか。
「生き返りますなあ」
 曾良は荷物をおろし、女から少し離れて腰をおろすと、翁にとも女にともどちらにともなく話し掛けるように言った。
 女はちらりと振り向き、すぐにまた背中を向けた。
「甘いものなどいかがですか。少しは疲れも癒せましょう」
 曾良は荷物のなかから干菓子をだして翁に差し出し、曾良も小さな砂糖の塊をひとつ口に含んだ。
「喜平どののお届けものです」
 翁は黙ってうなずき、しかし心なし口元が弛んだように見えた。
 村上では翁は上機嫌だった。榊原様から思いもかけぬ百疋という心付けがあり、他にも何やかやともうひとつの方の成果があったからだ。会う人会う人から心づくしのもてなしを受け、この菓子は喜平というものが旅の疲れを癒すようにと持ってきてくれたものだった。
 口の中で砂糖がさっと溶け、甘味がじわりと広がっていく。
 曾良は、ふうとため息をついた。
 砂糖の甘さが、体の隅々にまで染みわたっていくようだった。
 曾良は人心地つくと、木陰の反対側で背を向けている女の後ろ姿に声をかけた。
「お前さまも、ひとつどうかな」
 女は振り向き、曾良の顔をまじまじと見た。正面を向いて初めて気が付いたが、女の左眼のうえに大きな傷跡がありその傷のせいで女の左眼はひどくいびつになっていた。いびつな片目が、泣いているように見える。
 曾良の顔を見ていた女は目を掌のうえの菓子に移した。目のなかの警戒の色が、驚きの色に変わった。
「さあ。遠慮せずに。さあ」
 女は遠慮しているのではなかった。普段見ることも、ましてや口にすることもできないものを目の前に突き出され、それも決して立派とはいえない墨染めの衣を着た男に突然食べろといわれて、訝しみ、戸惑っているのだった。
 女が警戒していることを見て取って、曾良は手のなかの菓子をひとつ摘んで自分の口に入れた。
 女は曾良の手のうえの菓子を見つめたままためらっていたが、ふたたび促されると恐る恐る手を出し、ひとつ摘んでそのまま口に入れた。
 女は口を閉じたまま目を見張った。
 生まれて初めての菓子であった。初めての経験、そして初めての味覚の驚きだった。
「ああ、ほっぺたが痛てえ。ほっぺたが、落っこちてしまいそげら」
 女の目が、じわりと潤んだ。
 疲労の色が濃く浮きでた翁の顔の皺がゆるみ、波をうった。曾良も微笑み、手のなかに残った菓子をずいと女の前に差しだした。
「もっと取っていいから」
 曾良が言いおわるのも待たず、女は手を伸ばすと菓子を掴んだ。そして菓子を持ったまま、ふたりの顔をまじまじと見た。
「お坊さまは、ここいら辺のしょではないの。それにそんげな格好をしてなさるろも、本当はどなた様だね」
 曾良は、翁と顔を見合わせた。
 翁が、曾良の肩越しに女に答えた。
「私どもはただの乞食坊主でござるよ」
 女が乱杭の歯を剥出しにして、あははと笑った。
「なに言ってなさるね。乞食坊主がこんげなもん持ってるわけがねえ。持ってても、おらたち百姓に物くれるなんてこと、聞いた試しがねえわね。坊主ってのはの、人から物貰っても、人には何にもくれねもんだ」
 砂糖の甘さが女の警戒心を解き、口を滑らかにした。
「女房どの、それは女房どのの思い過しじゃ。私どもは旅の坊主、間違いなく乞食坊主じゃよ」
 女は信じられないといったふうにふうんと鼻で答え、手にした菓子を頬張った。最初の喜びと同じ喜びが再び口のなかに広がって、今度はその喜びをじっくりと味わおうとするかのように、舌を動かさずに砂糖のゆっくりと溶けるのを楽しんでいた。
「お坊さま方は、どちらから来なすったのかね」
 菓子の与える喜びは喜びとして、女は自分の考えが否定されたことに不満だったと見える。心のなかではまだ自分の考えが正しいと思っているようで、言葉がぶっきらぼうになっていた。
 曾良はその子供のような反応がおもしろく、ついつい声を上げて笑ってしまった。何がおかしいのかと訝しむ女に、曾良は笑いの震えを残した声で答えていた。
「ああ、昨夜は築地という村に泊まった。その前が村上で、今日は新潟で泊まろうと思っておる」
「築地なら、乙宝寺さまにお参りしてきなすったな。乙宝寺さまってのは、なまらなお寺だってがんだが。おれも一度はお参りに行ってみてもんだと思ってらんだがの」
「女房どのは、ここいらの方か」
 女の表情がさっと曇った。自分のことを詮索されることが、迷惑なようだった。
「ああそうだ。河渡のもんだ」
「河渡というと、渡し場のあるところじゃな」
「渡し場なら、このまま真っすぐに小半刻も歩けば見えてくる」
 女の言葉に力がなかった。曾良は元気のなくなった女の様子をうかがい、何かわけでもあるのかと問うてみた。
「して家も近いというにどうなされた。どこか具合でも悪くなったのかな」
 女は日焼けした顔に深く刻まれた皺を一層深くして、上目遣いに曾良を見上げた。
「曾良」
 曾良の袖を翁が引き、物見高い曾良の態度をたしなめるように首を振っている。
 曾良も、自分の迂闊さに気が付いた。
「いや、これは余計なことを聞いてしまったようじゃ」
 翁が立ち上がり、曾良にも出発を促した。
 ふたりが立ち上がるのを見て、女は縋るような目をふたりに向けた。
「お坊さま、おらどうしたらいいんだろっか。どうかお願いらすけ、助けてくんなせ」
 女の目蓋が膨れ、目尻から大粒の涙がぽろりとこぼれた。
 曾良は、翁と顔を見合わせた。翁の顔には、当惑の色がありありと浮き出ていた。
 曾良が翁の心のうちを察して、女に言った。
「女房どの。いかようなことかは分からぬが、拙僧どもはいまだ修行の身。人に教えを受ける身であって、人様をお助けすることなどとてもできる身分ではござらぬ」
 女は、ぼろぼろと涙をこぼしはじめた。
「おめさんがたはちゃんとした坊さまみてらすけお話するろも、おら、どうしたらいいがんだ。もうおれは帰る家がのうなってしもうた」
 女には、曾良の言葉など耳に入っていないようだった。女は聞かれもせぬのに話をはじめた。涙がとめどなく溢れ、嗚咽が細切れに言葉を切っていく。何の法則性もなく切られていく言葉が、女の心の動揺を見事に表していた。
「帰れ、ば、ま、た折檻だ。今、度は殺され、るかも、しらねえ。いつかとと、に殺される。もう里に、も帰、れねえ。お、れ、はどんげして、生きてい、けばいいがんだ。逃げようっ、てたって、こん、げ歳になって、百姓、しかしたことがね、ってがんに、、、」
 女は、堰を切ったように話しつづけていた。
 涙ながらの話から、女の置かれている状況は想像ができた。女の左眼のうえの傷も、亭主につけられた傷だった。亭主に鍬の柄で殴られてできた傷だということが分かった。女の亭主は、気に入らないことがあるとすぐに暴力をふるう男だと、女は言った。稲の生育が思うようでないといっては女を殴り、雨がつづくといっては殴り、風が吹いたといっては女を殴った。女がちょっとでも作業に手間取ると、待っていたかのように殴りかかってきた。なにもないときでも、不意に鼻面に拳が飛んでくることがあった。
 舅も姑も、亭主を恐がって知らぬふりをしている。近所の者もだれも助けてはくれない。唯一の救いと期待して育てた四人の子供たちも、物心つく頃からそっぽを向くようになってしまった。男ども三人は皆家をでて、どこで何をしているのやら便りすらなく、末の娘ははなから馬鹿にしてまるで他人を見るような目で母親を見るようになっていた。
 今回女が逃げ出したのは、亭主が鎌を振り上げたからだった。女は殺されると思い、体ひとつで家を飛びだしてきた。
「お願いらすけ、お坊さま、どうか助けてくんなせ。命を助けてくんなせ。おれのこと連れてってくんなせ、、、」
 女は、わっと泣き伏した。
 往来の旅人たちが怪訝そうに見ていく。しばらく行って振り返り、様子をうかがっているものもいた。
 ふたりは、ばつの悪い思いをして、泣き伏した女の前に屈みこんだ。
 女は両手で顔を覆って泣いている。ごわごわの節くれだった手が、嗚咽とともに上下に揺れる。
 曾良の背中に、墨染めの衣がずっしりと重くのしかかってきた。このような姿をしていなければ、こんなことにはならなかった。坊主だなどと言い張らなければ、女は身の上を話したりしなかっただろう。
 しかしそう思う一方で、曾良には、この女をなんとかしてやりたいという気持ちがあった。
 目の前に救いを求めている女がいる。生きるか死ぬかの瀬戸際にいる女がいて、それを見て見ぬふりをしてやり過ごすことなど、曾良にはとてもできることではなかった。それは坊主の姿をしていることとは別な、曾良の本心からの気持ちだった。
 自分に何ができるか、と曾良は考えた。旅先の身で、それも翁の世話をしなくてはならない立場にあって、いったいこの女に何をしてやることができるのかと考えた。
 女の話が本当なら、亭主のところに連れていくことなどとてもできない。せめて新潟まで連れていってやることはできないか。新潟は、新しいどんどん大きくなっている町だという。そんな町なら飯炊き女のような仕事のひとつもあるのではないか。
 と、曾良がぐずぐずそのようなことを考えていると、
「よいかな、お前が行きずりの私たちに救いを求めるなど筋違いじゃ。お前には、親もおろう、兄弟もおるじゃろう。いくら帰れぬ家とはいえ、死ぬの生きるのとなれば放っておく親兄弟などいるはずがなかろう。私どもには、何をしてやることもできぬ。ましてや旅の途中、一緒に連れていくなどかなわぬことじゃ」
と、翁が女に因果を含めるように言った。翁は冷たく言い放ちながら、眼から涙を溢れさせている。
 翁にそのように言われれば、曾良には何も言えなかった。しかしと思っても、それを言う立場に曾良はない。翁の態度が正しいのかどうかさえ言うことはできなかった。曾良は今自分であって自分でない、ただの翁の伴でしかないのだ。
 翁が曾良の袖を引き、立ち上がった。
 女はなおも泣きつづけている。
 曾良は袂に入れた干菓子の包みを出し、女の手を取って握らせた。
 曾良は、後ろ髪引かれる思いでその場を立ち去った。曾良にしてみれば、逃げるようにして立ち去ったのだった。
 女は泣きながらふたりを眼で追い、しばらく行って曾良が振り返ったときにも、まだふたりの姿を追い求めるように見ていた。その眼は、やっぱり坊主なんてこんなもんだと言っている。薄情者と責める目が、いつまでも曾良を追いつづけていた。
 翁は、涙を拭おうともせずに歩いていた。
 果たしてあれでよかったのか、と曾良は自らをそして翁を責めながら歩いていた。いやしくも坊主の身なりをして自ら坊主と名乗っていて、それでこれでよかったのかと、思いは暗く、深くなるばかりだった。
 ふたりの足取りは重く、今はむしろ翁よりも曾良のほうがくたびれて見えた。
「これも、あの女の天命です」
 翁が、涙を流しながら言った。
 千里はどうだったのだろうか、とその言葉を聞いて、曾良は貞享元年の上方への旅に同伴した千里の気持ちを思った。
 その旅の途中、富士川で捨て子を見かけた話は、翁からも千里からも聞いていた。翁はその時も、その子には天命といって関わりを避けたという。
 その時千里はどう思ったのだろうか。翁のとったその行動に、何も思わなかったのだろうか。
 今度のこととは、子供と大人という違いがある。それだけでなく、あの女が抱えている困難と、捨て子の困難にはいろんな違いがあるだろう。大人の女の持っている思慮や分別は、まだ三歳か四歳だったというその子にはない。逆に大人の知恵が、その困難を一層複雑にしているということもある。しかし富士川の捨て子も百姓女も、絶望の淵にあって救いを求めているということについては同じだった。そんな子供を目の前にして、千里はどうだったのか。寸前の死から救いを求めている子供を見て、心が揺れ動かなかったのだろうか。
 曾良は鳩尾の辺りに鈍い痛みを覚え、顔から血の気が引いていくのを感じながら翁のあとに従っていった。
                                                       つづく

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