曾良のほそ道 一 越後路 (3)

 信濃川の中州を過ぎると、新潟側に群れている船が見えてきた。大きな北前船が三艘、そしてそれより一回り小さな船が何艘か錨を降ろし、さらにそれらの船の周りを渡し船と同じ大きさの小さな船がミズスマシのように動き回っていた。
 港の桟橋に横付けされている大きな北前船から、水夫たちの掛け声が聞こえてくる。気の荒い海の男たちの声は、罵りあっているようにも聞こえる。船の上でその声に煽られるようにして荷物の積み降ろしに忙しく動き回っている人足たちの姿が、曾良たちの乗る船からも見えた。
 それだけで新潟の町の熱気が伝わってくるようだった。同じ熱気でも、沼垂のお仕着せの熱気と違い、新潟のそれには生き生きとした生活の息吹があった。
 曾良は、人足たちの姿を見ただけで胸の高鳴りを感じていた。翁に言われたことなど全部忘れてしまうほどの興奮だった。曾良はその熱気が好ましかった。歌枕の旅もよいが、やはり人々のこのような姿を目のあたりにするのは何よりのものだった。人が生活している証しのようなその熱気は、曾良にとっては何よりも美しく思えるのだった。
 髪を剃った。墨染めの衣も身にまとった。名も岩波庄右衛門正字から河合惣五郎に、さらに惣五郎を宗悟と改め、翁の旅のお伴をするにあたっては、それなりの覚悟をしたつもりだった。その覚悟がどれほどのものかは、翁がいちばんよくご存じのはずであった。
  剃り捨てて黒髪山に衣更
 黒髪山で詠んだ句を、翁は大層誉めてくださった。
 曾良には、翁がこの句のなにを誉めてくださったのかよく分かっていた。句そのもののできをよしとしてくださったのではない。衣更と言い切ったことを、それによって示す翁への忠誠心を愛でてくださったのである。
 翁は、曾良が幕府の神道方、吉川惟足先生の弟子であることをご存じである。惟足先生のもとで『記紀』を『延喜式』を学び、『地誌』を修めてきたことを知っておられた。そして惟足先生の弟子が衣更をするということがどういうことであるかということも、もちろん分かっておられたのである。
 惟足先生の教えの第一は、忠君であった。それはすなわち、武士は二君にまみえず。曾良はその教えを忠実に守って、主君松平佐渡守様が隠居されたときに長島藩を去った。
 その惟足先生の弟子が、髪を剃った。
 剃髪僧形の姿で惟足先生のお宅にご挨拶にいったとき、先生はたった一言、
「それもよかろう」
とおっしゃっただけだった。その沈んだ声を聞き、曾良は涙が溢れでるのを抑えることができなかった。
 そして曾良は翁のもとに走った。翁はうんうんと頷かれて、目を細められた。
 しかし姿形をそのようにしたからといって、覚悟を決めたからといって、容易に心の奥に潜むものを変えることはできない。
 本当は俗な人間なのだ。粋に憧れ風雅の道を志しても、翁が欠点と指摘する、見た目に囚われ、簡単に気持ちを動かされて右往左往する軽薄な野暮な人間なのだ。哀れな百姓女に同情し、乞食坊主に心を動かされ、そしてこの水夫たちの熱気に自然に反応するのが何よりの証拠だった。
 翁に憧れ、翁の旅を自分の旅としたいという思いは嘘ではなかったが、乞食の行脚と心得、そのつもりで旅をつづけているうちに、自分の考えていた乞食行脚と翁の旅の違いが少しずつ見えてきた。
 しかしこの旅はあくまで翁の旅だった。自分はただの伴でしかない。
 翁はまるで子供のような方だった。傍で見ていて呆れるほどの俗な面を見せたかと思うと、こと俳諧のこととなると実に見事に俗を超え乾いた人間になってしまわれる。それが分かっていて、分かっているからこそ存分に俳諧の世界にひたっていただこうと伴をしているのだった。しかし毎日生活をともにしていると、俗な部分にばかり目が行ってしまう。理想は色褪せ、俳諧以外の煩わしいことばかりに心をすり減らしていくのが、胃の痛みとともに曾良には身に染みて感じられるのだった。
 自分が自分の心に嘘をつきつづけている。旅をつづけているうちに、曾良はそのことが分かってきた。それを感じるたびに、何とも虚しい旅になっていた。それを、今日は百姓女と乞食坊主でいやというほど思い知らされた。あの坊主と翁とそれほどの違いはない。むしろ自ら望んだことではないかもしれないが、乞食を徹底している分、あの坊主の方が勝っているかもしれなかった。なにが乞食の行脚なものか、と曾良は思った。翁は乞食行脚とおっしゃるが、本物の乞食から見れば、物見遊山と集金の旅といわれてもしかたがない。行く先々での心付けは、馬鹿にならないものがあった。その額の寡多で機嫌が変わる翁を見ていれば、結果としての心付けではあったが、その姿は乞食とはいっても座敷乞食、翁がもっとも嫌っておられる点取り俳諧の宗匠と少しも変わりがなかった。それでは乞食そのもので、乞食と乞食となるべき心がけは違うという翁自身の言葉に反してしまう。翁は、人助けをするなどとは思い上りもはなはだしいとたしなめられたが、翁にあの坊主より自分の方が上にいるという意識がなかっただろうか。いや、あったからこそ坊主の姿に『天人の五衰も、目の前に見えてあさましや』と千里を引き合いにだし、法外な金を施したのではないのか。
 考えれば考えるほど、翁に対する不満がつのってくる。そしてそれは、自分自身に対する不満でもあった。
 渡し船は、船のあいだを縫うように新潟に近付いていった。
 築地で、新潟は新興の町だと聞いていた。北前船のおかげで、地面から湧き出てきたかのようにできた町だということだった。川岸には瓦屋根の家が並んでいる。これほど瓦屋根の並ぶ町は、酒田以来だった。出入りの船の賑わいがなくても、対岸の沼垂はもちろん、今まで通り過ぎてきた町の葛屋の並ぶ町並みと比べると、それだけで豊かな町ということが分かった。
 船が船着場に着くと、渡し守に追い立てられるように客は降り、入れ替わって沼垂に渡る客たちが乗ってきた。
「お宿のご用はどうらかね。吉田屋でございます。お宿はお決まりですか」
 船着場には、客引きたちが待ち構えていた。客引きたちは、船から降りてくる客にまとわりつくようにして宿の用を聞いている。ふたり連れの女たちは、客引きを避けるように道の端を急いで通り過ぎようとしていた。
「おいおい、逃げねたっていいねっかね。なにも捕って食おうって言うんじゃねえすけ、ちっとばかし話しようてば」
 客引きのひとりが、女たちの行く手をふさいだ。
「私たち、急ぎますすけ」
 年かさの女が、若い女をかばうようにして前に出た。
「そんげこと言うなて。いい宿教えてやるすけ、もっとこっち来いてね」
「いえ、私たち新潟のもんですすけ。宿は結構でございます」
 女は若い娘の手を引いて、強引に通り過ぎていった。男はふたりの後ろ姿を見送り、チェッと舌打ちをした。
 男たちの客引きに混じって、女が三人ばかり客の袖を引いている。これはもう男客目あての出女に違いなかった。厚化粧が、まだ高い日の光のなかで、まるで能面のように見える。
 ふたり連れの男たちは、さっそく女たちと商談を始めている。年かさの男の下品に崩れたにやけ顔が、女の媚を露骨に表した顔とちょうど一対となっていた。女の蓮っぱな声が船着場の空気を白粉臭い匂いにしている。女を前にして脂下がっている男の傍を、船でふたりと話をしていた男が、にやにや笑いながら通り過ぎていった。
 客引きは、誰ひとりとして曾良たちに近付いてこない。女たちはもちろん、男の客引きたちからも、ふたりは空気のように無視されていた。
 ふたり連れの男たちは女と話がまとまったらしく、船着場から消えていった。ひとり消え、ふたり消え、とうとう曾良たちだけが残されてしまった。
 客を捕まえられなかった客引きたちが、船着場の一角に屯して煙草を吸いはじめた。
 曾良は焦った。これだけ客引きがいたら、ひとりぐらい宿の案内をしてくれるものがいてもいいはずだ。そう思って、曾良は屯している男たちに近付いていった。
「もし。お前さまたちは宿の世話をなさっておられるのだろうか」
 男たちが一斉に振り向いた。何のことかといった顔が曾良を見ていた。一番手前の男が、ぶっきらぼうに曾良に答えた。
「なんだってや。お坊さまたちもなにしたいってんだか」
 男たちが一斉に笑った。
 曾良は男の言っている意味が分からず、もう一度問いなおした。
「今夜の泊りを探しておるのだが」
 男が笑いながら手を振った。隣で煙草をくゆらせていた男が、煙管をはたいて灰を落とした。そして煙管のなかに残っている煙をゆっくり吹きだすと、皮肉な笑みを口元に浮かべて言った。
「おめさん、なんか勘違いしてるんでねえのけ。それとも、稚児さんでも探していなさるか。いくら新潟には何でもあるっていったかて、稚児さんはどうらろなあ。おい、おめえたち聞いたことあるか」
 ふたたび男たちが笑う。
「さあなあ、なんなら寺町に行って、どっかの寺で聞いてみたらどうらね」
 曾良もようやく男たちがただの客引きでないことに気付き、慌てて男たちの前を離れた。
 背中で、男たちの笑い声がする。
 翁はすでに分かっていたようだった。
「あの客引きたちはあちらの方の客引きであろう。いったい何をしにいったのかと思っておった」
 曾良は、自分の顔が赤くなるのが分かった。
「いえ、そうとは気が付かず、宿のことを聞いてみたのですが。直接宿を訪ねてみましょう。これだけの町ですから、よさそうな宿も見つかるでしょう」
「あのような客引きたちがお出迎えというのでは、この町の様子も知れたものだな。成り上がりの町とはこのようなものかもしれん」
 翁は、不機嫌を顔にばかりか、言葉にもあらわにしていた。
「何という町だ。川を挾んで向こうが極付けの地獄で、こちら側が下品な極楽とは。節操というものがないのか、この町は、、、」
 翁は、ぶつぶつと言いつづけている。節操がないとは言い換えればそれは人の本性に正直なのだと曾良は思ったが、それでも翁の言うことに黙ってうんうんとうなずいていた。
 翁の不平がひととおり終わると、曾良は先にたって歩きだした。
 船着場からいくらも行かない四つ辻に、宿はあった。それも立派な、二階建ての宿だった。
 曾良は、開け放たれた入り口からなかの様子をうかがった。
 奥の部屋から小唄が聞こえ、それに合わせた三味線の音がする。すでに酒宴が始まっている様子だった。港町の宿とは、たいがいこのようなものだ。船からあがった水夫は、ほかにすることがない。朝から、酒、女、博打と相場が決まっていた。それは船乗りたちの苛酷な仕事を想像させ、曾良にはそれを軽蔑する気持ちは毛頭なかったが、かといって乱痴気騒ぎで翁の休息を邪魔されるわけにはいかなかった。
「ごめん」
 曾良は入り口の土間に入り、奥に声を掛けた。
「はい、少々お待ちを」
 帳場とおぼしき部屋の襖の影から声がして、すぐに番頭が現われた。
「今晩、やっかいになりたいのだが」
 番頭は曾良の身なりを舐めるように見ていたが、曾良が言いおわるのも待たず、
「うちはいっぱいだねえ、他をあたってもらえねろっか」
と、ぞんざいな返事を返してきた。
 番頭の後ろを、お膳を持った女中が通り過ぎていった。
「そうかね。それでは、近くの宿を教えてもらえんかな」
 曾良が聞くと、番頭は鼻の先で笑いながら言った。
「お客さま、新潟は港町ですいね。本町や古町に宿はいっぺことありますわね。だろも、どうだろうねえ、今日は船がいっぺこと入ったすけねえ。おめさんたちを泊めてくれるとこがあるかどうか。まあ、行って聞いてみなさったらどうらね」
 番頭はそれだけ言うと、通り過ぎていった女中に声をかけた。
「お玉、それが終わったら、ちょっと帳場まで来ておくれ」
 曾良は番頭の態度に腹を立て、不快な気持ち表した顔を番頭に投げた。しかし番頭はまったく曾良のことを無視している。
 曾良の後ろに人の気配がして、旅支度をした男がひとりなかに入ってきた。
「いらっしゃいませ。これはこれは田代屋さま、お待ち申し上げておりました。ささ、どうぞ。ただ今すすぎをお持ちいたしますすけ。これお玉、田代屋さまにすすぎをお持ちして、、、」
 番頭の目のなかに、すでに曾良の姿はなかった。曾良は新しい客に居場所を取られ、自然に外へと追いだされる格好になった。
 明るいうちから三味線が聞こえてくるようなところは、夜になったらもっとうるさくなるだろう。翁のことを考えたら、こんな宿は断られてよかったのだ。曾良は、自分でも分かる負け惜しみでそう自分に言い聞かせていた。
「いっぱいだそうで、他をあたりましょう」
 表で待っていた翁にそう言い、曾良は次の宿を探して辺りをきょろきょろと見回した。ちょうど通り掛かった三十ばかりの女を呼び止め、近くに宿はないかと問うと、女はくすくすと笑い、いま出てきたばかりの宿を指差した。曾良が首を振って事情を話すと、女はちょっと考えていたが、
「それなら、俵屋さんに行ってみなせや。お向かいに長岡屋さんて旅篭もあるすけ、あそこがいいわね。この本町を下の方に一町ばか行った大神宮様の先、坂内小路の角ら」
と言って、左手をあげ道を示した。
 しかし、その俵屋でもいっぱいだといって断られた。宿の者の態度は、初めの宿と同じだった。本当に泊まり客でいっぱいなのか疑わしいものだったが、たとえそれが嘘でも曾良にはどうすることもできない。どこの町でも人相風体を見られることから始まった。そして一目瞭然の坊主はどこでも厄介者扱いだったが、特にこの新潟は冷たいようだった。
「お坊さま、こんげこと申し上げては失礼らかもしんねですけども、お坊さまってがんはお寺に泊まりなさるんでねんですか。新潟は、お寺いっぺことありますいね」
 長岡屋でも同じだった。体よく断られた後、ご丁寧にもそれなりの宿を教えてくれた。
「おめさん、来るとこ間違ってなさるがね。いいですかね、この坂内小路を川に向かって行きなさって、材木町を左に曲がると炭屋がありますわね。その炭屋の裏に宿がありますすけ、そこに行ってみなせや」
 外に出ると、翁がいない。辺りを探すと、
「おおい、曾良」
と角の水茶店から声がして、翁が店のなかで手を振っていた。
 翁は、もう歩くのがいやになっているようだった。ちょうどいい、翁にはここで休んでいていただこう、と曾良は思い、翁にその旨を話してひとりで宿探しにでかけた。
 教えられた炭屋の裏に宿はなく、あらためて炭屋に宿の所在を聞くと、
「ああ、それなら厩島の馬喰宿のことだろう」
と、二十歳ばかりの人のよさそうな手代が、店の外に出てきて場所を教えてくれた。
 宿は、馬喰たちの寄せ場に近い路地を入ったところにある、馬喰たちが寝泊りする追い込み宿だった。まだ日は高く馬喰たちはほとんど出払っていたが、人は少なくても宿のなかをうかがっただけで、男たちの汗のすえた臭いと厩の臭いが鼻をついた。
 尿前の宿を思い出す。
  蚤虱馬の尿する枕もと
 雨のなかで厩の臭いがこもり、生きたここちのしない夜だった。あの臭い、あのどよんと重く沈んだ空気。それが川前の立て込んだ長屋の奥の、じめじめした馬喰宿のなかにあった。翁も同じことを思い出されるだろう。そして、あそこと同じように眠れぬ夜を過ごされるに違いない。
 曾良は炭屋の前に戻った。ちょうど先程の手代が店の前にいて、曾良は別の宿を教えてもらおうと話し掛けた。
「おうよ、だめらったかね。この町は貧乏人に冷て町らっけねえ。そのうえ坊さんときたら、大概の宿は泊めてくんねろな。新潟ってとこは寺はいっぺことあるってがんに、坊主が欲たかりらすけ、だっれも坊主のこと信用してねんだがね。金持ちはけちなくせして、それでも寺に言われれば金は出すれもの。死んだ後の自分が人質になってんがんだと思ってんだろう。金持ちほど、死んだ後がおっかねんだこて」
 手代は、曾良に同情するように言った。
「それで、おめさん、どんげ宿でもいいんだかね。それらったら、あるれもの。この広小路を真っすぐにいって、堀を渡った次の道、そこが古町らすけ、そこを右に曲がってまっすぐにいってみなせや。御菜堀っていう堀になるすけ、そこを渡ると洲崎っていう新開地になってるがね。そこに一軒ある。洲崎に入ると道が入り組んでいて分かりにくいすけ、そこでもう一度聞いてみた方がいいな。おめさんも難儀なことらの。坊さまは修行が第一だってんだすけ、それもしょうがねか。おめさんみてな旅の坊さんを、新潟の坊主どもと一緒にしてもしょうがねがんだろも、とにかく新潟のもんはみんなけちらすけ、船乗り以外の余所者は、身なりで区別するすけの」
 店のなかから声が聞こえ、手代が振り向いた。
「彦、また油売ってやがんだか。うちは、油屋でねえて炭屋らろ。さっさと炭切ってこんか」
「へえい」
 手代は、曾良にひとつ笑いかけ、裏の炭倉の方に走っていった。
 新潟は、一番上手の白山神社から信濃川に平行して何本かの道が走り、それと交差する道がちょうど細長い格子模様を作っている。交差する道の他に無数の路地が道をつなぎ、あるいは袋小路になっていて、町全体が、ちょうど阿弥陀籤のようになった町だった。
 曾良は阿弥陀籤の道の上を、教えられたように上がりに向かって進んでいった。
 最初の東堀を渡り、古町を右に曲がって御菜堀を渡る。そこから先は信濃川が日本海に注ぐ出口に近く、ちょうど土地が三角形にすぼまったところで、ひとつとして真っすぐに通っている道はない。ちょっと行けば突き当たり、突き当たって曲がればまた突き当たる。道はまるで迷路のようになっていた。神社を振り出しにして阿弥陀籤を辿っていくと、新潟の町の上がりは迷宮だった。
 曾良は、炭屋の手代に教えられたように御菜堀の橋の袂で宿の場所を聞いた。そしてその迷宮のなかに分け入っていったが、いつの間にか自分のいる場所が分からなくなってしまった。右を向いても左を見ても似たような葛屋がつづき、しまいには自分がどちらの方から来たのかさえ分からなくなる。日はどんどん傾いてくる。気持ちは焦るばかりだ。辛うじて傾いていく太陽から方角をはかり、西へ、西へと戻っていった。戻りはじめて何本目かの路地を曲がったところで、路地の入り口にひとりの老婆がいた。老婆は筵のうえに座り、紙屑の皺を一枚一枚丁寧に伸ばしている。その老婆に宿の所在を聞くと、老婆は斜向かいの路地を指差し、その路地を出たところにあると教えてくれた。
 曾良のわずかな期待を裏切るように、ようやく辿り着いたその仕舞屋風の宿には、すでに入り口のところにまで人が溢れていた。これでは満足に足を伸ばして休むこともできない。ゆったりとした部屋などとんでもない話で、蒲団すら貸してはもらえぬだろう。大体見回したところ、蒲団を使っているものなどひとりも見当らない、蒲団など無縁の宿のようであった。
 奥の部屋の火の消えた囲炉裏の周りには、人々が折り重なるようにして体を横たえていた。薄暗い部屋のなかには人々の汗の臭いが入りまじり、あの馬喰宿とは違った、得も言われぬ臭気がどんよりと漂っていた。旅のものも、長逗留のものも、みな疲れ果てているように見えた。泊まり客たちは一様に押し黙り、暗くうち沈んでいた。どこからか、ごほんごほんと肺病病みのような咳が聞こえてくる。
 曾良は、居たたまれなくなって路地をでた。
 阿弥陀籤の上がりが迷宮で、その迷路のなかを辿り着いたところは掃き溜めだったのである。
 この宿のほかにあてがあるわけではなかった。しかしこのような所に、翁をお泊めするわけにはいかなかった。
 曾良は道を戻った。来るときには迷った道もすんなりと抜けて、見覚えのある御菜堀の橋のたもとにでていた。曾良は途方に暮れた。足は自然と翁の待つ水茶店に向かっていたが、その足取りは重かった。
 一体どうしたらよいのだろう。玉入では無理矢理庄屋の家に泊めてもらったが、あの時のようにはったりのきく町ではなさそうだ。寺に泊めてもらうか、それとも誰かに翁の素性を言って、そのことを理解できる人を探してみるか。これだけの町だ、いかに欲と得とで膨れあがった風雅とは無縁の町でも、俳諧をやろうというもののひとりやふたりはいるに違いない。俳諧を志そうとするものならば、翁の名を聞いたら腰を抜かすことだろう。
「お前たちの神様が、今ここに居られるのだぞ」
 曾良は、声を大にして叫びたかった。叫んで、理不尽な窮状にさらされている神とそのお側に仕えるものをこのままにしておいてよいのか、と言ってやりたかった。
 曾良は自分の足元にひれ伏す人々の姿を想像し、想像すると同時に、そのようなことを考えている自分の情けなさに血の気が失せていくのを感じていた。大きな虚しさが曾良を包み、曾良は思わず堀の端にうずくまってしまった。
 自分の心のなかにこのように情けない気持ちが潜んでいたのか、と曾良は愕然としていた。人に尊敬されたい、慕われたいという気持ちがないわけではない。しかしその気持ちは、この想像とはまったく別のものだと思っていた。そのような高慢な姿をいつも軽蔑していたはずだった。その軽蔑していた姿を、いかに追い詰められた挙げ句とはいえ想像するとは、それが自分の本性なのかと思わないわけにいかなかった。しかもひれ伏す人々の前に立っている自分の背後には、巨大な翁の姿がある。それもついさっき乞食坊主を見下していると軽蔑したばかりの翁の姿が。虎の威を借りた狐の姿が、自分のものだった。心のなかに潜んでいる、高みに立って人を見下したいという気持ちが生んだ想像だった。そしてそこには、俳諧への志など欠片もないのだ。
 今回の旅で翁のお伴をすることにしたのは、翁に対する無条件の忠誠心からだけではない。そのことは、自分でもよく分かっていた。今まで身の回りのお世話をしてきたのもそうだった。自分に才能がないことは、自分が一番よく分かっている。嵐雪や其角のような才があれば、伴をすることもなかっただろう。彼らの才を羨ましいと思う。旅の間、ことあるごとに嵐雪が、其角が、杉風がと、翁は他の弟子の話をされる。それがつづくと、時に居たたまれなくなることがあった。しかしこればかりはどうしようもない。凡庸な才しかない自分は、いつも翁のお側にいることで才を研くしかない、と曾良は思っていた。そして翁のお側にいることができるのは、俳諧の世界とはまったく関係のないことで翁のお役にたっているからだった。
 弟子たちのなかに、お内儀と陰口をたたいているもののいることは知っていた。なかには、あの歳で夜伽ぎもしなくてはならないとはたいへんなことだ、と言っているものもいるという。今回伴が決まったときにも、やはり、と言うものがいた。伴はすでに路通に決まっていたのに、曾良は翁を篭絡して伴の役を横取りしたのだという噂が、弟子たちのあいだで流れたのである。
 しかしそんな陰口が聞こえてきても、これでまた自分を研くことができると思い、逆にそのような陰口にざまをみろと思っていた。
 これではあの陰口のままではないか。いつの間に自分はこんな情けない男になってしまったのか、と曾良は自分を責めた。
 一瞬、このまま逃げ出してしまおうかという考えが頭の隅をかすめた。このまま逃げ出し、あの河渡の乞食坊主と同じような旅をつづけたらどんなに楽だろう、と曾良は思った。そしてそう思った瞬間に、曾良はその考えを頭の外に押しやっていた。
 気紛れに乞食坊主と同じようにとは思ったが、自分にあのような真似ができるわけがなかった。本当の乞食行脚をと思ったのは、翁と旅をつづけていたからこそのことだった。翁抜きでは乞食行脚の意味はなく、あったとしても、曾良にはそこに踏みだす勇気はなかった。
 それに翁をこのままにして逃げだせば、二度と俳諧の世界で生きていくことはできない。また墨染めの衣を脱ぎ捨てふたたび神道の世界に戻ろうにも、どの面を下げて惟足先生の前にでることができるというのか。
 翁をあのままにしておくことはできない。
 どこからか三味線の音が聞こえてきた。曾良の混乱する頭のなかを三味線の音がぼんやりと通り抜けていく。目の前には堀がある。水は流れているのかいないのか、黄土色に濁ったままかすかにどぶの臭いをさせていた。
 曾良は、ふと深川のことを思い出した。
 深川でも三味線の音はめずらしくない。町を歩いていれば、昼間からでも耳にすることがあった。そんな音のなかに、時にはっとする音に出会うことがある。そうすると曾良は足を止め、その音に聞き入った。音は流れるように、そして絶妙な間合いで、曾良の心の襞に分け入ってきた。まるでそこで曾良が聞いているのを知っているかのように語りかけてきた。曾良にも、弾くものの微妙な心の動きが、手に取るように分かった。
 そんな一時が、曾良は好きだった。
 あの音と比べたら、なんと下品な音だろう。
 笑い声が、三味線の音に混じって聞こえてくる。正体の見えない笑い声から、酒と白粉の匂いがぷんぷんと臭ってくる。三味線は、そんな酔客と女たちとのいかがわしいやり取りを煽っていた。
 この町にお似合いの音だった。
 曾良はその音を軽蔑しながら、一方で何かしら居心地のよさを感じていた。深川で聞くあの三味線の音とは比ぶべくもない。翁が聞いたら鼻で笑うに違いないだろう。しかし肩肘はったところのないありのままといった音に、曾良は強くひかれるものがあった。うまく弾こうとしているのではなかった。うまく弾こうとしても弾けはしないだろう。実際、決して上手な三味線ではない。ただ酒の勢いにまかせて弾いているようにも聞こえる。しかし楽しそうに弾いている。弾いているものも、聞いているものも、聞いていなくてもその場にいるものがみな楽しくなるような音だった。そう思ったとき、曾良は、
「お前は俳諧が好きで、それでこの世界にいるのではないのか」
という声を聞いた。それは自分の心のなかの声だったが、曾良は思わず振り返り、辺りを見回していた。
「そうだ、わたしは嵐雪ではないのだ」
 曾良は、自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。
 その才能の違いはよく分かっていたのに、どこかで背伸びをして近付こうとしていた。それも翁に取り入るという、俳諧とは関係ない方法で近付こうとしていた。これではまさに心の乞食そのものではないか。自分には自分の俳諧があるということを、なぜ今まで気付かずにいたのだろうか。
「お坊さま、いかがなされた」
 突然背中に声を掛けられ、曾良は驚いて振り向いた。初老の女が、曾良を見おろしていた。女は風呂敷包みを胸の前で抱え、心配そうな顔で曾良を見ている。歳の頃は四十五、六。翁と同じぐらいだろうか。髪に白いものが混じってはいるが、優しげな顔は若々しく見えた。
 女は、シャリシャリと下駄の音をさせて、曾良の方に近付いてきた。
「はあ、さてはあぶれなさったね。どこの宿も泊めてくれねかったんだね。ほんにもう、新潟の旅篭は、どこも狡っからいすけねえ」
 曾良は立ち上がり、女に会釈をした。
「それで、今夜のあてはありなさるのかね」
 曾良は、力なく首を振った。
「材木町の、馬喰宿は」
 曾良はうなずいたが、この女に事情を言っていいものかどうか迷った。
 女は、曾良の事情などおかまいなしに話し掛けてくる。
「洲崎には行きなすったか」
「実は、連れがおりまして。その方をゆっくり休ませてさしあげたいものですから」
 曾良は、女の勢いに引きずられるように返事をしていた。
 女は、ふうんと言い、言葉をつづけた。
「お寺には、行ってみなすったかね。まあ、行っても無駄らとは思うろも。さあて困ったね。これから沼垂に行くってのも難儀なことらし」
 女は眉根を寄せて考えていたが、その困った顔のまま言った。
「しょうがないねえ、もしお坊さまさえよかったら、家に来なさるかね。狭いとこらろも、雨露はしのげるいね」
 曾良は、女の話がよく理解できないとでもいったふうに、ぼんやりしていた。困り果てている今の状態を考えれば、一も二もなく女に甘えてもよいはずであった。しかし情けをあてにできないと覚悟を決めた町で突然の好意に面食らっているのか、曾良は返事もせずに女の顔を見ていた。
「いやらよお坊さま。おれの顔に何かついてるかね。そんげに人の顔ばっか見てねで。それでどうしなさんだね」
 女に促され、そこでようやく曾良は我に返った。
「これは勿体ないやら、有り難いやら。なんと申し上げようもない。本当によろしいのでござろうか」
 曾良の言葉には、卑屈な響きがあった。乞食は高慢であっても卑屈であってもならない、と翁には言われていたが、このような思いもかけない形で見ず知らずの人に情けをかけられ、ついついそのような言葉が口をついてでたのである。
 曾良は自分の言った言葉に恥ずかしくなり思わずうつむいてしまった。
 気持ちのうえでは野宿も覚悟の旅だった。しかし実際は優雅な旅であった。添え状を見た者のほとんどが、およそ下にも置かない歓待をしてくれた。いつの場合も曾良たちは選べる立場にあった。気に入らない宿があればほかを探し、半ば強引にでも宿をものにしてきた。追い込み宿を拒むことになったのも、そういった傲慢な宿探しが習いとなっていなかったとはいいきれない。
「そのお連れの方ってのは、どこにいなさるんだね」
 女が翁のことを聞き、曾良は急に翁のことが心配になってきた。もう大分時間も経っていた。翁はきっと待ち兼ねておられるだろう。
「この先の、水茶店でお待ちなのですが」
「水茶店っていうと、坂内小路の水茶店らね。それならさっさと連れてきなせや。おれはここで待ってるすけに」
                                                  つづく

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