曾良のほそ道 二 深川 (4)

「曾良さんこちらへ」
 翌日芭蕉庵に行くと、翁が曾良を手招きした。
 翁の隣には、路通がいた。
「あの男、点取り俳諧にうつつを抜かしているそうじゃあないか」
 翁の顔は、前の日嵐雪を責めたときと同じきびしいものだった。
 曾良の体から血の気が引いていった。あの男とは嵐雪のことである。嵐雪に点取り俳諧の疑いがかけられていたのである。
 今江戸では点取り俳諧が流行していた。そしてその流行に乗って金儲けをしている宗匠が大勢いて、みなたいそうな景気だという。しかし宗匠の看板で金儲けをすることは翁の最も忌み嫌うことで、乞食を理想とする翁の門弟でいる限り、それはやってはならないことだった。
「お前、ちょくちょく嵐雪のところに行ってるんだってねえ」
 翁の隣に路通がいた。路通は目を伏せ、曾良と目を合わせないようにしている。
 路通の意趣返しだった。
 路通が、嵐雪の家でかかされた恥の恨みを晴らしたのだ。点取り俳諧とは、あの男たちとの酒を賭けた発句のこと。路通が、酒を褒美に男たちに発句をさせたことを点取り俳諧だと、翁に告げ口したに違いない。
「いえ、嵐雪さんがそのようなことをやっているとは思えません。何かの間違いかと思います。嵐雪さんは弟分たちに俳諧の手ほどきをしているだけで、点取り俳諧だなんて、滅相もありません」
 曾良がそう答えても、翁は不満なままだ。
「秀逸に褒美をだしたんだろう。それを点取り俳諧というのじゃないのかね。まさかお前まで染まってしまったんじゃあないんだろうね」
 嵐雪のやったことが曾良をも追い詰めていた。自分の気持ちを代弁してくれたと一時でも喜んだが、実はそのことが曾良の足をも引っ張ることになったのである。
 もしかしたら昨日のことも路通の仕掛けかもしれない。嵐雪のあることないことをあらかじめ翁に吹き込んでいたということも、考えられないわけではなかった。嵐雪のような分かりやすい男は、行動も簡単に予測できる。実際芭蕉庵に集まった連中の期待どおりに嵐雪は動いた。それを計算に入れて、路通は翁を動かしたのではないのか。
 その巻き添えを食らってしまった。
 その日から路通が翁の身の回りの世話をすることになった。芭蕉庵で曾良の出る幕はほとんどなくなり、曾良の目算は見事に外れてしまったのである。


 年が明け、奥州への旅が本決まりになった。
 お伴には路通が決まった。
 このような大事な旅の伴はこの男しかいない。この男に出会えて、奥州への旅の決心が固まったのだ。路通は私にとっての恩人だと、翁は口を極めて路通を誉めあげた。
 曾良は自分の思い描いていたものがことごとく反古になり、芭蕉庵での仕事もあらかた路通に奪われて、遣る瀬ない新年を迎えていた。芭蕉庵に行っても有頂天の翁と得意満面の路通の顔を見るのが辛く、早々に退散する日々がつづいていた。
 出立をひと月後に控え何かと気忙しくなった芭蕉庵に、曾良は呼ばれた。
 ここのところ翁はひどく気持ちが高ぶっていた。つい今し方まで上機嫌だったのに、いつの間にか苦虫を噛み潰したような顔で小言をいう。そのような豹変、気紛れは今に始まったことではなかったが、それが毎日のようにあると、たとえ一世一代のそれも生きて帰れぬ旅になるかも知れぬのだからと思っても、周りにいるものにしてみれば、いささか困ったことではあった。
 なにかまた小言かと思って翁の前に出ると、翁の様子がいつもと少し違っていた。
「もう、おまえだけが頼りだから、、、」
 翁は、今にも泣きだしそうな顔でそう言った。
「わたしは最初からおまえしかおらぬと思っておった。それをあの姿に騙されてしまって。乞食というに色の白いは、形ばかりの乞食ということ。そこのところに気付かなんだは迂闊であった」
 翁が路通のことを話しているのだということはすぐに分かった。
「あの時、嵐雪の言ったことをきちんと聞いておればよかったのだ。あの額のなりの小さなところをみれば、あの男がどれほどの器量のものか知れるというものを。やはり、大事な旅の相手は、おまえのようなしっかりしたものでなくてはかなわぬ」
 路通に最大級の賛辞を惜しまなかった翁が、まるで掌を返したように罵っている。
「どうだね、行ってくれるかね」
 翁と路通のあいだに何があったのかは分からない。それがどのようなことだったにせよ、路通の失態は曾良にとって願ってもないことだった。
「お伴仕ります」
 曾良は一も二もなく翁に頭を下げていた


 曾良は天にも上る心地だった。これでようやくこれまでの苦労が報われる。四十にしてやっと自分にも運が向いてきたのである。
 芭蕉庵からの帰り道、曾良は何度も快哉を叫びそうになった。
「これはこれは河合様。なにかよいことでもござっしゃったのかえ」
 長屋の木戸の前で出っくわした隣家の女房が、珍しいものでも見るように曾良の顔を見上げ、そう言った。
 普段ろくに言葉を交わしたこともない、せいぜい形ばかりの会釈をするだけの女がそんなふうに声をかけてくるのは、自分の顔が余程上機嫌に見えたのに違いない。
 女の珍しいものを見るような目は、もしかしたら自分はいつも苦虫を噛みつぶしたような、いやな顔をしていたのかもしれないと、曾良は身に覚えがあれば、なにか照れ臭い思いがして女に笑顔で頷いていた。
 こんな風に自分がどんな顔をしているのかも忘れるほど、余裕のない暮らしを送っていたのか、と曾良はあらためて思わずにいられなかった。
 いつもなら、待つもののだれもいないひとり暮らしの家に帰ってくれば出るのは溜め息ばかりだったのに、なんとはなしに顔がほころぶ。そんな自分に気が付くと、そのことでまた頬がゆるんできた。火鉢の底にわずかに残った置き火でかじかんだ手を炙っていても、昨日までの体の芯まで冷えきったような瘧を感じないのは、すでに弥生三月も間近というだけではなかった。
 赤の他人の隣の女房に気取られるほどに気持ちの余裕を失ってはならない。曾良はそう思い、そのためにも今度の旅を無事に終わらせなくてはならないと思った。
 体も暖まり人心地ついて翁の言葉をあらためて思い出してみると、果たして翁の言葉を額面どおりに受け取っていいものだろうか不安になってきた。甘い言葉につい浮かれてしまい、それが元で何度も失敗している。思いもかけぬ僥倖に有頂天になっていたが、冷静に考えてみれば、翁にはいつもぬか喜びを味あわされていた。
 そういえば翁の言いようはいつになく卑屈だった。翁が卑屈な物言いをするのは、力のあるもの、自分よりも強い立場にあるものを前にしたとき、あるいは何か頼みごとをするようなときばかりである。そして翁は、そのような卑屈な物言いをした後、決まって不機嫌になっていた。
 翁のあの卑屈さが気に掛かった。翁を不機嫌にさせてはならない。ただでさえ翁は気紛れなのである。明日になったらまた路通がいいと言いかねない。その不機嫌が元で、奥州行きの伴が取り消されたのでは、元も子もなかった。
 どうしたらよいか。
 曾良は居ても立ってもいられず、家を跳びだしていた。
 曾良の頭のなかにあったのは、ただひとつ、髪を剃るということだった。路通が翁に気に入られたのは、乞食僧だったからである。それなら、自分も髪を剃り、乞食僧になればいい。
 髪を剃ったらどうなるか。曾良の頭のなかでは、さまざまな考えが渦巻いていた。
 髪を剃り、墨染めの衣を着て惟足先生の前に出たら、先生は、「お前、もう来なくてもよいから」と言われるに決まってる。これで、惟足先生のところの仕事はなくなるだろう。
 曾良が惟足先生の弟子であるということは、翁も知っていることである。髪を剃って墨染の衣をまとった姿を翁に見てもらうということは、自分の覚悟がどれほどのものか翁に知ってもらうということでもあった。
 もう後戻りはできなかった。これまで何度も後戻りはできないと覚悟を決め、そのたびに思うに任せぬことがあると決意が揺らぎ、後戻りしてきた。
 しかし今度こそ本当の正念場だった。


「旦那。旦那なら知ってんでしょう」
 烈に問い詰められ、しかし曾良には烈に返す言葉がなかった。
「なんだよ、やっぱり知ってんだね。知ってるからそんなふうに黙りこくっちまってんだ。知ってんなら教えておくれよ。いいじゃないか。旦那、うちの人のダチだろう。ダチだったら仲間が困ってんのを知らぬふりにゃあできないだろうが」
 烈は、黙っている曾良に、そう畳み掛けた。
 ひと月前に何があったのかは知らないが、いずれにしろ嵐雪が大変だということはよく分かる。しかし今は自分にとっても一生に一度の大変なときなのである。
 曾良は自分のことで手いっぱいだった。いくら烈にそのように言われても、嵐雪には申し訳ないが、何もしてやることができなかった。今翁に、嵐雪が、などと言ったら、せっかくの話が台無しになってしまう。そんなことで、ようやくつかんだ幸運を手放すようなことはできない。嵐雪なら、自分の力でどうにもできるだろう。しかし自分には翁にすがって生きていくより他に道はないのである。
 ここで何かを言わないと烈に嫌われてしまう。しかし言っても言い訳にしかならず、もっと嫌われることになる。
 何を言ってよいのか分からず、曾良は顔をあげることもできなかった。
 いつまでも顔を伏せ黙っている曾良に、烈はとうとう痺れを切らせた。
「そうかい。分かったよ。旦那がうちの人のダチだと思うからこうしてきてみたんだ。そうかい。そういうことかい。なんだい、なにが古事記の先生だい。古事記、古事記って、やっぱりほいとのことだったんじゃあないか。ほいとにゃあその坊主頭がお似合いだよ。ご立派なほいとのお坊さまに、馬鹿なことをお頼みして、悪うございましたねえ。ご免なさいよ」
 烈はそう捨て台詞を残して出ていった。
 曾良は後を追うこともできずに板の間に立ち尽くしていた。隣の女房がふたたび家のなかを覗き込み、曾良と顔を合わせるとそそくさと通り過ぎていった。
 曾良のなかの、この数日の間の充実感はすっかりと消えてしまった。ただ、苦くて鈍い澱のようなものが胸のなかに沈んでいく感覚ばかりが、そこには残っていた。


       *


 新大橋のうえは、いつにも増して人々で溢れかえっていた。
 暮れも押し詰まった大晦日の昼下がり、今年一年の仕事納めに、そして正月の支度にと、みな残されたわずかな時間に急かされて、慌ただしく行き来をしていた。
 大川の川面をわたる身を切るように冷たい風が、その足を一層早めた。衿に首をうずめ、背中を丸めて小走りにかける人々の、その丸めた背中に風花が舞い落ちてきた。
 浜町の方から、腰に通いを提げた手代ふうの若い男が、曾良の方に真っすぐと向かってきた。首をすぼめて足元ばかりを見ていたせいか、あるいはなにか考え事をしていたせいか、男はそのまま曾良にぶつかりそうになって、慌ててうつむいていた顔をあげた。
「気をつけやがれ」
 男は吐き捨てるように言うと体をかわし、しかし体をかわして後ろ向きになったとたん、今度は曾良の後ろを歩いていた丁稚小僧とぶつかった。懐手をしていた男は、額から前のめりに転び、背中に大きな風呂敷包みを背負った小僧も尻餅をついた。
「ばかやろう」
 起き上がった男は、まだ引っくり返ったままの小僧にむかって罵った。そして罵りながら打ちつけた額に触り、その指先に赤いものを認めると、やおら小僧の襟首をつかんで頬を張った。
 十歳を越えたかどうか、今だにその面影にあどけなさの残る小僧は、怯えて身を縮め、ただ「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返すばかりだった。
 道を塞いだふたりの周りに、あっという間に人垣ができた。
 男がふたたび小僧の頬を張ろうと手を振り上げたそのとき、人垣のなかから坊主がひとり前にでて、若い男の振り上げた手をつかんだ。
「もういいだろう。相手は子供じゃあねえか。許してやんな」
 坊主がそう言うと、
「そうだ、そうだ」
と、まわりの人垣からも声がかかる。
「てめえがぼやぼやしてやがるのが悪りいんじゃあねえか」
という声も聞こえる。
 若い男は人垣を見回して自分の旗色の悪さを感じたのか、坊主の手を振り払うと、ちぇっ、と舌打ちをして人垣を分け、足早に去っていった。
「ありゃあ、掛け取りが思うようじゃあなかったな」
 人垣が崩れ、ふたたび歩きはじめた人々のあいだから、そんな声が聞こえる。
 坊主が、尻餅をついたままの小僧の手を引いて起こしてやる。その坊主と曾良の目があった。
「曾良さんじゃあねえか」
 坊主が曾良に言った。
「嵐雪さん」
 咄嗟にそう返事をしたものの、曾良はそのあとに言葉を継ぐことができず、茫然と坊主の顔を見つめるばかりだった。
 曾良はうろたえていた。その顔には驚きの、そしてそれにもまして隠しようのない戸惑いの表情が表れていた。
 一年ぶりの再会だった。最後に会ったのが芭蕉庵での翁の追善興行のとき。その数年前からそれまでの親密さが嘘のように疎遠になっていて、その疎遠になったいきさつがいきさつだけに、曾良には嵐雪と顔を合わせるのも憚られる後ろめたさを感じていたのだった。
 できれば嵐雪と会うことは避けたかった。しかし同じ江戸に住み、ともに俳諧の世界に生きていれば、いやでも顔を合わせることはあった。嵐雪はすでに翁の生前から芭蕉庵から遠ざかっていて、余程のことがなければ俳席を同じくすることはなかった。それでもなにかの時に一緒になることはあって、そのたびに曾良は気まずい居たたまれない思いをしていたのである。追善の歌仙のときも、まだ翁存命中の芭蕉庵での俳席のときも、曾良は嵐雪の顔をまともに見ることさえできなかったのである。
 もし坊主が嵐雪だと分かっていたら、曾良は人垣から外れて立ち去っていただろう。自分でも情けないとは思うが、顔を合わせたときの気まずさと、避けて覚える気まずさとを秤にかければ、曾良は避けるほうを選びたかった。
 しかしその坊主が嵐雪だということに、曾良は気づかなかった。
 曾良は坊主が若い男の狼藉を止めに入ったときに、よく似た男がいるものだと思い、しかしよく似ているとは思ったが、まさか嵐雪だとは思いもしなかった。嵐雪が坊主になっているわけがない。嵐雪と坊主はまったく結びつかない。坊主は、曾良の思いうかべる嵐雪の姿から一番遠いところにあるものだった。
 突然の再会に戸惑いながら、曾良は嵐雪の坊主姿に目を見張った。曾良にはなぜ嵐雪が坊主になっているのか、まったく理解できなかったのである。
 嵐雪は坊主が嫌いだった。自らそう公言してはばからず、そしてそのことはだれもが知っていることだった。
 その坊主嫌いの嵐雪が、坊主になっている。
 曾良は嵐雪の坊主頭を見ながら、自分の顔が引きつっていくのを感じていた。何をいまさら坊主なのかという思いが、腹の底から込み上げてきた。
 坊主は、曾良にとってたった一枚のそして最後の切り札だった。
 『おくのほそ道』の旅に翁の伴としてついていくことができたのも、江戸にもどり、門弟のあいだの世話役といった役回りを与えられ、いつも翁の側近くにいることができたのも、すべてその切り札のおかげだった。そして曾良がどのような思いでその切り札を切ったかということを、嵐雪はよく知っていたはずであった。
 曾良の寂しい手札と比べて、嵐雪には手持ちの札が、それもとびっきり上等の札がたくさんあった。坊主などに身をやつさなくても、自分の思うままに生きていけたはずであった。溢れるほどの才に恵まれて、したいことがあれば、なりたいものがあれば思いのままだった。そして実際嵐雪はそのように生きてきたのではなかったのか。嵐雪は嵐雪らしく、好き勝手な生き方をすればよいのだ。それを何をいまさらの坊主であった。
 とそう思いながら、曾良は、ようやく嵐雪と肩を並べることができたと思った。どう足掻いても届かなかった嵐雪と、今初めて並ぶことができた、と思った。
 嵐雪は手詰まりになったのだ。手詰まりになって、それまで見向きもしなかったような札を手にしたのだ。
 たしかに嵐雪はもう昔の嵐雪ではなかった。かつて其角と双璧とうたわれた頃の勢いはなく、翁の弟子たちにも、嵐雪の名を聞いてそれだけで腰がひけるものは少なくなっていた。晩年の翁との不仲は公然の事実であり、すでに一門のなかに嵐雪の居場所はなくなっているといってよかった。
 いかに嵐雪が才に恵まれていても、翁の傘の外に出て何ができるというのだ。嵐雪が宗匠でいられるのも、翁あってのこと。翁が亡くなられて初めてそのことに気が付いてももう遅い。それで坊主になったからといって手詰まりが解消できるわけではないのである。
 嵐雪に手を引かれて小僧が立ち上がり、立ち上がると、小僧は嵐雪にお辞儀をして去っていった。
「気をつけて行きなよ」
 嵐雪が声をかけ、小僧は振り返ってお辞儀をした。
「ありがとうございました。ありがとうございました、、、」
 小僧は何度も振り返り、そのたびにお辞儀を繰り返した。
 嵐雪はいとおしむような笑顔でそれに答える。
 その笑顔が曾良に向けられた。小僧に向けられたのと同じ、暖かな眼差しだった。
 曾良は、思わず目を伏せた。
 嵐雪は少しも変わっていない。初めて会ったときと同じ嵐雪が目の前にいて、初めて会ったときと同じ眼差しが、曾良に注がれている。嵐雪の眼差しは、曾良の邪推の遥か向こう側にあった。嵐雪に他意はない。屈託などさらさらないのだ。
 曾良は、一瞬たりとも嵐雪と並んだと思ったことを恥じた。嵐雪を侮ったこと、自分の思い上り、そしてなによりも嵐雪に嫉妬している自分を恥じた。
 会いたくない、顔を合わせるのもはばかられると思いつつも、曾良の心の片隅には、いつも嵐雪のことが引っ掛かっていた。嵐雪のことを思い出せば、いや思い出さなくともことあるごとに、嵐雪のことが、そしてその妻烈とのことが、心に大きく重くのしかかっているのを意識しないではいられなかった。
 烈とのこと。烈は、あの時のこと、そしてその後の様々なことを裏切りと思っているだろう。曾良も裏切ったと思っている。嵐雪ははたしてどうか。
 曾良はやましさを気取られぬように、なに食わぬふうに顔をあげた。
 曾良の前には、嵐雪の穏やかな笑顔がある。
 そうだ、この目だ。嵐雪は咎めてはいない。そんなことは最初から分かっていたことではなかったか。嵐雪は人を咎めだてするような男ではない。咎めるどころか、曾良がやったことを、これっぽっちも悪意にとりはしないだろう。そのことを、曾良はよく知っていた。知ってはいたが、曾良にはその笑顔が、まるで大川の川面をわたる風のように冷たく心に突きささってくるように感じられたのだった。


                                      深 川  終わり
                                      四条河原につづく

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