曾良のほそ道 三 四条河原 (1)

 去来の寮を出るときにはまだ激しく降っていた雨も、二条橋につくころには小降りになってきた。傘を打つ雨の音もいつの間にか小さくなって、厚く黒い雲に覆われていた西の空にも明るさが見えてきた。
 この分なら明日の山鉾巡行は大丈夫だろう。
 曾良は雲の切れ間に覗きはじめた青空を眺めながら、初めての祇園会が雨の祭にならずにすみそうだと、ほっと胸をなでおろしていた。
 卯月の終わりに曾良が京に入ってからこちら、ずっと天候不順の日がつづいていた。ことに水無月六月に入ってからは晴れ間の見える日もなく、この三日間というものは、四、五間先も見えないような激しい雨の毎日だった。
 天候の不順のせいもあるのだろう、このところ翁の痔の具合が思わしくない。この状態がつづけば祭見物どころではないから、祇園の祭はあきらめなければなるまいと思っていたところに、翁から行ってくるようにとお許しがでた。
 これから先、お前が祇園会を見る機会はもうないだろうから、せめて山鉾の巡行だけでも見てくるといい。翁がそう言い、その言葉に凡兆が案内を買ってでたのが昨日のことだった。
 祭はハレの日。誰でも祭のことを考えただけで何かしら心浮き立つものがあるが、幕府の神道方、吉川惟足先生のところで神道を学んできた曾良にとっては、どの社のどの祭も、それ以上の特別な感慨があった。
 それが京で一番の祭である祇園会ともなればなおさらである。
 一度はあきらめていた祭に行くことができる。そう思えば、曾良の気持ちはいやがうえにも高ぶってくるのだった。
「うっとこからが近いよって、前の日のうちにおいでになるとよろしい」
 曾良は凡兆のすすめに応じて、聖護院の去来の寮から小川椹木町の凡兆の家に移ることにしたのである。
 ちょうど二条橋の袂に差し掛かったところで、橋の中ほどで人が騒いでいるのが目に入った。川の中を指差し、なにかわめき散らしている。川向こうにも何人かいて、その男たちのなかにも川の中を指差しているものがいた。
 男がひとり、ふたりと曾良の脇を走り抜けていった。水しぶきがあがり、曾良の墨染めの衣の裾に泥が跳ねた。
 橋のうえで十人ほどの男がたむろしていた。曾良は男たちが何を見ているのだろうと、欄干から身を乗りだして川のなかを見た。加茂川は河原にまで水が上がり、茶色に濁った水が渦を巻いて流れていた。時折流木や草の塊が流れてくるものの、目に入るのはそれだけで、ほかにそれらしきものはなにも見えない。
「ほら、あこや」
 向こう岸の方を指差す男がいて、その指差す先を見ると、水に浸かった草むらのなかで、何か白いものが浮いたり沈んだりしている。
「生きとるのか」
「あかんやろ」
 白いものが岸の方に近づいていき、それを見て何人かの男が川岸に走った。
 川岸を長い棒を持った男が走り、待ち構えていた男に渡すと、受け取った男が土手を下りていった。恐らく鳶口だろう、男はその棒を使って白いものを岸に引き寄せていた。
 また何人かが川岸に走っていき、橋の上には曾良とふたりの男が残った。
「何人目や」
「三人や。もっと流れてきよるかもしれへん」
「上のほうで山崩れがあったゆう話やないか」
「そうや、お祭の最中やちゅうのに、えらいこっちゃがな」
「おっ、上がったで」
 一方の男が岸を指差した。川岸では、人がひとり引きあげられたところだった。体を覆っていたものは流されたのか、丸裸である。見た感じでは男。引きあげた男が土手の上に向かって、左右に手を振った。
「あかなんだみたいやな。なんや髪の毛があらへんがな。坊主とちゃうか」
 岸を指差した男が言い、もう一方の男も吐き捨てるように言った。
「坊主かいな。しょうもない」
 男たちが曾良に気づいていないわけがなかった。曾良は誰が見ても坊主と分かる姿をしていたのである。
 しかし気まずい思いをしたのは曾良のほうだった。京でも坊主の評判は芳しいものではなかった。肉を食い、女を買い、果ては強請りたかりに明け暮れる坊主が、京の町にも横行していたのである。
 曾良が男たちのところを離れ歩き始めると、一方の男が曾良の背中に向かって言った。
「お坊さまよう。お仲間に、ありがたいお経のひとつもあげて差し上げたらどないだ」
 曾良はどきりとして立ち止まった。できればこの場をそっと立ち去りたかったのに、このひと言でそうもいかなくなった。
 曾良が振り返ると、男たちは口元に皮肉な笑いを浮かべていた。曾良は男たちに向かって返す言葉もなく、ただ会釈を返すばかりだった。
 そのまま逃げることもならず、曾良は土手を下りて行った。
 曾良が近づくと、屍のそばにいた男たちが場所をあけた。屍は仰向けに横たえられている。はたして剃り上げられて青くなった頭と、足の甲の草鞋だこは坊主のもの。二十にはまだとどかぬだろう。顔つきにも体つきにも幼さを残した坊主だった。
 曾良は長島にいたとき、いやになるぐらいたくさん水死体を見ていた。木曽川が暴れれば必ずといっていいぐらい死人がでた。川に流された屍は時折長島に打ち上げられ、そのたびに坊主が呼ばれ、曾良の預けられていた寺にもよく声がかかった。流れ着いた屍はどれもぱんぱんに膨れあがり、生前の面影をとどめているものはひとつもない。時にはかろうじて肉片のついているだけといったようなものもあって、それら水死体の記憶は曾良にとって長島にまつわる忘れたいいやな思い出のひとつであった。
 しかしその少年といってもいい男の屍は息絶えて間もないものなのだろう、体には傷ひとつなく、死化粧をほどこしたように白いきれいな顔をしていた。目を半眼に開き、かすかに口をあけているその顔から苦悶の表情は見えない。しかしかと言って決して満足して死んでいった顔でもなかった。この男がどのような坊主だったのかは分からないが、突然の死をむかえこの男は何を思ったのだろう。顔の表情からは、その思いを知ることはできない。運命に身をゆだねるように水の流れに身を任せたのか、あるいは無念さに身もだえながら事切れたのか。明日はわが身の現実ではあるが、曾良にはもし同じようなことになったら、そのときを平らな心で迎える自信はなかった。
 曾良は無性にこの場から逃げだしたくなった。
 このまま今の暮らしをつづけていたら、このような形の野垂れ死も十分に考えられた。それはことあるごとに考え覚悟を決めていたことであったはずなのに、いざ実際の姿を目の当たりにすると、思わず怖気を振るってしまったのである。
 曾良はまわりの男たちを見回した。
 男たちは、曾良が早く読経を始めないかと待ち構えている。もはやここから逃れる術はなかった。
 男たちの目にせかされ、曾良はのろのろと屍のほうに向き直ったのだった。


 凡兆の家につくころには、すっかり雨はあがっていた。西の空はすっかり晴れ上がり、何日かぶりの太陽がのぞいていた。
 太陽が戻れば京の夏である。日は西に傾いていたが、これまで涼しいを通り越して寒いぐらいだったのが嘘のように、一気に暑い京の町になった。
「曾良さん」
 家の前で、ちょうど外から戻ってきた凡兆といっしょになった。
「曾良さん、あんたはん精進がよろしいのやなあ」
 慈姑頭が屈託のない笑顔を見せる。
 その声を聞きつけたのか、玄関に妻の羽紅が迎えにでてきた。
「まあまあ、大変な雨どしたなあ。ようおこしやす」
 羽紅は、いつに変わらず愛想良く曾良を迎えた。その後ろに隠れるようにして、四歳になるという痩せて顔色の悪い女の子が指をしゃぶりながらこちらを覗いている。
 凡兆が羽紅の顔を見るなり、
「えらいこっちゃ。天神川が溢れよって八条のあたりは水浸しやで」
と、町の様子を話しはじめた。
 加茂川であの有様である。これだけ雨がつづけば、あちこちの川が溢れてもおかしくない。加茂の上流では土砂崩れがあったというし、もっと大きな桂川やその支流が大変なことになっているということぐらい、この土地のものでない曾良にも容易に想像できた。
「てい、ご挨拶は」
 羽紅に挨拶を促されると、ていと呼ばれた女の子は家のなかへ逃げていってしまった。
 曾良が凡兆の娘を見るのは初めてだった。先月凡兆の家で俳書『猿蓑』の編纂作業をしていたときは、仕事の邪魔になるからというので、羽紅の実家に預けられていて留守だったのである。
 翁から病気がちの娘がいるという話は聞いていた。その話をしたときの凡兆は、自分は医者であるというのに娘の病を思うように治すこともできない藪医者だと、自嘲気味に笑っていたという。確かに娘の顔色は病人のもの。子供の体の心配をするのは親なら当然のことだが、凡兆は医者であるがゆえの、普通の親とはまた別な心労もあるに違いない。
「とにかく、着替えや。曾良さんにも出して差し上げろよ。はよ着替えな、風邪引いてしまうがな。医者の風邪引きはしゃれにならんよってな」
 凡兆がそう言って、ひとつくしゃみをした。
 羽紅は、用意のできていることを凡兆に伝えた。玄関にはすでにすすぎの桶もだされていて、羽紅は曾良の足を洗ってくれようとするのだった。
 気持ちはうれしかったが、目の前に亭主がいるところでそのようなことはできない。曾良があわてて遠慮すると、それを見ていた凡兆が、
「曾良さん、好きにさせたらよろしいがな」
と、笑って言うのだった。
 加茂川であのようなことがあり気持ちのふさいでいた曾良には、凡兆たちの心遣いがうれしかった。病気の子供がいる家には何かしらの暗い影があるのではと想像していたが、凡兆たちに影は見えなかった。もちろん影を見せないようにしているのかもしれないが、少なくとも曾良への応対のなかで意識した不自然さは見えてこない。
 曾良はふたりの顔を見比べ、羽紅に泥のついた足をゆだねたのである。
曾良が用意されていた浴衣に着替えていると、凡兆が徳利と茶碗を手に部屋に入ってきた。
「どないです。暑気払いや、一杯いきまへんか」
 凡兆は縁側に曾良を誘い、腰を下ろした。縁側にはすでに蚊遣りが焚いてある。西の空が夕焼けに染まり、犬槙の仕立物と南天、あとは下草が植わっているだけの小さな庭は、すでに夕闇のなかにあった。
「去来はんが、床を用意しとらはるそうで、さすが去来はん、太っ腹や」
 凡兆はそう言って曾良に茶碗を渡し酒を注ぐと、自分の茶碗にも注ぎ、ぐいとあおった。
その話は出掛けに曾良も聞いていた。
 毎年水無月の七日から十八日までのあいだに四条河原にでる床は、夏の京の風物詩である。翁も去年、その床に夕涼みに行ってきたと聞いていた。
 しかしいくら雨が上がっても、あの流れが明日までにどれほど治まるだろう。たとえ治まったとしても、河原は水浸し。ぬかるんで床どころではないのではないだろうか。
 曾良が加茂川の流れの凄まじかったことを言うと、凡兆は笑って手を振った。
「心配には及びまへん。水さえ引けばぬかるもうがどうしようが床はでますがな。それに去来はんの用意してくらはった床は、お茶屋の床や。川岸からせり出した床やから、河原が水浸しでも心配おまへんのや」
 凡兆は徳利を上げ、曾良に茶碗をあけるよう促した。
「それにしてもえらい雨どしたなあ。ただでさえお祭で大変やのに、この雨で八坂さんは大忙しや。お蔭でうっとこはそのおこぼれに与れるわけで、有り難いといやあ有り難いのですがな」
 凡兆は町医者である。水が上がれば病気が流行る。八坂神社は蘇民将来、厄病退散の神社で、祇園会はその八坂神社のお祭。八坂さんのおこぼれとは、病人が出れば医者が流行るということを言っているのだ。
「去来はんと違うて、うっとこのような貧乏医者は、こういうときに稼いどかんと食べてけませんのや。もともと医者なんてもんは人の不幸につけこむ、因業な商売でっけど、まあそれで人が救われるんでっさけ、それぐらいのこと目えつぶってもらわんと」
 凡兆の苦笑いにゆがんだ顔が、もうひとつ卑屈にゆがんだ。
 去来も医師だったが、宮中御用の御典医向井元端の弟で、ただの町医者の凡兆とは天と地ほども立場が違っていた。凡兆はその立場の違いを言ったのである。
 凡兆が空いた茶碗に酒を注ごうとしたとき、玄関に人の気配がして、羽紅が凡兆を呼んだ。
「曾良さん、まことにあい済まんこってすが、どうにも留守にせなあかんようになりましてな」
 戻ってきた凡兆が、渋い顔をしている。
「何や腹を下した言うて。まあたいしたことないと思うんやが、なんせ年寄りやさけ」
 凡兆の顔には、せっかく飲み始めたのにといった不満の表情がありありと見える。
 曾良が知っている凡兆は俳人としての凡兆で、凡兆がどんな医者なのかは分からない。腕の良し悪しも分からないし、昨今の医者に多い病人の懐具合でさじ加減を変える不届きな医者と同じ手合いかどうかも分からない。しかしそのような顔を見ると、けっして病人第一の医者とはいえないように曾良には思えるのだった。
 玄関に送りにでた曾良に、
「曾良さん。実は曾良さんに大事な話がおましたんや。まあその話は帰ってからということで。すぐに戻って参じますよって」
と、凡兆が含みを持たせるようなことを言った。
 はてと思い曾良が問うと、凡兆はまあそれは後でと怪しげな笑顔を返してでかけてしまった。
 笑顔を見せてのことであるから悪い話とは思えなかったが、大事といわれては構えてしまう。隣で見送っている羽紅を見ると、羽紅も笑顔を見せていた。凡兆の話したいことを、羽紅も知っているかのような笑顔である。しかし羽紅は何も言わず、そのまま奥の部屋へと戻っていってしまった。
 縁側に戻り、凡兆の残した笑顔に思いをめぐらしながら酒を飲んでいると、羽紅が酌をしにきた。
 後ろに娘がついてくる。
「ほんまに愛想なしで」
 羽紅が酌をする。その羽紅に凡兆のいった大事な話とは何のことか尋ねてみたが、それは凡兆に聞いてくれと軽くいなされてしまった。
 羽紅は賢い女である。
 曾良が初めて羽紅に会ったのは、羽紅が嵯峨の落柿舎に翁の好物を差し入れに来たときのことだった。落柿舎では、翁と去来、凡兆が『猿蓑』の編纂の真っ最中で、曾良もその手伝いをしていた。
 案内を請う声に曾良がでていくと、瓜実顔の小さな女が立っていた。
「河合曾良様でいらっしゃいますか。お噂はかねがねお聞きいたしております」
 すっと背筋を伸ばし、まっすぐに曾良を見つめる眼差しが印象的な女だった。美人というのではない。化粧も控えめでたしなみ以上のものはない。必要以上の化粧をほどこさないのは賢いからだ。まっすぐに人を見ることができるのは、自分に自信があるからである。羽紅の眼差しが語るそれらのことを、そのとき曾良は好ましく思った。
 羽紅の賢さはその句にも表われていて、
  笄もくしも昔やちり椿
という句をはじめ、多くの優れた句が『猿蓑』に取り上げられていた。しかしその才気を見せるのは俳諧のうえでのこと。普段はそれを表に出すことはなく、最初の印象そのままの控えめな女だった。
「晴れてくらはって、よろしゅおしたなあ」
 羽紅が真っ赤に染めあがった空を見上げて言った。
 曾良が羽紅の言葉にあわせて空を見上げていると、娘が縁側に出てきて空を見上げ、
「あか」
と言った。
 そして母親を見て空を指差しもう一度「あか」と言い、今度は曾良に、
「お坊様、あか」
と言って笑った。
 それまで曾良を警戒して母親の影に隠れるようにしていた娘も、一度気を許すとなついてくる。「お坊様。お坊様、、、」といって、曾良の膝の上に乗るようにまでなった。
「まあ、この子は。まるでとと様に甘えるみたいにして」
 妻もなく子もない曾良には子供を抱く機会がない。そのようになつかれるといとおしさがこみ上げてくるが、一方で壊れ物に触っているようで、どのように扱ってよいのか分からず戸惑ってしまう。
 まるで捕らえようのない頼りない塊がまつわりついてくる。
 そんな子供を持て余して当惑している曾良を見て、羽紅が笑う。
 もし妻を娶っていたら、自分にもこのようなささやかではあるが穏やかなときを送ることがあったのかもしれない。そう思うと曾良の顔には自然と笑みが浮かんでくるのだった。
 そんなふうに娘を相手にしているうちに、凡兆が戻ってきた。本当に診察してきたのかと思うほど、あっという間の往診だった。
 凡兆は座敷に場所を移し、あらためて酒の支度をした。
「大事な話いいますんはな」
 酒を注ぎ、ひとつ口をつけたところで、凡兆が声をあらためた。
「お師匠はんのことですのや」
 凡兆の顔が心なし曇ったように見えた。
「曾良さん、どない思われます」
 もうひとつ茶碗に口をつけた凡兆が、曾良を見た。
「いつものことやとお師匠さんは思っておらはるようですけどな、わしはそない安心でけんように思いますのや」
 凡兆の大事な話とは、門人たちの誰もが不安に思っていて、誰もが口にださずにいることだった。
 凡兆は出がけに笑顔を見せながら大事な話といった。その笑顔を見て、曾良はもっと別な話を想像していたが、凡兆の口からでたのは笑顔で話すことのできるようなことではなかった。
「もちろん今日明日いうことやないのですけどな。こないにちょくちょくお加減が悪うなるいうのんは、どうもなあ」
 曾良とてそのことを心配していなかったわけではない。翁のことは曾良にとってほかのどんなことにも勝る一大事。曾良は今その生活のすべてを翁に負っていたのである。
 今回曾良が京に来たのも、奥州の旅に出てから二年になるのにいっこうに江戸に帰る気配のない翁を、江戸に戻ってきてもらうよう説得するためだった。それは翁がおられないといっぺんに火が消えてしまったようになる江戸の、杉風を初めとした門弟一同の要請でもあり、曾良にとっての熱望でもあった。
 翁が江戸におられないというだけでもこの有様なのに、もし亡くなられでもしたら、江戸がどんな風になるのか容易に想像できる。
 そんなことになったらどうやって生きていけばよいのだろうか。翁の旅の伴をしたということで今の自分があり、今の暮らしがある。その支えが無くなってしまえば、あっという間に生活は成り立たなくなるのだ。
 翁の健康に対する不安は以前からあったが、奥州の旅の後、翁の不調を伝える便りが多くなり、曾良には気の休まるいとまがなかった。ちょっと具合が悪いと聞けば、それはそのまま曾良にとっての生活の不安である。しかしだからといって曾良に何ができるかといえば、何もない。結局そのたびに、曾良はその話に耳をふさぎ、いずれ迎えなければならない絶望的な将来に目をふさいできたのである。
 先送りにしてきた不安が、今目の前に突きつけられていた。
曾良は、喉に痛いような渇きを覚え、茶碗に手を伸ばした。
「去来さんもそのようにおっしゃっておられるのですか」
 ひりつく喉から搾りだすように、曾良は言った。
「このことについては去来はんとは話してまへん。せやけど、去来はんも医者や。見立ての違いはあるかも知れまへんけど、同じようなこと感じてはるんやないかと思てます」
「それで、悪いってのはどのぐらい」
「いや、ですから今日明日いうことやないんですけどな。安心もでけへんいうことですわ。どうやろなあ。三年はどうか。一年いうことはないと思うんやが、、、」
 曾良は、顔から血の気が引いていくのを感じていた。一年とか三年とかいう具体的な期限は、引導を渡されたも同然だった。これまでそういったことがあるたびに、それでもまだ何とかなりはしないかという甘い期待を抱いてきた。しかし今度ばかりはそんなことはいっていられなかった。
 凡兆も曾良の顔色が変わったのを見て黙っていた。空いた茶碗に酒を注ぎ、曾良の茶碗にも注ぎ足した。
 沈黙の時間が過ぎてゆき、酒ばかりが減っていった。
「おい、酒」
 凡兆の声に「はい」という返事が聞こえ、羽紅が徳利と香の物の小鉢をのせた盆を持って部屋に入ってきた。
 羽紅も雰囲気からどのような話が交わされていたのか察したようである。「ていは」、「やすみました」と、小声の会話が交わされる。その羽紅が、
「河合様、おひとつどうどす」
と酒をすすめ、その声を待っていたかのように、凡兆が、ふたたび話を始めた。
「曾良さん、わしら弟子たちも、それなりの覚悟をせなあかん言うことですわ」
 曾良は黙ってうなずいた。
「曾良さんがお師匠はんを迎えにおいでたことは、よう承知しとります。せやけど、今のお師匠はんに旅はどうですやろ。まあそれはお師匠はんがおきめになることでっさけな、うちらとしては、そないことしたらあきまへんとは、よう言えまへんけどもなあ」
 曾良もそのとおりだと思う。そのとおりだとは思うが、このまま翁を京に留めておくこともできなかった。
 江戸には其角、嵐雪というふたりの飛びぬけた存在がいた。翁の門弟として誰もがまず名前をあげるのがこのふたりであるが、ふたりともすでに自分の道を歩いていて、門弟たちのまとまりなどには、まるで興味を示さなかった。
 翁がいなければ、江戸の門人たちは何もできなかったのである。
「ところで曾良さん。ちらっと小耳にはさんだ話やけど、其角はんも嵐雪はんもお師匠はんと仲たがいされとるいうのんはほんまのことでっか」
 江戸の実情は、すでに江戸以外の門人にも知れるところだった。
「いや、仲たがいというのではないのですが、いろいろと行き違いはあったようです。昨年嵐雪さんが出された『其袋』のことをお師匠が怒られたことに、尾鰭背鰭がついたんです。お師匠はなにも相談がなかったことに腹を立てておられたんですが、まあそんな程度のことでして。其角さんも嵐雪さんも江戸では人気の宗匠ですから、焼餅を焼くものがいろいろとそういった尾鰭のついたよからぬ噂をたてるのです。おふたりとも江戸にとってはかけがえのない方ですから、そのような噂がたっては困るのですが」
 曾良がはっきりと肯定しなかったことに、凡兆は納得しているふうではなかった。
 曾良が曖昧に言ったのは、相手が凡兆だったからである。『其袋』については、曾良が翁に不出来と手紙で知らせた。俳書そのものの出来云々よりも、曾良には自分の句が一句も取り上げてもらえなかったことが面白くなかったのである。翁には言えても凡兆に言えないのは、人づてにあいつは人の悪口を言うという話が翁の耳に入るのが怖かったからだった。
 京に来てひと月以上たつ。そのあいだほぼ毎日寝食をともにしてきたが、曾良はまだ凡兆のことが信用できないでいた。凡兆はなにかと親しみをもって接してくれている。しかしそれは同じ翁の弟子だからで、凡兆が江戸に来れば曾良もそうするだろうし、あの路通にも最初はそうしていた。
 凡兆が翁の門人になったのは、翁が奥州の旅にでるために江戸に向かう直前のことである。それが入門してすぐに翁のお気に入りになり、旅から戻って半年後には『猿蓑』の編纂を任されるまでになった。俳書は宗匠になって初めて編むことを許される、俳人にとっての最高の名誉である。翁の門弟のなかでも、嵐雪や其角のほかまだ数えるほどしか自分の俳書を持つものはいない。もちろん曾良も編んだことはない。それが去来との共編とはいえ、たった半年で俳書を編むことになったのである。
 凡兆という新しい才能のことは、翁の手紙で知っていた。どうせまた翁の新し物好きの相手だろうと思っていたが、たびたび送られてくる翁の手紙の文面から、それがそうでもないということが分かってきた。凡兆の理屈には困り果てているが、その理屈も高いところに志を持とうとする証であるからよしとしているのだと、翁の評価はこれまでにない高いものだったのである。
 京に来て、実際に凡兆に会い、そしてその句を読むと、その理屈が何であるか、翁がなぜ凡兆を可愛がっているのかがなんとなく分かってきた。
 凡兆は機を見るに敏。今を見ることに長けていた。それが翁の常に新しいものを取り入れる姿勢にあっていたのである。
 このところ翁は『かるみ』を、そして『あたらしみ』をいい。『不易流行』を説いていた。つまり変わらぬものと新しいものは、根はひとつ。ともに風雅の誠からでているものであるから、不易を踏まえどんどん新しいものを取り入れなければならないというのである。
 凡兆の才は、そこに見事にはまっていた。
 曾良は、景の句ばかりで情の句の少ないことが不満だったし、理屈は屁理屈でしかなく、目先の辻褄合わせにしか思えなかったが、翁は『あたらしみ』にうってつけの才とみていたのである。しかし機を見るに敏は、人も見る。凡兆にはなにか裏表があるようで、曾良にはそこのところが今ひとつ深い交わりに踏み込めないところだったのである。
「いずれにしろ、これからの江戸は曾良さんの肩にかかっとるちゅうことですなあ」
 凡兆がにやっと笑いながら言った。
 凡兆の言葉に羽紅も相槌を打つ。
「河合様のことはこちらではもうたいそうな評判どすえ。江戸は河合様で持っているとか。京にも河合様のような方がおられたら、お師匠様のご門人がたくさん増えはるやろと、うちの人も申しておりますの」
 羽紅の笑顔に媚が見えた。
 曾良は賢いと思っていた自分の見立てが違っていたのではと、あらためて羽紅を見た。
 使い慣れない媚は、その裏に隠された計算が透けて見える。それは賢さも自信も謙虚さもすべて打ち消してしまうような、軽薄さの証だった。
 凡兆も羽紅も何を言いたいのか分からない。自分の名前が知られるようになったのは、翁の旅の伴をしたからである。江戸でやっていたことはといえば、翁の面倒を見るということだけ。そんなことは翁の門人であれば誰でも知っていることだった。肩にかかっているなどとはとんでもない。江戸が自分で持っているなど、江戸のものたちが聞いたら笑ってしまうに違いない。
 あまりにも下手な世辞だった。
 賢いと思っていた羽紅が世辞を言う。亭主の意を汲んでのことだろうが、羽紅の言葉とも思えず、曾良は幻滅を覚えた。
 翁の話で打ちのめされ、不愉快な世事を聞かされ、曾良は面白くなかった。
 こんなことなら案内など頼むのではなかった。
「曾良さん。名古屋の荷兮はん知っておられますか」
「お名前だけは」
「ほなら越人はんは」
 曾良は頷いた。越人は、翁の伴をして江戸に来て、そのとき嵐雪と巻いた歌仙で嵐雪が翁の逆鱗に触れたのである。
「以前芭蕉庵で」
 凡兆が一呼吸置いた。
「実は荷兮はんと越人はんも、心配しとられましてなあ。もしお師匠はんがあかんようなったらどないしようって言わはりますのんや。もしそないなことになったら、門弟たちはきっとばらばらになる。そしたらせっかくのお師匠はんのお導きが台無しになってしまうって、そらえらい心配されまして。そうなる前に何とかせなあかんのと違うかと。そない言わはるのですわ。私もそれなりの覚悟はせなあかんやろと思とります。せやけどそこまで考えるのは、まだお師匠はんがお元気でおられるのに、いくらなんでも不謹慎ちゃいますかと申し上げたんですよ。そしたらおふたりは、いやそれは違うと。ばらばらになってからでは遅いんや。そうなったらかえってお師匠はんに申し訳ないことになる言わはりましてなあ」
 翁のことも江戸のことも伏線だった。大事な話とは、本当はこのことだったのである。
 凡兆は、荷兮たちが翁の亡くなられた後のことを考え、そのための閥を作ろうとしていると言っているのである。
「こんな話、もしお師匠の耳に入ったら大変なことになりますよ」
 曾良の顔が険しくなったを見て、凡兆は大きくうなずいた。
「まったくそのとおりやと思います。私も荷兮はんたちにそう申しましたんや。まあそのとき話はそれでしまいやったんですけどな。せやけど曾良さん、その後私もよう考えてみましたんや。言われてみれば、確かに荷兮はんたちの言わはることももっともや。昔からそないな話は仰山おましたやないですか。上は天子はんから下はそこらの小金持ちのご隠居まで、人の死んだ後にごたごたはつきもんや。跡目争い。財産の分捕り合戦。いくらうちは知らん言うても、何やかやと巻き込まれるのんは目に見えとる。それならいっそのこと、そないならんように用意しとったほうがええんやないかと。ふとそないに思ったんですわ」
 このような話は聞きたくなかった。聞かずにおれば知らないですむ。しかし聞いてしまえば、凡兆が言うように何らかの形で巻き込まれてしまうことになるのだ。
「凡兆さん。何でそんな話を私にしたんですか。それはお師匠のことは考えないといけないことだとは思います。おっしゃるとおり、もしお師匠に万が一のことがあったとき、そのようなことが起こるかもしれません。しかし起きないかもしれないじゃないですか。そんなことは起こってみなければ分からないことだ」
 曾良の声がきつくなっていた。
「曾良さん。もしお師匠はんがどうかならはったとき、江戸は大丈夫なんでっか。ほんまにひとつにまとまって、お師匠はんの教えをしっかり守っていけると、言える自信がありますか」
 凡兆は曾良の言葉にうろたえることもなく、冷静である。
 そのように言われると、曾良ははいと言う自信がなかった。ただでさえまとまりのないところである。すでに門弟のなかにはほかの宗匠に鞍替えしたものがいた。其角や嵐雪に乗り換えてしまったかのような者もいる。その其角や嵐雪は当てにならない。杉風に翁の代わりは荷が重かった。
「曾良さん。路通はんが江戸でひと悶着おこしたそうだすな。路通はんが何で江戸に行ったかご存知ですか。あの男こちらにおられんようになって、江戸に行きよったんでっせ。うちがお師匠はんに初めてお会いしたのと、路通はんが江戸に行ったのと、ちょうど行き違いでしたけども、あの男の手癖の悪さは評判でした。せやけどそれをお師匠はんに言うものはおらん。お師匠はんは知らんかったのですわ。あんとき、江戸はなんもでけへんでしたやろ。こちらでも同じでした。お師匠はんが右向け言えば右、左向け言えば左。そないな弟子たちばかりでは、いざという時、どうもこうもならしまへんのとちゃいますか」
 凡兆は、何も知らないような顔をして、江戸のこともよく知っていた。話が具体的で、説得力がある。翁が亡くなった後、どのようにして江戸で生きていけばいいのか分からない。江戸の話をされ、うろたえたということもある。曾良は、次第次第に凡兆の話に耳を傾けるようになっていた。
「わたしは、万が一のとき、江戸で柱になるのんは曾良さん、あんたはんしかおらんのやないか思てます。これは世辞でも何でもおまへん。ほんまにそない思てますのや。どうか曾良さん柱になっておくれやす。柱がおらんと、もしまた路通のようなんが現われたとき、取り返しのつかんことになりまっさかいな」
 自分のことは自分が一番よく知っている。杉風でさえできないのに、どうして自分が江戸をまとめることなどできよう。俳諧の才があるわけでもなく、人間的な魅力で人をひきつけることもできない。そんな自分にいったい誰がついてくるというのだろう。
 しかしそうは思っても、もしこのままの状態がつづき、そんななかで翁が亡くなられたら、江戸はいったいどうなってしまうのだろうか。誰かが何とかしなくてはならない。翁の代わりはできなくとも、代わりのものを支えることはできるのではないか。柱にはなれなくともそのつっかえ棒ぐらいにはなれるはずだ。
「曾良さんが京においでになったときから、この話をしよう思てましたんや。こないな話、誰にでもでけるもんやおまへん。ほんとにお師匠はんのこと大事に思てる方やないとでけるもんやおまへんのや。おもろない話やったかも知れまへんけど、許したってください」
 曾良の険しい表情がいくぶん和らいだと見たのか、それまで凡兆のそばでじっと成り行きを見ていた羽紅が、曾良に話しかけた。
「うちの人は、河合様とはきっとよいお仲間になれる、とそう申しておりました。どうかこれからも、うちの人と仲ようしてやってくださいまし」
 凡兆が、羽紅の言葉を引き取った。
「いずれ江戸にも行ってみよう思てます。その折にはどうかよろしゅうたのみますわ」
 羽紅がさあさあと酒をすすめる。曾良の止まっていた手が動き、羽紅のほうに差し出された。

                                            つづく

曾良のほそ道・index

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