* *
BLOODLINK short stories #02 『狭間の章』
1
水が冷たい。
給湯器の壊れた蛇口が吐きだす水が、洗剤の泡を流しながら、指先を痺れさせる。
明かりをつけていない台所には五時を待たずに陰気な夕闇が忍び込み、古びたテーブルと椅子の肩に感傷的な陰影をにじませる。暖房をつけていない空気には湿ったカビの臭いがひんやりと溶け、背後の座敷の暗みでは大きな柱時計が振り子の音をカチカチと刻む。それを聴いていると時間が逆行していくような不安にとらわれる。
骨壺に収まった遺灰に死の実感はなくても、茶碗にこびりついた米粒や鍋の底に干上がったみそ汁には、断ち切られた時間の残滓が確かにあって、僕は無意味な怒りをスポンジを握った手に込める。現場検証が終わった翌日には凄惨な現場の痕は綺麗に片づけてくれたらしいが、老夫婦が洗い残した食器や生ゴミまでを黒い鳥が始末してくれるわけはなく、いくら現実離れした状況に巻き込まれようと、そういう些末な現実と向き合うことをやめたら、僕らはたぶんなにかに負けてしまう。
「コーヒーでも飲むか?」
最後の洗い物となった鍋の洗剤を洗い流しながら、僕はわずかな緊張とともに背後の縁側目がけて声を投げてみた。
「お茶のほうがいいかなあ……」
意外に元気な声がぽかんと返ってきて、僕はその声の張りに胸の内でそっと安堵する。
鍋を棚の上に伏せて置き、水を止め、食器棚にむかいながら座敷のほうへ目をやると、縁側にポツンと腰かけ、ぼんやり庭を眺めているカンナの姿がある。
影が板張りの廊下を越え、座敷の中まで伸びていた。
喪服代わりの黒いワンピースも着替えず、昼過ぎに家に帰ってきてからずっとあのままだ。その姿がこの家の風景から孤立して感じられるのは、この家とカンナを繋ぐ本来の主がいなくなったせいだけなのか。
急須と湯飲みを二つ引っ張り出し、台所のテーブルに置いた。
「お茶の葉っぱはどこだよ」
カンナは目だけを向けて、笑った。
「急須と同じ場所になかった?」
その目に疑惑の視線を投げて答えつつ、引き返して、食器棚の棚を覗き込むと、確かに奥の右隅に茶筒があった。手を突っ込んでそれを引っ張り出した。
急須の茶漉しの上に適当に葉っぱを入れ、ガス台にあったアルミの薬缶に水を入れて火にかけた。ついでに換気扇の紐を引っ張ると、ガラガラと羽根が緩んでいるような耳障りな音がしたが、勢いがつくと辛うじて正常な音を取り戻した。
僕は手前にあった食卓の椅子を引き寄せ、腰を下ろして、ぼんやり家の中を見回した。
台所と食卓が一体化した板の間からは、細い廊下を挟んで、古びた畳の座敷が続いている。たっぷり十畳はある広さなのに家具はほとんどない。
真ん中に小豆色の丸いちゃぶ台がポツンとひとつ。その周りに抹茶色の座布団が三つ、その真上の天井に和紙の傘がついた白熱灯、向こうの壁際には古びた和箪笥と旧式のテレビが並び、部屋の隅では夏に置き去りにされた扇風機がカクンと首をもたげている。
右側に閉ざされた襖の向こうには老夫婦の寝室だった四畳半の部屋がある。土壁のひび割れた箇所に貼られた和紙は黄色く変色していた。
以前にも感じたことだが、この家にはある時期から時間を止めてしまったような重く湿った空気がある。単に老夫婦の個人的趣味なのかもしれないが、その古さの割に奇妙なほど生活感が感じられない。観光地に保存された田舎家のような体温の抜け落ちた無機質さを感じてしまう。あるいは主を失った家とはこんなものなのか。
背後のガス台で、薬缶の蓋が鳴った。立ち上がって、火を止め、取っ手を布巾でくるんで取りあげた。
急須に注いで、ガス台に薬缶を戻し、急須の中身を二つの湯飲みに均等に注いだ。
「そっちで、飲むか?」
背中に、声をかけた。
「うん。なかなか、気持ちいいよ」
カンナは顔を向けて、笑った。
「もう秋じゃねーんだぞ」
笑い返して、二つの湯飲みを、上からつまんで取りあげた。
座敷を斜めに横切り、カンナの隣まで進んだ。板張りの廊下は冷たく凍っていた。
湯飲みをカンナの脇に置き、それを挟んで隣りに座った。
靴置き台の上に、茶色い男のものサンダルがあった。一瞬躊躇したが、足を入れた。
カンナは白いタイツの脚に、赤いビニールサンダルをつっかけていた。
「寒くないのか?」
訊いてみた。
「そんなでも、ないよ」
気持ちよさそうに目を細め、ほうっと息を白く吐いた。
「そっか……」
通りに面した塀沿いに、サザンカの生け垣があった。冬でも葉は青く、枝葉は乱雑に伸びていた。赤い小さな実がポツポツある。庭の右隅には、古い柿木があった。葉は散っていて、オレンジ色の柿の実が夕陽に艶やかに光っていた。
「ねえ、カズシ」
カンナは縁側のへりに両手の指をかけ、赤いビニールサンダルをぷらんと前に振った。
「お葬式とかって、やんなくてもいいよね」
首を伸ばし、柿の実に目をやって、唇だけで微笑した。
「べつに、かまわないさ」
家の前を車が一台通り過ぎ、ヘッドライトの光がサザンカの葉を黒く光らせた。その奥に、小さな赤い実が一瞬鮮やかに浮きあがった。
「もう、燃えちゃったしね」
カンナは右足のサンダルを、エイッと草むらに飛ばした。
「ああ、もう終わりだ」
僕はカンナの放ったサンダルを見つめて、微笑んだ。
カンナは脇に置いていた湯飲みをずらし、僕の隣りにお尻を移動してきて、頭をコツンと僕の肩に載せた。柔らかな髪の感触と日なたの匂いが顎の下をくすぐった。
「こーいうときは、女の子の肩を黙ってそっと抱くものよ」
「誰が」
「いーから、練習よ、練習」
「なんの練習だよ」
「素敵なジェントルメンになるための練習よ」
「べつにジェントルマンになんかなるつもりねーよ」
「ほらほら、そっと、優しく肩を抱く。うわあ、真山君、あたしさむーい」
「アホか……」
「なによ、ちゃんとやりなさいよ」
「……わかったよ」
僕はほとんどヤケ気味にカンナの肩に手を回した。
「ま、合格ね」
くすぐったそうに笑うカンナの吐息が顎の下をくすぐった。
「じゃ、オレも今日からジェントルマンだな」
「なんだそりゃ」
肩を抱いた手や接触した身体の側面からは、冷たい怖気が流れ込み、視界は相変わらず赤く脈打っていたが、僕の胸の奥はじんわりと熱かった。
「あったかいね」
「うん……」
僕は、カンナの肩を抱いた手にそっと力を込めた。ワンピースの生地は冷たく、布地を通して感じるカンナの肩は哀しいくらい華奢だった。
夕食時のせいか、住宅街のあちこちで子供たちの甲高い声が弾け、家の前の通りを自転車に乗った買い物帰りの主婦がまばらに行き交う。隣の家からはテレビの音が漏れ聞こえ、ときおり母親が子供を叱りつける声が無神経に耳を突く。カンナが地蟲に感染したこと、僕が野槌であることに誰に責任があるわけではなく、それでも、今の僕には平和な物音のすべてが疎ましい。
そのとき、アスファルトを叩く聞き慣れたサンダルの足音が門扉の向こうに近づいてきて、僕は反射的にカンナの肩に回した手を引っ込めた。
「ン?」
カンナは頭を胸に寄りかからせたまま、不思議そうに僕を見あげ、すぐに門扉に目を転じ、それから面白くなさそうに胸に寄りかかっていた頭を離した。
「ふーん。そういうこと」
「いや、べつに……」
「マザコン」
「違うだろ」
「つまり、あたしは、恥ずかしい存在ってことね」
「いや、そうじゃなくて……」
「今さら、さわんないでよ」
母は僕らには気づかず、門扉を抜けて、踏み石を玄関のほうへ進んでいった。
「おばさま、こっちですよ」
カンナの声に、母は足を止めて、ひょいっと身体を倒して顔を突っ込んできた。
「あらあら、そっちにいたの。電気もつけないで、まっくらよ」
「あ、忘れてた」
カンナは首をすくめて舌を出した。
「そろそろ、ご飯にするけど、どうする?」
「そういや、腹減ったな」
「うん、お腹ぺこぺこ」
カンナは縁側から飛び降りかけて、動作を途中で止め、僕を見てにっこり笑った。
「おにーちゃん、おんぶして」
「……」
「ほら、カンナのサンダル、とんでっちゃったから」
「おまえが自分で飛ばしたんだろ」
言ってる間に、カンナは廊下に脚を引っ込め、素早く僕の背中におぶさった。
「わあ、おにーちゃんの背中って広いね」
言いながら、完璧なチョークスリーパーでぐいぐいと喉を締めつけてくる。
「あらあら、仲がいいのね」
母はなにも気づかず微笑ましそうに笑った。僕は腰を上げ、サンダルに歩み寄った。
「おばさま、あたし、おにーちゃんにプロポーズされちゃったんですよ」
「あらあら、ホントに。和志もやるじゃない」
「もお、すっごかったんですよ、おにーちゃんったら。おまえしかいないって」
「相手がカンナちゃんじゃ、和志も張り切るしかないわねー」
「……おまえ、さっさと降りろよ」
「キス」
「――」
「なーんて、されちゃってたりして」
じわり、と嫌な汗が背中に浮いて、僕は母の顔をそっと盗み見た。聞こえなかったのか、聞こえていても子供のお戯れと本気にしていないのか。母はニコニコと仲むつまじき僕らの姿を見つめていた。
「ほら、カンナ、サンダル、ここにあるだろ。ちゃんとはけるか」
「ありがと。おにーちゃん」
カンナは背中から飛び降り、サンダルの上に着地した。そして、母からは見えない角度で、僕の脇腹に素早く肘鉄を撃ち込んできた。
「じゃ、おにーちゃん、戸締まりよろしくね」
「……」
「おばさま、今日の晩ご飯はなんですか」
カンナは母に駆け寄っていった。僕は軽く溜息をついて、縁側へ引き返した。
門扉を出ていくカンナと母の後ろ姿を見送り、庭に面した二つの大きなサッシ窓を閉めた。湯飲みを拾い上げ、台所へ戻りかけたとき、突然、眼球の奥にナイフが突き刺さったような激痛が弾け、視界が裂けた。とっさに眼を覆ってしゃがみ込もうとしたが、一瞬早く脚がもつれ、転倒した。
ガツン、と硬い衝撃が頬骨に当たり、次いで、頬に冷たい床の感触が当たった。
すぐ目の前で湯飲みが二つ転がっていた。頭のなかで、脳がひしゃげて回転しているような不快感があった。そのまま何度かゆっくりと瞬きをした。
頬に暖かな液体が触れた。お茶が床の上に薄く広がっていた。前方に伸ばされた制服の袖口が濡れて、冷たくなっていた。
ゆっくりと呼吸を整えた。右手を動かしてみた。左手も動かしてみた。……動く。
背中で深呼吸して、腕立て伏せの要領で、身体を起こした。
身体を起こした瞬間、また軽い目眩がした。
目の前の床に広がったお茶を右手ですくって、閉ざした瞼の上に押し当てた。
ひんやりとした感触が、火照った眼球の熱を奪った。
苦笑した。理由は、わかっていた。
心はカンナを求めていても、身体はカンナを拒絶する。カンナの肩を抱けば胸は熱くなる。でも同時に、神経はヤスリをかけられたように悲鳴をあげる。眼球は硬く強ばり、嫌な熱を発する。眠りだって、ここ数日はかなり浅い。一緒にいるときは、それほど意識はしなくても、そのツケはひとりになって、気が緩んだ瞬間に襲ってくる。
カンナも同じ苦痛を我慢しているのだとしたら、お互い意地の張り合いだ。
僕は両手でもう一度お茶をすくい取って、軽く目に当て、大きく息を吐きだし、立ち上がった。何度か首を回して、もう一度、大きく深呼吸した。
転がった湯飲みを二つ拾い上げ、台所まで歩いて、流しに放り込んだ。雑巾を持って縁側まで戻り、こぼれたお茶を拭いた。
サッシ窓を開け、雑巾を外で絞った。
庭を眺めると、日はとうに沈みきっていて、紫色の夜気のなかで冬枯れしたススキがかすかに揺れていた。空を見あげると、庭のちょうど真上の位置に、閉ざした瞼のような白銀の三日月がかかっていた。
僕は、その三日月に軽く息を吐きかけ、サッシ窓を閉め、絞った雑巾を食卓の端に載せて、玄関に足を向けた。
革靴に足を突っ込んだとき、電話が鳴った。
電子音ではなく、昔ながらのベルの音だった。
三和土で、ふり返って、廊下の暗がりを見つめた。
台所と座敷の狭間を、細い廊下が奥まで伸びていた。
奥は闇に溶け、板張りの床が油を塗ったように光っていた。
その暗がりで、電話は鳴りつづけていた。
なぜだか、そのベルは僕を呼んでいるように聞こえた。
靴を脱ぎ、廊下へあがった。
暗がりへ、進んだ。
電話は二階へ上がる階段の脇にあった。
かなり旧式の黒いダイアル式の電話機だった。
台の上に手作りらしき花柄のマットが敷かれ、その上に電話機が置かれていた。
電話のベルは鳴りつづけていた。
ぼうっと頭のなかが霞がかり、右手が引き寄せられるように動いた。
受話器を取りあげ、耳に寄せていた。
「もしもし……」
*
「……こら、和志」
テーブルの向かいから母がお吸い物の入ったお椀を滑らせてきて、我に返った。
「あれ、オレ……」
頭のなかに、妙な空白があった。つい今しがたまでカンナの家にいたのに、そこから僕の家に戻ってくるまでの移動の記憶がなかった。
「オレ、いつ、戻ってきたんだっけ?」
「あんた、なにいってるの。さっき戻ってきてから、ずうっとぼうっとしてるから、カンナちゃんも困ってたんじゃない」
と、あきれ顔で肩で溜息を吐いて、母は背を向けた。
「……なんか、あったの?」
チラッといったん母の背中に視線を投げてから、カンナが小声で訊いてきた。
「いや、ホントに、ちょっとぼーっとしてたみたいだ」
僕は笑って言った。頭の奥でなにか湿った熱のようなものが脈打つのを感じた。
「あんた、ぼんやりするのはいいけど、ちゃんと、戸締まりはしてきたの。こんな日に泥棒に入られたら、笑い話にもならないわよ」
ガラスの大皿に盛られた海藻サラダを持って、ふり返り、それをテーブルの真ん中に置きながら、母が言った。確かに鍵をかけたかどうかの記憶は曖昧だった。
「あ、オレ、ちょっと、見てくるわ」
僕は椅子を後にずらして立ち上がり、台所の暖簾をくぐって、廊下へ出た。
「あらあら、ホントに戸締まりしてこなかったの」と、その僕の背中に母があきれ返った声を投げつけてきた。
「ついでに、戻ってきたら、お二階で制服くらい着替えてきなさい」
「あ。いっけない。そういや、あたしも着替えて来ちゃいますね」
極めてわざとらしく声を上げ、カンナが玄関へかけてきた。
「どしたの? ホントにちょっとヘンだったわよ」
門扉を出て、カンナの家に歩き始めたところで、カンナが隣から軽く肩をぶつけてきた。僕は街灯の光をやけに眩しく感じながら、制服のズボンのポケットに両手を突っ込み、寒さに肩をすくめながら、笑ってみせた。
「さすがに、ちょっと寝不足かもな」
「まあ、おばさんの言うとおり、今日は早く寝たほうがいいかもよ」
カンナはクスッと笑い、両手で口を覆って、吐息で暖めながら、正面の空を見あげた。
「わあ、星が綺麗だね」
冷え切った漆黒の空に、銀色の星明かりがクッキリと映えていた。
葉を落としたイチョウ並木に挟まれて、長い下り坂がダラダラとつづき、そこからまた長い上り坂がつづいている。ちょうどその上にオリオン座の姿があった。
僕らはカンナの家の門扉の前まで来たところで、同時に足を止め、その坂を眺めた。
道の両側に並ぶ家々の窓には暖かな光が灯っていた。
「なんか、すごい長い間、この街にいたみたい気がする」
「うん」
「あ、でも、カズシは十七年だから、ホントにそうだもんね。あたしは考えてみると、四月からだから、しー、ごー、ろく、しち、はち、きゅう……で」
と、指を折って数え、「八ヶ月か」と横から僕を見あげて嬉しそうに笑った。唇から白い歯がこぼれ、そこから真っ白い吐息が舞いあがった。
坂の向こうから、車が一台走ってきて、そのヘッドライトの光がゆっくりと坂を下り、それからまたゆっくりと坂を上ってきて、僕らの視界を明るく染めて脇を通りすぎた。
僕らはその光の残像の中に浮かんだ風景をしばらく目に焼きつけた。
コツン、と僕の腕に一度頭をぶつけて、カンナは開いたままだった門扉を抜け、玄関へ向かった。僕もその後ろにつづいた。門扉が開けっ放しだったということは玄関の鍵も開けっ放しの可能性が高く、それは実際開けっ放しだった。
「ああ、やっぱり、空いてるじゃん」
ひとつ嫌味を言っただけでさほど怒った様子もなくドアを開けて、カンナは玄関に駆け込み、照明をつけた。僕はドアの前で立ち止まり、ドア脇の壁にあるチャイムのボタンに指先でそっと触れた。ボルトが抜け、錆びた台座から外れて、傾いたボタン。赤と黒の配線が傾いた隙間から覗いている。
「カズシ、どうする? あたしパパッと着替えて来ちゃうけど」
廊下にあがった場所でふり返って、カンナが言った。
「あ、うん。じゃあ、ここで待ってるよ」
「覗いちゃダメよん」
「ばーか、とっとといけ」
カンナの背中が廊下の階段を上がって部屋に消えるのを見届け、僕はその場所に立ったまま縁側のほうを見た。
何年も放置されていた空き家のような庭だ。
もうすっかり暗く、表通りから届いてくる街灯の光と周囲の家の窓からこぼれてくる明かりが、うっすらと蒼い影を浮かびあがらせている。
暗がりに、さっきまで僕らが座っていた場所が見えた。
考えてみると、そこはあの日、老人が座っていた場所だ。
あの日――カンナを遊園地に連れて行った日……。
老人はあそこに座って、ぼんやりと庭を見ていた。
死んだ人間を悪く言うつもりはないが、本音を言えば僕は彼らの死に、現実的な重みを感じられなかった。その死には不思議なほど痛みも重みもない。僕が彼らの死に対して感じている息苦しさは、その死をもたらしたのがカンナであるから、というだけだ。
老夫婦が死んでいたのは、僕がさっきまで洗い物をしていた台所の板の間だという。そこにおびただしい量の血が溢れ、首のない死体が二体転がっていた。そして、その血の海に、壊れた人形のようにカンナは横たわっていた。
そんな凄惨な記憶が染みついた場所で、カンナはなぜ、あれほど平気でいられるのか。正直に言ってしまうと僕には少し疑問があった。気丈という言葉で片づけるには、その体験はあまりにも重すぎる。僕が牧野香織を殺したときには、それでも一握りの救いはあったが、カンナにはそれすらない。
「おっまたせー」
パタパタと階段を降りてくる足音がして、階段の奥にカンナが姿を現した。最後の三段ほどをエイッと飛び降り、タン、と着地する。
真っ白いセーターにストレートのジーンズ、セーターの胸元には黒い毛糸で大きな碇のマークが編み込まれている。髪をポニーテールにまとめているのは精一杯の気分転換なのか。喪服姿よりもこういう格好のほうがやっぱりカンナには似合っている。
「ずいぶん、大変身だな」
「まーね」
カンナは得意げに笑って、三和土に飛び降り、赤いサンダルをひっかけた。
2
「終わっちゃったね……」
母と三人での最後の食事はあっけないほどいつも通りに終わった。お茶を飲んで少し三人で話したあとで、僕らは僕の部屋へ引きあげた。二人きりになると急に感傷的な気分が込みあげてきた。これで母と僕らの生活は終わりを告げる。あの食卓で食事をすることもおそらくもうないのだ。
僕らはベッドに並んで腰かけ、ぼんやりと床に目を落とした。僕の黒い靴下に包まれた足とカンナの白黒ボーダー柄の靴下の足が、グレーのカーペットの上に並んでいた。
「ホントに、これでいいのかな……」
これでいいのかと言われれば、これでいいなんてことがあるわけがなく、今の僕らには悔しいけれど「最善」なんて選択肢はなかった。どの選択肢を選ぼうと、どれもが初めから間違った道で、もっと言ってしまえば、僕らが今立っている場所そのものが間違った場所なのだ。明日から僕らがいなくなったこの家で、母はどんな思いを抱いて生活をつづけるのか。十七年も育ててもらってきて、こんなことをしていいわけがない。
この三日間、母にすべてを打ち明けてみようかと思ったことも何度かあった。でも、カンナの地蟲感染はともかく、僕が夜な夜な人を殺して帰ってくることを母に理解してもらえるとも思えなかった。頭では理解できるかもしれないけれど、心情は別だ。
僕が母の知っている僕のままで母の生活から姿を消すことと、母の生活の中に留まりながら人殺しとなることのどちらが親不孝なのか……。
最終的に僕が母の生活から姿を消すことを選んだのは、けっきょく、カンナや母のことを考えてというより、僕自身がすべてを打ち明けた上で、母の目をまっすぐに見返して生活しつづけられる自信がなかったからだ。
「……あたしは、いいんだよ」
前に伸ばした白黒ボーダー柄の靴下に包まれたつま先をもぞもぞと重ね合わせて、カンナが言った。
「学校だって、あるんだし、カズシにはお母さんだって、お父さんだっているんだし。ホントは、あたし一人が、病院に入れば、すむ問題なんだし……」
普通に考えれば、それが一番まっとうな選択肢で、でも、同時になぜだかそこには未来はないのだという確信めいた予感があった。
「この部屋は、二人で住むには狭すぎるさ……」
僕は自分の足先を見つめたまま微笑してみた。わずかな間を置いて、カンナが両足の指を綺麗に反り返らせ、それを見つめてクスッと笑った。
「それがホントの理由なら、あたしも異議なし」
「おまえの荷物、多そうだもんな」
「まあね」
「どの辺に引っ越すのか、楽しみだな」
「場所、聴いてないの?」
「具体的にはなにも知らないよ」
「へええ。下町とかでも新鮮だけどね。じゃなきゃ、川沿いとか海辺もいいよね」
「けっこう贅沢だな」
「リバーサイドとシーサイドは基本でしょ。水辺はね、風水学的にもいいのよ」
「メシはどうするんだ?」
「あたしがしっかり作ってあげるわよ」
「へええ……」
「なによ?」
「いや、べつに」
カンナの足が伸びてきて、のっしと僕の左足を踏んづけた。
「なにすんだよ」
「カズシごときの狭い了見で、あたしの能力を見くびってるからよ」
カンナは僕の足を踏んづけたまま、自分の膝の上に頬杖をつき、フンと鼻を鳴らした。僕はそっと苦笑しつつ、なんとなく足を踏まれるがままにしておいた。
「和志、カンナちゃん。そろそろお風呂入っちゃいなさい」
階下から、母の声がした。
「一緒に入る?」
「アホか……」
「だって、今、そんな感じに聞こえなかった?」
「とっとと先に入れ」
「つまんないやつー」
カンナは一度、お尻をバウンドさせて、その勢いで立ち上がった。
「じゃ、お先にお風呂いただきマース」
「おう、行って来い」
「なーにえらそうにいってんのよ」
と、僕の足をぐりぐりと踏んづけなおし、カンナは部屋を出ていった。
「おまえ、お湯汚すなよ」と、僕はドアが閉まる間際に、その背中に声をかけ、ごろんと身体を倒した。階段を少し降りた場所から「うっさい!」と声が返ってきて、僕はまた一人で苦笑した。
「カンナちゃんのパジャマは洗面所に用意してあるわよ」
「ありがとうございます」
「バスタオルは、畳んである新しいの使ってね」
「はーい」
カンナの足音がパタパタと風呂場へ向かうと同時に、僕の視界はゆっくりと赤い波紋が晴れ、室内はもとの色を取り戻した。
しばらくそのまま天井を見あげた。
一人になるとまた、感傷的な気分が込みあげてきて、唇に浮いた自嘲を噛み殺した。
カンナが風呂場に入る音がして、身体を起こし、それから、立ち上がって、勉強机に歩み寄った。
引き出しを引くと、八神亮介から受け取った黒い携帯電話がある。それを手に取り、掌の中で転がしながら、電源を入れようか考えた。
八神亮介の携帯は、あの朝からこの三日間、電源を入れていなかった。
本当なら誰よりも彼に相談したい気持ちはあった。でも、それを素直にできない躊躇があった。
疑惑――嫌な言葉だが、あの日の八神亮介の一連の行動を思い返すと、そこには不可解な点があった。
あの日、八神亮介とアメ横のフェイ紅龍の店で食事を終え、僕が帰ってくるとカンナは血にまみれ、救急車で運ばれるところだった。僕はハヤテと救急車に同乗し、病院へ行った。八神亮介から電話が入ったのはその日の深夜だ。
カンナの家で事件があったこと自体は、彼自身が言っていた『警察内部にある独自のルート』によって知ることができてもおかしくはない。でも、あのとき『カンナを襲った犯人を突き止めて欲しい』という僕の懇願に対して、八神亮介はフェイ紅龍を病院へ遣わせた。
そのフェイ紅龍はカンナが地蟲に感染したことをすでに知っていた。蜻蛉もまたその事実に怯えていた。だとすれば、八神亮介は、僕と電話で話した時点で、その事実に行き着いていた可能性が大きかった。
なぜ、彼がそれを知り得たのか……
野槌でもなく、黒い鳥でもなく、雑誌の記者として外部からこの世界を傍観している彼が、なぜ、それほど早くカンナの地蟲感染の事実に行き着くことができたのか。
僕にはその問いを彼に投げかけることに躊躇があった。
『オレには君を助ける意志がある。それは誓って嘘じゃない』
そう言ってくれたときの彼の眼に嘘があるとは思えなかった。あの言葉を信じたいという気持ちが、逆に、彼への問いかけをためらわせていた。たった二度しか会っていないのに、八神亮介の存在は、僕の中で不思議なほど大きくなっていた。
「……」
僕は携帯を戻して、引き出しを閉め、ベッドの端に腰かけ直し、また、両手を枕にして、寝ころんだ。
そして、今度は蜻蛉のことを考えた。
八神亮介に対する疑惑は、そのまま蜻蛉にも当てはまった。病院の前でのフェイ紅龍との会話を思い返す限り、蜻蛉もまた、病室に姿を現したときにはすでにカンナの地蟲感染を知っていた可能性が大きかった。
でも、彼女にその真意を問い質す術はもうない。
蜻蛉はあの日を境に学校から消えた。昨日も今日も学校に電話は入れていた。休むことを告げるついでに、僕は担任の体育教師にそれとなく探りを入れてみた。体育教師は僕と蜻蛉が知り合いだということに気を許してか、声を潜めて、教室では言っていない本当のことを教えてくれた。
「……なあ、真山、ここだけの話、眞宮さんに連絡取れないか? ほんというとな、なにも連絡なしで二日間も休まれて困ってるんだ。家に連絡しても電話は繋がらんし、こんなんじゃさすがに心証悪くて、彼女のためにもならんだろう。もし連絡が取れるようなら、せめて学校に電話くらいするようにいっておいてくれんか」
生徒達には表向き、風邪で休んでいるということになっているらしい。僕は「わかりました」と言って、電話を切った。ある程度予想はしていたことだが、苛立ちが募った。
蜻蛉はもう学校には現れない。それがハッキリとわかったからだ。それが組織の判断なのか彼女自身の判断なのかはわからないが、あの日の錯乱を考えれば、蜻蛉が何かを知っているのは間違いなく、彼女の失踪がそれを裏付けてもいた。
蜻蛉のカンナに対する感情は、明らかに異質だった。思い返してみると、蜻蛉は最初からカンナのことを知っていた。初めて後楽園で会ったときも、上野から車で送ってもらった別れ際も、その後、学校の裏門で話をしたときも、彼女は言葉の端々にカンナのことを気にかけていた。そこには常に悪意がなく、だからこそ、僕はそこに苛立った。
彼女は一体、何を知っていて、何を考え、今、何をしているのか……
駒沢公園で深夜に話したときには、一瞬だけ何かを分かり合えた気がした。あのとき一瞬だけ垣間見せた少女のような笑顔。それがひどく寂しかった。彼女は何を抱え、どんなふうにこれまでの人生を生きてきたのか。僕なんかには考えもつかない闇を抱えているように思えた。その闇の中にカンナはどんな関わりを持っているというのか。カンナ自身が何も知らなくても、もはや無関係であるはずはなかった。
視界が再びレーダースコープのような赤い警戒色の波紋に侵食され、僕はそのまま天井の蛍光灯を見つめた。
「あー、いいお湯だった。ほら、カズシの寝ころんでないではいってきちゃいなよ」
ベッドのマットが小さく揺れ、いつものパジャマに着替えたカンナが、タオルで髪を拭いながら腰かけた。濡れた髪からふんわりと甘いシャンプーの匂いがした。
「どうしたの? またぼーっとしちゃって」
「いや、なんでもないさ」
僕はカンナの頭に手をかけ、後ろに引きづり倒しながら、よっと身体を起こした。
「ちょっと、なにすんのよお」と、カンナは僕のかわりに仰向けになって本気で目をつり上げた。
「せっかく梳かした髪がぐちゃぐちゃになっちゃうじゃない」
「そしたらまた梳かせばいいさ」
僕は立ち上がった。ベッドの上に広がったカンナの濡れた髪は、本当にガラス繊維のような白銀で、それはやはり蜻蛉の髪に酷似していた。そんな苛立ちをカンナにぶつけても仕方がないのに、僕はなにかに苛立ってしまう。
「おまえ、やっぱり、蜻蛉とかフェイ紅龍には、会ったことないか」
「その質問、一昨日も昨日もしたよ」
と、ため息混じりに身体を起こしながら、カンナは言った。
「蜻蛉さんっていうのは、最初に後楽園に行ったときにベンチにいた人なんでしょ。あの時はあの人がカズシにスポーツバッグ渡した噂の美女様だなんて知らなかったし、今だったら、一発殴ってやりたい気分よ。占いおばさんのほうは雑誌とかで見かけるけど、あたしんなかじゃ単なるげーのうじんさんだもん。そんな人があたしのお見舞いにかけつけてきたってほうが、よくわかんないわよ」
「じゃ、芸能プロダクションかなんかに、おまえの写真でも出回ってるのかもな」
僕は精一杯冗談めかして話を終わらせ、ベッドの下の収納ケースから下着とTシャツとトレーナーを適当に取りだした。それを脇に抱えてから、ふくれっ面したままのカンナの頭をポンと叩いた。
「悪い。ちょっと疲れてるみたいだ。風呂入ってすっきりしてくる」
「……べつに、いいけどさ」
カンナはうつむいたまま頭を拭っていたタオルを首にかけて、その両脇を力無く引っ張った。唇の両端に一瞬力がこもった。自分が知らない相手に一方的に知られていることに一番不安を抱いているのはカンナ自身なのだ。
「悪かった。やっぱり、オレ、ちょっとヘンだな」
「……」
カンナは力無く首を振った。濡れた白銀の髪が肩口から顔の前に垂れて、その横顔を覆い隠した。カンナは鬱屈した眼で床を見つめていた。
「風邪ひかないように、髪拭いたら、布団はいってろよ」
僕はもう一度、カンナの頭を軽く叩いて、部屋を出た。カンナは床をじっと見つめたままなにかを考えているようだった。
3
お湯に浸かって身体を伸ばしても、僕の頭はどこかぼうっとしていて、それでいてなにかに焦り苛立っていた。自分が選んだ道に自信が持てない。冷静に考えれば考えるほど、細部を見つめれば見つめるほど、目の前の風景が歪んでいくような嫌な感覚がある。そして、その歪みから生じた疑惑は、なにをどうしても、カンナに行き着いてしまうのだ。おそらくカンナ自身もそこになんとなく気づき、不安を覚えているのだろう。
僕は水滴がいくつも浮いた天井に大きく息を吐き、頭を左右に振って、湯船のお湯で何度も顔を洗った。決意や覚悟はあっても現実を動かす具体的な力を持たない自分が情けなかった。カンナを護ってやると言いながら、僕にできることは、組織の指示に従い、彼らの庇護を受けることくらいなのだ。自分の力では護れないから、得体の知れない組織に忠誠を誓い、虎の威を借りる。情けないほどガキだ。
「……」
僕は湯面に映った自分の顔に苦笑して、もう一度顔を洗い、湯船から出て、頭を洗った。明日になれば僕らの新たな生活が動き始める。いろいろ考えるのは、それからでもいい……僕はシャンプーの泡を泡立てながら、青いタイルの床の黒ずんだ継ぎ目を見つめて、そう自分に言い聞かせた。
風呂から上がって、台所へ入ると、母が食卓に座ったままぼんやりしていた。テーブルの向かいを横切って冷蔵庫に向かうと、母はチラッと僕に目を向け、親密な笑みを浮かべた。その顔にはハッキリと疲労の色が浮き出ていた。僕も同じような苦笑を母に返し、冷蔵庫を開けて、牛乳を取りだし、水切り籠にあったコップを取って、そこに半分ほど注いだ。
「牛乳飲むなら、もう一度、ちゃんと歯を磨くのよ」
「歯はまだ磨いてないよ」
僕は流しに腰をもたれさせ、コップに入った牛乳を飲んだ。
「それならいいけどね」
人差し指と親指の腹で、瞼の上から眼球を揉みながら、母は笑った。
考えてみれば、この数日間、カンナの祖父母の火葬場の手続きや近所の主婦連中との折衝やらで、母には相当な負担がかかっていた。
母は口に出して言わないが、葬式も通夜もやらなかったことに対して、近所の非難や不審の目が集まっていたことは僕だってなんとなく知っている。母はそんな僕たちの決断をなにも訊かずに尊重して、大人の世界での防波堤になってくれていた。
「ごめん。なんか、けっきょく迷惑かけちゃったみたいだな」
「大人には大人の世界の面倒があるのよ」と、母は首を捻り、背後の流しに立った僕に目を向けて笑った。「あんなことがあった後で、どんな噂がたたないとも限らないしね。まあ、こっちのことは大人に任せて、あんたはカンナちゃんにちゃんとついててあげなさい。いくら気丈に見えても、平気なわけはないでしょう」
「そうだね……」
僕はコップに残った牛乳を飲み干し、母に背を向け、それを流しの水で軽くゆすいだ。
「でもまあ、あんたもずいぶんと災難つづきだねぇ……」と、母は疲れた吐息とともに湿った笑いを漏らした。「入院してせっかく退院できたと思ったら、今度はカンナちゃんだものね……いったい、最近、どうなってるのかね……」
「そのへんは、もう慣れたよ」
僕は濯いだコップを水切りカゴに放り込んで、話の流れを断ち切った。
「ねえ、母さん」
「うん?」
「肩、揉んでやろうか?」
「なによ、気味悪いわね」
「たまには、いいさ」
僕は母の背後に歩み寄り、その肩に両手を置いた。肩はすっぽりと両手に収まった。筋張っていて硬く、哀しいほどに小さな肩だった。その小ささに僕は驚きと動揺を覚えた。その背中はもうとっくに僕が泣きながら逃げ込める場所ではなく、逆に僕が護ってやるべき年齢に近づいていた。それなのに、僕はそんな母を捨てようとしている。十七年も育ててもらってきて、自分は何をしようとしているのか……。
「あんまりうまくはないわねえ……」
母はくすぐったそうに笑った。間近で見ると、母の頭髪には白いものがかなり混じっていた。それがここ最近の一連の事件のせいなのか、もともとそうだったのかまではわからなかったが、母には母の時間が流れていて、僕とは別の人生があるのだという当たり前の事実に初めて気づかされた想いがした。
「そういや、あんた、さっきのあれ、本当なの?」
母は目の端で僕をふり返って、にやりと笑った。
「あれって?」
「プロポーズしたんでしょ?」
「いや、あれは……」
「しなかったの?」
「その、ちょっとニュアンスが違うんだけど」
「へええ。でも、あんたもなかなか計算高かったのね」
「どういう意味さ」
「だって、女の子が一番落ち込んでいるときにプロポーズなんて、わが息子ながら、なかなかのものよ」
「あの、ね……」
「ま、がんばんなさい。あんないい子、いないわよ」
「母さん、あいつはまだ九才なんだけど……」
「だから?」
「いや、だからって……」
「法律的に結婚できるまでには、あと七年でしょ。あんたはそのときすんなりいけば大学は卒業してるわけだし、母さんとしては大歓迎よ」
「あいつがそういう歳になったら、母さんのために少しは考えてみるよ」
「そういう歳になってからじゃ遅いのよ。あんなカワイイ子、周りの男の子達が放っておくと思ってるの。あんたに与えられたチャンスは今しかないわよ」
「最後に選ぶのは、けっきょくあいつだろ」
「あら、その口振りだと選ばれる自信ありそうじゃない」
「そういう男になるように頑張るって話さ」
「ふうん。じゃ、気長に応援するわ」
母は片手で僕の手を叩いて「ご苦労さん」と呟き、肩もみを終わらせた。僕はなんとなく未練が残り、肩に手を置いたままでいた。母も僕の手に軽く手を添えたままだった。何か言いたくて、何か言っておかなければと思うのに肝心の言葉が何も出てこなかった。母の手は冷たく、かさついていた。母は僕の手をそっと握った。
「今日は、向こうで寝るんだっけ?」
「あ、うん、今日くらいは遺灰に寄り添っていたいって」
「寒いんだから、今日くらいは屋根づたいじゃなくて、玄関からにしなさいよ」
「そうだね」
母の頭越しに明かりをつけていない暗い居間が見えた。庭に面したサッシ窓には濃いグリーンの遮光カーテンが掛かっていた。古びたソファセットとテレビがあって、壁際の飾り棚の中には親父がゴルフコンペで取ってきた安っぽいトロフィーやお歳暮でもらった洋酒の瓶が並んでいる。笑ってしまうくらい絵に描いたような平凡な一般家庭の居間だ。でも、その風景がひどく懐かしい。
「ねえ、母さん……」
「うん?」
「オレ、頑張るから」
けっきょくそんな言葉しか思いつかなかった。一拍置いて、母はクスッと笑った。
「そういや、もうすぐ期末テストだものね。今回くらいは頑張らないとね」
「まあ、ね……」
「あんた、いい顔になったわよ」
「え?」
「いろいろあったけど、少なくとも、あんたはいい顔になった。嫌なことがあっても、そのまま頑張りな……」
母は僕の手を握った手にそっと力を込めて言った。どんな顔をしているのかわからなかったけれど、その声は真剣で笑いはなく、ふと、母はなにかに気づいているんじゃないかという不安が胸を掠めた。
「さ、そろそろお休み。カンナちゃんも待ってるんでしょ。そんな格好じゃ風邪ひくよ」
母は僕の手を離し、ポンと軽く叩いて、話を終わらせた。
「母さんもね」
僕は母の肩に置いた手を引っ込め、そっと握りしめた。
4
二階へ上がると、カンナは言いつけ通り素直に布団に入り、顔だけを出して、天井を見つめていた。僕が部屋に入っても眼を向けなかった。
「どうした?」
「ううん。ちょっと、いろいろ考えてただけ」
カンナはようやくチラッと目だけを向けて、照れ臭そうに笑った。僕はカンナに背を向け、ベッドの端に腰を下ろした。
「なんか、おばさんに、いろいろ迷惑かけちゃったみたいだね」
「おまえ、聴いてたのか」
「さっき、ちょっとお水飲もうかと思って、階段途中まで降りたんだけど。そしたら、少しだけ、聞こえちゃって」
「そっか……」
「いいの? このまま行っちゃって……」
天井を見あげたままカンナがポツンと言った。僕は言葉を失って、黙り込んだ。胸が冷たい感触に締めつけられた。足下の床を見つめた。さっきお互いに確認したばかりなのに、気持ちが大きく揺れていた。
「今なら、まだ取り消せるんじゃないの?」
「……」
おそらく現実に撤回は可能だった。最終的なゴーサインは僕らがこの家を出るときに無線で入れることになっていた。だから、まだ、引き返せる。でも、撤回したからといって、その後にどうするというのか。けっきょくはまた、堂々巡りだ。そして、そんなふうに無為に悩んでいても、カンナの身体は地蟲に確実に蝕まれていく。
「……ねえ、あたしが、決めてもいいかな?」
「……」
僕は息を詰めて、床を見つめた。脚の間で両手の指を絡めて、握りしめた。カンナのことなのだから最後はカンナが決めるのがまっとうだ、というのは単なる逃げだ。こんなことカンナ本人に決めさせていいわけがない。最終的な選択を下せば、その責任は自然と決めた人間が背負うことになる。その重荷くらい肩代わりしてやれなければ、僕が一緒にいる意味はない。だから、最終的な決断は僕が下さなければならないし、その決断に対して、僕は後悔してもいけないのだ。
僕は顔を上げて、部屋を見回した。目の前に本棚がある。文庫の小説や神田で買い集めた古本……一番下の棚にはヘブンズのバックナンバーが並んでいる。その右脇に小さなオーディオコンポが床置きされている。グリーンの液晶時計の時刻は、十時半を表示していた。そのさらに右奥には子供じみた勉強机。シールを貼って剥がした跡がいくつもある。足下のカーペットを剥がせば、そこにはまだ牧野香織を撃った銃弾のあとがいくつもあるはずだ。
僕は立ち上がって、ベッドの足側を回り、窓に歩み寄った。薄いブルーのカーテンが掛かった窓。カンナが初めてやってきた窓。カンナが来るまでは特別な意味なんてなにもなかった窓だ。
片側のカーテンをそっとめくると、窓ガラスが部屋の暖気に曇っていた。指先でそれを少し拭った。冷たく澄んだ夜気の中にカンナの部屋の窓が見えた。僕の記憶が正しければ、カンナが正式な玄関からこの家に来たことは、今日を除けば一度しかない。
「おまえ、よく一度も落ちなかったよな」
僕は少し笑って言った。一拍置いて、カンナも小さく笑った。
「けっこう跳び移るときは緊張するんだよ。見た目より広くてさ」
「なあ、覚えてるか? 最初に来たときのこと」
「うん……」
「笑っちゃったよな。突然、二階の窓から来るんだもんな」
「笑ってなかったわよ。すっごい間抜けな顔してたもん。おかげであたしは屋根の上にほったらかしで、すっごい寒かったんだから」
カンナはクスクス笑った。
「驚きすぎて声も出なかったんだよ」
僕は窓ガラスの映り込んだ自分の顔に苦笑して言った。
「あの頃のオレって、なんか、いつもどっかに行きたくてさ、それが、あの夜、いきなり新しい世界に続く扉が目の前に現れた感じがしたんだ」
「どっかって、どこなの?」
「たぶん、どこでもよかったんだ。ここじゃないどこか、今じゃないどこか。世界はまだ新鮮だって思えるどこかで、自分はまだ呑み込まれていないんだって、確認したいだけだったのかもしれないな」
「じゃ、大枠ではその願いは叶っちゃったわけね」
「そうかもしれない」
思わず苦笑した。カンナは身体を起こし、ベッドの上を膝で歩いてきて、残った片方のカーテンを引き開けた。そして窓の水滴を掌でそっと拭い去った。
黒い鏡に映るように、窓ガラスに僕とカンナの姿が並んで映っていた。部屋の風景がクッキリと映り込み、その向こうにカンナの部屋の窓が透けて見える。表通りのほうでは街灯の明かりが澄んだ夜気に光の筋を際立たせていた。
「じゃあ、お次は、どこへ行きたいですか?」
ガラスの中の僕に眼を向けて、カンナが笑った。
「南の島とかいいかもな」
「ハワイとか?」
「沖縄くらいでもいいさ」
「どうせなら、パプアニューギニアとかニューカレドニアでしょ」
カンナは楽しそうに笑った。表通りの坂の上からヘッドライトがゆっくりと下ってきて、また坂をあがり、家の前を通りすぎた。僕らはそれを見送って、同時に黙り込んだ。
「どこにもいかなくたっていいんだよ……」
カンナは街灯の光に目をやって、静かに言った。
「あたしのためにカズシが大切なもの捨てる必要なんてないんだから……」
労りを含んだ優しい声。本気でそう言っているのがわかった。胸の奥で砂時計の砂が落ちていくみたいに、気持ちが自然に落ち着いた。僕はカンナの頭に軽く手を置いた。
「オレが一番手に入れたいものは、そんなに安くないみたいなんだ」
「へえ……」
カンナは窓枠に両肘をついて、頬を支え、ほうっとガラスに息を吐きかけた。その唇がほんの少しだけ嬉しそうに微笑していた。
「ずいぶん高望みしたもんね」
「それほどでもないさ」
僕はなんとなく笑った。
「じゃ、やっぱり、地獄の底までつき合ってもらおっかな」
チラッと横目を向けて、カンナは言った。
「地獄はごめんだな」
僕は笑い返して、カンナの頭から手を離し、ベッドの端に腰を下ろした。カンナは僕の背中に背中をあわせて寄りかかった。僕らはそのまま少し黙り込んだ。冷たい怖気の奥から、カンナの体温がじんわりと背中に染みてきた。
「いいんだね。もう、引き返せないよ」
「いちいち訊くな」
僕は頭を後に倒し、後頭部で頭突きをくれてやった。
「なによ、マザコンだから、気を遣ってあげてるんでしょ」
カンナは同じように背中に頭突きを返してきた。それから、もう一度、コツン、と軽く頭を打ちつけて、力を抜いて寄りかかった。
風の音がした。表通りを車の排気音が静かに近づいてきて、ゆっくりと遠ざかっていった。沈黙は優しく、見慣れた部屋の空気は暖かかった。この部屋にはあまりにも多くの思い出が染み込んでいた。楽しいことも辛いことも、いつもこの部屋とともにあった。
この部屋で、カンナと出逢った。この部屋でカンナと馬鹿話をして笑い転げた。この部屋で一人で泣いた。カンナを泣かせた。そして、この部屋で牧野香織と矢野倉涼子を見送った。僕は、このベッドの端に座っていた牧野香織の姿を想った。公園のベンチに座っていた蜻蛉の姿を想った。台所で食事の支度をしていた母の後ろ姿を想い、学校の教室のざわめきを想い、その窓から眺めていた校庭の風景を想った。すべての景色が鮮明に渦を巻き、胸を熱いもので満たし、静かに遠ざかっていった。いつか僕らは、こんな体験すら、ひとつの思い出として語り合える強さを持てるのだろうか。そんな日はやって来るのだろうか。来て欲しい、と思った。
「必ず、ちゃんと戻ってこようね」
「ああ……」
僕は目を閉じ、赤い視界の中で、そっと微笑んでみた。
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