中村少兵衛 雲州松江訪問の事

 

 出雲松平家初代直政公と少兵衛の関りに付いては 中村家に残された起請文や伝聞、
細川忠興公書簡に断片的の記載があることを編者も気が付いていたが、平成25年7月
 畏友真藤国雄氏より以下の 忠利公より少兵衛宛て書簡をご教示頂いた。
寛永16年11月中旬、忠利公による天海僧正、沢庵和尚、

柳生但馬守招待能から忠利公逝去までの流れも視野に経過をまとめて置きたい。
 又 直政公は少兵衛の細川家合力米三百石のうちの百石を自ら負担されることが
合意されたと伝えられている。

 

「態被越飛脚霜月廿七日之折紙極月十七日ニ遂披見候 殊鱈五はせ一箱送給

祝着之至候 雲州ニ久々逗留ニ而霜月廿二日上座之由 出羽殿御息災之通

珍重存候 我々より進し候鷹犬無事著之通得其意申候 次に西行之掛物之儀

出羽殿御尋之由我々秘蔵申通御物語候つる由 出羽殿も御茶屋花畑見事に

出来之由 緩々と御休息にて候ハんと察申事候 我々事今程弥息災に成申候

毎日鷹野ニ出申候 春は上方にて面に可申承候 恐惶謹言

           十二月十八日      

             中村少兵衛殿

                  御返報」                          

  熊本県資料 部分 御書部 三

 寛永14年10月25日 島原の乱勃発

 寛永15年2月 松平直政 信州松本(7万石)より雲州松江(18万

 6千石)へ転封。

 寛永15年2月28日 島原の乱 収束。

(中村父子参戦。少兵衛手負 伊織ハ加賀山組与力 本丸攻 )

 

 寛永16年 11月初旬 少兵衛 京より江戸へ (三斉公より忠利公へ

 細史1609. 本状には 少兵衛の江戸下着が遅れて 三斉公が

  下国の予定も迫り、少兵衛を連れて直政公を訪ねる事が不能となり、

残念との文言が残されている。)

 

 寛永16年閏11月5日 細川三斎公江戸御発駕、17日洛外吉田に御着、

 翌年まで御滞留被成候。・・・(綿考輯録巻24)

 

 寛永16年11月中旬 忠利公 天海僧正、沢庵和尚、柳生但馬を

 招請して 少兵衛・金春八左衛門の立会能興行。沢庵 少兵衛の芸風を

 故金春八郎に似たりと将軍家光に称揚す。又 忠利公・忠興公 往復

書簡 に 詳細の少兵衛芸風記載あり。

 

 寛永17年 3月 忠利公 鶴・御鷹拝領御礼の為、年寄衆招請能を興行。

 「去4日ニ御老中・御側衆申請、上屋敷にて靭負ニ能五番申付、何も

 緩々と見物にて、酒なと御呑候而御帰候。」・・・(部分賞賜部一)

 寛永17年5月18日 細川忠利公 江戸御発駕被成候。(綿考輯録

 巻51) 6月12日熊本御着座被成候。

* 寛永17年4月27日 靭負嫡子左馬進正辰が京都鹿苑(金閣)の

 鳳林禅師を訪ねたことが「隔冥記」に記載されている。

「細川越中殿之内中村左馬進、為見物被来。神辺十左衛門為案内同道。

内々与左馬進可成知人之内存故、呼入成知人。対話、出晩炊点小団。

膳之内、十左衛門被致所望。依然、左馬進被歌謡也。初之謡者、

長生之家社不老(養老)之小謡、自序被謡也。又所望、則三井寺之曲舞、

 其次、卒塔婆小町之小謡、是亦自序被謡。洗耳根之音節、絶言語

 者也。教外別伝之音曲、非世間之謡之風、感嘆難計者也。」

 

 戦後能楽研究の第一人者である表章氏は「能や謡を見聞し馴れていた

 鳳林和尚をかほどに感嘆せしめているのであるから、中村左馬進の謡は

 非凡のものであったろう。“かねがね知人になりたいと願っていた”

との文言は、左馬進の名が当時京都でも聞こえていた事を思わせ、

「教外別伝」の形容は、左馬進が金春安照直系の芸を誇り、人々も

それに権威を認めていた事を暗示している。」と述べれれている。

寛永17年6月2日 忠利公より光貞君への御書(綿考輯録巻51)

「六月朔日すくニ夜之ほのぼのニ吉田へ参、昼過迄御振舞、少兵衛舞も

 七番迄御所望にて御機嫌能見へ申候。・・・」

*寛永17年7月4日 三斉公 京吉田御立被成、同十六日熊本御着被成候。

 (綿考輯録巻25)

 

編者曰 少兵衛は江戸より忠利公に同道しての上洛であったように思われるが、
左馬進正辰とは別行動であったのではないか。京都で父子が会ったか

どうか、判然としない。

 少兵衛は或いは直政公の下国、出雲初入部に同行して、松江滞在となった

可能性も考えられるだろう。 冒頭の忠利公の少兵衛への御書こそ翌年

3月17日御逝去前最後の少兵衛への御音信であったであろう。3月の

京都での再開は適わなかったのである。  以上 2013・7・17