閑話休題12 能と歌舞伎(ヤヤコ庄九郎と中村勘三郎そして出雲阿国)


 平成18年2月(2006年) 編者は京都の芸能史研究会例会において
「阿国から勘三郎へ~~ヤヤコ庄九郎考~~」と題して 日頃からの考えと 少しばかり
調べていた事柄などを発表する機会をあたえられた。
 編者の先祖が豊臣秀吉に稚児小姓として仕え、時の能界の第一人者金春八郎より膨大な秘伝書類を授けられた後、肥後の加藤家・細川家に武家役者として召し抱えられたことから、同姓の芸者中村勘三郎家の出自を尋ねる事となった. 当家の文書調査のご縁から、長年、法政大学名誉教授 表章先生のご教示を頂き、又 法政大学能楽研究所の紀要を 各号ご恵贈戴いているが、 能の学会から見る歌舞伎論も余り見られず、また歌舞伎の学会から能の影響についての纏った論考が見られないところから、編者は自らの未熟をも省みずに 各界に一石を投じてみたい誘惑に駆られた次第である。
 本論のきっかけは 編者が世話人をしている「熊本史談会」で九州から上方への伊勢参宮、参勤交代の日記を 数々集中的に取り上げる中で(今も継続中)、天正3年の「家久君(島津)
上京日記」に遭遇したこと、及び江戸歌舞伎の開祖中村勘三郎の名跡を前勘九郎丈が襲名された事であった。
 編者の見方は 素人なりに 能に立脚しているので、一応のまとめが出来たところで
表章先生に草稿をお送りした。 先生から とりたててのご返事も無かったのであるが、思いがけなく 芸能史研究会からお声がかかったと言う次第である。大阪大学教授天野文雄先生のおすすめであったらしく、天野先生によれば「あんなものかもしれないね」と表先生がのべられていたとのことであった。 或いは歌舞伎の成立という大問題とは別に、調査の途中で浮かび上がってきた ヤヤコ芸と大鼓葛野流初代九郎兵衛についての 狭義の編者の見方についてのコメントであったかともおもへる。

 編者の論点は 1.能と歌舞伎は ヤヤコ芸を通して密接不可分の関係にあり、 
2.初代阿国の集団は 出雲に由来するものであり、3.中村勘三郎家は阿波蜂須賀家家老中村右近家でほぼ間違いがなかろう、とする3点である。 
 編者は 能、歌舞伎の専門の先生方が相互に論考を重ねられ、わが国が世界に誇る古典芸術のさらなる発展に寄与されんことを念願するものである。
 芸能史研究会での編者の発言内容は 同誌平成18年7月発行174号に載せられているが、以下 発表の基となっている全文を掲載しておきたい。大雑把な素人の試論とご寛恕あって 
大方のご感想とご教示をお願いするところである。(H.22.1.18.)


 勘三郎の風景
[Ⅰ]  はじめに
        ――――角切銀杏と立銀杏―――
[Ⅱ]  東都演劇沿革誌料
[Ⅲ]  阿波藩中村右近家
[Ⅳ]  桂林寺過去帳
[Ⅴ]  ヤヤコ庄九郎と葛野おまり
[Ⅵ]  家久君上京日記
[Ⅶ]  勘三郎誕生の頃
[Ⅷ]  勘三郎の東くだり
[Ⅸ]  将軍御前
[Ⅹ]  其の後の両中村家
[Ⅺ]  勘三郎上洛と役者寺大雲寺
[Ⅻ]  むすび
[ⅩⅢ] 参考文献と 関連人物生没年表(略)

[Ⅰ]  はじめに   ――――角切銀杏と立銀杏――――
   平成十二年四月、「十七代目中村勘三郎十三回追善大歌舞伎」に「髪結新三他」を
観劇のため「中村家の会」(注1)会員二十余名が築地の歌舞伎座に集合した。昼の休憩時間に、
松竹(株 )常務取締役大沼信之氏のお取り計らいを頂き、楽屋に中村勘九郎丈をお訪ねした。
記念にとカメラに収めた。楽屋ののれんの勘九郎家の紋章を、帰郷後目にしたところで、
阿波の中村右近家が思い起こされた。筆者の問い合わせに、徳島城博物館の学芸員根津寿夫氏より左のファックスが送られてきた。

且つ、右定紋は「立ち銀杏」と呼称されているとのことであった。(図イ)
これまでに筆者が目にした歌舞伎中村勘三郎家の家紋は左の三個である。


(図ロ)は、伝菱川師宣の「歌舞伎図屏風-東京博物館蔵」、(図ハ)は、観劇当日の図録表紙
「歌川豊国画-国立劇場蔵」であり、(図二)が、楽屋にあった、勘九郎丈家の定紋であった。
 阿波中村家の定紋は江戸時代初期の原始的形態を残している印象を受けるが、勘三郎家のそれは、
時代を経るに従い、図案化され、洗練されている。元来は同一のものであったと推測される。
儀礼、形式に厳しい江戸時代に、両中村家は、極く類似した定紋をもちいていたことになろう。

[Ⅱ」東都演劇沿革誌料(以後沿革誌料)と略す)
 右、追善大歌舞伎の観劇に先立って、筆者は「中村家の会」会長中村忠文氏(注2)より
「歌舞伎の勘三郎家も、元は同じ中村一門であろうとの指摘をいただいていた。筆者の属する
肥後中村家は、江戸初期以来、加藤家、細川家縁故の金春流能楽(注3)に関わり深く
、同じ芸に携わる者として、勘三郎家の出自に興味を覚えた。
 早稲田大学演劇博物館より、表題誌料の「中村勘三郎家」の複写をご送付いただいた。
「中村家の会」会員である筆者が、沿革誌料の中で特に注目した箇所は次の通りである。

 「沿革資料」にみる中村(猿若)勘三郎
(1)中村彦右衛門尉一栄(沼津城主三万石)――中村右近(一栄弟)
 ――中村勘兵衛(注4)――元祖勘三郎(猿若道順)――
(2)豊太閤取り立てられし中村式部少輔一氏弐拾万石余の大名たりしが、其子一学早世。  
 子孫なくして永く断絶・・・其一族中村冶右衛門と云者江戸流浪・・・(注:越谷中村家?)
(3)中村勘三郎は元和八年生国山城国より江戸へ下り、寛永元年二月中橋南地に櫓を
 上げ、同三月より興行。
(4)寛永年中御城へ被為召。猿若を御上覧・・・
(5)寛永十年阿武丸江戸湾引入の節、勘三郎の大音美声により櫓拍子舟歌の音頭を・・・
(6)慶安四年勘三郎など江戸城へ召出され、猿若の舞他芸尽し上覧・・・
(7)明暦三年五月勘三郎一子勘ニ郎を召連れて生国へ上り、禁裡において、「猿若の
 狂言」及び「新発意太鼓」を叡覧に供し・・・
(8)明暦四戌々(改元萬冶元年ト成)六月九日没す。歳六十二、法号教譽道順。菩提寺
 本所押上村大雲寺。
(9)正徳四年十月、町奉行中山出雲守殿より六代目勘三郎隠居勘九郎を被召、其方先祖は由緒
正敷者之末孫之由伝聞にて承知せり・・・
(10)或人の曰く「元祖猿若勘三郎は蜂須賀阿波守源至鎮の家士中村右近の娼腹の子なり。
父右近大坂冬の御陣に主君阿州侯に隋ひ・・・終に右近討死せしなり。兼て妾腹の男子勘三郎に右
近が譲る所の短刀作は覚えざれども正しく角の内に銀杏の葉彫付たる拵への短刀なりと・・・
(11)彼右近が嫡流は今阿波の大守の用人職を勤。中村主馬介と云。紋も則
   角の内に銀杏の葉也。彼主馬介の江戸の菩提寺は三田台町の正覺寺なりと語りし
   人のあるに任せて彼の寺に行て尋見しに、其言葉にたがわず、実に主馬介の父の
   墓とおぼしくて、阿州中村次郎左衛門富道墓 と切付けたる碑有。紋所も彼話に
   符号すれば・・・(今も三田に正覺寺あり。但、明治以降墓域整理のため墓碑は現存
   しないが、過去帳には同名が残されている。)

    「沿革資料」には他に幾つかの説も含まれているが、斯く一つの筋を抜き出してみると、
   中村勘三郎家の出自は阿波藩重臣中村右近家と想定しても無理が無いようである。
   「沿革資料」の著者 幕末の人 関根只誠の結論のようにも見える。

[Ⅲ] 阿波藩中村右近家について
   徳島県立図書館より次の3点の資料をご送付いただいた。

  (1)「阿波人物志」 昭和48年 藤井喬著
     *中村右近大夫(1614)藩士 初名は藤兵衛、名は重勝。重友の子。中村氏2代。
      (蜂須賀)家政、至鎮の重臣。池田城代。朝鮮・大坂両陣に出陣し、慶長19年
      12月16日大阪城夜討で戦死。槍の利鈍に長じていた。
     *中村冶郎右衛門(1658)俳優。阿波の人。江戸住。初代中村勘三郎(猿若)
      明暦4年6月9日没。

  (2)「阿波明家墓所目録」 昭和42年 山本武雄著
     *中村右近大夫 家老。慶長19年12月17日。 三好郡池田町 桂林寺。   
     *中村冶郎右衛門 江戸役者。初代中村(猿若)勘三郎。明暦4年6月9日。
      東京都江戸川区春江町 大雲寺。

     注:以上2点の資料により、阿波藩中村家が徳島では有力な武家として 知られて
     いること、今日では 徳島の人々から勘三郎の記憶が殆ど失われているものの、
     且つては、郷土の芸人として認識されていた時代のある事が知られた。

  (3)「阿波藩士譜」 1038 中村主馬助 2千石
     イ. 初代 中村右近大夫重友。 初名 次郎左衛門。天正13年酉年瑞雲院様与力。
        阿波入国御供罷越。高5千石。家老。海部郡鞍城御預。瑞雲院様高野山へ
        御引退の節御供登山。其後没。没年不詳。
     ロ. 2代 中村右近重勝。 初名藤兵衛。瑞雲院様御代相続。 高5千百石。
        鞍城代。大西池田城代。 朝鮮・大坂両陣御供出陣。慶長19年寅年12月
        16日大阪城夜討の節討死。
     ハ. 3代 中村若狭守可近。初名 大学。慶長19年大坂御陣中にて家督被下。
        高5千5百石。後高2千石加増。池田城代。正保元年申年11月26日没。
     ニ. 4代 中村美作近照。 幼名五郎吉。正保2年酉年正月相続。高7千5百石。
        淡州洲本在番。明暦2年申年不心得の儀有之家老職被召上。寛文12年子年
        8月8日没。
     ホ. 5代 中村主馬助富淑 初名小三郎。主馬 明暦2年申年11月25日召出。
        (実美作弟)高2千石。中老に被仰付。士組頭。享保2年酉年3月10日没。
     ヘ. 6、7代 略
     ト. 8代 中村次郎左衛門富道。初名 小三郎。寛延三年六月二十六日相続 
        高二千石。士組頭(注5)
     チ. 九代 中村主計助長徳 初名船越勘十郎 宝暦二申年十一月二十八日
        兄次郎左衛門跡相続高二千石 御奏者役 士組頭 御近習役 若年寄 
        寛政二戌年十一月十四日没
     リ. 十・十一代 略
     ヌ. 十二代 中村若狭美功 初名小三郎 万延元申年十一月十八日相続 
        高二千石士組頭 (文久元酉年九月)

   「編者云」 「藩士譜」による中村家各代の略歴は以上の通りであるが、第五代に
    おいて 藩中屈指の有力家臣でありながら、「不心得」により「家老職被召上」という
    文言が誰しも目に止まるところであろう。 後日、徳島市在住の郷土史家出水康生氏
    から、次の資料のご送付をいただき、中村右近家の出自と、「不心得」の実体が明らか
    となった。各代についての詳細な記述であるが、「藩士譜」との重複を避けながら、
    本論に関連すると思われる事項を拾い出して左記に掲げたい。

  (4) 阿波藩翰譜――牛田義文注
    イ. 初代重友(次郎左衛門、右近)「次郎左衛門源氏重友は織田信長公に仕へて、
       尾張国中村郷を領す。」と記し、「桶狭間に駆け向ひ・・・」「信長公御他界の後
       秀吉公より公(蜂須賀正勝)へ寄騎・・・」「慶長五年 公、阿波国を秀頼公へ
       お返しなされ、高野山登山の御供す、山中に没。」
    ロ.二代 重勝(藤兵衛 次郎左衛門 右近太夫)
       ○父に継ぎ、右近太夫となさる。其後名東郡一宮城より、三好郡池田城に移る。
       ○文禄元年三月十二日太閤諸国の兵を朝鮮へ向給ひし時、公に隋ひ・・・
       ○慶長2年三月、再び朝鮮へ御人数向われし時渡海・・・唐島にて散々に相戦ひ・・・
       ○慶長十九年江戸・大坂御手切につき、公(至鎮)御出陣に供奉し・・・
        十二月十六日 夜討ち入りぬ」と聞くより、只一人踊り出で、中村右近!
        中村右近!と名乗りかけ、縦様、横様に切って廻る。敵は七人なり。
        薄手、深手、数ヶ所負ふて終に突き伏せらる。
       ○嫡子可近、家を継ぐ。二男某世を早ふす。(注6)
    ハ.三代 可近(大学 若狭守)
       ○父討死の時大坂へ召され、御陣中にて遺領給はる、御凱陣後 高二千石増し
        給ひ、父の如く 池田城御預けなさる。
       ○嫡子は近照。二男小三郎富叔 兄近照御咎めを蒙り 新に中老格に召し出さる。
    ニ.四代近照(五郎吉、美作)
       ○正保三年正月十日 父の遺領(七千五百石)給はる。
       ○承応三年正月二十八日 洲本執事職となさる。
       ○明暦二年十月五日 洲本在番中、京都大坂へ忍行、遊興にふけり、不届きの
        儀ありて職禄召上げられ、仁宇山へ籠居仰せ付けられ・・・
    ホ.五代 富叔(小三郎、主馬助)
       ○明暦元年証人として江府に赴き、御太刀に馬代献り、将軍家に拝謁す。
       ○同二年七月二十四日飛騨守君(蜂須賀家四代光隆弟隆重)より使者を
        以って、「美作なりゆきに隋い如何分にも罷り成り申すべく候。たとひ美作
        思召しに叶わずとも先祖軍功も有之候条、筋目正しく御覚悟遊され候間、
        頼母敷く存じ奉る。・・・」旨仰せを伝えらる。
       ○同年十月五日 中老格に召し出され、新に二千石給はり、本藩へ帰る。

     「編者云」「阿波藩士譜」及び「阿波藩翰譜」によって、中村右近家五代美作の
      概略が 明らかとなった。則ち 初代 、二代は豊臣秀吉より与力として付けられ
     蜂須賀家草創期の猛将であり、特に二代右近太夫重勝の武勲は広く世に知られていた。
     父の武功により 三代可近では 七千五百石の大身となりながら、四代に至って
     「遊興」を理由に職禄召上、追放処分を受けている。「藩翰譜」云う所の「忍行・遊興」
     の内実は如何なるものであろうか。それを伺わせる資料が徳島城博物館より、
     2点送られてきた。

  (5)「阿淡年表秘録」
   明暦2年の項に 以下記載されている。
   イ.7月 中村美作儀 重々不届之段 御老中へ被仰入候処 達上聞 心次第可仕旨
        上意之趣被仰達。
   ロ.7月 中村美作淡州在番中、京大坂へ忍行、遊興其余不届之儀有之、閉門被仰付。
   ハ.8月3日 賀島長門 中村美作一件に付、在郷へ押込儀御伺之処 被任思召旨達、
        為御礼江府へ被遣8月18日下着9月14日罷帰。
   ニ.中村美作母京都四條通麩屋町に屋敷調差置候に付、所司代牧野佐渡守迄
     御届被仰達。

  (6)蜂須賀家文書375ー1
   井伊掃部頭より蜂須賀阿波守光隆宛書状
  「中村美作母 京都四條通麩屋町に美作屋敷調差置候由、長門書付為見被申、
   牧野佐渡守殿へ兎角之旁なく 御状御越可然候・・・」

    「編者云」 以上二点の文書により中村美作の罪状は、母をも巻き込んだ遊興であり、
    大身の付家老であれば 老中より将軍上聞に達せられ、藩主裁量に任せ職禄召し上げ、   
    在郷押し込めと、京都所司代による京屋敷の没収に至っているだろう。四條麩屋町は
    今日では京都の最高級旅館の立ち並ぶ界隈であるが、歌舞伎興行の行われた四條、五条
    の河原までは直近の距離である。 阿波藩第3位の大身の家老が私的に京都に屋敷を
    持つ事は 幕府の忌憚に触れる行いであったようである。

[Ⅳ] 徳島県三好市池田町 桂林寺過去帳
  平成14年4月21日 編者は「阿波名家墓所目録」を頼りに、徳島市在住郷土史家
  出水康生氏の御案内をいただき、池田町サラダの桂林寺を訪ねた。
   本堂北側に南面して中村三代の巨大な墓碑が並んでいた。奥から柱状の二代右近大夫重勝、
  中央に三代若狭守可近、手前に板状の四代美作近照である。因に阿波中村家初代右近大夫
  重友は関が原の折、蜂須賀家政に従い高野山に上り、当地没と伝えられ 没年墓所とも
  不明であり、中村家五代以降は 蜂須賀家菩提寺徳島市興源寺に葬られている由であった。
  (編者翌日墓参)
   桂林寺前住職内田究明師のご好意により、出水康生氏共々座敷に通して頂き、
  昭和10年3月19日、15代当主中村猛夫氏他による金剛経会式座法要の折纏められた
  「中村家過去帳」を拝見させていただいた.
    この過去帳における歴代の事跡は「藩士譜」、「藩翰譜」を更に簡略したものであったが、
   驚いたことには夫々の内室が法名のみならず俗名まで記載されていたことである。

    ○ 二代重勝内室  寛永元年6月5日  益田慶子
              潮音寺     享年不詳
    ○ 三代可近内室  寛永3年正月15日 正宗院殿無得妙参大姉
                        賀島佐牟子 享年26
    ○ 三代可近後内室 貞享4年11月24日卒
              瑞昌院殿鉄峯寿印尼大姉 俗名 葛野瑞
              佐古山路大谷 臨弘寺 享年不詳
    ○ 四代内室    元禄元年7月24日 永昌院殿豊若寿貞尼大姉
                        長江永子
              佐古山路 臨弘寺  51歳
         ーーーー以下略ーーーー
      「編者云」 徳島郷土史家出水康生氏によれば 益田氏、賀島氏、長江氏は何れも
       阿波蜂須加家を代表する大身の名家であるが、葛野氏については 全く心当り
       が無いとのことであった。 編者はこの3家は勿論初見であったものの
      「葛野」と言う姓だけは心当たりがあり、若しやと思いながらも「能楽葛野流
       大鼓の家元家ではないでしょうか」と告げて桂林寺を辞去したのである。

[Ⅴ] ヤヤコ庄九郎と葛野おまり
(1) 四座役者目録
 能楽大鼓葛野氏初代庄九郎について、右資料は次の様に二十二行に亘って、その出自、
芸暦、芸風を詳しく述べている。従来、庄九郎(後九郎兵衛)に冠せられるヤヤコは比喩的に
とらえられているようであるが、筆者はむしろ天正八、九年から諸書に見られる、ヤヤコ芸
そのものであろうとみなしたい。本論に関わると思われる文言を左に掲げてみよう。

イ.表題は「今の葛野庄九郎」として本人の他にも以前同姓の鼓打が知られていた事が示されて
  いる。
ロ.「初ハ、ヤヤコ庄九郎ト云。」と記して能の鼓打として大成した後も、前身はヤヤコ囃子の
  鼓打であったことを明示しているのではないかと思われる。
ハ 「是が祖母、ヤヤコヲドリト云事シタル、ト世間ニ云。」即ち葛野一族は、祖母の頃から
  ヤヤコの芸に深い関りを持っていたのである。
ニ 「後、西川トウイン十右衛門ト云ニ習フ・・・」師匠の一人が西川氏であったと云い、
   同じ「四座役者目録」の西川氏の項では当時西門跡との関りが示されている。因みに、
  「童舞抄」で名高い金春系の下間少進仲孝は西門跡の家老である。庄九郎もヤヤコから
  能への転進を希っていたのであろう。
ホ.「鼓手クダリ、様々ニ手作スル。童部ラシキ、ヲドリ鼓ノヤウ成事多シ。」庄九郎の鼓の手配
 りが従来の玄人による定法とは離れた自由で、工夫の凝らされたものであったということであ
 ろう。そしてそれが若年(少年)期の童部、即ちヤヤコのヲドリ芸の故であると見なされた
 ようである。しかし、庄九郎は新しい技法などを加えつつ、やがて幕府や紀州家に愛顧を受け、
 今日に至る大鼓の芸系を礎いている。寛永十九年の「隔命記」には、尚、「ヤヤコ庄九郎」
 と記されており、葛野一族及び庄九郎が、如何に強烈の印象を以って、京の人々に、ヤヤコの
 芸人として記憶されていたかを伺うことができる。

[5] 葛野氏系図及葛野家由来                              
 四座役者目録一覧の後、法政大学能楽研究所より同研究所「紀要八号」所収の山中玲子氏の論文
「葛野九郎兵衛」を御送付いただいた。同論文は能楽大鼓方としての詳細な論考であるが、若年の頃
ヤヤコの大鼓打であったらしい九郎兵右衛(庄九郎)の背景という観点から次の諸点に注目したい。
イ. 「葛野氏系図」  九条
          田中 倶同氏也
    葛野信濃守a――――葛野九衛門b――――葛野九郎兵衛尉定之e―――
               同又左衛門尉c
               同五郎右衛門尉d
 
     ――――――同九郎兵衛門尉定春――――――――

     山中論文には表題中の九条については言及されていない。筆者が京都の畏友で
   歴史作家津田三郎氏より御送付いただいた「九条家系図」には、田中氏との縁を示す
   記述はなかったものの、九条家と本願寺が極めて深い関係にあることが知られた。安土
   桃山から江戸初期にかけて、九条家の三人の子女が、光円、光従、光晴の内室となり、
   九条兼春の三男光澄は本願光常の養子となっている。
    葛野氏系図の云う「九条・田中倶同氏也」という表現からは、九条家本流ではない
   ものの、葛野氏は九条家の傍流であることを強く主張しつつ、更に田中を姓として
   用いていた事を伝えている。
   又右系図は長文の注記を含み各代にa――eの文言を載せている。

  a. 本願寺御門跡之家来。・・・平方の御坊に御門跡の御舎弟兼テ御在住被成候故御防
    被成候。某介副に信濃守罷在候・・・妻は老後ニ太閤秀吉公被召出
  b. 法名雲宅。信濃守嫡子。・・・
  c. 葛野甚助、大鼓ノ達者也。東門跡ニ子孫在之也。
  d. 女子両人在り。嫡女おまりハ松平阿波守殿家臣中村右近為妻。男子在之主馬ト号、 
   干今阿波守殿ニ在之候。・・・
  e. 雲宅嫡子也。・・・定之若年ヨリ大鼓ヲ打、無類ノ器用也。・・・   
       
ロ. 「葛野由来記」より以下摘出する。
  「先祖は田中信濃守とて本願寺之侍也・・・老母(九郎兵衛祖母)大坂御城に奉公ス.
  先代太閤江御敵対仕候物故、田中改。其比京都葛野郡二居住、依之葛野ト改・・・」
  
  「編者云」
  [四座役者目録」及び「葛野家資料」により 以下推論しておきたい.

  1 葛野家が本願寺及び公家衆と極めて近い武家であり、余技として男子は鼓を打ち、
   女子はヤヤコの稽古に励んだのではないかと想像できよう。
  2 葛野氏系図から、「四座役者目録」の云う「今の」という表現が、前に叔父又左衛門
   甚助と呼ばれた大鼓の達者があったことが知られる。
  3 更に本論の中心命題である中村家との関係が明示されて、ヤヤコ庄九郎の従妹おまりが
   「瑞(みずえ)」という名で阿波藩の重臣三代中村若狭守可近の後内室に迎えられたことが
   判明した。系図云うところの「右近為妻」は系図作者の誤りであろう。中村家四代が遊
   興を理由に追放された後、新知召出された主馬は、系図の書き方からすれば実子であっ
   たかもしれない。明暦二年京都四条麩屋町を追われたおまりは徳島へ下ったであろう。
   出水康生氏によれば、今日、おまりは徳島市佐古山路大谷の臨弘寺の奥に、五代主馬助
   夫妻に両側から支えられるように、静かな眠りについている由である。
  4 中村家三代可近が葛野おまりと結ばれるには、相当の背景を推測せざるを得ない。
   中村勘三郎が二代右近重勝の妾腹の子であるとすれば、可近とは異母兄弟である。
   上級武士ながら、ヤヤコの一門から後室を迎えるほど、可近も、更にはその父右近重勝
   も 早い時代から芸能に深く関っていて、更には本願寺の人々とも親い間柄であったと
   想像できる。

[Ⅵ] 家久君上京日記(玉里文庫蔵)
   ヤヤコなる芸が上方の文献に散見する天正八、九ねんを遡ること数年の頃、一地方の武将
   が京都や地方の芸能を記した表題の好資料がある。
    天正三年二月二十日西南の雄、島津貴久の四男中書島津家久は伊勢参宮、京都遊覧のた
   め家臣四、五十人を引連れて、所領串木野を出立し、同年七月二十日帰着している。島津
   氏による九州席捲の直前であり、諸国の政治状況把握なども兼ねていたことであろう。京
   においては連歌師里村紹巴の知人らしい心前という人物の寮を借り受け、後日は紹巴の自
   邸に滞留している。連日名所、旧蹟、寺社を訪ね、公卿、武家、文人役者と頻繁に交流を
   重ねている。
   ヤヤコらしい芸との出会いは次の通りである。
   上京の途中、九州を船出したところで、
  a.「三月十二日、順風なく猶(赤間関)滞留。然は京者神山八幡宮にて狂言法楽つかまつ
   るを見物」と記し、更に京都滞在中の五月十五日坂本で、明智光秀の接待を受けた後、
  b.「やがて石山世尊寺へ参、風呂に入、あるしまうけ様々、夜に入て児若衆こうたなとうた
   ひ、酒宴あるに、一二、三計の若衆小歌なとを舞廻られ其興をもよふされ候。」
   やがて六月八日京都を発った一行は下国に山陰路をとっている。六月二十五日には石見国
   湯の津に至っている。
  c.「・・・其より小濱といえる宮の拝殿にやすらふところに・・・出雲の衆、男女わらハ
   へあつまりて、能ともなし、神まひともわかぬおひいれ、出雲の歌とて舞、うたひたる見
   物し・・・」 

  aによって京の役者が津々浦々を廻って地方の法楽を勤めて居り、bでは客人の酒宴に児
  (ちご)若衆がこうた舞いなどを供することが、極めて一般的であったことが知られる。

  c 家久一行が帰路石見国で出会った出雲衆は、更に注目されねばならない。
   男女わらハが能を演じ、神まひや出雲の歌で旅人を慰めている。之は、天正十年五月の、
  「多聞院日記」や、同十六年二月の「言経卿日記」及び慶長五年七月の「時慶卿記」を想起
  させる。島津家久はヤヤコという言葉を知らなかったかもしれない。又、出雲衆に後年かぶ
  き踊を演じた阿国が含まれていたか否かは不明である。しかし、出雲の集団が やがて
  都に進出した可能性は相当に高い。能に酷似の舞台をしつらえ、能の演目をとりいれ、狂言
  をやつし、京の諸芸、諸踊を吸収して新しい芸能をリードしたのではないか。出雲の男女わ
  らハは「時慶卿記」、「慶長日件録」、「当代記」に明示されている。家久一行に能をも演じて
  見せた彼等の芸力は、他の芸団にも増して極めてレベルの高いものであったのではなかろう
  か。ヤヤコ庄九郎ならずとも、当時、山陰の役者、笛の牛尾玄笛や宍戸善兵衛の名は
  天下に知られていた。

[Ⅶ] 勘三郎誕生の頃
  ヤヤコヲドリが禁裏や寺社、民衆の熱狂的支持の下に 新たなエネルギーを得て、
 傾き踊に発展しつつあった頃、桃山の諸芸は頂点に達していた。
  全国統一と平和の到来、大規模築城と朝鮮への出兵は 全国津々浦々 膨大な人的
 物的流動となって 奔っていただろう。
  この様な状況の中で 初代中村勘三郎は生をうけている。 明暦4年62歳の没年
 から逆算すれば、生誕は慶長元年前後である。 折から明・朝鮮との講和交渉が破れ
 豊臣秀吉が 朝鮮への再出兵を決断していた。
  当時の蜂須賀家の動静は 文禄元年4月朝鮮へ渡海し、同年12月帰国、慶長2年に
 再出兵し、特に唐島の海戦に名をあげているが、秀吉の病状悪化により、慶長3年5月
 日本へ帰陣している。

  阿波藩重臣初代中村右近父子は 出兵帰国の都度、京阪には相当長期の逗留を余儀なく
 されたであろう。 父子の宿所は 寺社や郷士(葛野郡住田中氏とするのは、穿ちすぎ
 であろうが)、或いは戦中のことでもあり、兵站をになう昵懇の豪商邸宅や別宅であった
 かもしれない。 後年 勘三郎が座元を引き受け、番頭を木曾山金兵衛(歌舞伎年表)と
 していることからも、そのように推定できるのではないかと 思われる。

  抑々、蜂須賀家及び中村右近家と京との関りは、織田信長指揮下の羽柴筑前守秀吉の時代
 まで遡るであろう。 秀吉が天下統一を果たして 聚楽第を築いてからは その関係は一段と
 拡大深化している。 聚楽第の東に黒田孝高、西に前田利家、南に中村家長兄式部少輔一氏、
 北に蜂須賀正勝など、秀吉子飼いの武将が配置されている。 蜂須賀家の有力家臣中村右近
 父子は相当の軍勢と共に独立した宿所を確保していたと思われる。
  勘三郎の出生地は 山城 とのみ伝えられるが、京の市中か、伏見、更に広域の近郊で
 あるか判然とはしていない。 ともあれ、勘三郎の母の出自を 郷士又は豪商とみて 本論
 を先へ進めたい。

  この様な戦時経済の下 京阪の町衆は競って芸能に身を投じている。 禁裏公家、有力
 寺社の嗜好に合わせると共に、特に諸大名との商取引のため 芸能技芸がこの上ない潤滑油
 として 作用したようである。
 「四座役者目録」に名を残している素人役者は 紺屋、革屋、俵屋、呉服屋など枚挙にいと
 まもない。能に限らず新興の傾き芸を支え、己の子女が踊りを身につけることに熱中した町
 衆も少なくなかっただろう。本願寺の武将田中(葛野)信濃守の妻、二代中村右近重勝の妾
 と呼ばれる女性、そして三代若狭守可近の後室となった葛野おまり等、このような京の町娘
 であったろう。
  勘三郎はこのようなっ富裕な町衆の中で伸々と成長したと思われる。芸好きの母に手を
 引かれて五条河原に阿国ヲドリを見たことだろう。同時に中村家の若殿として文学、能、狂言
 などにも親しんだに違いない。元和年中には四条河原の傾き小屋に入り浸り、自らも猿若芸を
 身につけて、果てにはその美貌と芸達者から座頭と名優の名を都下に知られるに至ったのでは
 なかろうか。

  一方、勘三郎の義兄若狭守可近は父右近の討死により直ちに大阪陣中で家督を許された。可
 近の母は二代右近正室の益田氏(六千五百石)愛子と見られるが、可近の誕生は文禄三年頃で
 あろう。また、可近の正室は賀島氏(九千六百石)慶子であったが、寛永三年二十六歳という
 若さで亡くなっており、其の後に葛野おまりが内室として迎えられたことになる。
  若狭守可近は元和年中公私に亘り繁々京阪に足を運んだであろう。義弟勘三郎やその母とも
 或いは家督以前に父右近に随って出京し、既に見知っていたかもしれない。やがて可近は勘三
 郎の芸に魅られ、支援するに至ったのではあるまいか。このような環境の下で、元和七年国許
 では嫡子美作近照が誕生し、やがて京都では葛野おまりとの出会が用意されていたのだろう。

  戦国余燼さめやらぬこの時代、主家蜂須賀氏にとっても幕府に対して偃武の姿勢を示す為、
 重臣の傾きはむしろ歓迎であったかもしれない。四代美作近照はこのような人間模様の中で成
 長し、二十三歳で家督、父と同様に、又京へ足を向けたに違いない。淡路在番となってからは
 遊興が加速したものと見られる。明暦二年追放処分を受けた時、近照は三十五歳であった。

  事件では阿波藩が「美作母の屋敷」と幕府に訴え出ているが、名指しされた四条通麩屋町は
 今日、京を代表する高級旅館「俵屋」「柊屋」の点在する一帯である。東に四、五百メートル
 余で四条河原である。橋を渡れば北に阿国の傾き姿の銅像が立ち、道の向かいが南座である。
  当事は豆腐など食品を商う問屋街であったらしい。四条河原のさんざめきは、中村屋敷まで
 真近く聞こえていただろう。勘三郎の育った慶長初年の遊興飲食の河原は 五条であったが、
 関が原役以降、徳川政権が豊国廟を破却するにあたり、これを四条に移動させていた。
  中村家は初代、二代共に京都の町と深い因縁を持っていたことは疑いないが、四条通麩屋町
 に拠点を置いたのは 三代若狭守可近あたりではなかったか。自身も芸好きであり、且つは
 勘三郎とその母の利便を考えていたかもしれない。京育ちの若狭の後妻 葛野おまりは
 国許に下らずそこに居住し、美作遊蕩の遠因をつくったかのようである。

[Ⅷ] 勘三郎の東下り
   元和8年、勘三郎一座は「関東のご繁栄を慕ひ」江戸へ下っている。 折から、幕府では
  徳川家康七回起忌を終え、秀忠は将軍職を嫡子家光に移譲する手続に入ったものと思われる。
   元和9年、徳川秀忠、家光父子は30万とも言われる大軍を率いて上洛した。
  7月27日 家光は将軍宣下を受けて、念願の三代将軍が確定している。 新将軍の拝命
  こそ 「沿革資料」言うところの「関東の御繁栄」であろう。 元和9年は大軍の上り下り
  で東海道は混雑を極めたに違いない。 一般の通行など余程の制限を受けた事と思われる。

   前年の元和8年に勘三郎を座元とする集団が東下した事は 頗る納得される事である。 
  江戸に着いた勘三郎らは 直ちに興行を願出て、江戸城近くの中橋南地(現京橋)の
  最適地を与えられている。 江戸に蝟集する無数の芸人の中で 特段の配慮であろう。
  元和9年中は 芝居小屋や桟敷の建築、及び 興行諸般の準備に忙殺されただろう。

   寛永元年(元和10年)2月15日櫓が完成。 3月から興行を始めている。 阿波藩
  中村家を憚ったのか、座名は通称の「猿若」を名乗ったらしいが、櫓には槍を並べ
 、太鼓を打ち鳴らし、木戸幕には「立ち銀杏」をあしらっていた。 後年には 櫓にも
  「立ち銀杏」をもちいている。
   江戸市中の前評判も上々で 上下の観客が群集した。 用意周到、全てが計画通り
  順風満帆の船出の観である。 幕府は やがて江戸城近くの余りの混雑に、寛永9年 
  一座を祢宜町に移転せしめるに至っている。

   全てが幕府の意向と指導の下に実行に移されたように見える。先例があった。
  慶長14年 徳川家康は豊臣秀頼の在城する大坂に詰めていた能役者を 駿府に呼び集め、
  やがてこれを江戸に送っている。 権力の象徴のとして 文化・芸能を支配してみせた
  というところである。
   勘三郎一座の江戸下向も 幕府最上層部と京都所司代の指導保護、蜂須賀家と中村右近家
  の了解の下に 実行されたのではないか。 一座の周辺には 勘三郎以外にも 金主として
  の京阪の有力町衆もふくまれいただろう。 彼らには 江戸進出の願っても無い商機として
  捉えられ、又幕府もこれを歓迎したに違いない。 将に関東のご繁栄である。
   即ち 新将軍徳川家光は 京で人気沸騰する傾き勘三郎一座を 江戸の人々への引き出物
  として 人心の掌握を計り、且つは経済の活性化狙ったと言う事であろう。

[Ⅸ]
 将軍御前の場
  勘三郎一座の 興行タイミングの あまりの良さは 幕府の意志、即ち将軍秀忠の意向を
 体したものであろう、と筆者は想定したい。 将軍職委譲を前にした 将軍御前に於
 ける 側近衆との会話、耳学問の中から生まれたものではないかと 思われる。
  将軍は常々多方面の人材を御前に召出していただろう。 政治向きでは 当然老中や目付け、
 宗教政策だは 金地院崇伝、伝統の儀典などは永井尚正、市井の話題や武辺噺などは柳生宗矩
 辺りが言上しただろう。 編者の脳裏には 少年時代の大久保彦左衛門の軍談義などが今も
 記憶に焼きついている。

  筆者の想像としては、元和年中にでも 将軍御前の夜噺の折などに 蜂須賀家の猛将中村
 右近討死の一件が話題に上ったことがあると想像したい。 大坂冬の陣の 塙団右衛門夜討の
 話柄は 常山紀談ほか多くの資料に採録され、末代まで語り継がれるほどの戦闘であった。

  更には その頃 京で人気絶頂の中村右近遺児である勘三郎に話が及んだ事も想像に難く
 ない。阿波藩の重臣として義兄若狭守可近は幾度も将軍秀忠に拝謁していたはずであり、側近
 の人々ともで昵懇であったことは確かであろう。或いは、この種の話は、後年ヲドリを好んだ
 世子家光とその若い側近の間でなされたものかもしれない。ともあれ、京の所司代や江戸町
 奉行を動員しての、勘三郎一座東下りと芝居立ち上げであったと考えてみると、全てが滞り
 なく、円滑に運ばれたことになる。

  右、将軍秀忠御前での耳学問を推測させる事例が、編者の周辺に存在し、本論執筆の動機の
 一つとなっている。
  寛永十六年十二月肥後藩主細川忠利は下国を前に将軍側近の天海、沢庵及び柳生宗矩を自邸
 に招いて立合能を興行した。役者は当時江戸随一と評判される喜多七太夫と、京都から
 下ってくる加藤家の遺臣中村少兵衛(勝三郎、靭負)であった。しかし、七太夫は病と称して
 不参となったため 少兵衛の師金春八郎の二男八左衛門が七太夫の代役を勤めている。
  この折の少兵衛の出来栄えを沢庵、宗矩が将軍家光の御前で言上したことが沢庵から催主細
 川忠利に宛てた書簡(沢庵和尚書簡集-岩波文庫・善之助校訂)に残されている。忠利と父三
 斎忠興の交換書簡(細川家誌料一〇一三、忠興一六一六)にも詳しい能評があり、更に忠利は
 家光御前における沢庵、宗矩の言葉まだを伝える書簡を演者中村少兵衛(中村家文書五十九の
 ニ、ホ)に贈っている。 (編者ホームページ本論参照)

  法政大学名誉教授表章氏は、細川父子が家光側近を通じて少兵衛の芸風を将軍に伝え、
 将軍の御成を希っていたのではないかと推測されているが、之は実現には至っていない。
  細川忠利は翌年江戸を発ち帰国するが、再び参勤することなく、寛永十八年三月、熊本で不
 帰の客となっている。

  筆者は右一例と同様の場面が 将軍の御前では幾度となく繰り返されていたと考えたい。
 細川家を蜂須賀家に、勝三郎(少兵衛)を勘三郎に置き換えてみれば、勘三郎の東下りや
 櫓の立ち上げも首肯されるであろう。
  江戸時代の申請や許可の形式は それ以前に根回し内定していたものが 形式を整えるため
 に為される事が多いからである。 阿波水軍の将でもあった中村一門の勘三郎が 舟音頭に
 召されたり、江戸城中で芸尽くしを上覧に供したと 伝えられる事は 極めて自然の成り行
 きと見て差し支えないだろう。

[Ⅹ] 其後の両中村家
  江戸歌舞伎開幕の寛永元年、中村勘三郎は齢二十八、九歳である。幕府の保護育成の政策及
 び当人の美貌、美声、教養相俟って人気沸騰したことだろう。寛永年中は平和が永続
 し、島原の乱も江戸の発展をとどめる事はなかった。 芸の様態も能・狂言その他多くの創作、
 舞踊を取り入れながら 人々の嗜好に十分応えたことだろう。 が、人々は次第に華美の衣装
 や贅沢な飲食をこととし、遊女若衆芸にうつつを忘れた様である。正保から慶安にかけて
 多くの見世物が小屋を並べ、武家、町人の過度の傾き風俗が江戸を覆い、幕府は之を苦々しく
 眺めるようになっていただろう。保護育成から統制への転換である・

  慶安四年初頭、勘三郎一座は再度江戸城へ召し出されたといわれる。踊り好きであった将軍
 家光の不例を慰めるためであっただろうが、その甲斐もなく、四月家光は世を去り、翌年には
 若衆歌舞伎の禁止となり、 野郎歌舞伎の登場となっていった。

  他方、阿波藩中村家では、勘三郎の義兄とみられる若狭守可近(七千五百石)が正保元年十
 一月五十二歳で没した。翌年正保二年正月嫡子美作近照は父の遺領を給せられ、承応三年
 三好郡池田城代から 淡路洲本へと所替となった。
  2年後の明暦二年十月 美作は「忍行・遊興」即ち職務箒と家財浪費により職録召上げの
 処分を受ける羽目に至っているが、特に洲本執事職の二ヵ年が余程衆人の目に余るものが
 あったのであろう。美作は益々京へ足を向け日数を過ごしていたのではないか。京都には
 亡父の後妻葛野おまりも 密かに長期に滞在していたことだろう。 記録には残されていない
 ものの、江戸の勘三郎も 偶には上洛していたのではないか。中村家三代若狭守可近、義弟
 勘三郎、後妻おまり、四代美作近照、そしておまりの子小三郎(後五代主馬助・2千石)、
 この五人の人間模様を 京都四条麩屋町に写して見ることは如何であろうか。

  所司代は早くから勘付いていたと思われるが、蜂須賀家の重臣であってみれば、手を出すの
 も容易ではあるまい。傾き武家中村家美作が逃れられない程の失態を演じたのではないかと、
 編者が資料を探した所、「歌舞伎年表」の明暦二年に次の項目が目にとまった。

 イ.[文斎日記」に「明暦二年京都坂田定右衛門座にて、河嶋某といえる武家、橋本金作を
   桟敷へ招き、酒宴の上、衆道の悋気より一刀を抜き放せしに、金作驚きて桟敷より下へ
   飛下り、それより騒動と成りしが、この喧嘩は内分にて済みしが、芝居は残らず停止
   申渡され候。」とあって、当分の間芝居禁止の処分を受けたと見られる。更にこの日記の
   少し前に、[年表」は江戸において、
 ロ. 三月五日、勘三郎、宇左衛門、勘也他十二人、町奉行石谷因幡守役所へ召出され、
   今年二月 京都定右衛門狂言にて不埒の筋有之、夫々仕置等も被仰渡・・・」と述べて、
   京の事件が直ちに江戸の芝居でも、桟敷の取り崩しに至る統制策が打ち出される事と
   なっている。

  右、京都坂田定右衛門座の事件と、阿波藩中村美作事件とは偶然のタイミングであろうか。
 美作が忍行、遊興に耽るにおいて本名を名乗るとも思えない。事件そのものは内済にしても、
 所司代、阿波藩 双方共、中村家の処断を決意したのではないか。兼ねて目障りであった
 四条麩屋町 中村屋敷を法度違反を名目として、将軍の直裁を受けたと思われる。
  同年七月、東の江戸においても、目に余って傾く旗本奴の悪評に苛立っていた幕府は、所謂
 白柄組に戒告を与えているが、水野十郎左衛門の事件発生は丁度一年後のことであった。
 因みに 蜂須賀家と水野家は将に近縁に結ばれていて、十郎左衛門の母は蜂須賀家出自である。

[ⅩⅠ] 勘三郎上洛と役者寺大雲寺
  明暦三年正月十八日江戸は振袖大家に襲われ、中村座を含めた大小芝居小屋全てが類焼した。
 しかし、勘三郎は五月この災難の中で一子勘助を連れて上洛したと云われる。江戸芝居の座元
 である勘三郎の第一の仕事は芝居の再興に他ならぬであろう。滞京のことが叡聞に達し禁裡に
 おいて「猿若狂言」「新発意太鼓」を上覧に供したというが、上洛の主たる目的は 資金の調達
 か、或いは己の出自である阿波藩中村家の行方を確かめるためであったのではないか。勘三郎
 にとって、四条麩屋町の中村屋敷は馴染み深い場所であったかもしれない。勘三郎父子は内裡
 における上演により 後代迄語り継がれる名声を残したが、内心、忸怩たる思いであったので
 はないか。中村屋敷は破却されるか、売却されていただろう。義兄可近の後妻おまりの姿も
 最早、京にいは見出す事は出来なったにちがいない。勘三郎は九月江戸へ帰府、翌四年二月
 (六月とも)九日病死と「歌舞伎年表」には記しているが、一説には「どら庄九郎」と口論の
 末の死とも伝えられている。 勘三郎が高齢病弱の身を押して 金策のため上洛したものか、
 京都の中村家が 雲散霧消したことに気落ちしたか、或いは分を超えて 禁裡に参上した
 ことが、幕府の忌憚にふれたものか、勘三郎の唐突の死は 謎めいているように思われる。

  諸書によると、勘三郎の菩提寺は、本所押上村大雲寺とある。今日、同寺の所在地は墨田区
 本所にはなくて、江戸川区西瑞江である。
  大雲寺由来によると、同寺は本山が浄土宗知恩院、俗称を「役者寺」と云う。元和六年 
 徳川二代将軍秀忠の崇信を得た 梵譽貞存上人が 初めは浅草森田町に建立したものである。
 寛文八年、江戸の大火により 押上村に移り、大正十二年の関東大震災の後、現在地に転じて
 いる。
 
  寺域には 初代中村勘三郎以下十三代まで、市村羽左衛門家(初代-十六代)、その他坂東家、
 松本家、瀬川家など 著名な役者の墓碑が林立している。又、ご住職の話によれば、江戸城
 大奥出入の豪商の末裔が多く檀家として残されている由であった。

  元和六年将軍秀忠の後援による大雲寺の創建とは意味深長であろう。編者が想定していた
 勘三郎一座の東下りが 幕府の文化政策であろうという傍証になるのではないかと思われる。
 大雲寺は 歌舞伎役者の寺請の任務を荷い、宗教政策、及び勧進他財政政策の一環をも果たし
 ていたことだろう。

  尚、「沿革誌料」の著者関根只誠が 幕末に訪ねた三田台町 正覺院は、今日では品川区
 三田三丁目である。中村家の墓碑は 明治以降整理されて現存しないが、過去帳に「清源院殿
 梵河宗漲居士 宝暦二申年九月 阿州中村次郎左衛門」と記されてある由、同院 院主より
 ご教示をいただいた。「阿波藩翰譜」にある 中村家八代、富道に相当し、関根只誠の認識の
 正しさが証明されている。

[ⅩⅡ] むすび
  歌舞伎についての基礎資料である「沿革誌料」と「歌舞伎年表」の初代中村勘三郎の項目
 及び阿波藩士中村右近家関連資料を基に本論を次の様に要約しておきたい。
 (1) 「沿革誌料」から筆者が抜き出した[Ⅱ]の①項から⑪項の内容は勘三郎の出自を
   武勇で名高い尾張の中村一門として見ると無理なく了解されるであろう。関根只誠の
   推論が大方正しいと、証明されたといえよう。
 (2) 江戸期を通じて勘三郎家が用いた、「角切銀杏」の紋は世に知られた阿波藩重臣中村家
   の定紋「立ち銀杏」と共通であり、幕府も十分に認知していたものと思われる。
 (3) 勘三郎の生母は未だ不詳であるが、中村若狭守に嫁した葛野おまりや、その祖母の如
   く、公家社寺の血を引くか富裕な郷士又は町衆を出自としていたと思われる。
 (4) 勘三郎は富裕な生母の実家や 阿波藩中村家の支援の下に自由な環境の内に成長し、
   能・狂言(大蔵流か)を身につけつつ、猿若芸やヲドリなどを受容し、京の人士に声望を
   得るに至っていたと推測したい。
 (5) 芸好きの京都の文人達の姿は「(島津)家久君上洛日記」に如実であるが、家久が天正
   三年石見国湯津で出会った出雲衆男女わらハが最も重要であろう。彼らは客人に、出雲の
   舞ひと歌を披露し、能をも演じている。やがて彼ら、若しくは類似の一団が 京都や奈良
   に進出して、都の躍動する芸能を吸収し、定式化しつつあった能の舞台などに於いて、
   新しい筋立などを加えて、大衆なども喝采する猿若狂言や傾きヲドリを上演したと考えて
   置きたい。
 (6) ヤヤコ芸で名高い葛野家が阿波中村家と縁を結んだ事は、能と創成期の歌舞伎に
   象徴的な事柄である。勘三郎のふた従兄弟と思われる編者先祖勝三郎も 歌舞伎を好んだ
   加藤清正の家臣である。寛永元年頃 自由の身を求めて隠居し 旅泊に年を送っている。
   勘三郎の旗揚げに立ち会っていたかもしれない。


  以上、本稿の執筆に当たり、不慣れの筆者に様々なご教示を賜った早稲田大学演劇博物館
 前館長鳥居文蔵先生 及び法政大学能楽研究所元所長表章先生、前所長西野春夫先生、
 同所員山中玲子氏、また歴史作家津田三郎氏及び徳島市郷土史家出水康生氏など、多くの方々
 のご支援、ご協力をいただいた。ここに明記して、厚く御礼申し上げたい。

追記:
1. 松竹(株)常務大沼信之のご紹介により 中村勘九郎丈の18代勘三郎襲名に因み、
  作家東郷隆が 平成17年[猿若の舞」と題して 新潮社より小説を出版された。
2. 平成21年4月15日 金比羅歌舞伎の興行中、昼休憩を利用されて 中村勘三郎丈が
  歌舞伎座(株)社長大沼信之氏同道 現地世話人出水康生氏の案内により 徳島県
  三好市池田町の 桂林寺に 先祖中村右近重勝、同若狭守可近、同美作近照の墓参を果
  された。
  非公式の訪問と言う事であったが、桂林寺ご住職、阿波中村家末裔 米延艶子氏、三好市
  市長、助役、檀家総代 他大勢の出迎えを受け、暖かい賑やかな交流であった由、出水氏
  より ご報告をいただいた。 
3. 編者は 能と歌舞伎の近似性を縷々述べているのであるが、その接点がヤヤコ(または
  童部)と言う言葉ではないかと思っている。 平成21年10月大阪城天守閣博物館に於て
 「豊臣期大坂図屏風」展が開かれ、7点の屏風図が展示されたようである。早速に同展の
  図録をご送付願い、夫々の屏風図に当世の芸能が描かれている所を面白く拝見した。
  中でも大坂歴史博物館蔵の屏風は編者の注目を惹きつけるに十分であった.
  右隻の中央に豊臣秀頼らしい若殿が 奥に淀殿、千姫らしい人物、近臣を従え 池を
  へだてる舞台に歌舞伎おどりを見物している場面である。(解説では庭池を眺めている
  となっているが・・)。
  
  編者は 長年 能の舞台と歌舞伎の舞台につき考察を重ねてきたのであるが、上記屏風図に
 より、大凡結論を得たような気分である。
  * 「当代記 慶長12年2月」の項
     「国と云かふき女 於江戸をとる。 先度の能のありつる場にて勧進す。
  **「続選清正記 六 八幡の国と云歌舞伎女肥後国へ下たる事」
     「・・其比 八幡の国と云ややこを下し 熊本の塩屋町三町めの武者溜にて
     勧進能をいたし 其能の跡に歌舞伎をして 家来の諸侍は銀子一枚宛出し 桟敷を
     打ちて見物し 地下町人は八木を持来て 鼠戸の口より入りて 芝居にて是を見る」。
  即ち、「能のあと・・あと」 と言う意味であるが 編者の解釈では 「後刻」という意味と
  「跡場、跡地」という意味、両用に用いられていると解釈したい。 江戸初期の歌舞伎図の
  多くが 能の舞台に酷似の二間乃至三間で描かれている。 先刻、又は先日 能が演ぜられ
  た舞台に於いて 後刻、後日、歌舞伎も演ぜられたと思へる。 能は上級武士と有力町衆の
  ための行事であるが、歌舞伎は木戸銭さへ払えば一般に開放されていたと見える。 
   「猿若とは 最新流行猿楽」ということではないか。 
   大阪歴史博物館蔵屏風図により、同所では 先刻又は先日、舞台で能が演ぜられ、
  その後に 今 同じ舞台で 歌舞伎が演ぜられていると 結論したい。 
   又、徳川家光が好んだ小姓踊なども 江戸城の能舞台において演ぜられたと考えて
  間違いあるまい。

4. 以上の様な諸資料により、編者は 能、ヤヤコ、傾き、歌舞伎を相互に密接不可分の芸能
 であり、 特に 出雲の阿国は 出雲より上洛した芸団であると 結論したい。天正3年の
 「島津家久上洛日記」の温泉津における 「出雲の衆 男女わらハ(童)へ(部)あつまりて
 能ともなし 神まひともわかぬおひいれ 出雲の歌とて 舞うたひたる見物し・・」の文言を
 熟読すべきであると 強調しておきたい。 出雲の この劇団は レベルは兎も角として、
 能をも演じつつ、その他 流行の諸芸をもとりいれる力のある集団であった事は明白である。

  近年、歌舞伎学会の主流は 阿国歌舞伎は京都周辺の集団にその発祥を結論されているよう
 である。 先年 編者が出席、発表した「芸能史研究会」でも そのような ご発言も
 あった。 「家久上洛日記」の解釈や 能とヤヤコについての類似性につき 専門の先生方の
 ご教示を賜りたい。 

[ⅩⅢ] 主な参考文献
「東都演劇沿革誌料」「歌舞伎念表」「出雲の阿国(上・中・下 中公文庫)」「出雲の阿国(中公
新書)」「多聞院日記」「言継卿記」「時慶卿記」「隔命記」「お湯殿上日記」「舜旧記」「四座役者目
録」「当代記」「下間少進集Ⅲ(わんや)」「大日本近世史料(細川家資料)」「加藤清正伝(青潮社)」
「葛野九郎兵衛(能楽研究所紀要八号-山中玲子)」「常山紀談」「阿波藩士譜」「阿波藩翰譜」
「阿波年表秘録」「桂林寺永年過去帳(徳島県池田町)」「阿波人物志(藤井喬著 昭四十八 徳島
県立図書館)」「阿波名家墓所目録(山本武男編 徳島県立図書館)」「米延保之家文書(中村右近
家資料 徳島城博物館寄託)」「大雲寺由来(品川区瑞江)」「正覚院過去帳(品川区三田)」
「蜂須賀家由来(三七五ノ一)」[水野十郎左衛門一件(光隆様御代旧記)」「近世生活年表(雄山閣)
」「家久君上洛日記(玉里文庫)」「日本史年表(河出書房新社)」「十七代中村勘三郎追善番付(歌舞伎座)」
「宇貞漫考」「声曲類纂」[葛野氏系図(法政大学能楽研究所)」「葛野家由来(〃)」
「肥後中村家文書(法政大学文学部紀要 第十六号 表章)」「中村一氏記(続群書類従)」
「中村記(全)(自治民報社 米子)」「常山紀談」「能楽源流考(能勢朝次)」「喜多流の成立と展開(表章)
」「かぶき発生史論考(岩波現代文庫)」[九条家系図(続群書類従完成会一九八八)」
「阿波藩翰譜 巻十二 上(中村御賜松平)」他。
                            H.22.Ⅰ.25.