閑話休題 桧垣塔の行方

 嶋屋吉兵衛帰京の時分、越中守(綱利公)何にても土産贈り可申由 御申被成候付、
桧垣塔を御写させ 拝領仕度由 所望候付、石ニて御うつさせ、かけたる所は態とかき、
朱の彩色ノ残り候所は彩色ヲ加被成、弐基拝領被成、上着仕、一基は水戸様へ御上被成、
一基は私手前の庭ニ被建置候。 先年困窮の節御売払被成候. 三重の塔かと存候、
失念致申候.四重欤とも存候.

記1: 上記は茨城県歴史館蔵「能役者記録-嶋屋吉兵衛家蔵“真乗諦円筆祖父与左衛門
   叔父京都より書状“」の一部である。 
記2: 江戸時代の京都名所絵図には修学院離宮域内に「桧垣の塔」として明示されて
   いるが、明治初年分離されて隣接する 林丘寺境内に一基が現存している。現在は
   拝観不可となっている。
記3: 後撰集に名高い桧垣の和歌縁の塔として京都の水戸家から朝廷へ献上された
   ものか、京都の呉服商であった嶋屋の手を離れた桧垣の塔が 人手を渡り修学院に
   落ち着いたものか不明である。林丘寺では朝鮮風の塔と言い伝えてある由である.
記4: 吉兵衛が肥後から持ち帰った今一基の桧垣の塔は 関西の何処か、江戸後楽園か、
   又は水戸の関係先か 何処かに現存しているに違いない。光圀公の能好みからして
   公遺愛の塔であった筈である.お心当たりの向きは 熊本市 蓮台寺町 蓮台寺
   又は HP編者 熊本市横手3ー13ー14中村迄ご一報賜りますれば幸いです.