閑話休題  肥後の宮本武蔵、又は六輪一露と五輪書

 島原の乱の後、宮本武蔵はやがて肥後を訪れ、其の儘、肥後においてその生を
閉じている。熊本に着いた武蔵は旧知の家老松井佐渡守興長に書簡を届けている。
門人の一人が佐渡守家中竹田氏に取り次ぎを願ったのであろう。文面、

 「一筆申上候、有馬陳に而ハ 預御使者、殊御音信、被思召出処、過当至極奉存候。
拙者事 其以後江戸・上方二罷在候が、今此爰元へ参申儀、御不審申可被成候、
少ハ用之儀候へハ罷越候。 逗留申候ハヾ、伺候仕可申上候、恐惶謹言
      七月十八日                     玄信 花押
 長岡佐渡守様  人々御中」

 此の文書は松井家家老竹田家蔵のもので、此の十年内外の新資料である。竹田氏の
立場から見て、本文書は信憑性が高い。又花押も如何にも兵法者のものである。
(但し、吉川文庫所蔵文書花押と著く異なる此の花押を研究された方も無いようである。)
 文面は一読すれば、後年に創作された ほヾ総ての伝説的英雄像(小説、劇、論文)とは
相当の乖離を感じざるを得ない。武蔵の熊本入りは、細川家の人々には 想定外のことで
あったようである。本編主題の中村家仕官に至る文書と比較してみて頂きたい。
 武蔵の来熊は唐突の印象を与える。武蔵の書簡は、素直に読めば、聊か言い訳じみてい
るように聞こえる。中村家文書では、中村仕官に当り、文中に「御前」、とか「忠利公様」とか
の文言が含まれ、忠利公と細川家中が前以て周知であった事が知られる。武蔵には、
この様の文言が見当たらない。武蔵は藩侯の耳に達する事を念じつつ、別の口実を持って
来熊したと推測される。
 
 「少ハ用之儀候へハ」とはどのような「用」であろうか。 この点を吟味された方は
今もって寡聞にしてお目にかかったことがない。「お伽衆宮本武蔵」の著者井上知重氏には
編者から 口頭で話した事があったかもしれないが・・・。

 編者の我田引水であるが、武蔵来熊の目的は「能 桧垣と霊巌洞」及び「中村家文書」に
あったのではないかと 想像している。 以下その要点を列挙してみたい。

 1. 寛永9年、将軍家兵法師範柳生宗矩は、柳生新影流の技法・心法を説いた
   「兵法家伝書」を著し、能・謡・鼓・拍子といった能楽用語や、能の曲名を多用
   していて、 中村勝三郎に秘伝書を与えた「金春八郎禅曲の能楽理論と重なる所説
   が見られる」と能楽学会の碩学表章法政大学名誉教授は指摘されている。
 2. 柳生宗矩は自身「関寺」を舞うなど能の愛好者であったが、その父柳生宗厳は
   金春禅曲の嫡子七郎氏勝に免許皆伝を与えるほど親密の関係であった。(日本武道史
  大系に表章氏論文有り)
  寛永12年頃、沢庵禅師は「不動智神妙録」を著し、之を宗矩に与えているが、
  表氏は 此処にも、金春禅曲理論との類似性を指摘しておられる。
 3. 寛永16年末、細川家では、天海僧正、沢庵和尚、柳生宗矩を迎えて
   華々しい能の興行を行っている(前述済)。然も、立会い能であった。
   江戸中の話題であっただろう。井上知重氏は「お伽衆宮本武蔵」の中で、
   武蔵も見物者の中に居たかもしれない、と述べられているが、編者は同書発刊
   当時は まさかと感じていた。併しその後「御家譜 続」の承応元年の記事
   (前述、中村伊織・喜多太夫立会能)を発見して、井上氏の見方に同心する
   に至っている。 「ご一門中不残 其外御出入之衆、大形不残 勝手に御出被成、
   おびただしき大客人に而御座候」と言うのが細川家能興行の実態であった。
    武蔵が、加藤家改易以後、仕官を望まず、諸侯に能楽を伝授する道を選び、
   細川家から合力米300石(後雲州松平直政公百石分担)の身分であった中村
   少兵衛と旧知であったと考ても不思議ではない。(お伽衆としての武蔵父、無二斎は
   木下延俊公に仕官し、京から日出に下ってきた観世道叱らと共に謡などに興じてい
   る。「木下延俊慶長日記」)
    謂わば、中村少兵衛は武蔵の先輩格であり、宗矩に習って伝書執筆の念願を
   抱いた武蔵が、能「桧垣」と「霊巌洞」について、少兵衛あたりから話を聞いて、  
   遠い肥後への訪問を思い立った と考えても可笑しくない、と思える。
   武蔵著と言われる(異説もあり)「五輪の書・風の巻」の記述は、自ら能を演じた
   とは思われない武蔵の言葉にしては、出来すぎている、と編者には思えるのである。
   
 4. 金春家芸論「六輪一露」と宮本武蔵「五輪の書」
   「六輪一露」は中世金春流祖の金春禅竹氏信(応永12年生、1405)による
   芸能論である。禅竹は「花伝書」を著した世阿弥の愛婿であり、その指導を受け、
   世阿弥伝書を相続している。能の芸論は、そのためか、金春太夫が著述する傾向
   となり、以後他の三座一流とも、史上に確かな芸論を残していない。桃山期に大
   太夫と称された金春八郎安照(禅曲)が、秀吉公児小姓中村勝三郎に与えた一巻
   九帖の[秘伝書」群が最後のものとなっている。 金春家伝来の六輪とは六つの輪
   と一振の剣である。

  六輪一露     
   イ. 第一 寿輪 「歌舞幽玄の根源、見風聞曲して感を成すの器なり。
             円満長久の寿命たるに依って、寿輪と名つく。」
   ロ. 第二 堅輪 (しゅりん)「この立ち上る点、精神と成りて、横・竪顕はれ
             清曲生ず。これすなわち、無上上果の感主たり。」
   ハ. 第三 住輪 「短所の所、諸体の生曲を成ずる安所なり。」
   ニ. 第四 像輪 「天衆地類、森羅万象、この輪に治まる。」
   ホ. 第五 破輪 「天地十方、無尽異相の形を成すも、本来この輪中に生ず。
            しかれども、仮に円相を破るの儀を以っての故に、破輪と
            名付る也。」
   へ. 第六 空輪 「無主無色の位、向去却来して、また本の寿輪に帰す。」

   ト. 一露    「無上の重位にして、空・色の二見に落ちず、自在無碍にして
            一塵もさはる事なし。これすなはち性剣の形と成る。」
            性剣とは剣によって象徴される本質、精神であり、迷妄に囚る
            ことのない利剣であるという事を意味している。
   注:「六輪一露」については、「金春古伝書集成」、「岩波講座 能・狂言−伝書と
     芸論」参照のこと.

 五輪書
   宮本武蔵による「五輪の書」は周知の通り、「地・水・火・風・空」の各巻に
  編纂されているが、「風の巻」に兵法と能の名人の類似性が述べられている。

  「乱舞の道に、上手のうたふ謡に下手のつけてうたへば、おくるゝ心ありて、いそ
  がしきもの也。又、鼓・太鼓に老松をうつに、静かなる位なれども、下手は是にも
  おくれさきだつ心あり。高砂はきふなるくらゐなれども、はやきといふ事悪しし。
  はやきはこけるといひて、間にあはず、勿論おそきも悪しし。是も上手のする事は
  緩々とみへて、間のぬけざる所也。此のたとへをもって、道の理をしるべし。」

   熊本城下には 伝書を相伝された 金春八郎弟子であり、且つは武蔵も一方
  ならぬ世話になった小笠原忠真の師匠格である 中村少兵衛・伊織父子が在り、
  芸能の真髄を語り合う機会に こと欠くことはない。

 能 桧垣
   又、武蔵が能「桧垣」につき、知識を持っていたことは、まず間違いないところ
  である。 江戸時代の知識人は熊本城下では、清正公を祀る本妙寺と桧垣媛供養塔を 
  有する蓮台寺を参拝するのが通例であった。武蔵が生涯の書物を書き残すとすれば、
  桧垣ゆかりの霊巌洞ほど格好の場所は無かったであろう。 能界最高の秘曲である
  三老女の一ツであり、世阿弥の名曲「桧垣」は以下の文言で始められる。

  「 これは肥後の国、岩戸と申す山に居住の僧にて候。さてもこの岩戸の観世音は、
  霊験殊勝の御事なれば、暫く参篭し、所の致景を見るに、南西は海雲満々として
  萬古心のうちなり。 人まれにして慰み多く、致景あって郷里をさる。まことに
  住むべき霊地と思いて、三年があいだは、居住つかまって候。・・・」

記:以上が長岡佐渡守宛書状 及び当時の肥後芸能状況と 武蔵である。
  金春家の「六輪」が武蔵の「五輪」のヒントになったと、思われぬでもない.