閑話休題 草枕と道成寺

 漱石が本業としての英語教師、作家として活動する以外に、余技として 句作、詩作、
書画に達していた事は 広く知られている事であるが、その他 骨董趣味、観劇、西洋
音楽等に 通じていた事は 彼の作品に明らかである。
 観劇としては、落語、歌舞伎、能楽などに、友人、弟子たちにさそわれ、度々足を運ん
でいるが、就中 能は漱石の趣向に尤も相応しいジャンルであったらしく、熊本時代の
俳句のほか、その作品にも多く言及されている。更に漱石の木曜会に顔をだしていた
野上豊一郎が法政大学に能楽研究所を設立したことにより、今日 能楽についての学問が
確立され、能がギリシャ劇、シェクスピア劇と肩をならべて世界に知られるに至っている。 
日本の無形世界遺産の筆頭に挙げられていることも、その歴史と芸位から自然の事
であろう。
 一昨年、在熊本の元熊本大学近代文学教授N氏から、創作能「草枕」について問い合わせ
を受け、作者である 現法政大学能楽研究所所長N教授に話を繋いだ。力不足もあって
実現に至っていないが、此れを機会に 高校時代以降初めて「草枕」を再読して、その実、
驚いてしまった。 「草枕」、之は能そのものではないか! と直感したのである。
作者自身が 作中に「しばらく此旅中に起こる出来事と、出遭う人間を 能の仕組と 
能役者の所作に見立てたらどうだろう。」と、第一節(次第、名乗)に予告していた
のである。
 漱石の五高時代、編者の祖父、父は玉名に住居したが、父の長姉は近隣の郷士徳永朧枝
に嫁いでいた。朧枝は済々黌英語教師であり、漱石の俳句の弟子として深い交流があった。
 当時漱石は熊本俳句界の牽引者であったが、同時に城下で盛んな神事能など見物
に出かけ、また徳永朧枝の妻の実家の話なども聞いていたであろう。漱石は熊本時代に能
に惹かれ、爾来その生涯大きな影響をうけている。それはシェークスピア劇を学ぶ多くの
英文学者、英語教師が世阿弥とその作品に剋目する 魁であったと云えるだろう。
 漱石と能、謡については、論文「漱石と謡―田代慶一郎」に詳しく、本編の
1.熊本時代の漱石、 2.草枕、 3.帰朝以降、漱石の生涯と能謡、の内 1、3、 
  は 主として同論文の要点を援用させていただいた。ご労作に深く御礼申し上げる。

  1.熊本時代の夏目漱石
    松山時代の漱石が謡に興味を持った形跡は見当たらない、と田代慶一郎氏は述べ
   て居られている。 明治29年春、熊本に赴任した漱石を待ち受けていた環境は、
   彼が新たに持ち込んできた 正岡子規の新しい俳句と 五高における加賀宝生の
   謡曲熱であったようである。又、多くの神社に奉納される、伝統文化としての
   神事能も漱石の注目を引き付けたに違いない。 彼の先輩として明治24年暮
   五高に2年間在職した小泉八雲にも、家族が神事の能場で掏りに出会った話が
   
       残されている。

    イ.  先ず、熊本時代4年余りの期間に、壱千句に上る句作の中から、
       能謡に関わる幾つかを 以下掲げてみたい。 

        * 鼓打つや 能楽堂の 秋の水
        * 春の夜を 小謡はやる 家中哉
        * 隣より 謡ふて来たり 夏の月
        * 肌寒み 禄を離れし 謡ひ声
        * 謡師の 子は鼓うつ 時雨かな
        * 謡ふものは 誰ぞ桜に 灯ともして
        * 永き日を 太鼓うつ手の ゆるむ也
        * 能もなき 教師とならん あら涼し

       漱石をとりまく、素直な情景句であり、当時の熊本の一面を今日に
       つたへて呉れている。

   ロ. 漱石の親しんだのは、宝生流の謡であった。 熊本は近世初頭以来
     金春流と喜多流により神事能が継続されていたが、維新以来、人の交流
     も盛んになり、観世流、宝生流などが外部から流入したことだろう。
     第五高等学校では、当時金沢からの教師により、所謂加賀宝生が行は
     れていた。 後年、漱石は熊本時代について以下のように語っている。

       a. 「私が習ひ初めとのは 熊本の学校に居る時分の事でした.同僚の
         教授連が盛んにやるので、私も半年程稽古をしましたが、その後間も
         無く外国へ行って了ったので、勿論稽古も出来ず、忘れた様になって
         居たのですがね。」
           * 上は 明治44年11月「能楽」に出された「稽古の歴史」  
            と言う漱石自身の回想談話である。
             
        上記の談話から漱石が謡を初めたのは、着任後 暫くしてからであった
       事が分る。恐らく明治32年のことであろう。この頃には能に関わる俳句
       なども 幾つかものしていて、謡を身近に感じ始めていたのだろう。

       b. 「或る日突然、[謡を教えろ] と言い出した。[他の人に習ったら 
        どうだ。僕は下手だよ][君でいいから是非教えろ]というやりとり
        があって、[熊野]を宗盛の名告りから教える事となりました。
         そんな訳で、夏目君に謡ひの手ほどきをしたのは 私だといふことに
        なるのです。
         約束したら一週に一度は屹度やって来る。何日かも雨の降る晩
        でしたが、例刻から遣って参りまして、その帰りに、傘をさしながら、
        坪井の濠っ端を好い心持で、[川原面を過ぎゆけば、急ぐ心の程もなく]  
        と、例の[熊野]のロンギを 朗々とやりながら歩いている間に、
        謡に気を取られて、お濠の中へ落っこちかけたといふ話がありますよ。
        当人は中々熱心で、人が笑ふからといふので、よく便所のなかで呻って
        いたところから、[後架宗盛]といふ名が附いて、一時評判でしたよ。」

         * 上は当時近所住いであった同僚の化学担当 神谷豊太郎氏の
          談話である。昭和11年9月漱石全集月報第11号神谷豊太郎
         「宗盛の素読と獅子狗」。
* 小説「吾輩は猫である」の文中、苦沙弥先生が「後架の中で
          謡をうたって、近所で後架先生と渾名をつけられ」と述べるくだり 
          に用いられている。 

       c.  当時の事情は、又、夏目鏡子著の「漱石の思い出 十」に次のように
        述べられている。

         「 夏目の謡の先生といふのは、同じ五高で工学部長をして居られた
         桜井房記さんが 金沢の方の方で、そこで加賀宝生が御上手とあって、
         どういふ拍子で呻り出したものか、[紅葉狩] かを教えて頂くことに
         なったのですが、大層質がいゝとお褒めにあずかって、自分では
         しきりに得意で、大きな声を出して呻って居りました。」

          *上で見ると、漱石は熊本に於いて、先ず神谷先生に手ほどきを
          受け、更に、桜井先生にも稽古してもらったかに見える.或いは
          鏡子氏の記憶違いであるかもしれない。併し、熊本時代の漱石の
          稽古ぶりは極めて熱心で、自分の謡に可成の自身を持っていた
          らしい。 そのことは、次の高浜虚子の回想からも伺う事ができる。

        d.  「漱石氏が文部省から2年間英国留学を命ぜられて洋行する
         ようになったのは、明治33年の九月のことであった。(略)或日
         漱石氏は猿楽町の私の家を訪問してくれて、[どこかへ一緒に散歩
         に出かけよう]と言った。(略) それから二人はどこか暫く散歩
         した。 (略) その帰り道、私は氏の誘ふがまゝに連立ってその
         仮寓に行った。 そうして謡を謡った。席上には其頃まだ大学の生徒
         であった今の博士寺田寅彦君も居た。謡ったのは確か 蝉丸 で
         あった。漱石氏は熊本で加賀宝生を謡ふ人に何番か稽古したといふ事
         であった。廻し節の沢山あるクリのところへ来て、私と漱石氏とは
         調子が合わなくなったので、私は終に噴き出してしまった。けれども
         漱石氏は笑はずに謡ひつゞけた。(略) 寅彦君は初めから終ひまで
         黙って私達の謡を聞いていたが、済んでから、先生の謡はどうかした
         ところが 大変拙ひ抔と漱石の謡に冷評を加えたりした。さう 
         すると 漱石氏は、拙くない、それは寅彦に耳がないのだ、などゝ
         負けず我慢を言ったりなどした。」
          
         * 洋行前後の漱石と虚子、その周辺であるが、漱石の関心は、
         やせ我慢の謡の上手・下手を超越して、演劇としての 能の構成、
         役者の扱い、分析に あの明晰な頭脳を働かせていたと、編者には
         確信が持てる。

          明治39年に発表された名作「草枕」が その証明であり、論拠
         である。
        
2. 名作「草枕」と 能楽
    
    熊本在職中に謡本を手に取る事により、能・謡に開眼した漱石は 英語教師
   らしく、また英文学の学徒として その演劇的諸相をシェークスピア劇などと、
   比較検討したことだろう。劇場空間やコーラスなど、古代ギリシャ劇や英国劇は
   能と不思議な一致が多い。 以下漱石が「草枕」に込めた 能との接点についての
   感想を述べてみたい。 本編はホームページ初心者の手習いであるので、意を
   尽すことはできない。後日、もう少し時間をかけて「草枕」を分析したいところで
   あるが、本職の漱石研究家のお手を煩わせる事が出来れば此れに過ぎる事はない。

 イ. 先に述べたように、漱石は自身この作品の第一節に「しばらく此旅中に起る
   出来事と、旅中に出遭ふ人間を 能の仕組と能役者の所作に見立てたら
   どうだろう。」と 著作の構成と手法を明示しているのである。 則ち、作品中の
   人物、出来事、人情、風景、または多分野に亘る評論など、作者は一番の謡本
    として読んでもらいたいと期待している様に見える。
 ロ.  「草枕」に紹介されている能としては、第一節に「七騎落」、「隅田川」であり、
    第二節に「高砂」と「山姥」、「羽衣」である。 高砂については感想まで  
    述べられている。

    「二、三年前、宝生の舞台で高砂を見た事がある。其の時、これはうつくしい
    活人画だと思った。箒を担いだ爺さんが、橋掛りを、五、六歩来て、そろりと
    後向きになって、婆さんと向ひ合ふ。その向ひ合うた姿勢が今でも眼につく。
     余の席からは 婆さんの顔が 殆ど真向きに見えたから、あゝうつくしいと
    思った時に、其表情は ぴしゃりと心のカメラへ焼き附いて仕舞った。」

      *編者の印象では此の場面が 後に草枕の最後の二行に集約されて、見事に
       画竜点睛が成就したとみえる。如何であろうか。
     
    「それだ!それだ!それが出れば画になります。」と 余は那美さんの肩を叩き
     ながら小声で云った。余が胸中の画面は此の咄嗟の際に成就したのである。」

 ハ.  「草枕」の骨格は 能「求塚」と「道成寺」であると編者は確信している。
     「求塚」も「道成寺」も四番目能(狂女もの)である。
     第二節に紹介される
       長良の乙女は 「求塚」の菟名日乙女 で、
       さゝだ男は 「求塚」の小竹田(さゝだ男)であり(是ハ全く同名で)、
       さゝべ男は 「求塚」の血沼(ちぬ)の大丈夫(ますらお)である。
     
 ニ.  草枕に於いては、勿論 長良の乙女、菟名日乙女は 主人公「那美さん」
    であり 能においてシテであることは 自明であろう。観海寺の納所坊主
    泰安と離縁された前夫野武士をシテツレと 見立てることは如何であろう。
     那美さんは入水願望があり、長良乙女も菟名日乙女も身投げしている。
    ミレーの描くオフェリヤも狂気のシンボルとしてそこに描写されている。
    
 ホ.  那美さんの情念は、明らかに「道成寺」の清姫と同種で 危険此の上ない。
    納所坊主泰安は将に安珍であり、画工である作者(ワキ)も、一歩間違えれば、
    情念に焼き尽くされたであろう。 

 へ。  草枕には、多くのワキツレも登場する。 峠の茶屋の婆さん、馬子の源兵衛、
    下女、髪結いなどである。

 ト. 能には狂言廻しが必要であるが、観海寺の和尚、那美さんの祖父、久一さん
   あたりであろうか。 但し、ツレや狂言は、読む人により異動があることだろう。

 チ.  それでは、能に必須の囃子、地謡はどうであろうか。 編者によれば、それは
    作中に作者の描く風景であり、数多い 文学論、詩論、絵画論、演劇論、科学論、
    時事評論などであろう。 其等が交響楽となって作品の肉付けとなり、
    名作を完成していると言へるであろう。 

 リ.  草枕は13節から構成されており、演劇の基本的形式である、起承転結や
    序破急の要素をよく満している。又、能作の基本形式の、次第、名乗、道行、
    一声、クリ、サシ、クセ、ロンギ、中入り、待謡、キリなど、殆どを当てはめる
    事ができる。 是非、試て見ていただきたい.

     能の構成などについての 研究が進むのは 大正、昭和を待たねばならない。
    明治の漱石は謡本を手にして、直感的にその仕組みを知ったのであろうか。
    編者は漱石が 謡本の近代に於ける、先駆的分析者として、その果実を
   「草枕」に表現された、と結論したいのである。               

3. 帰朝後の漱石と謡

    明治36年1月、英国から帰国した漱石は4月から第一高等学校と東京帝国大学
   の英語教師として勤務はじめるが、強度の神経症に悩まされており、細君の鏡子は
   帝大生寺田寅彦や高浜虚子に外へ連れ出して呉れるよういらいしている。寅彦は
   展覧会や音楽会、虚子は当時流行の壮士劇、歌舞伎、能にさそっている。
    漱石は壮士劇について、「君はいつもこんなものを見て、面白がっているのですか」
   と虚子を攻撃し、中途で帰ってしまったらしい。 歌舞伎については、「どこが
   面白いのですか」と難詰しながらも、席を立つことはなく、形の上に発達した
   美しさには興味を見出したようであった、と虚子は述懐する。
    虚子が連れ出して 漱石を最も満足させたのは 能楽であった。
  「能は退屈だけれども、面白いものだ。」と言って、能を見に行く事を拒むことは
   無く、能との縁は 終生変らず続くことになっている。

    明治39年には「木曜会」が発足し、漱石は若い崇拝者たちに囲まれることに
   なった。明治40年元旦には、森田草平、鈴木三重吉、松根東洋城、小宮豊隆など
   が集まり、後年「永日小品」の冒頭に置かれる「元日」という作品に、跡から
   やってきた虚子と「東北」[羽衣」を謡う話が描写されている。
   
    明治40年4月、漱石は朝日新聞に入社し、生活に一定の目途をつけたうえで、
  本格的に謡を再興したい、と師匠を虚子に相談した。経過はあるものゝ、やがて
  脇の名人宝生新に師事することゝなった。 また、野上豊一郎の手引きで安部能成も
  加り、神田錦町に場所を借りて、清嘯会と言う謡の稽古会をつくり、漱石も家で
  謡うだけでは物足りず、謡本を抱えて出向く事も屡々であった。

   漱石の謡は、「草枕」の分析的手法ののちは、寧ろ今日では「スポーツ的」と言へる
  ものではなかったか、と編者は考えている。 周辺の人々の評価は次のようなもの
  であった。
    寺田寅彦:  いつか謡って聞かされたとき、先生の謡は巻舌だと言ったら、
          ひどいことを言う奴だ、と言って何時までもそのことを覚えて
          居られた。
    野上豊一郎: 先生の謡の調子は、先生の画の如く、個性的であった。上手かと
          言うと、上手であったとは云へないが、下手かと云うと、決して
          下手でもなかった。声量は十分にあり、つやのある、密度の多い
          声柄であるが、それだけ節まわしが ねばりがちなので、重ぐれて
          聞こえることがあった。 「先生は おれは趣味で遣るのだから、
          月並みな所に拘泥しない」と言う腹だったのだろう、と推測する。
    野上弥生子: 私は、先生の俳句、書、画というふうなものは、ホビー以上だと
          申しましたが、たった一つどうしても及第点のあげられないものは、 
          謡でございます。山羊の鳴くような甘ったるい間のびした謡でした。
    宝生新:   あゝいふ方ですから、巧く謡はうなぞといふ所謂当気味のない、
          たゞ素直に声を出してさへすればいゝといふお考えだろうと思って
          ましたが、先生はどうもさうではありませんでしたね。謡ってる
          間に、ご自分で節を拵へたいといふ意思が働く。そこがどうも先生
          らしくないと 思ひましたよ。尤も、声が出て、それに艶があった
          から、自然さういふ事になったのかも知れませんがね。おもしろい
          ことには、あの謹厳な人格者の漱石先生のウタヒが、非常に色気の
          ある謡ひ方で、シッカリしたウタヒではありましたが、その点は
          どうにもなりませんでした。
    安部能成:  先生は謡を一つの遊び、若しくは、養生の一つと考えて居られた
          らしく、稽古は割に熱心であったが、強ひて上達を期するといふ
          やうな緊張はなかった。節扱ひなど細かに器用な所があった
          けれども、大体は放胆な、あまり拘泥しない謡ひ振りであった。

    大正5年4月、野上たちが謡会を企画し、漱石に「葵上」を割り当てたところ、
  漱石は豊一郎に 次のような断りの返事をだしている。

   「拝復 謡会の御招待有難く存候。然る処、小生近日稽古を廃し、此種の
  会合には当分出ない積故、葵上の役割は、どうか他にご選定を願度候。・・・・」

 と述べて会からの引退を申し入れているが、その実、此頃の漱石は、体力・気力ともに
 衰え、加えて俗世離脱の願望が強まり、厭世癖もとみに募っていた。漱石が病弱の現世
 から離脱するのは、同年12月9日の事であった。

  英文学者夏目漱石の東西演劇に付いての比較は次の様に要約されている。(文学論
 第4編第5章)。

「沙翁の例は 知を満足するの点に於いて謡曲の例に優り、謡曲の例は、情を動かすの
 点に於いて、沙翁に勝るが如し。」

「草枕」第一節

「能にも人情はある。七騎落でも、墨田川でも泣かぬとは、保障が出来ん。然しあれは
情3分芸7分で見せるわざだ。我等が能から享ける有難味は、下界の人情をよく其儘に
写す手際から出てくるのではない。其儘の上へ、芸術といふ着物を何枚も着せて、世の中
にあるまじき悠長な振舞をするからである。」

                      以上 平成20年12月1日了.