閑話休題 肥後と謡曲の歴史


肥後の能楽

1. 阿蘇神社の「てんかく」、「のうかくてん」(元享元年1331)

2. 菊池の松囃子
   イ.懐良親王の九州入り
   ロ.南北朝の動乱と今川了俊の下向(14世紀末頃)
   ハ.筑後玉垂神社の「竹の舞」と美麗田楽
                七城菰入の美麗一族
3.相良家と能楽(八代日記1535)
4.嶋津家の北上と下向役者
5.舞楽の本座、新座の能座への転換(祇園宮縁起)
6.加藤清正の入国
      中村勝三郎と友枝氏
7.細川忠利の入国 (もののうえのたからはひと)
      中村家と桜間氏(延宝二年1672)
8.幕末の能楽(恕斎日録)
      細川家の式楽、各地の神事能、町衆の囃子(嶋屋日記)、
      下川原仙助能
9.明治維新後
   イ. 西南の役以前 3家一体
   ロ. 西南の役以降 桜間左陣上京
   ハ. 太平洋戦争以降 友枝家上京と八代松井家

肥後と謡曲

 肥後(熊本県)は古代、中世より京の人々に良く知られる文化度の高い土地柄であった。
能楽の世界でも 日本人に最もなじみ深い「高砂」と最高の秘曲とされる「桧垣」が
肥後との関わりによって、天才世阿弥により作曲されている。又、光源氏の忘れ形見の
玉蔓に求婚した肥後の監は菊池氏初代則隆であろうと推定されている。

1. 高砂 

   イ. 今をはじめの旅ごろも、今をはじめの旅ごろも、日もゆくすえぞ、ひさしき。
   そもそもこれは九州肥後の国、阿蘇の宮の神主友成とは わがことなり。
   われいまだ 都を見ず候ほどに、この春思い立ち都へ のぼり候。
   又よき 序(ツイデ)なれば 播州高砂の浦をも一見せばやと 存じ候。

    旅衣すえはるばるの、都路を、末はるばるの都路を、今日思い立つ浦の波、
   ふな路のどけき春風の、いくかきぬらん、あとすえも、いさ白雲のはるばると、
   さしも重いし播磨がた、高砂の浦につきにけり、高砂の浦に、つきにけり。

    (高砂の浦に立ち寄った阿蘇友成一行は所の老夫婦に高砂の松の謂れを聞き、
     老翁が通ってきた住吉大社への参詣を決めて、船出する。結婚式などで
     謡われる一節である。)

  ロ. 高砂や この浦舟に、帆をあげて、この浦舟に帆をあげて、月もろともに
   いでしおの、波の淡路の嶋かげや、遠く鳴尾の沖すぎて、早や住の江に
   つきにけり、早や住の江に、つきにけり。

    (尚、イとロの間で高砂の浦の平和な春の景色を謡うのが「四海波」と呼ばれる
     一節であり、室町時代、江戸時代には日本の国歌並に祝儀に用いられていた。
     又、これは結婚式で謡われることも多い。)

  ハ. 四海波静かにて、国も治まる時つ風、枝をならさぬ御世なれや。
    あいに相生の、松こそ目出たかりけれ、げにやあおぎても、こともおろかや
    かかる世に、すめる民とて豊なる、君の恵みは有難や、君の恵みはありがたや。

2. 桧垣

   ワキ これは肥後の国岩戸と申す山に居住の 僧にて候。
   さてもこの岩戸の 観世音は、霊験殊勝の 御事なれば、暫く 参篭し、
   所の致景を見るに、南西は海雲漫々として万古心のうちなり。
    人まれにして慰み多く、致景あって郷里をさる。まことに住むべき霊地と
   思いて、三年があいだは居住つかまって候。

    ここに又百にも及ぶらんと おぼしき老女、毎日あかの水を汲みて
   来たり候。今日も 来たりそおらわば、いかなる者ぞと名を尋ねばやと
   思い候。

   シテ かげ白河の水くめば、影白河の水汲めば、月もたもとやぬらすらん。
   それ篭鳥は雲をこい、帰雁は友をしのぶ。人間も亦これ同じ。
    貧家には親知すくなく、賎しきには故人うとし。老衰おとろえ かたちもなく、
   露命きわまって、霜葉に似たり。ながるる水の哀れ世の、そのことわりを
   汲みて知る、ここは所も白河の、ここは所も白河の、水さえ深きその罪を、
   うかびやすると捨て人に、値遇をはこぶ足びきの、山下庵につきにけり、
   山下庵につきにけり。
     ・・・・
    かの後撰集の歌に、
   年ふれば わが黒かみも 白河の
        水はぐむまで 老いにけるかな
   と、詠みしも わらわが 歌なり。・・・・・・

  (八代市立博物館蔵の宮本武蔵文書によれば、武蔵の来熊は細川家には
   予想外のことであったとみられる。 一寸用があり と本人が述べている。
   老風流人は当時の知識人らしく「能 桧垣」を熟知していたと思われる。
   江戸期の熊本を訪れる文化人にとっては、本妙寺と蓮台寺が肥後の二大名所で
   必ず見物する所であった。武蔵も蓮台寺ゆかりの岩戸の霊巌洞に参篭して
   兵法伝書を執筆することが本願であったとかんがえられる。)

3. 「玉蔓」 は 肥前の国で成長した姫が「大夫の監とて、肥後の国に
  族広く、・・いきほひ厳しきつは者有り。・・このひめ君をきゝつけて・・我はも持た
  らむ とねんごろに・・」求婚されたのを逃れて京へ戻った後の物語を、金春禅竹
  が能に作曲したものである。