加藤清正公 と 金春流 肥後中村家

    加藤清正と肥後中村家との交流を示す直接の資料は 今日残されていない.

   中村本家と分家作座衛門家の文書が 明治維新以降散逸し、第三の庄衛門家の

   能楽関係のみが残されたためと思われる. 加藤家二代の中村勝三郎(勘解由・

   靭負・勝兵衛・少兵衛)の動向は 周辺資料から推定することが出来る. 

  1.  「続撰清正記」 七ヶ条の法度相違のこと

      第6 芸者共数多抱置て 正月16日に 本丸の定舞台にて毎年能有て

     諸人見物仕けり.家中へも振舞の節は 役者呼候て 何方にても5番3番

     宛は囃子有之しなり. 重証拠には,靭負と申太夫 信佐と云太夫、両人を

     扶持しをき 小鼓打に庄田與右衛門と云て天下に名を得たる上手有・・・

     芸者共大勢抱置たるに 高三千石知行出し給ふ事也・・・・

      「注」 上記文中の靭負が中村家初代勝三郎(勘解由)政長であると思われ  

     申と云敬語を以って武家役者であることを暗示している. 

  2.  「四座役者目録」 正保3年 観世庄右衛門元信著        

       中村庄兵衛  靭負ト云                   

         金春八郎ノ若衆ニテ、能ヲイヤガルニモ、ヨク教ヘラレタルト云.

         生付不拍子、能勢ナク、下手也.寛永21ニ果てる.加藤肥後殿二

         奉公シ、後ハ細川越中殿二居ル. 禅曲ノ書物アルト也.    

       「注」  観世元信は 観世流小鼓方で他流にハ辛口で 特に四座以外の

       役者は殆ど下手と方付け手いる. 細川家に於ける評価とは大きくかけ

       はなれているが、 当時の庄兵衛の立場や金春八郎に授けられた秘伝書の

       ことが世に知られていたことが述べられている.

       

  3.  「肥後加藤候分限帳」   元和末年頃成立本

       大小姓組  中村靭負  四百拾九石二斗八升九合           

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      肥後 加藤家の旧臣で今日まで当時の資料を伝承している家は 極めて限ら

     れている. 加藤家が 文禄慶長の役、関が原の戦い、大坂の陣、 牛方馬方   

     の騒動、そして最後の徳川幕府による改易を 余儀なくされたためであろう.

      肥後中村家には 加藤忠広公時代の資料が 四種類残されている. 即ち大

     坂の陣中の馬術相伝状、慶長から元和の書簡(後述)、諸侯起請文等である.

  4. 慶長l九年11月廿9日 伊地知半右衛門勝正返起請文

     中村勘解由殿

      「注」 本状は斉藤流馬術の奥義を相伝するものであるが 相伝者伊地知は

          自の師として粟生甚兵衛を挙げているが 粟生一族は後年牛方馬方

          の騒乱で大坂の陣の責任を問われている.

  5. 慶長19年伊地知半右衛門筆斉藤流乗方許事 一巻

  6. 元和6年奥書 「諷集」  一冊

  

     ※ 元和年間、中村勝三郎(勘解由、靭負、庄兵衛、勝兵衛)についての資料  

       は殆ど残されていない.元和九年八月 幕府は大坂の役での篭城浪人等

       の赦免、構いを解いている. この頃には中村は意斎と号して活動を始め

       た様である.大坂の役に多少関わりを持っていたのかも知れない.

  7. 寛永4年8月23日 永井伝十郎(日向守)直清 起請文 署名 血判

    中村意斎老あて(包紙は 勝兵衛)

     「註」 永井伝十郎は 徳川家周辺で 珍しく早い時代から金春流を支持して

         居た武将である. 慶長17年 本願寺の坊官 下間少進仲孝に

         起請文を入れており、元和2年 少進没後 同じ金春流の中村に入門

         したものと思われる. 豊臣家に縁の深い中村であったが 有力幕臣

         永井伝十郎の入門以降 次々と諸侯が肥後加藤家の致仕武家役者に

         入門することとなった.

  8. 寛永4年8月23日 浅野采女正長重 起請文 署名 血判

    中村意斎老あて (包紙は勝兵衛)  浅野氏は備前笠岡城主.

  9. 寛永4年8月23日 中山勘解由照守 起請文 署名 血判

    中村意斎老あて  中山氏は当時御目付 槍・馬術の名手.

 10. 寛永4年8月28日 細川越中守忠利 起請文 署名 血判  

    中村意斎老あて  細川氏は豊前小倉城主.

    文面「天罰起請文前書事 一、 能の習と有之儀者縦雖為親子兄弟相弟子 我等

    一代之間心中之外壱人にも他言相伝申間敷事 一、我等執心不仕而貴殿如在有之

    様ニ申間敷事 一、貴殿於影後能之嘲竝万端粗略仕間敷事  右之旨毛頭於

    相背者 梵天帝釈四大天王惣而日本国中大小之神祇別而伊豆箱根両所権現三

    嶋大明神愛宕白山殊氏神正八幡大菩薩天満大自在天神六拾余州神罰冥罰於身

    罷蒙今生ニテ者 弓箭之冥加ヲ失来世ニテ者 地獄之底沈全浮事有間敷者也

    仍起請文如件  寛永四年八月廿八日 細川越中守忠利(花王・血判)

    中村意斎老」

       (注) 上の前書の文句は意斎が弟子に要求した普通の形式のようである.                     

 11.寛永4年10月29日  小笠原右近大夫忠真 起請文  (花押・血判)

   

 12.寛永4年11月1日 長岡休無斎友正 起請文 (花押・血判)

       (注) 休無斎は細川忠興の長男で忠利の兄.

 13.寛永5年11月8日 長岡式部少輔 起請文 (花押・血判) 

       (長岡佐渡守興長の初名)

 14.寛永5年12月10日 毛利大学頭 起請文 (花押・血判)      

 15.寛永6年2月吉日 萩原 起請文 (花押 両手掌文印)  

       (注 萩原は豊国神社神主三位吉田兼従)      

 16.寛永6年3月吉日 木下右衛門大夫延俊 起請文(花押・血判)     

 17・寛永6年卯月18日 稲垣甚左衛門 起請文(花押・血判)

 18.寛永6年6月10日 松平阿波守忠鎮 起請文(花押・血判)

    中村勝兵衛宛 (松平は蜂須賀氏)          

 19.寛永6年6月吉日 浅野又六長治 起請文(花押・血判)   

    中村庄兵衛宛 (備後三次城主)

 20.寛永6年7月3日 森右近大夫忠政 起請文(花押・けっぱん)

    中村少兵衛宛 (忠政は森蘭丸末弟、美作津山城主)

  以上が加藤時代に中村家に寄せられた起請文であるが、序でながら 

 細川家時代の諸侯起請文および今日まで能の家として存続している町方から

 の起請文を記載しておきたい。           

 

 21.寛永10年4月4日 長岡休斉宗也 起請文(花押・血判)             

    中村少兵衛・靭負 両名宛 (注 休斉は細川忠興弟孝之)

 22.寛永10年霜月12日 谷口三右衛門 起請文(花押・血判)   

    中村少兵衛・左馬進宛 (谷口氏は不明. 前項の靭負すなわち左馬進

    は前年 加藤家改易後 直ちに八月小倉において細川家に千石で召し抱え

    られて居る.

 23.松平出羽守直政 誓紙 (花押・血判)

    中村靭負殿まいる (直政は徳川家康の孫で松江藩祖. 靭負は寛永16年

    頃 再び靭負と名乗つていた勝兵衛と思われる.

 24.寛永21年5月19日 長岡佐渡守興長 起請文(花押・血判)

    中村左馬進宛 (当二月父勝兵衛が江戸で死去したため嫡子左馬進に再び起請文

    を差し出したもの.   

 25.元禄3年 松平刑部大輔頼元 誓文 (花押) 中村家三代庄兵衛 宛      

    (注 頼元は徳川光圀の弟.当時光圀は庄兵衛について道成寺、乱などを稽古

    していた.)

 26.享保15年12月15日 溝口新助 起請文

    中村又新宛 (注 又新は中村家分家初代. 溝口氏は越後新発田藩主直温か)

 町方からの起請文は次の通りである.      

 27.寛永5年2月7日 友枝源蔵政次 起請文 

    中村少兵衛様

    起請文前書 第3条末に 「父母同前の思ひをなし別而たいせつに可存事」

    と記して 政次が家族同様に可愛がられて育てられている事が偲ばれる.

    (友枝源蔵は近世友枝家初代大膳の嫡子二代目と思われ 菊池市の高木家

    所蔵「寛文細川家能番組」に数番の能を演じたことが記録されている.本番

    組には 細川家で始めて採用した喜多流の志水一学が最大の番数の能を演じて

    いるが、一学の弟子となったと思われる友枝家三代仙吾の名を見ることはでき

    ない. 又、後述の桜間氏の名も数百番の演能の中に見ることはできない. 

 28.寛文八年7月21日 桜間木工之助 起請文       

    前書冒頭に 「私儀 数年御養被置其上謡能稽古御させ被下候儀 誠い忝儀

    可申上様も無御座候. ・・・・・ 殊に万事御取立之私にて御座候間別而

    おろそか二奉存間敷候事.」      

    中村伊織様、中村庄兵衛様、中村作右衛門様 宛

     (注 上記木工之助が能の家としての桜間家初代とおもわれ以降同家では

    翁、道成寺、乱を演ずるときは 代々 中村家に誓詞を差し出して中村家を

    家元として許可を得る事が慣わしであり それらの起請文が今日まで残されて

    いる. 江戸時代後期の伝聞はいろいろであるが 加藤家、細川家の記録、又

    は 原資料など 寛文八年を遡るものは今のところ見出すに至つていない.

     以上 28件の起請文は大部分が加藤家時代のものであるが 細川家

   のものも 一括 記載させて頂いている.)     

       ※※※※※                  

   能の家としては一寸珍しい加藤時代の書簡が中村家には 2通残されている.

  大坂の陣前後の慌しい時代のもので 中村勘解由が馬術の相伝を受けたころ(4。)

  のものと思われる.                  

 29.慶長18年 金春安照書状

    「幸便之条一書申上候.度々貴札相届候へ共此方よりの便無御座候て御報二不

    及無念無是非候 一、去年三月に罷下 御所様御きげんあしく さん々々かいな

    うつき 後ノ十月に罷上あり またうち仕ゆにてさん々々煩候て 当二月まて大

    事に相煩 各より罷下候てよく候ハんとて 籐和泉様後藤庄三様なと御きもいり

    にて 煩少をもり候とも罷下候へと仰候まヽ無是非罷下候処ニ 女とも路次にて

    はて候ハんとて見とゝけ候ハんとて ふうふつれにて駿府へ二月十日に下着

    十一日に御みゝにたち御きけんなをり 三月五日に御能候てそれより以上六日

    御能共候て御きけんよく仕合よく江戸への御暇被下 御伝馬いつれへも被下我等

    手前御伝馬三疋人足十人被下 江戸への道ふうふのり物にて思ひ出に下申候

     此処元御きけんよく今日御能くみいて候てやかて御能御座候 女ともゝ文にて

    申候ハんすれとも いつみさまにて御国衆御出に付き一ふてやうやう申入候間

    女共より文なく候 女とも新五郎各無事に候 大蔵は大石見殿四月二十五日に

    御はて候間 かいの国へ石州御出にて さうれい候間 かいへさうれいにあひて

    すくに上り候 身上はて申候 子弓も新五郎もよそへ参候て文にて不申御残多候

    此由かもしさまへも御申万々頼存候 不断御床敷斗にていそき御残多留申候

                  恐惶謹言      安照 花押

         五月十日

               中村勘解由様  人々御中

   (注 金春安照と中村勝三郎勘解由の関係が家族ぐるみの親しいものであり また

   慶長期の安照と徳川氏との結びつきを知りうる好資料で 安照の数少ない書簡であ

   る.御所様は家康 江戸は秀忠 籐和泉は藤堂和泉守 後藤庄三は後藤庄三郎

   新五郎は安照の二男金春八左衛門安喜 大蔵は安照三男で大久保石見守の名跡を

   継いだ大蔵大夫氏紀 「かもじ様」は当時中村の主家 加藤忠広かまたは中村の

   妻女であろうか.)                        

  30.九月廿五日 伊達政宗 書簡            

   「 昨日者貴殿御取持故にしみ々候て亭主も客方も満足申候. 然者少御用之儀

   候間 廿七日廿八日両晩間に是へ御出候て可給候. 直談申度候.恐惶謹言

   (明晩は水戸様へ必々御同道可申候 以上) 政宗 花王

   中勘様 人々御中              松陸奥守 政宗

    

   (注 文中の水戸様は 水戸徳川家初代頼房. 政宗の起請文は中村家に

   残されていないが 中村家の「諸侯御稽古御名付」には 伊達陸奥守様と

   明記している. 慶長期には政宗も豊臣家に習って金春安照を庇護し、家臣

   の 桜井八右衛門を金春安照に入門させている. 又水戸家では頼房の嫡子

   光圀の時代に 中村家三代庄兵衛を招き 道成寺などの稽古を受けている.

   光圀は自家の役者喜多流の嶋屋吉兵衛を中村家に入門せしめ 中村流に転流

   させている. 肥後に派遣された嶋屋は帰国に際して 細川綱利より桧垣の

   燈を2基拝領しているが 其の内の1基が京都の修学院離宮に現存している.)

                             

  31. 加藤清正の演能記録は殆ど残されていないが 唯一と思われるものが

     法政大学能楽研究所の「般若窟文庫古能組」に含まれている.

   

    文禄2年5月10日   御本丸

   東三御方様                         

    

   弓八幡        暮松新九郎         

       萩大名           

   箙       加藤清正         

 秀吉公

   吉野         

   道成寺        金春八郎                                                                                                                                                          

       ない

   三輪         暮松新九郎

   乱猩々        暮松新九郎

       

 (注 法政大学名誉教授 表章氏は上記番組の年月に疑義があり 慶長初年頃で

  客人である東三御方様を 前田利家むすめ、御本丸を伏見城と推定されている.

  尚、清正の能楽愛好については「加藤清正伝」外諸書に多く語られテいる.)



32.東西決戦の関が原役の余燼が落ち着いてきた慶長7、8年になると演能の

   機会が各地に増大したようであり 下妻少進の「能之留帳」にその辺りの事情が

   詳しく述べられている. 五十余万石の大々名となった加藤清正も本願寺の家老

   少進の能に屡出向き また自邸において盛大の能を催している.

     慶長9年5月23日                   

        於当御所 加藤肥後殿 竹中伊豆殿 本多若州 たい長老 

        御門りう 土岐けんしう、 江雪、別の座敷二妙法院殿、遊行上人

        大炊御門、其他之衆略之                    

   翁 (三郎四郎) 老松 (春日大夫) 実盛 (少進) 江口 (同)

   項羽 (同) 富士太鼓 (同) 葵上 (同) 鵜飼 (同) 山姥 (同)

   弓八幡 (春日大夫)                      

   

     慶長9年閏8月13日 当御所にて

        加藤肥後殿 稲葉右京殿 本多若州 石河伊豆殿

        其他十人余有之             

   翁 (こんぱる) 白楽天 (同) 清経 (同) 熊野 (少進)      

   葵上 (金春) 自然居士 (少進) 千寿 (七郎) 柏崎 (金春)

   女郎花 (少進) 橋弁慶 (七郎) 邯鄲 (金春) 弓八幡 (三郎四郎)

     慶長10年8月4日 加藤肥後殿伏見之屋形二て       

   高砂 (金春八郎) 実盛 (同) 松風 (少進) 紅葉狩 (金春七郎)

   道成寺 (金春八郎) 江口 (同) 芦刈 (同) 鵜飼 (少進)

   龍田 (八郎) 熊坂 (七郎) 邯鄲 (少進) 自然居士 (八郎)

   猩々乱 (八郎)

            (注 この演能が余りに盛大であったこよに徳川家康が

    不興を示したとの事で 清正は 次に 観世大夫を招いて能を催し 莫大の

    引出物を与えたといわれている.)

     慶長14年5月6日 御門跡ニて             

        客、 加藤肥後守殿 高橋右近殿 平野遠江殿 本多若狭殿 

        竹中采女殿 大嶋氏茂兵衛殿 佐々信濃殿 其他書略畢  

        能組前日伏見より被越候         

   翁 (彦三郎) 白楽天 (少進) 頼政 (同) 熊野 (同) 

   葵上 (同) 杜若 (同) 藤戸 (同) 柏崎 (同、子源五、六蔵)

   女郎花 (同) 山姥 (同) 呉羽 (彦三郎)       

     慶長15年9月4日 当御門跡ニて        

        加藤肥後守殿所望 同道 高橋右近殿 浅野但馬殿 平野遠江殿 

        大島茂兵衛殿 佐々信濃殿 平野九左衛門殿 多羅尾久八殿

   翁 (石黒采女) 相生 (少進) 清経 (同) 井筒 (同)    

   春日竜神 (同) 三輪 (真佐) 邯鄲 (少進) 呉羽 (石采女)

      慶長16年4月廿二日 当御門主ニて 御開山三百五十念忌之御能

         所御堂           

   難波 (春日大夫 大 助三 小 長右衛門) 清経 (少進 楽屋ニ而俄二

   所望) 湯谷 (同 大 白極 小 新九郎)

         此間ニて座中之衆へ悉御服被下候.     

   呉羽 (彦兵衛) 咸陽宮 (彦三郎 脇 春藤)       

   関寺小町 是も俄ニ御所望 児源五 (少進 大 等因 小 長右衛門)

   道成寺 (同 大 白極 小 清五郎 笛 七左衛門)

   山姥 (同 大 みすや又兵衛 小) 源氏供養 (彦三郎) 善知鳥

   (彦兵衛)                 

         右之見物、 加藤肥後守殿 竹中采女殿 富田信濃殿 

         佐々信州 高橋右近殿 其外伏見武家衆 又別之座敷ニ妙法院殿、

         大炊御門、 其外少々公家衆御出也.         

   (注 上記の番組に於いて 加藤清正は何れも主客として筆頭に置かれていて、

    清正の能愛好振りがおのずと示されていると言えよう.)

                              H. 19.6.22