「宇野主水記 読後雑感」

中村孫平次と下間少進

 平成27年12月末 三好長慶顕彰会長として歴史に新しい一頁を開いておられる 徳島の畏友 出水康夫により 資料「宇野主水記」の存在をご教示

頂いた。浅学の悲しさ今日まで一級史料とされる「同記」に触れる機会を得なかったが 一見して 当家初代中村勝三郎(勘解由、靭負、少兵衛)以前について残されている系図 ・覚書(当ホームページ冒頭の肥後中村家の歴史)に相当する部分に ある程度の光を当てることが出来るように思われる。 

宇野主水記の範囲は 天正11年から14年に至る 豊臣秀吉 天下統一の疾風迅雷の時代である。 筆者は 本願寺 顕如の祐筆であり 同記に登場する中村孫平次は天正11年秀吉に命ぜられて岸和田城主、下間少進は本願寺

坊官(軍事・行政・外交担当)であり当時32,3歳。 既に若年より岳父

下間丹後に能の稽古を積み、更に金春夫喜勝に師事して「岌蓮江問日記」の

執筆中であった(金春喜勝は天正11年5月没)。

 

孫平治は小牧・長久手で討死した森長可の室(池田恒興女)をやがて正室(秀吉の意向か)として迎えており、当家先祖とされる 中村庄右衛門尉正吉は

信頼する宮部禅祥坊継潤に預けられたと想定される。 又 孫兵次は

天正13年には 式部少輔に叙任されており 本願寺や下間少進との関係も続き 芸能への関心を深めたかもしれない。後年 駿府城主時代に源義経遺愛とされる「薄墨の笛」を補修しており、添状と共に 今日の清水区 鉄舟寺

に伝えられている。

 秀吉の九州征伐に当たり、孫平治は留守を命ぜられており、息 正吉は

出陣を願っただろう。 「覚書」には「幼年ノ時ヨリ数度之武勇アリ」と

述べて 父孫兵次と共に戦場を駆けて居たことが偲ばれる。

傍流となって 宮部継潤軍団・南条勘兵衛に付属し、 日向高城で討死

した 庄右衛門正吉の遺児 勝三郎の召し抱えや能の稽古を 秀吉に慫慂したのが祖父孫兵次であったかも知れない。又、当家覚書では 正吉の室は志賀山城守の女とされるが、当家初代勝三郎は大奥の大老女で伯母とされる 志賀 に養育されと記してある。姉妹のひとりであろうか、或いは正吉の室本人であろうか。孫平次は関ヶ原の直前 東軍参加を表明したものの7月

 17日駿府城主のまま病死している。中村本流は慶長14年米子で無嗣断絶。

尚、岸和田時代の中村家は 横田内膳を家老として迎えており、外に

桜間など三好系の家臣団をかなり加えたと見られる。

肥後中村家の系図・覚書では 出自を讃岐善通寺中村郷としており孫平治の父を 大仏殿に討死した新兵衛尉氏正としており、よく知られた三好一党の武将であった。孫平次も早くから三好衆に知られていて、秀吉は岸和田の守衛に最適と考えていたかも知れない。

孫平治の出自は甲賀とする説が 広く多いが 讃岐説であれば孫平治が

妹を横田内膳に娶せ、家老に取り立てたこと(当然秀吉の内諾のうえ)も自然であるかも知れない。秀吉と三好康長は緊密の関係にあった。

更には 中村勝三郎を初代とする 肥後中村家は 細川時代の陪臣録に

神保、野村、上田など甲賀に多い姓氏の譜代家臣14家を抱えている。

勝三郎の父とされる正吉が分立するにあたり 水口時代の孫平次が付けた

家臣団であったかも知れない。千石程度の武家としては譜代家臣が多すぎる

印象である。

 

以上が 宇野主水記に接しての編者の見立てであるが 多々誤謬もあろうと

思われる。 多くのご叱正を賜りたい。       2016.2.1.

 

 

追記 1.水口時代の中村孫平治を考察するうちに 豊臣秀次と

近江八幡城 築城に当たり 主導した田中吉正の通称を採ったと思われる

「久兵衛町−ウイキペデイア」の名称が江戸時代まで存在したと知った。現在も残されている「孫平治町」の由来も 中村家が築城の一部を担い 又秀次時代 中村家の家臣団が居住した場所と考えてよいように思われる。京都には 旧聚楽第の南西に 中村町が今日でも残っており  伏見城図の南東にも

中村家屋敷(大蔵家蔵)が記載されている。

尚 大阪城周辺の大名屋敷図が残されているようであれば、ご教示賜りたい。

 

追記 2. 孫平治の父とされる 中村新兵衛と共に記載される事の多い

人物に 松山新介 という人物がある。能楽史料 田中充編「四座役者

目録」の「松山新入」に「小鼓名筒之由来」に

「一、黄蓮之筒、宗拶ヘ、三好殿内、松山ト云侍、京新在家ニ、池上ト云

町人、持居タルヲ、價鳥目百貫出ス、相国寺ニテ祠堂銭ヲ借テ、買出タル

ト也」

**三好家中の文化度は極めて高く、茶道、能楽に堪能の武将が多く

存在していたことが明らかである。

 

追記3.中村孫平次が三好家に関係浅からずとすると 秀吉が徳島藩の

蜂須賀家 付家老とした 中村右近も 適材配置と云えるかもしれない。 

 

追記4.江戸時代初期の諸大名が数多く中村家に起請文を受け入れたのも

勝三郎を孫兵次の身内と認識していたからかもしれない。

 同時に 下間少進に金春流を学んでいた 有力大名である

幕府側近の永井日向守直清が少進没後 中村に入門したことが

諸大名に大きな影響を与えたことだろう。

 

追記5.細川家への書き上げに 本家に一名 別の分家に一名「孫平治」

を名乗る人物が記載されている。細川家がその名乗りを認知していた

とも考えられる。江戸初期の武将たちは「中村」について特段云わなくても誰しも 猛将の家と熟知していただろう。「覚書」には只「武功多し

と記するのみである。

追記6.元禄期の「覚書」に勝三郎の父 庄右衛門正吉が宮部禅祥坊に与え

 られたと云う「猿切」と云刀に付、明治の郷土史家内柴 柴柵は「中村家

 能諷伝来記」に明治2年の錦山神社奉納能に「本家伝来の宝刀猿切を

 捧げて神前に至り開口」と書き残している。秀吉公の九州平定戦の高城で

 討死した正吉の遺品が 勝三郎を経て中村本家に伝来していたと云う。

 今日 中村本家に「猿切」の言い伝えは残されていないものの、

 太平洋線中に三野家(千石)から養子縁組された同方に「来国俊」の名刀が蔵されている由 伺ったことがある。(編者未見)。

 

追記7.「宇野主水日記」天正14年に大阪の秀吉に伺候した家康供応に

 美濃守秀長邸が用いられ、金春大夫が召されている。大和の国主に

 任ぜられた秀長が金春大夫安照を秀吉に推挙したと考えられているが

 能好みの家康が感じ入ったのかも知れない。

 

 

以上「覚書」記載の「勝三郎以前」にかなりの信憑性が与えられたように

  思われる。 2016.2.28.