明治維新と中村家翁神道

 明治4,5年 中村家による神事能復活については 本文「細川家時代27」に
「翁」神道を拠り所として 錦山神社(加藤神社)に於いて、相当の難産の末実現に漕ぎ 
付けている。

又、幕末期‐維新期の肥後熊本の能楽事情は「慶應年間より明治3年10月にいたる恕斉日録に一定程度が書き残されているが
、慶應4年3月の「神仏分離令」と明治3年正月の「大教宣布」により 熊本の能楽にどのような影響があったのか、特に 北岡祇園宮及び
藤崎宮の神事が継続されていたかどうか、資料不足で不明である。
 能役者への藩による扶持や町奉行所を中心とする町民による「両座銀」の支援が継続できたかどうか、不明である。
 一方では能は聖徳太子と関わりが深いという説により排斥され、明治政府による上記分離令、宣布を慮って、経済的理由もあり、
大方自粛のやむなきに至っていたかもしれない。
 この様な状況ながら、熊本では明治元年 加藤清正を祀った本妙寺の浄池廟において神仏が分離されて夫々に奉祭されることとなったと云われる。
 
明治4年には本妙寺境内から熊本城(本丸下)へ社殿を新築し、新たに錦山神社と呼ばれ句新宮に遷座された。
同年8月29日、菊池郡田嶋神社神主 伊弁田真直が 熊本県により錦山神社祀官として任命されている。
  
 加藤家旧臣であった中村家では錦山神社創建を能楽復興の絶好の機会と捉えたようである。明治4年 中村嘉一郎、庄太郎父子、
友枝、桜間両家及び塩川氏外有志により、同社神楽殿に於いて舞囃子奉納を企画した。
初代社司伊弁田氏は明治政府の意向に忠実で、仏教と縁の深い能の奉納に難色を示し、相当の経緯の後 県庁への申請と同意のもと、
同年7月の舞囃子奉納及び翌5年2月の本格的翁付能の奉納となったようである。
此のあたりの経過は「芸能の科学19桜間家文書-羽田旭氏」及び「中村氏能諷伝来記―内柴紫冊」に記載され、
此のホームページ本文「細川家時代の末尾に掲載された通りである。

 今般(平成27年)畏友上米良恭臣より加藤神社祠官伊牟田家についての 後裔の方々による「伊弁田家後年控」と題する
貴重な書籍を拝見する機会を与えられた。
伊弁田家の由来についての詳細な文書であるが、「伊牟田泉 明治5年 覚―日記」が含まれていいて、
加藤神社創建当時の状況がかなり判明することになった。
 能楽関係についても2,3記録されており、前述の「桜か家文書」「中村氏能諷伝来記」に照応できるところもあり、
以下 肥後人名辞書(角田政治著)による伊牟田泉の項と「伊牟田家後年控」より「覚え」の要点を述べておきたい。

肥後人名辞書 「伊牟田泉」
  
  名は直治、泉と称す。田島村の祀官なり。神道講釈を以て世に鳴る。即ち神道の
  衰微を憂い力を和漢の学に用い、九州諸藩の招に応じ特に宮崎、鹿児島に入り
  大に神道を講明し、皇道の扶植に力め、国体の尊厳を説く。明治25年4月没す。
  年76.墓は田島村坂口にあり。
  
「伊牟田家後年控」より「覚 明治5年 壬申」

一、 正月 元日   社参
一、    7日   雪
一、    8日   藤崎北岡社参詣
一、    12日  外勤
一、    15日  社参 旧里社参、帰宅の事
一、    19日  田嶋廻勤 
一、    20日  四ツ時分より出立、七ツ頃熊本着
一、    22日  社参幷県庁ニ出
一、    23日  社参 出張所ニ出
一、    24日  雨 宮詰
一、    25日  社参 但南北区長衆両人幷ニ書記
        絵図面を作り 縄張等有之 見分被致候事
一、    27日  廻勤 但 昼後 芝居行
一、    28日  社参 但 松山繁方神事行
一、    29日  社参 但 墓所管轄御達
一、  2月 朔日  終日勤行 但 玉垣建立打立
一、    6日   社参 但 七ツ頃大地震 雨少々 夕方ヨリヤム
一、    12日  御祭奠 朝四ツ頃 
但 役付三人 号令 繁 手伝 斉藤 警衛 森本儀十
鳳台院様、顕光院様江献供之儘三方膳1
一、    15日  宮頃祭 但 玉垣並 御宝物見分
一、    18日  宮詰 但 宝物引渡
一、    24日  宮詰 昼迄雨 但昼後 中尾山出勤
一、 *2月25日  宮詰 但 *中村翁執行
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
一、  8月 5日 子供踊初ル
*8月 7日  冨田真寸穂 一飯 清田直衛 二飯 一泊
         *能舞台ニテ 踊多趣ニ付 中村嘉一郎より願書有之
          其書面モ入被見候ニ付、被見致し候事 踊り延引ノ書付上達
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一、 *10月 28日 中村能届達 弥平次持参
一、 *11月朔日 中村能興行
尚、伊牟田泉「覚」は11月  日を以て終了している。                  

以上 「伊牟田家後年控 明治5年覚」より創建当時の有様と中村家関係の能に関する記述を摘出してみたのであるが、:
鎮台敷設による明治7年までは年間2度程の能興行があり、京町台へ遷座した加藤社に再度能舞台を建設する際の
県令安岡良助宛願書とその許可証の写しが中村家文書に残されている。