追悼 平成22年度恩賜賞・学士院賞 受賞

表 章 法政大学名誉教授・元能楽研究所所長 (2010年9月6日逝去 9月13日告別式)


能楽研究 講義録 「渾身の語りおろしー平成19年大阪大学 大学院集中講義より」 
表 章著 平成20年9月15日発行 笠間書院出版

T 能楽資料探索の道程

  肥後中村家文書のこと

 北海道で人の知らない能楽資料を調査することができたのに続いて、昭和44年には肥後の中村家
伝来の能楽資料を調査するという幸運にめぐりあいました。熊本には本座で
喜多琉の友枝家と、新座で
金春流の桜間家と、大夫格の能の旧家二軒があったことは、比較的
よく知られていましたが、その桜間家
の嫡流のはずの桜間弓川(金太郎)が芸談の中で
  「うちは中村琉です」と語っていることの理由は、
ほとんど知られていませんでした。「四座役者
目録」にも名にでる中村庄兵衛は 豊臣秀吉に贔屓された
金春安照の弟子で、「関寺小町」まで
相伝されたほどの役者でしたが、後に加藤清正時代の熊本藩に仕え
ていました。寛永年間に加藤家が
断絶した後には 細川越中守忠興(編者忠利)が熊本の領主になりまし
たが、庄兵衛は細川氏にも
可愛がられ、その子(伊織正辰)が千石で肥後細川家に召抱えられていました。
その家が新座の金春流
の家のはずだったんですが、寛文頃の当主が「わが家は武士として細川家に仕えた
のであって能役者で
はない」との立場を採り、能の弟子だった桜間に新座大夫の仕事を任せるようになった
ものの、
形式的には 中村家がさくらまに免許を与える形を続けていました。 そのため律儀な桜間弓川は
 中村琉と称したりしたのでした。 それは実は中村家文書を調べてわかったことでして、私もほとんど
知らずにおりました。
弓川さんの従兄弟が桜間道雄さんですが、その道雄さんの養女だったらしい榎本芳枝さんが、昭和44年の
春に熊本の中村家のことを私に話して、その中村家の後裔が今は長崎にいて、家伝来の
古文書を持っておら
れるので、調査なさりたいのなら紹介しますよとのことでした。榎本さんは研究的
な面にも関心があり、
私が能楽の文献と縁が深いことも知っていた方でした。
 喜んで紹介状を書いてもらい、近くその文書を見に行くつもりだという桜間道夫さんともお会いして
を聞いたりしましたが、すぐ行くほどの気は正直なところありませんでした。遠い所だし、
どんな内容か
も皆目わからないので、気が進まなかったのでしょう。 ところが、急に
長崎に行く事になったのです。
 当時佐世保に大きな造船所がありまして、そこに法政大学の通信教育
  の学生が大勢いました。 
その通信教育の佐世保の学生の集まりに専任の教員が行って講演をする慣わし
になっていて今年は文学部の
番なのだが誰か佐世保まで行ってくれる人はいませんかという話が教授会
に出たのです。希望者がいなく
て学部長が困っていたので、では私が行きましょうと申し出て、佐世保
から長崎に回ることにしました。
佐世保も長崎も初めての訪問でした。
長崎の中村健次郎さんは英文学の研究者で、
当時は長崎外国語短期大学の教授でした。6月某日に
お訪ねしたところ、金庫から一点ずつ出してこられる
文書がほとんど金春安照の自筆とか同時代の
貴重なものばかりで、驚嘆しました。一日だけのつもりだった
のを三日もお邪魔させてもらい、写真
撮影と調査に精を出しました。8月にあらためて調査に参上し、金庫
に入れてなかった謡本などの類も
撮影させてもらっています。
 後に法政大学能楽研究所が出している能楽資料集成に小田幸子さんの校訂で翻刻した「金春安照伝書
集」
や「金春安照型付集」が中村家文書の代表的なものですが、文書全体の紹介と中村家歴代の経歴の
考察を
兼ねた「肥後中村家能楽関係文書について」と題する100ページの報告を「法政大学
 文学部紀要」
16号(昭和46年)に載せています。北海道から長崎まで、まさに東奔西走、体力に
任せて資料調査に
飛び回っていたのが、50歳前の私でした。
 以上が 能楽研究講義録20、21ページ所載の中村家に付いての言及箇所であるが、当時の経過を

少し補足しておきたい。
 前年の事であったと思うが、父健次郎と次兄功が熊本県玉名市石貫・山口部落・徳永維一郎、徳永春雄

兄弟のところに預けていた古物など引取りの依頼を受けて、免許取立ての兄が 父と共に 中古ダットサン
を運転して 玉名市へ出かけたらしい。 若干の古物は車に載せたものの、膨大な(後年維一郎氏息龍氏
談では蔵の3分の2)古本文書のため、 広い前庭に何度も山済みして焼却処分した、と 正月に帰省して

聞かされたのである。
 大学で文献学の大家である神田楯夫博士の講義を受けていた編者は 父にその無思慮を難詰したところ、
父はその両親から「大切」と云われていたものは、長崎へ運んで来たと慰め顔で伝え、更に能楽師で維新後
 東京に出た桜間家の人を探して、来てもらえれば中身も分るだろうとのことであった。
 帰京後、編者が銀座6丁目にサラリーマン生活をしていた事もあり、新橋ちかくの わんや書店を探し
当て、そこで手にした能楽手帳により、3名ほどの桜間姓の能楽師を発見した。桜間竜馬、同辰之、同道雄
であったかと思う。当時編者は武蔵境に居住していたので、手帳から手近い武蔵小金井緑町の桜間道雄氏を
 早春の日曜日に訪問することとなった。 駅から10分ほどの距離で探し当てた家は 古い市営住宅風の
 二軒長屋で、狭い玄関に小柄な老齢の人物が応対された。 父からの前置きを伝えると、藪から棒に、
「系図はありますか」と問われた。 其れまで系図のことなど一度も考えた事も無かった編者は、ドギマギと
「其れは分らないが、或いは有るかもしれません。何しろ分けの解らない古文書が結構沢山有りますから」
 と答えたところ「中村流の中村さんなら 私たちも探していました。都合がつき次第長崎をお尋ねします。
文書などは法政大学が専門ですので、相談してみましょう。」と 道雄氏はのべられたのである。 当時行動
を共にしていた榎本芳江氏が 桜間道雄氏の意向をうけて、表章先生と接触したことから 前述の講義となった
次第である。

 

以上。