元和3年 肥後中村少三郎と金春座衆


 元和3年2月 大夫金春八郎(安照)宛てに金春座長老7人連名による書簡を発している。
八郎太夫(当時69才)の嫡孫七郎重勝が江戸下向について、
金春家累代の伝書類を七郎に相伝するように願出たものである。
七郎重勝(当時22才)の行跡に問題があったらしく、八郎安照は座衆の強い要望にも拘わらず、
金春家には左様のものは存在しないと答えている。
 抑々金春八郎の嫡男である七郎氏勝は柳生石州斉に剣術の免許皆伝を受け、
更に宝蔵院流の槍術ほか馬術や長刀の相伝を受けた大兵法家であったが、
慶長15年江戸に急逝していた。又同年には豊臣家の小姓あがりの、
中村勝三郎に一子相伝の印可と秘伝書類を相伝していた。
  文面 「 急度申上候、今度七郎殿江戸へ御下被成候ニ付、座中談合
     一書以申入候
一、 七郎殿へ御家の大事、此度御相伝被成候て御下被可成候事
一、 七郎殿御覚悟萬御行儀、此中何とやらあしき様に承候間、
   ・・・・
一、 御家の書物共ちり不申様に被成、後には七郎殿へ皆々御渡
被成候て可被下候事
一、 中村少三郎に道成寺御相伝被成候とて肥後にて仕候と内々
 承候には餘には無御相伝由にて候、於御家々くるしからす
 候事
    右之条々申上候事も江戸へ御下り候に付、一大事と存、さて申事
    にて候、かように申者共いつくにてもかけ身にそひ如在仕間敷候事
    元和三丁巳二月十四日     春藤六右衛門
                   金春又右衛門
                   大蔵弥右衛門
                   大蔵長右衛門
                   金春惣右衛門
                   大蔵源右衛門
                   幸 小左衛門
    金春八郎様  参   」
   所感:
   元和三年は大坂の陣終了後二年足らず、徳川家康没後一年足らずの時代背景である。
平和の到来に合わせて、幕府は上方より能役者を江戸へ呼び下したのであろう。
三,四年前には金春八郎自身が藤堂高虎<や後藤庄三郎の世話で細君連れで江戸へ下り、
江戸から中村勝三郎へ長文の手紙を書き送っていたが、元和三年には八郎安照は高齢に掛かり、
江戸下向を断ったことが推察される。
元来外へ漏らすことのない金春家の大事を 別格の扱いで、
八郎太夫から 勝三郎へ伝授されていたことを金春座衆一同が認識し、
勝三郎が座衆とも究めて親しい関係にあったことを示す書簡であろう。
      (平成二九年三月三一日発行 金春家文書の世界
       家芸断絶の危機・・・ 宮本圭造)より 
2017・11・4・記    熊本  中村勝