金春流 肥後中村家 紹介


肥後中村家 先祖付覚え(永青文庫)



 先祖中村靭負儀、秀吉公御児小姓被召出相勤、秀吉公御逝去後、加藤清正公え知行五百石にて被召仕、忠廣公代迄相勤隠居、其子伊織、家督、忠廣御改易以後、妙解院様是非豊前に罹越候様にと被仰越、寛永九年九月豊前へ罹越候處、段々難有御意にて、御直に御知行千石被為拝領、靭負には忠廣より被下候通、現米三百石御蔵米にて被為拝領候、延寶二年正月右伊織依願隠居、其子庄兵衛家督、御使番等相勤、元禄八年十一月依願隠居被仰付候、右庄兵衛弟作左衛門(二百石拝領)、庄兵衛嫡男甚五左衛門家督、弟庄衛門 元禄六年九月御小姓役高新知百五十石之御擬作、同十年十一月新知二百石拝領す。



 注1.秀吉公御意による能楽金春流は靭負より庄兵衛まで三代は本家で勤め、
以後は分家庄衛門系で継承し今日に至っています。

 注2.中村家は加藤家、細川家共に表向きは武家として番頭、奉行、使番、郡代、訓導などをしますが、同時に加藤家では武家太夫、
細川家では金春流家元格として免状を発行するなど 明治
l10年頃まで活動していました。    

武家としての肥後中村家 

系図によれば 先祖は鎮守府将軍 藤原利仁としているが、もとより信とするに当らない。       

戦国期には次の通りである.

     イ. 中村太郎利正    寿永三年正月29日 三草山合戦二軍大将蒙り

                 励武功.

     ロ. 中村勘解由範正               

     ハ. 中村進士左衛門尉範忠                               

     二. 中村新兵衛尉氏正  三好日向守一党永禄10年10月10日大仏殿ニ

                 陣取テ有ツル二松永弾正少弼夜討シテ氏正ヲ討捕、

                 大仏殿を焼亡ス.氏正ハ隠レナキ勇士ニテ三好ガ一

                 党四国ヨリ打テ上リ、京都畿内ノ軍ニ数度魁殿乃働、

                 依寡勝多ク、万死一生ヲ当事多カリケレバ鑓中村ト

                 申シケル. 三好ガ一党ノ大将二選挙堅ク辞スレド      

                 モ不叶シテ討死ス.誠二遁レバ遁ルベキ二其選ニ報

                 セズシテハ生タルシルシ有ラバコソト義名ヲ清メテ

                 討死セシハ、誠ニ剛死トコソ言ヘヶレト信長公モ誉

                 メ給フ.         

     ホ. 中村式部少輔一氏  紀州雑賀、山中其の外数度ノ合戦ニ武功多シ.太

                 閣中老ニ任ズ. (通称孫兵次)

                                                                

                        

     へ. 中村庄右衛門尉正吉  妻ハ志賀山城守娘

                   宮部善祥坊ニ仕ヘその節ハ勘解由ト申候

                  幼年ノ時ヨリ数度之武勇有テ善祥坊ヨリ猿切ト

                  云刀カギ鑓ヲ賜リ、年長ヶ鑓之上手ト云レ武者修

                  行ノタメ善祥坊ニ暇ヲ申シ中村庄衛門ト名改廻国

                  イタシ南条勘兵衛ニ付属シテ日向国高城二、島津

                  兵庫守ヲ吉弘加兵衛夜討ノ時討死ス.鑓之上手

                  故加藤清正公モ正吉ニ御稽古有タルヨシ.         

     ト. 中村甚左衛門尉正重 (正吉弟・・・のち沢村姓となる。)

            細川兵部太輔様に被召仕、田邊之御城ニ茂籠申候

    

     チ.  中村少兵衛正長   妻ハ久代越前守娘 越前ハ久代日向守子也

                  幼年ニテ父にヲクレ 秀吉公ノ大老女志城守

                 娘志賀ト申大老女正長伯母ニテ御座候故志賀方ニ引

                 取養育セラレ、秀吉公御児小姓ニ被召出、中村勝三

                 郎ト申候。 女院二位公御細工之香箱一ツ作之鞍御 

                 衣類等 秀吉公ヨリ拝領今以て所持仕候。

                 為御慰金春大大夫ニ能ノ稽古被仰付、家之大事迄不

                 残相伝仕候処不慮之儀有之大阪立退肥後ニ罷下リ清

                 正公ニ御頼申上候処ニ、亡父勘解由ニ鑓御稽古之筋

                 モ御座候ニ付御かくまい被召置、其後知行五百石被     

                 為拝領、高麗陣之節モ御共仕数度之励武勇ヲ、忠広

                 公御代迄相勤隠居仕候. 嫡子中村左馬進正辰ニ家

                 督無相違被為拝領名をも靭負ト改申候。正長ニハ御

                 合力米現米三百石被拝領大坂に居住仕名を少兵衛と

                 改申候。

                 三斎様 忠利様御懇意被仰付豊前へも折々伺御機嫌

                 参上仕候。 忠広公御改易以後 嫡子正辰 

                 忠利様御預り可被成由長岡佐渡守殿より度々

                 被仰下 正辰下関へ参候段被御聞付 橋本角右衛門

                 と申す仁を被差越御船とも被指越 正辰儀是非豊前

                 江罷越候様ニと被仰下候ニ付寛永九年九月豊前へ罷

                 越佐渡殿御宅江落着 佐渡殿被召連 御城江罷出     

                           

                 佐渡殿御相伴に而御料理被為頂戴御前江被召出

                段々有難御意二而御直ニ千石之御折り紙被為頂戴

                大組附に被召加御熨斗被為頂戴 正長二は忠広公之

                被下置候通現米三百石大坂御蔵米二而被拝領身楽ニ

                病気養生仕候様ニ被仰渡候。 折々之伺御機嫌ニ者

                罷下り申候。 於大坂病死仕候。                

      リ.  中村伊織正辰  妻ハ吉弘加兵衛娘下津棒安孫子也

                 忠広公御代ニ父正長家督無相違被為拝領御改易以降

                忠利様ニ被召出候。幼年之節ハ中村左馬進ト申候。 

                御家ニ被召出候節ハ靭負と申候。 其後名支申候ニ付

                中村伊織ト名ヲ改申候。 委細之儀ハ前ニ有之候ニ付   

                略仕候。 江戸定御供被仰付数年相勤申候。嶋原一揆   

                之時分ハ御物奉行被仰付御供仕申候。 御帰城之上御

                袷御単物白銀五枚被為拝領候。 先年長崎江異国船漂

                着仕候節ハ監物殿御手ニ付罷越申候。 将又南条意信

                御国立除被申候節 追付次第押罷帰候様ト被仰付、跡

                を志たひ罷越候之處ニ天草にて追付御意之趣申渡御国

                同道仕候。 右之儀ニ付ほ年をおり申候由 被仰渡

                御衣 御銀二十枚被為拝領候。

                妙解院様 真源院様 妙応院様御三代相勤 延宝2年

                正月隠居願之通被仰付 名ヲ一無ト改申候。 嫡子

                正純ニ家督無相違被為拝領候。 延宝八年八月廿十七

                日病死仕候。

      ヌ. 中村庄兵衛正純   妻ハ立花飛騨守様御内十時三弥弟十時太左衛門

                   娘

                 寛文六年三月無足ニ而江戸お供二被召連候。 其節

                ハ中村庄右衛門ト申候。 御中小姓之御擬作料被為拝

                領外に小姓両人小者両人之御加扶持給銀等被拝領御小

                姓組衆同然に御供役御給仕御使者相勤申候。寛文十一

                年十二月新知二百石被為拝領御小姓組二被召加江戸定

                御供被仰付候. 延宝二年正月父正辰隠居被仰付家督

     

                無相違被為拝領 名を中村庄兵衛ト改御使番役

                被召加定御供被仰付相勤申候。 延宝5年八月不勝手

                ニ罷成御役儀御断申上願之通被仰付御番方ニ被召加候。   

                元禄八年11月病気勝不申隠居之願申上候処に願之通

                被仰付名ヲ正純ト改申候。 嫡子甚五左衛門ニ家督無

                相違被為拝領候。

                水戸中納言様御稽古可被遊由

                綱利様江御頼ニ付被仰付 度々江戸御屋敷江も参上

                仕候。 道成寺、乱御稽古被遊 来国光代金三枚五

                両之御脇差

                御直ニ被為拝領候。江戸罷立候時分白鳥一箱名酒一樽  

                被為拝領候。 其以後嶋屋吉兵衛と申御家来御当地ニ

                稽古ニ被遺

                中納言様御稽古之ためニ而御座候間 関寺 其他習事

                等吉兵衛ニ相伝仕候様にと

                綱利様より被仰付吉兵衛ニ相伝仕候。 其後又〃御当

                地江吉兵衛被差下 右之御礼と御座候而 弓形ノ御刀 

                代金五枚白鳥一箱名酒一樽被為拝領候こと.