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沖縄への核兵器持ち込み「盟約」は破棄されるべきだ
新原 昭治さん(国際問題研究者・非核政府の会核問題調査専門委員)に聞く(2017.5.15)
 1969年の佐藤・ニクソン会談で「密約」された沖縄への核兵器再持ち込みを公然と認め、権利として誇示――。米国防総省「歴代国防長官史料」で明らかになった米国の傲慢な姿勢に、いま、国民の怒りが広がっています。
 長年、米解禁文書を通じて日米同盟の真相を暴き、沖縄の核≠フ実態解明に携わってきた国際問題研究者、新原昭治さんに、国防総省文書が公然化した沖縄への核再持ち込み*竭閧どうみるか、沖縄核基地化への思いなどを聞きました。

【第1回】
■沖縄核密約を公然と認め、核兵器再持ち込みの権利を誇示 〈米国防総省・歴史書〉■

 ◆安倍内閣の核兵器政策・沖縄問題の態度を鋭く問うもの

 米レアード国防長官(1969〜73年)在任中の業績に関する米国防総省の公開史料。かねて沖縄県民をはじめ国民からきびしい批判を浴びてきた佐藤栄作首相とニクソン米大統領が交わした沖縄核密約(1969年11月)を初めて日米両国間の約束として公然と扱い、沖縄へのアメリカの核兵器再持ちこみを米国の「既得権」と印象づける表明を行いました(*)。
 (*)Secretaries of Defens Histoerical Series. Vol.VII. MELVIN LAIRD and the Foundation of the Post-Vietnam Military. Historical Office, . Office of the Secretary of Defense. 2015.
 米国防総省によるこの表明は、きわめて重大な意味を持っており、沖縄県民をはじめ日本国民の非核・平和の意思を正面から踏みにじるものです。
 それはまた、目下すすめられている国連の核兵器禁止条約交渉のために作成された「核兵器禁止条約」の草案(同条約に関する国連会議=ジュネーブ=が5月22日公表)の中心的規定とも抵触するもので、核兵器禁止への露骨な敵意を含んだ内容ともなっています。
 広島と長崎の両市に対する世界初めての原爆投下により、きわめて膨大な数の市民らがそのむごい犠牲とされ、核兵器の廃絶の一日も早い具体化が重大な課題となっているとき、核兵器の恐るべき非人間性について知る立場にある日本の政府は、米国政府に対して沖縄への核兵器再持ちこみ「盟約」の破棄を断固求めるべきです。
 このような沖縄への核兵器再持ちこみの公然たる既得権化は、45年前の1972年の沖縄施政権返還に際し、「核抜き・本土並み返還」と大々的に宣伝した当時の佐藤内閣による沖縄の核基地をめぐる宣伝が虚構であったことと、その裏にあった対米秘密外交の真相を裏づけたというだけではありません。いまの安倍内閣が、核兵器問題と沖縄問題について、実際に沖縄県民をはじめ国民の期待をめぐりどのような態度をとっているのか、また核兵器はつくらず、持たず、持ち込ませず≠フ「非核三原則」に関する現政府の実際の態度はどういうものなのかをも、鋭く問うものと言わなければなりません。

 ◆米軍の核兵器戦略は沖縄でどう展開されたか

 そこで、この問題を考える上で多くの方々と共有しておきたい米軍占領下の沖縄の問題として、そもそも米軍の核兵器戦略は沖縄でどのように展開されたのか、その際、沖縄県民の意思はどのように扱われたのかなどの問題点をふり返ってみたいと考えます。
 私は1956年に長崎で開かれた第2回原水爆禁止世界大会で、沖縄から参加された瀬長亀次郎さんに放送記者としてインタビューしましたが、それ以後も1963年に米軍占領下の沖縄を約1ヵ月間、「赤旗」記者として現地取材したほか、復帰前年の1971年には日本共産党国会議員団調査団の事務局員として沖縄の核兵器基地調査に参加しました。
 こうした体験を踏まえて、いま、沖縄戦直後からの米軍による土地取り上げや沖縄県民への抑圧、そして県民のきわめて切実な非核・平和の願いに対する日米両政府の対応の問題点などをふり返り、いま提起されている重大な問題の解決を考えるうえでの参考にしていただけたらと思います。

〈沖縄の全面占領時代、米軍は「征服の権利」と称して国際法違反の主権じゅうりんにより恐るべき土地強奪と核兵器基地づくりを強行した〉
 沖縄の米軍占領下に米軍は、沖縄県民の土地を取り上げて米軍基地づくりを行いました。その事件として、1950年代半ばの「土地闘争」という言葉で象徴される米軍用地拡大のための土地取り上げと県民の反対闘争はかなり知られています。しかし実際には、沖縄ではそれよりもっと前に、1945年の「沖縄戦」のすぐあと、米軍による大規模な軍用地取り上げが強行されていたのです。
 沖縄での米軍の土地取り上げの歴史をふり返ると、2つのヤマ場があります。
 1回目は1945年の「沖縄戦」直後で、米軍は、沖縄本島では十数ヵ所の収容所に住民を長期にわたり閉じ込め、その間に自分たちに必要な土地を、土地所有者にさえ知らせず勝手放題に取り上げたという、きわめて重大な事件でした。この第1次土地強奪によって、総面積170〜180平方キロメートルの土地が、一方的に米軍用地にされました。
 私が入手した沖縄駐留米陸軍の内部文書は、このときの土地強奪を、「沖縄侵攻後すぐ『征服の権利(ライト・オブ・コンクエスト)』によって必要な用地を手に入れた」と、平然と明記しています。「征服の権利」は古典的植民地主義の衰退とともに、死語になった言葉です。
 2回目の土地強奪は1953年以降のものですが、土地取り上げ総面積は、第1次をやや下回るものの、ほぼ同規模でした。とくに目をひいたのは、「核兵器は通常弾薬と同じように使える」という当時のアイゼンハワー政権の新戦略に沿って、沖縄に核兵器基地を構築することが一つの重点目標になったことでした。
 その一例として、米軍は、沖縄本島北部の離島、伊江島(いえじま)の米軍補助飛行場を拡張し、嘉手納基地その他の米航空基地から飛来する軍用機のための射爆場建設を強行。1955年3月、核爆弾投下の演習場をつくることを目的に、従来の接収区域を拡大するため、土地強制徴収を強行しました。
 立ち退き命令に応じなかった13戸に対し、米軍は民家にブルドーザーを突入させたり、家屋に放火するなどして、住民の住む場所まで乱暴に破壊しました。
 その十数年後になりますが、沖縄復帰前年の1971年、伊江島射爆場の内外で日本共産党国会議員団は調査を行いました。その結果、2種類の模擬弾が頻繁に米軍機から投下されていたことがわかりました。
 模擬弾の名称を手がかりに、元航空自衛隊幹部で航空雑誌の編集長をしておられた青木日出雄氏に調べてもらったところ、2種類のどちらも、米空軍の戦術核爆弾と同寸・同型・同重量の核爆弾の模擬弾と判明し、核基地の実態の一端が解明されました。
 当時、スウェーデンや米英などの専門的な軍事年鑑類にも、米軍の戦術核爆弾についての情報は記載されていなかったので、私たちの調査結果は米空軍の戦術核爆弾に関する初めての究明になったようです。

〈米軍基地沖縄の核兵器基地化の年譜をふり返る〉
 沖縄の米軍占領下で、不屈に祖国復帰をかかげ米国の軍事占領支配撤廃のためにたたかい抜いた瀬長亀次郎氏(沖縄人民党委員長。のち衆院議員・日本共産党副委員長)は、「強権支配、弾圧あるところ必ず人民の抵抗あり――これは歴史の法則である」とよく口にしましたが、それに深く教えられたものです。
 その瀬長氏自身、奄美諸島の日本「返還」直後、奄美出身の活動家をかくまったというでっち上げで米軍に不当逮捕され、米軍の軍事裁判で2年の懲役を言い渡されました。
 その瀬長さんが1956年の長崎での第2回原水爆禁止世界大会の全体会議で、3000人の参加者を前に、核兵器基地沖縄を告発された情景が、いまも頭に焼き付いています。瀬長さんが、「太平洋の一大強制収容所にされている沖縄で、80万県民が受けた苦しみと屈辱を報告します」と口火を切ると、参加者の目と耳が一点に集中しました。だれもが、「原水爆基地沖縄」という瀬長さんの痛烈な告発とその重みに、衝撃を受け、ハッとさせられたのです。
 私は、翌日の分科会でふたたび瀬長さんの発言を取材したあと、瀬長さんにマイクを向けてインタビューしました。
 きびしいたたかいを続けているはずの瀬長さんの優しい人柄が、印象的でした。その日は瀬長さんが米軍の軍事法廷によって送り込まれた牢獄から釈放されてちょうど4ヵ月後だったそうですが、それからさらに4ヵ月後には、瀬長さんにとって別の試練が待っていました。同年12月の那覇市長選挙で瀬長さんが当選し、アメリカ軍のさまざまの妨害にもかかわらず、市民と密着し民主的市政を行っていましたが、米軍が勝手に布令を改悪して瀬長市長を追放したからです。
 瀬長市長への米軍の妨害は、実に手の込んだものでした。那覇市政を抑えつけるため、市への融資の全面停止、市銀行預金の凍結など、軍事占領当局ならではのわるがしこい手法で干渉し弾圧しました。
 那覇市民は米軍に抵抗し、金融封鎖下の市財政を守ろうと、自主的に納税運動を始めました。瀬長さんは、お金を借りてでも税金を納めなければという市民の行列が、市役所や首里支所の建物まで五百メートルほどつづいた。この光景は、いま振り返っても感動的だ≠ニ、回想録に書きつづっています。
 当時の沖縄米軍基地の核兵器態勢で目立ったのは、米空軍でした。
 1950年に始まった朝鮮戦争の勃発後すぐ、核兵器使用態勢の一環として、嘉手納基地では長崎型原爆をやや大きくした原爆をB29爆撃機に積載する装置がつくられました。5トンの重さの原爆を、爆撃機に積載するためです。朝鮮への核爆弾投下機の出撃が計画されていたことを示しています。その翌年の51年秋には、嘉手納基地から核爆弾の模擬弾を積んだB29爆撃機が、朝鮮上空で核爆弾投下の実戦さながらの演習飛行を繰り返しました。
 1954年には、嘉手納基地北側に大規模な弾薬庫群がつくられ、核兵器を管理する部隊が、米ニューメキシコ州カートランド基地から派遣されてきました。
 このほか陸軍、海兵隊の基地にも、各種の核兵器が運び入れられました。
 こうした核兵器基地群の中でとくに注目されたのが、1960年代初めに、沖縄本島の4ヵ所(読谷、勝連、金武、恩納)に据え付けられた、射程2200キロメートル超の中距離核ミサイル「メースB」の発射基地でした。
 これには一連の地方自治体が相次いで反対決議を行いました。
 その状況のもとで、来日したラスク国務長官を迎えて箱根で会談した小坂善太郎外相は、「メースB」問題を取り上げて、こう発言しました。
 「(米側が)事前に〔核ミサイル設置について〕一々発表するので問題が起きている。事前発表しないことは、できないか」と言ったのです(日本外務省解禁文書による)。相手を驚かせたのは、言うまでもありません。
 米側が帰国後、その会談について作成した内部文書によると、ラスク国務長官の一行は、「『ナッシング・セッド・ザ・ベター』(何も言わぬが花)と日本で言われたゾ」と、しばらくは国務省内で流行り言葉になったと言います。
 わが国政府代表のなんたる卑屈さか。核兵器の残忍さへの批判も、恐れさえも、ないかのごとく…。
 対米追随の極致、というべきでしょう。

 ◆キノコ雲の下の惨状を覆い隠す米軍の弾圧に抗した沖縄

 全国的に、広島・長崎の原爆投下の惨状や被爆者の方々の苦しみ、さらには原爆禁止の主張などは、日本にやってきた米占領軍のプレス・コード(字義通りの意味は「新聞・雑誌等の行動基準」)によって厳重に規制されました。
 そのプレス・コードが解除された直後、サンフランシスコ条約の発効からまもない1952年8月6日号の『アサヒグラフ』が、飯沢匡(ただす)編集長の決断で、占領中に掲載が禁止されていた広島と長崎の被爆写真を集め、わが国の全国的写真誌として初めての「原爆写真」特集号を発行して大きな反響を呼びました。私も福岡で学生時代に、発売直後の同誌を買い求めたものです。
 そして同誌冒頭の飯沢氏執筆の「編集意図」を、何度も読みました。
 「果して何人の日本人が、原爆の残虐の真実を知っているであろうか。大部分の日本人は抽象的な記述と巨大な茸型の雲の写真などによってのみ、その残虐さの片鱗を知るだけであった。これは偏えに占領期間中、あらゆる被害の残虐さを伝える報道と写真が厳重に検閲され、公表を禁じられていたからに他ならぬ」と、飯沢氏は書いていました。
 続けて――
 「ここに、広島、長崎両市の写真を特集するのは…歴史が、それを命ずるのである」
 「すくなくとも将来の戦争を口にするほどの人は、この特集に見る無残な姿と同じ――いや、それ以上のものが、やがて、我々自身の上にも生起せぬとも限らぬ、その心構えだけは、忘れて貰いたくないのである」
 と述べていました。
 私は、その『アサヒグラフ』を長く手許に置いていましたが、ある時、沖縄の友人から、その『アサヒグラフ』の写真特集を使って那覇市内で街頭原爆写真展≠行った琉球大学の学生たちが退学させられた、米国の圧力によるものだった、という話を聞いて、その古いグラフ雑誌をいまさらながら沖縄に送ったものでした。
 私は、沖縄の青年たちが街頭で行った原爆写真展を、立派だと思い、「しんぶん赤旗」のコラムにそれについて書きました。もう15年前の2002年のことでした。
 とても腹が立ちました。ちょうど、ブッシュ米政権による新たな核使用計画が、一部は隠しながらも、重要な部分が世の中に出回り始めた頃でしたから。
 「今年の原爆投下の日を、私たちはいつもの年と違う座標軸のもとで迎えようとしている。炎天下で続けられる平和行進も、原水爆禁止世界大会に向けた各地の準備も、その思いに貫かれている。核兵器使用計画への怒りに震える叫びを耳にする毎日だ。
 今年は原爆をめぐる言論統制の歴史にとっても節目の年だ。原爆の報道・出版を禁圧した米軍の全面占領が(本土で)終わって五十年。一九五二年八月のアサヒグラフ原爆特集号は、国民に衝撃を与えた。今それを読み直している。広島と長崎の被爆写真二十七枚を組み合わせ、わが国最初の原爆写真集となった」。
 そして、私は考えました。
 核出撃基地を建設するために、アメリカ軍が沖縄県民に対して加えた生活破壊行為は、土地強奪だけではなかったのだ。核兵器について自由に論じたり、広島や長崎への原爆投下の実相を人々に伝える活動さえも、彼らはきびしく禁圧したのだ、と。
 その代表的事件が、琉球大学学生4人による那覇市内の街頭での原爆写真展の開催だった、と…。
 彼らは大学寮でサークルをつくっていましたが、『アサヒグラフ』を入手し、広く市民に知らせることを思い立ち、戸板に同特集号の写真を切り貼りして、「再び原爆の悲劇を繰り返すな」と大書。国際通りや与儀の市場など、那覇市内16ヵ所の目抜きの街頭で原爆展を開いたのでした。
 4学生の1人であった上原清治氏は、「どこでも20〜30人かそれ以上の人々が集まって熱心に見てくれた。とくに女性が泣きながら見ていたのが、印象に残っている。ほとんどの人々が初めて、原爆投下の悲惨をまのあたりにした…。沖縄戦のことや広島、長崎のことを考えると、平和を叫ばなければ平和は守れないと訴えたかった」と回想していました。
 ところが、当時、米民政府の直接管理下にあった同大学当局は、4人の学生が原爆展の「無許可」開催をはじめ、サークル(政経クラブ)新聞を無許可で発行したこと、米軍が強制する灯火管制のさい、灯をともしたことを理由に、退学処分を命じたのです。
 米占領軍は、核兵器問題をめぐる世論を極度に恐れていました。核兵器使用反対の声が広がり、広島、長崎の被爆の実相を人々が知ることは、核出撃基地を沖縄に持ち続けることと相容れないと、彼らは考えたのです。米軍は核兵器をとりわけ重視したがゆえに、沖縄で言論弾圧を加えたのです。
 その2年後の1955年8月5日、広島での第1回原水爆禁止世界大会開催の前日、琉球立法院(いまの県議会に相当)は「原子力兵器使用禁止決議」を採択し、国連や日本政府への発送を決めました。
 しかし、当時、沖縄県民に君臨していたレムニッツァ民政長官は、琉球政府主席あてに書簡を送り、同決議は立法院の権限外であると述べ、国連などへの送付を拒否したのでした。


【第2回】
■米国は沖縄に持ち込んだどんな核兵器をベトナムで使おうとしたか■

 ベトナム戦争中、米国は沖縄に持ち込んだどんな核兵器をベトナムで使おうとしたのでしょうか。その全貌は明らかではありませんが、これまで判明した米解禁文書をもとに、この問題への接近を試みてみようと思います。

 ◆ベトナム戦争はいつ始まったか

 本論に入る前に、核兵器使用のくわだての時期等と関係しますので、いったいベトナム戦争はいつ始まったとみたらよいかという問題にふれておきましょう。
 ベトナム戦争の始まりの時期なら、多分、1964年から翌65年の頃という見方が多いのではないでしょうか。1964年は、ジョンソン米政権がでっち上げた「トンキン湾事件」を口実に、米軍機が北ベトナム爆撃を開始した年でした。65年は、沖縄の第3海兵師団をはじめ一連の米陸戦部隊が大挙、南ベトナムに上陸し、ベトナムでの本格的戦闘を始めた年でした。ですから、その当時をベトナム戦争開始の時期とする見方には根拠があります。
 しかしその一方で、実はもっと前から米国がベトナムなどインドシナ全体に対して行っていた一連の重大な軍事干渉や侵略戦争はどうなるのか、それを見失うことになりかねないという問題点も伴っているようです。

 ▽ベトナム・インドシナへの米国の干渉と戦争の全体像から戦争の実相に迫る
 なにしろ宣戦布告抜きの戦争ですから、実態で見るしかないのですが、ベトナム戦争を本格的に究明してきた研究者たちがそうしているように、もっと早い時期からのベトナム・インドシナに対する米国の干渉と戦争の歴史の全体を明らかにしながら、この戦争の実相に迫るという追究が必要ではないかと私は思っています。
 ニューヨークに米国最大と言われる古本屋があり、私はそこに行くたびにベトナム戦争関連の膨大な本棚を時間をかけて見たものです。そこで手に入れた『ベトナム戦争辞典』とか『ベトナム戦争百科事典』などの類の書籍も、ベトナム戦争の歴史にページを割いています。記述の中では、第2次大戦後フランスが始めたベトナム植民地復活戦争のことにふれながら、やがてそれにとって代わった米国の軍事介入の開始の時期を究明し、1950年代のある時期にしぼるなど、米国のベトナム軍事介入のそもそもの始まりの時期を気にした記述が目立ちます。
 もともと「ベトナム独立同盟」(ベトミン)というかつてのベトナムの民族解放運動の組織は、ホー・チミンによって指導されフランスの植民地支配からの解放をめざす運動体でしたが、日本軍の占領下でもたたかい続け、1945年夏には各地で蜂起し、同年9月2日、ハノイで数万人の参加のもとに「ベトナム民主共和国」発足の一大式典を開催しました。この時、ホー・チミン主席が独立宣言を行い、ベトナム植民地解放の最初の勝利を刻んだことはよく知られています。
 しかし植民地を復活させようとしたフランスは、新生の民主共和国に対して同月23日、一方的に攻撃を開始。さらに翌46年12月19日にはハイフォンの民間地区に砲爆撃を加えて6000人以上の民衆を殺害。以後、ベトナム全土であくどい侵略戦争をくり広げました。

 ▽1950年代から米国が南ベトナム全土で解放運動鎮圧作戦
 トルーマン米政権は1950年以降、フランスの植民地復活戦争に莫大な戦費を提供し、沖縄をはじめ日本各地の米軍基地から弾薬、兵器、軍用機などを相次いで投入。ディエンビエンフー仏軍陣地の陥落を阻止するためとして、フランスに核兵器使用計画まで提案したのでした。
 フランスの植民地復活戦争への米国の支援は、ディエンビエンフー陣地陥落前年の53年頃さらに本格化し、戦費総額の8割を支出。フランス軍協力を名目とした米「軍事顧問団」は戦争指導も行いましたが、50年代半ばにフランス軍が総撤退すると、米軍独自に南ベトナム全土で解放運動鎮圧の大作戦を展開したのです。
 当時、米国防総省中枢部で働いていたダニエル・エルズバーグは、米国によるベトナムへの軍事干渉の実相を知るに至り、1970年代初め、米国のベトナム侵略の赤裸々な全経過を告発しようと、7000ページに及ぶ米国防総省のベトナム戦争機密報告「ペンタゴン・ペーパーズ」を米紙「ニューヨーク・タイムズ」等に提供し暴露しました。
 そのエルズバーグは、ペンタゴン・ペーパーズをもとに自らの研究も重ねて、ベトナム戦争の時間的区分≠ノついて次のように述べています。
 「〔ベトナム・インドシナ戦争で専門家が指摘しているような〕第一次や第二次、または第三次インドシナ戦争というようなものはなかった。それはただひとつの戦争であり、それが四半世紀もつづいた。実際上、それはほとんどはじめからアメリカの戦争だった」(『ベトナム戦争報告』筑摩書房)。
 エルズバーグの分析には、フランスによるベトナム植民地復活戦争に対しトルーマン米政権が1950年以来、膨大な戦費を投入して、軍用機、弾薬、さらに米国の各種軍事要員まで相次いでフランスのベトナム植民地復活戦争に提供し、事実上、自ら参戦したに等しい時期のすべてが含まれているのでしょう。

 ▽ディエンビエンフー仏軍陣地陥落後、米国の露骨な軍事干渉
 その歴史的経過のなかで、とくにアメリカの軍事的関与が一段と露骨になったのが、1953年頃でした。しかし、ベトナム北部山岳地帯のディエンビエンフー仏軍陣地は翌54年5月、ベトミン軍の攻勢の前についに陥落。その直後に始まったベトナム・インドシナ問題のジュネーブ会議には、英仏ソ中とベトナムなどインドシナ諸国が加わった一方、米国は代表を送りながらも決議にいっさい不参加。会議はベトナムなどインドシナにおけるすべての軍事交戦の停止を決定し、さらに2年以内にベトナム全土での普通選挙で統一ベトナムの政治体制実現をめざすという一連の重要な取り決めを行ったのに、米国だけはそれらすべてに背を向け、その実施をことごとく妨害しました。
 日本女子大学教授の白井洋子氏は、ジュネーブ協定に対抗した米国のきな臭いやり方の核心にあった発想を、次のように端的に指摘しています(著書『ベトナム戦争のアメリカ・もう一つのアメリカ史』、刀水書房)。
 ジュネーブ協定成立直後の1954年8月、「アメリカの国家安全保障会議はこの協定を、『東南アジアを失うことになりかねない。共産主義の大きな前進を完成させた、災害である』と結論づけた」。

 ▽アイゼンハワー政権――アジアにおける作戦で核兵器使用の自由≠強調
 アイゼンハワー政権のジュネーブ協定に関する決定は、翌9月のマニラにおけるベトナム・インドシナ干渉を狙った反共軍事同盟SEATO(東南アジア防衛条約)の実際上の指針となりました。注目されるのは、同政権がこの時、今後の東南アジアなどアジアでの作戦で核兵器使用の自由≠強調する秘密決定も行っていたことです。
 同年8月20日の国家安全保障会議決定5429が、それです。
 「米国が核兵器を使用する自由に制限は設けない」(出典=米国務省解禁外交文書集FRUS 1952-54 V12 769-774 NSC5429/2)。

 ◆沖縄での第2の土地強奪の背景にあったもの

 「核兵器使用の自由」をアイゼンハワー政権の最高機関で決めていたという事実は、沖縄の核兵器基地の問題をふり返る上でも、たいへん重要な意味を持っています。

 ▽沖縄で貫かれた米国の最高機関決定
 前回(5月15日号)でとりあげた、沖縄での2回目の土地強奪を推進するため、米下院軍事委員会のプライス調査団が1955年秋、沖縄を訪れました。同調査団は、沖縄入りする前に、東京の米極東軍司令部で嘉手納基地のヒップス米空軍第313師団司令官らから、沖縄で軍用地拡大があらためて必要になっている理由を密室で聞きました。
 その時、ヒップス司令官は、「沖縄では、核兵器を貯蔵したり、ここから核兵器を使用する我々の権利に対して、いかなる外国もどのような制限も加えない」と強調しました。その前年の米国家安全保障会議による「核兵器使用の自由に制限を設けない」というあの極秘決定を、米国の軍事的植民地支配下の沖縄で実行に移すべき問題として平然と言い放ったのです。

 ▽米軍が沖縄に持ち込んだ核兵器の種類の多さは世界でトップだった
 いまから20年近く前、米解禁文書の収集・分析・閲覧サービスを行ってきたワシントンの「ナショナル・セキュリティ・アーカイブ」が、いったい米国は世界のどこに、どんな種類の核兵器を持ち込んできたかを記した米政府解禁文書を入手し、公表しました。1978年に米国防総省が作成した秘密文書のかなりの部分を、墨塗りで消した上、ようやく解禁したものでした。
 どこに核兵器を持ち込んだかという国または地域別の一覧表からなっており、配備した核兵器の数は記されていませんが、持ち込んだ核兵器のリストが付けられていて、最初の配備時期も記されていました。
 その一覧表を見ると、沖縄が西ドイツと並んで、持ち込まれた核兵器の種類が世界中で海外米軍基地のトップで、どちらにもなんと19種類ずつの核兵器が持ち込まれていたことが裏づけられていました。
 その中には、核地雷や、水中で使う核爆雷から始まって、8インチ榴弾砲や地対地核ミサイルのオネスト・ジョン、3人か4人で操作して核砲弾を発射するとされた小型無反動核発射装置デービー・クロケットなどが、爆撃機などから投下する核爆弾などと混じって記されていたのです。

 ◆沖縄の核兵器はベトナム戦争でどう動いたか

 では沖縄に持ち込まれた核兵器は、ベトナム戦争でどんな動きを示したのでしょうか。
 その生々しい動きには、依然としてベールがかかっていますが、南ベトナムに派兵された米軍が、核兵器使用の担当者をしばしば沖縄に一時派遣し、あの戦争中に沖縄で核使用準備の訓練などを行っていた事例が、米軍文書や証言から明るみに出ています。
 その一つの例に、沖縄の核地雷があります。核地雷はごく小さな核兵器とされており、橋梁や建築物の破壊を目的とした陸戦用に使用するのが目的だということです。

 ▽沖縄の米海兵隊基地内で核地雷放射能漏れ事故が発生
 沖縄に核地雷が持ち込まれていた事実は、ナショナル・セキュリティ・アーカイブが入手した核兵器リストからすでに判明していましたが、1980年代初め、米ミシガン州アナーバー在住の元米海兵隊員が、沖縄で実物の核地雷を使ってテスト中に、放射能漏れ事故に遭遇し被曝したことが、ミシガンの地元紙で報じられたのがきっかけで、日本でも知られることになりました。その被害者で米ミシガン州在住のトーマス・デレルエレ氏とのインタビューは、1980年代前半に「しんぶん赤旗」が報道。その後2011年になってから長崎放送の特別番組で放映されました。
 「しんぶん赤旗」の堀江則雄氏の取材によると、デレルエレ氏は、ベトナム戦争時、沖縄のキャンプ・ヘーグに核兵器が貯蔵されていたことを明らかにしながら、1967年11月、ベトナム戦争のテト攻勢を前にして、南ベトナムのケサン基地から沖縄の米海兵隊基地キャンプ・ヘーグに派遣されたと述べ、核地雷使用の演習で現物を使った訓練中に、核兵器事故が起き、強い放射能によって被曝したことを明らかにしました。
 一方、長崎放送NBCテレビの関口達夫氏は、2011年にデレルエレ氏にミシガン州でインタビューしましたが、核地雷事故発生当時の模様と被曝の状況がさらに詳しく明らかにされました。その関口氏の取材に、デレルエレ氏は核地雷訓練が、CIAが管理していたキャンプ・ヘーグ内の特別施設で行われたと語り、CIAと核兵器使用政策との隠された関係が聴取者を驚かせました。
 私は、沖縄の米海兵隊基地内で起きたこの核地雷事故に注目し、1965年に沖縄から南ベトナムに派兵された第3海兵師団の活動を詳しく知るため、南ベトナムにおける同師団の「月報」の数年間分を米国立公文書館から入手しました。
 その中に、南ベトナム派遣中の同師団から、将校や下士官がしばしば「核兵器訓練」のために沖縄に派遣されていた事実を知ることができました。公然と「NUCLEAR WEAPONS TRAINING COURSE」と書かれているものもあれば、「SPECIAL WEAPONS TRAINING」とされたのもありましたが、まさにデレルエレ氏が沖縄のキャンプ・ヘーグで核地雷訓練を受けた当時の核兵器使用訓練がそこに記録されていたのです。

 ▽米海兵隊「8インチ榴弾砲中隊」の記録
 私は、今回この原稿を書くにあたって、いったい1965年に沖縄から南ベトナムに持ち込まれていた別の核兵器、たとえば当時、「原子砲」持ちこみとして国際的に大きな問題にされた8インチ榴弾砲の場合はどうだったのかを、初めて調べてみました。
 その結果、米テキサス工科大学ベトナム・センターが収蔵しているベトナム戦争中の米海兵隊内部文書から、沖縄から南ベトナムのチュライ基地に派遣されていた第3海兵師団所属の「8インチ榴弾砲中隊」の報告書が入手でき、その中の1967年6月1日付作成報告書その他に、先ほどの核地雷の場合と同様、「SPECIAL WEAPONS TRAINING(特殊兵器訓練)のため、将校1名と下士官2名が沖縄に派遣された」などという記述があるのを知りました。
 先ほどふれた核地雷のための沖縄での訓練も、時には「核兵器訓練」と明記し、また別の時には「特殊兵器訓練」と記載していましたから、両方とも核兵器の使用訓練であることは明らかです。
 ともかくベトナム戦争中のさなか、南ベトナムの戦場から沖縄に派遣され、いつでも原子砲を使えるようにするための準備が行われていた事実は重大です。
 沖縄の基地問題を長らく追跡してきた現地の友人によると、当時、米海兵隊が8インチ原子砲の基地にしていたのも、核地雷と同じキャンプ・ヘーグでした。
 そう言えば、実は同基地周辺で1968年に放射能漏れによるのではないかという疑惑が住民の間に広がった事件がありました。キャンプ・ヘーグ基地から近い具志川市(当時)などの天願川沿い水田地帯で、10本足の奇怪なカエル多数が相次いで発見されたのです。当時、この問題を追及した新聞「人民」は、その周辺2ヵ所に核弾薬貯蔵所があることと関係があるようだと住民が問題にしていたことを報じていました(沖縄人民党機関紙「人民」1968年8月3日付)。しかも、その事件は、のちに判明した核地雷の放射能漏れ事故からおよそ半年ほどあとのことだったのです。
 沖縄県民に深刻な危険をもたらす状況が現に存在していたことを頭から無視し、あらゆる意味で危険この上もない核兵器使用戦略を、すべてに優先させた米軍の無神経きわまるやり方をあらためて見せつけられます。
 それと現在の沖縄への核兵器再持ちこみの驚くべき盟約とが本質的につながっていることに注目せざるをえません。