だれのお墓?
斑鳩町界隈の有名なお墓にスポットをあてました。
目次
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第6回 中井孫太夫正吉(まさよし)
斑鳩町極楽寺墓地には古いお墓が点在します。 中にはかなり古いものもあります。
その中の一つ、中井家墓所に眠る中井孫太夫正吉(1533〜1609)。 父・巨勢正範は武士でしたが、天文7年(1533室町後期)筒井順昭との戦いで敗死。母(正範の妻)は正吉6歳と正利2歳を連れて自分の遠縁を頼り、法隆寺西里村の大工で法隆寺番匠座四家(多門(おかど)・金剛・辻・中村)の内の中村伊太夫のもとに身を寄せました。
そして住まいの中に井戸を掘ったところ、清水が湧いて、人々はその井戸を[中井]と呼んだので、落人としてはばかる[巨勢]を[中井]に改姓したと家譜は伝えています。
正吉(法名は浄慶)は中村伊太夫について工匠の術を学び、法隆寺大工棟梁の筆頭格と成り、豊臣秀吉の大阪城築城(天象11年・1583)や京都方光寺(天象16年・1588)の建立にも参加しています。
慶長8年(1603)、斑鳩町龍田の由緒ある古寺・三縁寺を再建し浄慶寺と名付けました。 1609年7月、正吉は77歳の生涯を終え、龍田の浄慶寺に葬られました。
極楽寺の中井家墓所は、正吉を始めとする石碑7基が現存します。
第5回 平子鐸嶺(ひらこたくれい)
前回紹介したウォーナー塔のとなりに並ぶ供養塔があります。平子鐸嶺(ひらこたくれい)。 地元の人でもあまりその名に馴染みがないようです。 法隆寺と一体どんな関係がある人物なのでしょうか?
鐸嶺は、法隆寺非再建論を唱えた美術史家として知られています。本名尚(ひさし)、津市片浜町に、父、尚次郎の長男として明治10年(1877)生まれました。
東京美術学校の日本画科・西洋画科の両方を卒業していますが、絵の方はあまり才能に恵まれなかったようです。
西洋画科を出た明治34年(1901)25歳の時、「大和法隆寺再建設につきての疑」という論文を発表しました。『日本書紀』には天智9年(670)庚午の年に火災とありますが、金堂の仏像・台座・天蓋にその痕跡がないことなどを理由に非再建論を唱えました。以後鐸嶺の説が口火となり、いわゆる法隆寺論争、再建・非再建をめぐって学界の長期且つ大きな論争となります。
鐸嶺はその後、東京帝室博物館兼内務省嘱託(明治36)、内務省古社寺保存委員(明治43)となり古美術研究に従事しました。考古学・仏典の研究にも手を伸ばし、中国竜門にも渡っています。
ところが、明治37年5月喀血からそれが死に至る病となり、明治44年(1911)5月10日鎌倉でわずかに35歳という若さで歿しました。独身のままでした。(「津市政だより」より)
やはり法隆寺と関わりのある人でした。 法隆寺は色んな学者・宮大工・信者と様々な人々に支えられてきました。 鐸嶺のお墓は津市浄安寺にあります。墓は本堂に面した西の一隅にあり、表に平子尚之墓、裏に歿年月日、「鎌倉ニテ死ス、年三十五、尚次郎長男」とあります。
第4回 ウォーナー塔
法隆寺の西門から外に出てすぐに西側の塀に沿って北へと向かうと、静かな松林の中にウォーナー塔があります。これはランドン・ウォーナー(Langdon Warner,1881-1955)博士の供養塔です。
彼は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ケンブリッジで生まれ、ハーバード大学を卒業しました。
1907年(明治40年)に美術館の研修候補生として初めて来日し、岡倉天心のもとで横山大観などと共に2年間日本美術を学びました。国宝帖英文版の制作にも参加しました。この頃に法隆寺の佐伯定胤の知遇を得たとのことです。
その後、ボストン美術館、クリーブランド美術館を経てフィラデルフィア美術館長となりました。
1923年から母校のハーバード大学の教壇に立ち、のちにハーバード大学附属フォッグ美術館の東洋部長に就任しました。
1931年の二度目の来日では奈良で仏教彫刻などを学んでいます。
1945(昭和20)年3月、アメリカは長距離重爆撃機B29による無差別爆撃を東京大空襲より開始し、日本の主要都市すべてが激しい爆撃にあい、多くの一般庶民の生命と文化財が消滅し、さらに広島と長崎は原子爆弾の投下による最悪の破壊を受けました。
後になって、ウォーナーが“戦争地域における美術および歴史遺跡の保護救済に関する委員会”を通して、この時米国が京都奈良鎌倉、及び中尊寺を空爆の対象から外すよう要請したのだといわれました。この要請のおかげで法隆寺など奈良の寺は戦火から逃れることができたそうです。ウォーナーの妻ロレールが当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの姪であったことも、何らかの影響を及ぼしたのかもしれません。
ただ、ウォーナー博士自身は、戦後「私は権限を持っていたわけではないし、私のおかげで文化財が災難を逃れたといわれるほどのことはしていない」と語っており、実際は京都にも空襲がありました。
しかし、重要な文化財のある場所について爆撃の順番が後になったのは間違いないようです。軍に提出した博士のリストには京都、奈良、鎌倉、中尊寺や福島県の常勝寺がありました。こうした事情から法隆寺も戦火を免れることができ、法隆寺は1955年6月9日にウォーナーが亡くなると供養塔を建てたのではないかと思われます。
第3回 調子丸古墳
前回紹介した駒塚とペアのように近くに位置する調子丸古墳。やはり関係がありました。
■所在:斑鳩町東福寺、駒塚古墳の南側約100mの田園の中に位置します。
■墳形:円墳規模:直径14〜15m程度
■被葬者:聖徳太子の舎人(とねり)で「黒駒」の世話をしていた「調子麿」の墓と伝えられている。しかし、考古学的知見は、この伝承を否定している。調子丸古墳は4〜5世紀ごろの築造とされるが、調子麿は、一説には百済からの渡来人であるとも言われ、長命だったらしく、聖徳太子が死亡した後も天智朝まで長生きし、晩年には出家したと伝えられる。
彼は晩年になって聖徳太子の思い出を記録として残した。「調使家記」と呼ばれるもので、その一部が『日本書紀』や『上宮聖徳太子伝補闕記』などの中に受け継がれていると推測されている。
つまり7世紀後半まで存命であったことになり、古墳築造期との大きなズレがあります。
■築造時期:4〜5世紀頃
■遺物:平成12年度の発掘調査で、斑鳩町教育委員会は調子丸古墳の北側約5mの所から土馬の頭部を発見した。粘土を焼いて作ったもので、表面が淡い橙褐色をしている。非常に精巧なつくりで、馬具やたてがみをリアルに表現した飾り馬である。現物の長さ、高さともに10cmほどだが、たてがみや手綱、鼻先まで写実的で復元すれば全長は30cmはあっただろうと推測されている。土馬は雨乞いや疫病よけに使われたとされ、7世紀後半ごろのものが平城京など都の溝跡では度々見つかるが、古墳で発掘されることは珍しいとのことである。斑鳩町教委は聖徳太子伝説にかかわる「興味ある出土」としている。
法隆寺の「馬屋」の脇には「聖徳太子黒駒調子丸」と書かれた標示板が掛けられており、正面格子戸の隙間から中を見ると、馬と手綱を引く侍者調子丸の像が安置されています。子供の頃法隆寺へ散歩に行くと必ず格子に足をかけて背伸びをし中を必死で覗いていたのを思い出します。勿論その頃はだれの像かも分からず、聖徳太子が馬を牽いていると思い込んでいましたが・・・。
第2回 駒塚古墳
国道25号線沿いの駒塚古墳。古墳名は聖徳太子の愛馬である「黒駒」を葬ったとの伝承に由来するそうですが、何故だかその直ぐ南側にある調子丸古墳とセットのようなイメージがあります。
また、斑鳩には、駒塚を含む3基の前方後円墳(瓦塚1号・2号墳)が点在しますが、これらがほぼ南北に一直線に営まれているそうです。これら3基は関連性をもって築造されたのでしょうか?
■所在:奈良県生駒郡斑鳩町東福寺、国道25号線沿い南側
■墳形:前方部を南に向けた前方後円墳。墳丘の段築は後円部、前方部共に2段築成になっていたと思われるが、後円部が3段築成だった可能性もある。
■全長:約49mですが、前方部が削られていることから本来の全長は明らかでない。後円部直径は約34m、高さは約5.5m、前方部高さ約2m、くびれ幅(推定)は14.5m。
■築造時期:古墳時代前期4世紀後半ごろ
■被葬者:一般的には聖徳太子の愛馬「黒駒」と伝えられている。しかし『聖徳太子伝暦』などの太子伝によると、598年(推古6)年に聖徳太子は諸国に善馬を求めた。黒駒は、献上された馬の中から選び出された甲斐の名馬だった。聖徳太子が死去したとき棺に寄り添い、皇子が墓に葬られるとともに息絶えたという。 したがって、築造時期を考慮すると、黒駒のために作られた可能性は無くなった。聖徳太子の一族である上宮王家がこの地に移って来る前に、この一帯を治めていた平群氏の誰かが被葬者であろう、と推測する考古学者もいる。しかし、斑鳩町教育委員会は、「先に存在した古墳に黒駒を葬った可能性は残る」としている。
橘寺にも黒駒の像がありますが、黒駒って確か法隆寺境内の馬屋に馬の像が祀られていて、子供の頃お寺へ散歩に行くと必ず正面格子戸の隙間から必死で中を覗き見ていたのを覚えています。この馬にはいわれがあり、信濃の国の井上の牧場にいた四足が白い牝馬に、天から龍が降りてきて妊娠させた馬で、成長して浅間山から富士山まで飛び駆けていたのを、甲斐の国司秦河勝が見つけ聖徳太子に献上したもので神力自在を極めた勝れた駿馬であったとか。
太子がこの馬に乗ると馬はたちまちに雲に浮かび東方に走ったといいます。三日後に帰った太子は、「この馬に乗って雲を踏み、霧をはらって直ちに富士山上に至り、さらに信濃へも向かった。飛ぶことは雷雲のようで、まことに神馬である」と臣下に告げました。杉之御坊萬福寺の駒塚は、太子がその折、休息されたという伝説があります。
■遺物:埴輪と土師器の破片など出土。埴輪は非常に少ないことから墳頂部など一部だけに使用されていたと考えらる。土師器には二重口縁壷と呼ばれるお祭用の壷がある。また、後円部の頂上には江戸時代頃の宝キョ院塔が建てられており、この古墳が一時期信仰の対象になっていたと思われる。
やっぱり古墳って謎だらけ。結局判らない事の方が多いようです。その分余計に想像を掻き立てられるのですが・・・。きっと調子丸古墳とも関連はありそうです。それはまたの機会に。
第1回 仏塚(ほとけづか)古墳
法隆寺の東大門から北へ行くと右手に当社、左手に天満池があります。
その天満池と当社の間の道をさらに北へ600mほど進むと、田圃の中に、仏塚古墳の茂みが目に入ります。
この古墳、1976年(昭和51年12月)に発掘調査が実施されたのですが、当時、大変話題になりました。
それはこの古墳が通常と違う少し変わった点があったからです。
それは、六世紀後半の古墳築造当時の遺物に混じって中世の仏具などが出土したからです。
つまり、後に誰かがこの古墳に仏像を入れたということでしょうか?
今回は、この仏塚古墳を紹介します。
■場所: 斑鳩町大字法隆寺字平尾
■築造時期:古墳時代後期(6世紀末頃)。 今から約1400年も前のことです。
■規模:一辺23mの「方墳」で、高さは4.6m。 あまり大きくありません。
■石室:中央南西に開口する花崗岩の自然石を積んだ両袖式の横穴式石室。 全長9.36メートル、玄室の長さ3.86メートル、奥壁の高さ2.65メートルの規模。 花崗岩の天井石は4枚で南半分と側壁の一部がなくなっていた。床は全面に石があり、下の排水溝は玄室内では奥壁と両側壁にそうように環状にめぐらし、玄門部にて合い、羨道部へ流れるようになっていた。
■被葬者:巨石を使った石室、須恵器の形式などから、被葬者は聖徳太子の妃、菩岐岐美郎女(ほききみのいらづめ)を出した膳(かしわで)氏の可能性が強いという。 膳氏は北陸地方の有力豪族で、大和に進出した後、この斑鳩に居をかまえ膳臣斑鳩を名乗っている。当時の主流の方墳を採用していることも、その勢力を現しており、考えられる話である。やはり法隆寺に関わりのある偉い人でした。
■遺物:さて問題の遺物は3期に分けられます。
(1)6世紀末築造当時のもの
土師質亀甲形の陶棺片が2,3棺分あった。陶棺多葬は珍しい。ほかに馬具、金環、刀子、土師器、須恵器の坏蓋、高坏、壷、器台など。
(2)飛鳥、平安時代のもの
土師器の椀、壷、須恵器の坏、三彩土器(壷)、灰釉、陶器の皿、土馬など、追葬の遺物と思われる。
(3)中世のもの
11面観音菩薩像の化仏(阿弥陀如来)と考えられる高さ12.5センチの金銅仏。塑像破片、金銅幡、巻物、土師質の花瓶、瓦質の火舎、香炉など。灯明皿が400点もあったことから、中世には仏堂として長期にわたって礼拝の場であったと見られている。 当時「聖ひじり」と呼 ばれる僧が石室を仏堂として再利用していた名残で、このことが古墳名の由来となったと考えられる。 仏堂ってつまりは納骨堂ですよね。
また、調査を担当した河上邦彦氏は、これら仏教関係の遺物に混じって、火葬骨の断片が数個検出されたことから、ある時期、一般の民衆が竹筒などに骨片を入れ、あの世での安穏な生活を願って納めた納骨堂として利用されていた可能性を指摘しています。
ウ〜ン! 古墳のリサイクルとは、やはり珍しいですよね。 現在、石室入り口には鍵がかかっており、入ることはできませんが、柵越しに中の様子が窺えます。 そうそう余談ですが、古墳の手前左手にある大きな石は、この石室を塞いでいたものですが、発掘当時、当社社長と当社のベテラン石工が三椏を使って移動している写真が当時の新聞に掲載されたのを覚えています。 昔の人はこんなに大きい石をどうやって移動し組立てたのでしょうか? 近くまでお越しの際には、ぜひ一度この仏塚古墳に立ち寄ってみませんか? 辺りの環境は最高に素晴らしく、古代に想いをはせるには最高ですよ。
2003年9月3日