住職のつぶやきback number

 


2002年10月30日

●「今日は仕事をよくやった!」と自分を誉めたいときもあるし、そうかというと、「今日は、何もしなかったなぁ…」と反省したり。まぁいろいろあるけれど、どっちにしても大したことじゃない。太陽が、地球上のさまざまな生き物たちに温もりとエネルギーを与えていることにくらべたら、自分の仕事なぞ、取るに足らないことだった。旭川では雪がジャンジャン降っていました。冬は嫌いだあ!だって、風邪ひく機会が増えるんだもの。この大いなる自然の流れに、私はすべてを任せて生きているのでしょうなぁ。

●石原都知事が、排ガスの粉塵問題で、盛んに息巻いてました。でも、トラック運送で生活しているひとは、粉塵問題は大事だけど、物流がとまったらどうすんの?と反論してました。科学技術で安く、取り付けられる排ガス抑制装置が早く望まれます。でも、因速寺は、海風でスモッグが飛ばされて、割合空気のきれいな場強いだそうです。以前、苔を研究しているひとが境内の苔を調査したときに、そういわれたそうです。どうしても、空気の悪い場所は、内陸になってしまうんですよね。やはり練馬区あたりなのでしょうか?以前、ゴミの埋め立て地として有名な、十三号埋め立て地を見学にいきました。そこで係のひとが悲喜こもごもだとおっしゃっていたのを思い出しました。現在、ゴミの量はかなり減っています。これはリサイクルが進んだこともひとつの要因ではありますが、最大の要因は景気の悪さです。バブルの頃はたくさんのゴミが出ていました、と語っていました。一千二百万人の出すゴミは、確かに凄い。ゴミという無駄がないと発展しないのか、モノを大切にすることは、発展を抑制することなのか。どうもおかしな感じです。

●クアラルンプールの日朝国交正常化交渉が終わろうとしています。拉致された5人を北朝鮮へ返さないという方針で望んだ会議でした。返せば二度と帰れないという憶測。北朝鮮は国交を樹立して、欲しいのは経済だけだという批判もあります。どうしても、小生は国交というパイプを作って、そのパイプのなかを経済やら情報やら文化が交流していくのだと思います。そこから、共産主義の問題性も自ら溶解してゆくことでしょう。日本が北朝鮮に対して「対等」という立場ではなく、少し「高所」にたって、大人が子供に対応するような態度が望まれます。どう考えても北朝鮮の発想は、子供の発想です。そこと対等の立場で、「家族を返さなければ交渉しない」なんていうのは、それこそ子供の発想でしょう。それにしても、金成日が拉致を認めたということは大変なことでしょう。子供が親に対して謝ったということです。これは、さまざまな外交的戦略だというひともありますが、やはり評価に値すると思います。国交のパイプができて、北朝鮮市民が徐々に豊になって家庭にテレビが行き渡ってくれば、日本のテレビや韓国のテレビも見れますから、自らの立場を対象化できるチャンスがやってきます。それも甘いというひともあります。経済は軍備拡張につながると。いくら軍備を拡張しても、豊になってくれば戦意喪失につながってゆくと思うのですが、どうでしょうか。いまの自衛隊員が戦意を喪失している(ちょっと言い過ぎですが(^^ゞ)のは、市場経済がある程度作用して、市民全体が中流意識になったからではないでしょうか。「衣食足りて礼節を知る」ともいいます。やはり理念は、衣食には負けてしまいます。頭は胃袋に負けてしまいますよね。

2002年10月28日親鸞聖人のご命日

●今日は湿度が22パーセントだった。法事の後の喉には厳しい季節になってきた。法事で声帯を疲労させた喉に、乾燥はもってのほかである。気がついたときには、イガラッポイ、そして、痛みがやってくる。それで、対策として、365日、小生はフィニッシュコーワを持参している。夜中でも枕元に置いておき、おかしいぞ!と感じだ時には、即座にシュッシュッとやっている。「その場で手当のできるやつ」というツノダ・ヒロのコマーシャルは、「その通り!」と実感している。他の製品も使ってみたのだが、どうも相性がよくなかった。それも、初期のフィニッシュコーワがいい。ハープだとか、ミントだかが入ったのはもうひとつだ。最初は薬臭いという感じが残るが、やがて麻薬のようにはまってしまう。まぁヨードチンキの臭さだから、嫌いな人はだめですけど。お寺の坊さんも使ってるということが、分かると興和製薬から、コマーシャルの依頼が来たりして(^^ゞ

 あの、よく「お坊さんのお経の声はいいですねぇ」と誉められることがある。まぁ悪い気はしないけど、「おいらは、歌手じゃねぇぞ!」という嫌悪も感じる。声のよしあしより、その「意味」について、何か質問ないの?もっと違った反応がほしいなぁと思います。しかし、声は自分の声帯が震えた結果、他人の耳の鼓膜に届くのだから、声も自分のものではありません。そうすると、まぁ、「お経の声がいいなぁ」と感じるのは、感じる人の問題で、小生の関知しないところであります。ごめんなさい。

●365日毎晩お酒を呑んでいる小生は、たまには「休肝日」を作りなさいという家族とマスコミの批判にさらされています。家族には「あんたのためなんだから!」とか「こどもが小さいんだから、体壊したらどうするの?あんたの体は、自分だけの体じゃないんだよ!」と攻められます。それで、家ではまあり飲めません。自然とお酒が進みません。これは、酒飲みなら分かる法則です。家では少し、外では沢山ということです。 でもさあ、結局小生を心配しているようだけど、小生がいなくなったら、自分たちが困るから、そんな偽善の愛を振りまいてるんじゃないのと、揶揄したくなります。結構そういうのあるんですよ。「お前が心配だよ…」というのは、「お前が死んだら、わたしゃどうすりゃいいのよ」という思いの裏返しですからね。

 以前も書きましたが、川越の帯津病院の院長先生は、「休肝日なんか必要ない」とおっしゃっていただき、小生は正々堂々と酒を飲むことができるようになりました。これから、寒くなってくると、熱燗がいいですねぇ鍋でも何でもあいます。「寒いけど、何かいいことありそうな、秋の夕暮れ、ゆうまづめ」 

そんな帯津先生が凄いことを言ってました。「生き抜くという信念と、いつでも死ねるという心を同居させることで自然治癒力が爆発する」と。生き抜くだけじゃダメで、いつでも死ねるという信念がやっぱり大事なんだと感じさせられます。「きちんと向き合う死生観を持っていない医者は、本当の医療者とはいえない」ともいってます。これも凄い。いままで医療世界は、死はタブーでした。しかし、人間、生まれたということが死の一番根本の原因ですから、とうぜん医者は死生観のなかで医療を行わなければならないんですよね。いままで、それがなされてこなかったことが問題ですよね。でも、医者が、本気で死生観を考え出したら、宗教家の出るまくがなくなるかもしれませんね。それもまたよしか。

   

2002年10月27日

●昨日は、高校の同窓会でした。みんなそれなりに、年をとってました。でも、話している間に徐々に高校生の自分に戻っていることを発見しました。これは戦友会でも同じだといいます。生理的年齢を超えるのです。不思議な感覚です。話題は、現在の仕事のこと、家族のこと、健康のこと、いま熱中していることなどに展開しました。キューピーに勤務している友人は、急遽、大阪転勤が決まり出席できませんでした。寝たきりの母の世話をしている友人もいました。少年野球の感得に生き甲斐を見出している友人もいました。そして、盛り上がったのが「健康」に関してでした。これは現代人の共通の関心事のようです。やっぱり健康が一番というのも、その通りでしょう。でも、たぶん年々、体は衰えて病を生むことも確かです。まぁ、それもいいかと、柔らかく受け容れる心の構えも大切だと感じました。あんまり、健康法はこれだ!と自信を持って語られると、冗談じゃないよ(-.-)という感情が湧いてきます。「運動」が大事だ!というのは分かってるんだよ。でも、それができない生活形態なんだよね。残念なことに。そして、この中で誰が最初に死ぬかという話題になりました。まぁ、みんなで相談して妥当な線が出てきました。本人も、おれが二番目ならしかたないか(^^ゞという顔になってました。最初に逝ったやつが、一番幸せかもなぁと思います。見送る悲しみを味わわなくていいんだからなぁと。

●ここのところ続けてお葬式がありました。死んだ人は、生きている人間の遊び道具のような気もしますね。やれ、法名は長いほうがいいとか、初七日は繰り上げてやってしまえとか、塩で清めて、故人の災いがこないようにとか、お経は長いほうがいいんだとか、若い坊さんより、年寄りの坊さんのほうがありがたいとか、これで故人も喜んでいるにちがいありませんとか。法事も葬儀も通夜も、すべて生者のマスターペーションじゃないかという感じをもつことがあります。本当に故人の願い、故人の死の事実をどう受けとめるのかということが抜けてしまいます。人間の思いが届かない世界を仏の世界というのです。それがあたかも分かったかのようにして、天国だとか淨土だとか、ちゃんちゃらおかしいです。故人は私の思いの届かない永遠の世界へ旅だったのです。思いが届かないのです。それだけが、厳粛な事実です。人間は意味がほしいから、故人は天国にいるとか、お墓の下にいるとか、と思い込もうとするのです。しかし、そんなところに故人はいないのです。いないということだけが、故人の声なき声なのだと思います。(多少お酒が入っているので、辛辣になってしまいましたm(__)m)

2002年10月25日

●北朝鮮に拉致された5名の人々を、二度と帰国させないという要求が強まっています。確かに、ご家族にとって、この24年間の苦しみは私たちには理解できないことです。自分の肉親をさらわれたのだから、返すことは不当だというのも、ごもっともだと思います。また日本政府も、「返さない」ということで交渉してゆくことになりました。もともと不当な理由でひとがさらわれているのだから、その通りでしょう。しかし、拉致直後であれば、それはまったく異義のあるとこなではないのですが、24年という歳月を考えると少し無理があるようにも思えます。それはいうまでもなく、彼らの家族のことです。北朝鮮で生まれた子供たちはどうなるのでしょうか。モノであれば、盗まれたものを取り返すということは正当な行為です。しかし人間はモノではありません。関係存在であります。やはり、彼らの家族の事情というものを配慮してあげることが、最優先のことではないかと存じます。その後で、側面的に援助できることを国も、家族も考えるべきではないでしょうか。どうもいままでの経緯を見ていますと、家族の事情が優先されていないように思います。国家の要求や日本家族の要求という力学だけではダメでしょう。「こんなにしてやったのに/のにがつくと/愚痴がでる」と、たしか相田みつをさんは言っていたように思います。家族の子供を思う愛は、大切です。しかし、子供の事情を無視すると愛が成就しないように思えるのです。

2002年10月24日

●20日の親鸞まつりでは、グロッケン・シュピールのハンドベル・コンサートを聞きました。9名の奏者が、何十ものベルを持ち替えては演奏する姿は、まるで十八本の手をもったひとつの生き物のような感じを受けました。指揮者がいないことにも驚きます。おそらく、奏者ひとりひとりの心のなかに見えない指揮者がいるのでしょう。目をつぶって、ベルの奏でる響きに耳を傾けていると、ひとりの人が演奏しているように感じられてくるのです。不思議なベルの音に、たましいの震えを感じました。小生はハンドベルを聞くのが4回目でした。最初は、目を開けて演奏者の動きを見ながら聞いていました。しかし、今回は目をつぶって聞かせてもらいました。すると、身はここにあるのですが、たましいは地球を離れて、大気圏も突き破って、宇宙空間に漂っていました。演奏が終わって我にかえってみても、たましいは地上になかなか戻ってきませんでした。朝、目覚めたときの感じというか、セックス後のあの倦怠感というか、妙に地球には重力があったことをあらためて感じさせられました。

●親鸞まつりの記念法話は、近田昭夫先生にお願いしました。坂木恵定先生の「南無阿弥陀仏」という文字を評しながら、「坂木先生は、日頃、こうおっしゃっていたそうですね。『ひとを裁くな、持ち物もつな、自分は自分でちょうどいい』と」。最後の「自分は自分でちょうどいい」というのが素敵ですね。もともとくらべられないものをくらべて苦しんでいるのが人間なんですね。でも、この「自分は自分でちょうどいい」という受けとめ方ができれば、この世を渡っていくのにずいぶん楽でしょうね。悲観もせず、楽観もせず、ただ目の前の、自分に与えられたひとつの行為に専念すればいいんですね。電話をかける、ご飯をたべる、荷物を車に積む、パソコンを打つ…。右足、左足と出すことで道を歩く…。人間には、目の前のたったひとつの行為を選んで行うこと以外に「生きる」ということはあり得ないのでした。身の事実というやつは、まさにそうです。ただやっかいなのは、「思い」が、後悔したり、ひとや自分を裁いたり、あなどったり、さげすんだりしているだけです。一人芝居で生きるかなしさ。

2002年10月22日

●「いのちの華

いのちの華を咲かせましょう。華はきれいに咲きましょう。ひとは華のことばかり、きれい、きれいと口にする。根っこは、だまっていのちの華を静かに静かに、支えてる。ひとには見えないものだから、根っこはみんなに忘れられ、切ってすてられ、ゴミとなる。見えない根っこは死の根っこ。死のないところに生はなし。根っこもなしに、いのちの華は咲いてよみうもありゃぁせん。

ファンタジーの回復

自分が人間となって生まれる以前、そして、この世を去っていった後。この時間を現代人はどうやって回復するのでしょうか。現代人は、「この世」しか見ていない。「この世」は資本主義の世の中、市場原理の世の中、役に立つものは良いもの、役に立たないものは悪いものという原理でしょう。若いとき、自分の思い通りに生きられると過信しているとき、別に不都合は感じないでしょう。しかし、いのちは間違いなく、老化し死へ向かって着々と進んでゆきます。老齢化社会はもうすでに始まっています。伊藤検事総長が「ひとは死ねばゴミになる」と言ったそうです。それは「この世」しかないひとの発言でしょう。「この世」を超えたファンタジーの世界をどうやって作り上げてゆくのでしょうか。

 でも、そういう主張をすると、その反動で、いきなり「あの世の復権」などと言いたくなる。もし人間が「あの世」を復権できれば、それは「あの世」ではなく、「この世の中に『あの世』を作る」ことになりましょう。まったくやっかいなものです。さぁこれから、あの世の復権だといきり立つのではなく、「この世が絶対だ、あの世なんかないんだ」という硬直化した頭に死んでもらわなければなりません。

そうじゃなくて、私たちが生きているということの事実は、もともとファンタジーなんですよね。24時間営業で心臓が動いているということ。自分の先祖の数を両親(2人)その両親(4人)とさかのぼってゆくと、30代さかのぼると十億七千万人になるという神秘。豚肉を食べて、人間は豚にならないで、人になるということ。1歳で亡くなる人もあれば、100歳を超えて亡くなるひともあるということ。いのちの事実を見つめてみれば、ファンタジー以外にないのです。

2002年10月21日

●「死は、まったなし!」。昨日母の従姉妹が心臓麻痺で急死しました。今朝顔を拝みにいってきました。まさに寝顔のような死に顔でした。日頃元気で活発なおばちゃんだったので、沈黙が妙に悲しみを誘いします。ほんとに、いのちは待ったなしです。自分は明日の来るのを信じて生きています。後一時間後に死ぬなどとはまったく考えていません。しかし、いのちの事実は厳粛なものです。まったなしです。それじゃ、死ぬことなんか忘れて、今日をおもしろおかしく生きればいいじゃないか、と捨て鉢になることもできません。やはり、明日の来ることを信じて、今日を生きなければなりません。親鸞は「名残おしく思えども、娑婆の縁尽きて、力なくして終わるときに、彼の土(=淨土)には参るべきなり」といってます。名残惜しいことですよね。美味いトンカツもあるし、エビフライもあるし、美味しいお酒もあるし、他にもいろいろな楽しみのあるのが娑婆じゃありゃせんか。やっぱり、名残惜しいと思います。しかし、その縁も尽きて、力なくして終わるときがくるのです。まったなしで。そのときには、泣こうかわめこうが、行かなければなりません。まぁ、あと500年も600年も生きたいとは思いません。やっぱり、ほどほどということもありましょう。そして、私を知っている人間もだれもいなくなって、無名になっていくのです。五代前の先祖を私は見たこともありません。私の血の中をその方の血が流れていることは間違いないのに…。無名になって、そこらへんにころがっている石ころと同じになって、黙ってころがっていたいと思います。

2002年10月19日

●「あしたに道を聞かば、ゆうべに死すとも可なり」という言葉があるけれど、「ゆうべに死す」は大袈裟でも、明日死ぬかもしれないなぁ、と思うことはある。明日、自分はこの世にいないかもしれないなぁ、と思うと、不思議と、いまやるべきことがハッキリしてくる。

 

2002年10月15日

●あの〜お昼にやってるミノ・モンタの健康番組がはやってますね。坊さんから見ますと、結局人間は、だいたい、「癌」か、「脳の病気」か、「心臓の病気」か、「外傷」(事故・自殺も含めて)の四つ以外では死ねないことになってるんです。ですから、この四つのメニューの中から、「あなたは、どれを注文なさいますか?」と問われているようなもんです。あの番組を見ていると、この四つでない死に方ができるような錯覚にとらわれます。まあ現代は、「死」を日常生活から排除して、市民権を抹殺することに躍起になっているんですから仕方ありませんてどね。かつて柳田邦男さんは「自分は癌を選ぶ」といってました。まあ、すったもんだしても、苦しまなければなんでもいいんですけどね。小生も注射が嫌いですので。それでお年寄りの間ではPPKが話題になっているとか。P.P.K.とは、ピン・ピン・コロリの略称だそうです。ピンピン長生き、行くときゃ、コロリだそうです。お年寄りは、持ち時間がないので、いつでも「死」を包んで人生を生きています。でも、まだ持ち時間があると思っている人間は、「死」を忘れて生きています。必ず「死」を忘れると人間は傲慢になります。

2002年10月14日

●今日は穏やかないい一日でした。体育の日です。かつて岡本太郎さんが、オリンピック批判をされていたのを思い出します。肉体的なエリートを集めて競技をさせるなんて、おかしいというのです。もっと広いグランドを作って、人々が全員で体を動かすことがオリンピックだと。多分こんな趣旨でした。いまのオリンピックは肉体的エリートという肉体の極限の世界を、一般大衆は観覧するということになっています。なんだか、ギリシャ時代の奴隷同士の殺し合いを眺める民衆になったような、嫌な気分になりますね。●岡本太郎といえば、巨匠ですが、小生の記憶で印象的なのは「座ることを拒否する椅子」でした。椅子は座るためにあるのだろう。それなのになんで座ることを拒否する椅子なんて作るんだと思いました。人間が生活をするための道具が、椅子です。しかし、椅子が反乱を起して、人間に異議申立をしてきたということでしょうか。いままでモノとしてしか見えていなかった椅子が、その作者に反乱を起こしたのです。モノがモノであることを自ら拒否して、人間にとって人格をもった他者として立ち現れてきたということでしょう。これは面白い視点だと思いました。モノは人間に道具として奉仕するものです。そのモノが主人に向かって反乱をおこして自らを名乗る。これは面白いですね。支配者と被支配者が逆転しましす。人間はいろいろな道具を「使う」のではなく、いわば「使わせていただいている」ということなのでしょうか。道具としてのモノが反乱を起こさないから、事なきを得ているということでしょうか。映画の「トイ・ストーリー」を連想してしまいます。また木村敏さんのいう「モノとコト」にも派生してゆきました。しかし、今日はこの辺にしておきます。

●10月20日(日)の親鸞まつり−報恩講−への返信葉書が返ってきました。参加者60名だそうです。しかし参加とも不参加ともいってこないひとが多いことには驚きです。「返信くらいだせねぇーのかよ!」と三村ふうに突っ込んでみたいもんです。ハッハッハ。

2002年10月13日

●11日はBサロン(=ブッディーサロンの略称)が開かれました。新人・田山さんが顔を出してくださって嬉しかったです。お店の勤務時間を抜け出して来てくれました。久しぶりに岡山から疋田さんも来てくれました。56歳で希望退職し、会社を辞められ、第二の人生へのロマンを語っていただきました。いくつになっても、何かを獲得してゆく獲得体験は大事なことだと思います。作家の夏樹静子さんが、還暦になって初めてゴルフでバーディーをとったそうです。この喜びは無上のものだと語っていました。いくつになっても、この獲得体験はできると確信をもって語られていました。「こうしたい、やってみたい」と自発的に何事かが生まれることへ喜びを感じてゆくことは大事なことだと思いました。

●昨日は、東工大(大岡山)で「吉本隆明をめぐるシンポジウム」へ参加しました。300人ほどホールに集まっていました。まさに老若男女の聴衆が、真剣に聞き入りました。みんなが、その場に集中していることが肌で感じられました。緊張感が会場に張りつめていました。

パネラーは竹田青嗣・加藤典洋・大沢真幸。司会は橋爪大三郎でした。1時半〜5時半という長帳場でしたが、長いとは感じませんでした。それぞれが吉本をどう見るかを語ってくれました。そして、やがてやってくる吉本以後の世界を間違いなく支えてゆく人たちだと実感しました。

そのなかで印象に残ったことを記述風にではなくて、自分の思いの中で書き換えられ脚色された脚本風に書きます。

「普遍性」の問題。モダニズムは、普遍性をたとえば「神」や「理性」や「イデオロギー」に置いていた。しかしポストモダニズムは、普遍性なんてどこにもないんだと、懐疑主義的なことをいう。たしかに真理や普遍性を自分だけの神に固定してしまうことが、争いのもとになることは確かです。しかし、逆に普遍性や真理を全部否定してしまうと人間は生きることができなくなります。まあイスラム教徒は、偶像を否定します。しかし、あえて否定しようとする「見えざる神」を内面に作り出してしまうのです。真理や普遍性をこの世に生み出させないぞと力むことが逆に、カッコ付きの「真理」や「普遍性」を生んでしまいます。

この普遍性の問題を、親鸞の文脈に置き換えて考えてみます。これは「真実」と「方便」の問題になります。阿弥陀如来は真実だと親鸞はいいます。でも、この真実なる如来に人間はそのまま触れられない。人間が触れる如来は「方便」の如来であるといいます。つまり「この世」にある真実は、決して真実そのものではないのです。普遍性そのもの、真理そのものは「この世」には存在しないということです。それでは真実はどこにあるかといいますと「淨土」にあると親鸞はいいます。これは「死後に行く世界」ということではありません。その淨土から、「この世」へ真実が表現されてきているのだといいます。「この世」の次元へ入ってくると、それは真実であっても、真実そのものではなく、方便という質に転換してしまうのです。「この世」に真実そのものの根拠を持たせないということです。人間に真実という根拠を与えないのです。逆にいえば、人間から真実というものを徹底して奪い取ってしまうはたらきをします。この作用を「真実」というのです。人間は真実から「批判」を受け続けるというかたちで真実に出会うわけです。人間が、表現の根拠に据えるような理念には成り得ないのです。またイスラム教徒が、自分の理念の根拠に「見えざる神」を作ってしまうという問題も、それで超えられるのです。「お前が考えている理念には、真実はないよ」という批判が真実のはたらきだからです。

真実には触れ得ないという悲しみ、あるいは真実から歎かれ愛されているという実感、それが人間の生きる場だと思います。

 

2002年10月10日

●アメリカのイラク攻撃の準備がじわじわと進んでいます。由々しきことです。以前、作家の辺見庸さんが、「ブッシュを批判することは、たやすいことだ。しかし、そのブッシュの言いなりになっている現小泉政権に対してどういう異義申し立てをするかだ」というふうなことをいっていました。足元をしっかり見つめている人です。

 少し前のNHKテレビで、9・11の大惨事で犠牲者の家族をドキュメントで放映していました。そのなかで、犠牲者の兄弟が、アメリカの報復攻撃に反対する運動を展開していることを紹介していました。9・11で兄弟を失った苦しみを、報復という攻撃で代償することはできない。自分と同じような苦しみを味合わせることを兄は願っていないに違いないといってました。アメリカが報復一色のブームのなかで、反対の運動をすることは大変なことだと思いました。でも、これはやはり9・11で亡くなられた諸仏の方々の声なき声だと思いました。

 いつも、生きている人間の論理で死者が利用されてきました。靖国問題にしても、そう。私たちは死者を諸仏としていただきます。生者の打算や要求や思惑を、否定する存在として「諸仏」はあるのです。決して生者の思いの中に故人はいないということです。どんなに故人をかわいそうだと思っても、どんにな故人が怨みを懐いていることだろうと思おうと、その思いは生者の思いにすぎないのです。決して、故人を生者の思いのなかに閉じ込めて利用してはならないのです。「供養」というのも、その傾向でおこなわれるならば、それは故人を冒涜していることになります。生者が故人を思いの中に閉じ込めて、利用してきたことを懺悔することしかできないと思います。そこから、いかなる殺人(テロでも戦争でも)も決して許されてはならないという要求が起こされて来なければならないでしょう。なぜなら、自分のいのちは自分のものではないからです。「一切の有情はみなもって、世々生々の父母兄弟なり」(歎異抄第5条)という諸仏からの批判を生者は受け続けなければなりません。

●二日前から、境内の植木の手入れが始まりました。植木屋さんがチョキチョキと樹木を散髪してくれています。散髪を終えた木は、サッパリとして、太陽の光が明るさを増したように感じます。

●明日は10月のプッディーサロンです。岡山から疋田さんも参加してくれる予定です。河合隼雄さんの『こころの処方箋』を肴にして、夜遅くまで飲みたいと思います。しかし12日は東工大で吉本隆明さんをめぐるお話があるので、ほどほどにしておかなければなりません。

2002年10月8日

●「毎日、アルコールを飲んではいけませんよ。週に1〜2日は休肝日を作りなさい」とは、よく耳にします。ほんと耳が痛いです。小生も、休んだほうがいいんだよなぁと思いながら、ついつい暗くなってくると、手が出てしまうという体たらくです。休んだほうがいいには違いないけど、でも、「分かっちゃいるけど、やめられね〜」(植木等)という具合です。アルコールを口に運ぶときには、少しく、ストレスを感じながら呑んでいました。

 先日、オビツ先生という外科の先生に、ダメもとで、「休肝日、作ったほうがいいんでしょうねぇ?」とお聞きしたら。「そんなことを、する必要はありません」(と聞こえた)とおっしゃる。まあひとには個性があって、一概には当てはまらないということだと思います。それを聞いたときは、目からうろこが落ちました。安心して呑んでいいんだ、とお墨付きをいただいたような、天に昇る気持にさせていただきました。どんな理屈をつけても、やっぱり飲むことを正当化したいいじましさですね。m(__)m

 

●「他力」について。「他力本願」の誤解を説くためのアピールが西本願寺では行われています。結局、阿弥陀如来の本願のことで、他人の力を宛にすることではないという弁明だったようです。他人の力を宛にすることではない、というアピールは分かるのですが、阿弥陀如来の本願が私たちを助けるはたらきというところが、説得力をもっていないように感じました。m(__)m

 ちなみに広辞苑によりますと「他力本願」→「@阿弥陀仏の本願。また、衆生がそれに頼って成仏を願うこと。A転じて、もっぱら他人の力をあてにすること」と出てました。子どもの参考書にも四文字熟語というのがあって、「弱肉強食」とか「七転八起」とか「厚顔無恥」とか、それといっしょに「他力本願」とありました。やっぱりこれも「他人に頼って自分ではなにもしないこと」というような解説がついていました。これも誤解ではやっている言葉ですね。その誤解の方が有名になってしまっています。以前、総理大臣が「他力本願」発言をして、真宗教団でクレームを付けたことがありました。しかし、間違う方も間違う方だけど、間違われる方も間違われる方だと感じました。それじゃ、正しい他力本願の意味を伝える努力を教団がやっているのかということになります。

 そこで、分かりやすい(?)解説をします。

他力とは、人間の生きている事実を言い当てた言葉である」と。(これじゃ、ますます分からん!という批判もおありでしょうね)

 これは、子どもでも、だれでも考えれば分かることです。三度のご飯は、他なる生き物のいのちを殺して人間の栄養にしているのです。これは他なる力をいただいているということです。まったく罪悪深重です。当たり前に吸っている空気は、植物や珪藻が排出した酸素を人間が頂戴しています。これも他力です。着るものだって、まず自分で縫ったひとはいません。また原料は、綿であるとか、絹であるとか、化繊であるとか。いまユニクロがはやってますが、日本人の衣料を中国人が縫ってくれているのです。化繊といっても、人工のものではありません。もとの石油は植物の化石です。これも他力です。飲んでいる水も雨が降らなければ得ることはできません。

 そうやって、自分の生きているという事実を考えてみますと「他力」以外にはないのです。だから、「他力とは人間の生きている事実を言い当てた言葉」なのです。他力で生きていない人間はいないということです。

大間違いは、「他力」の用法ではなくて、いのちの事実が他力なのに、「自分の力で生きている」と思っている知恵のほうです。こいつを業界用語では「自力」(じりき)といってます。こいつが、おっとどっこい、俺の力じゃなかったんだ!他力立ったんだ!とひっくり返ってくれることが大切なんですけどね。

「他力本願」が大いに誤解ではやると、それをひっくり返す楽しみがあって、また楽しからずや…。

2002年10月7日

●運転しながら音楽を聞いていたら、こんな歌詞だった。「♪いい女を見ると〜、振り返る〜。ほんとスケベ〜、オレ頭んなか〜♪」とかいう、たぶんウルフルズか?これは、ほんとみんな(男なら)体験あることだよなぁと共感しました。煩悩はまったなしで、襲ってくるんですよね。こっちが、応戦するための準備を整えようとするヒマを与えずに。間髪を入れずに襲いかかってきます。そして気がついたときには、いつもやられているんです。

 まったく、意思よりも煩悩の方が速いんですよね。そして、煩悩のほうが嘘をつかないんですよね。「煩悩を押さえつけることが仏教だ」という間違った解釈がありますが、そうではないんでしょうね。煩悩を押さえつけようとするのも煩悩なんですから。意思が、煩悩に対して「ごめんなさいね。あんたよりオレのほうが偉いと思っていたけど、そんなことないんだね。あんたのほうが正直者だよ」といえば、煩悩も、「そんなことないぜ。あんたも毎日あくせくと大変じゃねえか。何がよくて、何が悪いかと判断のし通しじゃ疲れらあなぁ。」と慰めてくれるんですよね。意思よりも、煩悩のほうが先輩なんですからね。多分煩悩は、車のガソリンなんでしょうね。生活という車にガソリンがなければ、車は走りません。でもガソリンにそのまま火を付けたら、大変です。爆発します。見たい、食べたい、知りたい、嗅ぎたい、聞きたい、触りたい、行きたいという煩悩があるか、私たちは生きてられるんですよね。いのちがつづくかぎり。

●まったく、御布施というやつは、やっかいなものですよね。葬儀のときなど、「御布施はいくらつつんだらよろしいんでしょうか?」と檀家から聞かれるんですよね。小生は「御布施は、ものの売買とは違って、料金じゃないんですよ。心に値段が付けられないようなもんですよ。値段はないから、お宅で考えて、できるだけのことでいいですよ。みんな暮らし向きが違うから、定価もあるわけじゃありませんから」と返事をして電話をきります。するとまた、電話がかかってきて、「そうはいっても、こっちでも困ってしまいますので、相場というか、教えていただけないでしょうか?」といわれる。しかし、小生が答えたとして、檀家の心づもりの金額より多かったとなれば、「多額の御布施を要求されり」という思いが残ります。また、心づもりより安かったとなれば「よかった。」という安心感が残ります。だから、言わぬが花ということもあります。それでも「お願いですから、なんとか…」と詰め寄られるので、「だいたいお通夜・お葬儀・初七日の法要をやって20万円〜30万円くらいが、多いですね。でも、こうしなければならないということではありません。あくまでも目安として考えていただいて、できるだけの範囲で結構なんですよ」と返事をします。一度だけ、0円というのがありました。葬儀のあとに届けてくるのかと思っていましたら、音沙汰がないんです。それで、電話をして見たところ、引っ越してしまっていないんですね。これはやっぱり、踏み倒されたということなんでしょうかね。多分、そうではないと思ってるんですけどね。きっとそのときは払うだけの余裕がなかったんでしょうね。そのうちきっと、「親父の葬儀ありがとうございました」といってくるに違いないと思っているんですけど。(御布施の話なんか、こんなところでやっていいのか!という批判もありましょう。きわめて臨床的なことがらですから。でも、やっぱり現状は「葬式仏教!ナンセンス!」という批判が多いです。それは檀家に「取られた」という印象が強いということです。喜んで出したひとなら、そんな批判はないはずです。だから、僧侶と檀家の相互のコミュニケーションが大切で、その上で行われるべきことでしょう。かつてオウムの麻原に対してマスコミが、「全財産を御布施しろというのは、ちょっと高すぎるのではないか?」という質問をしました。そのとき麻原は「それでは、いくらなら安いのですか?」と返事しました。これには記者も返答できませんでした。ある面、信仰は全財産を投げ出すほどの信仰的な決断を要求します。また信者が喜んで喜捨することならば、第三者がうんぬんできない問題です。だから、数の多い少ないでは信仰ははかれません。また、信仰は何も必要としないという面もあります。一切の人間の行為をひつようとしないというのを「絶対他力」というのですが、話が面倒なのでいまはしません。信仰の次元は、数の次元とはまったく異なるところにあることだは間違いないところです。

2002年10月5日

●「宗教とは何か?」とよく尋ねられるけど、答はあるようでない。だって、宗教って、ものの見え方をいうのだから、定義はなかなかやっかいなのです。落ちている石を神の石と呼ぼうと、ただ邪魔な石とみるか、あるいは○○な石とよぼうか、そういう見え方の問題が宗教なのだ。現在の宗教法人法は、法人の財産はだれに所属するのかということを明確にするだけの法律だから、宗教の定義はできない。

まあオウム事件によって、普通は「あれは宗教じゃない!」などと批判するけど、はたして正常な宗教は何かと問われると、これは難しい問題になります。ひとつだけいえることは、熱狂しているときには物事は冷静に見えないということです。そして、熱狂していることが熱狂している本人には冷静そうに見えてしまうことが最大の問題なのです。酔っぱらいは、自分のことを酔っているとは決して言わないものですよね。「おれは、全然酔ってない!」と抗弁しますからね。「お前酔ってるだろ!」と周りの人がいえばいうほど、本人は「おれは冷静だ!」と開き直るのですから、しまつにおえません。

でも、その酔いから覚ましてくれるものが、本当の「宗教的なるもの」だと定義できそうです。人間は本質的に酔いたいものです。恋愛に、仕事に、生き甲斐に、ゲームに、酒に酔いたいものです。その人間が酔いからさめることは、地球を逆さまに回すほど大変なことです。でも、その、「覚める」ということだけが、宗教の掟のように思えてしょうがないのです。酔っていたい人間に、徹底して「覚めろ!」と呼び続けるものが宗教的なるものではないでしょうか。

●ブッディーサロンを来年は土曜日の夕方にも開設します。またお知らせします。m(__)m

 

2002年10月4日

●お告げ(人が亡くなったという報告)が一軒の檀家から入ると、二軒三軒とつながるのはどうした現象でしょうか。やっぱり、何かあるのだろうか?あるとき、産婦人科の先生とお話したとき、ひとり産気づいて病院に駆け込んでくると、二人三人と来るそうだ。やっぱり、潮の満ち引きとか、満月とか新月とか、と関係があるのだろうか。人間は、やっぱり地球という自然の一部なのではないでしょうか。「おれは、おれだ!」とイキガッテいても、しょせんは地球の一部分で、大宇宙の流れのなかに漂っている流木なのかもしれません。まあ、生まれてくるのも、死んでいくのも、自分の意思どおりには行きませんから、たぶん、いま呼吸して生きているのも自分の意思どうりにはいっていないのでしょうね。自分の思い通りにゆくほうが、どうかしているのかもしれません。

 明日は中山競馬場近くで葬儀があるので、十分時間を考えてゆかなければと思っています。今日は、道が混んでいて、お通夜の時間が迫ってくるし、渋滞しているし、大変気がもめました。と、そのとき、車のガソリンのエンプティサインが点灯して、さらにびっくり。住宅街で、スタンドもないし、ゆっくりゆっくり走って、「どっかにスタンドないかなぁ(^^;;;」と思っていたら、出光があって助かりました。ホッと…。55リッター給油でした。

●お通夜と葬儀には、小生自作のパンフレットを持参します。お経と、その現代語訳がコピー用紙に印刷されたものです。結構、ひとによっては喜ばれます。「こんな、冊子を配っているなんて、凄いですね。」と誉められることもあります。そのときには、すかさず「当たり前のことですよ」と返答することにしています。そういうことをやってこなかったことが異常事態なんですよと、ちょっと格好つけたりしてます。m(__)m

●そうそう、10月12日は東工大で、吉本隆明さんのお話が聞けますよ。パネラーは他に、竹田青嗣さん、加藤典洋さん、大沢真幸さん、橋爪大三郎さんという、そうそうたるメンバーです。これは楽しみですね。

 2002年10月2日

もっと、ホームページを楽しもうと思って、「住職のつぶやき」というコーナーを作ってしまいました。これから好きなことを書いてゆきたいと思います。お付き合いください。

昨日の台風は疾風のように関東を縦断してゆきました。九五〇ヘクトパスカルで、凄い大きさの台風だと、前評判だったのですが、小生は「また大袈裟に言ってるだけだろう」という程度に反応していました。やっぱり、というか、そうたいしたことはなかったようです。最近の予報技術が発達しているせいか、妙に、過敏に、誇大に報道がなされているような気がしています。

 まあ気象庁としては、「大したことないよ」といっておいて、実際には大変な被害が出たということになると問題ですからね。やはり大袈裟に報道するのでしょう。なんだか、「オオカミが来たぞ!」と言い過ぎのような気がしています。しかし、これは東京に住んでいるものの傲慢かもしれないということでもあります。

 それから、昨日は朝のワイドショーで「僧侶、脅迫150回」という番組をやってました。寺の三女と結婚してお寺に入寺し、僧侶の資格を取るために大学に通っているうちに、好きな女性ができてしまい、あげくその女性に逃げられて、その僧侶が復縁を迫って、脅迫行為(メール・手紙・面談)をしたというのです。

 まあ、真宗大谷派の僧侶じゃなかったから、内心「よかった」という思いと、まぁ世間からみれば坊主は全部一色に見えるから、「困ったもんだ」という思いとがありました。脅迫したい気持は分かっても、脅迫行為をするのは行き過ぎですよね。でも、人間何をやるか分からないという生き物ですから、たとえ僧侶であってもそういうことは成り立つのでしょう。また、「僧侶」ということがなければワイドショーの餌食になることもなかったのでしょう。

 近代の法律は、内面の出来事は問わないということなんですね。ですから、心の中でどんな脅迫をしても、妄念妄想をいだいても全然オッケーということです。しかし、仏法は、内面に思ったこともすべて、実行したことと同じ重さの罪だといいます。イエスも、姦淫をした女性を裁判する群衆に、心の中でスケベごころを起こしたものは、実行犯と同じだという了解です。心の中の罪という問題まで踏み込んでいくのが宗教というものでしょう。まぁ、そう考えると、毎日殺人罪を犯しているのが小生の日常であります。そうそう「黙殺」や「悩殺」という殺し方もあっんですね。

    

2002年11月へ→