住職のつぶやき2003/08
2003年8月2日
●コトバのいらない世界に身を浸してから、ずいぶん時間が経ってしまったような気がします。食べるということ、寝るということ、排泄するということだけの時間が過ぎてゆきます。こうやって、体の穴という穴が、完全に開いてしまい、空気が全身を透過してゆくような感覚は、もしかして原始人の感覚なのかもしれません。こうやって過ごしていれば、人間にはコトバはいらないのかも知れないと、ふっと安心した感覚でもあります。コトバなしにすべてが通じてゆける世界があれば、どんなに幸せかとも思います。実際、生身の人間が生きているときには、あんまりコトバは必要ではありませんね。「メシ(飯)、カネ(金)、ネル(寝る)」というコトバですべてが済んでいるひともいると聞いたことがあります。たぶん、必要最低限のコトバはそんな程度のことなんでしょう。思えば、人間の世界は、不必要なコトバが氾濫していて、インフレ状態になっているんでしょうね。テレビを見ていれば、そんなことは百も承知です。小泉総理が靖国神社に参拝するとかしないとか。あの神社に、戦没者の骨があるわけでもないのに…。まったく観念の遊戯だと感じてしまうのです。つまり様々な視座の人々の「気が済まない…」という感情のために、たくさんのコトバ達が無駄に、そして過剰に費やされてゆきます。まったくあのコトバ達の弔いはだれがやってあげられるのでしょうか。このシーズン特有のコトバの氾濫を見ていると、「この洗剤は、汗のあぶらをよく落とします」というコマーシャルや、「このラーメン屋さんは、最高です!」というテレビ番組のほうが、よっぽどコトバ達には、幸せだと思うのでした。それは、コトバとモノゴトが密接に結びついていて、ひとに何かをうったえますよね。でも、あの手の話は、空虚というか、観念的というか、幻想の中で消費されてしまっているように感じます。しかし、「これこそ全国民的な関心事にすべきだ」という強制があったりして、ますます気がそがれてゆきます。
モノの世界は、実に単純でシンプルで、スッキリしています。やっかいなのは、人間の観念です。殺人事件でも、殺したという事実は事実で動くことはありません。現実です。亡くなったひとがよみがえることはありません。しかし、そこに殺人の動機があったかなかったかで量刑が異なってきます。観念が問題にされます。どのように観念が裁かれても、時間を逆転させることは不可能です。
うるさいくらいにセミの鳴き声がジージージージーとしています。あのセミの声と、人間のコトバを比べると、いかに人間のコトバが無為であるかを知らされます。小生の日常が、あまりに過剰な観念の渦の中にいたことがあらためて知らされるのでした。稲の穂から稲の匂いが田をわたり、小生の穴という穴を通過してゆきます。原始人だった頃の小生の生身が、野生を取り戻してゆくような感覚です。野生を失わせてゆくのは、観念ですね。まぁ、大都会東京は、観念の幻想の坩堝であります。だから仕方ありませんけどね。出かけるときにも「どちらへ?」なんて近所のひとに聞かれれば、厄介です。「遊びに出かけることは罪悪だ」という、ニヤッとした近所の人間の笑顔が殺人的です。出かけるときには、近所の目を盗んで、コソコソと生活しなければならないのは苦しいです。電車に乗れば、満員電車で、見ず知らずの人間とこんなに近くに接近するなんて、とてもストレスがたまります。ちょっと、肩がぶつかっただけで、喧嘩になったりします。自分の権利を傷つけられることには、ものすごく敏感です。あの日本人のよさであった「すぐにごめんなさいと謝る、物腰の低さ」はどこにいってしまったのでしょうか。理由もなく日本人は、すぐに謝るバカな民族だと欧米文化が差別化したのに、その欧米意識で自分自身をさげすんでいるんです。小生は、すぐに謝るあの物腰の柔らかさ、腰の低さが好きです。肩がぶつかったのは、事故ですよね。誰が悪いわけでもありません。どちらにも過失があるわけです。もし自分がそこに存在していなければ、そんな事故は起きないわけですから。そういう存在の責任が、「ごめんね」という謝罪意識の底にはあったのです。「すいません」とか「すみません」という腰の低さは、存在の罪を背景にしなければ生まれてこないんです。それなのに、最初に謝ると不利益を被るという発想は欧米的ですよね。交通事故を起こしたときには、最初に誤ってはいけないというテクニックが大事なんだと教えられたことがあります。最初に謝れば、自分の過失を認めることになり、あとでお金をたくさん請求されるぞと。それはそれとしておいても、日本人の優しさを失いたくはないと思うのでした。原始人にもどりたい!とセミの声を聞きながら、思うのでした。
2003年8月4日
8月のコトバ
<事実>は単純
<思い>は複雑
<事実>は、単純です。怪我をしたという事実は、取り返しのつかない出来事です。言ってはならないコトバを言ってしまったということも取り返しがつきません。自分がしたこと言ったこと、思ったことは、すでに展開してしまっている事実ですから、取り返しがつきません。それはこの歴史の舞台にすでに展開してしまっていることなので、隠しおうすことができません。こころの中に思ったことでも、それはすでに歴史の舞台に展開され、白日のもとにさらされた事実です。この事実といいましょうか、現実といいましょうか、その<事実>は実に単純に展開しています。それは「そういう事実があったか、なかったか」ということです。やっかいなのは、その<事実>を<思い>がいろいろに変質させていくことです。身体をつかってやったことや、話したことは、他人から見られれば分かることですから、歴史の舞台に表れやすいです。しかし、問題はこころの中に思ったことです。それは隠しおおせると思っているんですけど、できないんです。隠しおおせると思って、いろいろと策略をねるんですがね。「自分は、間違っていない」という思い込みがあるもんですから、いろいろ姑息な手を使うんです。複雑な手段を使うんです。
あの小此木さんだったか「ヤマアラシ・コンプレックス」ということを言ってますよね。ヤマアラシは雄と雌が互いに愛を交換したいという欲求から、近づこうとします。しかし、お互いの刺が突き刺さってしまい、うまくいきません。実際のヤマアラシはそんなバカじゃありません。ヤマアラシを譬喩として人間の愛情の複雑さを表現したのです。お互いに接近したいという思いがあるのに、実際に接近してみるとお互いの刺がじゃまになり、血を流してしまいます。これは人間だけの刺ですね。「自分は、間違っていない」という刺ですね。自分が自分の自由な思いの中で相手を愛したいという欲求です。自分が相手にとってよかれと思ってやったことでも、相手にとって、それが本当に嬉しいことであるかどうかはわかりません。猫が病気になって獣医さんに連れて行くとき、やっぱり、本人のためだと思って連れてゆきます。少し我慢していてくれれば、やがて安らかになれるんだからと思って連れてゆきます。未来のために、いま少しの我慢を強要します。たとえ注射が痛くても、そのときだけ我慢して欲しいと人間は願います。将来の君のためには、これしか方法がないんだよと思います。でも猫は、そんなことは全然納得しません。猫には今しかありませんからね。「遠回りの親切」は了解できません。「遠回りの親切」は、自分が相手のために思ってしていることなんだ、という自己了解なしには成り立ちません。でも、「本当に相手のため」ということが成り立つのでしょうか。こわいのは、「相手のため思って…」という思いになったとき、相手にひどいことをしても、仕方のないことなんだと人間は納得してしまうということです。敷衍すると「躾け」というやつも、その流れの中にあります。
将来のためと思って、よかれと思ってという思いが、今の相手の状態を受け入れないという拒否を表していることは間違いありません。その拒否感が、いくらか揺らぎだして、いまの相手の状態に共鳴していくということが、永遠の課題だと思うのです。話は飛びますけど、教団とか、何がしかの共同体を組織したとき、少しくらい問題があっても、将来のために目をつぶろうとします。将来の彼らのためにもなるんだから、いま少しの暴力は承認せざるをえないんだと納得してしまうのです。そこに、共同体の毒であり、人間の「遠回りの親切」の毒が潜んでいるように思うのです。
2003年8月7日
●人間に色目を使わないで、もっともっと<単純>の世界へ入ってゆきたいと思います。そうして、野に咲くアザミの花のようになれたら、それはもう言うことなしだと思っているのでありました。まぁ、そうはなれないんですけどね。法座の前には、黙想の時間を三分間もっています。いわゆる沈黙の時間です。沈黙すると、まわりの音が聞こえてきます。鳥の声、バイクが走り抜ける音、ガラスにあたる風の音…。沈黙してみると初めて、自分の「内語」に気がつきます。こんなに「内語」が渦巻いているものかと思います。「内語」はとどまりません。流れる川のように、いろいろな波風をたてながら流れてゆきます。沈黙で、静かになることができるかというと、そんなことはありません。沈黙は自分の「内語」の大河を自覚するためのものかもしれません。沈黙を要求すると、しゃべりだす。おしゃべりを要求すると沈黙するという、おかしな生き物が人間ですね。人間そのものが「逆説的」なんです。昨日と今日は、気分が違います。自分でも嫌になるくらい豹変します。時々刻々と豹変します。車を運転していて、前をノロノロと走る車に邪魔されると、ムカッ腹がたちます。そして相手を毒づいているのです。それが、私の現実でもあります。天使のような顔をしているときもあり、悪魔のような顔をしているときもあります。そのときの風向きによって、どんなものにも変化してゆきます。そんなにひどいことを言わなくてもいいのに、つい口から出てしまうんです。そして優しいコトバを吐くときには打算がまじります。自分への見返りがあるように、打算を交えて優しいコトバを吐くのです。自己保身というやつですね。
最終的には、ア〜アという嘆息が出てきます。呆れるというか、惚れ惚れするというか、自分の過去の姿は紛れもない<事実>です。
とうとう、夏休みも終了して、東京へもどりました。飛行機で飛べば、わずかに一時間ちょっとで着いてしまうのです。地理的にはもっともっと離れているのが九州なのですが、時速900キロというスピードは、人間が体感できないスピードでもあります。飛行機の外は、高度一万メートル、気温はマイナス50度、スピードは900キロですから、とても人間が生存できる空間ではないのです。自分と外界を隔てている数センチの壁があるだけで、そんな異常な世界がひろがっているのです。もし、数センチ外の機外に出されたら、すぐに死んでしまいます。そういう異常な空間を900キロという異常なスピードで飛んでいくわけです。となりを見れば、毛布をかけてスヤスヤと眠っているひとがいるんです。こんな危険な場所で、スヤスヤ眠っていられるのはどうしてでしょうか。それは、危険な場所を危険だと感じさせない工夫がたくさんなされているからでしょう。ひとつには美人のスチュワーデスさんの笑顔です。それから、機内の柔らかい照明や音楽。いかにも、空の旅をゆっくり味わってくださいというサービス精神です。でも、現実は、数センチ先は闇が、死が展開しているんです。飛行機といえども、絶対に安全だということはあり得ませんからね。また「絶対」というのは、人間の観念で生み出したものであって、所詮「絶対」なんてものはこの世に存在してないんでしょうね。
そんな異常な空間をタイムトリップするように小一時間で東京へ移動してきました。でもたましいは、まだ太平洋上を漂っていて、この肉体とひとつになってきません。二日くらいはかからないと、肉体とたましいがひとつに重ならないんです。これは例年のことで困ったことです。身がここにあっても、こころここに非ずという感覚が残ってしまいます。でも肉体は正直なもので、九州のトトロの住んでいるような世界で、三キログラムも太ってしまいました。これから、痩せることにこころがけたいと思います。痩せないと、座ることが苦痛になるんです。困ったものです。
2003年8月9日
●今朝テレビを見ていると、台風情報のほかに、テロップが流れました。「山手線内回りで人身事故」と。そういえば、昨日の夕方、地下鉄南北線に乗っているとき、車内アナウンスで、「中央線で人身事故がありました。現在、上下線とも運転を見合わせております」と。
この「人身事故」というのは、まず飛び込み自殺なんです。連続して、飛び込み自殺の情報を耳にして、いたたまれない感情になりました。これも憶測ですけど、おそらく男性でしょうね。いろんな状況が考えられます。リストラとか過労とか劣等感とか、人間関係のトラブルとか。あんまり、飯が食えないから自殺するというひとはいないようです。<思い>の世界に属することで自殺という行動をとってしまうわけです。自分だけの<思い>の世界に閉塞してゆき、出口が感じられなくなるんですね。東京は、こんなに人間が密集して居住しているのに、隣に内面を語れる人間がいない。通勤電車では、たくさんの人間と、こんなに近い距離にいるのに、こころは、ものすごく隔絶されてしまっています。隣との距離が離れているのならば、それも納得しやすいんですけど。夏場の電車では、肌と肌が触れ合っているのに、こころはまったく触れ合うことがありません。このアンビバレントが悲劇的です。
山登りをして、山の中にひとり入っていると、実に人間が恋しくなります。山道で出会うひとに、妙な懐かしさを覚えます。そしてコトバを交わすことができます。でも、下界におりてしまえば、すれ違っても口をきけません。孤絶の度合いが増してくるとひとと話ができるのに、孤絶が解かれてくると、それができないとは、なんと皮肉なことではありませんか。人間、危機的な状況になると、ひとを求めますけど、平安な状況になるとひとを恐れるというのは不思議なことです。
これは風聞ですけど、借金返済を要求する側の人間が、債務者に自殺をほのめかすということもあるそうです。「あんたはみんなに迷惑かけてるんだ!あんたが死ねば、家族も救われるんだよ!」と。保険金で借金の穴埋めをさせようというのです。義侠心のある優しいひとであれば、そのそそのかしに乗っかってしまうこともあります。「自分さえ我慢すれば。不幸はおれだけでたくさんだ。家族、親類には迷惑をかけられない」と考えて自殺するひとも多いようです。家族からすれば、どんな形であれ、生きてさえいてくれればと思うものです。でも、一方的な考え方に閉塞して、だれにも相談することなく、自らのいのちに終止符をうってしまうようです。
人間は意外と、ひとに相談するということが下手です。また、ふだん相談するということを得意としていません。相談することはきわめてプライバシーなことですから、相手に自分の弱みを全部さらけ出さなければなりません。それはよほど信頼がなければできないことです。飲み友達や同僚や上司は、そういう相談相手にはなりえていないようです。自己の深い悩み事を語れるには、それだけの深さを共有できるひとでなければなりません。そういうひとが増えてゆくといいなぁと思います。
しょせん人間はチョボチョボで、最後は灰になって消えてゆくんですから、そんなに急がずに、目の前のことに、あたってゆきたいと思います。山を登るときには頂上を見るなといわれます。頂上を見ていると、まだあんなに登らなきゃならないのかと思って次の一歩が重たくなります。苦しくなります。ただ、目の前の一歩を確かに見つめて歩みを進めるのです。それ以外にないんです。それでも辛くなったら、歩幅を小さめにすることです。普通は、知らず知らずのうちに歩幅を大きくとって登っています。その歩幅を小さくすると、歩数は多くなっても、とても楽になるものです。そして、あたりでも見渡せば、これまた格別の景色が見えたりします。無駄な力を抜いて、自分自身を縛っている見えない緊張感を取り除いて、ゆったりしてゆきましょう。顔も普段は緊張しています。目をつぶって目や頬や口や肩やお腹と、どんどん緊張感をゆるめてゆくと、とても気持ちがいいですよ。これは、きっと死ぬことの予行演習でしょうね。死ぬことは、あらゆる緊張感から完全に解放されることですからね。
2003年8月10日
●昨日は、台風10号が日本を縦断したので、真宗会を急遽休会にしました。夜には静まり返ってしまい、嵐の後の静けさがもどっていました。夕方、嵐の中を立川市から従兄弟がたずねてきました。『上越市史』と雪中梅を携えて。父の実家は、上越市高田下池部の明安寺です。伝説によると、群馬県・前橋の妙安寺(成然房開基)には兄弟がありました。時は江戸の本願寺分派の頃だそうです。どのような事情があってか、長男が新潟へ移り住み明安寺(現本願寺派)を開き、弟はそのまま前橋の妙安寺(現大谷派)を継承したといわれています。名前も「妙安寺」と「明安寺」と一字を変えています。なぜ名前を変えたのか?それは不明です。また東西分派にからんだ政治的配慮で越後に移ったのか?それも不明です。あるいは、その当時越後は新興都市化してゆき、親鸞流罪の地に赴き開教を試みたのか?それも不明です。単純な兄弟の争い事の結果だったのか?なぜ長男が越後に赴いたのか?あるいは、当時の江戸幕府による寺請け制度を完備させるためだったのか?あるいは越後の統治者の要請であったのか?様々な疑問がわいてきました。
しかし、寺基を写した寺院は、ずいぶん多く、移らなかった寺院のほうが少ないようでもあります。高田の有力寺院であります、本誓寺・浄興寺・常敬寺なども、もともとは関東にあったものだそうです。なぜ、寺基を移したのかは『上越市史』に書かれていないのですが、どうも、江戸時代に政治的な配慮で動いたような感じを受けます。
江戸幕府は、キリシタン禁制を名目に、寺請け制度を完備し、寺院に現在の役所の戸籍係のような役目を与えました。民衆の家々は、必ずいずれかの寺院に所属しなければなりません。そして過去帳という、先祖の死亡名を管理させ、寺請け証文を発行しました。坊さんは、門徒が死ぬと、そこへゆき、この死にかたは間違いなく仏教徒であってキリシタンではないことを証明しなければなりません。いわば葬送という習俗を利用して、民衆管理の末端をになわされてきたわけです。
もともと本願寺は、親鸞のお墓を中心に発展してきました。曾孫がそれまでの講組織を寺院化して現在の基礎を築きました。寺院化することで、この世の秩序の中に不動の存在を見いだしました。もし講組織だけであったならば、ここまで残ってはこなかったのではないかと思います。単純な合議制の組織はかならず分裂を生み出します。仲良しクラブのような親睦の組織であれば、まだそれほどの分裂は生みません。しかしことが理念や思想に絡んでくるとかならず分裂を起こします。その極端な形が内ゲバというやつでした。そこでたとえ、組織が分裂したとしても、その形骸が寺院として存在している限り、名称は残ってゆきます。分裂して、バラバラになって、ひとがひとりもいなくなっても、寺院の名前があれば、そこにひとが集まれる可能性が開かれているわけです。 まあ時代が変わって、家という観念が完全に崩れかけていますから、檀家という意識もなくなりつつあります。それこそ、個人と寺が結びつく時代に入っているわけです。もっといえば、個人と坊さんでしょうけどね。寺といっても、そこには何もないのです。寺の中心は何かといえば、そこにいるひとでしょうね。決して仏像やお経ではないのです。
2003年8月11日
●結局、自分の存在了解が一番根底になっているんですね。つまり、自分はどこからこの世にやってきて、何を目的にしていて、どこへ去っていくのか。詰まるところ、この世とは一体何なのか?という存在了解です。幸せとか、不幸せというけれども、やっぱり、その根底をなしている存在了解の範囲のできごとですよね。
そうそう、『運命の女』というハリソン・フォードとダイアン・レーンが主演の映画を見ました。その二人は夫婦なんです。ダイアン・レーンが家族の誕生日のお祝いの品を買い物にゆきます。それはものすごく風の強い日でした。タクシーに乗ろうにも、タクシーは止まってくれません。風に足を取られて転んでしまい、そこでたまたま、とある男性と出会います。それから恋愛関係に入ってゆきます。夫の目を盗んで濃い恋愛関係に入ってゆき、とうとう夫であるハリソン・フォードにばれてしまいます。夫は、不倫相手の男性を訪ね、撲殺してしまうという悲劇に傾斜してゆきます。なぜ、こんな悲劇になったのか、それを振り返ると、あの風の強い日の出来事がきっかけでした。もし、タクシーがダイアン・レーンを乗車拒否せずに載せていたら、こんな悲劇は起こりませんでした。そこに「運命」というものの恐ろしさと深さと厳粛さが物語られていました。
自分に振り返って考えてみると、自分の過去は、この運命の連続なのかもしれないということでした。たまたま刑事事件に発展するような事件性はありませんけど、それを除けば、まるで運命としかいえないような出会いの連続です。誕生だって、たまたまある男性とある女性の間に運命的に起こることです。結婚だって、出産だって、就職だって、趣味だって、すべて運命的出会いとしかいえませんね。まだ小生には物語の結末は教えられていません。悲劇なのか、喜劇なのか。まぁ悲喜劇ということなんでしょうけどね。
昨日も法事で、自分の生まれる以前、そしてこの世を去って行った後というイメージについて語りました。真宗は、阿弥陀如来を本尊としています。阿弥陀は、「いのちの母」あるいは「最初のお母さん」といわれたかたもいます。自分の母の母の母の母の母の母の母の…とさかのぼっていったときの、一番源のお母さんのことです。それは地球の母であり、宇宙を生み出した母でもあります。そういうと西洋のゴッドやカミと同じだと思われるかもしれませんけど、そうじゃありません。あくまで人間には知ることのできないものという意味なんです。人間には「知り得ない」という形をとってしか感覚できないものなのです。ですから、カミやゴッドがこの世を造ったという表現はとりません。「成ってきたもの」という意味なんです。
そんな母がいるわけでもないんですけど、一応、そういうふうに了解してみるのです。そのいのちの母から生み出されて、この世へやってきて、この世で様々な形をとっていのちを営みます。そしてやがてこの世を去ってどこへゆくのか?というと、それはまた阿弥陀さんのもとへ帰ってゆくのだと思います。この世は、直線ではありません。誕生と死亡で切り取られるものではなく、誕生以前、死亡以後があります。大きな円の一部分が誕生→死亡ということです。全体は円です。そういうふうにイメージしてみたらどうでしょうか?ということです。そんな証明はあるのか?と問われれば、それはありません。証明できるかできないかではなく、そういう物語に身をゆだねられるかどうかだと思います。
最後、人間が存在了解を受け容れるのは、「物語」の形だと思います。現代では意識が全世界を覆っていて、無意識が衰弱しています。意識は、物語を好みません。論文を好むんです。意識的に証明できないものは、無意味だという恐ろしい時代になっています。もっとメルヘンやファンタジーの世界を広げてゆかなければダメだと思います。老人が惚けると「子ども帰り」をします。そして最終的に、そのひとが住む世界は、幼いころの思い出であり、ファンタジーの世界です。それは子どものころに養ったファンタジーの世界であります。それが最終的に人間を支えるのでしょう。
どうしてファンタジーが大事かといいますと、我々の存在そのものがファンタジーから生み出されてきているからなんです。つまり人間にとって、自己の存在とは、どこから来たか分からない存在なんです。何を目的に生きているのか、この世を去ってどこへいくのかも分からない存在なんです。それが存在の基礎にある規定です。それを受け止めるにはファンタジーしかありません。それはファンタジーを受け止める知恵といってもいいのでしょう。あるかないか、正しいか間違っているか、損か得かという二者択一の意識の世界ではなく、その両極端に分けることのできない曖昧な世界です。その曖昧なところに、人間の「生きる」ということが横たわっているんです。
2003年8月12日
●今朝、「お告げ」(死亡通知)の電話で起こされました。平安は、どこにもないのだと、寝ていても教えてくれるのですから、寺で暮らすことは有り難いことです。お告げ(死亡通知)は、この世でもっとも厳粛な現実です。虚偽が多い、この世で、絶対にウソをつかないのが、「死」という厳粛さです。安全地帯はどこにもないぞ!ということです。テレビでは、最近外資系の保険会社が盛んにコマーシャルを流しています。つまり、「安全地帯はここにありますよ」と宣伝しているわけです。「おもいっきりテレビ」や「薬になるテレビ」とか、盛んに健康モノ番組が視聴率を上げています。
世間が、物騒になり、不安になると、とたんに「安全地帯」を求めはじめます。殺人事件が報道されると、これまた、とたんに隣に住んでいる人間や町内の見知らぬひと達が危険人物のように不審人物視されます。自分も向こう側から見れば不信感をもたれているんですね。そして、お互いがお互いを監視し合うという異常な関係になりはじめています。
以前、我が家の二階の窓をちょくちょく開けておいたところ、ご近所から覗かれていると苦情をもらったこともありました。覗きャしねぇーぞ、そんなもん!と内心怒りが走りました。過剰反応じゃないの、それは、と思いました。自分が、そういう目で相手を見ているから、相手もそういう目で自分を覗いているんだと被虐的になっているんです。おかしいのはお前の頭じゃないの!と感じました。でも、これも都市型の密集した生活空間の異常さでしょう。ものすごく危機感をもって、敏感に不安を感じ過ぎています。我が家でも、母はどこにでも鍵をかけるようになりました。施錠のないドアが怖いんですね。外部から、不審者が侵入してくるという不安がつきまとっているようです。まぁ門徒の方が不審者に殺害されるという事件があったもので、過敏になることも分かります。しかし少しやりすぎじゃないかと思うふしもあります。
危険ということで思い出しました。以前、ブラジル(都市部)に長年住んでいて、たまたま日本へ一時期国された日本人の話を聞きました。自分は寝るときに必ず、枕の下にピストルを置いておくのだといいました。いつでも不審者に対応できるようにしてあるそうです。また夜10時以降には絶対に外出しないようにしているとも言っていました。それが地域住民の常識になっているのだそうです。10時前には家族全員が家に戻り、また誰かが訪ねてきてドアをたたいても決して開けないのだと言いました。10時以降は何が起こってもおかしくない時間帯になるからだそうです。日本のように人質事件はまったく起こらないとも言っていました。それは警察が犯人と一切の取引をしないからです。ですから人質救出云々ということはないそうです。どうするかというと、警察は人質もろとも犯人を銃撃して殺してしまうそうです。これは日本では考えられないことですがブラジルの常識だそうです。人質をとって立てこもっても犯人と一緒に殺されてしまうことが常識になっているので、犯罪抑制になるのだそうです。ブラジルの人々は、正義をまもるためには多少の犠牲者が出ても仕方ないのだと受け止めているそうです。でも、そういう警察の態度があるから、人質事件は皆無だそうです。確かに、人質事件が起きないのは健全なのでしょうけど、この健全さには、不気味さを感じました。そのかたもはじめの頃は、その生活になれなかったそうですが、いまではそれが当たり前になっていて、かえって規則正しい住みやすい生活になっているというのです。子どもが深夜まで外で遊ぶこともないので、実に健全な家族生活があるのだそうです。自分は、もう日本へ戻る気持ちもなくなりましたとおっしゃっていました。
日本の生活感覚とはかけ離れた感覚です。しかし、やがてそういう世情になると予測するひともいます。日本の人口がどんどん減少して、高齢化することによって、働き手が外国から流入せざるをえないというのです。それが犯罪頻度の高い社会を生み出すというのです。その予測はどうなんでしょうかねぇ。確かに日本人は、島国だという地理的状況もあって、なかなか他の民族を肌身で感じる文化交流が出来てきませんでした。日本の常識がすべてであって、それを疑うことがありませんでした。日本の常識を受容した外国人は受け入れても、受容しないものは排除してきました。もうそういう時代も終わるのかもしれません。文化相対主義という見方をしていかなければならないのでしょうね。
そういえば、以前、ブラジルから家事手伝いにきていた女性(50代)は、洗濯物をすすぎませんでしたね。洗剤が残っているのに、そのまま物干し竿に干していました。それがブラジルの常識だそうです。それは水が貴重だということと関係しているのかもしれません。すすぎは水を多量に使いますからね。これも日本独特のことなのかもしれません。畳みに座ることも苦手としていましたし、どれだけ砂糖を入れても、日本のコーヒーは全然甘くないともぼやいていました。お互いの文化を了解するということは、これまた至難の修行だと思いました。よっぽど、こっちの価値観が柔らかくなって柔軟性がないとダメでしょうね。でも、どこかで相手の身につけている文化が、理解できれば、通じてゆくルートができるように思います。別に無理して嫌いなことを受け容れるということではありません。匂いや習慣など、生理的な違和感は絶対になくなりませんよね。ただ、「知る」という実に表層な部分での理解は可能だと思います。その「知る」ということを重ねていくとき、やがて、どこかでお互いに少しずつ変化を生み出してくるのだと思います。最初に、「お互いは理解できないのだ」と断念したところからはじめるべきでしょう。最初に理解し合えるものだと理想を高くしてしまうと、それは挫折するような気がします。はじめをゼロに設定しておけば、些細なことでも喜びになるはずです。なんだか大それたことを語ってしまったような気分です。ここらへんで…。
2003年8月13日
●今朝、聞法会のリーダー的存在だった門徒さんが亡くなりました。まさに波瀾の人生を生き抜き、ようやく仏教に出会い、そこからは聞法一筋に生きられました。嫁ぎ先の家に苦しみ、夫に苦しみ抜いた末の仏法との出会いだったようです。優しい反面、ものすごく芯の強いおばあちゃんでした。お宅へ伺いましたら、大学ノートに鉛筆書きで、親鸞聖人の正信偈がビッシリと書き写されていました。何度も何度も、延々と正信偈の鉛筆書きが書き綴られておりました。鉛筆のタッチもしっかりとして、均整の取れた文字でしたためられています。文字は、そのひとの内面を表現するといいます。まさに、その方らしい文字で、丁寧に書かれています。大きさもバラつくことがなく、筆圧も変わらず。これを書かれたときの感情は、一定だったのでしょうか。文字には感情があらわれるものですけれども、まったく感情の揺れが感じ取れません。たぶん、三昧に入っておられたんだと思います。娘さんに伺うと、朝の家事が済んで、あれを片づけこれを片づけしたあとに、ちゃぶ台の前にちゃんと座り、時間を定めて書写されていたようです。もう書写が一日の日課となり、その淡々とした生活態度が、文字に映っているのでした。まさにキチンとした方でした。
娘さん二人に自宅で看取られて、とても幸せそうでした。昨夜伺ったときには、まだ顔色もよく、喉の奥で痰がゴロゴロと鳴っていて、多少苦しそうでした。まだまだ大丈夫といった感じでした。ところが、看護婦さんの予言どおりというかなんと言うか、今朝方息を引き取られました。手足はビニール手袋に水を入れたような状態で、パンパンに腫れていました。腫れた薬指に千切れんばかりに指輪がはまっていました。痛々しかったです。でも指輪を外そうと努力したそうですが、リングカッターで切ることによって指も傷つけてしまうので、断念されたと語られました。それでも、手のひらを小生の手のひらと合わせて握っていると、ピクピクと動く感触がありました。口も聞けず、意識の存在も不明でしたが、あのピクピクは小生であることを確認した動きだったと確信しました。腫れのお蔭で、シワが伸びきって、色も白く、まるで十代の女の子の手のように美しい指になっていました。足も同じように、若い女性のような指でした。これは体内の水分が、体外に排出できずにたまっているからだと分かりました。やはり点滴で様々な栄養を体内に注入するために起こる現象なのでしょうか。父の場合には、亡くなる数日で体内の水分が、すべてオシッコといっしょに出てしまい、あとは干からびてゆきました。最後の形は、ひとそれぞれだと思いました。
今頃は、父と再開して、いろいろとお話ししていることだと思います。やっぱり、父とおばあちゃんとの出会いが、伏線としてあって、それが聞法の座に参加することを促していたものと思えるのです。また、その姿勢が、娘さんにも影響を与えて、教えに接近する縁ともなっているのでした。縁の世界は、ひろく長く続くものですね。これは、地下水のようにひろがってゆくものでしょう。
小生も、やがて、この世の知人よりも、あの世の知人のほうが多くなり、若年からは宇宙語を語る生き物だと嫌われ、やっかい者になって、静かにこの世を去ってゆきたいと、そんな願望をもっているのでした。
2003年8月14日
●部屋が片づかないのです。「片づけられない女」というセンテンスを耳にしたことがあります。しかし小生は「片づけられない男」であります。あれもしなければ、これもしなければと、次々に課題が与えられてきます。でも、いましなければならないことがあって、それに関わっていると、しなければならなかった事を忘れてしまったり、後回しにしていて、気がつくとしめ切り間近だったりします。こんなことを毎日やっていて、片づけられない紙片やら、読まなければならない本がどんどん、積載されていくのでした。そして、いざ、「あれは、どこにあったかなぁ?」と、書類を探すとなると、これが発見できないというありさまです。つい最近まで、捜索願いが出ていた腕時計を、ひょんなことから発見しました。嬉しかったですね。失ったものが、見つからないとき、これは小骨が歯に挟まっているような状態で、いつまでたっても忘れられないのです。スッキリしません。しかし、捜し物が出てくることは、まったく予期せぬことからなんです。こんなことは、みなさんもよくあるのではないかと思います。「捜し物はなんですか、見つけにくいものですか、机の上も、鞄の中も探したけれど、みつかないよ。探すのをやめたとき、みつかるもので〜」とかなんとかいう、井上陽水の歌がありましたなぁ。これは、マーフィーの法則ですね。しかし、うちには、国際救助隊みたいな女房がいまして、このひとは捜索の名人なんです。自分で探して、どうしても見つからないときには、このひとにSOSを打つんです。そうすると、必ず見つけてくれます。もうすでに実績がありまして、母も救助隊にお願いすることがあります。ですから、一目置かれているわけです。それが悔しくて、自分で探すんですけど、やっぱり最後はダメなんです。小生がものを探していることを知っていても、知らん顔をしているんです。こちらから救助願いを出さないと出動してくれないんです。お願いすると、ようやく家事の手を休めて、捜索を開始してくれます。でも、すぐに見つかるものでもないのです。まずニオイだといいます。この辺ではないかという、直感をはたらかせるようです。そしてそのニオイのするところを重点的に探すそうです。そして、見つけた暁には、みんなから称讃と感嘆の謝辞を頂戴するわけです。こういうひとは、一軒にひとりくらいいると便利ですよね。これは才能ですね。
そういいつつ、今日もまた郵便物がドッと届きました。返事を出さなければならないひと、お礼を書かなければならないひと、振替用紙での入金やら、会費の納入等々、山積してきて、用件のあったことすら忘れて、見失ってしまうのでした。この体たらくをなんとしたらいいんでしょうか。「仏は細部に宿りたもう」とはいうものの、なかなか細部を大事に、大切にできないのでありました。
2003年8月15日
●宮沢賢治の詩、「雨にもまけず」の中に「さむさのなつは おろおろ あるき」という部分がありました。なんで「寒さの夏なの?夏は暑さじゃないの?」と思いましたが、今年の夏のような陽気のことなんですね。まるで夏は短かったです。もうこの雨は秋雨前線の影響だとか、一気に秋に突入していくようです。気温が20度というのは、この次期に経験したことがありません。例年は、いつまでも暑さが続いて、もういい加減に涼しくなってほしいなぁと願っていました。でも、今年は、そんな願いが懐かしく思えますね。今日のお葬式の主は、雨女だったとか。午前中は土砂降りの中で、火葬場へと向かいました。「これは涙雨だわい。はげしい涙雨だわい」と聞こえてきました。人間、とてつもなく悲しいときにも、そしてものすごく嬉しいときにも涙を流す生き物です。涙腺が緩んできた小生も、よく涙を流す体験をします。確かに子どもの頃にも涙を流しました。友達と喧嘩したときや、先生にしかられたとき、自分自身のふがいなさや、悔しさを涙とともに飲み込んだこともありました。それから、長ずるにしたがって、あんまり涙を流さなくなりました。辛いことがあっても、男は人前で涙を流すもんじゃないと教えられました。「人前で泣くなんて女々しいぞ」と罵られました。でもこの歳になってくると、ずいぶん違ってきました。テレビドラマを見ては涙ぐみ、感動的なお話を聞いてはハンカチを濡らすことも多くなりました。これは、やはり、感動するというこころのアンテナが繊細になってきたということじゃないでしょうか。歳をとることによって、ますます、こころのアンテナがデリケートになっていくなんて、とても幸せなことだと思いました。記憶力とか、推理力とかは減退しても、感動力はますます増大していくということではないでしょうか。
2003年8月16日
●海外旅行から帰ってくると、やっぱり日本はいいなぁと実感します。外国へ旅して、成田空港に着陸すると、みんなホッとするといいます。飲み水や食事に気をつかうこともなくなりますし、置き引きなどにも配慮はいりません。しかし、それだからといって、いきなり、インタビュアーから「あなたは日本という国を愛していますか?」と尋ねられたら、ちょっと戸惑ってしまうことでしょう。旅行から帰って来て、日本はいいなぁと思っている実感と、日本という国を愛しているかという問題とは、どこかでズレていると感じるのです。やっぱり女房は空気のような存在で、安らぎを感じるということはあっても、あらためて、「それではあなたは妻を本当に愛しているんですか?」と問われると、ちょっと戸惑いを感じるというのと、似ているような感じがします。
日本といっても多重的で、日本の文化・風俗などはいいなぁと思っても、日本の政治・経済という面はどうなのかなぁと思ってしまうのです。日本ということと、日本国ということは若干のズレが小生のなかにはあるのでした。そのズレが大事な気がしています。世界の常識は、自分の国を愛するのは当然だという常識です。国のためにはたらき国のためにいのちを捧げるのは当然のことだ、という常識です。どの国でも、そういう常識があります。ですから、その常識を当てはめて、日本人が国を愛するのは当然だということを主張するひともいます。自分の家族が、敵国から攻められているのに、傍観できないだろうという極論を展開するひともいます。だから国のために戦うのは当然だと。でも、日本は、思想的にとても大事なセメギにあっているんだと思います。世界の常識になっている、「自国を愛する」という常識に疑問を投げかけることができるからです。それは敗戦の悲惨さを味わったお蔭でしょう。アメリカは本土が悲惨な状態になったことはありません。9・11がはじめてかもしれませんね。あの事件以来、自民族中心主義では、平和は実現できないということがより明確になってきました。
やはり民族を超えた、衆生観というところまで深めないと、ダメなんでしょうね。しかし、どうしても愛は関係を閉ざしてゆきますね。自分の伴侶、自分の家族、自分の国、自分の民族と。この「自分の」という閉鎖性がつねに照らしだされないとダメなんでしょう。それが見えているかどうかが問題です。
2003年8月18日
●23歳の青年が、友達といっしょにサーフィンに来ていて、友達が車の陰に寝ていたのに気がつかないで、車を発進させてしまい、友達の頭蓋骨を轢いてしまい殺してしまいました。こんな悲しいことがありましょうか。楽しみに友達同士で海にやってきて、たまたま車の陰が涼しいからといって、寝ていました。それに気がつかないなんて…。轢いてしまった、青年の手には友達の頭をひいた時の感触が生涯のこってしまうでしょう。これは事故です。単なる偶然のなせるワザです。まったく人為的な匂いがありません。親しいもの同士でも、偶然が作用すると、相手を殺してしまうということも起こるんですね。殺してしまった青年は、この取り返しのつかない偶然性におののき、ワナワナと震え、その場にへたり込んでしまったことでしょう。また、死んでしまった青年は一瞬のことで、何が何やら分からない間に、息絶えてしまったことでしょう。でも、その青年の親御さんやら親類縁者は、どう感じるでしょうか。やっぱり、その友達が「殺した」と受け止めてしまうでしょう。それは、だれが見ても偶然性の出来事であっても、被害者の家族は、誰かを犯人にしなければおさまらないことでしょう。いままで、親しかった友達関係、あるいは家族関係が、それでいっぺんに敵対関係へと変化してしまうことでしょう。警察は事情聴取をして、やはり刑事事件として、取り調べをするでしょう。殺してしまった青年は、自分が死んでお詫びをしたいと思うことでしょう。そして、一生、その罪を負って生きなければなりません。たんなる偶然性のワザが、だれかを被害者にし、誰かを加害者に仕立ててしまいます。でも真実は偶然性でしかありません。その青年の注意力がなかったからだと、世間では裁くでしょう。でも、そんな注意力なんか、みんな持ち合わせていませんよ。ついうっかりなんていうことは、誰でもあるんです。現代は、管理責任とかいって、誰かを悪者にしなければならない社会ですけれども、本当は、誰も犯人はいないんです。もしあるとすれば、「偶然性」という犯人がいるだけです。ですから、恨むのは「偶然性」であって、人間ではないと思えているのです。加害者を演じた青年にも、そして不幸にしてひかれてしまった青年にも、小生はものすごく同情しています。取り返しのつかない不可逆性が恨めしく思います。偶然性という犯人は、どうしようもなく、どこにでも遍満しています。見渡す限り、偶然性だという現実があるからです。小生が人間を演じていて、さっき殺したゴキブリがなんでゴキブリを演じているのか。これは分からないからです。ひとを恨まず偶然性という現実を恨みましょう。
2003年8月20日
■武田定光・絶対推薦!演劇へのご案内■
題名:釈迦内柩唄(しゃかない・ひつぎうた)
原作:水上勉 劇団:希望舞台
会場:カメリアホール JR亀戸駅北口下車徒歩2分(рO3−5626−2121)
10月18日(土)開演2:30〜
前売り:3000円
チケット問い合わせ:希望舞台042−383−8401
あるいは、武田定光(因速寺)までお願いします。
とにかく一度、観てください。必ず、いのちの何かを感じ取っていただけること間違いありません。
話は、秋田県の釈迦内というところで親の代から死体焼き場の家業を引き継く、ふじ子の物語です。
その仕事ゆえに忌み嫌われ、さげすまれる家族、そこには家族の深い絆と愛情、わけへだてのない、人間に対する優しさがありました。
酒を飲まずにはいられなかった父、その父が畑にいっぱい育てたのは、ひとの灰で育ったコスモスだった。
ひとの顔かたちが違うように、コスモスの花もまた、ひとつひとつ違って風に揺られて咲いている。
コスモスの花の色が違うのは、みんな死んだひとの顔じゃで。どの花も、みんな美しい…。
そこには、育ちや仕事や、民族を超えて平等なる世界がかもしだされていました。
小生も、クライマックスでは、感動に打ち震えていました。
正直言って、最初に聞いた時には「ひつぎ唄」というテーマは重たいと感じたのです。いわゆる、実存の問題は、目を背けたくなるような重さをもっています。つまり、ひとの死とか、老いや病という問題を直視することを嫌います。老・病・死ということが少しでも見えれば、「アッ、見たくない!」と反応するのが人間です。やっぱり、いつまでも若く、健康で、長生きして、平凡でも安泰な生活を送りたいというのが人情というものです。
でも、生きていると、そうも言っていられないというのが、生々しい「いのち」の現実なんですね。ちょっと、いままで目を背けてきたけど、ちょっと「いのち」について考えて見ようかなぁと、重い腰を上げざるをえません。
芝居については、詳しく書けませんし、書くとせっかくの出会いを台無しにしていまいます。でも、小生が芝居を観終わったときには、ものすごい感動がこころのヒダに残りました。そして、これは人に勧められる芝居だと思ったのです。ぜひたくさんのひとに、劇団希望舞台の「釈迦内柩唄」を観ていただきたいと思い、推薦させていただくことにしました。
2003年8月21日
●イラクのバクダッドにある国連の事務機関(のあるホテル)が爆破されました。非戦闘的な立場にある国連もイスラム原理主義の人々にとっては、悪魔の手先だと見えるのでしょうか。いわば、国連はイラクを圧迫する脳であり、軍隊は手足である程度の違いであって、一心同体だと受け止められているのでしょうか。この事件にこころを痛めていないひとは少ないはずです。まぁ、私たちはテレビと新聞の情報という限られた情報の中で感じている「現実」なんですけど。それはある種の視座によって切り取られた情報だという限定付きでもあるんですけどね。
理由はなんであれ、無差別に人間を殺すという、いわゆるテロはどうしても承服しかねる事件ですね。いつも私たちの前に突きつけられてくる結果はたったひとつです。爆弾が仕掛けられ、爆発して何人かの人々が殺傷されたという現実です。そのたったひとつの現実を、どのようにも変更できないという辛さです。まぁそこから、「なぜ?」と問うこころが動き、その原因を遡及していきます。すると無数の要因が絡んでいることが分かってきて、単純にことの善悪を判断することができなくなってくるのでした。たとえどれほど、その「なぜ?」を繰り返しても、起こってしまったたったひとつの現実は変更不可能です。時間の不可逆性でしょうね。
テレビでは、国連本部のあるホテルが破壊され、瓦礫の下敷きになっている人々を救出する場面が流されました。その瓦礫の下敷きになっている人々は、どうなってしまったのでしょうか。そして、その人々につながる多くの家族やら知人などのひとびとのこころはどうなるのでしょうか。それを思うと暗澹たる気持ちになります。
でも、世界で起こっている出来事の何万分の一か、あるいは何千分の一かは、自分の責任でもあるという強制力を情報はもってしまいます。毎日、テレビや新聞で繰り広げられる、情報、それはほとんどが悪い情報ですけれども、その悪いことが起こっている一端を自分がになっているという存在の重さを感じます。たまたまこの時代をともに生きるひとびととの共業感というやつでしょうか。
それでも、そういうことにいつでも関心がいっているわけではなくて、24時間のうちのほんの数分間なんです。他の23時間何分かは、全然ちがうことに関心がいっているんです。自分の関心が向いている時だけ、そう感じているんです。その数分間、感じていることを24時間感じているふうに表現するのは、どこかで偽りを感じます。やっぱり、数分間なんですよね。これって、庶民感覚というやつじゃないでしょうか。
テレビのニュース番組では、起こった現実の結果だけを報道します。「なぜ?どうして?それでどうなったの?」という原因は遡及しません。まったく出来事の一面だけです。そのニュースを見て、ひとびとのこころが大きく動いても、そのこころを置き去りにして、「さて…」と次のニュースに移ってゆきます。まぁ感情を入れないというのがモットーなのでしょうか。その対称となるものが、北朝鮮のニュースの場面ですね。感情が全面に出てきます。それも計算された感情のような気がしますね。変な意図の感情が出てくるよりも、無表情・無感情で機械的に報道することのほうがましなのかもしれません。それにしても、置き去りにされたこころは、どこへ向かったらいいのでしょうか。「おいおい、さっきの話題。それでお終いかよ!そこまで、報道しておいて、それでどうなったんだよ!」とついつい、テレビの前で叫んでいる自分がおりました。テレビに向かって話しかけたり、文句を言ったりするのは「オヤジ」の習性だと、家人につねづねイエローカードを出されております。
2003年8月22日
●歎異抄の講義を江戸期にされた有名な学僧・妙音院了祥は、異義の研究にその一代を費やされたようです。つまり正しい信仰のありかたから逸脱している思想を批判するという仕事ですね。歎異抄の前半は、親鸞の言葉を中心に表現されていますし、後半は異義批判を中心に展開されています。小生の好みからいうと後半のほうが好きなんです。ひとからいわせれば、前半は親鸞の直説だが、後半は唯円(歎異抄の著者)の思想だとなりますけど、小生はそうは思っていません。両方とも、唯円の思想をくぐった表現だと思っています。当時はテープレコーダーもありませんし、語られた言葉をそのまま記録できるはずがありません。もしかしたら唯円が、先生である親鸞の言葉を聞いているとき、ハッとしてメモを取ったということかもしれません。また、常々親鸞がおっしゃっておられたことが記憶に残っていて、それをあらためて文字化してみたということかもしれません。
まあ、「人間は二人、仕事はひとつ」ということが歎異抄の成立事情だと思います。そこで、異義の命名の仕方を見てみましょう。異義は8章あります。
@誓名別信(誓願と名号を別々に信ずる異義)
A不学難生(学問をしないと往生することが難しいと考える異義)
B怖畏罪悪(罪悪を恐れる異義)
C念仏滅罪(念仏によって罪を滅ぼすと考える異義)
D即身成仏(この身体のままで仏に成ることができると考える異義)
E自然回心(反省と信仰的翻りの勘違い)
F辺地堕獄(信仰的陥穽に落ち込むと地獄へ落ちて出口はないと考える異義)
G施量別報(お布施の量の多少によって亡くなった仏さんの供養になると考える異義)
この異義の命名の仕方について、曽我量深さんは、こんなふうに言ってます。
「この名目は了祥師の講録にある名前を揚げたのである。何かもっと時代的な新しい感じをあらわすような言葉でも考えて話した方がよいと思うが、適切な言葉も考えられぬ。これはまあ文字通り直接の意味しかあらわれていない。何とか時代に応ずるような新しい意義、聖典にある文字ばかりではなく、仏教に関係なくてもいまの時代思潮に合う言葉をもってすれば面白いと思うが、いまはできないから『歎異抄』に出ているだけのものをもととして、この名目を揚げるに止める。もちろん、昔の異義というものもこれで尽きているわけではないが、異義は広く深く人間の分別に根ざしていることをおもえば、こんな言葉であらわさなくても、世間一般の思想を考えて、『歎異抄』の内容といくぶん違っていても今の思想批判として考えてくるのが面白いと思う。適切なものがないから今はそうもできない。了祥師の用いられた名前をそのままそっくり並べて、でき得れば今の時代の批判を加えることにしたい。」(『歎異抄聴記』曽我量深著)
この箇所を読んでいて、曽我量深というひとの柔軟性に驚いたのです。もう、歎異抄の研究といえば、了祥さんの『歎異抄聞記』ですから、これを金科玉条にしていました。この本は間違いない、この本の指示する通りに考えればよいのだと鵜呑みにしてしまっていました。ところが明治の巨人・曽我量深は、「何かもっと時代的な新しい感じをあらわすような言葉でも考えて話した方がよい」とか「何とか時代に応ずるような新しい意義、聖典にある文字ばかりではなく、仏教に関係なくてもいまの時代思潮に合う言葉をもってすれば面白いと思う」と語っているではありませんか。この柔らかさといいましょうか、時代に応じて新しい言葉が生まれてきて当然なのであって、昔を踏襲するだけではないのだという反骨精神に感動しました。この平成という現代を生きている小生の方が、見えない枠にはまっていたなぁと反省させられるやら、恥ずかしいやらでした。
「仏教に関係なくてもいまの時代思潮に合う言葉」という大胆さには脱帽ですね。でも、復古主義のひとは、それを嫌います。やっぱり伝統は大事だ。いつの時代でも不変の真理は、昔の仏教語でしか語れないのだという固い発想です。でも、変わらない部分は絶対変わらずに、でも表現は時代に応じて天衣無縫に変化してよろしいのだと思います。この「変わるものと変わらないもの」という見極めが大事なんでしょう。人間は、どうしても、歴史というか、時間を過去から現在があって、未来があると、こういう流れで考えてしまいます。ですから、過去には真理があったけど、だんだん時代が下ってくると濁ってくるのだという歴史観になります。もはや人類の未来は発展だ、進歩だとは思えなくなってきました。進歩史観というよりも末法史観なんでしょうか。
これも一理あると思うのですが、しかし有るのは現在でしかないんですよね。いま自分がここで、呼吸している現在しかありません。そこに、過去も未来も全部あるのではないかと思います。ですから、この現在の底の底にこそ不変のものが流れているのであるのだと思います。過去も未来も現在に「共在」している。たとえれば横の関係ですね。時間を「通時的」つまりたとえれば縦の関係には並べられないと思います。これはなんと表現すればいいのかなぁ…。
どうしても、お釈迦様が生まれたのは、2500年前だという「思い」があり、親鸞は800年まえに亡くなったのだという「思い」があるだけです。そのうえこの「思い」が「現実」だと思っているんです。でも、そんなことがあったという保証はどこにもないわけです。そんなことをいったら、歴史なんて無意味になってしまうではないかということもあります。そういう通時的な歴史も一応大切なんですね。でも、自分の実存という面から見れば、やっぱり「共在」でしょう。お釈迦様の存在は、言葉となって、「いま」ここにあるわけです。親鸞の言葉もしかりでしょう。自分にとって、一番確かな存在は「いま」というこのまぎれもない「現在」だと思います。肉体があるほうが確かだと言いますけど、そんなものは時間とともに消えてゆきます。肉体以上に、普遍的なのは言葉でしょう。言葉は永遠に残ります。「言葉の存在」として、仏説もそして親鸞の言葉もあるのだと自分には思えるのです。
ちょっと、坊さんみたいに熱っぽく語りすぎてしまいました。このへんで、頭を冷やしてきます。
2003年8月23日
●各国の大使をされていた男性とお話ししているとき、「宗教では結局、パレスチナ問題を解決できないということじゃないですか?」と問われました。小生は、「あれが宗教とするならばですね…」と応えたことを覚えています。氏は、宗教であるならば、政治の不可能な領域も超えていけるのではないかという期待と、結局それは不可能なのではないかという落胆とを感じていたように見えました。そして、宗教が社会にどのように関わるのかということがハッキリしないと、宗教の存在意義も危ういのではないかという方向に話が進んだように記憶しています。なんせ、そのときには、酔っぱらっていましたので、記憶も朦朧としていますけどね。
この感覚は、小生の20代の感性だと懐かしく思いました。大学生の頃、学生運動のはしくれのようなことをしていて、「教育問題研究会」なるものを立ち上げました。そして自主講座運動を画策していました。それについて語ると長くなるのではしょります。ともかく、組織の機構とシステムとが変革されなければダメだと考えていました。大学という機構、資本主義という機構、その機構が変革されて新たな機構を作ろうとしていました。結局挫折するのですけど、気がついたことは、機構や組織が変わっても、当の人間はまったく変わっていないということでした。でも、実際には、そんな社会の毒やゆがみなんかに無自覚で、ノホホンと生活している人間のほうが、ゆがみを変革しようと考えている人間たちよりも、穏やかで明るく優しいということも感じていました。その当時は、小生は、宗教をものすごく個人的なことと受け止めていて、自己満足の理念だと思っていました。ですから、社会的に運動を起こすものでなければ、そんなものは無意味だと考えていたのです。
それは日本は民主主義の国だと言われていますし、議会制合議主義なんですから、みんなで話しあって、最良の状態を作り上げていくということが正義ですね。人間が、集団で生活していく限りこれは、大原則でしょう。そして、そこに暮らす人々が、ひとつでもストレスを減らしてゆけるようにもっていくべきでしょう。「世界人類が、幸せにならなければ、個人の幸せはありえない」というのは、そのとおりだと思います。いくら宗教的安心が得られても、傍らに苦しんでいる人間があれば、本当の幸せとはいえないのは当たり前のことです。
むしろ宗教的信念というものは、「幸せ」というものとは、質が違うのかもしれません。たしかに、グリコのおまけのようなもので、グリコを買えば結果的についてくるものでしょうけど、「幸せ」が当面の目標になったら、それは宗教ではありません。そうではなくて、自己の内側に全世界を見いだすということではないかと思います。自分は個人ですけど、さまざまな関係性の中で成り立っています。食べるということで、全世界の食材とつながっていますし、空気という外界によっても支えられ、さまざまな人間関係によっても支えられています。ですから、自己は他の存在と孤絶しているわけではなく、むしろ他の関係性そのものが自己だといってもいいのです。それを小生は、「自己の肉体の外側こそが自己そのもので、自己の肉体の内側が外なるもの」だと比喩的に表現しています。そういうひっくり返りというものが宗教的信念だと思います。
「そんなことあるわけないだろう」という批判もあると思います。「世界人類が幸せにならなきゃ自分は幸せじゃないなんて、恰好のよいことを言ったって、それは原理であって、やっぱり自己満足しかできないだろう」と。それもそのとおりなんですね。残念なことに。目の前のご飯のおかずひとつで、幸せを感じたりしているわけです。温泉に浸かれば「あ〜あ、ゴクラク極楽…」なんて言ったりするんです。テレビでは飢えているひとのニュースをやっていても、それを晩酌しながら眺めることもできるんです。そういう自分のあることも、まぎれもない現実なんです。そして、それは決して、堕落した形態なのではなくて、人間のあるべき姿であるということです。人間とは、そういう生き物なんです。
結局、未開原始の時代から、人類が滅亡するまでの未来までを含んで、人間は進歩も発展もないわけです。技術や文明は発達したと人間は意味づけしますけど、当の人間そのものには、そんなことはないわけです。この身体の中に、原始人と未来人が内包されています。一見すると、自分の外の問題だと受け止めていたことが、実は、自己自身の問題であって、それを掘り下げてゆくという方向性だけが大事だと思われます。その原点を小生は「歎異抄」第9条の「親鸞も、この不審ありつるに、唯円房、同じこころにてありけり」という言葉に見いだしています。この「親鸞も…」と受け止めるたましいの態度ですね。これが、永遠の平和を生み出してゆける原点だと思っているのです。
2003年8月24日
●「事実が先、思いは後」と思います。
どうしても、お寺に住んでいますと、住宅勤務地一体型ですから、自分は<真宗>の中に住んでいるんだと錯覚してしまうんです。親鸞が定住しなかったのも、そういう問題を感じていたからではないかと勘繰ってしまいます。人間は、つねに<真宗>の外にいるもんなんでしょうね。いつの間にか自分は<真宗>の内部にいて、その他の人間は外部にいるんだと錯覚してしまうことの恐ろしさを感じます。まぁ寺という伽藍があり、教団という組織があって、国家的には宗教法人法で位置づけられていますから、既成事実のように了解してしまうのですね。
でも、Kさんじゃないけど、痴話喧嘩で、汚い言葉を吐くと娘さんから「それでもお寺に通って聞法しているのかねぇ!?」と言われ、一発で化けの皮がはがれるんです。結局、お寺に通おうが、お寺に住もうが、そんなことに無関係で、人間性というものは、汚いもんじゃないか、しょせん凡人も聖人も、何も変わりゃしねえんだ!という批判があります。それは、その通り、ヤンヤヤンヤと拍手を送りたくなる批判ですね。
そうやって化けの皮が剥がされると、いままで天上界に遊んでいた魂が、いっきに地獄の底へ叩きつけられるような感じがします。「お寺に通っていても何にもならないじゃないか!」と言われれば、その通りでしょう。最初の頃は、小生もその手の批判に、抗弁していたんです。汚れた人間だから、信仰が必要なのであって、もし聖人になってしまったら、救いの必要はありませんねとか。しょせん人間はボチボチなんですよ。多少宗教に身を染めてみても、しょせん地金は毒そのものですよと。でも、抗弁する気持ちが、フッと消えるときがあるんです。まさにあなたのおっしゃる通りですよ、まったくその通りとしか言いようがありませんよと、妙に素直に受け止められることがあるんです。あまりに鮮やかに鋭利な刃物で皮膚を切られると、まったく痛みを感じないということがあります。あれと似たところがありますね。お見事としか言えないですね。
歎異抄だとか、教行信証だとか、お経に接していると、自分まで偉くなったような錯覚がやってきます。これも凡夫のサガで必然的なことですね。でも、まわりから、全然なっちゃないぜ!なんだよ、あれで坊さんかよ!と批判されると、その自惚れが地獄の底に突き落とされます。突き落としてもらうことで素面(しらふ)に戻れるんですね。まわりから見ていてくれるひとがいると安心です。共同幻想を増殖するような集団は恐ろしいですね。でも、それを一番身近でチェックしてくれるのが家族という存在でしょうね。「裏を見せ、表を見せて、散る桜」でしたっけ、裏も表も知っているのが家族です。親鸞も、そんな日常を送っていたのではないかと、奥さんの手紙を読むと感じられます。頑固オヤジとしての親鸞が、そこにはいるように思うんです。あのオヤジ親鸞は、本山の御影堂に鎮座している親鸞ではないように感じます。まあ、「ごらんの通り」ということで、どのようにでも扱って下さいと後世にすべてをゆだねている姿も素敵ですけどね。上に持ち上げても、下に見下げても、そんなところには本当の親鸞はいないように思います。本当の親鸞は、自分の中にすんでいるんでしょうね。
2003年8月25日
●NHKジュニアスペシャル「生命40億年」をみました。ここのところ、ジュニア○○とか、週間子どもニュースとか、ジュニア向けの番組が分かりやすくて、小生にはちょうどいいと思って見ています。すべてのニュースもあの程度に分かりやすくしてもらえないでしょうかと常々思っています。やさしく表現できるということは、ものすごく大変な努力が必要ですからね。
「生命40億年」は分かりやすい番組でしたよ。地球ができあがって46億年、生命が誕生してから40億年といわれます。地球上にあらわれた最初の生命体を探そうというコーナーもありました。生命は海から生まれてきたといいますから、やっぱり海の中の生物かなぁ?と半信半疑でした。でも地球ができたころは高温ですから、そんな高温の中で生きられる生命体はないだろうし?と思って見ていました。しかし、その予想は覆されました。火山から吹き出される高温のお湯の中に生きる生命体が存在しました。その頃の地球には生命体がありませんから、まだ酸素も存在しません。二酸化炭素で覆われていたそうです。そんな中、雨が降り続いて海になって、太陽からの紫外線が届かない深海で、その生命体は動き回っていました。その生命体が、現在でも見ることができるというのです。ところは、箱根の大涌谷でした。ここは火山活動があって、まだ白い煙がモクモクと上がっています。その中に高温の、いわゆる温泉が湧いています。そのお湯をすくって電子顕微鏡で覗くと、その生命体が動き回っていました。お湯の温度は80度近いんです。そんな熱いお湯の中で生きられるものがあるのか!とビックリしました。まあ形は、0,3ミリのシャープペンの折れてしまった芯のようでした。これが、生命のルーツということであれば、まぁ「ご先祖様」であります。先祖を拝むのであれば、この生命体を拝まなければなりませんね。こういう方(?)がいなければ、人類は存在していないのですからね。なんだか妙な気持ちになりました。
あのダーウインの「進化論」という考え方はどうかと思いますけど、確かにいのちのルーツはあるんですから、こういう微生物から自分にまでいのちが受け伝えられてきたことは間違いないのでしょう。「進化論」というのは、人間中心主義ではないでしょうか。でも、人間もいのちの変化にとっては、まだ途中の形態なのかもしれませんね。これからもっと変形していくのかもしれません。いのち自身のプログラムに従って、人類が小型化していくことも考えられます。小型化することで、燃費をよくして、エネルギーをできるだけ消費しにくい形態になるかもしれません。
それから番組では、ミトコンドリアを見せてくれました。子どもにアイスクリームを食べるときに使うビニールのスプーンを渡しました。そのスプーンで、ほっぺの内側をこすり取ってもらいます。痛くない程度にですよ。すると白っぽい唾液の固まりのようなものが採れます。それを電子顕微鏡で除くと、細胞が見え、細胞核とミトコンドリアが見えました。このミトコンドリアが、太陽の光りをエネルギーに変化させて運動を可能にするそうです。以前にも腸内細菌の数にビックリさせられましたね。「腸内には、約百種類・約百兆個の細菌が住んでおり、一秒間に一つ数えると、なんと約300万年が必要」(能岡浄)というお話は驚きです。この自分という身体は、どれだけの細胞やら細菌やらバクテリアで構成されているのかを知りたくなりました。身体は、まるで小さな宇宙のような感じがしてきませんか。自分という意識は、確かにあるんです。朝起きても昨日の自分と同じ自分だと思っていますね。でも、事実は時々刻々変化していて、細胞が死んでは生まれ、生まれては死んで、変化し続けています。変化しないものはないといってもいいくらいでしょう。
そうやって、見てくると<自分>という存在が、ポツンとあるのではなくて、無量無数の存在と時間との集大成だと感じられます。時間的には、地球や宇宙のはじまりからいのちのつながりの中で<自分>があります。また空間的にも空気やら水やら食べ物やら人間関係によって支えられて存在しています。そうすると、ますます<自分>は自分以外のものによってできあがっていることに気がつきます。
そんなことを考えていたからでしょうか、昨日の夢は面白かったです。自分がいます。すると、そばにいるひとが、小生の身体の中に飛び込んでくるんです。まるでコンピューターグラフィック映像のように、スーッと尾を引いて他者が小生の身体に飛び込んできて、溶け込んでしまうのです。ひとりふたりと、飛び込んできては小生の身体に同化していくのです。そして溶けて小生の身体と同化するのです。これは面白い夢でした。もしそれを広げてゆけば、人類全体が、自分の身体と同化してしまうのでしょうね。そうなったら楽しいなぁと思います。
2003年8月26日
●「たましひ」について。
いわゆる民間信仰の中では、いまだに生きている言葉です。「たましひ」は当然在るもので、それを疑ったことのない人たちのなかでは、常識になっている言葉です。うちの門徒さんの中でも、疑ったことのないひとはいます。もうすでに「たましひ」は在るということが大前提でお話をしてくるひともいます。例の、「みてもらったら…どうも先祖のたましひが浮かばれていないようで…」と電話してくるひともいます。その手の感性は気持ち悪いと感じてしまうのでした。お坊さんの分際で、そんなことでいいのか!と申されても、それは、正直なところです。もうすでに、言わずもがなで、「たましひは在る」と断言することはできません。
近代、現代は、「たましひ」殺しに躍起でした。有るか無いかハッキリしないものを、在るかのよう振る舞うのは、理性にとって屈辱です。証明できないものを、在ると信じて畏れるのは納得できません。ですから、都会では、幽霊も抹殺されてしまいました。これだけ電気があれば、幽霊の住む場所もありません。お墓も肝試しができる場所ではなくなりました。すべてが見えすぎてしまった時代が現代です。「見えすぎちゃって、困るわ〜♪見えすぎちゃって〜♪こまるの〜お〜」というアンテナのCMソングがありましたね。あのセリフのように、すべてが理性の前に見えすぎちゃっているわけです。
あまりに見えすぎちゃって、一番困っているのも人間なんですね。自分の将来まで、全部見とおされちゃって、生き難いんです。山を登る前に頂上が見えちゃってるんですからね、登る気力が生まれないのは当然なんです。
これは何度も書いたことですけど、象徴的です。援助交際をしている女子高生に、河合隼雄さんは、「あなたのたましひに悪いからやめなさい」とサジェスションしたそうです。それが有効だったそうです。それは河合先生だから通用したのかもしれません。なにも「たましひ」という言葉を使えば、なんでも有効だというわけでもありません。河合先生も、そのとき咄嗟に、まるで悟りの知恵が生まれるかのように、思いつきで「たましひ」と言ったのかもしれません。その咄嗟の知恵と、女子高生の、それこそ「たましひ」が感応道交したのかもしれません。
でも、そこに象徴的にあらわれている「たましひ」という大和言葉のもっているパワーを感じます。自分の体を資本にして、稼いでいるのが資本主義社会じゃないの?だから自分の体をどのように使って稼ごうと、ひとに迷惑かけているわけじゃないし。おじさんも喜んでるし、自分もお金もらえるし、それでいいじゃん、となるわけです。この資本主義の論理を大人はくつがえすことはできませんでした。なんで援助交際が悪いのか。結局彼女を納得させる論理はありませんでした。そこで出てきたといいましょうか、復活してきた言葉が「たましひ」でした。この「たましひ」というメッセージが女子高生の深層に何らかのはたらきをもたらしたのですよ。まさに「たましひ」の復活ですね。
河合さんが使った「たましひ」は、民間信仰の人々が使っている「たましひ」ではないように思います。あの人たちの使う「たましひ」は、在ることが大前提になっています。在ると決めつけています。そんなに「在る」と決めつけると「たましひ」は圧迫感を感じてしまい、かえって「たましひ」が傷つけられます。そんなに「在る」と決めつけてはダメです。かといって、理性的に証明できないから、「無い」と決めつけてもダメです。現代では「無い」ということが常識になっていますから、その揺り戻しで、極端に「在る」という主張に固まっていくこともあります。
小生も、父を亡くしてみて、故人との関わりかたを新鮮に感じられるようになりました。自分の中に生きていると以前は書きました。自分の思い出の中に生きているとも書きました。それは「在る」ということとも「無い」ということとも違った感情です。在ると無いの他にある感情なんです。以前は、在るか無いかというふたつの世界しか知りませんでした。でも、第三のところにあるんですね。それはやっぱり、「たましひ」と名付けてもいいのかもしれません。人間が決めつけるとなると、自分の内部にあるとか、あるいは気体のように漂っているとか、物理的な感覚になります。そうじゃないんですね。
そもそも、私は在る、存在していると小生は決めつけていますけど、果たして本当に在るんでしょうかねえ?自分について考えていくと、輪郭がぼやけてくるんです。鏡に移った自分の身体を見ていると、在るといえそうなんですけど、だんだん見ていくとその肉体の輪郭がぼやけて、あたりの景色と融解していくような感じがします。存在が溶けだして、環境と溶けちゃって、ドロドロになっていきます。これって変なんでしょうか?
ひとが生きているときには、肉体をもって生きます。でもこの肉体が、存在そのものじゃありませんね。死体を見ていると、そのひとなんですけど、でも、そのひとじゃないんです。どこか違います。肉体的にはどこも変わっていないわけです。生命のいとなみが静止していますけども。何が違うのか、どこがちがうのか、それは分かりません。動いているときには、疑問も感じたことがないんです。その動きが止まったとき、はじめて、そのひとって何だろう?と感じるわけです。やっぱり、「たましひ」なるものがそのひとに宿って、そのひとたらしめているように感じます。そのひと自身とは、肉体ではなくて、「たましひ」ではないでしょうか。
2003年8月27日
●昨日の夢は、汗をたくさんかきました。どこかのお寺にお話を頼まれて伺いました。もうすでに門徒の方たちが本堂に集まっています。ちょうどお昼なのか、食事をしているひともいます。小生にも何かを食べるように勧めてくれました。でも、時間がたっても、別にこれから何が始まるのかはどうでもいいという雰囲気なんです。小生も、これから何が始まるのかなぁ?と思ったりしています。よくよく我にかえってみると、そうだ!おれがお話頼まれてたんだ!と気がつきます。ええ〜っ何にも用意してきていないぞ!と冷や汗をかきました。何をお話したらいいんだろうという思いと、まぁ、別に用意したって大した話はできないんだから、いつもの調子で、思いつきで話せばいいんじゃないかと思ったりしています。それにしても、どうして、今日がお話の日だと分かっていて、何にも用意しなかったんだろうか?と自分自身を責めています。
でも、これが夢でよかったなぁと安堵して目覚めたように思います。親鸞にとっての夢は大きなメルクマールでした。19歳の聖徳太子のお墓での夢、28歳の比叡山大乗院での夢、29歳の池坊・六角堂での夢、それから85歳のときの夢。夢といっても、小生の見るような夢ではないようです。夢は、仏さまから何かのメッセージを聞き取る大事な作法だったようです。ですから、完全に眠り込んでしまって見る夢ではなくて、何がしかの課題をもって、瞑想するというそういう夢の見方だったようです。まぁ、自分に引きつけて考えてみると、何かが気になっているとか、何か思想的なことを考えていて、寝床に入っていると、ハッとして、すごく大事なことを思いついたりします。あのときのハッとした気づきみたいなものを、如来からの夢の告げだと受け止めるようです。ですから課題的ですね。つまり、無意識を大事に大事にしていたのが中世です。現代では、意識の世界が全部だといいますけど、そんなことはないんです。意識は、存在の一部分なんです。その裾野には大きな無意識の世界が横たわっているのです。その無意識との関係を大事にしたいと思います。そういう意味で夢は、無意識からのメッセージを受け止める受け皿ですよね。
そうそう思い出しましたけど、亡くなった秋山さと子さんの講義を受けていたことがありました。彼女はユング心理学の権威者ですよね。容貌はまるで魔女でした。彼女の講義を受けているとき、おかしな夢をみました。はしょって言えば、藁に包まれた黄金のウンコを食べるという夢でした。いまでは黄金のウンコといえば、あの浅草・吾妻橋の朝日ビアホールの屋上のモニュメントを連想しますね。あのビルができる前ですよ、小生が夢を見たのは。光り輝く湯気がでているような、鮮やかな金色のウンコでした。それを小生が食べるという夢なんです。これは象徴的ですよね。いまでも忘れることができません。あのウンコは秋山さと子だったのではないかと思っています。彼女を食べてしまったんです。金色であっても毒でしょうね。ウンコは。実際食べられないことはないわけですけど。あのソドミーというのは、そういう性癖のひとがいます。でも多くのひとは食べませんよね。あんまり美味しそうでもありませんしね。でもそのひとが忌避するウンコを受け入れたということは、自己の無意識を受け入れたということのようでもあります。そのきっかけになったのが秋山さと子先生だったんですね。
まだまだ、その象徴的な夢の意味を全部読み解けてはいません。生涯かかるかもしれません。おそらく親鸞もそうではないかと思うんです。あの29歳の「もしお前がセックスをするならば、私は美女になってお前と添い遂げよう。死んだ後は極楽へ連れていってあげるよ」という救世観音の夢告げです。この夢について親鸞は何も語っていません。でも、生涯の課題としていたのではないかと勘繰っています。つまり、全面受容といいましょうか、絶対的受容を象徴しているように思えるんです。親鸞の存在そのものをまるごと全面的に受け入れられたということです。全面的に如来に受容されることによって、仏者としての親鸞が誕生したとも考えられます。自立ということは、全面的に受容されたということがなければ起こらないことだと思います。
それまでの親鸞は、自己を裁いていたのでしょう。仏教に入門したては、自己を裁きます。煩悩を消し去ろうと。徹底してやれば、死ぬところまでいきます。それは意識が自己存在を裁き苦しめることです。でも、意識よりも存在のほうが先なんですよね。生まれてからやがて自分という意識がやってくるのですから。存在が先、意識は後です。その逆転を象徴的に語っているのが、あの夢の告げではないかと思います。
2003年8月29日
●昨日の夢は、汗をたくさんかきました。どこかのお寺にお話を頼まれて伺いました。もうすでに門徒の方たちが本堂に集まっています。ちょうどお昼なのか、食事をしているひともいます。小生にも何かを食べるように勧めてくれました。でも、時間がたっても、別にこれから何が始まるのかはどうでもいいという雰囲気なんです。小生も、これから何が始まるのかなぁ?と思ったりしています。よくよく我にかえってみると、そうだ!おれがお話頼まれてたんだ!と気がつきます。ええ〜っ何にも用意してきていないぞ!と冷や汗をかきました。何をお話したらいいんだろうという思いと、まぁ、別に用意したって大した話はできないんだから、いつもの調子で、思いつきで話せばいいんじゃないかと思ったりしています。それにしても、どうして、今日がお話の日だと分かっていて、何にも用意しなかったんだろうか?と自分自身を責めています。
でも、これが夢でよかったなぁと安堵して目覚めたように思います。親鸞にとっての夢は大きなメルクマールでした。19歳の聖徳太子のお墓での夢、28歳の比叡山大乗院での夢、29歳の池坊・六角堂での夢、それから85歳のときの夢。夢といっても、小生の見るような夢ではないようです。夢は、仏さまから何かのメッセージを聞き取る大事な作法だったようです。ですから、完全に眠り込んでしまって見る夢ではなくて、何がしかの課題をもって、瞑想するというそういう夢の見方だったようです。まぁ、自分に引きつけて考えてみると、何かが気になっているとか、何か思想的なことを考えていて、寝床に入っていると、ハッとして、すごく大事なことを思いついたりします。あのときのハッとした気づきみたいなものを、如来からの夢の告げだと受け止めるようです。ですから課題的ですね。つまり、無意識を大事に大事にしていたのが中世です。現代では、意識の世界が全部だといいますけど、そんなことはないんです。意識は、存在の一部分なんです。その裾野には大きな無意識の世界が横たわっているのです。その無意識との関係を大事にしたいと思います。そういう意味で夢は、無意識からのメッセージを受け止める受け皿ですよね。
そうそう思い出しましたけど、亡くなった秋山さと子さんの講義を受けていたことがありました。彼女はユング心理学の権威者ですよね。容貌はまるで魔女でした。彼女の講義を受けているとき、おかしな夢をみました。はしょって言えば、藁に包まれた黄金のウンコを食べるという夢でした。いまでは黄金のウンコといえば、あの浅草・吾妻橋の朝日ビアホールの屋上のモニュメントを連想しますね。あのビルができる前ですよ、小生が夢を見たのは。光り輝く湯気がでているような、鮮やかな金色のウンコでした。それを小生が食べるという夢なんです。これは象徴的ですよね。いまでも忘れることができません。あのウンコは秋山さと子だったのではないかと思っています。彼女を食べてしまったんです。金色であっても毒でしょうね。ウンコは。実際食べられないことはないわけですけど。あのソドミーというのは、そういう性癖のひとがいます。でも多くのひとは食べませんよね。あんまり美味しそうでもありませんしね。でもそのひとが忌避するウンコを受け入れたということは、自己の無意識を受け入れたということのようでもあります。そのきっかけになったのが秋山さと子先生だったんですね。
まだまだ、その象徴的な夢の意味を全部読み解けてはいません。生涯かかるかもしれません。おそらく親鸞もそうではないかと思うんです。あの29歳の「もしお前がセックスをするならば、私は美女になってお前と添い遂げよう。死んだ後は極楽へ連れていってあげるよ」という救世観音の夢告げです。この夢について親鸞は何も語っていません。でも、生涯の課題としていたのではないかと勘繰っています。つまり、全面受容といいましょうか、絶対的受容を象徴しているように思えるんです。親鸞の存在そのものをまるごと全面的に受け入れられたということです。全面的に如来に受容されることによって、仏者としての親鸞が誕生したとも考えられます。自立ということは、全面的に受容されたということがなければ起こらないことだと思います。
それまでの親鸞は、自己を裁いていたのでしょう。仏教に入門したては、自己を裁きます。煩悩を消し去ろうと。徹底してやれば、死ぬところまでいきます。それは意識が自己存在を裁き苦しめることです。でも、意識よりも存在のほうが先なんですよね。生まれてからやがて自分という意識がやってくるのですから。存在が先、意識は後です。その逆転を象徴的に語っているのが、あの夢の告げではないかと思います。
2003年8月30日
●昨日は、母に驚かされました。急に腹痛をうったえて、下痢や嘔吐をしています。救急車で病院へ直行しました。検査の結果、おそらく腎臓結石だろうということでした。二年前に、結石をレーザーで焼いて粉砕したということで、それが再発したようでした。でも、救急担当医は泌尿器科の専門ではないので、まだ完全にそうと決まったわけではありません。十中八九という診断らしいです。週明けにでも、専門医の検査を受けることになりました。
結石は、腎臓でも尿道でも、尿管でも膀胱でも、やたらに痛むそうですね。経験者に聞くと、死ぬほどの痛みだといいます。でも、発作がおさまると、まるで痛みがウソのようにひいてしまうといいます。不思議なもんです。人体とは不思議なもので、病んでいても痛みを発しない部分もありますし、少しでも傷つくと痛みを感じる場所もあります。目なんかは、塵が入っただけでも、痛くて涙が出ますよね。皮膚だって、トゲが刺さっただけでも、痛みがでます。でも、内臓系は、痛みの感じかたが違います。体の表面に出ている部分よりも痛みの感じかたが鈍感なんでしょうか。膵臓がんや、肺ガンなんて、全然痛みを感じないようです。痛みだしたときには、もうすでに手遅れという状態がほとんどです。小生も、結婚したときに健康診断をしたきりですから、現在どんな状態なのかは全然分かりません。健康診断のときには、太い針の注射器で、血液をとるんですよね。そして、バリウムを飲むときに打つ、小さな注射がすごく痛いんですよね。小生は、注射が大嫌いで、それで健康診断をするのがおっくうになっているのです。あのとんがった金属の先端が体内に入っていくことを考えただけでも、フラッとします。そうかと思うと、注射なんか屁の河童というひともいます。チクッとするくらいで、あとはなんともないよといいます。まぁそういうタイプもありますし、小生みたいなタイプもいるわけです。いろいろあっていいじゃありませんか。それを「怖がり」だとか、「意気地なし」「弱虫」なんて、差別しないでほしいと思います。
父のこともあって、救急車の手配から病院への連絡、診察カードの伝達などなど、スムーズにおこなえるようになりました。聖路加病院の当日外来は、ものすごい混雑でした。もし、救急でも、自家用車で行った場合には、あの順番を待たなければなりません。日本人は救急車が嫌いです。あのピーポー、ピーポーというサイレンが嫌いです。あのけたたましい音を出しながらやってくると、近所の野次馬がドヤドヤと出てきたりします。どこの家だ?だれだ?と見物人が出ます。ですから、あれはやめてほしいですね。救急車に音を出さないで、と伝えるとマナーモードで来てくれるそうですけどね。母に自家用で行く?救急車にする?と尋ねると、「キュウキュウシャ…」という小声が聞こえたので、ためらわずに119へ電話しました。「こちらは東京消防庁。救急ですか?火事ですか?」と応答があります。あわててるときには、なかなか正確に情報を伝えることができませんけど、そのときは落ち着いていました。幸いに、娘が帰省していましたので、救急車に同乗してもらい、小生は、自家用で病院へ向いました。点滴やら、血液検査を終えてるまで鎮痛剤はもらえませんでした。おそらく腎臓結石だということで、ようやく鎮痛剤をもらい、痛みもとれてようやく帰宅できました。
てんやわんやの一日でありました。娑婆は、いつでも「緊急」ですね。一見すると、平凡に見えるんですけど、やっぱり事実は「緊急」ですよね。