住職のつぶやき2004/02


                                                                                                                                                            ( ※もといた場所へ戻るときは、「戻る」キーでお願いします)

2004年2月1日

 日曜日になると、お墓にお参りにくるひとが多くなります。なにを思ってお墓にくるのでしょうか?やっぱり、亡き肉親に会いにくるんでしょうね。必要があって、お墓参りをするわけですから、なんらかの動機があるんでしょうね。まるで、お墓にカウンセリングしてもらっているようです。重たい体を引きずって、ようやくお参りしているおばあちゃんがいます。彼女は、一生懸命お墓参りをすることで、たましいのバランスを保たせているんですね。彼女の頭のなかでは、亡き夫の追悼のために、と思っているのかもしれません。しかしほんとうは、逆であって、亡き肉親によって支えられているのでしょう。生者はなかなかたましいの自立すらできないのです。死んでも支えてもらっているんです。

 小生は、まったくといっていいほどお墓参りをしません。こっちが墓参りをするというよりも、向こうがこっち迫ってきて、逆墓参りをしてくれるので、小生はお墓にいく必要がないといったところです。骨自体は、亡き人の象徴ですし、脱け殻ですから、あんまり興味をそそられないんです。

 そういえば、あんまり念仏を称えるということもしませんねぇ。小生が念仏するより先に、仏さんのほうから小生に向って頭を下げられるんで、こっちは困ってしまいます。念仏は、ほんとうは、自分が仏を念ずるということじゃないと思います。念仏は、仏念であって、仏を念ずる前に、仏から念ぜられているということを実感することでしょう。「念仏念仏念仏念仏念」と循環するんですね。

 自分の現在の状況に不満があるということは、やっぱり仏念仏が足りない証拠でしょう。いま、現在をまるごと「イエス」といって引き受けられないということは、信仰が足りないんです。いまが「イエス」と引き受けられなければ、どこにいったって、いつになったって、満足はないわけです。

 それは欲望の満足とは違います。欲望はどこまでいっても、満足はあり得ません。それが欲望の本性なんです。もうなにも欲しないという状態は、死んでいるということです。生きているということは、つねに何かを欲し、欲動しているということなんです。そういうことじゃありません。もっと根底にある、「生きるという感覚の満足」とでもいったらいいのでしょうか。いまを「イエス」と受け止めたところから、生きはじめなければならないと思います。お経には「満足」という言葉がよくでてきます。それは欲望の満足をいっているわけじゃありません。もっと生きる根底をなしている感覚の満足でしょう。

 満足からいまを生きるわけです。欲望はいつでも不満をかかえているものです。そういう欲望の本性をよく見抜いていないとだめです。よく間違ってしまって、満足というと、欲望の不満がないと考えてしまうんです。そんなことはあり得ないのです。つまり何がなくても、また何があっても、それに左右されない満足ということなんでしょう。

 お経には天人のことが書かれています。天人は人間がうらやむような世界です。寿命がながいとか、どこにでも飛んで行けるとか。でも、天人にも五衰があるといわれていて、そのなかの「不楽本居」というものが一番の苦しみだといわれています。「本居を楽しまず」、つまり自分のいまの現状が楽しくないというものがもっとも深い苦しみだというのです。欲望がどれほど満たされても人間は満足しないわけです。お金があっても、健康でも、グルメでも、それが実現してしまえば、楽しくもなんともないというのです。つまり「当たり前」地獄ですね。なんでも当たり前になってしまえば、なんの感動も楽しみも感じませんよね。

 念仏は、そういう自分の姿をよくよく照らし出して、見せてくれます。そして何の不足があるのか!と迫ってきます。そう迫られると、こっちはグーの音も出ません。おっしゃるとおりですと引き下がらざるをえません。そして、いまという時間を、仏さまから頂戴したものとして、受け取りなおすわけです。自分からいえば、不満たらたら、不平たらたらで生きているわけです。そんなワガママな愚か者に対して、仏は、何の不満があるのか!と迫ってきます。その脅迫に遇わなければ、いまをちゃんと受け取ることができません。念仏は恐ろしいもんですね。仏からの脅迫のようなもんです。ですから、念仏は向こうから迫ってくるもんでしょう。それだから「いま」というものに対して、頭を垂れざるをえません。その「いま」はただの「いま」じゃありません。「永遠のいま」なんでしょう。永遠と地続きのいまなんでしょう。

2004年2月2日

●今月の言葉

厳密には現在の救いである。

厳密にいえば未来に救いはないのである。

現在ということが救いである。

むしろ、救いのないものには

現在がない。

                                                                       (安田理深)

この言葉は小生の大好きな言葉です。救いは現在にあり!という安田理深先生の言葉です。浄土真宗は、どうしても、極楽浄土へ行ってから救われるのだというふうに理解されがちです。未来に救いがあると考えてしまうと、現在には救いがないということを意味してしまいます。しかし、もし現在というものに救いがないのであれば、それは、どれほど素晴らしい救いであっても絵に描いた餅に過ぎません。そんなものは、こっちから願い下げです。そんな救いであれば欲求不満が残りますよね。

 先生は、未来に救いがあるように語っているけど、現実には現在に救いがあるということなんだと教えくれています。その「現在」ということが、また意味深長なんです。決して、私たちが日常考えている「現在」とは同じではないというところが、味噌なんですよ。私たちが「現在」と考えている現在は、「すでに成り立ってしまった現在」を考えてしまいます。つまり、「過去になってしまった現在」を現在とだけ考えているのです。でも、「過去になったしまった現在」は、厳密にいえば、現在ではありません。それは「過去となってしまった現在」であって、純粋な現在の残り滓みたいなもんです。そういう現在をいっているわけではありません。むしろ、つねに「現在になりつつある現在」を意味しているわけです。「過去になってしまった現在」ではなく、永遠に過去にならない現在です。いつでも、現在になりつつある「未来としての現在」とでもいいましょうか。それなので、極楽浄土というものを「未来」と表現したりもするわけです。日常的な時間論をベースにしていえば、それは未来ともいえる面があるんです。、決して過去としての現在にならないからです。

 ほんとうに純粋に生きている現在のところに救いがあるのです。それでなければ、人間に救いは感じられないことになります。厳密にいえば「現在」にも「過去となっしまった現在」と、「現在になりつつある現在」があるということなのです。その生きた現在のところに救いがあるんです。そういう微妙な意味を安田理深先生は表現されているのです。

 もし救いが現在と切りはなされた未来にあるのであれば、それは永遠に待望の域をでません。あこがれであって、現在には救いがないことをあらわしています。でも、決して過去となった現在でもありません。過去となってしまえば、人間は、退屈の域に入ってしまいます。つまり人間の意識の範疇におさめられてしまい、痛くもかゆくもないものとなります。ワクワクした感動と、喜びが消え失せてしまいます。つまり「当たり前地獄」にはまり込んでしまいます。ですから、なんといいましょうか、滝が上流から落下して、滝壺に落ちて行く、その途中に純粋な現在があるとでも比喩的にいうしかありません。それは固定することができません。もし生きた現在をとらえるならば、それば、永遠に不可能ということになります。超高速度カメラで撮影すれば、いかにも滝の落下が止まったようにみえましょうとも、しかし現実には、滝はとどまるところなくして落ちつづけているわけでしょう。

 そういう純粋な現在に救いがあることを表現しているのです。それはこの世の条件を問題としません。この世の貧富の差がなくなったときとか、差別がなくなったときとか、戦いがなくなったときとか、そういう条件を問題としないということがあります。つまり無条件です。この世的には、そういう諸問題は軽減されるべきでしょう。でも、救いという面からいえば、そういう問題がどの程度軽減されようとも、またされまいとも、成り立つことでなければなりません。

 どれほどのことで病床にあろうとも、どれほど元気にかくしゃくとしていようとも、それには無関係に成り立つことでなければ、ならないと思います。いかなる条件も問題としないということが、まさに革命的なことなんです。条件を問題にするということは、かえって反動的でしょう。いつでも、どこでも、だれにおいても成り立つ救いでなければなりません。

 安田理深先生の言葉は、そんな革命的な人間の救済宣言に思えます。

 

2004年2月4日

一泊で本山に行っていましたので、更新が滞りました。ごめんなさい。m(__)m

 やっぱり、教団にとって、現代に通じる言葉をなんとか生み出したいという願いが切実なんだと思います。それも、たましいに影をかかえているひとにピタッと心に染みる言葉を生み出したいと願っているようです。仏教というと、とにかく漢字が多いですから、それだけで、もう拒否されてきました。まぁ、たましいの影が深いひとは、それでも独力で、それに食らいついてなんとか、独学でかみ砕いて味わっておられるひともいます。でも、その影にも深さの違いがあって、浅いひとから深いひとまで、様々に深度が違います。

 先日、鷲田先生に、そのことをお話ししたら、哲学も同じ課題をかかえているのだおっしゃっていました。もともと、ヨーロッパではじまった哲学ですから、横文字なんですけど、それが日本にやってくると、どうしても漢字の哲学用語になってしまうという問題があるんですね。「現存在」とか、「現象」とか、「実存」とか、とにかく難しくなります。ヨーロッパはそうではないんだそうです。日常の話し言葉なんだそうですね。ですから、本来の哲学の原点に戻して、話し言葉としての哲学をどういうふうに作り上げるかということが課題なのだとおっしゃっていました。

 これは仏教も同じですね。漢字をやめて、もう一度「ひら仮名」かなんかで表現したらどうなんでしょうか。古語くらいで作り上げてみたらどうなんでしょうか。違うものになるんじゃないかと思います。そういえば、流行り言葉も古語が多いですよね。「ゆらぎ・いやし・きれる・いっき・うつ・すくい」など。でも、おそらく漢字を用いなければどうしても、難しいでしょうね。

 そして、果たして、そんな言葉を生み出せるのか?という疑問も感じるんです。なにも発明のように、生れる言葉じゃないのかもしれませんけど、時間をかけて試行錯誤を繰り返しているうちに生み出されてくるものなのかもしれません。

 

2004年2月5日

金原ひとみの『蛇にピアス』を読みました。

 芥川賞を19歳と20歳の女の子が受賞しました。マスコミは大きく報じました。これは、なんかヤラセ臭い受賞じゃないかと、ちょっといぶかしく思いました。角界でも、若貴兄弟がスターとしてあったときには、隆盛でした。格闘技のボブサップ、ゴルフのタイガーウッズ等々。どんな世界でも、それなりのスターがいないと、ブームは起きませんね。そんな事情があって、女の子たちに芥川賞を送って、文学界というか、活字離れの若者たちに販路をひろげようという出版業界の壮大な計画があるのではないかと、勘繰ってしまったんです。

 でも実際にこの本を読んでみると、現代の若者のこころの深層をよく描いているようにみえました。舌の真ん中にピアスを入れてゆき、徐々にピアスの直径を太くしていきます。やがて、先端の部分を切断して二股にし、蛇のような舌にするという、これを「スプリット・タン」というそうですけど、これに憧れをもつ女の子が主人公です。

 自分の体に金属をはめたり、タトゥーを入れたりするという装飾術は、未開原始の時代から人間がおこなってきたことですから、そう珍しいことではないのでしょう。でも、現代という時代のなかで、金属が舌にはまっているのを見かけると、ギョッとするのはなぜなのでしょうか。あれじゃ、モズクやオボロ昆布を食べたときに絡まって収拾つかなくなるんじゃないかといらぬ心配をしてしまいます。小生は、注射針というごく細い金属でも自分の体内に入れることを忌避します。つまり、肉体を傷つけるという痛みに対して、ものすごく抵抗感を感じます。森岡正博さんが「無痛文明論」というように、現代は「無痛」であることが、最優先される文化ともいえるのでしょう。医療の世界でも、ペイン・コントロールというのはずいぶん進みましたよね。歯の治療でも、以前とは比べ物にならないくらい痛みが少なくて済みます。現代の文化が、痛みを取り除くことに力を注いできたので、逆に、現代人はちょっとした痛みに耐えられないのだということになってしまったのでしょう。

 そこで、あえて、スプリット・タンなんですから、ちょっと屈折があるんでしょうね。若者の原始回帰だともいえそうですけど、でも、原始未開のひとたちにとっては、タトゥーやピアスは、なんらかの社会的な意味をもっているんですよね。未婚・既婚を分けるとか、成人か非成人かを分けるとかね。だから、ある面、通過儀礼として自分の好き嫌いにかかわりなく、そうしなきゃならないのでしょう。ショッキングだったのは、南太平洋の島だったか、地上15メートルくらいのやぐらの上から、足に蔦を巻き付けて飛び下りるという、いわゆる「成人式」がありましね。いまじゃ、「遊び」として遊園地にあるバンジージャンプですね。あの部族に生れていたら、小生はとても成人できないということになったと思います。

 まあ日本だって、武士は15歳で元服するとか、既婚者は振り袖は着ないとか、頭の結いかたも未婚者と分けるとか、いろいろな取り決めごとがありましたよね。いまでは、そういった通過儀礼とか社会的慣習が意味をなさなくなりましたから、かえって、自分で自分なりの通過儀礼を施さなくてはならない時代に入ったのかもしれません。

 小生の時代には、学生運動のような、アンチ大人文化を通過することによって、やがて成人式を自分なりにこなしていったんだと思います。しかし現代では、そういったアンチ大人文化を個別に見いだしていかなければなりませんから、大変でしょうね。不登校とか、フリーター、援助交際、暴走行為や薬物依存やアルコール依存、そしてタトゥーや、それこそスプリット・タンなど。そういう、アンダー・グラウンドの文化を通過しないと、どうしても大人になってゆけないんでしょうね。こどもが大人になるためにはどうしても「悪」の要素が必要なんでしょう。この社会全部が真っ白の善では、成り立っていないのですからね。悪と善と、その中間と、いろいろな温度差をもちながら、それぞれが生きているということが社会というものです。それをひとつの価値観でくくらないということが大事だと思います。人間は、それこそ個別の産物ですから、他人と絶対に同化しない部分をもっています。それと同時に、共有できる部分ももっています。その両方を尊重してゆけることが大事でしょう。

2004年2月6日

●「いい加減」であることの豊かさ

人間は、もともと、「程度の差の生き物」だと、小生は思っています。貧富とか美醜とか健康状態も生れもそうです。全部程度の差でしかありません。ですから、この世のすべての善も、そしてすべての悪も、自分のなかに何パーセントかは混じっているわけです。だから、テレビを見ていて笑ったり、泣いたり、腹を立てたりできるんではないでしょうか。自分と共通の質がなければ、こころが共鳴するということはないように思うんです。つまり、自分の存在の根っこと、他者とが底のほうでつながっているという感覚です。もっと、その感覚を広げてゆけば、食物として食べている動物や植物も、自分と通じているというところまでゆきます。自分と共通の部分があるから、食べて自分自身の肉に変えるということも可能なのでしょう。

 そうすると、舌にピアスをする人間の感性と、自分とがどこかでつながっているはずなのだと思って考えてみました。つまり自分の体を傷つけることによってでも、ある種の快を得ようとする、そういうことなのでしょうか。ある種の快とは、単に肉体的に一時的な痛みがあったとしても、それでも、それ以上の快を得ようとするという衝動なのでしょうか。

 フロイトは、確か、人間には快楽原則と現実原則とがあるといってましたね。快楽原則とは、常に即座に快感を得たいという衝動のことです。固い食べ物より、柔らかい食べ物のほうが快感を得られるとか、がさついた肌より、なめらかな肌のほうが触感がいいとか。それと現実原則というのがあるというのです。これは、即座に快感が得られなくても、やがて快感をえる為には、いまは多少苦しみがあっても、そのことを乗り越えてゆこうとする衝動です。いまは我慢して勉強すれば、やがて将来には快感を多く得られる自分になれるのだと考える考え方といってもいいでしょう。この現実原則によれば、人間は多少の苦しみには耐えることができるといいます。おそらくこの原則で舌にもピアスをすることができるのでしょうか。

 しかし、現代の若者たちは、もはや「考える」ということ以上に、触覚を基本に生きるアンテナを延ばしているように感じます。あのオウム真理教の肉体修行にも、そういう若者たちのニーズに応える何かがあったのだと思います。アメリカでも座禅がブームになったのは、そういう「考える」ということへのアンチテーゼがあったように思いえます。なんらかの形で肉体に働きかけて、意味を見いだしていくという欲求ですね。もはや頼れるものは、「考える」ということではなく、自分自身の身体的触覚だというのでしょう。

 昔も、「不言実行」ということが美徳とされてきたわけですから、やっぱり、日本人は肉体的な行為に重きをおいてきたのかもしれません。有言不実行→有言実行→不言実行の順番に美徳の点数が上がってゆきましたね。小生も若いころは我武者羅に断食してみたり、無茶苦茶に歩いてみたり、体を動かしていないと持ちこたえられないときがありました。何か、机の前に座っているだけでは、もう飽き足らなくて、とにかく動いていないと欲求不満になってしまうという状態でした。我武者羅に動いたからといって、別に世界が開かれるわけでもないのですけど、そうせざるをえなかったようです。ですから、肉体に何かを賭けるというのは、青年期の特徴なのでしょう。

 真宗は絶対他力の教えですから、修行をしたら救われないと教えられています。そういわれてしまうと、いったいどうすればいいんだ!と内面から、八方塞がりの責め苦に苛まれてしまいます。窒息しそうです。別に何をやってはいけないという禁止はないのです。ですから、なんでもご縁にまかせて行為してよろしいわけですけど、自己規制がはたらくんです。そうやって、いっぺん動物的な自己の傲慢さを殺すんですね。自分が動いていては、世界が動いていることが見えないんです。一度、殺されて静止させられてみると、世界がおのずから動いていることに目が覚めるんです。その意味で「修行したら救われないぞ!」と教えられて、動物的自己を殺すわけです。死んでみると、世界がおのずから動いているダイナミズムに目が覚めるわけです。自分の心臓の鼓動が、ようやく聞こえるようになるんです。植物が、みるみる色をもって鮮やかに伸びていることに気がつくんです。

 そこまで、来てようやく、修行の傲慢さがダメだったとわかるわけです。生れたときから、自分は絶対受動できたのだと目が覚めるわけです。そこまでくれば、みずからの肉体を痛めたりすることが罪であったと悟るわけです。傲慢さの罪であったとね。そして、はじめて「いい加減」の徳にあずかることができるのでした。動物的的自己が死んでいないと、「いい加減」は許せないのです。徹底しないとダメなんです。とことん行き着くところまで行かないとダメなんです。人間は程度の生き物だなんていう発言は決して許せないわけです。そんな発言は堕落だと思ってしまうのです。でもやがて、徐々に、程度が大事だと分かってくるんですね。明日が来ないんじゃないかと思って飲んだくれるようなこともなくなるのです。若いころは飲み出すと、明日が来ないような気がしました。でも、どれほど酔っぱらって倒れていても、夜が白々と明けてくるのでした。残酷です。そんな残酷を何度も何度も通過して、ようやく程度の大事が身に沁みてくるんです。

 それを「老化」という一語でくくってしまうには、あまりに惜しいと思います。動物的自己に死んで、ようやく植物的自己に成熟してゆくとでもいったらどうでしょうか。

2004年2月7日

●「悪人成仏」って?

お寺出身の高校生が、学校の授業で、親鸞のいう「悪人成仏説」を習ったそうです。

「先生、悪人成仏ってどういうことですか?」

「そりゃ、お前、泥棒だって救われるっていうことだよ!」

「えーっ、ダッセー!」

そんなやりとりだったんでしょうか?

 それを聞いた小生は、そんな教師がいるのか!と驚いたんですけど、すぐに思いなおして、教師はその程度のものだよなぁ、無理もないなぁと納得もしました。親鸞のいう「悪人」というのは、「お前のような悪人でも助かるよ」という文脈の悪人なんです。ですから、「例えば泥棒がいて、そのひとが悪人で…」というような話をしているわけではありません。ですから、悪人は三人称じゃないんです。二人称ですよ。「あなた」に投げかけられている言葉なんですよ。あなたが、自分のことを善人だと思っているのか、悪人だと思っているのか、ここが分かれ目ですね。

 おそらく自分は、善人だと思っているんですよね。人間はみんな。ひとに迷惑はかけてないし、法律で罰せられたこともないしと。でも、生きているということは、大罪だと親鸞は見ていたんじゃないでしょうか。他の生き物を殺して食い、傲慢にも自分がこの世で一番大事だと思い、自分に邪魔なものは黙殺したり、抹殺したりするんですからね。BSEで牛肉がダメになったと思ったら、次は鳥インフルエンザで鶏肉がダメになり、今朝はまた豚が感染要因だとなって、豚肉が危うい状態になってきました。これは獣たちの反逆かもしれません。いままで唯々諾々と食肉として食われつづけてきた獣たちが、人間に食われることを拒否しはじめたんじゃないでしょうか。食肉に抗生物質を混ぜて、病気になりにくい肉をつくりました。これは、人間にとって安全な食肉ということであって、何も獣たちの健康を願ってのことじゃありませんからね。ところがその薬に対抗する菌が現われました。薬とバクテリアとは、比例して強くなったそうですね。そしてとうとう薬を打ち負かすバクテリアが生れてきたんです。まさにこれは獣たちの反逆ではないでしょうか。

 話がそれました。ですから、自分が精神的健康児、つまり善人だと思っているひとには、「悪人成仏」は全然響いてこない言葉ですね。罪を恐れ、後悔し、どこかで深く傷ついている病人にこそ、響いてくるのでしょう。信仰の言葉は、いつでも「二人称」の文脈で読まなければならないでしょう。とかく、自分を横において「三人称」として読みたがるんですけど、それでは、焦点がぶれてしまいますね。

 仏教書ブームで、結構その手の本は売れています。でも、お寺は閑散としています。思想としての仏教は好きだけど、教団は嫌いということでしょう。特にオウム事件以来、余計にひどいんじゃないかと思います。教団という組織に近づくと利用されるんじゃないか、二度と抜けられないんじゃないか。そういう圧迫を感じるようです。でも、出入り自由ということじゃないと健康な宗教集団とはいえないでしょう。一度入ったら、出るのに大変とか、足抜けできないような強制力があるのであれば、それはカルト集団といってもいいのでしょう。悪女の深情けという程度であればいいですけど、こじらせれば、それは脅迫になりますよね。

 でも、やっぱり、仏教も「サンガ」という集団で伝承されてきたものですから、どうしても、面と向って言葉を交わすということがなければ、仏教の深い意味にまで到達することは難しいんです。仏教ではそれを大事にしますね。「面授」といって、ひとを媒介にしないと、仏教の正しい意味が開かれないというのです。自分が仏教書を読むということだと、どうしても、自分の眼、自分の視座で読みますから、他の視座が成り立ちにくいんです。自分の色眼鏡をかけて読むといってもいいわけです。実は、仏教は、その自分の色眼鏡を問う教えですから、どうしても生きた人間によって教えを受けるということがなければなりません。

 親鸞でも、生きた法然に出遇うことがなければ、信仰の道に至りえなかったと思います。ですから、ひとに出遇うということは大切です。ひとに出会わなければ信仰へはいたり得ないんです。でも、これも厄介で、ひとに出遇うと、今度は出遇ったことにとらわれて、先生の絶対化を起こすんです。ほんと人間は救われませんなぁ。自分にも頼らず、先生にも頼らないという、ふたつの問題をクリアーしなければなりませんから、これも大変です。仏教書を読んでいれば、そんなことは必要ありませんから、安全です。でも、虎穴に入らずんば、孤児を得ずということがあります。一度冒険してみるというのも手ですよ。それはもはや「賭け」の領域ですけどね。自分の嗅覚を信じて、賭けてみるのも、人生の醍醐味かもしれません。

 

2004年2月8日

「正しいものが迫害を受ける」ということは真実であっても、「迫害を受けるものが必ずしも正しい」とは限らない。

 でも、「正しいものが迫害を受ける」と主張するひとたちは、自分たちがどこかで「正しいもの」であると自認している場合が多いです。承元の法難で、法然の吉水教団が弾圧されたわけですけど、あの事件に対して親鸞も怒りをあらわしていますね。そのとき「聖道の諸教は行証ひたしく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛りなり」と言ってます。やっぱり、自分の立場を「真」を含んだ側に立てているんです。それは確かに間違っている、聖道門非道なり!と言いたいところですし、そういう言い方になっても仕方ないことです。でも、百歩譲って考えてみると、自分の側にいくら「真」があると主張してみても、それじゃ相手と同じ土俵に立ってしまうことなります。

 歎異抄の語り口は少し違っています。「たとえ他宗派のひとびとが、念仏は劣った人間の称えるものだから、その教えは浅くていやしいものなんだと非難しても、私たちのような器量の劣ったただびとが、救済される教えなのですから、あなたたちのような優れたエリートにとってはいやしい教えであっても、私たちにとっては最上の教えなんです。」そんなふうに応答すれば、相手に憎々しい気分をおこさせないでしょうと。

 まあ教行信証は、法然弁明のプロパガンダですから、アンチ聖道門という姿勢の著作ですね。やはり、教団の内部問題を扱った歎異抄とは、態度が違って当然なのでしょう。でも、歎異抄のほうが、大人の身の処しかただと思います。自分の側を「真」の側に立てないというところから、問題を解決していこうとしています。あくまで自分を相手より低い位置に置いています。内心では、自分のほうが正しいのだという気持ちは十分あるんですけど、それをオモテにあらわすことをしていません。それをオモテにあらわせば、相手と同じ土俵に立つ危険性を知っているからです。同じ土俵に立てば、後は、さまざまな暴力によって力の強いものが「真」を勝ち取るだけですからね。

 でも、「正しいものが迫害を受ける」ということは歴史においてあるんでしょうね。でもそれを逆さまにして「迫害を受けるものは、すべて正しいものである」という理論は間違っています。閉塞していく政治集団にして、宗教集団にしても、必ずそういう論理に落ち込んでゆきます。オウムもそうでしたね。そこにはこういう三段論法がはたらくんです。「自分たちは正しい教えの集団である。世間は正しいものを弾圧するものである。故に、われわれは弾圧を受けるのだ」と。だから、弾圧を免れるには、敵対する世間を殲滅させるか、懐柔するか、支配するかしかありません。

 でも、教団という共同幻想体は、そういう発想に落ち込むことがよくあるんですよね。こんなに正しい教えがあるのに、どうして世間の人々は振り向いてくれないのだろう?などと言って嘆いたりしますよね。そして、いくら宣伝しても振り向いてくれないと、世間のやつらはバカばかりだと徐々に嘆きが恨みに変わってくるんです。そして、やっぱり世間の人間には、真実を聞く耳がないのだと断定して、内部へ内部へと閉塞していくのです。そういう恐ろしい面をもっていますよね。

 そういう幻想にとりつかれているときには、「犀の角のごとく、ただひとり歩め」というお釈迦様に思いを馳せたいと思います。世間の人間を嘆く以前に、自分自身の信心の不徹底を嘆けというのです。実は自分自身の信仰の不徹底が、一番の問題なんでしょう。不徹底が、信仰を個人に閉じ込めてしまっているんです。ですから、その個人の底を破って、普遍的な個にまで、信仰を深めてゆかなければなりません。自分のまわりを見ても、他者はいないんですよね。自分の足下にあるんでしょう。

 筑紫哲也さんも、仏教が、過剰な一神教の争いに対して平和を訴える思想じゃないかと言ってました。でも、実際、パレスチナ問題でテロを起こしている人間に対して、あるいは、自爆テロをしようと体に爆弾をくくりつけている人間に対して、どのようなことが通じてゆけることなのか、それは分かりません。やはり「汝、自身の為すべきことを為せ」ということしかないのでしょうね。ゴマメノ歯ぎしりであっても、言うべきことを言うということしかないのでしょう。

 

2004年2月9日 

もう片方の芥川賞受賞者・綿矢りさの『蹴りたい背中』を読みました。

 学園生活における集団というものに対する嫌悪感など共感する部分も多かったです。これは、山田詠美の『風葬の教室』と似た印象をもちました。比べて悪いんですけど、金原ひとみの『蛇にピアス』のほうが面白かったです。金原が油絵であるなら、綿矢は水彩画といった印象です。どちらも、現代の若者の何重にも折れ曲がり、屈折しきって出口も見つからないこころの表白でありました。昨日の法事にもルーズを履いてる子が座っていて、小生の法話の時間、つまらなそうにしていたことを思い出します。きっと彼女には全然、通じていないんだろうなぁと思いながら、それでも、なんとかこっちを振り向かせたいなぁと思いながら、苦しい時間を過ごしました。「そうだよなぁ、退屈だよなぁ、おれも同じだったよ。あんたの年頃には…。でもどうしようもないんだよ、こういう役回りになっちゃったんだからさぁ」なんて思いながら法話していました。

 ともかく「自由という名の不自由」が、大洪水のように降り注ぎ、その洪水にアップアップしているのが現代の若者でしょうからね。「将来が見えすぎてしまった」と漏らした子もいますね。自分の出身校やら、能力で、だいたい自分の人生はこんなものだと見切りをつけてしまうんですね。頂上が見えたら、足が重たくなりますね。これは、山登りでもそうなんですよ。頂上が見えないから、山って登れるんですよね。頂上が見えていたら、足が重たくなりますよ。だって、まだ、あんなに登らなきゃならないんだと思ってしまうからです。ですから富士山は嫌いですね。頂上は見えているのに、いくら登っても頂上に辿り着けないんですから。

 そうそう、鷲田清一さんが、こんなふうに言ってました。

「将来が見えすぎたっていうけど、あれって、自分の都合のいいことばかり考えているんですよね。これから、先全部、自分の都合よくいくことを前提にして「見えた」って言ってるんですよ。会社が倒産したらとか、両親が死んだり、伴侶が亡くなったり、交通事故で入院するとか、大病したり、そういう自分にとって都合の悪いことは全然視野に入ってないんです」と。

 確かにそうですね。小生は「意識が存在を押しつぶしてしまう」と表現しています。将来が見えたというのは、いま考えているだけですよね。それは意識ですよね。意識が、生きるという存在を覆い尽くして、生きられないように押しつぶしてしまうんです。

 でも、現実はそんなもんじゃないです。鷲田さんがおっしゃるように、偶然の連続が人生ですから、奇想天外、前代未聞の生があるわけです。そんなにダイナミックな生を押しつぶしてしまうものが、意識なんです。それも自分の意識が、自分の存在を押しつぶしてしまうんですから恐ろしいことです。

 ベトナムのお坊さんが、私に釈迦の涅槃像をプレゼントしてくれました。涅槃像とは、お釈迦様の死んでいる像です。これは「お前も死ぬぞ!」という宣告なんです。いつかは知らないけど、お前は必ず死ぬぞ!と。それを忘れるな!ということでしょう。ですから、自分には明日はこないかもしれないんです。一瞬先は闇ですからね。でも、明日がこないと思って今という時間を生きてみたら、今が違って見えないか!というメッセージでもあるんです。

 小生はたまに散歩します。車も通れないような細い裏路地をほっつき歩くことがあります。そこには、ネコが昼寝していたり、植木鉢に雑草が生えていたり、二階の物干しで洗濯物が揺れていたり、そんな光景が目に入ります。でも、おそらくこの場所、そしてこの光景を小生の一生の間に二度と見ることはないだろうと思うんです。二度と訪れることのない場所と時間の光景だと思うと、ものすごくかけがけのなさを感じるんです。その光景を慈しむ心情が沸きおこり、とても感動的なワンシーンになるんです。たぶん、日々の生活もそうなんでしょうね。そんなふうには感じませんけど。でも、現実はそうなんでしょう。二度と同じ時間はないし、同じ場所もないのでしょう。つねに変化して虚ろっているのに、この「意識」が存在を覆い尽くしてしまっているんでしょう。これは「意識の病」ですね。なんでも同じように見え、なんでも同じことの繰り返しだと見えてしまう意識の病ですね。もっと微細に、生きることの細部に気をつけていたいと思います。そうすれば、ものごとの微細な変化に気づくはずなんです。『蹴りたい背中』にこんな言葉がありました。「自分の内側ばかり見ているから、何も覚えていない。学校にいる間は、頭の中でずっと一人でしゃべっているから、外の世界が遠いんだ」と。小生のことをいわれているようでした。ほんと、「自分の内側ばかり見ているから、何も覚えていない」んだなぁと思います。ものをどこかに、ポンと置いてしまって、「あれっ、どこに置いたっけ…」と探すことが度々です。ほとんど無意識で生きているということが分かります。これじゃ、微細に生きるなんて、できっこないと化けの皮が剥がされました。

 

2004年2月10日

自分もまんざらじゃないとか、あいつより上だなぁという慢心が起こってきたとき、その心を横に置いて眺められるような余裕ができました。以前の自分は、そういう慢心が起こってきたとき、その慢心にこころが牛耳られてしまって、身動きができなくなってしまいました。

 酒に酔っているときには、必要以上に第三者の悪口をデフォルメして発言したり、面白おかしく尾ひれをつけて、とかくデフォルメが行われます。そういうことをしている自分を後から見ては、嫌悪していました。でも、あれも自分なんだと思います。お調子者でも、おっちょこちょいで、それでいて打たれ弱くて、人情家で、根明かそうに見えても実は根暗で。それもこれも全部自分なんですよね。

 以前「〜ともいう」という表現をしていました。自分には実体がなくて、ある時点の自分でしかないということです。それを「〜ともいう」と表現します。「ご飯を食べている自分ともいう」。「テレビを見ている自分ともいう」。「ひとの悪口を肴にして酒を飲んでいる自分ともいう」。「あいつより自分のほうが上だぜと思っている自分ともいう」と。全部、自分の後に「〜ともいう」と付け加えて自分を受け取ってみたんです。だって、自分は時々刻々変化していて、固定的にとらえることが難しいからです。名前は固有名詞だから変化しないといいますけど、あれは「意識」がそう決めているだけですから、事実は変化しっぱなしですよね。

 比叡山学院(天台宗)の偉い先生が、「人間はもともと善人なんです。善人だから仏法を聞くことができるんです…」と語っていました。小生は、それを聞きながら、そう「善人」と決めたらダメなんじゃないかと思いました。善にも傾くし、悪にも傾くわけでしょう。唯識では、<いま>という時点は、善悪ゼロ度と考えるそうです。どれほど悪いことをしてきたからといって、<いま>悪いことをするとは限りません。どれほど善いことをしてきたからといって、<いま>善いことをするとは限りません。つまり<いま>ということは、善悪ゼロ度だというのです。人間は、過去の所行によって、左右される面とまったく左右されない面とがあるわけです。

 まあ、ひとに向って説得するときには、あんたは善人だから仏法を聞くことができるんだよということはあっても、仏法の道理に照らしてみたらそうとも言えないんじゃないでしょうか。もう少し話を聞いていたら、自分はいろいろなものを殺して食べてきたから、本当は全身をなげうって感謝と懺悔をしなければならない。でも、そんなことはできないから、少なくともひとを安心させるような顔だけはできるというのです。ひとと会ったら穏やかな笑顔で接することくらいはできるだろうというのです。やれることをひとつでもやっていこうと、ここまで聞いていたら、なんだか仏法も安っぽい道徳になりさがってしまったもんだと、呆れてしまいました。どんなことをやっても、懺悔することも感謝することもできないという、そこに人間の本質があるわけでしょう。そりゃ、小学生が、「いのちを殺して食べているんだから、おかずを残らず食べるようにします」と誓っているのとはわけが違うんですからね。

 お話では、ジャータカのシビ王の話をしてました。王様のもとに逃げてきた鳩、それを追ってきた鷹。鳩は王に、助けてほしいと懇願します。鷹はおれの食べ物だから、よこせと王に詰め寄ります。そこで、王は鳩と同じ重さだけ、わたしの肉を与えようとします。そして、自分の肉をナイフで切り落として秤に乗せます。しかし、どれほど肉を乗せても鳩の重さと釣り合いません。とうとう、王のいのちが尽きたとき鳩の重さと釣り合うのです。王は、鳩は軽いから自分の肉を少し与えれば、鷹は救えると思ったのでしょう。これは歎異抄の文脈でいえば、聖道の慈悲ですよね。ちょっと手助けすれば、それで助けられると思っているんです。まあこの程度の慈悲心はみんなもっています。でも、ほんとうに鳩の重さと釣り合うためには、自分のいのちを与えることになってしまうのです。最初から、いのちがけだと分かっていたら、王は果たして肉を与えたでしょうか。そんな意地悪なことも考えてしまいます。そして突き詰めて考えてゆくと、この話は、人を助けるとか感謝することは、人間には不可能だということを教えいます。

 まぁ物語としては、王がいのちを失った時にブラフマンという神様が登場して、これが本当の布施だということで救済するということになるんですけどね。どうしても物語としてはハッピーエンドにしなければなりませんからね。でも、いいたいことは、前段にあるんでしょう。人を助けるとか、他のいのちに感謝するとか、そういうことは人間には不可能だということを教えているのでしょう。そこが、人間の基底ですね。「不可能だ」というと、途端に、そんなことをいったら身も蓋もないじゃないか!という批判が用意されているんです。福祉も政治も無意味だというのか!とね。でも小生は、そんなことを言っているんじゃありません。それは、聖道の慈悲の次元までだということです。やはり人間はお互いに助け合ってやったほうが、いいに決まってるんですから。でも、そこまでなんですよね。どんなに苦しんでいるひとがいても、そのひとの身代わりになることはできませんからね。そのひとの代わりになって死ぬことは不可能です。

 その不可能さが人間の基底なんだと知っていないと、ちょっとひとに感謝したり、助けたりすると、いい気持ちになってしまうんですよね。自分は捨てたもんじゃないと、どこかで思ってしまうんです。そして、それがあたかもいいことのように思ってしまいます。変な言い方ですけど、いいことの一番悪いところは、だれからも批判できないようになっていることです。清く正しく美しく、ひとに優しく、助け合おうということは、だれからも批判されません。そこが一番危ないところですし、「いいことの一番悪い部分」だと思います。

 やはり人間の一番の基底にまで足をつけていないと、ダメなんでしょう。そこに足をつけていれば、多少思い上がっても、やがて醒めてきます。人間の存在の基底ということを表現するのが宗教ということじゃないでしょうか。そこから足を浮かせたら、やっぱり仏法じゃなくなると思います。比叡山は、人間の存在の基底から足を浮き上がらせてしまったのかもしれません。その虚偽性に親鸞は嫌気がさして、山を降り、町へ出たのかもしれないなぁと思います。

 

2004年2月12日

何も信じていないひとなんか、いないと思います。人間は、よく無信仰だとか、自分は何も信じていないというひとがいますけど、絶対に信じています。

 空気には毒が混じっているとは疑っていません。信じています。水道の水にも毒が入っているなんてこれっぽっちも疑っていません。これまた信じています。レストランで出される料理にだってそうです。いま歩いている道が裂けて、崩れ落ちるなんて疑っていません。明日が来ないなんて、全然疑っていません。だれかが自分を殺しにくるだろうなんていうことも、そうです。着ている服が毒によって汚染されているなんていうことも疑った試しがありません。そして、この肉体が自分であるということなど、さらさら疑ったこともありません。まったく信じています。

 そうやって、疑っていないことをあげつらってゆきますと、信じていないことのほうが少ないように思います。ほとんど信じているんですよね。たぶん「自分は信じていない」と思い込んでいるひとは、自分自身がどれほど信じているか、そこに目が届かないんでしょうね。

 そこにはちょっとしたカラクリがありそうです。つまり、そのひとは「宗教とか、神様とか」そういうものは信じていないと考えいるのでしょう。でも、「宗教とか、神様」なんていうものは、存在しません。そのひとは「宗教とか神様」という言葉があるから、その実体があるんだと思い込んでいるだけです。ほんとうは、実体はないんですよ。宗教とは何か?と問い詰めてゆくと、最後は雲散霧消してしまいます。真宗の阿弥陀さんだって、それを問い詰めてゆくと、阿=〜無い。弥陀=量る。ですから、人間には量れないというのが正体なんですからね。神道の御神体って鏡だったり、なんだか、あれもよく分かりません。キリスト教だってイスラムでも、神さまは、人間が名前をつけちゃならないという神様ですから、認識の対象にはなりませんね。そうやって突き詰めてゆくと、「宗教とか神様」なんて言葉だけがあるだけで、実体はないわけです。

 でも、それは神様や宗教に対してだけ通用することじゃないんです。神様からすれば、「そういうことを考えている、お前はどうなんだ!」と逆に問いかけてきます。世界で一番大切だと思っているお前自身だって、実体がないじゃないかと逆に突きつけられてきます。いままで一度も疑ったこともないほど信じていた自分自身が、ほんとうは、実体がないというんです。自分というものを出してみろといわれても、困るんです。どこを切っても自分は出てきませんから、この肉体全体とでも言うしかありません。その意味で、宗教はいままで疑ってみたこともないほどに信じていたひとに、「それはほんとうなのか?」と逆に問いを投げかける装置なんです。人間を根底から問い直す装置なんでしょうね。

 この世を信じて生きているひとたちに向って、宗教は、疑ってみろ!というんです。だから、宗教は毛嫌いされるのが当たり前なんです。穏やかに、この世と自分自身を信じて生きてきた人間に対して、問いを投げかけて動揺させるわけですからね。イエスも、夫婦を仲違いさせるために自分は来たとか、争わせるためにこの世に来たんだとか皮肉いってますよね。こんなひとは、嫌われるんです。でも、ごくまれに、そんな皮肉屋に同調する奴が生れてくるんです。よっぽど皮肉屋なんでしょう。維摩経の維摩さんは、ほんと皮肉屋ですよ。常識にしがみついている人間に向って、常識を皮肉でやっつけるんです。ですから、みんな維摩に会いたがらないんです。でも、そういう皮肉屋の言葉がお経になって残っていくんですから、不思議なもんです。それは、単なる皮肉じゃないからですね。人間の本質を問い返す皮肉なんです。ですから、聞いた人間にとっては痛い言葉であっても、心の底にとどまってゆくのでしょう。

 「信ずることより、疑うことが大切です」と掲示板に貼っておいたら、おかしいじゃないか!というひとがあらわれました。たぶん、よほど信じてきたひとなんでしょうね。この世は信じている人間ばっかりで、疑ったことのないひとばかりです。一億総信者なんじゃないでしょうか。信者を脱出させてゆくことが、仏法の仕事だとは、なんとも皮肉な仕事だと思います。

 

2004年2月13日

娘が、『ゼクシイ』とかいうウェディング雑誌を見ていました。そんな本は全然知らなかったのですけど、知らないほうがどうかしているというくらいに、ポピュラーな本らしいです。電話帳まではいきませんけど、それくらいに分厚く感じる本です。なかには、ウェディングドレスとか、結婚式場案内とか、いろいろなウェディングに関する情報が載っているガイドブックでした。「エェーッ!これ全部、勉強しないと結婚できないなんて、大変だね!」と小生は語ってみました。娘には、モォッという顔をされました。

 結婚式は、チャペル式でやりたいとか言い出しました。小生は、「仏式だろう!」と反応しました。「だって、これ、可愛いし、素敵じゃない…」と。確かに写真に映っているチャペルは可愛いし素敵だと思いました。うちの本堂よりも、いいかもしれないなぁ…そう思うのも無理もないなぁと思いました。チャペルに傾いている自分に気がついて、いやいや、仏式、仏式と伝えることにしました。

「そもそも、クリスチャンでもないのに、その時だけ格好いいから教会で結婚式をあげるなんていうのは、なんなんだ。神様にウソをつくことになるよ。葬式は仏式でやって、結婚はキリスト教なんて、結局、それは宗教的浮気をしているのと同じじゃないか。私は浮気をしますと誓っているようなもんじゃないか。神様の前で、浮気の誓いを立てているようなもんじゃないの。だから、最近じゃ離婚率が高いんじゃないの?」などと、オヤジらしいことを語ってみました。

 娘は、ハイハイハイハイという感じで、小生のホットな頭を冷やそうとしました。「じゃあさぁ、式は仏式でやって、披露宴で純白のウエディングドレスを着たらいいんじゃないの?」と折衷案を出して、それで相手も納得したように見えました。本心は分かりませんけど。

 まぁ、結婚式くらいのことで、そうそう目くじらを立てるようなことじゃないんですけどね、まったく大人げないとも思います。でも、なんだか、そのタマシイの中心というか、軸というか、そういうことを大切にしてほしいと思いました。

 以前ある牧師さんに、結婚観について聞いたことがありました。そうしたところ、やっぱり神との契約の延長線上にあるのだというようなことを言ってました。つまり、契約ですね。ですから、妻を裏切ることは、神を裏切ることと同じなんだと言ってました。ですから離婚なんて考えられないとね。それにしてもアメリカの離婚率の高さは、キリスト教離れと軌を一にしているのでしょうか。

 それを聞いた時、小生は、なんだか堅苦しいと感じました。でも、神との契約の焼き直しだと考えれば、離婚も減って倫理的な結婚生活になるのだろうなぁと思います。そういうことが、いいことだと考えるひとの多いことも分かります。でも、そんなこと言ったって、やっぱり嫌なもんは嫌だし、別れるということだってあるだろうと感じました。

 だいたい、聖書に姦淫の罪を犯した女性の話が出てきますよね。こころに姦淫の思いをもったものは、実際に姦淫したことと同じだというイエスの言葉に、みんなドキッとして、その場を立ち去っていくんですよね。そうすると、結婚生活は、成り立たないということですよね。契約したその日から、契約を破っているということになりませんかねぇ。結婚式場で、すれ違った別の新婦に、「いいなぁ〜」と感じたら、もうすでに、その場で、さっきの誓いを破ることになるんですから。

 でも、そういう契約を破ったもの同士が、ひとつ屋根の下でくらすということが結婚の本質かもしれませんね。どうも、人間が人間に成っていくための道場が、結婚ということなのかもしれません。まぁ、それでも、結婚後も、新婦が、かつての男友達たちとカラオケに行ったり、飲み会に出かけるのは、旦那としてはいい気持ちのもんじゃありませんよね。どうしても、結婚というのは、相手を愛によって縛ることになります。いくら自分が、彼女にとって一番大切なひとだということは分かっていても、夜遅く帰ってくる彼女には、怒りの感情を向けてしまうのも無理ではないでしょう。でも、でも、そういうことが、お互いに認められて、容認できるという、そういう若い夫婦もいるようですね。これはちょっと、おじさんの世代には理解できないことなんですけどね。

 相手を愛によって縛るものが結婚だと思っているもんですから。ただ、いつでも、そういう自分の心を映して対象化してくれる装置が必要なんでしょう。フッと我に返ることのできる瞬間が必要なんでしょう。唯一トイレは、孤独なもんです。ここだけは、他人と一緒に入ることのできない空間です。ひとりで生れ、ひとりで去ってゆく、究極的に我に返ることを要求してくる場所です。

 結婚ということで感じるのは、縁のもっている強大さですね。「縁」という仏教語は、「関係性」とか訳されますけど、そういってしまうと薄っぺらになります。「袖触り合うも他生の縁」という諺がありますように、縁は、ものすごくかすかなものであると同時に、ものすごく強大な力を持っているものです。出遇うことによって、出遇う前の人間関係には戻れないという厳粛性があります。そこには、厳粛性と強制力と偶然性と不可逆性とが、混在としております。もう元に戻れないという重さは、結婚にはあります。他者なしには、生きることができないという不可分さが、縁の強制力です。他者を肉親化するわけですから、インカネーション(受肉化)といっていいのでしょう。

 もっといえば、すべての縁を受肉化して、いま我があるといえます。やはり「一切合切が縁である」という、仏教的世界観が要求されているのだなぁとつくづく思います。

2004年2月14日

仕事がら、いろんな先生たちと出会います。親しくなるひとたちもいます。そんなとき、第三者から、「あの先生は、どこのご出身ですか?」とか「出身校は?」とか「ご家族は?」とか、「どこにお住まいですか?」などと尋ねられることがある。ところが、小生は、その手の情報にまったく疎い。自分でも呆れるくらいに覚えていないのです。ですから、第三者に伝えるべき情報は、みつからないので困ります。第三者は、「その方のことを、全然知らないんですね…。そんなことなら聞くんじゃなかった」というような顔をされます。小生も、これは困ったとになったなぁと気持ちも塞いでしまいます。

 振り返ってみると、小生は、人間関係における、そういう情報についてほとんど関心をもってこなかったということではないかと思います。それでも、それなりに、結構努力して、家族の人数や出身校を記憶しようと思った時期もあったんです。いわゆるその手の情報をもっているということが、一応の社会常識かなと思って。でも、やってみても、底辺に関心がないのか、いつのまにかその記憶も風化してしまうのです。そしてあやふやになってしまって、いつのまにか、「京大出身だったか、東大出身だったか、あれれ、どこでしたかねぇ?」という結末になってしまいます。

 ですから、いろんな先生にお会いしていても、そのときだけのそのひとしか知らないのです。それはもう情報というよりも、イメージといったほうがいいのかもしれません。ある種の興味深い発言とか、その方の態度はよく覚えていますから、それはイメージでしょうね。デジタルな情報とはちょっと違います。辛うじて名前くらいは情報としてもっている程度なんです。やはり、自分のこころの深さと相手の深さが共鳴して、何かが記憶される場合にはイメージとして記憶されるのかもしれません。それは、あくまで自分に切り取られた相手であって、デジタルな相手そのものではないのでしょう。でも、人間はもともと多面体ですから、ひとによって、そのひとの印象が違うということは、ままあることですよね。そう考えると、人間関係の数だけ、そのひとの多面体の面があるといえそうです。一見バラバラなんですけど、それでいて統合されているというのが人間でしょう。

 しかし、デジタルな情報が少ないということで、小生は人に対する関心の側面が違うのか、あるいは、何を基準にして小生はひとと出会っているのかと考えさせられるんです。そんなことに関心を払っていると、どうも、レスポンスが悪くなっていることに気づきました。つまり、ひとと会話していても、そのひとの言葉に即座に応答していない自分を発見しました。その言葉の意味を自分なりに受け止めるほうに時間がかかってしまって、もらった言葉を即座にキャッチボールできないという不自由さです。もっと、自由にあまり深く考えずにどんどん、言葉のキャッチボールをすればいいんでしょうけど、それに時間がかかります。若いころは、もっとレスポンスが速かったのですけど、最近はダメですね。

 でも、そのときのその人しか目の前にはいないわけですから、そこに焦点を当てて出会っているということは、いいところじゃないかと思っています。いろいろデジタルな情報があっても、そんなものは、二の次で、やはり目の前のその人とどこまでコンタクトできるかということが「出会い」というもんだと思うんです。

 先日も、葬儀に住職が行かれないということで、電話越しにずいぶん怒っていた門徒がいたそうです。でも、小生が、実際にそのひとと会ってみると、まったく低姿勢な優しいひとで、あの怒りの主はどこにいったの?と思うほどでした。人間は時間とともに感情の居場所も違ってきますから、千変万化の生き物ですよね。変わらないものがいいことだという信仰がありますけど、変わるところにある真実だってあると思います。近代の世界観は、変わらない真理、変わらない健康、変わらない景気、変わらない平和、変わらない地球ということがいいことだと思ってきました。でも、変わらないのは理念だけであって、現実は変わりっぱなしですよね。その微妙な変化に気づかないほど、鈍感になってしまったこころを不甲斐なく思います。

 

2004年2月15日 

吉本隆明さんが『「ならずもの国家」異論』(光文社)を出しました。そのなかで、「国家というのは、宗教の最後のかたちです」と語られていました。他の場所では「国家とは何か。幻想の共同体です」とも言っています。もう少し引用してみます。「未開時代や古代から宗教はあるわけですが、この宗教はかたちを変えます。その変わり方はふたつある。

 第一は、呪術的な宗教がだんだんかたちを変えて進化します。掟のような法になります。それがさらに国家だけにしか通用しない国法とか憲法になるわけです。そういうふうに変わります。そして最後はいまの民族国家になるのです。だから、いまの民族国家は宗教の最後のかたちだといえるわけです。

 もうひとつ、かたちを変えない場合があります。宗教そのままです。

東洋的な宗教は自然と絡み合って汎神的なのに対して、西欧の宗教は『万物は神がつくった』というから一神教で、ここに差があるなどといいますが、そんなのは迷妄だというならみんな迷妄です。何も変わりありません。どちらも宗教です。」

 まあ吉本さんは、宗教教団と個人の内面にある宗教とを分けずに語られていますけど、主にここでは「宗教教団」を「宗教」と語られているようです。その面からいえば、正しい分析だと思いました。我が教団も、中世に石山本願寺の合戦で織田信長軍に勝利していたらローマカトリックのような存在になっていたかもしれませんからね。いまごろ、皇居には、門首一家が住み、宗議会が国会になっていたかもしれません。靖国神社も、靖国寺となっていたかもね。それはそれで、また面白いことになっていただろうなぁと夢想してしまいます。

 でも、親鸞の思想からは、なかなか共同体を強固に凝集していく方向性は生れてこないようにも思います。それは「親鸞は弟子ひとりももたず」とか、「弥陀の救いは親鸞ひとりがため」だと語ったり、「自分が死んだら、加茂川の魚にやってくれ」と言ってますから、自分を教祖として教団を繁盛させろという方向性は生れてきにくいですね。ですから、宗教教団としては、吉本さんがおっしゃるように、組織を固め、凝集していく宿命を歩むわけですけど、その共同幻想を生きている個人は、教団を解体しているひとりということになります。教団といっても、それは、娑婆の共同幻想体なんだから、それは、個人の信仰を邪魔しない程度にあればいいのであって、もし個人の信仰をなんらかの形で疎外するはたらきをもったときには解体したほうがいいわけです。

 それは親鸞当時の風景を歎異抄が伝えています。

「道場に『斯く斯くしかじかのことをしたひとは、この道場へ入ってはいけない』と張り紙なんかするやつは、あたかも善人のような顔をしているけど、それは、内面に偽善をもっているのだ」と歎異抄の著者は語っています。これは教団解体の原理ですよね。教団は、人間の集合体ですから、どうしても規則が生れます。そうすると規則を破る人間が出てくるわけです。でもそういうことを犯したやつは道場へ入ってはいけないと排除するのです。つまり教団にとどまっては困るというのでしょう。しかし、そういう規則を設けて排除するような輩は、親鸞の信仰とは違うといっているわけです。そういう教団は親鸞に背反する教団だということにまでに応用することができます。

 親鸞が晩年、関東の原始教団を離れて、生まれ故郷の京都へ帰ってしまったということも、そういう教団の毒をどこかで感じていたからだと想像できます。

 おそらく、教団よりも個人のほうが常に重たいということが大原則なのでしょう。吉本さんは幻想の共同体=国家=宗教の最終形態といわれます。まあ普通は、日本国という共同幻想のなかに自分は入っていると考えてしまいます。

 「日本人は、(国家を)確固とした実体のようにおもいこんでいるのです。比喩的にいえば、国家は国民のすべてを足もとまで包み込んでいる袋みたいに思っている。」と吉本さんも語っています。それは共同幻想に飲みこれまた信者に成り下がっているわけです。その共同幻想の夢から醒めてみれば、自分は孤独な実存でしかありません。確かに共同幻想の規則のなかに自分は存在してもいます。でもそれが全部ではありません。ある部分は日本という国に縛られていても、それがすべてではありません。むしろ自分のなかに日本という国が包摂されているといったイメージの方がいいのかもしれません。日本という国家より自分の方が大きいのだとイメージをもったほうがいいのでしょう。

 この本を読んでいてスカッとした部分がありますので引用します。

「憲法にしたがわなければいけないのは政府と自衛隊と官僚たちであって、国民一般は要するに個人でもあるわけですから、したがうまいとおもったらしたがわなくてもかまわないわけです。たしかにぼくらも国家の一員にはちがいないけれども、個人でもあるわけですから、個人である国民一般は憲法に反するもへちまもないんです。究極的なものは個人の意思ですから、国家が国家としてぼくらに『何々をやってはいけない』などという権利はありません。」

 これは通快です。

 ですから、われわれの教団でも、組織がどこかでほころんでいないとダメなんだと思います。それが親鸞の思想の健康性のアカシなんでしょう。まぁ中世の一向一揆のときの教団から、江戸時代の寺請け制度の教団を経て、現在の教団は、少しずつ力を失ってきていると思います。戦前は、まだ異安心(異端者)を摘発し裁判をして、牢屋に入れるという力はもっていました。でも、現在の教団は、そういう意味の権力を失いました。ですから、だれがどのようなことを発言しようと、教団はその発言を封じる力はありません。しかし、それは残念なことに、信仰の弱まりと比例しているということなんです。愛山護法とか、教団護持という一般門徒の意識が、完全に弱まってしまったという悲しい現実でもあります。でも、それは、一面親鸞の願っていたことを叶えているわけです。教団の組織力が弱まることは、ひとりひとりの信仰が自由になるということです。教団が、そうしたいのではなくて、仕方なしに自由になってしまっているということなんでしょう。教団としては堕落形態であっても、信仰としては、自由という状態です。しかし、それは、また教団の新たな試練でもあります。

 欲望がかなりの水準まで達成されたときに、信仰を要求する必然性があるのかという試練です。いまの日本の状況は、ある面悲惨ですけど、飢え死にするひとはいないということですから、まあまあ欲望がある水準まで達成された社会になりました。昔は、現世的な不幸が縁となって信仰を求めるという形がありましたが、現在では、それが成り立ちにくいです。これは、もうほんとに、宗教の最終的な試練なんでしょう。「パンを石に変えてみろ」というようなサタンが生れてきにくいです。だって、パンが氾濫しているのがいまの日本ですからね。

 

2004年2月16日

●恣意的幻想

 小生が新聞を床において読んでいました。両手をべたっと床に着けてかがみ込んで読んでいました。近くにいたネコのプチ子が、小生の手を見て、威嚇の姿勢をとりました。小生の手の動きが、彼女の何かを刺激したのでしょう。そういえば、延ばされたご本の指に力を入れるとちょうどクモの動きに似ていました。おそらく彼女は、この手の動きがクモか何かの生き物に感じられたのでしょう。それで、ひとりで盛り上がって、体を斜めにしながら威嚇のポーズをとったのです。

 まあ本気で、これがクモだとは思っていないのだと思います。自分のなかで、クモに見立てているということをどこかで知りながら威嚇してみようと遊んでいるのだと思います。ネコでも、そういう幻想的な遊びをするのかと感心したわけです。小生も、その遊びに積極的に参加してみようとして、クモの動きを真似て、ますます本物らしく動かしてみました。そうすると彼女も、ますます乗ってきて、いい調子になりました。でも、あまりにも真に迫ってきたので、少し恐怖を覚えました。そこで、もうこの遊びから、抜けるからねという態度をしました。するとさっきまで、迫真の演技をしていたのに、サーッと冷めてしまいました。

 やっぱり、ネコの見ている世界と人間の見ている世界はギリギリまでいくと違うんじゃないかと思いました。おそらく眼球に映っている世界は、そうは違わなくても、受け取っている世界はかなり違うんでしょう。人間の受け取っている世界は、「恣意的幻想」の世界じゃないかと思います。恣意的というのは、人間に限って、そのように見えるという意味です。他の動物から見たら違っているんですけど、人間が勝手に、というか、人間にはそのようにしか受け止められない世界をいっているんです。でも、そのように受け止めなければならない必然性はないわけです。生物学的に。

 マタタビを近づけても、人間はなんともありません。でも、プチ子にとっては、特別の粉です。ひとは、テレビを見ながら興奮したり、笑ったり泣いたりしているんですけど、プチ子は知らん顔です。そうやって、違いを考えていると、実は同じ家族でも、微妙に関係が違うことが分かります。テレビを見ていて感じかたは微妙に違いますね。親と子、兄弟、夫婦という関係は、微妙に違いますね。王様たちが、情的なしがらみでうごめく世界が家族ですね。それは譬喩です。お経にも「国王」というのが出てきます。王様は自分が世界で一番偉いと思っていて、他のものは、すべて自分に従属するものだと考えている、まったくワガママな輩です。家族の構成員は、みんな自分が国王だと思って生活しています。たとえ応対がへりくだっているように見えても、内心では、おれが一番だと思っています。子どもだってそうです。まして兄弟ではもちろんです。

 「オレがオレがのガを捨てて、オカゲオカゲのゲで生きろ」という道徳訓があります。これも本気でやったら、自分が死ぬよりほかありません。ガを捨てることは、死ぬことですからね。ある程度、口を慎んだり、気を長くもてとか、道徳的になることはできても、突き詰めたら、そんなことは人間にはできません。分かっちゃいるけど、やめれらねえというところでしょうか。そういう人間のどうしようもなさをかみしめたいのです。そのどうしようもなさから、足を浮かしたらダメだと思います。徹底的に、そのどうしてみようもなさに寄り添って、そこからものを考えないとダメだとおもうんです。もともと、罪悪深重の身であるということでしょう。どれほど文明が発達しようとも、何万年たとうとも、人間の罪悪深重性は不変のものです。悪気があって、居眠りをしたわけじゃないんです。でも、居眠り運転は、犯罪なんです。ひとを傷つけるんです。わかっちゃいるけど、やめられねえわけです。ほんと。

 

2004年2月17日

バグダッドの小学校で爆弾が爆発して、生徒に死傷者が出たとニュースは報じていました。小学校のごみ箱に入っていた爆弾が爆発したと。このニュースを耳にしたとき、小生は、「これは何かの間違いじゃないか」と感じました。たとえそれがテロ犯のものであっても、何かの手違いで、たまたま小学校のごみ箱に爆弾が紛れ込んでしまったのではないかと思ったのです。しかしその後のニュースでは、爆弾が周到に設置されたものだと聞き、さらに驚きました。

 いままでのテロの標的は、米軍あるいは、米英に加担していると見なされた施設に限定されていました。民間人に犠牲者が出ても、それは、たまたまそれらの施設などの近くを通り掛かった人々であって、決して、テロ犯は民間人を標的にしてはいなかったと思います。まぁ国連施設のへのテロは、その範囲を超えてしまったという感じを持ちました。この施設は、米英に加担していると見なされたから、自分たちの敵だと判断されたのですね。ですから、国連職員ひとりひとりが敵だと見なされたのではなく、米英に加担しているという意味性を破壊したかったのでしょう。しかし、ことの事情は、まだ少ない情報のなかで即断できませんけど、小学校を標的にしたということが悲劇的だと思いました。そして、この事件の報道を聞いたとき、小生のなかで何かが壊されたような感じを受けました。

 子どもが標的にされたということが、ものすごくショックなことでした。そこに、なんらかの米英に加担したと見なされた意味性があるのでしょうけど、たとえそれがあったとしても、学校に爆弾をしかけるということは、もう、小生のこころの許容範囲を超えた出来事でした。これはいままでのテロのレベルと違うなと思います。国連施設が破壊されたときに感じたものより、もっと大きな衝撃を受けました。大人へのテロはあっても、子どもへのテロは、人間である限りできないんじゃないかと、どこかで思っていたんです。

 まあ、オウムの実行犯である林郁夫も、そこに大きな逡巡があったと述べていますね。千代田線の電車を待っている小学生の女の子や、出勤途中のOLに何の罪があるのかと、自問自答しています。そして、あの女の子やOLが自分の子どもであり、恋人であったらどうなのかと想像してもいます。それでも、自分はサリンを撒くことができるのかと問うています。そして、最後は、これは人類のためなんだ、たとえ死んでも人間の苦しみから解放され、もっと素晴らしい世界へ生れられるのだという意味性に自分のすべてを投げ込んでしまい、サリンの入ったビニール袋を傘で突ついたのでした。

 小学校に爆弾をしかけたテロ犯には、林郁夫のような懊悩があったでしょうか。人間である限り、このような状況であれば、必ず懊悩があるはずです。懊悩があってほしいと思います。 人間を、現実ではなく、意味性に投げ込ませる傾向性を呪いたいと思います。それを、ごく簡単にいえば、「体より心が大事だ」と考える傾向性ですね。私たちの体は、さまざまな関係性をもって存在しています。まさに、つながり合っているということです。身体は環境と切り離して存在することはできません。食物を摂取して、空気を吸い、他者と会話をするというところに、一切の他なる存在とつながっています。ですから、身体は、開かれていますし、連関しているのです。

 しかし、こころは、逆の傾向性をもちます。こころは閉鎖し、閉じこもってゆくことができるのです。どこまでいっても、こころは抽象的なものですから、現実から超越してゆきます。超越を突き詰めてゆきますと、自分が高見からすべての存在を見下すものとなります。超越は神や仏の方向性をもちます。孤高です。それは、イスラムでもキリスト教でも、仏教でも、オウムでも、ある種の孤高を作り出す傾向性をもっています。

 ただ、その孤高をどれだけ崩壊させる装置をもっているかが大事だと思います。つまり、こころをどれだけ、身体に近づけることができるかということです。抽象から具象へという下降装置が必要なんです。

 念仏思想の系譜は、その装置を作り上げました。それが「称名念仏」という装置です。仏を念ずるということが、念仏ですけど、やはり原初の念仏は、観念によって仏を想念するというイメージ行だったと思います。仏といっても、本来無形のものなのですけれども、仏像のようなイメージを想念しながら、神秘体験を得るというプラクティスだったのでしょう。しかし、善導→法然→親鸞の系譜は、その観念性を排除して、「称名念仏」を行としました。単純に、口でナムアミダブツと発音するという行です。まぁ、難しい修行ではないので、だれにでもできるから、普遍的な行なのだと法然はいいます。難しいことが、素晴らしくて、簡単なことは価値が低いのだと、普通は考えてしまいます。しかし、だれにでも救いが成り立つためには、できるだけ多くのひとが実行可能な平易さがないと、ダメだといいます。

 ナムアミダブツと発音してみます。はじめ肺に吸いこれまた息を吐き出しながら、声帯を通ってナムアミダブツと音声が吐き出されます。その音声を自分の耳が聞きます。五官のうち、耳と口と身体という具体性がはたらくのです。観念による仏の瞑想では、意識しか使いません。やはり、この身体性という具体性によって、観念性を破るということが目的なんです。そこに「称名」ということの力点があるのだと思います。神秘性が生れてくるのは、孤高なる意識からですよね。その観念の孤高を打ち砕いて、身体性を回復するところに、称名念仏のすごさがあります。

 もっと突き詰めれば、意思以上に、食欲や感情のほうが重たいのです。食欲や感情は、意思の支配を受けにくいからです。他力的といっていいでしょう。ですから「武士は食わねど、高楊枝」なんていうのは、テロに通じる系譜に属するわけです。「清く正しく美しく」なんていうのもそうですね。それは、頭で考えているだけで、実際には不可能だと知りつつスローガンにしているなら安全ですけど、本気になったらテロに傾斜します。

 ですから、「体が先、頭が後」というふうになったらいいと思います。頭が体に対して、それこそ頭を下げなければならないのでしょう。

2004年2月18日

●能動→静止→受動

源信(能動=回向)→法然(静止=不回向)→親鸞(受動=如来回向)と、念仏の系譜を受け止めてみました。自分から仏に向って能動的に働きかける方向性を源信は回向と考えています。そこを超えて法然は、不回向といいます。つまり「回向する必要がない」と。人間から仏への方向性を静止させたのです。人間から仏に何かを回向するなどというのはおこがましいことだというわけです。そこから、さらにジャンプしたのが、親鸞の如来回向という発想です。人間から仏へという方向性ではなく、仏から人間へ回向されているのだという逆転です。

 人間から仏へという方向性は、分かりやすいです。死者への追善供養とか、「何かのため」を念頭に置いて、努力精進するわけです。写経や、読経や、礼拝行は行為することが目に見えますから、やりがいもあろうというものです。更にそれが、世間でも善いことだと思われている行為ですから、自他ともに非の打ち所がありません。そういうものが仏教だと、一般的にも思われています。でも、そこに疑問を感じたのが法然・親鸞の系譜なんです。もし、それが行であるならば、「いつでも、どこでも、誰においても成り立つものでなければならない」という大乗の規範に一致しなければなりません。その規範に照らしてみると、ある種の行為だけを修行だと考えることができなくなります。お経を読むという行為を一秒でも休んでしまったら、それは修行とはいえないということになりますからね。もし、本気で、その手の修行をするとなると、止むことなく降りかかる火の粉を振り払うように、一瞬も休むことができないと比喩的に親鸞は語ります。

 法然は、その問題性に気がつきました。結局、どんな行為をしても、それは自己満足を出ないではないかと。仏のため、成仏のために行を積んできたと思っていたけど、それは自分が自分の行為に満足しているだけで、全然仏道に叶ってはいないと気がつきました。そして「不回向」というのです。こちらから仏へという方向性は、人間には成り立たないのだと。ただ、あるのは、仏の本願が決められた称名念仏をするだけだと考えました。もはや念仏の回数における量の多少という執われから離れました。ただ、後はすべてを仏にまかせるだけだと。人間から仏へという方向性を放棄して、静止しました。

 そこから、親鸞はもうひとつジャンプしました。静止したら、今度は仏から人間へとベクトルが逆流し始めました。いままで、「外在」していたはずの仏や真理や浄土が、実は「内在」に逆流してきたのです。「外在」していたものに近づこうとするときには、どうしても<いま>ということに対して否をいうことになります。現状に否があるから、未来に向って努力精進していこうという動きが生れます。しかし、現状に否をいうこと自体が、実は「外在」から「内在」へと流れてくるベクトルを疎外していたのではないかと気がついたのです。

 人間から仏へという方向性を静止してみれば、実は、仏から人間へとベクトルが流れていたのではないかという驚きでしょうね。その流れによって成り立っている<いま>というものへ否をいうこと自体が、実は「外在」を作り上げてしまっていたというカラクリです。もともと仏や浄土は「外在」するものではなかったのです。理想として立てられた仏や浄土は、<いま>に否をいうことで、捏造された偶像にすぎなかったのです。

 ここまできたとき、いままでの「行」という概念が崩れさり、まったく新しいものとして親鸞に立ち現れてきました。行は人間が行う行為というものではなく、<いま>を瞬間瞬間に成り立たせている根拠であると受け止めたのです。存在を成り立たせている根拠といってもいいと思います。この行だけが、「いつでも、どこでも、誰においても」成り立つ行であるわけです。人間の諸条件を一切問いませんよね。こういう意味を従来の「行」という言語に背負わせるのは酷かもしれないと思います。伝統的に「行」といえば、どうしてもプラクティスとかエクササイズと受け止められてきましたからね。でも、もう反面には「諸行無常」の「行」というふうにも、用いられてきましたから、生々流転の存在性を意味しないこともないんですけどね。

 でも、そういう行なら誰でもやっているじゃないか、わざわざ取り立てて行といわなくてもいいじゃないかという批判もあるんです。ほんとは、そうなんでしょうね。無用な言説なのでしょうね。はじめから生きてることが行だと分かっていれば、そんなことは無意味な言説なのでしょう。無用の長物かもしれません。宗教なんて、その程度の存在じゃないでしょうか。やはり、人間が生きるということのほうが、人間にとっては切実なわけですからね。仏や浄土が主人公なんじゃありませんよね。人間が主人公なんでしょう。それは鏡と同じですよ。鏡は鏡のために存在しているんじゃありません。人間を映すために存在しているんですからね。

 八万四千巻の仏典があるといっても、それは、人間が<いま>を十全に生きるということを成り立たせるためにあるのです。人間を縛りつけるものであってはならないのです。卑近なことですけど、この熱燗一杯と八万四千巻の仏典は匹敵する価値をもっているなどと、ほざいてみたくなるんです。

 ですから、源信→法然→親鸞を、能動→静止→受動という流れにまとめられると思います。小生がそこから思うことは、親鸞の受動は、「絶対受動」ではないかということです。自己と世界のあらゆることが、すべて受動からはじまっているという見方です。はじめは、おそらく世界も地球も、無だったのでしょう。無という言葉もないような状態だったのでしょう。混沌ともいえますね。その無から、受動的に地球ができて、何十億年という生命の展開をへて、自分という存在までになってきました。これも絶対の受動ですね。

 考えることや、意志することも、受動なんだと考えるわけです。人間が能動的だと思っていることも、その背景に絶対の受動を見ていくのです。「卯の毛、羊の毛の先にいる塵ばかりも、作る罪の、宿業にあらざることなし」と歎異抄では言っています。どんなささいな行為も、すべて無始以来の行為の集積でしかないのだと。そこには、生命が人間にまでなってきた生命歴と、誕生してからの生育歴とが、ぜんぶ含まれて<いま>を成り立たせているのだという認識があります。<いま>ということは、自分の思惑や都合とは無関係に投げ出されて与えれているわけです。

 自分の都合や思惑にとっては、それはなんの必然性もない偶然の産物として受け止められてしまいます。自分がなぜ自分でなければならないのか、そこにはなんら必然性はありません。たまたま、気がついてみたら人間であり、これが自分だと教えられてくるわけですから。自分には何ら責任がないわけです。

 この責任がないということが大事なことだと思います。そこを一足飛びにして、お説教では「その偶然の出来事を、必然の責任として引き受けることが仏道だ」と語ってしまいます。結論はそうであっても、そこにはステップがあると思います。どこまでいっても、自己にとって自分の生は偶然でしかありません。とても受け入れがたいという拒否があります。その偶然を必然として受け止めるには、自我が解体されて、自己として再統合されなければなりません。

 鉄棒演習の事故で半身不随になられた星野富尋さんが、自分は不自由だといいます。でも、「不自由は必ずしも不幸とは結びつかない」と述べていました。この表現に、偶然を必然として受け止めた星野さんの姿が見えます。それこそ宿業因縁で偶然事故に遭われました。その現実を受け入れるまでには、大変な道のりがあったようです。「なぜ、私が?…。どうして、私が?…。なぜ、いまなのか?なぜ、起こったのか?」そういう問いが、病床の彼を襲いました。

 とうとう、そういう問いを出している自我が、くたびれ果てて、枯れていくとき、逆にその身体性が彼を支えてくるのでした。不自由ではあっても、不幸ではないと。身体性と自我の峻別がここで成り立ちました。

 そうであったからといって、いまの現実をいつでも十全に受け止められているかといえば、そんなことはないはずなんです。やっぱり、自分の身体に対して不平不満が起こってくるはずなんです。偶然の事故ですから、どこまでいっても、自我はその現実を受け入れることを拒否するんです。それが自我の本性なんですから、仕方ないんです。でも、そんな自我を、おじいちゃんが孫をみつめるように愛憐の眼をもってみつめることができるようになったんです。

 これでいいのだとすべてを受け止めるときもあれば、そんなはずではなかったと恨むこともあるのです。でも、それもすべていいわけです。自我を殺してしまう必要はないんです。自我を孫みたいに変えてしまえばいいんです。愛憐の眼差しでみつめられれば、それでいいんです。一生涯、孫と取っ組み合いの相撲をとりながら、完全燃焼してゆきたいと思います。

 

2004年2月19日

なぜ宗教的なるものを求めるのか?その答えは人間には出せないようです。

 それは、そういう要求のほうが大きすぎて、答えを出す意識のほうが小さいからです。答えをほしがる意識は、ものごとを対象的に判断して認識したいという程度のレベルです。でも、宗教的なるものを求める要求は、人間に「なぜか分からないけど、そうせざるを得ない」という衝動を起こさしめるものだからです。

欲望のほうが、意識よりも深く大きいものです。食欲・性欲だってそうです。宗教欲もそうでしょう。

 なんで、何かを食べたいという欲求が起こるのか?なんで、いい女を見ると振り返ってしまうのか?その答えを、意識は出すことができません。一応、意識は、「それは食欲という生理的欲求があるからだよ」とか説明するんですけど、それは、説明したところで、ほんとうのところは何でなのか分かりません。なぜ生理的な欲求があるから、寿司じゃなくて、すき焼きが食べたいのか?それはなかなか説明できません。そういう欲望と、宗教欲といいましょうか、実存欲というものは、つながっています。ですから、説明できないものなのです。

 気になってしょうがないということがあって、他人が、なんでそんなことを気にするんだと聞かれても、当人は気になってしょうがないのですから、応えることはできません。たとえば、自分の視界に鼻が入ってしまって、邪魔で邪魔で困っているというひとがいます。そういえば、頭の角度を変えずに、自分の足を見ると、鼻が視界に入ってきます。まあ、普通は、そんなものは無視していますから、それで済んでいますけど、几帳面なひとは、それでも視界に鼻が入って邪魔だと感じるんです。どうして、鼻が邪魔をするんでしょうか?と訴えるひとがいるんです。そのひとに向って、そんなものは、気にしないほうがいいよと言ってみたところで、まったく相手に通じません。それと実存的要求というものは、似ています。他人からは「どうして、そんなことが気になるの?」といわれるような質の問題だからです。

 ポール・ティリッヒは、「人間における究極的関心事」だと宗教を定義しますし、清沢満之は、「人心の至奥より出ずる至盛の要求」と定義します。でもいくら定義してみても、その要求そのものを表現することはできません。だって、そうせざるを得ないという質のものですし、それは極めて個人的なことだからです。外から絶対に定義できないという質が、宗教的、あるいは実存的な要求なんです。

 たとえば、「自分とは何か?」とか「なぜ自分は生れてきたのか?」とか「生きる意味はなにか?」とか「みすみす死んでしまうのに、なぜ生きるのか?」とか、「どうして自分ばかり貧乏籤を引くのか?」とか、「宇宙には初めと終わりがあるの?」とか、そういうある種答えることができないような質の問いを、宗教的あるいは実存的欲求と名づけてみたいと思います。

 オウムの信者がなぜ、オウムに入信していくのか?とマスメディアでは、いろいろ分析しますけど、どれも当たっていて、どれも外れています。だって、当の本人だって、なぜだからよく分からないんですから。そんなに宗教的要求を安く見積もってはダメだと思います。でも、だれにおいても、そういう要求をこころのどこかに潜ませているということだけはほんとうだと思います。起こってきた事象は、「これは異常だぜ!」ということがあっても、なぜその事象を起こしてしまったのか?ということは、絶対に解けないようになっているんです。人間に知らされていることは結果だけなんです。因は人間には分からないんです。

 よく聞かれることがあるんです。なんで結婚したのか?って。でもそれに応えることはできないんです。ほんとうのところは、なんでか分からないからです。どうして結果しか、教えてもらえないのか、これは欲求不満になります。でも、決して因は分からないんです。

 それは自分が自分という存在にまで成ってきた因が分からないということと同質なのでしょう。これが自分だということは分かっているんですけど、でも、三十代さかのぼると十億七千三百万人の先祖があって、それがなぜ自分になってきたのか、それは分かりません。「果は分かっても因は不明」というのが、人間の限界でしょう。ですから、あんまり偉そうなことは言えないんですね。

 欲のほうが大きく深く、意識のほうが狭く固いということだけは言えると思います。

 

2004年2月20日

まだ人間に起こってくる宗教的要求について考えています。その要求は、意識からは解くことができません。その要求を何という言葉であらわせばいいのでしょうか。それを「ほんとうを求める要求」と一応言ってみたいと思います。

 それにはヒントがありました。末期ガンの患者さんが、「自分は長い間、いい生活はしてきたけど、ほんとうに生きたことがなかった…」と漏らされたというのです。いい生活というのは、お金があって、健康で、家族も病気をしないし、会社もうまくいっているという状態だと想像できます。もう、この世的には、言うことなしという状態ですね。でも、その生活に終止符を打たなければならないとき、初めて、自分の内面から、「ほんとうに生きたことがなかったなぁ…」という感慨が生れたのでしょう。

 想像すると、いままで自分の人生を見つめてこなかったということでしょう。前ばかり見て生きてきたので、自分の後ろ姿なんかに気づかずにきたのでしょう。ある意味、このひとは幸せな人生を送ってきたわけです。この世で、幼年期、青年期、成熟期、老年期を順調に生きられたひとなんでしょう。でも、こういう時間は、龍宮城で浦島太郎が過ごした時間と似ています。物理的時間は三百年たっていても、浦島太郎には、たった三日間くらいにしか感じられなかったのです。過ぎてしまった時間は、「アッという間」というふうに感じられる時間です。何百年生きたところで、アッという間と感じられるんです。

 でも、その時間が遮断されるということになったとき、初めて「ほんとうに生きてこなかったなぁ」という感慨がやってくるのでしょう。

 しかし、その「ほんとう」ということは、人間が意識的にウソかほんとうか?と問うことによって見つけるような種類のものではないのでしょう。決して、自分の人生はほんとうだったのか、ウソだったかと問うという種類のものではないはずです。自分の人生をまるごと対象化して、見せられたということだと思うんです。別の言い方をすれば、答えのない問いをかかえたということでしょう。答えのない問いとは「なぜ、ガンにかかったのだ?」「なぜ今なのか?」「なぜ、自分なのか?」「なぜ自分は死ななければならないのか?」という質の問いでしょう。その問いが、生活の中心になって、いのちが営まれることになるのでしょう。

 逆に言えば、そういう問いをかかえるということが、「ほんとうに生きる」ということだといえるのかもしれません。でも、そんな問いをかかえる間もなく、突然亡くなっていくというひとが多いのも現実でしょう。どちらが幸せか、そんなことは全然分かりません。分かりませんから、宗教なんていうことは、小声で語らなければならないようなことなのでしょう。「人類の…」とか「永遠の…」とか「万人にとって…」とか、そんなに大風呂敷を広げないほうがいいんです。どこまでいっても、少数の異端であっていいのだと思います。なにもそれは、やせ我慢じゃなくて、しみじみ、そう思うことです。

 ある先生は、「仏を見たければ、オレを見よ!」とおっしゃいますけど、小生には、とてもそんなことは言えません。まぁ、その言葉の裏には「地獄の鬼を見たければ、オレを見よ!」というのが、セットになってるんですけどね。「地獄の鬼」というほど、徹底した極悪さもなく、「仏」というほどの徹底した清浄性もないので、まったく中途半端なものです。それでも親鸞は「面々のおんはからい」という言い方をしてくれますから、ひとりひとりに任されていることなのでしょう。こそこそと、やりましょう。

 「ほんとう」ということで、連想されるのは、親鸞の主著である『教行信証』のフルネームが「顕浄土真実教行証文類」であることです。最初のころ、これを「浄土が真実であることを顕すための教行信証という書物」と読んでいました。しかし、最近では「浄土という真実を顕すための教行信証という書物」と読むべきだと思っています。「浄土が真実である」という言い方をしますと、「浄土」という対象を、これこそが真実だと証明するというニュアンスになります。でも、そうなると、真実だと証明する人間は、真実の側に身を置くことになります。真実を主張する人間は当然真実の側に身を置いて論を立てることになります。それが果たして親鸞の読み方だろうかと疑問を感じたのです。

 そうではなくて、あくまで「浄土という真実」を顕すというニュアンスではないかと思ったのです。浄土と真実は、同義語なんです。真実は自分の側にはないというところにたって、教行信証という表現をとるのだと考えたらどうでしょうか。どちらの読み方をしても、大差ないじゃないかと言われれば、それまでのことなんですけどね。「浄土が真実」というときと、「浄土という真実」とは、若干ニュアンスが違いませんでしょうか。「浄土が真実」というと、真実と浄土が分離してしまい、浄土という実体を真実としてあるという、実体論的な表現になります。「浄土という真実」となれば、同義ですから、人間の側に真実を証明するという力みがないように思います。

 親鸞は、この世と人間とを浄土から断絶させることによって、「真実」を表現してゆくのです。絶対に浄土と穢土(娑婆=人間世界)は断絶しているわけです。徹底して親鸞は、人間の罪悪性を表現してゆきます。そこから足を浮かしてはならないと。ちょっとくらい、人間にもいいところがあるじゃないかと言いたくなるんですけど、決して夢を見させてくれません。それは人間の中のどこを探しても「ほんとう」とか「真実」ということはないと徹底的に教えて、ここは浄土ではない断言します。つまり断絶させるんです。でも、それは断絶だけでは済まないので、断絶することによって、関係づけようとするわけです。もともと無関係であれば、断絶ということもないのです。

 先程の話に戻れば、「ほんとうに生きたことがなかった」と感じさせる源泉ですね。それを浄土と神話的に表現したまでのことです。それは、問いだけあって、答えのない問いです。しかし、応えられなくても、問いのまんまに満足するということがあるのです。世間では問いは応えられるべきものだと思っています。答えられて初めて、問いは解決し満足するのだと。しかし、問いが、深まると、もはや答えを要求しないというところまで行き着きます。問いが問いのままに、満足するわけです。

 それは問いの断念でもなく、放棄でもないと思います。いわば問いそのものとなるといってもいいのでしょうか。

 

2004年2月22日

今月のブッディーサロンでは、欧米文化と日本文化の彩りの違いなどが主なテーマになって話に花が咲きました。会社での会議の持ち方の違いや、教育のシステムの違い、家族関係の距離の違いなどなどです。

 確かに戦後60年で、経済的には欧米と肩を並べる日本になったようです。物質環境は確かに欧米化していることは間違いありません。小生も、衣を着ているよりも、洋服でいる時間が圧倒的に多いですし、そのほうがリラックスできるのも事実です。ですから、衣はほとんど儀式用のコスチュームになっています。制服を着ているひとは、制服を着ている時間は勤務時間で、それを脱いだときは、リラックス・タイムとなります。そういう面も確かにあると思います。でも、信心までが、それでは困ると思います。衣を着ていようがいまいが、こころは信仰の場にいつでもいないとダメなのだと思います。そんなことは、言わずもがなですけどね。

 まあ、外見上はいかにも欧米化しているのですけど、日本人のこころの深層は、まだまだギクシャクして落ち着いていないように思います。アメリカだって、200年以上かかっていまの文化を築いてきたわけですから、たかが60年ではまだまだ馴染むことはできないとも思えるのです。

 物質環境が先に進みすぎてしまい、生身の日本人が置き去りにされているような感じも受けます。いまでは、どの家庭にも子どもの個室があります。小生も、小さいころ、個室が欲しいとねだって個室を設けてもらいました。自分だけの城をもらったわけですから、最初は嬉しかったですね。でも、小学校の低学年では、なかなか夜の個室の恐ろしさに馴染めませんでしたね。寝床で、よく足がしびれて痛さで目が覚めました。それでも痛さに耐えて、声を上げても、なかなか親が気づいてくれなくて、見放されたようで悲しかったことを思い出します。そんなときの孤独感はひとしおでした。

  個室を設けるというのも、欧米文化の鵜呑みですよね。映画を見ても、必ずアメリカでは個室が与えられていました。でも、用がないとき、子どもは、居間(リビング)にいるのが当たり前で、特別の用事がなければ、自分の部屋に入ることは憚られるという文化なのだそうです。それは、不文律であって、ごく自然に家族はみなそう思っているのだそうです。ですから、強要するというものではないのです。「部屋に入っていなさい!」と親が子どもに言うときは、叱るときだそうです。そうすると子どもは渋々、自室に蟄居するのだそうです。

 これは日本人の感じかたと逆ですよね。日本人が子どもを叱るときには、部屋から居間に呼び出して説教するわけです。「ちょっと、ここへ来なさい」と言ってね。ですから、子どもはよほどの用がない限り、自室に閉じこもることになるんです。小生のところでも、食事以外は顔を見ませんからね。いや、食事のときも、ほとんど顔を見せないことが多いですね。親は、ついつい子どもに対して、高所からものを言うことになります。親が黙っていても、そこに居るということが、無言の圧力なんです。そうすると、子どもはそれに圧迫感を感じて、できるかぎり親の目から隠れようとします。親の愛情を重荷として感ずるわけです。小生もそうでしたので、子どもの態度は、ものすごくよく分かります。

 それは、もっと幼少期の子育てにも原因があって、欧米では、赤ん坊の頃から子どもを別室に寝かすという習慣だそうですね。だから、赤ちゃんが別室で泣いても、それほど神経質にケアすることなく、そのうち赤ちゃんも泣き寝入りをしてしまうのだそうです。日本であれば、母親の横に布団を敷いて、いわゆる「川の字」になって親子が寝ているという状態ですから、ちょっと考えられません。

 泣いても親が来てくれないということが分かってくると、赤ちゃんも泣かなくなるといいますけど、それが欧米流の子育てなのでしょうか。小生は、泣いても親が来てくれないということを体で知っていくことによって、絶対の孤独と、そして個という意識の核ができあがっていくのではないかと想像しています。絶対の孤独と絶対の神という対応が、乳幼児期から準備されているように思えます。

 また、家庭教育でも、欧米では、子どもの意見なり主張ということを、かなり丁寧に聞くということがあるようです。つまり、「言葉」による自我の鍛練が行われています。欧米にホームステイしたひとが、その家の子どもに「なぜ?」「なぜ?」と聞かれるのに辟易したと漏らしていました。更に、その子どもは、決して「あなたの考えは分からない」とは言わず、「あなたは、私を説得するだけのものをもっていない」と表現するというのですから、何をかいわんやですよね。

 よく映画なんかを見ていると、欧米では息子が母親の誕生日にキスをしてプレゼントを送るようなシーンがあります。日本ではまず考えられない場面ですよね。日本の母はグレートマザー的な存在ですから、子どもを飲み込んでしまうような愛情をもっています。子どもは、そのグレートマザーから逃れることによって自立していこうとしますから、反発する関係にあります。欧米では、そういう関係ではないようです。

 それは、やはり欧米では、個という意識が強いからでしょうね。子どもも個、母親も個という独立の存在だという感覚があるのでしょう。その独立の存在同士が愛というもので関係し合っているということなのでしょうか。ですから、日本のように、包摂×被包摂という親子関係ではないようです。独立×独立という関係なのでしょう。その自我感情の根っこには、遊牧系のたましいが宿っているのかもしれません。「永遠」とか「絶対」というものを立てざるを得ないような自我は、対極として、ものすごい「孤独」「孤絶」というものが想定できますからね。あの砂漠の民の自然環境の厳しさが、血の中に流れているように感じます。

 農耕系では、血はケガレに結びつきます。しかし遊牧系では、血は温もりであり、聖なるイメージと結びつきます。そういうことを連想していくと、どうも、ユング的にいえば、「民族的無意識」の段階まで、行き着くような感覚です。ですから、単純に欧米がいいとか、日本的なものがいいとかは言えませんね。現象としての違いだけが目立ちますけど、そのルーツを探ってゆくと、もっと根っこは深く広いものではないかと思います。

 いずれにしても、いまの日本の精神的風土は、過渡期であるということだけは言えそうです。物質的に豊かになった人間が、新たに、どのような精神的困難さを味わうのでしょうか。そしてそれをどのように乗り越えてゆくのでしょうか。まだまだ、考えるべき問題はたくさんあるように思います。一見すると、すでに考えつくされているように見えますけど、ところがドッコイ、まだまだだと思います。

 

2004年2月23日

ボランティアをやりたいひとはやればいいんです。やった行為を云々してもしょうがありません。やったから、天狗になって、やってない人間より自分は上位にあるのだと考えるなら、そんなボランティアはやめたほうがいいのでしょう。またやっていないひとは、やっているひとにたいして、負い目をもつ必要はありません。やるというのも、やれなというのも、厳粛な事実なんですから。そのことに対して、ひとが云々と評価することのできない問題です。

 どうも世の中には、「本物のように見える偽物と、偽物のように見える本物」とがあるような気がします。人物に対しても感じますし、行為についても、また物についても感じます。だいたい、本物のように見える偽物によって、ひとは騙されやすいです。まぁ、そのひとが、「あれは、本物だ」と信じ込んでいるのであれば、それに対してどうこういう筋合いのもんじゃありませんけどね。

 それに比べて、本物というのは、いかにも偽物のような顔をしている場合が多いと思います。いわゆる「いかがわしい」という手合いです。小生は前々から、その「いかがわしい」ところに真実は宿っているんじゃないかと、思ってきました。だから、一見本物らしく見えるというものは、いつも眉唾で見てきました。ひねくれた根性なのかもしれませんけど、もうそういうものが染みついてしまっているのです。

 そういえば、子どもの頃のことです。小学校の図工の時間に、ごみ箱を作るという課題が与えられました。みんなは、箱型のごみ箱を作っていましたが、小生は、そんなものは面白くないと思って、足で踏むことによって上蓋が開く形のものを作りました。ひねくれていましたね。それから、ブックスタンドを作るという課題のときも、みんなは箱型のものを作っていましたけど、小生は、それをまっぷたつに切ってしまって、本を間において挟む形のものを作りました。みんなが、右といえば左、左といえば右という、アマノジャクを本性としているのだと思います。まぁ、早く言えばワガママという一語につきるんですけどね。それで失敗したこともありますから、穏当な道を行くのであれば、あんまりひねくれないほうが得だと思います。でも、そういう生きかたができないのも小生の宿命なんです。

 自慢してみますと、親鸞というひとも、そうとうひねくれものだったような気がするんです。法然の学校に入学したとき、並みいる先輩を差し置いて、「おれは先生(法然)の信心と同じ信心なんだ」と先輩に議論を吹っ掛けてみたり、そうかと思うと弟子に向って、「おまえ、ひとを千人殺してこい」と言ってみたり、かなりやんちゃだったとしか思えないんです。本願寺の本堂に鎮座まします親鸞からは、まったく想像もつかないくらいやんちゃだったのではないでしょうか。小生も、あの鎮座まします親鸞に騙されてきたような気もするんです。あそこにほんとうの親鸞はいないようにも思えます。

 もっといかがわしくて、もっとひねくれものだったのだと考えてみてもいいように思います。35歳で新潟県に島流しにされたとき、「禿(とく)」という字を自分の姓名にすると宣言します。あの禿というのは、ツルッパゲということじゃないようです。一応短く髪は切ってあるけれども、散切り状態で、生え揃っていない状態じゃないかと想像されています。でも、あれは禿(かむろ)といって、オカッパ頭を意味してもいるんですね。サザエさんに出てくる、イクラちゃんのような頭でしょうか。そういえば、親鸞の木像で、そういう髪形のものがあるそうですね。ですから、老人になったときの姿と青年期の姿とは違っていたという想像もできるんです。

 島流しになってから、「非僧非俗(僧に非ず、俗に非ず)という宣言もしますね。世間の生活形態としては、僧侶か在俗かの二つしか選べないんです。僧侶であるなら、在俗じゃないし、在俗であれば、僧侶ではないと、デジタルに分けられます。しかし、その両方も否定しているんです。よく言われることは、「有僧有俗」ではないということです。両方ともオッケイダよというのではないというのです。両方とも、「そうじゃない」ということだとね。

 つまり、小生の領域に引きずり込んで考えますと、おそらく「二」という世界を超えたという宣言じゃないかと思っているんです。「二」は「あれかこれか」という相対的でデジタルな世界です。でも、そうじゃないというわけです。デジタルじゃなくて、アナログでいこうと。

「二」の世界は、知性の世界です。二つに分けられる世界は知性だけの世界です。生と死とか、有ると無いとか、男と女とか、在俗か僧侶かとか…。しかし現実は「二」では分けられないわけです。生と死は厳密には線引きできません。明らかに死体と生体とは違うわけですけど、線引きをするとなると、これは不可能ですね。いま私が生きていると言っても、身体を構成している何億という細胞は、新陳代謝を繰り返して、死んでは生れ、生れては死んでいるというのが事実でしょう。ですから、ほんとうのところは生と死を分けることはできないのです。ただ、知性の受け止めの段階で、「二」に分けることができます。

 男女だって、分けられませんよね。明らかに生体としては、男女は違うんですけど、男性にだって女性ホルモンがありますし、女性にだって男性ホルモンがあるわけですから、厳密に分けることはできません。前々から不思議なんですけど、どうして男に乳首がついていなければならないのでしょうか?これがないと背中とお腹の区別がつかないからさと皮肉られたことがありました。でも不思議ですよね。人体の基本形は女性型であって、女性型からの奇形として男性型が発生したのだと生態学的には考えられているそうです。ですから厳密には分けられないのでしょう。

 生きているということは、かなりアナログであって、それをデジタルな知性から見るから、いかがわしいと映ってしまうのでしょうね。曖昧だと批判されるわけです。でも、曖昧ということは、まだ動きがあります。白黒がついてしまったら運動はありません。まったく固定してしまいます。曖昧ということが、生きるということには、ものすごく大切なエキスだと思っています。

 そう考えると、親鸞というのも、デジタルに「ああ、こういうひとだったんだ」と分かってしまったら、そこにはほんとうの親鸞はいないということじゃないかと思います。デジタルな「二」という世界を拒否したところに自分はいるというわけですからね。これはなかなか、面白いことになってきました。日々違った親鸞に出会ってゆくということも、味わい深いことじゃないかと思っています。

 

2004年2月24日

オギャーと生れた途端に死ぬんだと、思いました。死の発生は、オギャーと言った瞬間なんです。年取ってから死ぬわけではないでしょう。オギャーが、死の悲鳴なんです。おれは死んだぞーっと言う叫び声なんでしょう。もう、生れた途端に死んでるんです。たぶん死んでるんでしょう。でも、その現実が受け入れられない意識は、亡霊のようになって、この身体に宿り、娑婆の生活をしているような妄想にとりつかれているのかもしれません。そしてあるとき、気がつくわけです。おれは死んでいたんだと。柩のなかの死者の顔を拝見していると、そんな気がしてきます。ようやく、「おれって、死んでたんだよなァ、それを忘れてたよ。へへへ…」というような笑みすら浮かべているようでした。

 ほんと、死は輝いています。死者の顔は輝いています。もう、どのように見られようとも、どのように処理されようとも、あなたのご自由になすって下さいという、完全な自己放下があります。この潔さはなんと表現したらいいのでしょうか。完全に相手に、自分をまかせた姿です。これはアッパレとしか言いようがありません。

 ここのところお葬式が頻発しています。一月は少なかったお葬式が、ここのところ連日連夜型になっています。これは、やっぱり、どれほど、科学が発達しようが、文明が栄えようが、所詮、人間は自然の一部分に過ぎないのだと教えてくれます。大自然を忘れて生活しているのが都市生活だと思いますけど、実は大自然の大きなリズムの中に人間はあるのですよと諭されているようです。季節の変わり目の微妙な大自然の変化を、人体は自然のうちに受け入れていのちが営まれているのでしょう。意識的には、人間存在は大自然と遠くかけ離れた存在に成り下がってしまったと悲観していたのですけれども、存外そうでもないのかもしれません。意識で考えている以上に、わたしたちの身体には大自然が浸食して融通しているのでしょう。葬式が続くとそんな思いに駆られます。

2004年2月25日 

オウム信者の手紙を中心に構成されているNHKの番組を見ました。なぜサリンを撒いたのか、その当時のことが自分には分からないという言葉がありました。その言葉は、罪を逃れるための詭弁じゃないか、責任を負いたくないから、そんなことを言ってるんじゃないかと勘繰られる言葉でもあります。でも、おそらく、小生の感じでは、正直な感情の吐露ではないかと思えました。

 第二次大戦中の日本でも、神風が吹くとか、鬼畜米英という言葉がまことしやかに信じられていたんですよね。いまから思えば、なんであんなふうに信じ込んでいたんだろうかと、その当時の自分が分からないというひとは多いはずです。ですから、そういう傾向性を人間はもっているということが事実なのではないでしょうか。人間のある段階には、そういうふうに、集団心理に酔うといいましょうか、共同幻想に酔うという段階があるように思えます。

 オウムの信者の場合、みんな「まじめ」という言葉で数珠つなぎにできるような報道が多いです。「まじめさ」は自分と社会の関係がうまくまわっているときには、問題ありませんけど、歯車が狂ってきますと、社会を敵視したり、あるいは社会が自分を押しつぶしてくるような幻想を生み出します。自分が「まじめ」なのに、社会は受け入れてくれない、それは社会が汚れていて、不真面目な集団だからだと判断してしまうのです。

 小生も、若いころそういう段階に入ったことがあります。自分たちは「まじめ」にやっているのに、社会が悪を繁殖させているから、ダメなんだと考えていました。現政府を凶悪な権力と見立てて、あえてその権力に楯突いていくという態度をとりました。資本主義や、現政府機構が日本をダメにしているのだから、その体制を打倒することが大事なのだと考えていました。でも、どうして、社会批判や権力批判をするときには、自分を「まじめ」に同化させてしまうのでしょうか。つまり歎異抄的にいえば、自分を善人の側におくことになってしまうのです。 善人の立場にたった時、その対極には「悪なる社会」という偶像が立ち現れてきます。それにしても、社会は悪が蔓延しているように見えます。ATMを破壊して現金が盗まれたり、公金を横領したり、オレオレ詐欺が流行したり、幼児虐待があったり、闇金融事件で自殺者が出たり、地球のどこかで必ず紛争があったり、独裁政権に圧殺されていたり。いつでも「まじめ」な人間が弱者として、生きがたくさせられているじゃないかと思います。

 かつて、伊丹十三が、自動車の免許をとったとき、教習所で習ったとおりの運転をしてみたいと語っていましたね。つまり制限速度で走ったり、道路工事の近くは徐行して、一時停止では、チャンと停止して、駐車禁止のところには駐車しないとね。つまり「まじめ」に教えられたとおりの運転をしてみたいけれども、娑婆の道路ではそんなことはできやしねえじゃないかと怒っていたのです。制限速度で走っていれば、渋滞の原因になるし、黄色信号でちゃんと止まっていたら、後ろの車に追突されかねませんからね。つまり、規則があっても、規則を守っているやつはいねえぞ!という批判なんです。「まじめ」に運転しなさいと教えられても、それを守ることができないような現実があるというのです。そんなとき、娑婆のやつらは間違っているぞ、と言いたくなりますよね。それも無理のない感情でしょう。

「正直者はバカを見る」という言葉がありますよね。多少狡賢くないとこの世は渡っていけないという教訓でしょう。でも、おそらくオウムに入信していった青年たちは、そんな教訓には怒りを感じるタイプの人間だと思います。起こした犯罪は凶悪なものです、弁解の余地はありません。しかし、そんな凶悪な事件を起こすほどの「まじめ人間」だったのではないかと思えてしまうのです。「まじめ」は決して、いいことばかりじゃありませんからね。「まじめ」が危険だという面もあるわけです。

 「まじめ」は、「まじめ」の含んでいる毒が見えにくいからです。確かに社会には害毒と思えるような面が確かにあります。でも、そういう害毒と共存しているのが人間社会なんですよね。「まじめ」ですべてを一掃できるものでもありません。それはわたしたちの身体が、そうですよね。癌細胞を身体から、ひとつ残らず駆逐したいんですけどね。でも、普段でもわたしたちの身体は、癌細胞になったり、また普通の細胞に変化したりしながら生体が存続されているようです。ですから、すべての癌細胞を駆逐したいという願いはありますけど、現実にそんなことをしたら生体そのものが成り立たないようです。

 小生は歯が弱く、歯医者さんと親しくさせてもらっています。聞くところによると、絶対に虫歯にならないという薬があるそうです。つまり虫歯菌を完全に駆逐することのできる薬だそうです。でも、もし、その薬を使うなると、ほかの正常な細菌まで殺してしまって、生きることが難しくなってくるのだそうです。ですから、悪玉菌と共存していかなければならないようです。生体と社会システムは違うぞと言われそうですけど、小生は似ているように思えるんです。ですから、いかにも害悪だと感じられる部分も内包して社会はあるのだというのが、どうも人間という生き物の特徴なのではないでしょうか。

 夕方になると、なんだか知らないけど、いいなぁと感じるんです。闇を生物は嫌うはずですけど、人間は好きなんですね。浅草の観音裏あたりの路地に打ち水がしてあって、赤提灯に電灯が灯ると、いいなぁ!という感じです。ぞくぞくするような感情がやってきます。昼と夜とは、また違った世界が、そこにはあります。そして闇には、どうしても悪と通じる匂いがあります。犯罪は夜、行われることが多いですよね。そういう闇が好きになる年齢になれば、オウムなんかに入信する必然性が生れてこないんじゃないかと思ったりします。人間を長いことやっていると、自分は「まじめ」というものには、ほど遠い存在だと骨身に沁みて分かってくるからです。

 

2004年2月27日

人間の誕生は、他力です。自分の努力で生れた人間はいません。そして死ぬときも他力です。自分では企画できません。そうすると、生きている、つまり生きつつあるという、INGのときも、やっぱり他力なんですよね。石原慎太郎は、「仏教は自力本願です」というようなことを、のたまってましたけど、あれって、表層しかものごとを見てないんですよね。自力なんて、ほんとはどこにもないわけです。どこかで、オレがやったんだ!と浮かぶ瀬を見つけたいのでしょうけど、そんな瀬はないんですよね。彼は毎日お経を読んでいるとか。なんだか、無駄骨だと思いますね。まぁ、ちょっと、殊勝げなことをやって、少しは罪滅ぼしでもしたいという思いなんでしょうか。あれだけ、アグレッシブを保とうとすると、よっぽど、へこんだときの、自分を愛撫しなければなりませんからね。

 念仏は、人間が称えるもんじゃありません。森羅万象が称えているんです。とても、人間が称えられるようなもんじゃないんです。まぁ、今夜もお通夜があって、お念仏を称えてきたんですけどね。でも、あれは、ほんとうの念仏じゃないでしょう。ほんとうの念仏は人間が称えるようなもんじゃないと思うんですね。人間は念仏を受け入れるだけであって、それは「聞く」ということでしょう。称えるのは、その念仏が聞こえてきたときの応答として、止むを得ず出るもんでしょう。

 本が念仏している、机が念仏している、家屋が念仏している、大地が念仏している、風が念仏している、樹木が念仏しているんです。つまり、それは、「そのまま」という世界です。「そのまま」という世界が念仏の世界です。人間は、「そのまま」になれませんからね。ですから、「そのまま」の世界の住人たちが念仏している姿を拝むだけです。

 うちのネコも念仏してるんですよ。実に屈託がないほど念仏しています。人間は、ただほれぼれと、その姿を拝むだけです。今日のお通夜で、対面した遺体が念仏してるんですよ。生きている人間は、その姿を拝見して、拝むだけです。そんな姿を見ていると、ますます念仏なんか称えられなくなりますね。音声として発生するのは、応答であって、念仏の滓みたいなもんです。オナラやゲップと同じで、押さえられないから出てしまったという程度のもんです。決して自慢できるようなもんじゃありません。

 今日は麻原の判決の日です。たぶん死刑でしょう。でも死刑にしたところで、問題はなんにも解決しません。オウム発生の原理を解明しなくては、再発は免れません。臭いものには蓋はできても、第二第三のオウムが出てくるに違いないんです。人間は、信じたい生き物なんですから。つまり幻想に酔っていたい生き物ですからね。まぁ生きているというのも幻想みたいなもんですから、オウムと同じような質を生きているわけですけどね。この肉体が自分だと決めてかかっていますけど、これだって幻想かもしれませんよ。自分の家族とか、国家とか、言ってますけどね。それだっけ幻想じゃないという保証はないんです。自我という幻想のなかでひとは、人生を営んでいるわけです。だから、オウムに対してアレルギーのように毛嫌いするんです。自分と同質の部分があるからなんです。近親憎悪というやつでしょう。近いもの程毛嫌いするんです。

 絶対なるものを信じている人間たちを毛嫌いするのは、自分が絶対なるものを信じているからなんです。自我という絶対なるものを信じているからです。自我が神様ですから、他の神様は不必要なんです。自我という原理主義者が現代人なんです。実はオウムも幻想なら、オレたちも幻想なんだよなぁという喧嘩両成敗でもって、はじめて、回路がつながるんでしょう。

 まぁ幻想だらどうでもいいということを言おうとしてるんじゃないんです。人間にしか生きられない幻想を、人間らしく生きてみたいと思うだけです。所詮、幻想なしに人間は生きられないんですから。でも、それが幻想だと知りつつ生きるか、幻想を現実だと錯覚して生きるかの違いだけです。

 森ヒナさんだったか、「他力、他力と思うてきたが、思うこころはみな自力」という言葉がありましたね。思ったらみんな他力という幻想なんです。そういう幻想からの覚醒が仏法なんでしょう。醒めるということがね。

 

2004年2月28日

「出物(でもの)、腫れ物(はれもの)、ところ嫌わず」

オナラやゲップやアクビは出物といわれます。腫れ物は、オデキなどです。これらは、時とところを選ばないわけです。若いころはニキビが顔にできて、ずいぶん悩んだものです。学校から帰ってきて、すぐに洗面所で洗顔したりしましたけど、結局ダメでした。出物でいけば、最近はよくデモノが出て困っています。年のせいなんでしょうか。オナラは、時とところを選びませんからね。シーンとしている会議なんかで、デモノを我慢するのはなんとも辛いもんです。みなさんは、よく我慢しているなぁと感心するくらいです。そういえば、飛行機の機内食では、オナラの発生しやすい食物は出さないようですね。ジャガイモ・豆類などは避けているようです。それは、エアーコントロールしているとはいえ、あの密閉空間で、異臭が多発したら、かなり気分的に滅入ってしまいますよね。

でも、意識のコントロールが届かないデモノ・ハレモノには救いがあります。生理的な面でいえば、デモノ・ハレモノですし、心理的な面でいえば、「感情」がそうですね。感情は意識のコントロールが効きません。喜怒哀楽や好悪、快不快、美醜、躁鬱、などは意識のコントコールが効きません。だから、救いがあります。人間の意識のほうから働きかけて、何事かを成り立たせることができるという考えには救いがありません。浄土真宗は、修行をしたら救われない宗教です。人間が意識的に何事かを達成するための修行をすることは、自分の力で自分を持ち上げようとするようなもんです。

「何事も努力しないで、何がなし遂げられるか!」と叱咤するひとも多いでしょう。確かに刻苦勉励して、何事かを達成したひともいることでしょう。でも、それは、たまたま縁が熟しただけで、運がよかったとか、仕事が好きだったとか、勉強好きだったとか、体調がよかったとか、家庭環境に恵まれたとか、気質が研究に向いていたとか、さまざまな条件が重なっただけなんですよね。努力次第でなんでもできると考えているひとは、そういう諸条件のお陰ということが見えないんです。

 娑婆は、やろうとしなければなにも出来ないという面も確かにあることはあるんです。でも、たとえそれが出来たとしても、所詮人間は老・病・死を迎えてゆくのです。刀折れ、矢尽きるということがあるわけです。そういう段階に差しかかったとき、そういう考えのひとは、生きることに随分苦しむわけです。まぁ、やろうと思えば、なんでも出来るという発想は、青年期の発想でしょう。中年期や老年期では、そういう発想が徐々に怪しく感じられてくるものです。青年期は、将来への可能性が広がっていますけど、中年期・老年期には将来がないんですからね。老年期でも、たまに青年期の発想で生きている老人がいます。まぁ、そういうひとは、精神的に成熟していないというか、体に応じず、精神が未発達なひとなんです。そういう老人は、随分とまわりのひとに迷惑をかけて暮らしているひとが多いものです。自分ではひとりで、頑張って生きているように思えても、実際には、まわりの家族の気配りとか、援助があるわけです。そういうものが見えないわけですからね。見えていないで、「オレは誰の世話にもなっていないぞ!」と豪語したりするんですからね。困った輩です。

 小生も、門徒さんに問われて困ることがあるんです。「どうしたら、信心を得ることができるのでしょうか?」と。まぁ、臨床的には、「聞法しましょう」と応答するしかないんです。でも、言葉にはしませんけれども、「そんな方法はない」というのが本音なんです。親鸞は、「そんな方法はないよ」と言っているわけです。易行ということは、人間の努力がまったくいらないということですから、逆に言えば、努力をしたらダメだということなんです。努力をほしがるのが人間です。どうしたらいいんでしょうか?修行の方法を教えてください?とね。そんな努力大好き人間に、なんの努力もいならいんだよ応答してくるのです。

 もうすでにして、本願の世界に包まれているじゃないですかと応答してくるんです。初発心といいますけど、初めて宗教的世界がほしいと願ったときに、すでに達成しているのだというわけです。そこに気がつけば、最初から、すべて宗教的世界の中の出来事だったんだと分かるわけです。最初からというのは、自分が生れる以前の、ずっと前の生命の起源からということです。

 そんなうまい話があるか!と思いたくなるような話ですね。でも、そこへ行かないと、オウムは超えられないわけです。人間から何かを付与したり改変したりしたらダメなんです。人間以前という世界から、逆に人間がひっくり返されるようなことなんです。デモノ・ハレモノは人間以前なんです。意識以前なんです。そうすると、オナラは、「本願招喚の勅命」とでもいえそうです。会議では困るんですけど、それは意識が困っているだけで、実は、如来の呼び声なのかもしれません。まったく如来は皮肉屋さんです。

 

2004年2月29日

今朝、女房がやっているガッシュ・アートの会の人々を車に乗せて、展覧会をひらく有楽町・交通会館の画廊までゆきました。いわゆる搬入です。七人乗りのプレーリーに六人乗って、それに梱包された絵を積んだので、ギューギュー詰めでした。(開催時期は下記にあります)

 日曜日ということで、道はガラガラでした。小生は、なんだか、飛ばしたくなって、グングンアクセルをふかいしていました。すると助手席に乗っていた女房が、「こわいからそんなにスピードを出さないで!」と言うんです。そして、同乗者のひとたちに、「このひとは、車の運転をすると、ひとが変わるんです…」と。同乗者も、「そうそう、そういうひともいるのよね」なんて、相槌を打っていました。でも「全然、怖く感じないですよ」というひともいました。

 小生も、自分自身、運転するとひとが変わると知っていましたので、そのとおりだと感じていました。それでも、「ひとが変わる」というところに、違和感を感じていました。そんなことを感じつつ、目的地について、同乗者を全員下ろして、自宅への道を走り出しました。その道すがら、「ひとが変わるんじゃない。もともと、あったものが表に出てきただけじゃないか」と気がついたんです。変わるんじゃないんでしょう。もともとあった性質が、表面にあらわれてきただけです。普段は、そういうものが覆われていて、表面に出にくいんです。いや、普段でも出ているんですけど、さほど強調されて出てきていないので、分かりにくいだけなんです。もともと、そういう荒っぽい性質があったわけです。

 これはお酒を飲んだときにも、そういう傾向がありますよね。普段は、大脳新皮質で覆われているから、案外穏やかに振る舞っていても、いざ、アルコールが入って、そこがマヒしてくると、本性が出てくるのです。酒を飲むことで、「あんな奴だとは思わなかった」という一面が見えるわけです。普段はおとなしそうだけど、アルコールが入ると行動的になって、はしゃぎだすとか、真面目そうだったひとが、スケベになって、女の子を触りだしたり、泣き上戸というのもありますね。カラオケで、「私は歌はダメなんです」なんて言っているひとでも、アルコールが入ってくると、マイクを独り占めして、ひとには渡さないひともいます。自分を責めて、自暴自棄になって涙を流すひともいます。それは、アルコールがそのひとを変えるんじゃなくて、もともとあった性質が、覆いを取られて表にあらわになってくるということでしょう。そうやって、人間というのは、案外バランスを取る生き物なのだと思います。表が根暗で、裏が根明。陰気と陽気。真面目とスケベ。静と動。寡黙と多弁。内向と外向。

 そういう自分の傾向性が分かるまでには、少し時間がかかりますね。小生も酒の上での失敗談が多いので、いつも反省することばかりです。そして、自分はロクなもんじゃないなぁという感じがやってきます。だから、酒を飲まないほうがいいんでしょうけど、どうも夕方になると、そっちのほうに気分が傾いていっちゃうんですね。自制心のカケラもないんですから、どうしようもありません。でも、自制心より、フラフラとそっちのほうに傾いていく自分にいとおしさを感じているのも正直なところなんです。人間の情けなさや、愚かさや、どうしようもなさとひとつになっている自分がいとおしいんです。

 歎異抄には「名残惜しく思えども、力なくして終わるときに、彼の土には参るべきなり」という言葉があります。ここには、信仰をもったものは、よろこんで極楽浄土に行くんだ!という力みがありません。信仰の論理からゆけば、喜んで浄土に往生して、明るい精神生活を送れるのだということなんでしょう。でも、そんなことより、家族や恋人がいる娑婆のほうに留まりたいという人情が表現されています。

 信仰は、そんなことでどうするんだと人間のケツを引っぱたくようなものではなくて、人間のどうしようもなさに同伴するものだと思います。人間は自分で自分自身を裁いて苦しむ生き物ですけど、どれほど自分を見捨てたとしても、最後まで、見捨てない慈悲心が宗教の本質でしょう。

【お近くにお越しの際は、どうぞ見てやってくださいm(__)m

■2004ドリーム・ガッシュ合同展

■2月29日(日)〜3月6日(土)am11:30〜18:00

■交通会館(有楽町駅前)B1・エメラルドルーム рR214−4288

 

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