2002年11月30日
●ちょっと油断していると、あっと言う間に時間が過ぎて、更新ができなくなってしまいました。ごめんなさい。m(__)m言い訳→現在、小生は親鸞仏教センター(文京区・向丘)の嘱託研究員、また東京教区教学館の主幹・そして因速寺の住職という、まさに三位一体、あるいは八面六臂というありさまでござりまする。悲鳴をあげながら、毎日やってます。一番困るのが、葬儀ですなぁ。これは予定がたたない。もう手帳を見るとギッシリとスケジュールが入っていますのに、突然の電話で、「○○が亡くなったのでお通夜が何日、葬儀が何日です。よろしくお願いします」と、さも、小生の行くことが当然のように言ってくる遺族には、正直、立腹します。それでも、なんとかスケジュールをやりくりしながら対応しておりますが、どうしても小生が伺えない場合もあります。現状では、弟(副住職)と弟子と三人でやっておりますので、なんとか対応できております。そういう事情をおくみ取り下さい。●言い訳から、今回は入りました。そうそう、「よびごえ」の発刊も迫ってきました。てんやわんやです。もうひとつ言い訳しました。m(__)m一昨日、柿沢未途さんが来寺、いろいろお話をしました。現在の日本人には「退屈」ということがあるんではないかとおっしゃっていました。つまり、毎日同じことの繰り返しで、何か面白いことはないか、何か憂さ晴らしはないかと、そういう欲求が溜まっている。そういうガスのような欲求に火がつけば、どうなるか分かりません。それは小生も感じているところでした。阪神大震災も、オウム真理教も、私たちの無意識の欲求が、引き起こしてしまったのではないかとさえ思っています。現在の問題では、北朝鮮タタキです。みんなの憂さ晴らしのターゲットにされています。確かに拉致は絶対許せない。それは同感です。でも、このまま五人を返さなければ、五人の家族が、逆の拉致にあったような状態になりましょう。この問題で一番大切に考えないといけないのは、家族の問題です。あの家族が、国家の政治の道具にされてはならないと思います。しかしマスコミも、五人を返したら…というメッセージは伝えません。拉致されたんだから、絶対に帰国させるな!という論調です。それは正論です。しかし、物事には背景があって、それでは、1930年代の強制連行で朝鮮半島から何十万人つれてきたのは違法ではないのか。それをどうしてくれるんだ!と言い出したらどうするんでしょうか。ともかく、北朝鮮に残された家族のこと、そして五人のこと、この家族の本当の願いで、物事が動いていくようにと願っています。国家の対面のために、「私たち家族のことは小さなことです…」と蓮池さんに告白させるようなことは、あってはならないことだ思いました。北朝鮮にしても、日本にしても、国家が家族の自発性を強制するなら、それは間違った国家だといわなければなりません。ちょっと、興奮してしまいました。(^^ゞさて、12月は忘年会のシーズンです。みなさん体調を崩さないように、乗り切りましょう。最近、小生はアルコールがはいると記憶がなくなるという、危機的な状況にあります。それもまたよし、かとも思っています。2002年11月25日
●永遠平和の原理が、歎異抄第9条の親鸞の態度だと思います。第9条では、弟子の唯円が、念仏を称えても喜びも感じないし、また淨土へゆきたいという心も起こってきませんと師匠・親鸞の前に告白しています。信仰に出会ったときの喜びは、時間と共に色あせてゆくものです。体験とは、そのときの真実であって、いつまでも継続するものではありません。しかし、弟子・唯円は、いつでもやる気満々の感動が信仰には永続するものだと思い込んでいます。そして恐る恐る師匠の前に告白したのです。ところが、この弟子の告白に対して、親鸞はこのように答えました。「親鸞も、この不審ありつるに、唯円房同じ心にてありけり」と。「私、親鸞も、その問題を不思議だと思っているのだよ、まったく唯円房と同じこころなのだよ」と応えているのです。そこから、逆説的弁証法で、その問題を解明してゆきます。まず、本当は念仏を称えたら喜びが湧いてこなければいけないのに、それが湧いてこないのは、あなたの努力が足りないからではない。喜びのこころを起こさせないものがあるんだ。その正体は煩悩(ぼんのう)なんだよ。ところが、この煩悩に苦しんでいる人間をこそ、助けようというのがアミダ如来の愛なのだよ。だから、喜べないことを嘆くのではなくて、喜べないことをこそ喜ばなくてはならないのだよと、親鸞は語っている。まさに逆説的弁証法ではないでしょうか。
ところで、この「親鸞も…」という受容的態度を「永遠平和の原理」と小生は名づけています。つまり、相対する相手の態度を切り捨てるのではなく、「私の中にも、その問題がある」と受容する態度です。これを敷衍してゆきますと、敵対する相手の問題を、自己の内にとらえ返す原理が平和を導くと思います。例えば、イスラム教とユダヤ教・キリスト教。あるいは中核派と革マル派など。敵対する相手の要素が自分の中にもあるから争いが激化するんですよね。敵対する相手の毒が、実は自分の中にもあるんだと、内部に見出されれば、これは新しい関係を築いてゆく一歩になるように思います。6年前のオウム事件のとき、小生は考えました。やはりオウムの犯罪的な側面には重大な問題がある。しかし、彼らが目指していた真理やサトリは人間が誰でも望んでいる。欲望を原理とした、市場原理の世の中はおかしい、間違っている、そんな世界は嫌だ、もっと清浄な世界が欲しいということの方が正常かもしれません。しかし宗教が孕んでいる負の側面は、私たちの真宗大谷派にも通底しているのです。かつて、雑誌『世界』では『「われわれ自身のなかの「オウム」』という特集がありました。このネーミングは、まさにその問題を語っていました。自分たちの教団を「善なる教団」と位置づけて、他の教団は間違っているとみる見方が問われます。教団も「共同幻想」(吉本隆明用語)のたまものです。つねに、外からどう見えているのか、内部の問題は外とどう関係しているのかとチェックしなければなりません。そういう意味でも「親鸞も、この不審ありつるに」と受けとめる受容的態度が、その問題を超えてゆける一本道だと思っています。
2002年11月24日
●小生が寺に生まれたこと。これは、不思議なご縁です。寺に生まれたことに劣等感をもち始めた思春期、そして学生運動に関わって世界が、分かったとうぬぼれていた時期、そして、21歳で親鸞と初めて面と向かい合いはじめた時期、信仰が分からなくてのたうちまわった時期、そして現在、ようやく等身大の自分に戻ってきた時期。「青い鳥」に出会う旅は、前人未到の山海をのたうち回ることだったようです。うちの猫は、生まれて、年老いて、じゃれたり、眠ったりしていますが、初めから等身大の猫でした。人間は、等身大の自分になるのには何て大変なんだろうと思います。それは自分がひとから聞いたこと、自分が本から得た知識で知ったこと、自分がこの目で見たこと、自分がこの身で感じたこと、それらが分けられないことからくる問題でした。それが「分かっている」ということと、自分が「できるかどうか」とは別です。また「考えたこと」と「感じたこと」も別です。それらが峻別されてようやく自分になれるようです。●「永遠の課題」と「緊急の課題」とは、吉本隆明さんから教えて頂いた言葉です。それはタバコの嫌煙権の話題でした。ある出版社の社員同士で、タバコを吸わないひとがいるんだから、タバコを数場所を限定して職場では吸わないという内部規定を作ったそうです。そこにお得意さんが来たそうです。そのお得意さんは、そんな内部規定は知らないから、タバコをスパスパ吸ったそうです。そのお得意さんに、ある社員が、「お客さん、ここはタバコを吸ってはいけないから…」とたしなめたら、お客さんが「俺は客なんだ。なんだその言いぐさは…」ということで険悪な雰囲気になってしまったようです。たしかこんな話題だったと記憶しています。そこで吉本さんは、人類というのは、原始未開の時代から、酒とかタバコや、今でいえば薬物のようなものを毒だと知りつつ嗜んできた歴史がある。だから、そのへんのスパンまで戻って考えないと、タバコを吸ってはいけないという論理だけでは解けないのではないかと提起されていました。そこでタバコを吸ってはいいかいけないかという緊急の課題と、みすみす毒と知りつつ嗜んできた永遠の課題と、その両方から考えないとだめだといっていました。悪いんだと知りつつやってしまうことは、たくさんあります。それは、悪いと知りつつやっているんだから、その人間を批判して撲滅するか、粛清するかしかありません。しかし、悪いと知りつつやることの歴史のほうが、ずっと長いんですよね。差別や喫煙や争いは、みんな悪いと知っているわけです。しかしそれをやってしまうというのは、やっぱり人間がもともと本性上にもってしまっている特質だということでしょう。もともと人間は清廉潔白の生き物だと考えるのか、それとももともと腐っている生き物だと考えるのか、その違いがあります。もともと腐っている生き物だというほうが、自分には納得のいく考え方だと思っています。
2002年11月23日
●うちの門徒の親戚が、突然ご主人を亡くして、葬儀屋さんから紹介された坊さんの「法名授与」に関して苛立ちを覚えたという事件について。簡単にいえば「あの坊主!あたまくる!」という反応です。世間では「戒名」といいますが、浄土真宗では「法名」といいます。戒名は、戒律を守れる人が名のる名前です。うちの親鸞というひとは、自分はひとつも戒律を守れない愚か者だといったひとです。だって、戒律の初歩である「不殺生」(生き物を殺さない)ということ戒律すら守れない自分であるといってます。私たちが食べるという行為は、「不殺生」では決して成り立たないのてすよね。それで、だれでもいつでもどこでも、自分は仏教徒に成りたい!というひとが名のれる名前として「法名(ほうみょう)」と真宗ではいいます。真宗の正式法名は、男性は「釋●●」(三文字)、女性は「釋尼●●」(四文字)です。例外として「院号」というのがあって、それでも上に「●●院」とつくだけです。(これは教団や寺に、貢献された方に、感謝状の意味としておくられる贈り名です。別に、これを付けなくても正式法名です。世間では文字が多い方がいい法名(戒名)といってますが、そんなことはありません。本当に尊いことは、そのひとが生前に、どれだけ仏法を大切にされるかです)ところが親族が三文字の法名でいいというのに、その坊さんは「昔は三文字だったけど、現在では上に●●院を付けるか、あるいは下に居士を付けることになってます!」と詰め寄ったそうです。そんなことは、浄土真宗では言ってません!そんなことをいう坊さんがいたら、教えて下さい。そいつはまったく偽物ですぞ!注意して下さい!まぁそれでも、自分は満足しているという人は、別段小生が怒る必要もないかもしれませんけどね。さらに、遺族が「それではお金はおいくら包んだらいいんでしょうか?」と訪ねると、その坊さんは「あんたちは、すぐに金のことを言う。私は、お父さんに対するあななたちの気持をきいているんですよ」とのたまったそうです。遺族は「気持といわれても…。」と返答すると。とうとう、その坊さんは「●●院を付けるんですか!、それとも居士を付けるんですか!」と詰め寄ったそうです。それで遺族はその語気に圧倒されて「それでは居士でお願いします」といってしまったそうです。まるでキャッチセールスで強引に品物を販売する怪しい輩みたいなもんです。まったく、その坊主に腹を立てています。聞いていた、小生も「このやろう!真宗の名を語るな!」と憤慨しました。そういう一部の偽物坊主がはびこっているために、仏教全体が「葬式仏教」という汚名を頂戴するはめになっているのです。まったく嘆かわしいことです。みなさんも本物と偽物を見分ける心眼を、自ら養ってください。これは、だれかが取り締まってくれると他人まかせにできない問題なのです。それは仏教界が警察組織をもって取り締まれという意見もありますが、それは永遠にできません。仏教界は、基本的になんでもありです。自由なのです。ですから、お互いの領解で規制、あるいは合意はできても、他人を強制的に云々できない自由さを本質としているのです。まもるのは、自分の心眼で自分を護るということしかありません。それは他人まかせには決してできません。やっかいなことですが、それしかありません。
※その類の問題で困ったときは下記へ、アタックしてみてください。●全日本仏教界(全国の仏教界の総合組織です) hpアドレスhttp://www.jbf.ne.jp/ 電話03−3437−9275●仏教情報センター(各宗派のお坊さんがボランティアで作っている組織です) mailアドレス bukkyo@mth.biglobe.ne.jp 電話03−3811−7470●真宗会館(小生の教団の窓口です)滅入るアドレス(ちょっと遊んでみましたm(__)m)→メイルアドレス tokyo@samgha.net 電話 03−5393−0810
2002年11月22日
●ビッグニュース 寺に泥棒が入りましたぞ!!ご注意あれ!本日午後6時半頃、本堂から賽銭箱が盗まれました。犯人を、うちの息子が目撃し、追跡。警察官8人が操作中!
この教訓をいかして、本堂に防犯装置を付けました。また、本堂前にはスポットライトを設置することが決まりました。まったくご時世ですね。犯人さんへ、防犯装置を完備しましたので、おそらく難しいと思いますので、お寺へ忍び込むことは断念されたほうが宜しいと思います。
刑務所が120パーセントの満員だそうです。犯罪天国になりつつある日本、ほんとうの人間のたましいに戻ろうではありませんか?モノを盗むといいますが、モノには必ず背景があります。たとえ、一本の鉛筆でも、その背景には無数の人間がつらなって生きているのでした。鉛筆の芯を作っている人、素材の木を育成している人、鉛筆に塗る絵の具を作っている人、鉛筆を入れる箱をつくっている人、鉛筆の芯の材料を作っている人、鉛筆を宣伝している人、ここまで鉛筆を運送してきた人、そして鉛筆を売る人等々、無数の人間が、一本の鉛筆で生活しているのです。そのたった、いっぽんの鉛筆を盗むということは、その人たちのいのちを奪うことになるのです。それは殺人にも等しい行為なのです。いま日本では、モノの背景をみることができなくなっています。でも必ず、モノにはモノの背景があるのです。その背景に思いを馳せた欲しいと思います。
実は、それは私のいのちの背景と同じだけの、重さをもっているものだからです。自分に親が二人いて、お祖父さんとおばあさんは四人いて、その上にはひいお祖父さんとひいおばあさんとが八人居て、その上には十六人いて、その上には三十二人いて、六十四人いて、その上には百二十八にっ居て、十代まえには千二十四人居て、そして、三十代まえには、十億七千三百七十四万一千八百二十四人(1,073,741,824人)がいるのです。この数字は架空の数字ではありません。自分が、ここに自分として存在するためには不可欠の数字なのです。もし、その十億人のひとりでも存在していなければ、自分は存在していないのです。もし一組のカップルが結婚しなければ、私は存在していないのです。そう考えてみますと、自分の存在の背景には無量無数のいのちが関わっていたことがわかります。自分のいのちは、私のものではなかったのです、その十億人のいのちの結晶なのです。それも三十代で切り取った数字です。それ以前があるのです。そして、それはどこまでもさかのぼれるのです。ああ〜。それにいまの科学では、精子と卵子が出会うのは何億分の一の確立だといいます。そうすると少なくとも三十代前には十億人かける何億という数字が出てきます。これはもはやここに表現することもできないほどの、数になるのです。まったく自分のいのちの背景は、驚くほどの因縁があるのです。これはまったく感動しかありませんね。ナム〜。
2002年11月21日●
日曜日の笑点の前座で、綾小路きみまろを見ました。焦点の前座は、だいたい往年の芸人か、これは売れない芸人救済番組かと思うような芸人が出演していました。円楽の義理なのか、他の力学がはたらいているのかといぶかしくなりました。しかし、そんな思いを払拭させられたのが、綾小路でした。芸風は軽いブラックユーモアの漫談なんですが、聞いているうちに、小気味のいい弁舌に家族も爆笑していました。聞くところによると、彼のCDも爆発的な売れ行きだといいます。記憶の一部→「耐用年数を過ぎた亭主と、賞味期限の切れた女房…女房はエステ、亭主はゴミステ…」。韻を踏んでるところもにくい。ワイドショーでは、50代以上の奥さん方にバカ受けと言ってました。真実を表現するとブラックユーモアになるんですね。でも、仏教だってブラックユーモアなんだから、綾小路と通底しているものがあります。久しぶりに痛快な芸能を見たような気がしました。●今日、免許の書き換えに行ってきました。もう写真、いらないんですね。知らずにいって、「必要ありませんよ」と受付のおばちゃんに、言われてがっくり。600円でインスタント写真とってきたのに。(-_-)書類をよくよんだら、ホント、いらないんですよ。皆さんも注意しましょう。まぁ、小生はゴールド免許なんでね。(^^ゞ弟いわく、「ただ捕まってないだけじゃん」と。確かに、運がよかっただけなんです。違反はたぶん?してるんです。正直にいうと。ごめんなさい。でも、ゴールド免許だと以前は、講習はなくて、ただ室内のパネルを閲覧して終わりでしたよね。今回は、30分の講習がありました。それよりも、小生もだいぶ目が弱ってきて、視力検査で引っかかるのではないかと不安でした。まぁことなきを得て、合格しました。試験場はなんとも、被験者は不安なところです。警察官は善人、被験者は悪人という雰囲気がありますね。江東試験場から出てきたときにはホッとしました。事故や、運転のスライドを見ていて思ったのですが、事故を起こすひとは、想像力の欠如ではないでしょうか。右折車が曲がるか曲がらないかは、小生には分かりません。直進が優先だと思っていも、世の中変な奴ばっかりですから、そうじゃないか右折できるんだと思い込んでいる奴がいます。そういう奴がいるという想像力です。これはよくあることですが、交差点の直前で、信号が黄色になりかかったとき、当然交差点を抜けられるのに、急ブレーキをかけるバカがいます。追突されたいのか!という感じで、こっちも急ブレーキをかけます。あの、ドライバーの「これなら大丈夫」という許容範囲があります。これはドライバーなら、分かる感覚です。しかし、その感覚の欠如している奴は、まったく鈍感で、予想外の行動をとります。でも、でも、そういう変な奴がいるという想像力が小生に欠けていたということなんです。これはみなさんも注意して下さい。女性教官、清楚ででも、50代なかばという先生が、「だろう」運転ではなく、「かもしれない」運転をして下さいと言ってました。歩行者が飛び出すかもしれない、右折してくるかもしれないと想像力をはたらかせろというこことです。小生は揚げ足取りですが、「飛び出すだろう」「右折してくるだろう」だっていいじゃないかと思いました。しょうがないですね、この、なんというか権力に反抗する態度は、まったくごめんなさいとしかいいようがありません。
2002年11月20日
●今日、江戸川区にある、都営・瑞江火葬場にいってきました。初めて事務所へ入りました。そこには火葬の値段表が貼られていました。一体7200円というのもありました。大人と子どもでは値段も違いました。最後に、7200円で自分の体や焼かれて、それで風となって消えていくんだなぁ。この火葬という風習は、インド伝来のようです。やっぱり、バラモン教(現在のヒンズー教)は火によって死者のたましいを天に送るということではないかと思います。ジャイナ教では、火は神聖なものだから、死体には近づけません。ですから鳥葬です。火ではなく鳥がたましいを天に運んでいくんだと考えるんでしょう。
日本古来のやり方は土葬です。「最後は土に帰る」という言い方をします。以前、九十九里で土葬を見たことがあります。饅頭のように盛り上がった土があって、その周りを縄で囲ってあったと思います。日本に火葬という仏教の葬送様式が入って来たとき、日本人はむごいと感じたようです。いまでは、衛生上の問題から火葬にするのだど公私ともに、そう思い込んでいますが、もともとは仏式の葬送様式なのです。まだ地方自治体によっては、土葬を認めているところもあるそうです。まぁ東京は、場所がないから、土葬は無理でしょうね。体積を減らすという点でも火葬は有効なのでしょう。
最後に火葬のお釜にご遺体が入れられ、その扉が閉まるとき、「おかあさ〜ん!」とか「おとうさ〜ん!」と叫ぶ遺族があります。悲鳴のような叫び声です。最後に亡き人にかけてあげらる唯一の言葉です。そばにいる小生もジーンとする場面です。そこから控室に入って、焼き上がるまで一時間十分くらい待ちます。下町ではよく、「おしのぎ」としておにぎりをたくさん持っていきます。あるご婦人が、ご主人を亡くされてこんな言葉をもらしました。「こんなに悲しいのに、お腹が減るのね…」。そういっておにぎりを食べていました。久しぶりにあった親類と挨拶をかわし、懐かしく昔話に鼻を咲かせて笑い声すら聞こえてきます。さっきまで悲劇のどん底にいたひとが、今は笑顔で笑っている。人間の感情とはまったく不思議なものです。お葬式をする動物は人間だけです。これは故人のためにしていると思っているのですが、実は生きている人間のためなのです。生きている人間が、みんなで集まってお葬式をすることで、亡くなった人の死を悼み、死を受けとめてゆくのです。ですから、お葬式をしないと、そのひとが本当に亡くなったという実感が湧かないのです。これも不思議なものです。お葬式を出して、柩に入った故人と十分にお別れをする。十分に涙が枯れるほど泣く。その儀式を通して、ようやく残された家族は、死を受けとめてゆくのです。それは、癒しの儀式でもあります。
しかし、人が亡くなったくらいで、残されたひとは仏法を求めるものではありません。世間では、家族をなくせばみんな遺族は仏道をこころざすのだと誤解しています。ひとが死んだくらいで仏道を求めるものではありません。何不自由のない暮らしをしていても、何かおかしい。何のためにここまで生きてきたのかというフッとこころのなかを吹き抜ける一陣の風。その風を感じたひとしか仏道を求めません。『観経疏』というお教には「善心、微なり」と出ていました。善心とは求道心です。求道心とは「かすかなもの」なのです。普通の意識では見逃してしまうほどのものです。お釈迦さまが出家するとき、私たちなら「こんな贅沢な暮らしをしているのに、まだ何か不満でもあるのか?」と叱るのでしょう。もしそう思ってお釈迦さまが出家しなければ、仏教は存在しませんでした。求道心とは本当にかすかなもの、デリケートなものです。このデリケートな心が自己を救い人類を救うのです。お大事に。
●中嶋常幸が三井住友visaマスターズトーナメントで優勝しました。48歳の往年のゴルファーが優勝するとは!驚きです。同年齢なので小生は、なんだかとても嬉しくなりました。彼は談話で「ミスをした自分を許せるようになった…」と語っていました。これは何とも素晴らしいことばです。まったく凄いことです。自分のミスを、これも運命だと受けとめられるまでには、相当の時間が必要だったのだと思います。ゴルフはすべてが自己責任のスポーツですから、誰のせいにもできません。ですから、ミスをしたときには、その失敗が自分自身をドカンと打ちのめします。そして、「おれはダメだ」となって、いわゆる「切れる」という状態になり。自滅していくものです。そこから立ち直る道は「ミスを許せる」という方向性なのでしょう。これは言うのや優しいことですが、真似は決してできません。努力だけでは、決して開かれてこない世界なのだと直観させていただきました。中嶋さん、本当におめでとう!
2002年11月17日
●うちの猫、プチ子とチビタ君はどうしても仲がよくありません。顔を合わせると、にらみ合ったり、どちらかが手をだしたりして、喧嘩になってしまいます。長年ひとつ屋根の下に住んでいるんですけど、どうしても仲がよくなりません。これは、もう相性というよりほかありませんね。どんなに理解し合おうとしても、ダメということがあります。?これは猫だけじゃなくて、人間にもあるようです。よく「誤解して結婚し、理解して離婚した」といわれますように、「こんなはずじゃなかった」「こんなひとだとは思わなかった!」ということはよくあることです。でも人間は、そこからほんとの愛が始まっていくのかもしれません。生い立ちも、生育歴もまったく違う人間が、ひとつ屋根の下で暮らそうというのですから、それは至極とうぜんのことで仕方のないことです。かえって理解し合えることのほうがウソなのでしょう。お互いが、お互いを分からないというのが本当だと思います。 夫婦が仲むつまじくあるための秘訣を教えましょう。それは、自分がまず「悪人」になることです。つまり「加害者」になることです。もし自分と出会っていなければ、相手はこんな苦労をしないですんだのかもしれません。結婚という束縛により、相手の人生を狂わせたのが私なのです。そういう意味の「加害者」になるのです。そうすれば、相手をリスペクト(尊敬)できるようになると思います。愛には必ず尊敬が混じっています。相手を尊ぶというこころがなければ、それは愛ではありません。まず自分が「悪人」であることを自覚することが、夫婦和合の秘訣だと、内心で思っているのです。こんなことは、そよでは言ったことはありません。このホームページの更新だから書けることです。まるでこの「住職のつぶやき」は、鏡に向かって孤独な世界を吐露しているようなものです。(たぶん誰も見ていないから書けることなんです)
夫婦の出会い、そして生活は五分五分(ごぶごぶ)じゃないかと思っていると、悪人にはなれません。幸せにはなれないように思います。
話は変わりますが、少子化の現代、「子供を設けてよかったと思うことはなんですか?」というアンケート調査の結果が面白かったです。一番は、「自分が人間として成長できたこと」でした。これは、まさに、その通りというような結果ですね。子供によって、自分が初めて人間として一人前にさせてもらえるんだ思います。自分の子供だからといって、大人(私)の思い通りにはなりません。思い通りにならない存在を、自分の子供として育てるということは、なんと矛盾したことではないでしょうか。しかし、その「思い通りにならない」ということが、親を成長させるんですね。「近頃の親は子供を叱らなくなった」「親として自信がないんだ」と批判されますが、それはそうじゃないと思います。ようやく「一個の人間」として、「子供」を見る眼ができてきたということです。いままでは、自分の従属物、あるいは自分の分身、自分のモノというイメージが強かったのでしょう。自分の分身だから、たたいたり、叱ったり、というシツケという名の暴力でやってきたのです。それに何の疑問も持たなかったのです。しかし、子供は自分の遺伝子から生まれてきたものだけれども、自分とはまったく別個の一個の人間であるという眼が近頃やっと育ってきたのです。「親」という文字の意味は「立木のそばで見る」という意味だと西本文英先生に教えていただきました。立木のように黙って子供の成長を見守るという意味だそうです。子供は自分で育っていくんです。その成長力を親が邪魔をしないことです。それは信頼があるからできることです。信頼がなければ、手を出し、足を出すことになります。この黙って見守るという試練がまさに親の試練なんですね。小生も試練の途上国であります。
2002年11月16日
●仏教に入門するとは?!小生が仏道の専門道場に入ったときのことです。訳の分からない漢文のお経をマル暗記するのはナンセンスだと、師匠たちに反抗したことを思い出します。やっぱり、意味が分かったところで暗記することには意味があるけど、意味が分からないで暗記するのは納得いかないぞ!という反抗心がありました。しかし、そんな小生の疑問に対して、師匠は、「あなたは、すでに体は仏道に入門していても、こころがいまだに入門していない」と叱られました。その時には、そのことの意味が分からなかったのですが、いまはこういう意味だと受け取っています。つまり、体は道場のなかに入っているのに、こころが、いまだに近代人の頭のままだというのです。近代人の頭とは、「意味の分かるものは受け容れるけれども、意味の分からないものは受け容れない」というこころの構えです。これは近代人としては当然のこころの構えです。しかし、仏道に入門するということは、その近代人の頭では入門できないのだど教えられました。意味があるかないか、という発想は、価値があるかないか、分かるか分からないか、損か得かという二分法です。まぁこの発想がないと人間は生活できないのですが、仏道には、そのこころのままでは入れないのです。そのこころが一度死んでから、もう一度生きなおすというような経験がなければならないのです。
庭に咲いているサザンカ(山茶花)は、意味が分かって咲いているのか、得になるから咲いているのか、と問われれば、「そんなことはありません」と答えざるを得ません。お前は、人間である以前に、いのちあるものとしてこの世に生を受けた「衆生」(しゅじょう)として目を覚ませと叱咤されように思います。そういえば、自分は意味が分かって、この世に誕生してきたのではなかったのです。気がついてみれば、人間という「衆生」として生を受けていたのです。体が先、頭は後ですね。確かに、意味が分かることも大事なことではありますが、それ以前に、意味が分かろうと分かるまいと、その近代人の頭を横において、仏道に突入しなければならないのでした。法隆寺の宝物である、玉虫の厨子の側面に「捨身餌虎」(しゃしん・しこ)という仏教説話が描かれています。崖の上から修行者が身を投げている絵です。崖のしたには、飢えた虎が待ち構えています。飢えた虎は、崖の上から落ちてくる修行者を餌として食べようとしているのです。この絵は、信仰の門にはいる心の構えを象徴的に表現しています。恐ろしい虎に喰われてもいいんだ。身を投じてしまおうと決意すること、そして身を投げると、その虎は菩薩に変身して、修行者を受けとめて下さるのです。仏道に入門するのは、それに似ています。分かるか分からないかという近代人の知が身投げすることです。それは自殺のようなものです。しかし、絶対に再生されるのです。身を投じないと、浮かぶことができないのです。逆説的ですね。まぁ、身を投げていことも後で分かるので、さぁこれから身を投げようという世界ではないのですけれどもね。
以前マインドコントロールという言葉がはやりました。新々宗教に入信させられるのは、マインドコントロールされるからだといわれました。身を投げるという比喩は、このことに似ています。新興宗教に入信する人は、逆にこの世を批判していました。新興宗教に入信するのがマインドコントロールというけれども、それで娑婆で生きているひとはマインドコントロールされていないのか!と。人間そのものより、点数が大事な教育、金がすべての価値に優先する資本主義経済、こういうものを信じ受け入れている現代人は、マインドコントロールされているのではないかと。
仏道は自覚の宗教だといわれます。自覚の覚は、「さめる」という意味です。どこまでも、覚めていくということでしょう。「宗教に酔う」「酒に酔う」「恋愛に酔う」「自分の功績に酔う」。とかく人間は酔いたいです。覚めることは嫌いです。でも仏さまはどこまでも、私たちを覚まそうとします。「私の宗教がこの世で一番大切だ。」「私には、この彼女(彼氏)がいれば、この世は満足だ」「ここまで自分も生きてきて、功なり名を遂げた。以て銘すべしだ」と、そうやって酔いたいのです。しかし仏さまは、「それでいいのか!」「それが本当か!」と呼びかけてきます。ほんとに仏さまとは嫌味なかたです。ひとが酔いたいといっているんだから、いいじゃねぇか!と思います。しかしいつでも「それでいいのですか?」と呼びかけ続けてくるのです。仏さまは人間を底の底まで徹底して批判してくるはたらきそのものです。だから、ほんとは人間は、仏さまに会いたくないのでしょう。人間は自分の頭をなでてくれるもの、私を肯定してくれるものは大好きです。しかし否定するものは目も背けたいと感じます。この世で一番嫌われているのが仏さまということになるのかもしれませんね。
●悪人成仏?親鸞の教えは悪人成仏が特徴です。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という歎異抄の表現はものすごく有名です。「善人でさえ真実なるお浄土へ生まれることができるのですから、まして悪人はいうまでもありません」と現代語訳ではなります。悪人が救われるなどということは親鸞はいわなかった。これは弟子の唯円の捏造だという解釈もあります。また、悪人の悪は倫理的・道徳的な悪ではなく、人間が生きるときにはかならず、生き物を殺して食べて生きるんだから、存在していることの悪をいっているんだ。人間存在としての悪だから、人類すべてに成り立つ悪だという解釈もあります。これは両方とも、仏さんのいないところで解釈されています。人間が人間の知力を尽くして解釈したのです。親鸞のいう「悪人」は、仏さんからの視線にしか成り立ちません。仏さんからの視線に映し出された人間の自覚です。決して人間が、自己反省、あるいは内省して出てくるものではありません。仏さんからの視線に照らし出されるということは、強烈な慈悲の光に焼き尽くされることです。絶望の淵に追いやられることです。と同時に、仏さんとの関係が成り立つということです。絶望の体験であり、愛の体験であります。人間の愛では成り立たないことです。仏さんから「汝、悪人よ!」という声なき声を頂戴する。でも、それは仏さんとの関係が出来上がることなのです。絶対に救われようのない人間にこそ、絶対に救おうとする仏さんの愛が投げかけられてくるのです。(時間切れ。また機会に、この続きを…m(__)m)
2002年11月11日
●長崎から昨日戻りました。長崎は、羽田から飛行機で一時間半くらいです。そこから海上タクシーで二十分で時津に到着しました。萬行寺という長崎では大きな真宗大谷派のお寺の永代経法要でした。あさ六時半には喚鐘(かんしょう)が鳴り響き。七時から朝のおつとめが始まります。このお寺では春と秋に永代経が執り行われ、四日間もやるんですよ。凄いですね。なんと報恩講は本山と同じく一週間も勤めるのですから、何おかいわんやですね。たぶん、長崎はキリスト教が触媒のはたらきをして、そのおかげで仏教が盛んなのではないでしょうか。北陸顔負けのところもあります。「聞くというは創造なり」という話をしました。真宗は「聞法(もんぽう)」に極まるといわれます。山の中を走り回ったり、水を浴びたりという修行は一切ありません。もともと修行の徹底できない私たちのために、アミダ如来は愛をなげかけてくれているのに、こざかしい人間の努力でもって、修行のつもりになっているのは、なんという傲慢でしょうか。「努力をしたい、やり甲斐がほしい」という欲望を人間はもっています。でも、まったくそういった努力は、不必要です。なぜなら、如来の愛を疑っているからです。「如来の愛なんて頼り無いよ。自分で努力したほうが、よっぽど手応えがあるよ」と考えて、如来の愛の力を疑っているのです。あ〜あ。
でも、「教えを聞く」ということは一番大切な真宗の習俗として残っています。まぁ体を動かしたほうが、よっぽど手応えがありそうですけど、ジッとして植物のように、教えの前に黙って身を投げ出すのです。動物は気が短いし、すぐにウロウロしたがります。上野動物園の白熊は絶えずウロウロしています。ジッとすることは動物にとって大変なストレスなのです。動いているほうが、楽なんですよ。「教えを聞く」と、難しい話に、「それはいったいどういう意味なんだろう?(‥;)」「どうしてそういえるんだろう?(-.-)」と考えます。考えた結果、「きっとこういう意味に違いない」と私の頭に何かが浮かんでくるのです。それが「創造」ということです。話を聞くと、かならず自分の解釈が頭をもたげてきます。そこに「創造」がおこなわれているのです。仏法はまったく個性を大事にします。「こうじゃなきゃいかん!」とは押しつけません。盲人が6人で象(ゾウ)をなでたお話があります。ひとりは長い動物だといい、他の人は大木のようだといい、ひとりは大きな岩のようだといいます。盲人は、それぞれ足や鼻や体にふれていたのです。それは全部正しいのです。象の一部分をみんな正しく言い当てているのです。でも、絶対にこれが正しい、他は間違っているとはいいません。まったく個性を十分に尊重していく教えです。原理主義を超えていく道がここにもあると思います。お釈迦様も親鸞も龍樹菩薩や法然上人も、みんなアミダ如来と対話した結果、「自分はこう頂いた」と表現しているのです。まさに「創造」した結果が表現されているのです。私もお釈迦さまも如来からの距離は等距離です。創造そして表現という点では、なにも遠慮することはありません。私に如来がこのように感じられたと受け取られたとき、それは歴史上まったく初めて創造された「経」という意味をもってくるのです。お経は、決してお釈迦様が筆をもって書かれたものではありません。自分がお釈迦様の教えを、このように受けとめたという感動の「創造表現」が「お経」なのです。だから、「如是我聞」とお経は始まります。「かくの如く、我、聞けり」です。自信をもって、私たちも創造表現をいたしましょう。遠慮するのは、如来を信じていないからです。しかし、その創造表現が、道理にかなっているかどうかは、分かりません。ひとから、「そりゃ違うぞ!」といわれることもあります。そのときは、そのときで、また考え直してみるのも仏道というものです。無尽蔵の創造表現がこれから生まれてくることでしょう。まったくいまだかつて表現されたことのない仏法が創造されてゆくことでしょう。(なかなか更新ができないもんです。すぐに日がたつんですね。まったくm(__)m)
2002年11月6日
●ネグローシスとアポトーシスという話を聞いた。ネグローシスとは、細胞が外からの要因で、死滅することだそうです。怪我をしたとか、火傷したとかの外的な要因で、細胞が死ぬということです。これは消極的な死です。しかし、アポトーシスというのは、細胞自身が内的な要因で死滅することだそうです。印象的だったのは、人間が子宮のなかで、受胎して数週間して人間の原型のようなものになってきたとき、手はシャモジのような形をしています。小さいグローブというか、つまり、指と指がまだ分かれていない状態です。手は、一本一本伸びてきて指ができあがるんではないんですね。最初はシャモジのような形です。それが時間と共に、指と指の間の細胞が死滅して、五本の指になるのです。その細胞の死滅を、アポトーシスというそうです。これは細胞の積極的な死です。細胞に「積極的な死」といいますか、「自発的な死」があるということは驚きです。しかし、考えてみますと、皮膚の細胞が、毎日死んでは生まれ、内臓の細胞が死んでは生まれしているということは、細胞の積極的な死なしには成り立たないんですね。そして、やがて、寿命という、積極的な死がやってきます。細胞自身が死を計画的に予期しているんですね。 小生は、「人間、死んでいる時間の方が長いんだ。永遠なんだ」とよくお話します。自分がこの世に生まれる以前の時間、そしてこの世を去っていった後の時間。この時間の方が永遠なんです。この世にいる時間は「夢、まぼろしのような」時間です。本来私たちは、この永遠の時間のなかにいるんですよ。いま、かりにかすかすに、ここにいのちとして、あるだけなんですね。短い、まぼろしのようないまを、だれしも、生きて、いるんですね。(今日から、8日まで長崎に永代経の法話へ出かけます。更新は、このあとになります)
2002年11月2日
●急激に冬化がすすみ、ちょっと前まで、まだ夏の温もりが余韻となって残っているのに、風と空気だけが冬になった。もはや「秋」は日本に存在しないようだ。(なぜか今日は「である調」)熱帯地方のように、暑いときと寒いときと、季節もデジタルになったようだ。「四季」というような、曖昧な季節の移り変わりは、もはや日本にはなくなってゆくのかもしれない。ファジーということが、以前もてはやされた。しかし、いまは、デジタルとなって、白か黒か、暑いか寒いかということのみが大切にされつつあるのかもしれない。「お前は臭い」と友達にいわれて、自殺したいと思ったという少女がいた。こういう受けとめ方がデジタルモードである。「臭い」ということが、自他とにも認められても、それは、彼女の一部分の問題で、彼女全体の問題ではない。ケチといわれても、そうびくびくする必要はない。ケチでもいい、でも、それは真実でも、そのひとの一部分でしかない。そのひとそのものではないのだ。一つ悪いところがあると全体がだめだという受けとめ方がデジタルモードというやつである。中国に「一悪をとりて衆善わするる」という言葉がある。ひとつ悪いところがあるからといって、たくさんのいいところがあることを忘れてはだめだよという意味である。これは現代人にとても大切な教訓だ。ひとつ悪いところがあると、全部だめという病気に日本全体がかかってしまったようで、恐ろしい。ほんとうは、そんなことはないんですよ。必ず、そのひとのいいところはあるんですよ。やっぱり人間を全体的に、トータルに見ていくアナログモードのほうが私は好きです。自分の見ている嫌な奴というのも、きっと、それは一悪の面なんですよ。かならず衆善の面がそのひとにはあるんですよ。そうやって人間は有史以来生きてきたんですよ。きっと。
●境内に、ざくろが咲いています。だれも植えていないのに。これは鳥の糞に混じっていた種が、糞と一緒に落とされて、そこから生えてきたんです。種は落ちる場所に完全に身を任せています。日影であっても、水はけがよくなくても、文句ひとついえずに、黙ってその場所を一生の住処としています。こいつは凄いやつです。動物は自分の足で餌をつかまえて動けます。でも植物は、一生不動のままで、その場を支えます。酸素なんか出したりして、ひとの役にたったりして。動物は、その植物を餌にして、毒をばらまいて生きているんですね。恥ずかしいことですよね。自由に足があって動けるのに、人間は全然自由じゃないんですよ。ざくろを見ていると、そんな自分が凄く恥ずかしく感じます。不平不満ばかりで、毒ばかり振りまいて…。