住職のつぶやき2004/05


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2004年5月1日

 

●今月の言葉●

仏教など
好きで聞けるものではない。
好きで聞くというなら
変態者であろう。
聞くのは怖れである。
自分を否定するのであるから
怖いのは当然である。
       (安田理深先生の言葉)

この言葉が大好きです。この「変態!」というのがね。「仏教が好き!」なんていうのは、変態に決まってるんです。ですから、仏教が流行るわけがないんです。教団が巨大化するときには、なにか恐ろしい要素が混じっているんです。どこまでも、ひとりに帰ってゆける道がなければなりません。みんなが集まってワイワイやっているというのは、どこかおかしいんです。とはいうものの、東本願寺教団だって、大きいじゃないかといわれますけど、いまでは組織の強制力が壊滅していますから、ものすごく健康的になりつつあります。それは世俗化といってもいいのですけど、教団にとっては、大事な要素だと思います。組織が強いときには、信仰も強いものになります。でも、組織力が低下すると、個人の自由が保証されて、いえば「なんでもあり」の状態になります。これは、これでまた健康的だと思います。魔女裁判や異安心裁判が起きる可能性はありませんからね。思想的な自由が保証されています。
 しかし、その反動で、組織力をアップして…などと考えはじめると、怖いことになります。やっぱり、自然農法がいいんでしょう。計画農業では人間は産まれないように思います。
 仏法好きは変態だ!ということは、肝に銘じておきたいと思います。
 大体、安田先生がいうように、仏教を聞くのは辛いことです。怖いから近づきたくないんです。
 でも、忌避するということころに、何かを直感しているということでもあるんですね。もし、仏法に対して不感症であれば、怖くもなんともないということになりましょう。どこかで、痛いとか、辛いとか、逃げたいなぁと感ずるということは、私たちの内部に真実を直感する部分があるということです。ですから、まぁ捨てたもんでもないということもあります。
 仏法のお話は聞いても、また本を読んでもなかなか分からないんです。ですから、なんでお話を聞いているのか、自分でもよく分からないんですね。でも、聞かざるを得ない、逃げたくても逃げられないで、ズルズルと法座の前に身をすえてしまうということでもあるんです。
 仏法は、役に立つものじゃありませんからね。これを聞くと「元気になる」とか、「病気がなおる」とか「商売がバリバリできるようになる」とか、そういう期待はしないほうがいいです。意味も分からず聞法してくると、自暴自棄になって、なんか意味づけしたくなるんです。それで苦し紛れに、「こういう効果があります」といいたくなるんですね。でも、そういう効果がありますと言っている自分自身がどこかでうさん臭いなぁと感じてもいるんですよね。仏法はこの世のためにまったく役に立ちません。ただ、役に立たないということだけが大いなる価値なんです。だいたい、人間は役に立つか立たないかで苦しんでるんですからね。その「役に立つ、役に立たない」という世界から離脱することができるという効果だけはあるように思います。
 「役に立つ/役に立たない」という世界を離れることができると、すごく自由になります。もう桜も散ってしまい、藤も終わりました。あの桜、パッと咲いてパッと散るからいいんですね。あの桜が一年中咲いていたら、だれも感動しませんよ。あの一気に開花するいのちの感動と、一気に散っていく潔さに感動するんです。あの桜に人間の一生を重ねて感じるんでしょうね。あの桜は役に立つのか立たないのか、そんなことは考えていないのでしょうね。
 

2004年5月02日
蓮如は「他宗には、親のため、また、何のため、なんどとて、念仏をつかうなり。聖人(親鸞)の御流には、弥陀をたのむが念仏なり」といっています。供養のためとか、後生のためとか、こういう考え方は、宗教を利用することになります。結局、それは、自己肯定の道具にすることになってしまいます。自己肯定がダメだというのではないのです。でも、自分で自己肯定しよう、それでいいのだと自分を慰めてみても、最終的には、それは自己肯定にならないのです。自分の世界のなかに宗教を位置づけるだけで、満足してしまうことになります。
 それが逆じゃないのと蓮如はいっているわけです。宗教のなかに自分が位置づけられるのであって、自分のこころのなかに宗教が位置づけられるのではないというのでしょう。「弥陀に○○をたのむ」ということは、宗教を人間の思いで利用することです。蓮如は「弥陀をたのむ」といってますよね。それは「○○のため」と利用するのではなくて、「弥陀にすべてをまかせる」ということが念仏だとね。
 弥陀にすべてをまかせるということは、自分で自己肯定しようという思いが破られているわけです。比喩的にいえば、自分が如来をつかむのではなくて、如来に自分がつかまれるということでしょう。
 人間はなんでも自分の役にたつように利用しようとするんです。仏さんだって、人間の思いのなかに取り込んで、あ〜これで故人も満足しているだろうと自己満足するわけです。全部自己満足のための道具にしてしまうのです。その毒に気がついたときには、なんという間違いをしていたのかと、罪とか、悪とか、不義とか、罪業とか、煩悩とか、そういう否定的なニュアンスの言葉が発せられてくるのです。大いなる間違いが見えてきたら、人間は自然と、罪とか悪という感覚が芽生えてくるはずです。
 エゴは、すべてのものを自己保身のために、利用しようとするんですね。自分の家族、自分の国、自分の民族、自分の車、自分の楽器、自分の家、自分の食事、自分の金…と。そしてこの身体だって、自分の体だと思っているわけです。だれも、この身体はあんたのものだよと、与えてくれたわけでもないのにね。まったく、疑ったこともないわけです。この身体が、どうして自分のものだと言えるのかということをね。まったく、傲慢なもんです。この身体は46億年かかって存在してきたのです。それを、まったく無条件に、無前提に自分のモノだと考えている大いなる罪があるのではないでしょうか。
 このエゴが、なんでも自己保身のために利用するという本能の正体なんでしょう。このエゴの罪があるんです。このエゴが破られるということが、仏法なんでしょうね。破られるといっても破壊されることではありません。エゴの本性が見抜けるということだと思います。見破られれば、エゴは巨大化してきません。そのためにも、罪とか悪という言葉と親しくなりたいと思います。こんな否定的な言葉を人間は好きではないのです。できれば、聞きたくないし、見たくない言葉なんです。親鸞は暗いよ!とよくいわれたりします。でも、そういう言葉があるから、ようやく、まともに立ち返れるんです。エゴが聞きたい、見たいと思っている言葉は、逆に、危ない言葉じゃないでしょうか。
 ですから、いつでも、自分の知っている仏さんとか、自分の知っている故人というものは、すり抜けていくんです。ほんとうの仏さんとか、故人は、そんなところにいないのです。いつでもすり抜けて、私たちには絶対につかまらないようになっています。水をザルですくうようなもんです。全部抜けておちてゆきます。ほんとうの自分自身だって、そんなところにはいないのです。私は、自分の知っている部分だけを「自分」だと思っているんです。それで全部が分かったような錯覚にとらわれているんです。狭い狭い世界しか知らないんです。井の中の蛙、大海を知らずです。それなのに、自分は殿様のように、なんでも知っていると思って、一人前の顔をしているんですから、何をかいわんやですね。愚かです。

 コドモガカクレンボウヲスルガ
 ミヲカクスコトハデキナイノダ
 木ノカゲニカクレテモ
 森トトモニアルノダ
 天地トトモニアルノダ

 (竹部勝之進 ヒカリ『詩集 はだか』所收)

この詩が大好きです。竹部さんはもうすでに亡くなっておられます。いまから30年ほど前に、『詩集 はだか』を拝見して、ぞっこん惚れてしまいました。
 隠れても隠れても、身を隠すことはできません。できないのに、隠れたと思っているんですね。幼稚です。人間は所詮、まったく幼稚だと思います。でも、その幼稚が、妙に可愛くもあり、哀れでもあり、いじらしくもあるのです。


2004年5月03日
今朝、千住博さんという日本画家が、大徳寺の別院(静岡県伊東市)の襖絵を書いたという番組をやっていました。77枚の襖には、煙を立てて流れ落ちる滝が、描かれていました。制作までに7年が費やされたといいます。彼は千年持つ、襖絵を書きたいと思ったといいます。
 彼のアトリエはニューヨークにありました。なぜ、ニューヨークなのかといいますと、日本で描いていると外国の評価が気になるからだと言っていました。ここで描けば、そういうことが気にならないのだそうです。やはり、世界的な文化の匂いがニューヨークにはあるのでしょうか。彼のアトリエを掃除にくるおじさんとか、デリバリーの中華屋さんのおばさんとかが、彼の絵について、何か言ってくれるのだそうです。そのひと言が、いいのだそうです。
 それは、ヘェーッと思いました。ということは、ニューヨークの住人は世界のアートに刺激を与えている影の芸術家ということになりましょうか。まぁ、その刺激を、刺激として受け止められる千住さんがいるから、成り立っていることなんでしょう。
 墨は奈良の墨専門店で、特注し、紙は福井の紙屋さんで、特注していました。それをニューヨークに持ち帰り、それから、出来上がったものを日本まで輸送するという、なんとも、大がかりな芸術だなぁと感心しました。確かに出来上がった襖絵は圧巻でした。テレビの画面で見ても、すごいなぁと感じたくらいですから、生で見たらもっとすごいものでしょうね。
 そして、面白かったのは、彼が制作に取りかかるまでの、「間(ま)」でした。77枚のうち60枚には、全面を墨で塗りました。そこに、白い絵具を用いて描いていくのですけど、最初のイメージがなかなか浮かんでこないんです。やはり、千年に耐えうるものを描くということはものすごく勇気がいるんだと言ってましたね。これは、その通りだと思います。他人の目もありましょうし、狩野永徳の四季花鳥図と匹敵するくらいの絵を書かなければダメですから、とてつもない勇気がいることでしょう。
 最初に筆を下ろすまでには、だいぶ時間がかかりましたね。あるとき、やはり絵の方から訴えかけてくるそうです。絵のイメージのほうから、「これでいこう」というコールがあるそうです。そのコールに促されて、彼は絵筆をとったのでした。
 そのコールは、どのような創造活動にも、質の違いはあっても、必ずあることだと思います。いわば、無から有を生み出すということですから、それは勇気がともないます。他人の眼をまず、殺さなければ創造はできませんからね。ひとからどう見られるか、どう思われるかという他人の眼を殺すほどの、創造への意欲があふれてこなければいけません。
 最終的には、他人からどう思われてもいいんだという開き直りのような地平に出ていくのだと思います。最初から、どう思われてもいいんだということではなくて、やはり、どう見られるかということと、やっぱり、よく思われたいしなぁという思いとのせめぎ合いの中で、どう思われてもいいというほうへ傾くというのがいいのでしょう。葛藤ということがなければ、創造はうまくいきませんね。
 その勇気のことについて考えていると、やっぱり、思い出すのが、お釈迦さんが最初に説法したというときの勇気ですね。無の世界から有の世界に、言葉を生み出すということは、これはものすごく勇気がいることでしょう。言葉の世界に入るということは、あえて誤解を受けようという勇気ですからね。言葉になったということは、誤解の世界へ身を投じたということでしょう。まあ、言葉にならなければ、私たちは仏法に出遇うこともできないんですけど、でも、言葉になったことで、つまずくひとは多いのです。
 言葉は、月を指す指だよ、問題は月なんだよと言ってるんですけど、やっぱり、言葉が月だと勘違いしてしまうんですね。
 絵画は、言葉を用いませんから、見ただけで感動を与えるということができます。言葉はその点、時間がかかります。でも、意味性をより厳密に相手に伝えることができるという点では、絵よりもすぐれている面もありますね。絵は、どのように受け止めてもらっても、勝手ということでしょう。意味性を相手に強要しません。でも、言葉はどうしても強制力をもちます。
 親鸞は、最後には「面々のおん計らい」と言っていたのではないかと思います。その意味の強制力を、最終的に無化するために、どう受け取ろうと、みなさんの勝手ですよといっているように思います。
 最初は、意味性をもたせて、このように受け取ってもらわないとダメなんだと、強制力をもたせますけど、最終的には、でも、ほんとうのところは、みなさんがどのように受け取ろうとも勝手ですよ。お好きなように受け止めて下さいといっているように思います。意味性の強制力を無化するということがあって、初めて、言葉が生き生きしてくるのでしょうね。つまり、散文の形式から、詩の世界へと転じているのだと思います。
 日常は、散文的ですけど、それを詩へと転じる眼がほしいですね。日常は、やっぱり、同じようなことを繰り返しているようで、どこか違っています。私は「日常」はとても、暗示的だと思っています。実際、何のために食べるのか、何のために買い物に行くのか、日常的にはすぐに答えが見つかりますけど、それがほんとうの答えかどうか分かりません。むしろ、そういう日常の行動そのものが、私に何かを暗示しているのだはないかと思えるんです。
 まあ、夢のようなもんでしょうね。夢も、素材はこの世のものですけど、シナリオライターは、この世のものじゃありませんからね。たぶん、夢も、現実も、そうたいして変わらないのかもしれませんよね。
 車でひとをひき殺してしまえば、これは夢だと思いたいでしょう。仕事でミスをしてしまえば、あれは夢だったんだと思いたいでしょうね。夢の中で美女とキスをする夢を見れば、これは現実になってほしいと思いますよね。確かに、現実と夢とは違うんですけど、でも、どちらもあまり変わらないという面もありませんでしょうか。夢も現実も、とても暗示的な出来事だと思います。
 まだ、生きたことのない「明日」という時間を生きてみたいと思いました。

2004年5月04日 
鈴木大拙(禅者)と金子大栄(真宗学者)との対談を聞きました。大拙は、阿弥陀の本願は48願というけれども、あれは、ひとつでいいんだといいます。48と書いてあるけど、ひとつでもいいんだと。それから、助けるとか助けないじゃなくて、あの願は我々ひとりひとりの願いなんだとも言います。金子大栄は、それはそうでしょうけど、やはり、人間の器量というものがあるから、たくさんじゃなくて、ひとつでもいいんでしょうと言ってました。法然は18願ひとつでいいという立場でしょうと。見るという立場からいう場合と、見られるという立場からいう場合と、違いますねとも言ってました。私たち浄土真宗は、見られているという立場でいうのだと言うんです。
 どうも、金子先生の言い方は、なんだかよく分かったような分からない言い方だなぁと思いました。むしろ大拙さんのほうがよく分かりました。阿弥陀さんの本願は48だろうと、24だろうと36だろうと、そして1だろうと、なんでもいいわけでしょう。それで法然も18願ひとつでいいんだと言ったんでしょう。親鸞はそこから、17を別建てにしました。別建てにしたということは、人間と仏の間に線引きしたということです。18は人間の願、17は仏の願とね。もともとひとつの願をふたつに分けることによって、ひとつであることを成り立たせたわけです。はじめからひとつであっては、動きがありません。はじめからひとつだといってしまえば、真言や天台本覚思想になってしまいます。はじめから、仏と凡夫が一体なんだといったら、面白くもおかしくもないですね。それこそ、宗教の堕落でしょう。
 親鸞は、それじゃ詰まらないと感じたんでしょう。やっぱり、仏と凡夫は永遠に断絶していなくてはつまりません。断絶しているから、ひとつになろうとする動きが起こってくるんでしょう。最初からひとつじゃ、なんの動きもありはしませんよね。永遠に断絶しているものの間に、永遠にひとつになろうとする動きが起こってくるわけです。どこまでいっても一体化できないからこそ、一体化しようとする動きがあるわけです。
 ですから、阿弥陀さんの愛は、永遠に不可能なことを願っているのです。絶対に、永遠に救われない存在に対して愛を起こしたからです。ですから、やがて達成できるから、起こした願いじゃないんです。絶対に達成できないことを見越して起こされた願いですね。それで、「悲願」というのでしょう。悲痛な願いです。
 ですから、「因の位相に立つ」ということが、宗教の健康性を保つのです。因の位相とは、まだ救われていない位相です。救われたと過去形で語る位相は、「果の位相」になりますね。永遠に救われない因の位相に、徹底して立つということです。そこ以外に、救いを証明する場所がないのです。果の位相に立ったら、救いが完結してしまうんです。徹底して因の位相に立てるということが、救いの証明なんでしょう。因の位相に立つ以外に、救いはないわけです。
 親鸞のやった仕事は、そのことひとつだと思います。単純なことです。でも、コロンブスの卵のように、だれもできなかったことです。本願を仏と凡夫に分けたということは、素晴らしい着眼でした。人間が人間のままでいい、凡夫が凡夫のままでいいという地平を開いたわけですからね。人間は仏の真似をしなくてもいいんです。仏の真似をして、ひとを救おうなんていうことをしなくていいんですから、楽なもんです。
 <いま>という時間は、46億年の過去と、永遠の未来からの逆流する時間とによって、成り立っています。<いま>という時間に永遠があるのです。明日にではないのです。<いま>という時間です。こういう時の成就を感じます。時が一刻一刻、成就しつつあるのです。平凡な時間のように見えていますけど、何億年という過去と何億年という未来とによって、<いま>があるのです。宇宙開闢の時から、宇宙終焉の時までを含んで<いま>があるのです。今朝、死亡通知を受けました。やはり、あの方も、何億年の過去からやってきて、永遠へ帰ってゆかれたのだと思います。
 地球の一生に比べれば、人間の一生は幻の如くなる一期にすぎません。しかし、そのはかない一生は、46億年が成就した一生だったのです。はかないけれども、尊い一生でした。


2004年5月05日

自分の感情に、どのような変化が起きているのかということを確かめるためには、家族が必要です。家族との間には、さまざまな感情が起きてきます。これは、カウンセリングを学ぶようになったために、より鮮明に感じるようになったのかもしれません。
 微細な感情の動きがあることに眼がゆくようになりました。朝起きて「おはよう」と声をかけるときにも、女房と母親と弟と子どもには、それぞれ違った感情が動いているようなんです。こっちが「おはよう」と声をかけても、相手が聞こえなかったのか、無視しているように感じたときには、ムクムクと腹が立ってきます。もう一度「おはよう」と声をかけて、返事が返ってくると、妙に安心している自分がいました。
 電話がかかってきて、呼び出し音が鳴ると、「誰からだろう?」「死亡通知かなぁ?」と不安になったり、暗い気分になったりしています。電話に出たら、「○○商事ですけど、株の…」なんてセールスだったりすると、「このやろう!」脅かすんじゃねえという怒りが起こってきます。ふと横を見ると、イスの上でネコが寝ています。こんな姿をみると、こころがスーッとして、なんとも穏やかな気分になります。今度はテレビに注意がいきます。イラクの惨状が報道されてくると、自分ではなんともしがたい無力感や不安感を感じます。さらにチャンネルが変わって、今度はNHKの朝ドラになりました。すると「この女優、全然感情が入ってないぜ、ったく…。つまんない芝居だなぁ!なんでこんなもの見ていなきゃならないんだよ」という怒りへと変化してゆくのでした。
 テレビを見ていると、ほんとに自分の感情が目まぐるしく変わっていくのが、分かります。コマーシャルという数十秒の映像だけでも、感情は千々に乱れるのが分かります。アイフルのあのチワワが出てくると、「可愛いなぁ」とゆるやかな感情になったり、燃焼系のコマーシャルだと、「よく、あんな体操ができるようなぁ」と感心したり。まぁ、目まぐるしく変化していくのでした。
 感情は、いわば、「煩悩」なんですけど、この煩悩が、目まぐるしく変化してゆき、まさしく「煩悩具足」だということが、実感できる時間です。
 家族は、テレビほどに、変化の速度が速くはいきません。それはチャンネルを変えるようには相手が変わらないからです。テレビを見ていると、感情が起こってきても、すぐに次の場面にとらわれて、前の感情を忘れてゆくことができます。あんなに怒っていたのに、次の番組では、感動している自分を体験できます。しかし家族という人間関係ではそうはいきません。
 そこには、厄介な「愛」が潜んでいるからなんです。愛というのは、ものすごい粘着性のもので、ゴキブリほいほいほどの力をもって、人間をくっつけます。一度くっつくと、ネバネバしていて、これを離すことはとても難しいのです。親が子に対する愛の粘着力は恐ろしいほどです。この愛が、どこかで、合意されている場合はいいのですけど、合意のない、一方的な愛の粘着力には閉口します。
 感情を体験するには、なんとも、素晴らしい実験場が、「家族関係」なんですね。


2004年5月9日

無難という禅師は「生きながら死人となりてなりはてて、心のままに為すわざぞよき」という一首を残しているそうです。
 とても意味深長な感じを受けますね。禅の教えは、とても暗示的で、ちょっと何をいっているのか分からない感じを受けるとともに、味わっていくと、なんだか、とても意味が深い感じもするんです。まぁ、正解はないのでしょうから、いろいろに自分なりに味わっていけばいいんだと思います。
 「生きながら死人となりて」というのは、どういう意味なんでしょうか。死人のようになって、生きろということなんでしょうか。死人は、ぶたれても黙っています。突つかれても、されるがままになっています。生きていても、死人さながらに、ものにこだわらず、意に介さないで、なすがままになっていろという意味でしょうか。そういう意味にもとれますね。
 そのように受け取ってみると、なんだか、すごい勇気のある受け止め方だと思います。人間は、ちょっとのことに動じたり、たじろいだり、ひるんだり、驚いたりするビビリヤですからね。死人のように、されるがままになれたらというのは、ある意味、理想なんでしょうね。自分には、ちょっと無理という感じです。
 小生は、違った受け取り方をしています。「生きながら死人となりはてて」というのは、生きている現事実だと思います。だって、生きているということは、死につつあるわけですよね。オギャーと生れて、死に向ってまっしぐらに生きているのが、人間のいのちです。ひとによって、寿命は違いますけど、圧縮してみれば、オギャーといった途端に死んでいるわけです。どこから死が始まっているかといいますと、生れた途端に始まっているわけです。ですから、ここまでが生で、ここまでが死だという線引きはなかなかできないんです。生とは、死につつある過程なんだということが、現事実です。
 ですから、「生きながら死人となりはてて」というのは、当たり前の現事実をいっているように聞こえるんです。それから「心のままに為すわざぞよき」というのは、自由ということですね。死人になっているのに、死人であることに無自覚なのが現代人です。ですから、死人であるということを自覚した人間にとっては、自由が約束されているのだという意味に受け止めてもいいと思います。
 それは、別に、「死を覚悟すれば、なんでもできる」という空元気をいっているわけではありません。勇気と無謀とは紙一重で違っています。ビビリヤをやめて、一気に無謀な行動にでるということもありますから、注意が必要です。もっと静かな受け止め方をいいたいわけです。
 逆の言い方をすれば、人間に自由なんてないんだといってもいいんです。全部、限定されているんだといってもいいわけです。生まれも、能力も、性別に、民族、いろいろな限定を受けていて、とても自由なんてないわけです。でも、どれほど限定の鎖に縛られていても、自由だと感じられなければならないわけでしょう。限定の鎖を断ち切って、無限定の自由なんてないんです。現実には、縛られているわけです。でも、どれほど、縛られていても、そのなかに自由を感じられるということがなければ、ダメなんです。それでなければ救いはないわけです。
 どれだけ縛られてもいいんだ、不自由でいいんだといえるところにしか、自由はないんですね。これまた逆説的ないいかたですね。不自由を破壊して、自由はないのです。不自由が不自由のままにして、それが自由だと感じられる世界をどう開くかということが大問題です。
 そのヒントが、無難禪師の言葉です。
 まあ、もともと「私」は生きていないんです。もともと「死人」が生きているだけなんです。私は死人なんです。骸骨なんです。骸骨なのに、生きていると錯覚しているだけです。錯覚が正しいと思っていたのです。でも、そうじゃないんでしょう。
 死につつ生き、生きつつ死んでいるというのが、現事実です。そうやって、「おれは生きているんだ」という固定観念の凝りをほぐしてゆくと、やがて、死人ということもうなずけてくるのではないでしょうか。柔らかいということが、大事なんです。筋肉も、頭もね。

2004年5月11日

今日は、父の一周忌でした。47名の参加者で、結構大変でした。式次第をつくったり、着るものを何にするか、車の手配に、食事の準備、引き出物の組み合わせなど、てんてこ舞いでした。
 坊さんは、法事に呼ばれることが多いので、そういう苦労は知らないのですけど、いざ自分が主催者になってみると、これまた大変です。父の死を思うという時間は全然ありませんね。次から次とこなすべき仕事に追われて、まったく余裕がありません。おそらく喪主というものは、そういうものなんでしょうね。
 それで、やれやれ、これでやっと法事が終えたという安堵感はあるんですけど、妙に空しい感覚も残ってしまうものだということが分かりました。まぁ、じっくり時間があれば、故人を思うことができるのかと問われれば、それもおぼつかない感じでもあります。法事は、故人のためというよりも、生者のためなんでしょうね。やっぱり。
 それでも、法話をしていただくと、やっぱりどこか違ってきます。法話があるので、ようやく儀式が法事になるんですね。読経だけでは、半分しかこなしていません。法話があって初めて法事が完結するんでしょう。
 あの伊丹十三の映画『お葬式』では、主人公の山崎努と高瀬春が、野外でセックスをするシーンがあるんですけど、あの場面がよく分からない感じだったんです。しかし今回の法事ではなんとなく分かるような気がしました。セックスはまったく葬式とは似つかわしくない行為なんですけど、まったく似つかわしくないからこそ、そこに存在してしまうという感覚なんでしょうね。つまり、葬式そのものを、全部ひっくり返してしまうような逆説があるんです。葬式なんて、全部ウソじゃないか、というひっくり返しがあるように感じました。
 法事でも、そうですね、いかにも神妙にしていても、内心は全然違ったことを思っていたり、違った事情で、法事の場に身を置かなきゃならないということだってあるわけです。そんなことは全部ウソじゃねえか!という、ひっくり返しがあるように思いました。
 結局、故人のことを思って、やっているように見えて、全部生きている人間のためじゃないかという、批判があるように思いました。
 でも、故人は、それに対して異議申し立てはいたしません。なすがままにされています。きっと仏さんは、そうなんでしょう。生者にどれほど冒涜されたり、いろいろな形で利用されても文句は言わないのだと思います。全部、受け入れてくれます。でも、全部受け入れられると、逆に生きている人間自身が、「どうなんだろう?」と疑問を感じてくるんです。
 法事って、いったい何なんだ?という問いが、最後まで残ってしまうのです。果たして、これに対する答えはあるのでしょうか?たぶん、答えを出せるのは、仏さん自身であって、生者ではないのでしょうね。

2004年5月12日

悲しみを忘れさせるために、神様は、人間に、昼と夜を作り、与えたのだそうです。もし、ずーっと昼であれば、人間は、悲しみを忘れることはできません。やがて夜がきて、次の日になることで、少しずつ人間の悲しみは和らげられるのでしょう。そう思うと、昼が来て、夜になって、次の日が明けるということは、とても素晴らしいことのように感じます。
 昨日のことは、「昨日」という記憶のなかにしまわれ、また新しい、真っ白な日がやってきたと感ずることができるからです。もし、永遠に昼の世界だったら、これほど辛いことはないのでしょう。地球の自転に感謝したくなりますね。
 人間は、どうしても、いまの悲しみや苦しみが永遠につづくのだと思い込んでしまいます。そう思うと、気持ちが沈み込んでしまいます。しかし、人間は時間を生きる生き物です。ですから、その悲しみや苦しみにも、必ず終わりがあります。必ず終わりがあるということは、すごい希望ではないでしょうか。それは、悲しみの原因が取り除かれて楽になるということもあるでしょう。もし、もっと深い悲しみで、とても悲しみの原因は取り除けないものならば、逆に、自分がこの世から去ってゆくことで楽になるんだなぁと思ってみるということも希望ともなりましょう。そう思うことで、今にいくらかの温もりが宿れば、死よりも生に重心が移ってゆきましょう。
 とにかく、終わりがあるのだということが、希望となることもありましょう。幸運にも、そういう悲しみに出会っていないひとは、終わりたくないよ、この幸せを永遠にもちつづけたいよと思うかもしれません。それは、それで、結構なことだと思います。そんな幸運は、ウソだとか、やがて死んでしまうんだから、無駄だなどと、脅かすようなことも言いたくありません。 悲しみが多いよりは少ない方がいいに決まっているんですから。
 でも、常々言っていますように、<いま>という時間をどのように受け止めるかということで、過去も未来も違って見えてくるということだけは間違いありません。小生はほんとうの<いま>というものは、無時間なんじゃないかと思います。仏さんの時間は無時間なんじゃないでしょうか。無時間ということは、別のいい方をすれば、「永遠」ということです。時間が無いということは、いつでも<いま>ですから、それは、そのまま永遠ということと同義語なんです。人間には時間がありますから、永遠にはなれないんですけど、どこかで、その永遠を感ずるということがあるんですね。この無時間に触れるということが、人間に生れた醍醐味じゃないかと思ったりしています。


2004年5月15日

昨日、NHKの人が取材に来ました。木曜日、午後9時45分放映の「ご近所の底力」という番組のスタッフです。今回は「葬式」ということがテーマだそうです。戒名の値段が高いとか、そういう要求をする僧侶を不信に思うとか、そういうことが、テーマだそうです。まあ以前からあるテーマ設定ですけど、困ったことです。
 既成仏教界が、不信に思われるのはいいのですけど、それで仏教そのものが不信になってしまうことが最大の問題なんです。ある檀家のひとが、「150万円の戒名料だけど、あんたのところとは、付き合いがあるから、130万円に負けてやるよ」ということをいわれたけど、それって、安いの?高いの?という話題が上がったそうです。
 それで、小生のところに、取材の申し込みがありました。小生は、ルックス的に、「偽坊主」という感じだから、もっと、本物らしく映る先生を紹介しました。すると、当のディレクターは、すでに交渉したけど、断られたといいます。それでは、小生が骨を拾ってやろうということで、取材を承諾しました。
 生前に戒名(法名)を授与しているということで、その場面を撮りたいといいます。つまり、仏教界でも、死後に戒名を与えることを本意としていないんだという趣旨を表現したいというわけです。その流れのなかから、小生のところに取材の申し込みがあったようです。
 でも、うちでは帰敬式の懇志が3万円ですから、それでは、価格破壊みたいなもんです。本山では1万円で、毎日やってるんですからね。もともと、真宗では、「おかみそり」といって、生前に法名を授与することが、当たり前になっている教団なんです。でも、現在の、現状は、死後に、坊さんから高額の戒名料を請求されるという形に変形してきてしまっています。このギャップをどう埋めるかということが、私たちの課題なんです。
 まあ、戒名でも法名でも、生前につけるのがノーマルなんですけどね。だいたい、自分は、この教えに帰依して、この教えを頼りにこれから生きますと宣言する名前が戒名(法名)ですからね。生前につけるのが正式なんです。カソリックの洗礼と似ていますね。
 しかし、現状はそうなっていないのが日本の現状です。
 まあ、坊さんから請求するということ自体がナンセンスなんですけどね。教えに感動した門徒が、こころの促しによって、自然と布施をしたくなるというのが、ごく自然なことなんですけどね。それを請求するということ自体が、所詮間違っているんでしょう。
 小生の寺でも、ご多分に洩れず、残念ながら、死んでから法名をつけるというケースが圧倒的です。最初に、「●●が亡くなりましたので、お葬式をお願いします」という電話を受けるところから、葬式は始まります。次に、「御布施はいくらくらい包んだらいいんでしょうか?」と必ず聞かれます。小生は、「ひとそれぞれの、暮らし向きがありますから、いくらでもいいんですよ。精一杯で。どうぞみなさんでご相談になってください」といいます。決して、こっちから請求するというこはありません。御布施は、気持ちですから、いくらとは値段がつけられないものなんです。しかし、「それでも、相場っていうものがあるんでしょうから、苦しいでしょうけど、教えてくれませんか?私たちも、こういうことに慣れていませんから、教えてくれませんか?」と再度尋ねられますので、小生は、渋々「そうですねぇ、だいたい30万円くらいが多いのではないでしょうか」とお答えします。「しかし、そうしなければならないということはないんです。10万円のひともありますし、それ以上のかたもありますけど、まぁそのくらいが多いと思います」と返答しています。
 門徒のかたは、「ああ、分かりました」といって電話を切ります。電話を切られたあとに、いつでも小生は、暗い気持ちになってしまうのです。「ああ、分かりました」というあとの余韻には、「なんだ、結構安いじゃん、ラッキー」という言葉が聞こえてきたり、あるいは「へーそんなもんでいいんだ」という安堵感や、「えーっ、それだけでいいの!」という不信感やら、「たかがお経を読むだけで、それは、高すぎるだろう!」という反感なんかも聞こえてくるんです。でも、それを確かめるスベがないんです。それで暗澹たる気持ちになるんですね。
 確かに、浄土真宗は他宗派に比べて安いということは、いわれているんですけど、それだから、「いい宗教なんだ」と受け取られるのも、不甲斐ないと思っているんです。それは、経済的な問題で、まったく宗教的な問題ではないからです。
 かつて麻原ショウコウが、名言を吐いています。
マスメディアのひとに、「オウムは、全財産を寄付させているけど、あれは、法外じゃないですか?」と問われたときです。彼は「それでは、いくらなら安いんですか?」と逆に聞いているんです。これには誰も答えることはできません。「いくらなら安いんですか?」ということは、ひとによって全然受け止め方が違うからです。100万円でも安いと感じる生活状況のひともいますし、1万円でも高いと感じるひともいるからです。布施は、そもそも、感じるひとに応じた喜捨だからです。相対性の原理は持ち込めないんです。宗教というのは、そういう性質のものです。これは、恋愛と似ています。「なんであんな、女に!」とまわりのひとがいっても、彼にとっては絶対的だということがあります。そういう、二人称の関係が宗教の関係ですから、三人称は通用しないんです。そもそも二人称の関係に、三人称という相対原理を持ち込んで考えようとすること自体問題なんです。そのへんが現代人には分かっていないんですね。
 まあ、今回の取材は、おそらく経済的な問題で流れていくと思います。それで、もし3万円で、法名が手に入るという形であれば、「因速寺」という寺院名をモザイクして欲しいと話しておきました。しかし、3万円ということを明示しないのであれば、「因速寺」という寺号を出してもいいよといっておきました。この番組は全国ネットですから、もし金額が出てしまうと、相当数の問い合わせがあると思うので、それを拒否したかったんです。かつての番組ではそういうことがあったそうですからね。
 だいたい、法名をもらうことを目的としてしまったらダメなんです。法名をいただくということは、仏弟子としての出発点に立ったということなんですよね。これから、仏法に親しんでまいりたいと思いますという宣言が、仏弟子宣言なんですからね。それが、法名授与ということの願いなんです。法名をもらったら、これで、一安心ということでは、そもそも趣旨を取り違えているわけです。
 うちの門徒のひとで、絶対に法名をもらわないというひとがあります。なぜなら、教えを聞いていくうちに、とても自分には法名を名のる資格がないと気がついたというんです。ですから、自分は決して法名を名乗りたくないんですとおっしゃるんです。小生は、その言葉を聞いていて、それこそ、本当の仏弟子じゃないかと感動したんです。その無名ということに、本当の仏弟子の精神が生きているんでしょうね。
 その境涯まで、達していれば、もう法名を名のるとか、云々なんていうことは、もう戯れ言なんです。
 一応、小生のバカさ加減を見てみたいというかたは、
6月10日の番組を見てください。取材と撮影に二時間もかかりましたけど、おそらく十秒か二十秒程度の映像だと思いますけど。笑ってやってください。またまた、物議を醸す問題作ですけどね。
 まぁ、それも、娑婆に生きて、思いっきり遊んでみたいという小生の遊び心の一貫ですので、ご容赦下さい。m(__)m


2004年5月17日

「永代経法要」が昨日終わりました。終わった安堵感と、疲労感とが、ドカンとやってきました。そういえば、今月はイベントの多い月なんです。父の一周忌法要があって、永代経法要があって、今日は、真宗会館で教学館の一泊があって、多摩親鸞講座があって、山形教区の研修会がありますから、ちょっと、多すぎるという感じですね。
 いくら、<いま>しかない、<いま>を十全に生きようといっても、それはいくらなんでも、ちょっと盛り沢山過ぎやしないかと思います。まぁ、愚痴ってもしかたないのですけれどもね。面白いことに、<いま>は、疲労感のなかにも充実感があるんだと感じていました。それは、「つぶやき」を更新しながら、カレンダーを見て、イベントの多さに落胆している感情とは違いました。たとえれば、山の頂上を見て、まだあんなに登らなきゃならないんだと落胆している感情と似ていますね。しかし、足下の土を見ていれば、そんな感情は起こってきません。足もとを見て生きるということが、いいようですね。<いま>、自分がいるのは、山の頂上じゃないんですからね。思いは頂上をとらえていても、身の所在地は、<いま>ここなんですね。
 今回の永代経には、マヌエル・エルナンデス先生がお話に来てくれました。聴衆に質問しながら、独特の日本語でガンガン話していただきました。日本にこらて今年で49年になるそうです。先生は、刑務所の教誨師や医療少年院の先生もされておられます。また薬物問題にも生涯をかけて取り組んでおられます。その経験の中からのお話でした。
 その中で印象的なお話をピックアップしてみましょう。
1、「蛇のように賢くなりなさい」
これは聖書の言葉ですね。「蛇のように…」とは、どういう意味ですか?と聴衆に質問されました。「蛇を見たことがありますか?」と。「蛇を見つけたとき、蛇は逃げ出すんです」。人間をこわがって蛇はすぐに逃げてゆきますね。だから、悪いことを見たときには、その場所からすぐに逃げ出しなさいと先生はおっしゃいました。薬物・麻薬、そういうものを見たときにはすぐに、その場所から逃げ出しなさいというわけです。そういう蛇のような賢さを身につけなさいというのです。
2、「あなたには、たくさんの仲間がいます」
どんなに孤独だと感じているときにも、あなたには仲間がいます。そういう人々と交わり、こころを開いてつきあいましょうというのです。自分ひとりに閉じこもってしまうのではなくて、心を開きましょうというのです。あなたは決してひとりではありません、たくさんの仲間がいるんですと。
3、「この世には理由のないものは、ひとつもありません。」
これは、先生の確信なのでしょう。どんな犯罪を犯した人間にも、そうせざるを得なかった理由があるわけです。ですから、罪を憎んでひとを憎まずということなんでしょうね。あの神戸の12歳(当時)の少年ともお会いになったそうです。いまでは、立派な少年になっているそうです。あの時には、ああするしかなかった理由があったのでしょう。その事情を憎んでひとを憎んではダメだということをおっしゃっておられました。
4、「この世の中には悪人はひとりもいません」
この世の中に、悪いひとはひとりもいませんよと力説されました。これは、「この世には理由のないものは、ひとつもありません」ということと、同じことですね。最初から犯罪者がいるわけではなくて、そういう悪い条件がはたらいただけなんだそうです。
5、「悪い虫を取り除くには、悪い虫といつも一緒にいることです」 
悪いことをするときには、この虫がさせるのだと先生はいいます。悪いことをして、もうしません、もうしませんと反省しても、それではまた起こします。二度と悪いことはいたしませんといっても、必ずやるんです。ですから、いつでも自分の中には虫が住んでいるんだと考えなさいというわけです。この虫は死ぬまで追い出すことができないんだそうです。この虫とつきあってゆくということが、正しく生きるというときには、大切なのでしょうね。
6、「愛するということと好きということは、どこが違いますか?」
この質問を聴衆に投げかけられました。「愛する」ということは、彼女が妊娠したら、それはよかったねえと、手を取り合って祝福すること。でも、「好き」ということは、妊娠が分かったら、おろせ!と怒ることだそうです。
 その他にもいろいろ、面白いお話がありました。あのラテン的な先生の熱血ぶりに、聴衆の喝采が止みませんでした。
 それから、龍谷大学マンドリン・オーケストラのみなさんの演奏を聞きました。レンタカー二台を借りて、京都から東京まで夜通し走ってやってきてくれました。十人編成です。これも若さがなせるワザですね。とてもとても小生には考えられない強行軍です。小生の娘が、そのクラブに入っているもんですから、そういう縁で、今回のコンサートが開かれたのです。
 「星に願いを」とか、「放課後の音楽室(ゴンチチ)・軽騎兵・ルンバ・桜(森山直太郎)」など十曲ほどやってもらいました。マンドリンは不思議な楽器です。まぁマンドリンだけじゃなくて、マンドラとか、マンドローネとかギターという弦楽器が重層的に奏でる響きに酔いしれました。目をつぶって聞いていると、スペインの田園で、風に吹かれながら、太陽を浴びている情景が浮かんできました。風の中で、マンドリンの調べを聞きながら、タマシイがフワフワと浮いていくような感覚にもなりました。聴衆の中には、涙を浮かべているひとが何人もいました。音楽というものの、妙味はそこにあるんですね。ひとことでいってしまえば「感動」なんですけど、人間に生れた喜びの妙味というものがそこにあるんでしょうね。
 アンコールの拍手の後、なんと「暴れん坊将軍」のテーマソングをマンドリンでやってもらいました。これも、みなさん喜んでいました。みんな充実した満足感のうちに散会となりました。
 人間、どこかで聞いたことのあるメロディーだと、感動がより強まってくるんですね。知らない音楽にも感動することがあるんですけど、それほどの感動じゃないんです。面白いもんですね。人間は自分とかかわりのあったものに対して、より感動を覚えるんでしょう。これは、仏法にも通じることだと思いました。
 「なるほど!」と腑に落ちるというのは、自分の体験の内部に、あらためて違った光が当てられたときに起こる出来事なんでしょう。「あー、そういうことだったのか!」という再発見が、仏法の味でもあります。仏法とは無関係に生きてきたようだったけれども、なんだ、自分のこのことについて語っていたのかと、自分の上で確かめられたときに、感動が新たになってくるのだと思います。まったく無関係に見えたものが、実は深い関係にあったという驚きなんですね。


2004年5月19日
不安で仕方がないと、内面の苦しみを訴えるひとに出会いました。そのひとはお坊さんでした。生きる意欲がわいてこない、教えを学んでいても、空理空論のような無味乾燥な感じがして、萎えてしまう。そんな訴えだったと思います。
 小生は、その訴えを聞いていて、ものすごく感動していました。鳥肌が立ってきました。いわば、この実存的不安というやつが、宗教心の胎動だからです。べつに、食べることに困っているわけじゃない、家族関係が悪いわけじゃない、身体的な疾病があるわけじゃない、人間関係が行き詰まっているわけでもない。しかし、不安で仕方がないわけです。まわりを見渡せば、不安も感じないで、楽しそうに生きているひとがいると見えてしまいます。「よく、何も感じないで、不安にもならずに生きられるもんだ」と内心でつぶやいてしまいます。けれど自分自身を見てみると、ため息が漏れるばかりなんです。
 この実存的不安は、原因が分からないんです。原因が分かれば、それを取り除けばいいんですけど、原因が分からないんです。しかし、これは、出家を決意したお釈迦様のかかえた不安と同質の不安なんです。お釈迦様もなに不自由ない生活をされていました。ところが、内面に実存的不安が襲ってきたんです。これは第三者には分からない不安です。第三者からみれば、「なにを贅沢なことを言ってやがるんだ!食えなくて困っている人間がいるというのに、いい気なもんだ!」と批判される悩みです。そう批判されれば返す言葉もありません。自分でも、そういうことは重々分かっているんです。でも、どうしようもないんです。これはお釈迦様がかかえた不安なんです。
 この私があのお釈迦様と同じ不安をかかえることができたということは、大変なことだと思います。自分ではなんとかしたい、どうにかしたいと困り果てている不安なんですけど、すごいことなんです。「百千万劫にも遇いおうこと難し」といえるような、千載一遇のチャンスでもあるのです。それが、この、私の上に展開しているのだということは、これは、これは、絶対に祝福せざるをえません。苦しく辛いでしょうけど、なんとか忍終していただきたいと願うばかりです。「忍終不悔」(嘆仏偈)です。
 たとえれば、本願が私の上に上陸して、縦横無尽に躍動している姿が、私にとっては「不安」という形で感じられるのです。不安ということは、創造性が躍動している姿なんです。私は不安を取り除きたいんです。私は安定が好きで固定が好きで、動きたくないんです。でも、不安というやつは、その私を揺り動かし、安定させないんです。でも、不安になっているときには、必ず、変化と創造がおこる前兆だということは間違いないのです。私にとっては、やっかいなことなんですけど、いつでも不安は大切な創造への起爆剤なんです。
 やっぱり、脱皮しよう脱皮しようという、いのちの躍動が、不安ということなんでしょう。固定させないんですから。これでよしと言わせないんですから。とどまらせないし、腰を落ち着かせないんですからね。
 不安がないとか、安定しているというときには、創造性がないときです。怠慢になっているときです。人間は自分がどうなったら根本的に満足するのかということを知らない生き物なのです。ですから、満足を求めているようですけど、結局その答えはないんです。実は私たちを不満にさせているのも本願のはたらきなんです。ものが欲しい、あれさえ手に入ればと思って、手に入れるんです。物なら手に入ります。でも、それで永遠に満足かというと、そんなことはないんです。物は物の満足でしかありません。こころは満たされないのです。
 小生は、どうも欲求を促してくるのも本願なんだと思うようになりました。普通は、それは煩悩だといわれるんですけど、その煩悩を起こしているのも本願じゃないかと思うんです。本願の言葉には「欲生」というものがあります。浄土に生まれたいと欲求すると。それは、浄土への超越欲求なんです。
 結論からいえば、ほんとうの満足は浄土にしかないんです。この世にはないわけです。浄土にいけば満足するんでしょう。ですから、満足は浄土に置いておきましょう。いつでも手に入るんですから、浄土に預けておけばいいじゃないですか。それをいま欲しいというのが人間なんです。でも、いまそれを手に入れたら、これほど詰まらないものはないんです。浄土に預けておけばいいじゃないかと思います。
 まあ100億円が満足だとたとえれば、浄土という銀行に100億円を預けておけばいいと思います。いつでも、降ろして仕えるんですから、いま使わなくてもいいじゃないですか。いまそれを使ってしまうと、100億円のはたらきが死んでしまいます。浄土に100億円があるんだということを知っていれば、どれほど娑婆で貧乏しても、こころは金持ちのままですよね。100億円があれば、娑婆の貧乏に耐えられるんです。それから、金持ちをみても別にひがむこともないんです。
 それはやせ我慢ということと違います。浄土の効果をいいたいんです。絶対の満足とか、宗教的信念とか、そういう決着とか、それは、全部浄土に預金しておけばいいのでしょう。この世にはないし、自分にはないのだといえばいいと思います。いやいや、手に入れようと思えばいつでも手に入るんです。ですから、あえて預金しておくわけです。やせ我慢じゃなくてね。
 この世は、もともと不安な場所なんです。どこにも逃げ場はないんです。娑婆の本質は堪忍土です。耐え忍ぶ場所なんでしょう。楽な場所はないんです。そういうふうに娑婆を見切ることが大事なんです。つまり、楽とか満足の水準をマイナスに設定しなおすんです。もう私たちは、無前提に自分は楽になれるのが当然だ、不安になるはずかないんだと決めてかかっているんです。だれも、そんな約束はしていないのにね。勝手に、そう思い込んでいるんです。傲慢ですね。
 そうそう、あの『ラビリンス』のワンシーンを思い出しました。主人公のジェニファ・コネリー(?)が、悪魔のデビッドボーイに向って、仕打ちがひどすぎると訴えるシーンがあるんです。そのとき、デビッドボーイは彼女に向って「なにと比べてひどすぎるんだね?」と聞き返すシーンがあるんです。あのシーンが鮮明に小生のなかに焼きついているんです。「なにと比べて?」と聞かれたときに、「ああそうか、自分のなかに不幸と幸せの物差しをもっていて、それで、勝手に不幸だとか幸せだとか決めてるんだよなぁ」と思ったんです。別に、幸せになれるなんて、だれも保証していないんです。「どうして、こんなひどい目に遭わなきゃならないの?」と聞かれても、それはそういう目に遭うのが娑婆の本質だからとしか答えられません。だって、幸せになれるなんて約束は、どこにもないんですからね。
 そう思うと、不思議に娑婆で生きていることが楽になってきました。もともと地獄だ、というのが娑婆です。地獄の苦しみの場所でしかないんです。そのくらいに苦楽の基準をマイナス設定にし直しておけばいいんです。そうすれば、ちょっとの幸せでも、膨大なものだと感じることにもなりますし、不幸に打ちのめされることもありません。だって、もともと不幸であるというのがゼロポイントなんですからね。
 それで、絶対の満足は浄土にしかないよと諦めておけばいいんです。まぁ、浄土に絶対満足があるということを感ずるから、娑婆の不幸に耐えられるといってもいいのかもしれません。ですから、死んでいくということは安らぎですね。死ぬことと浄土にいくことは違うとは教理でいいますけど、それはそうかもしれませんけど、小生はつながっている思っているんです。死んでいくひとの顔はなんとも安らかですよね。本人はどうか分かりませんけどね。でも、やっぱり娑婆の本質であります苦しみから解放されたということはいえると思います。ですから、「死ぬが勝ち!」です。「逃げるが勝ち」という言葉もありますけど、小生は「死んだもん勝ち」だといってます。苦しいのは生きている人間ですから。仏さんは、安楽に見えます。
 

2004年5月21日
まったく、天気予報は杞憂が多いですね。台風、台風っていうから、大変だ!大変だ!と慌てていたら、結局あっという間に快晴ですものね。いつも思うんですけど、だいたい天気予報で大変だ大変だと騒ぐときに限って、大したことがないです。むしろ騒がないときほど災害が大きいということです。べつに天気予報士にイヤミをいうつもりじゃないんですけど、正直な感想です。
 それにしても、天気と気分というのは、関係しているように思います。天気がよくなると気分もなんとなくルンルンしてきますよね。雨だと気分もジトジトしてきます。曇りだと気分もドンヨリですね。気分と天気は、同じ「気」という字が入っていますから、共通の部分があるんでしょう。
 そういえば、五木寛之さんが「元気」という本を出されましたね。まぁ五木節で書かれていますから、共感を覚える部分も多いです。現代人が捨ててきてしまったウエットな部分を取り戻そうじゃないかというモチーフですね。これはまた、お釈迦様のようなはたらきをしているひとだと思います。無理に「おれは元気だ!」と力まなくてもいいというんです。元気じゃなければ、元気が出てくるまでジッと待っていればいいというわけです。そうそう焦らずに、人生は幻のようなものなんだから、焦らないでゆっくりいこうというわけです。エーッ幻のようなもんだから、急ぐんだって、そうかなぁ、幻のようなものだから、ゆっくりでもいいんじゃないかなぁと思います。急いだって、終点は見えてるんだから。
 そんなことを言っていながら、小生は気が短くて、高速道路をビュンビュン車をぶっ飛ばすんですから、まったく矛盾した生き物だと、つくづく思います。これは、小生のトレードマークだと思います。この「矛盾」という文字です。ひとから、あんたは一貫性がないよ、なんでも飽きっぽいし、言ってることとやってることが、全然違うじゃないかと批判されたりします。確かに、そういわれるとそのとおりなんですけど、やっぱり小生の現実は「矛盾」なんですね。でも、そういうふうにしか生きられないから仕方ないです。「おいおい、居直りかよ!」といわれても、そうとしかいえないんです。
 だって、ものごとに一貫性を求めるほうが無理じゃないのと思います。だいたい人間に一貫性なんかあるのかよ!と逆ギレしたくなります。そば屋さんに、たぬきソバを注文して、配達してもらったときには、モリソバにすればよかったなぁと後悔するというような、それほど一貫性はないんです。人間に、というか小生に一貫性を要求するほうが無理というものです。
 一貫性なんて求めるのは原理主義だ!と揶揄したくなります。バラバラでいいじゃないですか。そんな一貫性なんていう神様を小生は認めませんぞ。
 でも、人間はどうしても言葉の生き物ですから、ひとからいろいろいわれると、困ったなぁと感じますよね。言葉でいわれたものには言葉でなんとかしなきゃと思って、妙に理性的に反論したりするんです。でも、それでは相手に飲み込まれちゃうんでしょう。理性的に反論しちゃだめなんでしょう。感性で反応しないとね。
 話は変わります。テレビの深夜番組で、お笑いの「ネコひろし」というひとのパフォーマンスをみました。破天荒でした。ブリーフだけを履いて出てくるんです。そして自分の芸の世界の三昧に入っているんです。「おか〜さーん、お尻からナマクリーム〜!」とかいうんです。まったく意味がないんです。言葉に。でも、それがものすごく面白かったです。芸と芸をつなぐ合間に、「ハドーケン!ショーリューケン!」とか叫んで飛び上がるんです。これはゲームのストリートファイターの登場人物が繰り出すワザです。「波動拳・昇竜拳」と書きます。
 その芸には「無意味」ということがあって、それが実に爽快感を与えてくれました。名前も面白いのでいっぺんで覚えてしまいました。また見たいなぁと思います。
 やっぱり、あの無意味感が、爽快感につながるのは、普段、理性にがんじがらめになっているということでしょうね。これは、人間の存在が、もともと「無意味」ということと融合しているから、そう感じられるのかもしれません。まぁ仏教語でいえば、「空(くう)」ということでしょうか。


2004年5月23日
拉致家族の子どもたち5人が帰ってきたことで、昨日の話題は占められていました。小生も、テレビの前に釘付けになりました。
 評論家は、小泉首相の勇み足だとか、思慮不足とか、子どものつかいだとか、拉致問題の全面解決から遠のいたとか、さまざまな言い方がされていました。しかし、何はともあれ、小泉よくやった!という賛辞が9割を占めなければならないのでしょう。あとの1割にはいろいろなことが言われましょう。でも、問題の重さからいえば、9割の成功だと感じました。
 最初、首相が訪朝するという情報がマスメディアに載ったとき、ガセネタじゃないのと不信感をもってしまいました。結局、他のひとに行かせることになるんじゃないかなぁと思っていました。しかし、首相の決断で、動いたことは、やはり実行力のある首相だと感心しました。後日、パウエルさんに報告しているということは、紐付きのアメリカとも事前の協議がなかったのでしょうか。そうすると、小泉さんのスタンドプレーということになるんでしょうか。(選挙がらみもありましょう。政権続投ということもありましょう)
 それはともかく、日本で待ち受けていた親御さんたちは、どんなにか嬉しかったことでしょう。でも、ほかの未解決の拉致家族の手前、嬉しさを顔にあらわしてはいけないという、微妙な態度を迫られました。しかし、子どもたちは、20年前後の人生を北朝鮮で暮してきたのですから、今後日本で暮らしたいと思うかどうかは分かりませんよね。やっぱり親のいるところがいいのでしょうか。それは子どもと、家族が選択することでしょう。しかし、政治的な力学もはたらきますから、それも難しいのでしょうか。子どもたちには、自分たちが拉致の被害者であることが知らされていなかったようですから、これから、どうレクチャーするか、どうこころのケアをするかということが大きな問題になるのでしょう。
 離ればなれになったいた家族が一年七カ月ぶりに一緒になれるんですから、これほどよろしいことはありませんね。日本全体が、よかった、よかったという雰囲気に包まれていました。 新聞の三面記事では、デカデカと拉致家族の話題が載っていました。しかし、その隣の記事には、千葉県花見川区で、父親が息子を散弾銃で撃ち殺したというニュースが載っていました。これも家族なんですね。再会を念願する家族、一緒に生活したい家族と、家族を殺してしまう家族というものが、隣り合わせに載っていました。ここに、家族のアンビバレンツが表現されていたように思います。
 それは、家族愛の両義性といっていいのでしょう。愛そのものは、純粋なものなのでしょうけど、そこに悲しいかな人間は、我愛というものを潜めているんです。愛は純粋であっても、我愛は不純です。愛は、いつでも、どこでも、だれにでもという性質をもっています。愛するもの同士をひとつにしようとする作用が愛でしょう。
 千葉県の家族は、父親と息子の間で、相続のことと進路の問題で意見の衝突があったようです。最後に父親が散弾銃で息子を撃ってしまったと書かれていました。我愛は、自己中心的な愛し方になります。当の本人は、そんなふうには見えないんです。相手のため思って、よかれと思っているわけです。自分は犠牲になっても、相手のために尽くしたいと思っているんです。これは想像ですから、ほんとうかどうか分かりませんけど、親御さんは、息子の将来のためを思って、こうしたほうがいいと意見を言ったのではないでしょうか。子どものために自分たちは一生懸命生きてきたのだ、だから、この方針でいこうと息子に迫ったのではないでしょうか。 しかし子どもは、子どもの論理をもっています。そんなことを言われても、自分には自分の意見があって、それが父親の承服しがたいものだったのだと想像します。我愛は、自分の思っているように、相手が動けば、ものすごい包容力で相手を守ります。しかし、相手が同意しない場合には、暴力に変化するのです。我愛が強ければ強いほど、それが拒否された場合には反発力が増して、暴力が激化します。まさに「豹変」という言葉のとおりで、ガラッと態度が変わってしまいます。
 我愛が怖いのは、それが、「相手のため思って」という思いに変わるからです。その我愛が自分勝手な思いだと見えれば、それほどまでの悲劇にはなりません。子どもには子どもの人生があり、親はその領域に踏み込んではいけないのだと、自分のエゴが見えていれば、それほどまでにはなりません。親は、子どもに、ころばぬ先の杖的な知識を提供することはあります。相談にものります。それが指示的になることもあります。しかし、最終的にはそれを選択するのは子ども自身であるわけです。親からみれば、それがどれほど危なっかしい道に思えても、その子どもの決断を受け入れていくしかありません。それが、子どもには子どもの人生があるということなんでしょう。
 ですから、人間の愛は、純粋な愛ではなく我愛であるという限界を知っておくということが大切なのだと思います。我愛とは自我愛です。究極的に人間は、自分自身を深く深く愛する生き物だということなんです。安田理深先生は「夫は夫自身を愛するために妻を愛し、妻は妻自身を愛するために夫を愛す」というような言葉を残しています。なぜ妻を愛するのかといえば、それは、夫が夫自身を愛しているからだというのです。つまり夫は自分にだけ関心をもち、自分にだけ愛を開放してくれる女性を妻として愛するわけです。だれにでも同じように愛を開放するひとを、妻とはできないんです。愛が、純粋であって、神や仏のようであれば、だれにでも同じように接することができます。しかし、それはできません。夫も妻も同じように自分自身を深く愛しているわけです。この限界性が人間の我愛です。
 親からみれば、子どもはいつまでたっても危なっかしそうに見えるんです。でも、親自身が子どもだったときには同じように、その親に思われていたわけですからね。
 そうやって、人間の愛を見切るということが、なければだめなんでしょう。「聖道の慈悲」はすえとおらないと見切らないとね。


2004年5月29日
あっという間に、時が過ぎしまいます。早い早いと感じるのは、時を充実して生きているからじゃないかと思うようになりました。なんでも、熱中していたり、夢中になっているときには、時を忘れています。おそらく生きるということに、熱中しているんでしょう。
 『死の壁』で、またまたベストセラーを飛ばしている養老さんは、著書にゾウムシの話を載せていました。ゾウムシの生殖器を顕微鏡写真で何枚も撮っていました。先の曲がっているのもあるし、とがっているのもありました。その写真を見たとき、インタヴュアーが「そんなことを研究して、それは何になるんですか?」と養老さんに尋ねました。すると彼は「そんなこと分かりませんよ。なんのためになるのか分からないから、研究しているんです。そこにロマンがあるんじゃありませんか」と答えていました。「あなたは、何かのためになると思ってやっているというんでしょう?そういう発想が現代人の発想です。そういう発想がダメなんだ」というようなことも言っていたと記憶しています。
 いわば無目的です。ですが、無目的だから、ロマンがある。分からないことに賭けてゆくという態度が素晴らしいですね。何のためになるのか分からないから、やめるという選択肢もあります。養老さんは、何のためになるのか分からないからやるという道を選びました。この違いですね。これは、生きるということと同じことです。いわば、死に向かって一歩一歩生きているわけですから、無意味に向かっているといってもいいのでしょう。でも、無意味だから、生きないという選択肢ではなくて、無意味だから生きるという道を選びたいと思います。何になるか分からないから、その分からない自分に賭けて生きるということです。
 私たちは一瞬一瞬、賭けて生きているんでしょう。どこまでいっても完成はないんです。どこまでいっても、賭けることができるんです。完成がないから楽しいんです。完成があったら、これほど詰まらないものはないんです。完成は、一見いいようですけど、いわば、どん詰まりです。
 現在進行形で生きましょう。


2004年5月30日
地域の仏教会の会計から電話があって、「年会費が未納だから、支払ってほしい」といってきました。未納であったことを忘れていたことを詫びて、すぐに持参しました。そのお寺は江東区・亀戸にある禅宗のお寺です。
 タクシーを降りて、境内を取り囲む塀を回り込んで、通用門から入ろうとしました。そのときある種の緊張感を感じました。襟を正すといいましょうか、ちょっと深呼吸をして、勇気を奮い立たせてからじゃないと入れないものを感じました。これは、「聖なるもの」への畏敬なんでしょうか。それとも、寺(異界)の中へ乗り込むことへの勇気なのでしょうか。
 寺の人間が、こんなに緊張するのだから、寺以外のひとたちが、寺の門を入るということは、ものすごく勇気のいることなんだなぁとあらためて感じました。ほんと、因速寺に初めて入門されたかたのご苦労が忍ばれますなぁ。よっぽど勇気を振り絞って、門を入ってこられたことでしょうね。そういう意味では、どうやって、自分の寺の敷居を低くできるかというテーマは永遠のテーマでもあると感じました。
 親鸞は「非僧非俗」と表現して、自分は僧でもないし、俗でもないといってますね。その二重性が微妙なことなんです。僧侶であっても、普通の人間とまったく異なる生活はしていません。修行くらいじゃ、凡夫のあり方を超えることはできません。欲望生活をしているということは、万国共通でしょう。だから、一切の人々と同じだということは、よく分かるところです。 まぁ、一般人とは、違った「聖なるもの」が僧侶だと考えて、権威化して、権力化したほうが、檀家を管理しやすいという面もあるんでしょうけどね。寺檀制度は、そういう権威化の上に民衆を統治してきたわけです。ですから、あんまり、民衆と同じなんだよと言っちゃ困るという考えもあるんでしょう。坊さんは「聖なるものだ」と思わせておいたほうが、いいんだとね。
 しかし親鸞は、自分は「僧にあらず」と言っちゃてるわけです。俗人と同じだとね。その欲望生活から、ちょっとでも足を話したら、ダメだというわけです。その一方で、「俗にあらず」ということもいうわけです。欲望生活だけなら、宗教生活とはいえないわけです。その欲望生活を超越するということがなければダメなんです。これが難しいのですけどね。
 それは、「僧にあらず」という生活から、自然とかもしだされるものでなければダメなんでしょう。「僧にあらず」を否定してしまったら、「俗にあらず」は成り立たないのでしょう。さらに人間が、自分は「俗にあらず」だと主張したら、これまた、虚偽になってきます。ですから、第三者に、あいつは「俗にあらず」を生きてるよと思われるようになったらいいんでしょう。自分で言っちゃったら、自己肯定になってしまいます。
 

2004年5月31日

ブルース・オールマイティという映画を観ました。しがないテレビレポーターが、自分の境遇の悪さを神に訴え、ヤケノヤンパチになって神を呪いました。すると、神が現われて、そんなにいうなら、自分の仕事を与えてやろうと持ちかけてきます。まぁ現実には、そんなことは起こらないんですけど、そこは映画ですらね。
 最初は、レポーター本人も信じないんです。でも、自分が願うことはすべて実現することを少しずつ体験してゆき、これは間違いないと確信をもてるようになります。面白いのは、レストランでトマトのスープが出されるんですけど、彼が念じていくと、皿のスープが波立ってきて、左右に別れ、真ん中に白い道ができるんです。これは、モーゼの出エジプト記の有名な場面のパロディーなんです。思わず、爆笑してしまう場面でした。
 これから、観るひともいるでしょうから、詳しく語りません。面白いのは、彼は神ですから、町中の人々の願いを処理しなければならないんです。それが毎日何百万通というメールになって届くんです。一件一件対応していることが面倒くさくて、すべてを「イエス」と答えてしまいます。これでみんなの願いが叶うんだから、文句ないだろうと、かれはいい気持ちになります。しかし、数日後、宝くじは、全員が当たってしまって大騒ぎになります。初め、みんなは大喜びします。しかし、配当金が千円程度なんですから、詐欺だといって怒るのも無理はありませんね。町に暴動が起こり大変な目にあいます。
 そこに神様が現れて、神様も大変なんだぜ!と彼にいうのです。人間の欲望はキリがないんだともいいます。最後には、彼はすべてを神に委ねますという境地になるんです。
 そこに恋人との別れと再会が実現して、最後にはハッピーエンドというシナリオです。
 これは喜劇なのかどうか、ちょっと分かりませんでした。
 でも、人間のもっている欲望の深みと、限界性を感じさせる映画でした。普通の生活では、そうそう欲望を自覚的に感じて生活していません。欲望は、それが誰かに遮られたときに、ムラムラと沸き起こってくるという性質をもっていますからね。欲望が、二人の間に共有のベクトルではたらいているときには平和ですけど、背反するベクトルになったときには、怒りへと変質します。
 「まぁまぁでいいんだ」という言い方を小生は大嫌いです。それは諦め主義ですからね。「とことんやってやろう」という方が好きです。とことんやって、ダメだったら、それに甘んじようというのが好きです。やっぱり、とことんやんなきゃダメでしょう。努力主義だとかなんとかいわれてもね。究めるところまで、なんでも突き詰めなきゃダメでしょう。
 鈴木大拙が、「他力などといっているけど、真宗ほどの難行道はありゃせん」と言ってました。悟りへの方法論がまったくないわけですからね。つまり、いつでもどこでも誰からでも悟りの道が用意されているということです。形式化しないんです。無条件なんです。唯一「念仏」ということだけはいうんですけどね。まったく何もないんじゃ、手がかりがありませんからね。
 ゼロ度の生ということをいうわけです。我を忘れて生きている、なまの生をゼロ度といってみました。それは評価できない生です。幸せとか不幸とか、楽とか苦労とか、そういう評価以前の生をいいたいわけです。
 生に何かを付け足すんじゃなくて、何も足さない、何も引かないという生です。それは、誰の目の前にもある、なまの生でしょう。見ようとしても見えないけれども、すでにみんなが見てしまっているんでしょう。
 

 

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