住職のつぶやき2004/07


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2004年7月1日

  昨日、TSUTAYAへいったら、『仏教超入門』という本が置いてありました。どんなこと言ってるんだろうと思って、パラパラめくってみました。しかし、こりゃダメだなぁと思いました。装丁は結構面白い感じだし、命名もなかなかだなぁと思って期待したんですけど、中身は旧態依然という感じがしました。外見上の、本自体の作りはソフトに出来上がっているけど、内容は、結局、上昇志向の焼き直し仏教という感じでした。
 発想の原点に、「壊れ」がないんです。仏教は、どこかに人間のほころびやら、壊れがないとダメなんです。人の教えじゃなくて、仏の教えと書きますから、人に壊れていないと、染みてこないんですね。つまり、簡単にいえば、人間というのは、どうしようもないもんだぜ、所詮、という、人間信頼への壊れが仏教の原点だと思います。ですから、人間に夢見ているあいだは、なかなか仏教が染みてこないんでしょうね。
 優しく大衆を仏教へ啓蒙しようとするタッチは、ちょっといやらしいなぁと感じました。修行ができなくても、道徳が守れなくても、無畏施というのがある、というような雰囲気なんです。無畏施というのは、何にも元手がなくても、ひとに優しく語りかけるとか、笑顔で接するとか、ひとに畏れをいだかせないという「布施」なんだというわけです。これなら、財は必要ないというわけです。だれでもちょっとした心がけでできるじゃないかというのです。
 そういう、ちょっとした些細な心がけで、人間関係がうまくゆき、ひいては社会全体がうまくいくじゃないかとおっしゃるのでしょう。これも、そうだなぁと思わせられる語り方ですよね。何にもしないで手をこまねいていないで、自分のできる範囲のところから、しっかりやっていこうよというのです。
 こういう志を否定するのは、なかなか難しいんです。だって、それはいいことだからです。だれが見てもいいことなんですよ。でも、そのいいことが問題なんですけどね。いいことというのは、誰からも批判できないからです。批判の封じ手でもあるんです。
 そういう、いいことを言われると、小生は妙にむかっ腹が立ってくるんです。これはなぜなんでしょうか?たぶん、それはいいことなんですけど、人間の大地から足を浮かしてしまうといいましょうか、虚偽だと感じさせるものがあるからなんです。そんなうまいこと言ったって、究極的に、人間というものはどうしようもないもんなんだよという感覚が強いんです。そういう人間のモラルというか、倫理の原点が壊れてしまっているのが、人間なんでしょう。
 でも、そんなことを言うと、「そこまで、皮肉に、こき下ろさなくてもいいじゃないか。人間だって、いいところが沢山あるじゃないか」と言われますね。別に、こき下ろしているんじゃなくて、人間のありのままの姿を言っているだけなんですけどね。あんまり人間のほんとうの姿を語りすぎるので、倫理社会の指導要領で、親鸞を「性悪説」と教えなさいと書かれているそうですね。もともと人間はどうしようもなく悪いもんだよ、まったく救われがたい存在なんだよと、高校生に教えなさいというわけです。まぁ、そうでしょうね。仏教のブの字も知らない先生が、親鸞を教えられないでしょうね。表面上の表現からいえば、「性悪説」と受け取ってしまうんでしょうね。
 でも、親鸞は、性悪説とまったく違います。もし性悪説であれば、そこには救いもないし、まったくひかりもありませんよね。性悪説だと批判してくる視座が、浅いんです。もっと底知れないほどの深みから人間を見なくては、分からないでしょうね。親鸞が「罪悪深重煩悩熾盛の凡夫」というのは、実に透明な明るさを秘めた言葉なんですけどね。この言葉を理性の浅さから見ると、性悪に見えちゃうんでしょうね。もう、善だとか悪だとか、そういう人間の世界が破壊されたところから、出てきている言葉が、「罪悪深重」なんですね。そういう言葉が出てくる深みというのは、無意識の深さなんですね。それを親鸞は、「ひかり」という言葉で象徴的に語ってゆきます。それは永遠の未来と永遠の過去とを含んだひかりの世界です。そこから、人間存在を見とおしているわけです。そういう、人間存在をまるごと受け取ることが、親鸞の世界です。
 人間の罪の深さの認識が深ければ深いほど、ひかりの深みも深いのです。理性よりももっともっと深く、無意識よりももっともっと深いところから、人間の存在をまるごと受けとめたいもんです。

2004年7月03日
●今朝の朝日新聞の社説には「多神教を歩こう」ということが書かれていました。今度、紀伊山地が世界遺産に登録されるというのです。それは結構なことでしょう。富士山が、ゴミで汚れているから、世界遺産になれなかったという話は有名ですね。
 紀伊山地は、和歌山・奈良・三重の三県にまたがっていて、熊野古道や空海の真言密教そして、修験道と多様性を排除しないということが、重要視されたようです。「ここでは神と仏は仲がいい。異なる宗教でも互いに排除しない。(略)日本固有の信仰である神道と大陸伝来の仏教、それらが融合した神仏習合、さらに外来の道教をとりいれた修験道が共存するという多神教の世界である。世界を見渡せば、イスラム教とキリスト教の対立など、一神教同士のいがみあいが絶えない。異なる宗教や価値が平和に共存するためにはどうしたらいいか。紀伊山地の紹介は、二十一世紀の世界に日本から発信する貴重なメッセージでもある」と書かれていました。
 ここのところ、一神教から多神教へというメッセージは、やたら増えているように思います。イスラエルやイラクの問題を見てみれば、やっぱり一神教はダメじゃないかという反省から、その揺り戻しとして多神教へということなんでしょうね。まぁ、多神教というのは、多くの神々や諸仏たちが平和共存している温かい世界というイメージがありますからね。まあ、それは、あんまり、違いを言い立てずに、お互いにあたらず触らずにしているというだけなんですね。他者への関心のレベルを下げてしまえば、平和共存しているように見えてしまうんです。
 簡単にいえば、「あれもこれも」という発想が多神を許す発想でしょう。まあ、それが最終着陸地点なんでしょうけど、そこへ行くには、どうしても、「あれかこれか」というトンネルを抜けないとダメだと思うんです。法然というひとは、そこを強調したひとだと思います。人間は温厚そうですけど、教えのスタイルは夜叉のごとくです。あれを取って、これを捨てよという決断なにし信仰は成り立たないと説きました。そこをくぐって親鸞は、「あれもこれも」という世界へ出てゆきました。そこをくぐってみれば、全世界・全宇宙が教えの象徴的表現なのだと受けとめられるわけです。ですから、自分が立てる場所は、ひとつの視座、それを仮に一神教と名づければ、一神教しかありえないのです。しかし「成熟した一神教」じゃないとダメなんです。未成熟な一神教じゃダメです。他者を許せない一神教は、まだ未成熟な一神教です。相手を完全に、自分の教えの中の象徴として位置づけ切れていないので、相手の存在が目障りになるんです。
 完全に相手を見切って、自己の教えの中に位置づけることができたときに、初めて「あれもこれも」という世界が開かれてくるわけです。もし「あれかこれか」というトンネルをくぐらずに、「あれもこれも」へ行くと、それは信仰にはなりません。
 もうすでに、一神教がダメだから多神教だ、という発想自体が、デジタルな発想です。何を一神教といい、何を多神教というのか、そういう吟味が大事なんだと思います。

2004年7月08日
●ここのところ、更新が滞ってます。ちょっと、原稿の〆切が迫ってまして、こっちまで時間が割けません。また余裕ができたら、更新しますので、何卒お許しください。
 それでも、「よびごえ」68号は印刷屋さんへ出稿しましたので、そのうち掲載できると思います。
 以前、更新が滞ったときに、「住職さんが、最近、ホームページを更新されていませんけど、体調でも悪くしているんですか?」とご心配いただいたと、漏れ聞いております。そんなことはありませんので、どうぞご安心ください。いまのところ健康で、毎日ビールを飲んでますから…。

( ̄人 ̄)合掌...

2004年7月12日
●参院選では、民主党が、かなり議席数を延ばしたようです。朝日新聞の夕刊には「積極的無党派層」という面白い見出しが載っていました。これからは、無党派層の時代なんでしょうね。無党派層というのは、個人です。個人が、自己判断によって選挙するわけですから、とてもフェアーなような気がします。
 このままの自民党の政策じゃダメだと感じている無党派層が多いということでしょうね。まぁ、どの政党に政権を委ねるかといえば、やはり経験の豊富な自民党ということになるんでしょう。長年やっていれば、毒も垢も出てくることはありますけどね。しかし、その自民党の手綱を引き締めて、批判する役割として民主党の存在を評価していているように思いました。民主党に全政権を任せようと思っている無党派層もいないのではないかと、勘繰っています。(菅ぐって…)
 菅さんが、「特定の宗教団体の支持がなければ、成り立たないような自民党政権はダメだ」と選挙前に語っていました。それは、公明党=創価学会の支持を語っているのだと思いました。しかし、ご自分でも、立正佼成会の援助を頼んでいるのですから、これまた、何をかいわんやですけどね。
 そういう組織の信者であれば、その党の支持に盲従するということでは、やはり民主主義が成り立たないように思います。やはり「政教分離」ということを人類は立てなければならなかったんでしょうね。政治と宗教は結びつきたがる傾向性があるんですけど、結びつけば結びつくほど、結果として人類にとって、あまりよろしくないことがあったんですね。それで、政教分離の原則とはいってみたものの、やはり、組織票が成り立つんですね。それは、利害なんでしょうけど、人間はどうしても利害から逃れられない存在ですから、困ったもんです。それでどうしても、政教分離をいつもにらんでおかないとダメなんでしょう。
 既成教団は、幸か不幸か、それほどの組織力をもちませんから、堕落した形態で政教分離がかろうじて成り立っています。
 教団と組織力というものは、どういう関係にあるのが一番ベターなのでしょうか。やはり、個人ということを尊重出来ないようではダメだと思うんですね。組織がどういおうと、おれは、こうなんだ!ということが、それが、もし反対意見であったとしても、ごく自然に発言できるようでなければ、健康な組織体とはいえないと思うんです。

2004年7月16日
●東京のお盆が、今日で終ろうとしています。地方によっては8月・7月と様々です。どっちがほんとうかということもないわけです。両方とも人間が決めているだけのもんですからね。
 どうも浄土真宗という教えからいうと、「お盆」は定義しにくいもんです。まあ、だいたいの仏教行事は、すべて人間から死者へ何かをはたらきかけるという傾向性で行われますから、如来回向を説く浄土真宗にそぐわないのは間違いないことです。如来が回向されるのであって、人間から回向する必要はまったくないというのが如来回向です。そうすると、こっちから死者へ働きかける手段がすべて奪い取られてしまうわけです。
 しかし、人間は、なにもしないということができない生き物でもあります。どうすることもできないことは分かっているんだけど、なんとかしたい、何かすることはあるんじゃないかと考えます。そういう情の発露から、だいたいの仏教行事は位置づけられているんです。そういう常識的な仏教からすると、浄土真宗はよほど非常識な仏教なんですね。一般的な仏教が仏教であれば、浄土真宗は仏教じゃないのかもしれません。
 何もしないでいいわけですから、いろいろなことをやると、やっただけ、人間のほうがダメージが大きくなるんですね。徒手空拳という言葉がありますけど、影法師に向かって力いっぱいにアッパーカットを振り回しているようなもんです。どれほど、やっても、これでいいということがありません。まったくキリがないんです。
 死者に向かって、ああしたい、こうしてあげたいという思いが、ゼーンブ仏さんに奪い取られて、こっちが空っぽになればいいんですね。それが如来回向なんでしょう。まだこっちがなんとかしたい、しなきゃダメじゃないかと思っているうちは、ダメなんですね。如来回向になっていません。
 ゼーンブ、仏さんに奪い取られて、こっちが空っぽになって、なんにもしなくていいんだという大地が開けてきたら、そこから何かが生れるんですね。こっちが空っぽにならないうちに、相手に詰め込んでやろうと画策するのでは、本末転倒なんです。
 みんなが仏さんの方ばっかりを見つめていればいいんだと思います。別にとなりにいるひとに眼を向ける必要はないんでしょう。みんなが仏さんの方ばっかりを見つめていると、他人が気にならなくなります。そうすれば、しめたもんです。これは平和になりますよ。
 現代は他者を気にしすぎるんじゃないでしょうか。それは仏さんを見つめることができないから、回りに害毒を流したくなるんでしょう。害毒を回りに振りまかないためにも、仏さんを中心に、見つめてゆきたいと思います。唯仏論でいきたいと思います。


2004年7月17日
●あなたのもっている仏さんは、どのくらいのサイズでしょうか?小生のもっている仏さんは、とても大きくて、なかなか手ごわい仏さんです。
 そのひとが、どのくらいの仏さんを持っているかで、人生が決まってくるように思います。芸術家は、自分の描いた絵を「これでよし」とはしないんですね。回りから見れば、これで完成しているんじゃないかと思えるんですけど、本人は「よし」とはしないんです。こっちはまあまあでいいじゃないの、と思うんですけど、それを承服しません。
 その「よし」と言わせないものが、仏さんのような気がします。それは絵を描くことばかりでなく、生きること全体にかかわってくるものだと思います。口では「まあまあでいいじゃないの」と自分を慰めるようにいうんですけど、でも決して、「それでいいわきゃないだろう!」という仏さんの声が聞こえてくるんです。
 そうすると、どれほど、大きな否定を与えてくれるかが、仏さんの器量の大きさということになりませんか。「この程度でよしとしておくか」とオーケーを出す仏さんであれば、その程度の器量の大きさなんでしょう。でも、もっと大きな仏であれば、決してオーケーは出してくれません。それは、仏さんが人間を見込んでいるのかもしれませんなぁ。
 とてつもなく大きな仏さんは、とてつもなく人間を全面否定してきます。この世に安住する場所はないほどに、追い立てます。どこにも逃げ場がないほどです。一瞬も氣の休まる場所はないんです。人間は、眠ったりして眼をつぶることができます。しかし、大きな仏さんは、いつでもこっちを見つめていますから。逃げることができないんです。仏の眼を忘れているときには、いいんですけど、気がつけばいつでも見つめられているんです。
 否定されて、否定されて、この世にいられないほどです。否定されるということが、仏の慈悲なんでしょうか。肯定は、かえって、どん詰まりですね。「これでよし」と言えるのは、お棺のフタがしまったときでいいんでしょうね。それまでは、どこどこまでも、否定されつづけてゆくしかないんです。否定されつづけて、ようやく、人間は人間らしい顔にできあがるんでしょう。削られて、削られて、彫刻ができあがるように、削られて掘られて、人間はようやく作品としてできあがってくるんでしょう。
 いつでも、どこにでも「次の一瞬」に全面肯定の世界があれば、どこまでも否定の嵐に耐えてゆけるように思います。人間は「動物」です。動物は、流動物です。いつでも、とどまるところなく動いている物ですよね。
 自分の知っている「自分自身」を脇に置いて、今日も、未知なる自分自身と出会ってゆきたいと思います。

2004年7月18日 
●新潟県や福島県では、集中豪雨で、河川が氾濫し、大きな被害を与えつづけています。なんと!14名の方が亡くなったと報じられています。それもお年寄りだということです。まぁ、田舎は過疎化していて、いるのは年寄りだけだという現状です。若者は都市へ、都市へと出てゆきます。後に残っているのは、年寄りだけです。
 あっという間に、川の水が町を浸水させ、年寄りたちを襲ったのでしょう。もし、若者たちがいたら、こんな被害は出なかったと思います。
 あのニュースを見ていて、いろんなことを思いました。これは日本全国なんでしょうけど、灌漑砂防工事で、河川がどんどん氾濫したり蛇行したりしないように、矯正されているんです。土手をコンクリートで固めて、矯正するわけです。そうすることで、伏流水がなくなり井戸が枯れたりしているわけです。それは人間にとって都合がいいと思ってやっているわけです。しかし、大量の雨が降ると、その川へ一極集中してきますから、とうぜん裁ききれなくなって氾濫するわけです。もともと川は蛇行したり、淀みがあったりしながら、水が周辺に吸収されながら、下流に流れていくものです。つまり「遊び」があったんですね。しかし人間は、遊びを削り取って、曲線を直線に直し、堤防を高くして、一気に放出することにしたんです。これは「理性」の仕業なんですね。
 しかし、川はもともと氾濫するものですし、蛇行するものでしょう。それがもともとの川というものの本性ではないでしょうか。川が氾濫することで、山のミネラルなどが、平野に放出されて、それで土壌がバランスよくなっているということを聞いたことがあります。
 人ごとだから、そんなことを言っていられるんだと批判されました。でも、だれが自分のこととして受け止められるんでしょうか。視聴者は、どこまでも人ごとですよね。たとえ、あのニュースに涙を流そうとも。まったく、大変なことですねという程度の同情しかできないもんでしょう。
 なんで、あんな災害が起こるんだ!?非難警告の出し方が遅かったからじゃないかとか、堤防対策をしていないからじゃないかとか。いつものことで、マスコミは騒いでいました。ある評論家は、百年に一度、このような災害が起こるからといって、何億円もかけて対策をするのは如何なものかといってました。安全ということには、どうしてもコストがかかるんですね。
 いつでも災害が起こると、どうして起こったのか?なぜもっと対策が迅速にとれなかったのか?だれが悪いんだ?と人間の頭は動きます。これは世の常です。そしてより「安全に、快適に」という形にもっていこうとします。でも「安全と快適」の量が増えれば増えるほど、その「安全と快適」の堤防が決壞したときには、被害が大きくなるんです。
 やっぱり、「ほころぶ」という日本人の受容性の文化が必要なんでしょう。以前にも書いたように、和服は「着崩れ」がありますし、下駄は鼻緒が切れます。障子や襖は、破れることがあります。日本人の文化は、どこかにいつでも「ほころび」を内包してきました。
 何十年間隔で川の氾濫が多発する地域では、建物を高くつくるとか、大事なものは二階にしまうとか、船を軒に吊るしておくとか、そういう人びとの自衛意識が発達していました。川は山からの恵を運んでくれる、「荒ぶる神」という受け止め方でした。そこに自然への敬意というものがあったのでしょう。都市に生活する人間は、自然への敬意というものがなくなってしまったようです。川は運輸や景観や排水口として人間が利用するものとして道具化されました。 小生の近くを流れる荒川放水路は、巨大な排水口というイメージですね。この川は大正年間に、それこそ人海戦術で築かれたものだそうです。5000名もの住民を移動させて、そこに放水路を通したのです。これこそ、「プロジェクトエックス」で取り上げてほしいもんですね。こんなにすごい放水路を造った人びとがいたんだということを、東京は忘れているんじゃないでしょうか。
 関東平野という広大な平野は、哺乳類である人類が、好き放題に、オモチャ箱をひっくり返したように、「人工空間化」しましたね。ですから、ここに住んでいる人間は、ほとんど自然に敬意をはらえなくなったように思います。もともと自然から生れてきた人間が、自分のいのちの源である自然に敬意が払えないのです。でも、それが、人間のいのちの重さを軽くしているように思えます。悲しいことです。

2004年7月19日
●仏教を求めようとすること自体が仏教から遠ざかっているんだよ!我執を捨て去ろうとすること自体が、我執なんだよ!
 そんなことを力説しながら、夢から目が覚めました。夢の中でも議論しているだぁ、だからつかれるんだぁと思いました。寝ていても意識は動いているんですね。まったく、本人の自由にならないものです。
 それでも、その夢の議論では、相手が感心していました。なかなかいい展開だったじゃないかと思いました。でも、こっちから動いて仏教を求めようとしない限り、近づけないじゃないかという反論もあるんです。青い鳥は、日常にあるんだといわれても、青い鳥を求め出さざるをえないということもあるんですね。
 真如とか、法性というものは、もともとあるもんなんですね。でも、外側から刺激を受けないと、もともとあることに気がつかないんでしょう。それで外側に求め出そうとします。それは、外側への旅であると同時に内面への旅なんですね。もともと内側に、ものすごく深い真如とか法性があるんです。その内面の深みに触れるためには、外側へ旅にゆかなきゃならないわけです。ですから、外へ旅だつことは内面への旅立ちなんでしょう。
 「古きを温(たず)ね、新しきを知る」ですね。その「古き」というのは内面の深さにあるんです。どこかにあるもんじゃない。でも、叩かないとその内面の音がしないんですね。鐘は突かれないと音がでません。しかし音は撞木から出るんじゃなくて、叩かれた鐘から出るんです。
 
 そうそう、最近、参院選もあって、年金の話題がやたら多いですね。イラクと北朝鮮と年金の話題では、とくに年金の話題が大きく取り上げられているように思います。日本の将来は、払うひとが減ってきて、もらうひとが増えてくるという図式です。少子高齢化社会というやつですね。
 それでもっと、人口が増えないとダメだというんです。それならば、安心して子どもを産める社会をつくれというのも一理です。外国から人間を入れろというひともいます。小生は、どうして若い人たちが結婚しないのか考えてみました。それは、危険だからでしょう。危ないからです。相手の心も不確かだし、景気も不安だし、そんな危険を犯してするほどのこともないだろうと引っ込み思案になってしまったように思います。
 結婚は賭けなんだから、丁と出るか半と出るか賭けてみるしかないんですね。賭けてみて、ダメだったら振り出しに戻ればいいんじゃないでしょうか。
 先日、ある牧師さんが若者に説教するときに「危険をおかして生きる」という題名で話をするのだといってました。つまり、生きることに、引っ込み思案になるなということです。大胆に振舞ってしまえというのです。それで、危険を犯して生きろというのです。なにも犯罪をやれということじゃないことは分かりますよね。
 でも、生きるということは、危険を生きることなんだというんです。人生は、すべからく選択です。選択の連続が人生ですから、ある意味では「賭け」をしているわけです。賭には危険がつきものです。でも、生きるという本質が賭けなんですね。賭けと知って、人生を生きなきゃダメなんでしょう。
 まあ彼はキリスト者ですから、神があるから、どれだけ危険を犯して生きても大丈夫なんだという安心感をもっていっているわけです。
 その意味では、結婚は大いなる危険です。でも、危険に身を任せてみるということも大切なように思います。「燃えるような恋愛」とか「焼け棒杭に火がつく」ということがありますよね。「マディソン郡の橋」も、ありました。「失楽園」もありました。
 最近のドラマは、やたら純愛編が多いように感じます。もっと、危険を犯したものがあってもいいんじゃないでしょうか。そんなことをいうと、不倫の奨励みたいですけど、そのくらいの力があってもいいと思うんです。
 危険をおかせないのは、どこかで、この生の永続性に酔いたいということのあらわれなんでしょう。この生が永遠に続いていくような幻想をもっているんです。ですから、黙って、地道に日々を送っていれば、それで安心なんだと考えて、極力危険を避けるんです。この世が長いものだという認識が、危険をおかすことを拒んでいるんでしょう。
 お釈迦さんも、この世は短いよといってます。蓮如さんは「幻のごとくなる一期なり」といってますね。長い長いと思っている意識に、生の本質は短いものだと鉄槌を下すんですね。ひとのいのちの本当は、短くもなく長くもないんですけど、そこに「短いぞ」という認識があるんです。短いぞと言わせている認識は、地球ができあがってから46億年たっているというような時間意識です。地球の一生や宇宙の一生とくらべたら、人間は短いぞというんです。短いものだと、分かってくるほど、危険をおかせるようになるんです。どうせ、一度の人生だ!という勇気がちょっと涌いてくるんです。長いと思えば、安全神話に酔います。短いと思えば、危険をおかせます。
 黒澤明の「生きる」の主人公も、余命わずかと分かったとき、危険をおかして大胆な生き方を選択します。「キジも鳴かずば撃たれまい」とか「出る杭は打たれる」とか、そういうコトナカレ主義から脱出して、危険をおかして一歩を踏み出してみたいと思います。
 
2004年7月25日
●まったく暑い。みなさん如何お過ごしでしょうか?眠れないからクーラーをつける。そして寝冷えして風邪を引くという悪循環に悩まされているひとも多いでしょう。もはやクーラーなしの生活は、現代人には考えられませんね。クーラーをつけるから外気の温度が上がる。でも室内は快適。暑い暑いといいながらクーラーをつけては外気をあげています。この猛暑の一端を担ってしまっている自分にも、罪を感じますね。
 分かっているんですけど、それでもクーラーをつけずにはいられない自分があります。また都市にはアスファルトの照り返しというやつがありますね。アスファルトは熱を吸収しやすいんでしょうね。夜になっても熱は冷めません。戦争で空襲されたときにはアスファルトが燃え出し、道路が火の川に変わったそうです。夜には見えませんけど、たぶん熱の冷めない道路からユラユラと湯気があがってくるような錯覚にさえ襲われます。
 地球の奥深くは、やっぱり何千度というマントルがあるんだそうですから、地球は灼熱の惑星なのかもしれません。
 ちょっと前、電話が入って「わたし、ちょっと、いま、憑依されてるんですけど。御祓いというか、そういうのやってもられえますか?」と。「一応、お経は読みますけど、効果のほうはねぇ。どうか…」と答えると。「効果は分からないんですか?それでは、また電話します」というやりとりがありました。こういう電話にはどういう対応をしたらいいのか、ちょっと困ってます。憑依されてると本人が訴えているわけですから、なんらかの手当てが必要でしょう。しかし、真宗の教義からいけば、そういう御祓いという儀式はないわけです。でも、「そんなことあるわけないだろう!」とか「そんなのやってませんよ」と答えることだけはダメなんだと思います。やはり、そこになんらかの困っているひとがいるわけですから、そして、因速寺に電話してきてくれたわけですから、それにお答えしなきゃならないわけです。でも、うまい答え方ができないんですね。お経だけでは読んでほしいという人はありますけど、だいたい、電話のやりとりで、プツッと縁が切れるというのが大半です。それから電話の主はどこへ行ったのか、とても気になることですけど、どうしようもありません。恐らく「いいよ、いいよ、御祓いやってあげますよ」というところを見つけていったんでしょうけどね。済まないことをしたという罪の意識が少し出てきてしまいます。
 親鸞の時代には、それこそ、怨霊やら霊魂やらあの世があるということのほうが常識的ですからね。現代とは違います。ですから、親鸞も「霊魂なんかあるわけないだろう」とは言ってません。ただ、そういう霊魂などがあったとしても、それは念仏者を守ってくれるものだという受け止め方ですね。我々に障害を与えるものではなく、我々を守護するものだというのです。もし、障りを与えるように受け止められるのであれば、念仏の頂き方が不十分なので、こっちのほうに問題があるんだと受け止めます。
 相手のせいにしないで、自分の内面の構えが不十分なんだというわけです。この受け止め方がいいですね。結局、そういうことでしかないんでしょう。
 でも、結構、小生のお経にも効き目があるようですよ。マンション建設予定地での読経やら、霊が見えて困っておられるひとへのお経やら、その後トラブルが解決しているようですよ。ですから、自分でも思ってもみない効果があるようです。「念仏は満徳の帰するところだ」と法然さんも言ってますから、自分の力じゃなくて、お念仏の力なんですけどね。ですから、自分から、「おれにはこういう効果があるんだよ」とはいわないんです。それでもよかったら読経しますから。これを見た電話の主さん、よかったら電話してきてください。

 

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