住職のつぶやき2004/09


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2004年9月21日
● 念仏くらいで、間に合う自分ではない。
大腸憩室炎という病気にかかっていました。ようやくいまは快復しています。症状は、盲腸と似たようなものです。突然、右下腹部が傷みだし、寝返り打つたびに傷むのです。これは、只事ではないと思い、病院へ直行しました。救急で診察を受けました。点滴と血液検査と触診を受けました。さらに、盲腸と憩室炎という病気が似ているので、造影剤を体内に注入してCTをやりたいと先生はいいました。レントゲン室に車椅子で移動しました。始めて乗った車椅子は、なかなか快適だと思いました。レントゲン室に入り、造影剤という液体が体内に注入されました。すると、お腹のあたりが少し暖かくなったような感じがしました。静脈から造影剤が注入されるのですが、ものの数秒でお腹まで達するんですね。このスピードには驚きました。恐らく血流に入って腹部まで運ばれるのでしょうけど、そんなに早いのか!とびっくりしました。動脈なら、分かるんですけど、静脈もそんなに早いの?と疑いました。
 以前、人工透析をされているひとの、動脈の音を耳をつけて聞かせてもらいました。人工透析をするために、体内の内側を通っている動脈を、手術によって皮膚のところまでひっ張りだしてあるんですね。その方の腕には、表面に動脈が盛り上がっていました。そこに耳をつけて血流の音を聞かせてもらいました。すると、ゴーッゴーッと物凄い音と流れの速さが伝わってきました。これにも驚きました。こんなにすごい音が体内ではしているのだということと、そんなスピードで血液が体内をめぐっていることへの感動がありました。
 しかし、静脈はもっとゆっくり穏やかに流れているものだという錯覚がありました。いまから考えれば、動脈と静脈は同じ速さじゃなければならないんですよね。動脈は体の末端まで行って、そこからこんどは静脈となって、心臓へ戻るわけですから、環状になっているのですね。登りだけが早くて、下りが遅いということはないわけでしょう。同じスピードなんですよね。ただ、動脈の本数と静脈の本数が違うために、静脈は、それほど激しく流れていないように感ずるだけなんですね。速さはたいして変わらないのでしょう。あらためて、静脈のすごさに驚いたのでした。
 そうそう、以前ひとから聞いていたところでは、「MRIは受けてもいいけどCTはやめたほうがいいよ」というものでした。MRIというのは、磁気による造影法だから、人体に対するダメージは少ないそうです。しかし、CTは放射線だから、体には悪いそうです。以前の東海村の臨界事故のときの数値と同じくらいの放射能を浴びるそうですね。よく脳のCTをやりますね。CTをかけて病根が判明するわけですけど、しかしそのときの放射能による脳のダメージもかなりなものだそうです。だから、危険度が高いのだそうです。
 そんな話を聞いていたので、これは困ったなぁと思ったんですけど、CTをやらないと、盲腸か憩室炎かの判定がつかないということになると、不安が残ります。「CTやる?それともやめる?」と医師に尋ねられると、やっぱり、患者は弱いもので、「お願いします」としか言えませんでした。全面的に医師に依存するという患者の体質が、如実に現われてしまいました。健康なときには対等でも、病気になると、やっぱり患者は弱者ですよね。
 診断の結果は「大腸憩室炎」ということで、入院するかどうするか?という判断も迫られました。入院すると、点滴と絶食だそうです。それも嫌だったので、毎日通院で点滴を受けるという条件と、食事制限でなんとかクリアーしました。おかげで、体重が三キロ減りました。これはダイエットになったなぁと多少喜んでいます。河合隼雄さんがよく「ふたつ善いこと、さてないものよ」とおっしゃっていますね。それをひっくり返せば、「ふたつ悪いこと、さてないものよ」ということで、悪いといわれているものにも、一分くらいはいいところもあるもんですね。
 インターネットで病気について調べると、大腸に、憩室という、二三ミリの袋ができるそうです。普段はそのポケットに便が入っても、流れて出ていくのだそうです。老化と共に、憩室はだれにでもあるといってもいいようなものだそうです。しかし、体調のバランスが崩れたりなんらかの原因で、憩室に細菌が入って、そこが炎症を起こすのだそうです。療法は、抗生物質の点滴と絶食(つまり、腸を休ませる)だそうです。病名が妙なんですね。「憩室炎(けいしつえん)」という字は、「休憩室炎」という意味ですから、「憩いの部屋の病気」ということでしょう。なんでこんな名前になっているんでしょうか?大腸に休憩室があるということなんでしょうか。広辞苑によりますと、「管腔性の臟器に見られる限局性の腔拡張」と出ていました。名前の由来については、出ていませんでした。ちょっと、いろいろやりすぎだから、少し休憩したほうがいいんじゃないかといたわって、内臓がシグナルを出してくれたのかもしれません。そう思うと、憩室炎もなんだか、可愛いもんだと思えてきました。
 小生の憩室炎は右下腹部なので、先天的なものだそうです。左側にできるものは、後天的なものが多いのだそうです。左側というのは、肛門に近いほうです。これは、食生活が欧米化したことで、便が硬くなり、排便に力がかかりすぎてしまい腸が膨らむことで憩室ができるという仕組みらしいです。小生のは、右側ですから、先天的なものじゃないかと診断されました。 先生に尋ねたのですが、今後の予防策はないということでした。まあ便秘にならないように、食生活をバランスよくするというものでした。しかし小生は、生まれてこのかた、自慢じゃないですけど、便秘は体験したことがないんです。むしろ下痢症で、いつでも柔らかすぎて困っているくらいです。ですから、まったく対策のしようがありません。それで、困ってしまいました。
 ともかく、十月の後半に、大腸にバリウムを浣腸して造影するという検査を受けるように勧められました。ひとによっては、内視鏡検査のほうが正確だから、それがいいんじゃないかと教えてくれるひともありました。どうしたらいいのか、これも迷っているところです。
 なんだか、医者に相談するような、内容の文章になってしまいました。これからは、少しずつ更新の回数を増やしてゆきたいと思っております。
 ピンチになったら、お念仏が出るかといえば、全然出ません。やっぱり、お念仏くらいでは、間に合わないというのが、私の現事実なんでしょうね。

2004年9月22日
●ひとは、教えられて始めてひととなるようだ。
 アマラとカマラは、オオカミに育てられてオオカミになったといいます。夜行性で四本足で移動しました。ひとは、オオカミに育てられれば、オオカミになり、ひとに育てられればひとになるのでしょう。
 初め、「わたし」はわたしではありませんでした。ひとから教えられて、始めて、この肉体が「わたし」となりました。教えられなければ、「わたし」はないようです。
 初め、ひとは、「死」を知りません。初めひとは死なない生き物なのです。しかし、ひとから死を教えられて始めて死を知ります。死を知ることによって、始めて「死ぬ生き物」となりました。『聖書』でも、アダムが知恵の木の実を食べて、自己を対象化し、それによって「死」を手に入れたというふうに書かれていますね。知によって、生も死も手に入れるのです。
 死を知ることを通して、ひとは、初めて、「生きる」という言葉を覚えました。ひとは初め生きも、死にもしない生き物だったのです。ひとから教えられることによって、死を知り、その裏返しの生を知ることができるのでした。
 いまでは、自分が生きているということは、当然のこととなっていて、だれも疑うことはありません。みんな生きていると思っています。しかし、それは「思っている」だけであって、ほんとうに生きているということなのかどうかは分かりません。
 「生きる」ということが、どういうことなのか、まだ人間は体験している途中であって、結論は出ていないからです。ひとの人生は誕生日から命日の時間で計ることができますが、自分の時間は計ることができません。
 そうすると、自分は、生きているものなのか、死んでいるものなのか、ものすごく曖昧になってきます。反省したり、内省すれば、「おれは生きている」と分かるんですけど、反省以前、内省以前のところは、未開拓ですね。
 そして未開拓な部分が、圧倒的に多く、広がってゆくと、生きるということが、楽になってくるのは不思議なものです。
 長女が幼いころ、家の扉から外へ出ることを「入る」といい、室内に入ることを「出る」と言っていました。親鸞の著作に『入出二門偈頌文』というのがあって、「入る」と「出る」ということを考えさせられました。家から出るという場合には、狭い空間から広い空間へ出るというイメージで大人は感じています。船が港から出るという場合にも、狭い港から大海原へ出るというイメージです。逆に、広い空間から狭い空間へ移動する場合には、「入る」というイメージであって、「出る」というイメージではないのです。
 子どもが家から外に移動するときに「入る」と語っていたのは、どうしてなのだろうと思います。恐らく、自分の好きな砂場遊びの世界に「入る」というイメージが強かったのではないかと想像しました。その遊びに興じるということが「入る」であって、その世界から抜け出ることを「出る」と表現していたようです。あながち空間の広さ狭さというイメージは、そこにはなかったのではないかと思います。
 ひとにとって、世界は「ありのまま」にあるわけでは、決してありません。ですから、地球がほんとうに地動説なのか、天動説なのかは、観点の違いです。決して、絶対的な真理はどちらにもありませんし、どちらにもあるといえます。「客観的」な「ありのまま」は、どこにもないわけです。ただ、それは、ひとの知恵によって切り取られた「ありのまま」なのです。ひとは「ありのまま」を知ることはできません。そういうことが分かってくると、生きることが楽になります。
 新聞にこんなことが載ってました。お母さんに子どもが質問しました。
子ども「仏さんて、ほんとうにいるの?」
お母さん「そうねぇ、仏さんは死んでいるわけでもないし、生きているというわけでもないのよ…」
子ども「それじゃ、意識不明なんだ?」
 やっぱり、「瞼の母」みたいなもんで、目をつぶると見えるし、目を開ければ見えないものかもしれないですね。私たちに感じられる仏さんは、どうしても映像化されたものでしょう。でも、ほんとうの仏さんとは、私たちの意識ではとらえることができないものだと思います。縁といわれるような、関係性そのものなのでしょう。それが、存在の故郷ではないかと思います。私たちに利益を与えるものでもありませんし、障害となるものでもありません。まったく空気のようなものじゃないでしょうか。
 


2004年9月24日
みんな感じていることですけど、最近、毎日のように殺人事件が報道されて、なんだか滅入ってしまいますね。朝起きて、テレビをつけると必ず殺人事件が報道されています。現代は、日本中どこで殺人事件が起こってもおかしくない状態なんですね。都市の過密の中でだけ起こるのであれば、それも納得できる面もありますけど、別に都市じゃなくても起きるんですね。やっぱり、人間の煩悩は、都市であるとか田舎であるとか、そういうことはお構いなしなんでしょうね。
 日本は必ずアメリカの後を行くといわれます。アメリカが不況になれば日本がなり、アメリカで犯罪が多発すれば、日本も多発するということなのでしょうか。どこかおかしいんじゃないかとみんな感じているようです。
 これは、日本人ひとりひとりが、煩悩に狂わされているということなんでしょう。煩悩を対象化する力が低下してきたということでしょうか。
 よく近頃の子どもたちは我慢ということができなくなったというひとがいます。なんでもほしいものを親がポンポンと買い与えるから、子どもがワガママになってきたのだとお年寄りは批判します。しかし、そうなんでしょうか。
 私たちは、戦後「我慢をしなくてよい社会」をつくってきたのでしょう。新幹線ができれば、長旅を我慢しなくていいわけです。コピー機ができれば、わざわざ手書きで転写するという苦労をしなくていいのです。現代社会は、そういう意味で、機械技術を発達させて、いかに我慢をしなくてよいかということを目指してきたわけです。欲望をできるだけはやく叶えていいという社会です。
 意識的か、無意識的か知りませんけど、そういう社会を目指して全員が動いてきたわけです。それなのに、子どもに我慢しろというのは、矛盾なんですね。親はできるだけ早く欲望を叶えていい社会に生きていながら、子どもには我慢させるということは矛盾ですよね。ですから、いま子育てをしているお父さんやお母さんは、大変苦しんでいるわけです。貧しいときには子どもの欲求を、簡単に排除できます。「金がないから我慢しろ」と。しかし、豊かな社会になれば、どうして子どもの欲求をセーブするのかということが、大変な問題になります。なんでも欲しいものをポンポンと買い与えていいのかというためらいを感じながら、子育てをされているのだと思います。そこに親として、ためらいや矛盾をどれだけ感じて、子育てをするかということが大事なように思います。
 親は子どもが可愛いんですから、子どもの欲求にはなるべく応えてやりたいと思います。しかし、子どもの欲求に振り回されているということになれば、どこかおかしいのでしょう。
 欲求は、人間を突き動かして働きます。怒りやむさぼりや嫉妬や恨みは、人間を突き動かしてゆきます。まさに煩悩に狂わされているわけです。しかし、それが冷めるということがあるのです。必ず「冷める」ということがあります。人間は、善いことでも悪いことでも、継続することが難しいのです。必ず「冷める」という状態に入ります。
 この「冷める」という状態が生まれやすくするためにはどうしたらいいのでしょうか?小生は、体の体音を聞くということがいいように思います。聴診器を買ってきて、自分の心臓の音や内臓の音を聞いてみます。そうすると、体内の音がこんなにするのかと思うほど聞こえてきます。まるで深海に潜ったような状態です。
 乳児が泣いているとき、子宮の中で聞いていた体音を聞かせると泣き止むそうです。体音がどうも人間の無意識に働きかける力をもっているように思えるのです。
 
2004年9月25日
テレビ番組で無駄知識を披露する番組「トリビアの泉」で、「バカボン」というのが出ていました。「あの赤塚不二夫のマンガ『天才バカボン』の「バカボン」はお釈迦様のことである」というやつです。77ヘエくらいだったですかねぇ。
 岩波の仏教辞典によりますと「世尊→主としてサンスクリット語bhagavatの漢訳語でbhaga(幸運、繁栄)とvat(を有するもの)の結合したもの。<婆伽婆バガバ・バギャバ><薄伽梵バガボン・バギャボン>などと音写される。福徳ある者、聖なる者の意で、古代インドでは師に対する呼びかけの言葉として用いられていた。仏教においては釈尊を意味する語として用いられたが、神格化されるに伴い仏の尊称となり、万徳を具した世に尊敬されるが故にこのように漢訳された。」と出ています。
 赤塚不二夫が、そのことを知っていてつけたのかどうかは不明ですが、小生は、恐らく知っていたのではないかと想像しています。本当の知恵というもののあり方は、一般の見え方からすると、バカの如くに見えるものです。昔話の「舌きりスズメ」に出てくるよいおばあさんは、スズメのお宿で、大きなツヅラではなくて、小さなツヅラをもらって帰ってくるんですよね。一般の知恵のあり方からすれば、大きいほうがいいに決まってるんです。バカじゃないのと考えられます。でも、家にもって帰ってツヅラを開けてみると中から金銀財宝が出てくるんですよね。悪いおばあさんは、一般の知恵の持ち主ですから、大きいほうのツヅラをもらってきて、魑魅魍魎が出てくるという展開です。まあ、欲をかくなという戒めなんでしょうけどね。
 それから、「三年寝太郎」というのも、そうですよね。三年も寝てばかりいるんですから、これも一般の知恵からみたらバカみたいなもんです。しかし、村がピンチに陥ったときに起き出して村を救うんですよね。まあ、この落ちがあるから、寝ていても許されるんですけどね。もし寝ているだけだったら、やっぱりバカだといわれるんでしょうね。でも、人間は十年寝太郎かもしれないし、二十年寝太郎かもしれませんからね。いつそのひとの内面から、何が目覚めてくるか分かったもんじゃないですからね。
 

2004年9月26日
ミクロとマクロ、両方からの視座が欲しい
 ミクロの視座は、日常の些細なことの連続を大事にする視座。そして、マクロの視座は、46億年とか、無量大数とかいう視点から眺められる視座のことです。これが両方とも、大きく広げられていないとダメなような気がしています。
 ミクロの次元は、日常のほんの些細なことを大事にすることです。同じ納豆を食べていても、美味しいなぁと感じる朝もあるし、なんて臭いんだ!と嫌悪するときもあります。普段は、床に落ちている紙屑なんかは、黙殺して通りすぎるのに、その日に限って、それが許せないで、徹底的に掃除したいという衝動が起こる日もあります。風呂場の鏡が、多少曇っていても気にならないのに、その日に限って、それが許せないと感じることもあります。ちっぽけなことで、家族に腹を立てたり、テレビドラマで涙を流したり、そういう感情の世界に振り回されているのが、日常のミクロの出来事です。
 でも、それを遠くから眺めてみることもあります。「どうしてちっぽけなことに執われて、感情の波に翻弄されているんだろう…」と呆れることもシバシバです。でも、そういうちっぽけなミクロの出来事から、足を洗うことはできないんですね。
 そういうことは、わずらわしいことですけど、とても最近では、それが大事なことのように思えてきています。なんか、人間には、その意味は教えられていないけれども、何か大切なことが、そのミクロの出来事には暗示されているんだと思えるようになりました。
 ですから、ひとからさげすまれるようなことや、自分でも嫌になるほどちっぽけなことを気にしているという状態は、何か大事なことのように思えているのです。ひとの行動や、思いや感情は、ちっぽけなことのように見えて、実は、そうでもないように思えるんです。
 「煩は身をわずらわし、悩はこころをなやます」と親鸞は煩悩を解釈しています。やっぱりミクロの世界は、わずらわしい世界なんですね。いまふうにいえば「ウザッタイ」とか「ウザッテェー」とかいう感覚です。むさぼり、いかり、ねたみ、そねみ、物惜しみ、嫉妬、優越感に劣等感。そういう感情やら欲望の世界は、実にミクロです。いまふうにいえば「ビミョー(微妙)」ということになりましょう。わずらわしいから、一気にそいつらを切り捨てたいと欲求します。「残念!…切腹!」とね。でも、それが出来ないんですね、切腹しようとする思いすら、そのわずらわしい思いから起こってくるからなんです。まったく「出口なし」ですね。人間は、自分の「思い」という牢獄から逃げることができないんです。どこまで逃げても「思い」の中です。まさに「合わせ鏡」です。合わせ鏡をのぞいて見れば、自分は無限に見えます。どこまでも自分連続して映し出されて、ゾッとします。
 それから、そういうちっぽけなことをマクロの視座から眺めるということも大事だと思うんです。何十億年という時間、あるいは何光年も隔たった惑星から、自分を眺めてみるという視座も大事だと思います。阿弥陀なる時間と距離から、自分を見つめてみるということも、あっていいと思います。そのへんから見てみると、日常なんて、どうでもいいと思えてくるんです。まあ、どっちに転んでも、大差ないしなぁと、ケセラセラになれます。このマクロの感覚も好きな感覚です。「どっちみち人間は死んじゃうのに、なんで生きるんだ?」というような問いはマクロからの問いでしょう。そういう問いを出していても、今晩のご飯何にする?というミクロがあるから救われるんです。身が、身の法則で動いてくれるから、助かるんです。どんなに悩み事があっても、身体は眠らないと生きられません。眠っている間は、少なくとも、その悩み事から解放されています。そして、夜がきて朝がきて、一日が過ぎます。また次の日も、夜がきて朝がきて、次の日が始まります。一日一日は連続しているようで、断絶しながらつながっています。昨日あったことは、「昨日」という過去の戸棚にしまうことができます。そして戸棚がたくさん重なってきて、やがて埋もれていきます。夜と昼とが重なり合って、癒しのベールに包まれます。こういう「身」に引きずられながら、その日その日を生きていきます。
 でも、このミクロの視座とマクロの視座の両方がバランスよく成り立ってほしいものだと、いつも思っています。ミクロだけでも、マクロだけでもダメなんでしょう。両方ないとね。


2004年9月27日
●お経を聞いていると眠くなるのは、なぜ?

 
お経の発声法は、東洋流だと思います。西洋流だと、声帯を開いて、澄んだ音で発生します。しかし、東洋流は、声帯をつぶすようにして、絞って発生します。これは、謡や演歌にも通じる発声法です。以前、テレビでモンゴルのホーミーという発声法をみたことがあります。あの松任谷由実が、現地に行って、ホーミーを体験するという番組でした。ホーミーは、機械で録音しても、正確には録音できないのだそうです。どうしても、機械に録音できない超音波の部分があるからです。実は、ユーミンも、自分の曲を歌っているとき、超音波が出ているらしいのです。それはともかく、ノド・ホーミー、口・ホーミー、胸・ホーミーと、発生する部位によって名づけられます。
 この発声法は、東洋独特のものでしょう。我々が読経しているときにも、超音波が出ているのだと考えて間違いないだろうと思います。この超音波を聞いているとき、人間の頭にはアルファー波という脳波が現われるそうです。アルファー波は、人々のこころを落ち着かせて、安心させる働きをします。この作用が、読経の響きにはあるんですね。
 それで、読経を聞いていると、眠くなるわけです。道徳的に考えると、不謹慎だとか、不真面目だ、あるいは、緊張感がないから眠くなるんだと解釈されてしまいます。しかし、それは、身体を知らない人間の考え方です。身体は、超音波を聞けば、意識が深まり安心し、癒しの作用が現われてくるものなのです。それこそ身体が極正常に反応しているということなのです。ですから、眠くなるのが自然であって、それをとがめてはならないと思います。
 小生くらいに上達してくると、自分で大きな声でお経を読んでいるのに、眠気がやってくるという状態になるんです。こんなことは、普通の生活では体験できません。大きな声を出すということは、覚醒しているときの意識の働きですからね。大きな声が出ているのにも関わらず、眠気がやってくるというのは、超音波のなせる技なんです。
 それは、意識のレベルが通常の段階から、深まってくるわけです。覚醒の段階から睡眠の段階へと降りてくるのです。もう少し深まってくると完全に睡眠に入ってしまいます。しかし、その一歩手前の状態が読経中の意識の状態です。そういう状態のときには、意識はそこにありませんから、ほんの一瞬が長い時間に感じたり、この場所がどこだったのかが曖昧になったりするんです。読経が終わりに近づいて、ようやく最後の鐘が鳴ったときに、この世へ帰ってくるという状態です。
 まわりでお経を聞いているひとは、そんなこころの動きのあることは分からないのでしょう。しかし、これは不思議なことですけど、こっちが緊張していて、意識が深まってこないと聴衆も安心して癒されないのです。かえって、聴衆を忘れ、自分を忘れて、意識の深まりにだけまかせていると、聴衆も安心して、眠りにつくことができるのです。昨日も、読経のあと、聴衆を見渡すと、中に眠っているひとがいました。そんなときには、小生は「やったね!」と思います。起きているひとが多いと、「ザンネン!」と思うんです。
 子どもも大人も、お経は漢文ですから、意味はチンプンカンブンなんです。(これ洒落ですぞ)お経の働きは、意識を超えたところに働きかけるわけです。それだけは信頼できることだと思います。近頃は、「意味が分からなければ無意味だ」という意味原理主義が横行しているようですけど、分かるかどうかは大したことじゃないんです。分からないことのもっている作用を見くびってはダメだと思います。意味が分かって信仰が確立するわけではありませんからね。分からないけど、頭を下げざるをえないというような力が信仰なんでしょう。人間のこころの範囲に領解されるほどにちっぽけなものじゃ、人間は頭を下げることができないんですよね。でも、分からないものに、すべてを預けるということは、実はものすごく人間にとって恐ろしいことなんですけどね。そこに、やっぱり、信仰には勇気が必要なんでしょう。


2004年9月28日
テレビで、二億年先の未来の生き物についての番組をやっていました。いまから二億年も未来には、地球の大陸はひとつにくっついてしまうそうです。そして、広大な砂漠が広がって、そのころには人類は存在していないようです。人類が滅亡するということは、なんともロマンのある話だと思いました。すべてが、存在の故郷である空(クウ)になっちまうからです。
 でも、未来には人類が滅亡するという話を聞いて、エッ!と絶望するひとと、それはよかった…と安心するひとと反応がふたつに別れるのが面白いです。絶望するひとは、恐らく、娑婆が楽しいとか、充実していると感じているひとなんでしょうね。いまの充実感を永遠にこの世に留めておきたいと感じるからでしょうか。小生は、むしろ安心するタイプです。だって、戦争や差別や貧富の差や飢餓や病気が、完全に超越できるんですからね。
 それは恐らく空でしょう。この空というのも、インドのひとが発明した知恵だそうですね。もとのインド語はスーニャといいますね。インド人がゼロを発明したといわれていますけど、それはスーニャということでしょう。「〜ない」ということです。「ない」ということが、存在の古里だよという意味です。物質はすべてスーニャから出てきたわけで、それはまた形が崩れてスーニャに帰っていくという、ただそれだけなんでしょう。
 もともとは、スーニャだと教えてくれるのが仏教の知恵だと思います。永遠の過去も、そして永遠の未来もすべてスーニャだよと。うちには猫が三匹いるんですけど、みなそれぞれ個性があります。どうしても、チビ太(オス)とプチ子(メス)は仲良くしません。出会うとは喧嘩しています。喧嘩しないまでも、必ずお互いに距離を保っていて、つねに相手の動きを監視しています。たまには、無関心を装って近くで寝ているときもあります。
 彼らはどうしてお互いが受け容れがたいものなのか、そんなことはお構いなしです。出会ったときの気分で、反応しています。そこに動いているものは、やっぱりスーニャなんだろうと思います。彼らの内部では、自分ではどうしてみようもないものが蠢いているんでしょう。スーニャの衝動じゃないでしょうか。
 人間は、喧嘩はやめろと仲裁します。やっぱり、喧嘩はしないほうがいいに決まっています。お互いに怪我をしますからね。でも、どうして顔を合わしては喧嘩をするんだろう?テレビなんか見てますと、同居の猫同士、仲良くしている光景をみます。どうして、うちの猫たちは、馬が合わないのだろうか、どうして喧嘩するんだろうと悩みます。でも、悩むのは人間だけで、ご当人たちはそんなことはお構いなしです。そのとき、その場所で、出会った気分で行動します。それはそれで実にあっさりしていて、後々までも引きずることがありません。人間のように恨むということはありません。その場で出会って、バッと喧嘩して、バッと別れてゆきます。あの、クールな対応には、脱帽です。人間以上に、切り替えが早い。いつまでもクヨクヨ悩みません。
 自分でも抑えきれない衝動が生まれてきたら、その衝動に促されて生を爆発させます。しかし、それがおさまったら、後まで引きずらないのです。あの潔さは人間も学ぶべきでしょうね。 猫たちは、どこかでスーニャを体得しているのではないかと思えるほどです。
 人間たちは、そのスーニャを体得するために、日々、生きるのかもしれませんね。本来は、何もないのだということを、こころの奥底で頷くために、生きるのかもしれません。臨終には、ひとは必ず、それを突きつけられるわけですからね。日々の生は、臨終の予行演習なんでしょう。
 有るということが仮の状態であって、無いということが本来の存在の古里なんだということをね。

2004年9月30日
うちの檀家のひとで、猫嫌いのひとがいます。あの、ケムクジャラの肉の固まりに触るが嫌だといいます。触ると、全身毛でおおわれていて、皮膚の感触が伝わってきて、さらに重さがあるのが嫌だといいます。
 確かに、いのちには、どうしても重さが伴います。抱っこしてみると、重さが伝わってきます。あの肉の存在感が嫌なんだそうです。さらに、触ってみると、毛が抜けてフワフワと空中に舞ったり、さらに服についたりします。あれが嫌だというひともいます。
 小生も、これから出かけようかと思っているときに、猫がまとわりついてきたりすると、ちょっと困ります。紺色のスーツに猫の毛がついてしまいますからね。そんなときには側に近づけないように注意します。椅子に座っているときに、膝にポンと飛び乗ってくるときは、猫専用のセーターを敷きます。これさえあれば、いくら膝に乗っても、毛が着きません。そういう方法を思いつくまでには時間がかかりました。それまでは、ズボンなんかに毛がたくさん付いて困りました。
 毛が着くのが嫌だなぁと思っていたときに、膝に乗られると、受け入れたくないという拒否感が涌いてきました。猫の甘えを受け入れたいという自分と、それでも、嫌だなぁと拒否してしまう自分とが葛藤しました。しかし、いつ猫が膝に乗ってきても仕方ないなぁと、諦められるようになってきました。
 毛の付いてしまったズボンをガムテープで剥がすという作業を小生がすればいいだけじゃないかと思い到ったのです。そういうことに気がついたら、いつでも猫を受け入れられるようになったのです。それは、猫の存在を丸ごと受け入れるということが、小生の内奥でできるようになったということでしょう。もう、猫が自分の身体の一部分となったような感覚でもあります。運命共同体といいましょうか、猫が望んできたことには、できるだけ応じてやろうという構えになりました。
 それは、こっちが変わっただけのことであって、当の猫本人は、そんなことにはまったく無頓着で、相変わらずワガママに振舞っています。こっちが、どれだけ愛情を注ごうと、あるいは無視しようと、ネコはそういう感情にはまったく無頓着です。このクールさがたまらなく、いいところです。いつも身悶えしているのは、こっちなんです。いくら相手に愛情を注いでも、返礼としての「感謝」の情はありません。また「もっと愛情を注いでよ」と、しつこくねだるという関わりもしてきません。
 いつでも、感情的には中立です。鍛え上げたプロボクサーのように、いつでもパンチを繰り出せる状態を保っています。アッパーカットを振り回しても、ちゃんとアイドルの状態にもどります。軽くジャブを打っても、またすぐアイドルの状態に戻れます。このアイドルという「中立」の構えがとてもいいです。
 確かに感情が激昂して、家中を駆け回ったり、猫同士で喧嘩したりということもあるんです。でも、そうでないときには、石の固まりのように一日中静かに眠っていることもあるんです。あの、静と動のメリハリが、美しいです。そして、決して、前の日のことを引きずらないんです。実にあっさりと潔いのです。
 ああいうふうになれたらなぁといつも、猫を尊敬しています。人間は、猫以下だと、つねに一目置いて暮しています。「三歩下がって、猫の影を踏まず」です。まあ猫の影を踏むのは、至難の業なんですけどね。

 

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