住職のつぶやき2004/10


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2004年10月1日

 

●今月の言葉●

仏教など
好きで聞けるものではない。
好きで聞くというなら
変態者であろう。
聞くのは怖れである。
自分を否定するのであるから
怖いのは当然である。
       (安田理深先生の言葉)

この言葉が大好きです。この「変態!」というのがね。「仏教が好き!」なんていうのは、変態に決まってるんです。ですから、仏教が流行るわけがないんです。教団が巨大化するときには、なにか恐ろしい要素が混じっているんです。どこまでも、ひとりに帰ってゆける道がなけれ ばダメだと思います。

2004年10月5日
梅雨のように鬱陶しく、寒い日々が続いています。猛暑に慣れた体には、こたえます。寒くなると、慢性の鼻炎が激しくなって、鼻水がとまりません。いつでも季節の変わり目には鼻炎で悩まされます。点鼻薬はナザールの「スプレー」を常備しています。これを365日携帯しています。いままで、パブロンやら、ルルやら、コルゲンなどを使ってみましたが、なかなかピタッとくる薬がありません。アレルギーで敏感になった鼻の粘膜には、強すぎて、痛みを感じるのもあります。いまのところ、ナザールに落ち着いています。それも「スプレー」という薬はなかなか手に入りにくい薬です。
 鼻炎で鼻腔がつまってしまっときに、スプレーすると、やがて腫れがおさまって楽に空気を吸うことができます。しかし、ひどいときには、それでも鼻水が大量に出てくるのです。今日みたいな天気のときには、それでもダメで、とうとう、コンタックの飲み薬の力を借ります。以前、一時販売が停止していましたが、薬の合成を変えたのか、また販売されはじめました。これはきつい薬なのか、小生にはよく効きます。
 ともかくアレルギーの激しいときには、鼻水と鼻づまりとクシャミが連続して起こりますので、もうイライラしてきます。こんなときに読経するのは最悪の状態です。まったく集中力もなんにもあったもんじゃありません。こんな日は、ともかくジッとして、アレルギーがおさまるのを待つだけです。
 人間の身体は自然の一部分ですから、やっぱり影響を受けるんですね。女房も偏頭痛もちで、低気圧から高気圧に急激に気圧が変化するときには、決まって頭痛を引き起こします。最近ではイミグランとかいう薬にめぐり合って、だいぶ対応が楽になったようですが、それまでは、布団にうずくまって、ときどきトイレで戻すというひどい有り様でした。
 ヨーロッパでは、天気予報と病気の予報を同時に流していると聞いたことがあります。気圧がこういう状態のときには頭痛が起きやすいからご注意くださいとかね。日本も、こういうの取り入れてくれないかなぁと思います。天気と患者の罹病傾向はなんらかの因果関係があると思えるんです。
 まだ、いまだかつて生きてみたことのない、明日は、どんな日がやってくるのか?不安と期待が入り交じります。

 

2004年10月6日
突然、ひとは死んでゆくものですね。朝、行ってきます!と家を出て、夕方、戻ってみたら家族が亡くなっていたということが起こるんです。ひとは、「また会いましょう」「さようなら」「じゃあまたね」「バイバイ、またね」という別れの挨拶をします。しかし、「また会える」という保証はないんですね。
 突然、ひとが亡くなると、警察は事件として扱います。たとえ心臓発作で亡くなろうとも、最初は事件として扱います。それは、驚きと悲しみの感情でいっぱいの家族にとっては、こころを土足で踏みにじるような対応です。遺体に触れることすら許されないそうです。それから家族への事情聴取が行われます。さらに遺体は、検死という死因の調査にまわされます。そして、事件性のないことが判明した後に、やっと家族のもとへ帰ってくるのです。家族のこころは、驚愕と悲痛で冷たく凍りついてしまいます。
 何も悪いことはしていないのに、どうしてこんなひどい目に遭わなければならないんだろう…。どうして、こんなになったんだろう。なぜ、体調にあらわれた前兆に気づいてやれなかったんだろう…と、後悔します。愛するひとを失って傷ついているうえに、さらに、自分を責めるような考えに傾斜していくのです。
 人間は、自分でも受け止めることのできないようなカタストロフに出会うと。なぜ?どうして?と問わざるを得ません。べつに、なぜ?どうして?の答えが分かったところで、なにも解決しないことは分かっているんですけど、そう問わざるを得ないんです。
 そして「もし○○だったら」「もし○○していれば」と後から考えてしまうんです。それは、そうしちゃいけないといっても、そう考えてしまうものです。
 でも、なぜ?どうして?には誰もこたえてくれません。そして、悲しみの感情の世界を、あてもなく彷徨うことになります。どこまで彷徨ってもいいのだと思います。悲しみは、つねに悲しいものではありません。ときどき、思い出しては悲しみが襲ってきます。でも、悲しみを忘れている時間もあるんです。悲しみは、波動のような形でやってきます。悲しいときには、悲しい波に押し流されていればいいのです。悲しくないときには、それなりにやりすごしていけばいいのでしょう。
 そして、一日たち、二日たって、やがて、一日一日が地層のように折り重なって、厚みがでてきたときには、以前と違った感情で、そのことが眺められるようになりましょう。
 さらに、自分から死者を眺めることだけに埋没しているのではなく、死者が自分をどう見つめているのかという視線についても思いを馳せたいと思います。逆観ということも、仏教の知恵にはあるんです。逆観なんて、できっこないじゃないか!といわれれば、それまでです。確かにできないのかもしれません。しかし、できないけれども、やってみる価値はあるように思えます。
 いつまでもメソメソと泣き暮らしている姿を、亡くなった仏さんはどうご覧になっているんだろうと逆観してみましょう。いつまでも残されたものを苦しめていると、仏さん自身が苦しんでいるかも知れませんからね。苦しい目にあっても、それでも生きていかなければダメだよと教えてくれているのかもしれません。もっと突っ込んでいえば、お前も必ず死ぬぞ!という強烈な叱咤であるのかもしれません。
 しかし、事実としては、亡くなっているのです。どうしてみようもありません。人間には死者を復活させる力はありません。事実は、そこに存在していないということです。そのことをどのように引き受けるかということしか道はありません。
 やっぱり、亡くなったもの以上に生きている人間の方が苦しみは大きく辛いのでしょうね。それでも、体が自分の所有物ではない以上、縁のあるところまで、生き続けなければならないのでしょう。また今日も朝日が昇り、一日が始まります。昨日の繰り返しではない、一日が。


2004年10月7日
「あれはしてはいけない」「これをしなければいけない」というような考え方は倫理的でしょう。そういう種類のいかなる強制を持たないものが仏教だと思います。そういう強制を持たなくても、おのずから、偏った行為を起こさないような規制がはたらくことを目標としているようです。
 症状に対して対処療法で応じるのではなくて、自然治癒力を高めることによって、体のバランスを病気に偏らないようにするという譬えがいいように思います。どんな行為をとっても、全部、仏さんの手の中だという受容力があるんです。
 よく「仏教には倫理はない」と批判するひとがいます。そんなことはないんです。倫理観はみんな誰でももってるものです。ひとのものを盗らないとか、ひとを殺さないという感覚はみんな身についているものです。ただ、いちいち、ひとのものを盗ってはいけませんよとか、ひとを傷つけてはいけませんよとは言わないだけです。そんなことはみんな分かっていることだから、言ってみても、「分かっていることをいちいち、口うるさく言うんじゃない」ということになります。
 いつの時代にも、いいことを口にするひとは、晴れがましいですね。みんなも称賛します。しかし、その内心では、「そんなの奇麗事じゃないの?」と疑っているこころがあるんです。奇麗事をいえば言うほど、そういう裏腹の感情が涌いてくるもんじゃないでしょうか。
 そういう裏腹の感情も、ゼーンブ吸い取った上で、ひとに優しくできればいいんでしょうけどね。そういう毒を排除して、きれいになってもダメでしょう。どこかで、毒を取りこぼしているんじゃないでしょうか。
 そういう毒も全部吸い上げないと、善が善としてバランスをとれないんでしょう。善と毒とが、混在しているのが人間のこころですから。善と毒とがバランスをとれるようになっていくことが課題ですよね。
 そういえば、このバランス感覚をどういうふうに体得していくかということが、現代人の課題のような気がします。バランスとは「程度」です。人間は、どこまでいっても「程度の生き物」という面があります。この程度なら毒を体に入れても大丈夫ということがあります。強く抱けば相手は苦しいし、優しく抱けば愛の表現になります。熱ければ火傷しますし、冷たければ凍死します。あんまり、かけ離れたファッションじゃ目立ってしまいますし、そうかといって、ひとと同じじゃ嫌なんです。あんまり自分ばかりしゃべり過ぎれば、おしゃべりだと思われますし、黙っていれば、陰気で根暗と思われます。これもことごとく「程度」ですね。丁度いいというのが難しいですね。
 でも、このバランス感覚をどう磨くのかというのが、大事なような気がします。
 「寺を開く」というスローガンで、塀も取っ払って、鍵もかけずにいつでもひとが入れるようにするのもおかしいですし、そうかといって、すべてに施錠し警備会社と防犯装置とテレビカメラで、敵の侵入を撃退するというのもやりすぎのような気がします。所詮、そこに住んでいる人間のこころのバランスの問題でしょう。
 そこに住んでいる人間の気が、どういう状態にあるかということが、家の雰囲気を形作るものです。そうなら、気のバランスも大事なんでしょう。
 そういえば、昨夜のサンマの塩焼きは美味しかったなぁ。そばには大根おろしがバランスよく添えられていなければなりません。あのサンマ、太平洋のどのあたりを泳いでいたんだろう。どの辺で漁船の網につかまったのかなぁ、海のなかで、どんな体験をしていたんだろう。誰かがいってました。「おれっ、サンマの一生を食っちまったんだなぁ…」って。


2004年10月8日
喧嘩をするということ。喧嘩が起こるということ。喧嘩をしてしまうということ。言い合いや、喧嘩までいかなくても、内心に怒りが込み上げるということ。日々生きていると、とても相手の言動が許せないと感じることがある。
 運転をしていて、無理な割り込みをされたり。自分の見ているテレビのチャンネルを勝手にひとが変えてしまったり。いまやろうとしていた仕事を、ひとから、指図されたり。むかっ腹を立てることもあります。
 でも、喧嘩やむかっ腹が立つということは、相手を一人前の人格として尊敬しているからこそ起こるのではないかと思います。相手の尊厳を認めていなければ、怒りは起こってこないものです。たとえば、猫や犬や、自然現象に対して、怒りを感じるひとはあまりいません。今年の夏は台風が日本列島を、いくつも縦断しました。被害も深刻です。しかし、あの台風に対して怒っているひとはいません。先日、猫が足にじゃれついて母が転倒してしまい捻挫しました。そのときは、怒りも起こったそうですが、そういう怒りはサーッと流されていきました。後まで引きずりません。事件というよりも、事故という受け止めになっているようです。
 しかし、こと人間に対して、人間が怒りを感じるときには、ネバネバドロドロとしてきます。それは、相手が自分と同じ人間だからです。つまり、相手を一個の人間存在として認めているからなんです。同じ人間でも、幼児に対しては、大人に対するような怒りは起こりません。おむつを外した途端にオシッコをひっかけられるという経験はよくあります。でも、大人は怒りを感じません。それでも、夜泣きをすると、怒りも起こってきますね。寝ないので抱っこして、ようやく静かに寝入ったので、布団に下ろすと、眼をパチッと開くのです。そして大声で泣きだすのです。こういうことを繰り返していると、幼児が悪魔のように感じられてくるんです。自分を寝かさないで苦しめて愉しんでいる悪魔のように感じられてきます。自分が被害者のように感じられて、加害者である幼児をいじめたくなるんですね。
 それも、やっぱり同じ人間だからなんでしょうね。相手は幼児だから成人ではないのですけれども、幼児に自分の意識を投影してしまうんでしょう。つまり大人の頭の中に、自分でストーリーを作り上げてしまうんですね。「こいつは悪魔だ、何も分からないような顔をしているけれども、本当は悪魔なんだ。悪魔が可愛らしい幼児の仮面をかぶっているだけなんだ。こいつはオレを苦しめようとしているんだ。こいつさえいなければ、オレは助かるんだ。こいつをやっつけるしかない」というストーリーを妄想してしまうんですね。
 話を戻します。
 怒りの感情は、相手を自分と同じ人間として尊敬しているところから起こってくるものだということは間違いないところでしょう。「人間なら、当然このように行動すべきじゃないか。それなのにあなたは、とんでもない行動をとっているじゃないか」という異議申し立てが怒りの感情には包まれているんですね。「親なら当然、子どもを可愛がるべきなのに…」とか「夫婦なら、当然こうしてしかるべきだろう…」とか「人間なら当然、こうすべきだ…」とかね。その大前提に立てている基準からはずれると怒りが込み上げてくるんです。
 車を運転していると、ときたま自分が走っている一方通行道路を逆走してくる車に出会うことがあります。標識を見落としているのか、あるいは、確信犯かのどちらかです。あの時に私たちは、いかにも善を勝ち取ったような顔をして、クラクションをならしたり、ヘッドライトをパッシングさせて、相手の非を自覚させようとします。「ここは一方通行路だから、あんたは、逆走してますぜ。あんたは間違ってますぜ。早くバックして戻りなさい!」という行動をとります。あの時の自分の善人意識が、妙ですね。いかにも自分には善があって、相手には悪があるという態度です。それも、道路交通法という規則を楯にして、自分の善を誇るんですから。まったく、情けないものです。
 「○○なら当然このように行動すべきだ」という基準は、だれがつくっているのでしょうか。果たして、その基準が万人に通用するものなのかどうか。そこが疑わしいところです。自分の基準どおりに相手が従わなければ、相手は愚かな存在であり、自分もしくは自分たちは賢い存在だと考えているんですね。


2004年10月11日
あたま山という、なんとも馬鹿げた話があります。五代目・古今亭志ん生の落語の枕で聞いて、いまでも覚えています。それが、ときどき、フッと思い出されることがあるので、小生のこころの奥底に、ずいぶん深く刻み込まれているもらしいんです。
 うろ覚えなんですけどね。あるところに、とにかくケチな男がいて、この男がサクランボを食べていました。ところが、そのサクランボの種を出すのがもったいないというので、種を飲んじゃうんです。すると、やがて、頭のてっぺんから芽が出てくるんです。芽が出て、だんだんと大きくなって、とうとう、葉をつけてやがて花を咲かせるわけです。すると町内のひとたちが、これは面白いというんで、頭の桜で花見をしようとしてやってくるんです。しかし、これがうるさいといって、怒りだし、男は桜の木を引っこ抜いてしまいます。引っこ抜かれた後には、大きな穴があきました。そこに今度は雨が降ってきて、やがて池ができました。いつの間にか、そこには魚が住み着くようになりました。すると今度は町内の子どもたちがやってきて、その池で釣りを始めて騒ぎます。またまた、その男は、それがうるさいといって悲観します。とうとう、最後には、その池に身を投げて死んでしまったという話です。
 ナンセンスといえば、これほどナンセンスな話もないんですけど、妙に忘れがたい話なんです。頭に、桜の木が生えるというのもナンセンスなんですけど、その穴にできた池に身を投げるというのも、実にナンセンスです。頭にできた穴ならば、自分の身長より小さいはずですから、そこへ身を投げるなんていうことは無理な話です。でも、これが面白いんですね。
 初めは、頭に目がいきます。すると、頭に芽が生えて木になって、それから花が咲き。そこらへんまでいきますと、いままで小さかった頭が大地に見えてきます。大地に桜の木が生えているかのようなイメージが喚起されます。その花で花見をしようとする人間たちもミクロサイズに感じられます。さらに、その側で悲観している男もミクロサイズで見えてきます。とうとう、そこに身を投げる男の姿までイメージできます。
 身を投げたあと、ズーム・アウトしていくと、そこは男の頭だったということに、改めて気がつきます。すると、身を投げた男はいったいどこにいったのだろうと、中刷りにされて放置されたイメージだけが残ってくるのです。
 このミクロコスモスと日常のサイズが交錯するところに、「あたま山」の面白さがあるように思えます。
 日常の意味世界は、がっちりとできあがって、びくともしない構造のように思っていますけど、しかし意味の世界は、そんなにがっちりできあがっているものじゃなくて、アチコチにほころびがあるんですよね。今日も、霊にとりつかれていると訴える女性が、突然訪問されました。霊なんて、見えないじゃないか!と反応するひともいます。あるいは、守護霊と邪悪霊とがあってと、霊の存在を前提に話をするひともいます。霊が有るか無いかが問題じゃないんですね。霊という意味に困っているひとが存在しているということが間違いないところです。日常の意味世界のほころびが、いろんな場面に見つかることが面白いです。
 もともと、私たちの存在自体が、虚無(コム)から出発しているので、そういうほころびと通底してしまうのです。ひとに生まれたいと思ったひとはいないのですから。存在は偶然にもたらされるものですから。人間の意志は、それにはまったく関与していませんからね。その不思議さと同質の不思議さが、日常にはころがっているわけです。
 

2004年10月12日
村上春樹の最新作『アフターダーク』を読んだが、ハッキリ言って、あまり面白くなかった。これは、読み方が浅いせいかもしれませんけど。小生にはあんまりパッとしなかったです。夜中の始まりから、夜明けまでの時間に主人公に起こったことを、時間に沿いながら展開していました。
 恐らく小生が仮死状態で眠っていて、まったく体験することのないような時間帯の出来事であることは間違いないのです。小生は、眠りに入ると、一瞬のうちに深海へ落ち込みます。目が覚めると一気に何百メートルの眠りの深海から浮上して、意識の海面へ飛び出します。まるで、眠りの潜水艦みたいなもんですから、深夜の都市空間を体験することは、まずありません。小生にとっては、ごく短い時間ですけど、夜中を注意深く意識していれば、ものすごく長いものでしょう。それは年令にもよるので、確かに青春期には、「深夜」は友達でしたね。現在では、体験することのできない領域になってしまいました。これは堕落かもしれません。
 深夜の時間を丁寧に、体験しゆけば、これはまた長く深い時間空間が広がっているのだと思います。時計の一秒一秒の秒針が、ただ時間経過の長さではなくて、空間を深く深く潜行していく潜水艦の深度計のようにも感じます。夜と昼の時間空間はガラッと違っています。よくいわれることですけど、夜に書いたラブレターを昼間、読み返してみると、気恥ずかしくなるくらいに情熱的だったりしますよね。ひとは、夜と昼とでは違う生き物にトランジッションするのでしょう。
 主人公が体験する深夜の世界は、しみじみとしています。引きこもるといって、ただ眠りつづけている姉の存在も主人公の無意識を象徴しているように感じました。眠りつづける姉のベッドに、裸になって主人公の妹はスルッと滑り込みます。そして体を寄せて姉と一体になろうとします。主人公が置き忘れてきたものを、貪り求めて一体化しようとしているように見えました。やがて、日が昇り朝がやってきます。そのあたりで小説は終っています。これからどうなるんだろうか?という余韻を残しつつ。しかしそこには、明らかに暖かい一日がやってくるという暗示を残しつつ、静かに終ってゆきます。読んだ後、これは未完じゃないのかと思わせるような終わり方なんですけど、そこに読者自身の中で生まれる夜明けの温もりへ身を任せているような気がします。
 あの『ネジマキトリ・クロニクル』に登場する古井戸が思い出されました。古井戸は、私たちひとりひとりの中にある、無意識の領域を象徴しているように思いました。そこへ入ってしまえば、外界と遮断できる。そこは静かに冷たくてひとりになれる空間です。そこにずっと入っていたい。でも、時々はそこから出て外界を徘徊したい。でも、そこは自分のたましいの安らぐ慰安のポイントでもある。
 この闇の空間から抜け出ていくという、まさに『アフターダーク』という名のとおりの、黎明を感じるのでありました。
 村上さんが感じている、このアフターダークは、ひとという存在を通して、さらに時代という存在のアフターダークも暗示しているように感じさせられました。やっぱり、夜も大好きですけれども、人間は昼間をも生きる存在ですからね。どちらが欠けてもダメなんでしょう。昼は秩序や規則や平和や平等の空間です。夜は、無秩序や怠惰やエログロや争いや欲望の空間です。この両義的な空間を生きるのがひとというもんじゃないでしょうか。どんなに可憐な花でも、その根っこは、真っ暗でじめじめした場所から養分を吸収しているのですからね。


2004年10月14日
集団自殺について思うこと。
 車に練炭を持ち込んで、みんなで自殺するということは、どういうことなんでしょうか。最初、ニュースでその事件を聞いたときには、小さなショックを受けました。相次いで、同じような事件が起こっていると聞いて、またまた小さなショックを受けました。
 その次に感じたことは、そういうことが起こったとしても、さほど不思議でもないなぁという感覚でした。最初、ニュースを聞いたときのショックは和らいで、「どうして…?」という思いとともに、次にやってきた感覚が「さもありなん」という感覚でした。いまの時代は、もう、なんでもありの状態ですからね。
 ちょっとギョッとする事件が起こって、多少のショックは受けるんですけれども、その次には、「そういうことが起こってもおかしくない時代だよなぁ…」と受け入れているんです。なんでもありの状態ということは、こころが、無秩序な状態になっているということでもあります。まさに混沌としているんでしょう。社会現象が混沌としているということは、現代人のこころが混沌としているといってもいいのでしょう。ですから、ギョッとして、次の瞬間には、その出来事を受容しているという有り様です。
 それは、人間はだれでも必ず死ぬわけですから、自殺しなくても、人間は死を逃れられないわけです。そんなに、急いで行かなくてもいいじゃないかとも思います。しかし、自殺志願者は、死と生との壁がものすごく薄っぺらになっているんでしょうね。暖簾かカーテンのように、ぺらっとめくれば、すぐそこに死があるんでしょう。そりゃ、長生きしていたって、これから先、あんまりいいこともないみたいだし、暗澹とした気分になっちゃうから、そんなことなら、いっその事、この世からヒュードロするかと考えちゃうんでしょうね。そういう気分は、ものすごくよく分かります。
 死より生の方が絶対にいいんだと言い切れないものが小生の中にもあります。辛うじて今日も一日生きているわけで、ちょっとしかきっかけで、すぐ死の壁を超えてしまうということもありえるわけです。それはそうなんですけれど、やっぱり死ぬこともできないで、生きているわけでしょう。
 生の方が絶対に死より重たいんだと言えないところがあるんですけど、でも、やっぱり生の方に重心があるんです。どうしても、この世に停まりたいという方が強いんです。もっとこの世のエロスを味わいたいということがあるんです。自殺志願者は、もはやこの世になんのエロスも感じないんでしょうね。
 心の奥底で、生の重心が死より生を選ぶというふうにはできていないように感じます。養老さんが言ったのか、「現代は脳化社会」ですね。身体性以上に脳が肥大にこの世を支配する段階に入ってきています。森岡正博さんは「現代は無痛文明」だといってますね。身体的な飢えや渇き、エロスの欲求、そういった身体性が、ほとんど切れ落とされてしまい、すべてが脳の内部に収められてしまうという。それは脳が快適に暮らせるわけですけど、苦が抹殺されます。苦というのは、ないほうがいいんです。文明は、苦を排除することを焦眉の急としてきました。快適性を追究してここまできました。しかし、今度は、苦を感じるこころの機構そのものが人間から排除されることになったのでしょう。
 自分の過去を振り返れば、苦がどれほど、人生のスパイスとして作用してきたかが分かります。苦のない生活は、人間の生活じゃないといってもいいんでしょう。苦は「苦しみ」であると同時に「苦み」という味わいでもあるんです。こういった苦の味わい方を取り戻していかなきゃならないんでしょうね。
 以前、霊泉に入ったことがあります。霊泉といっても、ひと肌程度の温度で、長時間入っていることができます。小生はそのお風呂の中で大の字に寝てしまったのです。よく溺れずに、大の字で眠れるなぁとあとになって思いました。まるで、ひとからみれば、土左衛門みたいな感じだったのではないかと思います。しかし、風呂からあがろうとしたとき、物凄い重力を感じたのです。それは自分の体重の重さです。この世にこれだけの身体をもって存在しているということは、重力という重さを感じながら生きているんですね。重力も生き物にとっては圧迫なんでしょうけど、この身体を引きずりながら、この世に停まることが大事だと思います。
 自己の身体は、自己の所有物じゃありません。三十代遡れば、十億七千万人の先祖のものでもあるんでしょう。身体は脳の所有物じゃないんです。


2004年10月15日
NHKテレビ「ご近所の底力」でお墓の問題を取り上げていました。中で面白かったのは、樹木葬ですね。木の根っこに散骨するという岩手県のお寺の映像でした。ひと山全体を、このお寺が所有していて、その山を墓所と決めています。山にはいろんな木々があって、どこにでも自由に骨を埋められるようになっていました。石よりもこれのほうがいいなぁと感じました。
 でも、それに反対のひとたちは、近くにお墓がないと、故人を忍ぶことができなくて寂しいというものでした。庭先に奥さんの骨を散骨しているかたもいました。これなら側にいつでも妻がいると感じられるというわけです。
 どうしても、お墓は生きている人間の事情によって左右されますから、故人のための墓というよりも、生者のためのものという意味合いが強いわけです。どこに撒かれても、地球がお墓だというくらいの感覚になればいいんでしょうけどね。
 生者が死者の存在をどのようにイメージするかということが、問題なんでしょうね。結局は生者のアイデンティティの問題の反映が、象徴的に「お墓」に表われてくるのでしょう。ですから、どのような形でもいいわけです。これでなきゃならんというようなものは象徴にはならないでしょう。まして、「正しいお墓のあり方」なんていうものはないに違いないんです。
 生きているものは弱いですから、やっぱり何かにすがったりして生きていくわけです。いろんなものにすがって生きていくわけです。たくさんの雑多なものにすがってね。
 

2004年10月18日
●「
つまずいたって いいじゃないか 人間だもの」という相田みつをさんの詩があります。これは人間のどうしようもなさを全面肯定した表白です。それを敷衍すれば、「差別したっていいじゃないか、人間だもの」「ひとを殺したっていいじゃないか、人間だもの」となります。人間の所業すべてを、全面肯定する以外に、この論理は成り立ちません。
 でも、そんなことをいったら、人間社会は成り立たないじゃないかという批判も、当然想起できます。でも、全面肯定しか、人間が、その底からおのずから立ち上がってくる場所はないのだと思います。人間の考えや、体の中から出てくる、どんなささいな毒でも、すべてが肯定されるということ、それが人間が「生きる」ということの根底には、実に大事だと思います。その根底のところから、相田さんの言葉は出てきているのだと思われます。
 その全面肯定感覚が、この言葉の底を流れているトーンです。そのトーンに共鳴することで、ひとのこころは、癒されていくのだと思います。
 でも、その裏をかくこともできるんです。「差別したっていいじゃないか、人間だもの」という言葉を本当に理解したひとは差別をすることができないんだという裏です。「ひとを殺したっていいじゃないか、人間だもの」という論理の裏も、同じです。その意味の視角を得たひとは、人殺しはしないものだという裏です。
 でも、それが、裏の論理として作用してしまったとき、ひとを癒す力はなくなって、かえって恨みごころが倍増してしまうことでしょう。ですから、裏がない表現じゃないとダメなんでしょう。
 それは、全面肯定の地平が、本当に裏のない。つまり、人間の表層の倫理に還元できないようになっていないとダメなんだと思います。親鸞が「悪人成仏」というときの、悪人という表現は、おそらく全面肯定されたところから出てきた言葉だと思われます。ひとは、条件的な肯定では、根底的に癒されません。つまり、「いい子だから…」とか「いい社員だから…」とか、「かっこいいから…」とか、「勉強がよくできるから…」とか、「お金持ちだから…」とか、「優しいから…」とか、「私のことを大事にしてくれるから…」とか、「健康だから…」とか、様々な条件で肯定されて受け入れられたのでは、根底は癒されません。
 児玉暁洋先生の結婚式のスピーチを思い出しました。新郎新婦にこういうのだそうです。「もし彼女が可愛いから結婚を決めたということであれば、可愛くなくなったら、別れるということです。もし、彼氏がかっこういいから結婚したというのであれば、かっこう悪くなったら別れるということを暗に語っているのです…」と。こんなスピーチは、児玉先生じゃないければできないと思います。小生にはとても無理です。真似はできません。
 先生がいうのは、条件付きの愛の不純性です。でもこれも矛盾しているんです。人間には条件付きの愛しかないからです。恋愛の最小限の条件は、「私を好きになってくれたから、あなたを愛します」というものです。エゴイズムという条件が介在しない愛は成り立ちません。もしあるとするならば、それは「永遠」とか「如来」というものをもってこなければ成り立ちません。「永遠」は、私たちが愛そうと愛せまいと、向こうが片思いで私のことを全面肯定しようというものです。片思いしか純粋な愛はありません。人間の片思いは、悲壮です。如来の片思いは、絶対なのでしょう。


2004年10月19日
先日の「生きがい教室」のグループ・トークのときに、こんなお話を聞きました。「以前、仏教のお話を聞いたとき、分かった!と思ったんです。でも、それを先生に、こんなことが分かりましたと話したち、先生は、分かったということは、まだ分かっていない証拠だ」とおっしゃったそうだ。「仏教は難しいです。」と。
 小生は、そのお話を聞いていて、ちょっと腹が立ちました。何に対して腹を立てたかといいますと、その先生の応答にです。仏教の受け止め方は、ひとそれぞれでいいとう思うからです。そのひとが、仏法を聞いて、何かが分かった!と感動しているときには、まず一緒に共感するという態度が必要だと思いました。どんな些細なことでも、自分の生活に引き当てて、いままで分からなかった仏教が、「あーっそうか、このことをいっていたんだ…」と合点がいくという体験は嬉しいものです。
 たとえば、新聞の三面記事を読んで、最初は殺人事件の犯人に怒りを感じていたけれども、親子喧嘩で、ひとを殺してしまうような動機なら、自分の内面にもあるよなぁと、受け止められたとき、「そうか、悪人というのは、そういうことだったのか…いままで、悪人は自分以外のひとだと思っていたけれども、自分自身の内面に潜んでいるものだったんだ…、それを歎異抄が教えていてくれたんだ」と分かるということがあります。そのときには、感動が起こります。
 仏教語が自分の内面を言い当ててくれたときには、始めて仏教が、そのひとに生きてくるわけです。そのとき、「分かった!」と感じるのは当然のことです。その感動は、みんなと分かち合いたい感動です。
 それなのに、「分かったということは、全然分かっていないことだよ」なんて反応する必要はないんです。それこそ思い上がりじゃないかと感じました。それは理屈でしょう。そういう「分かった」という体験を何度も繰り返すことによって、少しずつ何かが分かっていくものだと思います。仏法は、一度分かっても、すぐに分からなくなるんです。別に、人間が、「分かったということは、分かっていない証拠だ」なんていわなくてもいいんです。「分かった」という体験は、やがて、日常生活の中に埋没していくんです。それが日常の大事なはたらきなんです。特別なことを、平均化して「当たり前」に変えてゆくのが「日常」のもっているすごさです。
 歎異抄第9条で、唯円は、その問題を語っています。念仏しても、べつに感動も起こらないのはどうしてなんだろう?という疑問です。念仏もパワーのある記号ですから、一生懸命称えたりしていると、特殊な体験をしてしまうこともあるんです。唯円も、そういう体験を経ているわけです。念仏はすごいもんだぞ!と教えられれば教えられるほど、それに対する感動も大きなものでなければならないと人間は考えてしまうんです。
 でも、日常は、念仏の特殊な体験を平均化してゆき、「当たり前」に変えてしまいます。無感動にしてゆくわけです。しかし、唯円は、それじゃダメなんじゃないかと考えているんです。やっぱり、ものすごい念仏であれば、感動したり、躍り上がったりする反応が起こらないのはウソじゃないかと考えているんです。でも、師匠の親鸞に尋ねると、「おれも同じだよ」と応えるんです。
 つまり、念仏して特殊な体験をすることもあるし、またそんなものは、色あせて日常に飲み込まれてしまうこともあるんだよ。だから全然心配いらないよというわけです。だって、特殊な体験をさせてくれるのも、またそれが当たり前の日常に変化させてしまうのも、向こうが決める問題で、こっちの責任じゃないからねと考えているんです。
 自分が主体じゃなくて、向こうが主体になっているんです。主客が逆転しています。そして、やっぱり、不思議な念仏の意味を、今日も尋ねているわけです。親鸞は「仏智不思議を信ずべし」とか、「仏智不思議を疑えば」といって、疑うのも信ずるのも「不思議」なんです。信じたから不思議じゃなくなったとは言っていないんです。人間が分かったというようなことでは、不思議になりません。どこまでも、不思議です。でもそれだから、どこまでも尋ねてゆける楽しみがあるんです。不思議は、いつまで舐めても溶けてなくならない飴玉のような気がします。舐めていると、いろんな味を出してくれる飴玉です。
一度舐めたら、それで飽きてしまうような飴玉じゃありません。どこまでも、舐めていたい。そういう味わいをもたらしてくれる不思議な飴玉なんです。これこそ、「仏法味」というやつでしょうね。
 これで完全に仏法が分かった!と悟りを開いてしまった、そのときは、仏さんと絶縁だと思っていたほうがいいと思います。


2004年10月20日
僧侶は、愛するひとを失った方たちのお話を、間近で聞くことができます。ひとには言えないようなお話をたくさん聞くことができます。当然、守秘義務がありますし、安心してご家族はお話になります。
 その方が亡くなるまでの過ごし方や、病気との関わりや、その中で語られた尊い言葉を教えていただくこともあります。その言葉をお聞きするのが楽しみというと、語弊がありますが、とても、大事なお話をしてくれていると、いつも心を動かされます。どんな方でも、身内を亡くされた方のお話は、重みと深みのある言葉なんです。最愛のご家族を失われたとき、遺されたものに、どのようなプレゼントをしていったのかが、それでよく分かります。プレゼントといっても、物ではありません。その方が生きておられたときの、面影や、一個の人間がこの世を去っていくときの凄味のようなものです。
 先日も、ご自分のガンを知りつつ、半年の時間を生きられ、「自分はもと居た場所に、戻って行くんだから、全然怖くはないよ…」と語っておられたご主人のお話を伺いました。このお言葉を奥様からお伺いして、感動すら覚えました。この「もと居た場所」という言葉は、どこから想起されたものでしょうか。その方は、別段宗教に関心をもっておられたかたでもないそうです。ですから、その方のこころの内奥の場所から、本能的にそういう観念が生まれてきたとしか思えないのです。
 これは、やはり本能的な観念なんでしょうか。私もお通夜のお話では、「お浄土は、私たちがもと居た場所で、そこから何十億年をかけて人間となり、この世を去って、また再び、もと居た場所へ帰るのです」というようなお話をします。これはお経とは違った表現です。阿弥陀経には、お浄土はここから西方十万億土にあるんだと出ていますよね。私たちがまだ一度も訪れた場所ではないという意味なんでしょう。だから、この苦しみの人間界を超越して、お浄土へ往生しようというテーマが生まれてくるわけです。そこでのメインテーマは、「浄土へ行く」ということです。決して「浄土へ帰る」というテーマではありません。
 「浄土へ行く」というテーマであれば、そのための条件が必要となります。そのためには、しっかりした信仰がなければダメだと布教してきました。何の問題関心もなければ、素晴らしい浄土へ行くことなどできないじゃないかというわけです。
 しかし、そのしっかりした信仰とはだれが判定するのかという問題が出てきます。でも、そんなものを決めるひとはいないのでしょう。また、そんなものは決められないのだと思います。
 こういうのはどうでしょう。浄土へ帰るというテーマには信仰もへったくれも条件とはしないと。みんな、死ねば浄土へ帰るのだというテーマを受け入れちゃえばいいんじゃないかと思います。虫も犬も、人間も、生き物は、全部お浄土へ自動的に帰るようになっているという受け止め方はどうでしょう。敵も味方も、全員がお浄土へ帰るわけです。何億年もたてば、この地球は消滅するわけですから。地球丸ごと、お浄土へ帰るというのはどうでしょう。
 そのお浄土は、存在の故郷とでもいえましょうか。いわば「無」というやつです。無というところから、存在が発生してくるわけですよね。無から存在が発生して、やがてふたたび無へ帰るというのは、いいテーマだと思いますけどね。まあこれは、神話ですよ。「実存神話」とでもいえるものです。
 自分がなぜ存在し、この存在はどこへいくのかといえば、現代では「死」で終わりということになっています。そこで終わらせないというのが「実存神話」です。そこからふたたび存在の故郷へ帰るのだという神話です。自分の存在をズーッと延長させ考えてゆけば、そういう神話がなければなりません。そして、世界には、そういう神話を信じて暮しているひとの方が圧倒的に多いのではないかと想像します。日本は、そういう神話を信じられなくなっているんですね。
 まして東京じゃ、星空も奪われているのですから、物語が生まれることもないのでしょう。でも、自分の生き死にに関しての「実存神話」は、あったほうがいいと思います。そうしないと、「死」ですべてが断絶されてしまいます。生と死を丸ごと飲み込めるような、「実存神話」必要なんです。

2004年10月22日
関西と関東。
これは、日本人にとって、そんなに大きなテーマなんでしょうか。小生が、京都に生活していたときに、見ず知らずの人間に出身地を教えると、たまに東京の批判を受けました。別に、小生は、関西に対して何とも思っていなかったんですけど、あんまり、批判されるので、かえってアレルギーになってしまったことを思い出します。
 たとえば、「おまはん、『くだらない』という言葉の語源しってはりますか〜?それは上方(かみがた)から、材木が関東へ下っていって、これ以上下りようがないから、『くだらない』という言葉が生まれてはりましたんよ〜」、みたいに言われて、ものすごく関東をバカにされたような気がして、かえってあらがってしまいました。
 そうかと思うと、「あのなぁ〜、巨人阪神てな言葉あらしまへんねん。阪神巨人ていいまんねん」なんて言われると、これまたカチンときてしまいました。
 やっぱり、都を東京に奪われたという、劣等感が関西のひとの潜在的無意識に潜んでいて、そういうアンチテーゼを発するのでしょうか。それは、子どもにいたってまで、継承されているような気がします。
 いまの東京の皇居にしても、あれは、江戸城ですから、皇居として相応しいものかどうか考え直したほうがいいようにも思います。我々は、無前提に、江戸城を「皇居」と見なしていますけど、ほんとうにあれでいいんでしょうかねえ。あれは徳川家という武士の築いた住まいですからね。あれじゃ、武士の家に仮住まいしているようです。
 果たして「天皇」とは、何なのかをいろいろと考えてみるというのもいいんじゃないかと思います。
 いわゆる、日本人のアイデンティティの問題として、考えてみたい問題ですね。自分が自分として存在している意味をどう考えるのかという問題ですね。
 いまの住居表示が、すべて天皇の住居の方向が一丁目で、それから離れるに従って数が増えていくという問題まで含めて、考えてみたいと思います。
 たとえば、海外に行ったときには、自分は「日本人」というアイデンティティで存在を確保しているわけですけど、そういうものが曖昧になったときに、どう自分のアイデンティティを成り立たせるのか?
 これは、フランクルに学ぶことが多いと思います。『それでも人生にイエスという』(みすず書房)なんか見ていると、やっぱり「回向」ということが、暗示されているように思うんです。民族や性別を超えてある真実は、人間が構築できるものではなく、「向こうから」見つめられてくる視線によって成り立つように思います。人間が、自分の経験や知識などで、「オレはオレだ!」と立つ瀬を設けても、それはやがて流されてしまうアイデンティティでしょう。あらゆる人間の属性が、はぎ取られて、それでも尚且つ「オレはオレだ!」といえる根拠は、人間の内側からは、作り出せないのでしょう。
 無といいましょうか、永遠といいましょうか、そういう視線から見つめられているということだけが、人間に真実を語りかけてくるのだと思います。
 河合隼雄さんが、あれだ人間のこころについて、いろんな書物を書いているのに、それでも「人間のこころなんか分かったもんじゃない」とおっしゃる、おっしゃり方がいいです。どこまでいっても「分かったもんじゃない」という姿勢が、あって初めて無限の創造性に結びついてくるのでしょう。
 どれほど、こころについて表現しても、こころ自身から、「そんなことで人間のこころが分かったと思うなよ」と、おどされているようです。それが永遠からの視線の凄味でしょうね。


2004年10月23日
親鸞は、門弟宛の手紙に対して、どうしてあそこまで、「如来と等しい」ということを強調したのでしょうか。手紙は、臨床の極致ですから、相手の問いや問題を受け止めたうえで親鸞が応答しているので、その応答から、門弟の問いを想像していくしかありません。
 そこから見えてきたのは、門弟たちの信仰が、「自己卑下」になっていたということではないでしょうか。いわゆる、凡夫は、知恵も浅く、煩悩が盛んに起こっている愚か者であるという自己評価です。親鸞は、自分は愚か者だと表現していますし、愚か者が往生する道が浄土教だと表現しています。ですから、それを聞いた門弟は、自己の愚かさを自覚していくわけです。 自分の内面を内省してみれば、知識も乏しく、記憶力はもっとダメで、少しのことで腹を立てたり、笑ったり、泣いたりしている、どうしようもないものだと分かります。そのどうしようもないものを、救って下さるのが阿弥陀さんだと考えます。
 それは、親鸞が表現した浄土教の考え方と似ています。しかし似て非なるものでしょう。自己反省で、自己評価して、自己をダメなやつだと劣等評価して「愚か者」といっているだけですからね。そこには、阿弥陀さんの評価は入ってこないのです。「見る自己」が「見られる自己」を評価しているに過ぎません。そこには仏の視線はありません。ということは、無仏ということでしょう。一見、仏教徒のような顔をしていますけれども、「仏無し」ということになってしまっています。
 ですから、自己卑下と親鸞のいう愚か者ということは違うのでしょう。その違いが門弟には見えなかったのだと思います。もし門弟のいう自己卑下であれば、信仰による自律ということはありえません。自己卑下すればするほど、阿弥陀さんの救いに叶うというねじれた浄土教になってしまいます。
 そういうねじれた浄土教と、自分のいう浄土教は違うんだという意味で親鸞は「如来と等しい」という表現をしたのではないかと想像します。
 しかし、この「如来と等しい」という表現も、人間の内面に取り込まれてしまえば、今度は優越意識に変質してゆきますよね。いままで劣等意識で生きてきたものが、逆転して優越意識へと変質してゆきます。劣等意識も優越意識も同じこころの裏表でしょう。
 自分の狭い内面の世界ですべてを評価して、喜んだり悲しんだりしているに過ぎないという絶対的な相対化がなければならないのでしょう。自己卑下しては悲しみ、優越感に立って喜んでみたりしている、井の中の蛙であったという相対化がなければなりません。そこに、「仏」とか「如来」という言葉で暗示されてくる永遠の視線が、逆照現象として起こってくるわけです。
 それは、つまり人間の評価を絶対の基準としないということです。人間の価値評価にいつでも「?」を付すことができるということです。さらに、人間は自己を評価することは、不可能であるという「?」です。それを親鸞は象徴的に「光」という言葉で語ってくるのだと思います。
 自己の内面の評価を基準としないということは、自己意識からの解放であります。「縛るものなくして、縛られていた。まるで、蚕が自分の糸で自分をグルグル巻きにしているようなものだ」という曇鸞の隠喩がシミジミと想起されてきました。


2004年10月25日
浄土現在化の問題
 10月23日に午後六時に起こった「新潟地震」。東京でも震度3程度は揺れたらしいです。そういう小生は、京都にいたので、まったく知りませんでした。居酒屋のおじさん(あんどう・先斗町[四条上がる西入る])から、「新潟で大きな地震があったらしいおすえ…」という言葉を聞いて、東京の自宅へ携帯電話をしました。しかし、「ただいま、混み合っていて…」というメッセージでつながらないのです。それで、店の固定電話から、自宅へ電話して初めて、地震の情報を得ることができました。翌日子どもに電話して、「幸いに私たちは、非難していたから、助かったよ…」と冗談を言ったら、「いやいやいやいや、そういうことじゃないから…」と諭されました。
 それから、死者のニュースやら、家屋の倒壊やら、新幹線の脱線やらと、たくさんの悲惨なニュースを耳にしました。小生の縁者は、上越市に多かったので、被害は差程ではありませんでした。しかし、この自然の驚異は、まさに、人間に突きつけられたカタストロフですね。どこにも、加害者の特定できない惨事です。現代では、加害者のいない惨事には慣れていませんので、途端に、暗澹とした気持ちになるようです。現代社会は、加害者を特定しなければ、こころの落ち着きを失う社会ですらかね。
 まさに、大地も生き物であることを、まざまざと知らされる地震でした。
 それにしても、惨事のニュースが、やたらとテレビで流されるので、だんだん、見るのが嫌になってきました。というのも、災害に遭われた方々は、とてつもない惨事なのに、それをテレビで見ている私たちは、ご飯を食べながらなんですから、とても、申し訳なくて見ていられませんでした。
 それでも、テレビを見ている自分がいるんです。どういう気持ちで見ているのか、自問自答しながらね。
 昨日、NHKテレビで、中国の現状について、やっていました。臨海部の高度に発展した富裕層と、中央部の貧困層の問題をどうするのか?というテーマでした。貧困層の人々の暮しが、いまの新潟の人々の暮らしとオーバーラップしてきました。食うのにも事欠くし、風呂にも入れないし、寝るのも大変ということです。中国の人々には、当たり前の日常でも、新潟の人々には、青天の霹靂です。日本の経済情況と中国のそれとは違いますからね。
 いまの日本は、まさにお経に書かれている浄土の生活そのものです。お風呂に入って、冷たければお湯を沸かし、暑ければ水を入れて適温にすることができます。これは、お経に書かれていることです。つまり、日本人の生活は、まさにお浄土の生活なんです。そのお浄土の生活というのも、何千年も昔の人々が描いたイメージの世界ですから、貪欲に汚れた描きかたをされているのです。しかし日本は、そういう古代インドの人々のうらやむ生活であるのは間違いありません。
 GDP世界第二位の日本だからこそ、お浄土の生活ができるわけです。そのお浄土生活が、一気に崩壊させられたのですから、これは、大変なことです。1995年の阪神大震災でもそうでしたね。人間の築いたものが、すべて根こそぎ廢頽たせられるということを見せられました。どこにも安住や安心の場所はないということを教えられました。
 人間が、信頼してきたものは、「大地」でした。武田信玄でも、「動かざること、山のごとし」といって、大地は動かないものだという前提でした。しかし、動くものであって、決して流動しないものはないのです。
 すべて、人間が築いてきたものは、すべて崩壊する可能性をもっていることを教えいます。 すべてのものが、崩壊しても、なおそのあとに残るものはなにか?それが試されているように思います。家族も、家も、財産も、地位も、名誉も、名前も、すべて失っても、なおそのあとに残るものは何か?と問われているよう気がしました。
 

2004年10月26日
先日、筑波大学の先生にインタビューをしました。やがて、真宗大谷派の官報であります『真宗』に、その内容が掲載されることになっています。その先生は、ご自分が病気になったことがきっかけで歎異抄に深く心酔されるようになったと語っておられました。
 そのインタビューの中で、親鸞のいう悪とは「存在論的悪」とおっしゃっていました。つまり、何かをしたから悪人というわけではなくて、私たちが人間として、ここに存在していること自体が悪なのだというわけです。学生たちには、このように語るそうです。「君たちがそこにいれば、他のひとは、君たちの場所には存在することができないだろう。君たちは筑波大学に合格することで、他者を押し退けてきたじゃないか。君たちの存在そのものが、他者を排除することで成り立っているのだ」と語るのだそうです。
 一個の人間が存在するためには、他の生き物を殺すとか、二酸化炭素を吐き出すとか、他者を犠牲にするということなしには成り立たないのだというわけです。だから、親鸞の悪は「存在論的悪」なのだと語られました。
 小生も、そのことに賛同しないわけではないのです。確かにそうだなぁと思うのです。しかし、何かが足りないなぁと感じていたのです。親鸞のいう「悪」とは、それだけなのだろうかと。親鸞の語る悪は、もっと透明度があるように感じられるのです。透明度という表現がどうなのか分かりませんけど、もっと闇が深いのかもしれません。
 それは宇宙空間のイメージなんです。これも、小生は宇宙に行ったことがないのですから、本当のことは分かりません。ただ『二千一年宇宙の旅』とか、『スターウオーズ』という映画の映像や、スペースシャトルから、テレビを通して報ぜられる映像で想像しているだけなんですけどね。しかしあの透明度のある闇が素敵に感じられるんです。塵ひとつないような透明度、どこまでも深い闇。闇が純度をあげていくと、やがて透明というものに変化してゆきます。でもそれは、濁っているのではなく、透明すぎて光を通してしまう闇です。普通の闇はひかりを遮る闇でしょう。しかし、ひかりを通すのが宇宙の闇です。ひかりは対象物にぶつかって、初めてひかりとして存在するのです。対象物という塵に当たることがなければひかりにもなりません。その意味で、本当の闇はひかりと共存するのです。
 まあ、そんな透明度のある闇が親鸞のいう悪・悪人というものではないかと受け止めているわけです。何が透明度を濁らしているのかと考えてみました。それは、やっぱり、人間の解釈なのではないかと思います。「○○だから悪なのだ」「かくかくしかじかの理由で悪人なんだ」というとき、一応の理解はいくのです。しかし、それだけでは、漏れてしまうのです。それは悪や悪人のごく一部分であって、ほとんど表現できていないという不全感です。
 つまり人間の解釈した悪や悪人は、あくまで人間の価値基準の範囲内でしかないのです。その範囲内で、すべてを覆い尽くすことは不可能です。そこには、親鸞が隠喩として語る「ひかり」というものの視線が入ってこなければなりません。その「ひかり」というものから、見いだされたところに、悪や悪人があるのでしょう。そこにいたって初めて、透明感のある悪・悪人になるように思います。
 ですから、人間が、そして親鸞が「悪・悪人」と表現するとき、それはごく一部分を言い当てているに過ぎません。パーセントで表すことは不可能なのですけれども、一パーセントくらいしか表現していません。九十九パーセントは表現できていません。おそらく親鸞も、そういう限界を感じていたのではないかと思います。
 親鸞は、自己の内部に全衆生を体験し、<いま>という時に、全時間を体験しようとしていたのだと思います。実存の広さと深さを<いま>突き止めようとしました。ロランバルトに『零度のエクリチュール』というものがありますが、まさに「零度の実存」というものを突き止めようとしたのが、親鸞だと思います。これはとてつもない貪欲さです。いま・ここ・わたしというところに、実存の零度を獲得しようとしています。実存の磔です。「なぜ」とか「どうしたら」とか、そういう一切の人間から生まれてくる問いを一刀両断にブッタギッテくれます。グーの音も出ないようにさせられます。そういう凄味があります。
 ですから、親鸞が悪人とか悪と表現しているのは、月明かりのようなもんです。親鸞自身の実存の深みから出てくる言葉ではなく、太陽の反射光がそういわせているわけです。親鸞は太陽のひかりから、射抜かれて、それが乱反射したところに、「悪」とか「悪人」という言葉で、表現せざるを得なかっただけです。決して、親鸞の内部から出てきた表現ではないと思います。いや、親鸞の実存の深みと太陽のひかりの強さの合作だといってもいいのでしょうか。
 だから、親鸞に、「あなたのいう悪人とはどんな意味ですか?」と聞いたならば、おそらく、下を向いて何も応えないのではないかと思います。それは思い余って、つい口をついて出てしまった吐息であって、大衆に向かって公然と表現するような何ものでもないというのではないでしょうか。
 それだから、あの「悪人・悪」という言葉が、透明度を深めてくるのでしょう。それだから、私たちに向かって魅力を投げかけてくる言葉として、永遠に輝いているのでしょう。


2004年10月27日
「そりゃ〜自己満足じゃねぇかぁ…」という野次が聞こえる。「なんのかんの言ったって、結局、そりゃぁ〜自己満足だよ…」と。
 でも、その批判を受けて、「自己満足がなけりゃ、何にも始まないぜよ〜」という開き直りもあります。自己がほんとうに満足しなけりゃ、全部、自己犠牲ということになりますからね。だから、自己満足大いに結構ということがなけりゃダメなんでしょう。
 なんだか、最近じゃ、自己満足は罪悪だ!みたいなことを大前提にしている節があって、これは困った偽善がまかり通っているなぁと感じています。それは、政治だろうと、金融だろうと、サービスだろうと、なんだろうと、どこかで、自己満足の味がなけりゃ、それはウソというもんではないでしょうか。
 でも、その自己満足が、結果的には他者の利益につながっているという面がありますのでね。それは、結果的につながっていればいいのであって、他者の利益を全面に押し出してしまえば、どうしても偽善ということになりかねませんね。
 大乗仏教の課題は、菩薩の課題であって、「自利利他円満」ということが、命題なんです。でも、自分が救われてから、他者を救うというような段階論はダメなんでしょう。自分と他人を分けて考えること自体が、虚偽なんだと思います。自分の内部に他者をたくさん潜ませていないとダメなんでしょう。
 「自分」という観念が粉砕してしまい、自分の内面が社会だというくらいにめくられていないとダメなんだと思います。でも、実際には、そういう精神生活をしているわけです。「自分」だ「自分の考えだ」と思っていても、それは何がしかの洗脳によって、そう思わされているだけのことが多いわけです。自己と社会は融通していて、区別がつかないようになっているわけです。


2004年10月29日
ひとには、結果しか、知らされないのかもしれない
 今回の中越地震で、たくさんの方々が亡くなりました。台風二十三号もそうでしたけど、天災は、被災者の怒りをどこにも向けられないものです。被災者の怒りをぶつける場所がないというのは、辛いことです。
 人間が関わって起こったことなら、怒りをぶつける場所があります。しかし、天災にはそれがありません。 
 崖崩れに巻き込まれた親子(三人)の場合でも、たまたま、偶然、その場所を通ったということしか理由はないのですから。それも里帰りのような、たまたまの旅で。
 ほんとうに、悪いことが起こるときには、偶然と偶然が何重にも重なるようにして起こるんです。ひとつの偶然では、大惨事にはならないんです。偶然が折り重なってくるときに、大惨事になります。
 でも、その偶然の折り重なりを、人間は知ることが許されていません。なぜなら、それは人間の知の範囲を超えているからでしょう。神の視点があるとするならば、恐らく、その神のみぞ知る偶然の折り重なりなのでしょう。人間には事故の原因を知ることができません。ただ、人間にはその偶然の因が引き起こした結果だけが知らされるのです。悲しいことに、結果しか知ることができません。因は、人間の人知の範囲にはありません。結果の次元しか知り得ません。
 恐らく、それは人間の日常が、偶然が何重にも折り重なって、できあがっているからでしょう。このなんの変哲もない「一瞬」も、偶然と偶然が何重にも折り重なった一瞬なんでしょう。そういう見方をすれば、偶然で成り立っていない「日常」はないんですね。たまたま、それが幸に転じたり、不幸に転じたりしながら、人間には偶然の片鱗が見えるだけなんですね。本当の因は、分かりません。結果しか分からない生き物が人間なんでしょうね。寂しい生き物ですね。
 どれほど文明が発達したとしても、この限界性は変わらないのでしょう。
 どこまでいっても、結果しか知らされてきません。その結果をどのように受け止めるかしかないんです。決して、誰かが悪いわけじゃない、ただ、無色透明の偶然の折り重なりが、あるだけなんだと、思いたいと思います。

 

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