住職のつぶやき2004/11


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2004年11月1日

●昨日、親鸞まつり(報恩講)がつとまりました。
「まつりの〜♪あとの〜寂しさは〜♪イヤでも〜やってくるのなら〜祭りのあとの寂しさは、たとえば、女で〜まぎらわし〜♪まつりの〜あとの〜しずけさは〜」(『祭りのあと』)と唄う吉田拓郎の声を、イヤでも思い出してしまいます。
浄土真宗の末寺の最大の行事が、報恩講です。最大のイベントだけに、このまつりが終了してしまうと、なんとも寂しさやもの悲しさが漂ってしまうのです。昨夜の懇親パーティーの後片付けをしていると、まだ、昨夜の熱気が漂っていました。それは、微かなアルコールの臭い残しつつ。
 法話の言葉やハンドベルトの麗しい音色、一言コーナーでのみなさんの尊い一言などなどが、体に沁みていて、フッと思い出されてきます。しかし、あのときは、すでに過ぎ去ってしまっていて、そこには存在していないのです。まさに、「一期一会」ですね。
 この瞬間は二度と繰り返せない瞬間なのに、それがなんの変哲もなく過ぎてゆくのです。これほど、ダイナミックな出来事が一瞬一瞬展開しているにも関わらず、それを感じている自分は呆れるほどの当たり前感覚でしか受け止められないのです。テレビの三面記事を埋めるような、センセーショナルな事件であれば、そこに人間は感情を揺さぶられるのです。中越地震で土砂に埋まってしまった子どもの救出劇。あの事故は、不可逆性のダイナミズムでしょう。もし時間が数秒でも逆戻しできたら、と悔やまれます。しかし、時間はまったくの不可逆性を本質としています。
 殺人事件や火災、地震や交通事故の不可逆性に接したときに、人間の感情は大きく揺さぶられます。でも、このなんの変哲もない一瞬であっても、おなじ不可逆性の展開する一瞬なんです。ただ、人間の感情を大きく揺さぶらないだけです。ダイナミズムは同じなんでしょう。
 昨日、みなさんとお別れして、もう二度と出会うことができないひとがあるということが現実なんです。あってはならないことですけれども、現実は厳しいものです。時間とはほんとうに残酷なものです。
 同じことの繰り返しのように見えていて、日々、まったく違った時間を生きているのだとあらためて感じさせられました。
 それにしても、親鸞まつり(報恩講)とはいったい何なのだろうと、つくづく考えさせられる行事です。如来、ひいては親鸞の教えの恩に報いるということがメインテーマなんでしょうけど、それはどういうことなんでしょうか。恩を感じていなければ、それに報いるということも叶わないわけです。簡単にいえば、教えのお陰で、自分が立ち直ったとか、教えのお陰で普段気づけないようなものを気づけたとか、何らかのメリットがなければならないのでしょう。確かに、この教えに出会えなければ、自分は「自分」を受け取ることができなかったのだと思います。投げやりに、刹那的に、仕方なしに、シブシブ「自分」を受け取って生きるんじゃなくて、誠実に、真正面から、素直に「自分」を受け取ることができるようになったのは、まさに教えのお陰です。
 そういうメリットを教えは人間に与えます。でも、そのメリットは、人間の自己拡大の元手にはなりません。他者に向かって、「この教えは、こんなにすごいんだぜ!」と自己拡大をするエネルギーには転換できません。いわば「自己満足」させるだけです。「自己満足で終ったらダメじゃないか!」と批判されそうです。でも、「自己が満足しないで、どうして、他者に伝わるんだ!」という批判もあるのです。
 報恩講って何だ!?という問いは、この行事が終ったところから、いつでも起こってくる問いです。それは、たくさん食べて満腹感を感じた後のゲップみたいな問いかもしれません。まったく贅沢な問いであるのかもしれません。しかし、常に問われてくるという被害感覚が起こってくるんです。問いを被る感覚ですから、「被問感覚」とでも言ったらいいでしょうか。この被問感覚が、強制してくる促しが、報恩講のベースを為しているのかもしれません。どこまでいっても、究極的な答えのない、ただ、問いだけがあるような場所なのでしょう。
 そうそう、小生はすぐに、答えを欲しがる悪い子なんです。やっぱり、インスタント食品育ちの世代だからでしょうか。


2004年11月2日
●悲しいことに、イラクで人質となっていた香田証生さんが無慚にも殺害されてしまいました。 詳しいことは分かりませんが、彼が人質になった経緯を、テレビ報道などを見ていて、最初に受けた印象は「無謀」というものでした。自分の目でイラクを見てみたいという素朴な動機が、無邪気なだけに、「無謀だ」と批判するこっちの力が抜けてしまうほどでした。
 1日の「天声人語」にはこんなふうに書かれていました。
「(彼のイラクへの旅は)明確な目的があっての旅というより、むしろ何か明確なものを探し求めての旅だったのではないか。たぶん名前のように『生の証(あかし)』を求めての。そして『日本に戻りたい』とつぶやいたとき、生きつづけること自体の価値を悟ったのではないだろうか。」と。
 しかし、彼がそのことを悟るには、自分のいのちと引き換えにするほどの重さが必要だったのでしょう。それは、だれが止めても、止められるものではなかったことのようにも思えます。
 政治家のひとたちは、なんで、こんな時期に厄介な事件を起こしてくれたんだと、呪ったひともいたことでしょう。前回の人質事件で、日本政府がどれだけの労力を費やしたか分かってるのかと怒りを感じたひともいたことでしょう。
 この政治家の感性が、市民にも浸透しています。香田さん宅には、非難の電話や怒りの電話が殺到したといいます。でも、家族は無関係なんですよね。証生さん個人の問題なのに、家族に矛先を向けるのはお門違いだと思います。息子を人質に取られて、それだけでも、ダメージなのに、そのうえ罵詈雑言が浴びせられたんじゃ、家族もたまったもんじゃありません。そういう怒りの感情を、「坊主にくけりゃ袈裟まで」のように、無関係のひとへ向けてゆくのは、気持ちの悪い反応だと思います。
 自分の怒りや鬱積した感情は自分で処理しなければなりません。ひとに向けてはダメだと思いました。怒りの感情を向ける矛先は、テロリストですし、それを過剰に生み出してしまっているシステムではないでしょうか。
 それが、どれほど、ひとに迷惑をかけるものであっても、やらなければならないと内面から突き上げてくる衝動が、人間にはあります。自分でも抑えることのできない突き上げがマグマのように噴出してきたとき、人間は、それに身を任せるしかありません。その突き上げを制止しよう、マグマを押さえ込もうとして押さえ込めるものならば、そこまではゆきません。でも、そういう突き上げに身を翻弄されるということが、一生のうちに、一度や二度はあるに違いありません。そういう本能を香田さんに見た思いがします。
 雪山童子が、鬼に食われてでも、「お経の意味を知りたい!」と願ったという本能を見る重いがしました。


2004年11月3日
●昨日の「無人の会」が終ってから、懇親会のハシゴで飲み過ぎてしまい、舌に口内炎ができてしまいました。これがクレーター状態で、痛いんです。(>_<)
 これも宿業因縁です。
 「無人の会」には五十人近くの方々がお集まりくださり、主催者としては、温かい気持ちにさせていただきました。また、場所が、建築物文化財として一見の価値のある求道会館でおこなわれたということが、またまた、会の重さを倍増させて下さいました。近角常観先生の仏徳が十分に染みついている求道会館は、やはり「歎異抄」の世界観から生まれたひとつの浄土ではないかと思います。
 この建物の柱や床が、明治・大正の空気のなかで、近角先生の肉声を聞いてきたのでしょう。そして平成のこのときに、ふたたび歎異抄の世界を、現代思想に公開せんとする西田真因先生の肉声が、建物のなかにこだましたのであります。
 先生は、思想を読み解くには「道具」が必要なのに、真宗はこの「道具」を作ることをしてこなかったのではないかと、以前語られていました。建物を建てるには、ブルドーザーとか、鉄骨を組むためのスパナとか、電線を切るためのペンチとか様々な道具が必要なのです。それは思想的営為についてもいえることだというのです。
 思想構築物を作るためには、やはり、それを作るだけの「道具」がなければらないというのです。それは簡単に言えば「言葉」ということです。昨日の講義のなかにも、いろいろな新しい「道具」を披露して下さいました。「意味空間」「意味場」「暗黙知と形式知」「メタファー」(隠喩)「意味体系」「位相」などです。
 これらは、先生が仏者として成長するために通ってきた思想的生育歴と関係しているわけです。それらは、ヨーロッパ思想とのエンカウンター、すなわち「遭遇」です。実存哲学などの思想との出会いをくぐって、いままでの真宗教学に欠如している問題性に気づかれたのでした。それは他分野の思想との切磋琢磨ということがないということでありますし、それがなければ、隠語文化として真宗が時代からスポイルされるということでもあります。
 簡単に言えば、さらに、誤解を恐れずにいえば、「言葉を変えれば思想が変化する」ということです。親鸞が、それまでの経文を自分流に送り仮名を変更して思想を変化させたようにです。
 先生はおっしゃいました。自分の話を聞いて、よく分からないと訴えるひとは、いままで真宗の教えを長く聞いてきたひとの反応だと。そして、よく分かるというひとは、まったく真宗の教えを聞いてこなかったひとの反応だと。これは、面白い反応だと思いました。耳慣れスズメは、いままで聞いてきた知識が邪魔をして、真実が聞けなくなっているということです。耳慣れスズメは、その耳の垢を落とすという作業が必要なのです。
 小生も、親鸞仏教センターで、歎異抄の現代語訳という仕事に関わらせていただいていますが、やっぱり、原典を超えるものはないということです。原典は厳然とあるわけです。変更することはできません。まったくゆるぎのない確固とした原典があるからこそ、思い切った現代語訳ができるわけです。遊べるわけです。どこまで、変更していってもいいという、スリリングな遊びが可能なのです。
 原典の前に、縮こまってしまうのではなく、原典の前に、自由に自己表現の舞を舞いつづけてゆきたいと、小さな勇気をいただきました。


2004年11月4日
●破壊されることの味
「まさか、こんなはずじゃなかったのに!」ということに、ちょくちょく出会います。せっかく、葬儀の時間に間に合うように葬儀会場近くまで来ているのに、カーナビの指示が悪くて、道を間違えてしまいました。このまま橋を渡ったら、東京を出て、埼玉県に入っちゃうよ!と。とうとう埼玉県に渡ってしまい、グルグル回りながら、ふたたび橋を渡って東京へ入りました。そうしているうちに葬儀の時間ギリギリになってしまって、ほんとに焦りました。
 あのカーナビって、どうでもいいところはちゃんと、右だ左だと案内するくせに、肝心の分かりにくい道路にくると沈黙していて案内してくれないんですよね。まったく、「まさか、こんなはずじゃなかったのに!」でした。
 葬儀が始まろうというのに、今度は、簡衣(衣)のヒモがとれちゃった!まさか!どうして、こんなときに糸が切れるの!慌てて針と糸を取り出して、緊急に縫い付けました。なんとか、急場をしのぎました。
 この「まさか、こんなはずじゃなかったのに!」ということは連続するもんですね。
 自分じゃ、そんな目にあうなんて予想もしていないわけです。まさに青天の霹靂ってやつですよ。でも、人生、結構、「まさか」に出会うもんです。
 その他にも、もったはずの輪袈裟を寺に忘れてきちゃったとか、入れたはずの経本が入ってなかったとかね。これは、O型の悪いところなのかもしれませんね。几帳面なA型に生まれてくればよかったのに。「まさかO型に生まれるとは!」ということです。
 もらったはずの御布施を電車の切符売り場に忘れてしまったこともありますから、もうどうしようもないやつです。「まさか」の連続が人生かもしれません。
 この「まさか」を受け入れない頑固なやつがいるんです。それは、「固定観念」です。「ああすればこうなるはずだ。こうなるのが当然だよ」と考えている固定観念です。でも、現実は、この固定観念がズタズタになるほど破壊されるものなんです。破壊のされかたも、指の怪我程度から、いのちを失うほどの程度までありますから、これも一概には深度を量れませんけどね。
 でも、生きていくということは、この固定観念がズタズタに破壊され続けることなのかもしれないのです。丁寧に見てみれば、そうそう破壊されずに、思い通りにことが進んでいるときもあるんです。人生すべてが、ズタズタだったら、まったく夢を見ることもないんですけど。ある時期には「思い通り」にことが運ぶことがあるんですね。ですから、夢を見ちゃうんですよ。あのバブル景気のときのようにね。みんな夢に酔っていたようです。でも、それが一気に「ま坂(まさか)」という坂へ転落していきました。
 思い通りにことが運ぶこともあるので、かえって厄介なんです。地面を張っている虫は、地面に叩きつけられることもないんです。でも、なまじ空を飛べたりするので、そこから落っこちて、地面に叩きつけられてひどい目に遭うんです。
 しかし、この固定観念が破壊されることで、どうも人間の大地に着地したような、妙な安心感も生まれてきます。自分の思いでは、どうしてみようもない、まさしくどうしようもないもんだという人間の大地に着地したようなね。
 固定観念を破壊されることは怖いことですけど、でも、破壊されてみると、案外これもいいもんじゃないかと、開き直れるのがいいです。そうやって、破壊されつつ、日々を送るのが人間の生きる大地じゃないかと思っています。破壊されて、破壊されて、そして、いのちがつねに新しく解放されていくようです。
 だいたい、自分は人間なのか?果たして生きているのか?自分って何なのか?なんていうことは分からないことですからね。ただ固定観念でもって「自分は人間だ」「自分は生きているのだ」「自分は自分自身なんだ」「これは確かなことなんだ」と思っているんだけなんです。果たしてそれが真実かどうかはだれも確かめたことがないんです。
 小生も、まだ生きはじめたばかりのヨチヨチ歩きで、自分自身については未知なんです。ただ「知ってるつもり」であって、本当のことは全然知らないんですよ。そう思っていたほうが、いいと思います。

2004年11月7日
●曽我量深が「助ける助けぬは仏の責任、助かる助からぬはわれわれ衆生の責任である」(『歎異抄聴記』)といっています。これは、意味深長な表現だと思います。
 浄土真宗は、他力の教えだからといって、何にもしないで、ただ棚からぼた餅式に待っていればいいというもんじゃないでしょう。やはり、「助かる助からぬ」という問題は人間の努力に関係してくるのだと思います。重たい日常性から、一歩、仏法へ向かって歩みだそうというこころざしがなければならないんでしょう。
 こころざしというと大げさですけど、人間を丁寧に観察していけば分かることですが、ひとは、何かを求めて生きているわけです。でも、それが何か?は分からないで求めているわけです。その求めるこころの深層には、ほんとうに確かなものが欲しいという求道心があるといってもいいのです。そういうふうに見てゆけば、人間はみんな道を求める求道者であるともいえるわけです。
 どうしても、真宗が「あるがままでいいんだ」とか「そのままのお助けじゃ」というような表現をとるので、自分からこころざすということが抜けてしまっていたように思います。まあ、開き直れば、何もしなくていいんだといわれて、何もしないで生きられるんでしょうかねえ?私たちの日常は、行為の連続です。何もしないで寝ているといっても、寝るという行為をしているわけです。なかなか「そのまま」とか「あるがまま」ということに、甘んじていられないのが日常ではないでしょうか。
 ですから、「そのままでいいんだ」といわれても、それに甘んじられないで、あーでもない、こーでもないと動き回らざるを得ないんです。でも、それが、自分の努力だとはいわないんです。親鸞だって、「おれの努力で、ようやく本願の教えに帰依することができたんだ」とはいわないんです。教えは「そのままでいいんだ」と教えていても、それに甘んずることができずに、反逆しつづけてきたという罪の意識で、自己の努力を受け止めているのです。決して、自分の努力の成果だとはいえないということが、大事なんでしょう。もし、それを自分の手柄にしてしまえば、得た利益をすべて失ってしまうのです。
 もし、仏法を自分の内面に蓄えてしまったら、自分は破裂してしまいます。だって、仏法は三千大千世界という宇宙的な広さをもっています。その広大な宇宙を自分の小さな胸の内に入れようとしたら、自分が破裂して破壊されてしまいますからね。
 法然を批判した明恵さんは、「菩提心は無用だと法然さんはいうけど、仏法をこころざすということすらいらないと言えば、それはもはや仏法ではない!」と批判しています。ですから、明恵さんにも一理あるんです。やっぱり、こころざすということがないといけないわけです。でも、法然、あるいは親鸞は、それを菩提心(=仏法をこころざすこころ)とは受け止めていないんですね。それは、反逆心だと受け止めていたのでしょう。
 仏法をこころざして修行しているように見えても、それは、自分でそう思っているだけであって、如来が決めたわけじゃないではないかと。如来は、菩提心を起こすことができず、修行もできないもののために、本願を起こして、お前を助けてやろうといっているでしょう。それなのに、それを「そのまま」信じることもできずに、自分の足で浄土にゆけると思って修行しているのか!それこそ思い上がりも甚だしい!と受け止めているわけです。
 その如来からの厳しい批判を受けたとき、初めて、自分が起こしていたと思ってきた菩提心が、実は如来からの励ましであったと分かるわけです。
 でも、頭を冷やして考えれば、確かに明恵さんのいうことも一理あります。初めて法を聞こうとしているひとに対して、「そのままでいいんじゃ!」といえば、戸惑ってしまい、どうしてよいか分かりませんよね。ですから、臨床的には、そういうことも大切なんです。明恵さんは、そういう初心のひとのために「菩提心が大事だ」といっているのでしょう。また、自分がそういう菩提心によって悟りにアプローチしているのだと自認していたのかもしれません。そういうことがなければ、聖と俗の境界が付けられませんからね。
 しかし、如来と二人称の関係に入ったときには、「自分から」起こすということは、どれほど傲慢なことかということが、分かるわけです。
 いやいや、事実は「自分から」なのか、他の縁による励ましであるのかは分からないのでしょう。もはや、自他の区別もないところからの促しなのでしょう。自分の足もとから、あるいは自分の深層の内奥のところから、突き上げてくるような欲といったらいいのかもしれません。欲は、ものすごく大事なものだと思います。エロスなくして人間は成り立たないのですから。


2004年11月8日
●猫が、ポンと膝の上に乗ってきてくれた。たったそれだけのことで、「こんな幸せはないなぁ」と感じました。猫を撫でていると、相手もゴロゴロといって、「心地いいよぉ」といっているようですし、相手とつながっているような感じがしてとても気持ちのいいものです。
 日常は、雑多なことの集積ですけど、それらを微細に見ていくと、結構「小さな幸せ」が、ころがっているように思いました。
 新聞やテレビを見ていると、ほんとにいろんな情報が流れ込んできます。中越地震の被災者の報道、体によい食べ物の話、病気の問題、野球やゴルフの情報などなど。どれを見ても、興味をひかれるものばかりです。でも、そういう情報をシャットアウトして、静かな自分に帰る時間が必要だと思います。
 そうすると、「ほんとう」に近づけるように思います。親鸞の主著の題名は『顕浄土真実教行証文類』ですから、やっぱり「真実」ということがテーマなんですよね。この「真実」というものは、高邁なものじゃなくて、さりげない日常にころがっているものでしょうし、それを大雑把に見ているから私たちは見過ごしているだけなんでしょう。
 この「ほんとう」ということは、だれも所有することができません。自分の内側に蓄えることができないものです。ただ、それに近くありたいという思いだけがあります。「ほんとう」は自分の内面にも、そして教団などの組織にもないものだと思います。ただ、もし、「ほんとう」が、遍在しているものであるのならば、どこにでもあるのでしょう。そうであれば、教団内部や自己の内面にないとは言い切れないものでもあります。
 ただ、その「ほんとう」を所有したり、自己の内面に蓄えようとしたときには、「ほんとう」から遠ざかってしまうのだと思います。「ほんとう」は自己の内面には蓄えられないという自覚が、親鸞の「愚」という視座だと思います。自己の内面に蓄えてしまうと、「ほんとう」が狭くなってしまいます。逆に、自己の内面に「ほんとう」は蓄えられないと知るほどに、「ほんとう」の世界が広がっていくように思います。自分の手の中にはないのだという自覚が、世界に「ほんとう」をお返しできるわけです。
 「やはり野に置けレンゲ草」で、自己の手中におさめてしまえば、「ほんとう」のいのちを失ってしまうのです。自分に「ほんとう」がないと分かってくると、そこら中に「ほんとう」の花が咲くようです。


2004年11月10月
●唯仏論でいこう!
 「仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず」と親鸞は高らかと表現しています。仏恩の重さを知って、人々の批判なんかに耳をかすことなく、自己の表現をどこまでもし尽くそうという勇気を感じます。
 自己と如来(仏)との関係を中心にして、人間関係を二義的なものとする基準で生きたいと思います。これって、下手をすると、ナルシズムに落ち込んでいく危険性をもっています。「自分のことを理解してくれるのは、仏さんだけだ。人間の批判なんか聞くもんか!」というナルシズムです。そうやって、自己を確保しようとする発想は、やっぱり唯仏論にはなっていません。自己を開いていく方向性でしか成り立たないのだと思います。
 つまり、自分の中に世界を見いだしていく方向性だけが、いいのでしょう。普通は、世界の中に自分が存在しているのだと認識しています。アメリカや日本があって、インドがあって、その世界の中に位置する日本列島に住んでいるのだと考えています。まあそれも一理あるんでしょうけど、私は、自己の内部に世界を見いだしていかなきゃダメだと思っています。むしろ世界は自己の内部にあるように感じています。地球も自己の内部にあるのだと。眼で見ている外界こそが、実は自己の内部じゃないのかと思います。目で見ることのできない自分の体内は、むしろ外部ということになるのではないでしょうか。
 そうすると、世界で起こっているさまざまな問題は、自己の内部の問題になってきます。原理主義も、自己の内部の問題ですし、覇権主義もすべて自己の内部の問題です。
 安田理深が、「菩薩とは、弱点だらけの人間だ」というような表現をしています。その言葉に出会ったとき、私はビックリしました。ということは、私は、弱点を減らそう減らそうというこころの動きをしてきたということです。世間では、弱点を減らすことに戦々恐々としています。むしろ、その弱点を平然と見せることができるということが、菩薩の勇気なんですね。弱点を消して強者になろうとすることは、かえって弱いんでしょう。つねに、弱さにおびえているのですからね。逆に、弱さをさらけ出して生きられるということこそが、真の強さなんでしょう。
 そして、弱点をバカにしている自分自身をこそ、問題にしなくちゃダメなんです。弱点を弱点だと受け止めているこころは、強者のこころですからね。ほんとうに強くなれないんです。でも、その弱点を弱点として公然と生きられたら、どんなに楽なんでしょう。それは、唯仏論だからじゃないでしょうか。他者の目線は二義的なものとして、仏と自己との関係だけを重要視しているからです。これが仏教の倫理の源泉でしょうね。
  

2004年11月11月
●仏法はティッシュペーパーの如し
 今朝、起きたら、どうも鼻がおかしいのです。また、慢性の鼻炎の当来です。鼻水が出て止まらないのです。あまり激しくかんだりすると、クシャミが連発します。普段使っている点鼻薬も刺激が強すぎて、痛くなります。もうどうしようもありません。新コンタック鼻炎pという薬を飲んで様子を伺うことにしました。
 でも、こんなときには、ティッシュペーパーが手放せないんです。側を見ると、使用済みのティッシュの山ができあがります。ふと、これは仏法そのものじゃないかと感得しました。
 ティッシュがないと、ものすごく困りますけど、ティッシュは鼻をかんで捨てるためにあるんですね。ティッシュペーパーで何かを作ったりするわけじゃありません。捨てるためにこそ必要なんです。これは仏法そのものです。
 親鸞が言いたいことは、たったひとことです。それは「南無阿弥陀仏」という言葉ひとつです。それ以外は、何もいらないんです。本質からいえば、寺も僧侶も経本も聖典もお墓も教団も、すべて無用のものです。一切必要ではありません。ただひとつ南無阿弥陀仏だけが、あればそれでいいんです。
 南無阿弥陀仏は、仏さんのほんとうの名前ですし、私たちが救われていく原理が、簡潔に表現された、金言です。これさえあれば、ほかのものはまったく必要ありません。本質からいくとそうなります。それでは、いまある、寺とか僧侶とかお墓とか教団とか、そういうものは何のためにあるのでしょうか?それは、ティッシュペーパーと同じです。捨てられるためにあるんです。また、捨ててもらわないと困るんです。
 ティッシュペーパーが生活にないと困るように、寺とかお墓とかがないと困るんです。しかし、本質は、それらは捨てられるためにあるんです。ティッシュで何かを作るためにティッシュを買うわけじゃありませんからね。捨てられるためにこそ存在価値があるという、不思議なありかたをしているのです。
 あんな膨大なお経は何のためにあるのかといえば、やっぱり捨てられるためにあるんでしょう。禅宗では「不立文字」ということをいいますね。「只管打坐」といって、ただ座れ!と。まさに体験が重んじられ、頭で考えた文字は捨てられるべきものだというわけです。そこで「文字は立てず」というわけです。でも、これも矛盾した表現です。「不立文字」ということは、言葉です。「文字を立てず」ということを表現するためには文字が必要なんです。ですから、まさに捨てるために文字が必要だということでしょう。もし、ほんとうに「不立文字」であれば、人間には仏法に触れる縁が開かれません。文字を捨てさせるために文字が必要です。
 何のために捨てさせるのかといえば、自分が「自分」をそのままに受け取るためです。その自分も、「自分の知っている自分」ではなくて、「仏さまの視座から見られた自分」を受け取るためです。でも、「仏さまの視座から見られた自分」は、それこそ自分自身には見えないんです。見えないということが、何かを見させるわけです。自分には見えていないということが分かると、自分の眼から解放されます。ほんとうは、自分は自分に縛られているんです。不自由になっているんです。
 人間は、他者から縛られるもんじゃないんです。自分自身の眼によって、自分自身が縛られているんです。その束縛から解放されることが、仏道でしょう。それは、仏の視座から見られている自分があると信じられるかどうかでしょう。
 仏さまを信ずるということも、「人間には信じることができないということを信ずる」わけです。人間が対象を信ずるということは、すべて利害損得です。神や仏を信ずると世間ではいいますけど、全部利害損得です。人間に信じられるような神や仏は、程度の低いものです。それは人間の知恵でもって、仏や神を手づかみにしているようなもんです。
 ほんとうの仏や神というものは、向こうから人間を信じているものです。どんな愚かなものであっても、見捨てることはないという力なんです。人間は、都合が悪くなれば、不信を起こすのです。人間が仏を見捨てることも起こるわけです。
 しかし、ほんとうの仏は人間には絶対に見たり触ったりすることのできない神聖なものです。強烈な直射日光は、人間には見ることができないように、仏さまのひかりを直接見ることはできません。そのひかりを見るためには、日光に対して背を向けることしかありません。背を向ければ、全世界が仏のひかりの世界として展開していることが分かるわけです。


2004年11月12日
● 「ひとが亡くなると仏になるの?」という問いを投げかけられました。私は「そうです」と応えました。次に出てくる問いは、生きているときに、手を合わせたこともないひとでも、さらに、どんな犯罪者でも、仏になるの?という問いが待っています。その問いにも私は「そうです」と応えるようにしています。
 何故ならば、仏教は「頂く世界」だからです。その人が、手を合わせようと、合わせまいと、どんな亡くなり方をしていようとも、そのひとりの実存の死という事実を、どういう頂くかという私の問題なのです。ですから、たとえば、第三者がいて、このひとが成仏したかしないか?という問いは、仏教には存在しない問いなのです。以前、オウム真理教の教祖が、悲惨な事件を巻き起こしましたが、彼が仏に成れるのかどうかという問いを仏教界に投げかけられたと聞いています。こういう形の問いかたは、問いかたとして成立しません。それにはなんとも応えることはできません。問いかたが間違っているからです。
 その問いかたは他人事です。「自分」が入っていません。「自分」の入っていない問いは、戯論といって、応えるに値しない問いであります。正しく問うのであれば、あの教祖は自分には成仏できないように見えるけれども、どうなのでしょうか?という問いかたになります。その問いには、応えることができます。
 成仏できるかできないかは、人間が決定する問題じゃないと応えることができます。できると応えるのも、言い過ぎですし、できないと応えるのも、傲慢というもんです。決定権は、人間の側にはないのですから。
 できないと応えるひとの心の中には、浄土が安楽な場所だという思い込みがあります。この世であんなひどい事件を起こしておきながら、死んだら安楽で清浄な場所へゆけるというのは、もっての外だという思い込みです。犯罪に見合うだけの、苦界に生まれて当然だという思い込みがあります。しかし、そのひとは、浄土がほんとうに安楽な場所だということをどうして知ったのでしょうか。自分で行ってみたことがあるんでしょうか。そう疑いたくもなります。
 仏教は「頂く世界」ですから、その出来事をどのように<わたし>が頂くかということが第一義なのです。私の世界においては…このように頂けるという言い方しかできないのです。
 わたし以外の世界の出来事は、わたしにとってはすべて「暗示」として存在します。教えを垂れる存在としてあります。ですから、わたしは、その教えをどのように頂戴するかしかないわけです。
 極論すれば、わたし以外はみんな往生するのでしょう。曽我量深が、「還相の世界」というのは、そういう意味でしょう。わたしを教化し、仏の世界へ導いて下さるために浄土からこの娑婆に還ってきてくださった暗示者であると。何事かをわたしに暗示している存在なのです。何を暗示しているのでしょうか?側にいるネコは何を暗示し、家族はわたしに何を暗示しているのでしょうか?雨は、そして、大地は、そして地震は?と問うてみたいと思います。
 

2004年11月15日
●NHKテレビ「地球大進化」を昨夜みました。第六集なので、これで最後でしょう。年末には総集編を放映する予定だそうです。最終的に人類が、どのような形で「進化」してきたのかということが昨夜のテーマでした。面白かったのは、木の根っこを主食としていた人間たちは死滅し、肉を食べてきた人間たちは生き延びたということでした。肉を食べることで、脳を発達させ、さらに進化を遂げたというのです。
 現在でも、猛獣が食べ残した肉を見つけて食べるという生活をしているアフリカ人の映像を紹介していました。肉食と人類の関係がこれほど深いものだとは、ちょっと驚きでした。現代では、いろいろな理由で、ベジタリアンを唱えているひともいますけれども、人類の進化を遂げたのが肉食のお陰だったとは、これまた驚きでしょうね。
 ご高齢で丈夫なかたは、肉食嗜好のひとが多いと聞いたこともあります。肉食はコレステロールが高いとか、血液を酸性にするとか、腸内で悪いはたらきをするとか、肩身の狭い思いをしてきました。しかし、肉食が最近見直されてきていますね。適度な摂取は、逆に若返りの効果があるとか。
 小生も、どちらかというと、嗜好が肉なので、このテレビは、さもありなんという感じで受け取れました。私のワガママが肉を欲していたのではなく、人類というものの本性が肉食嗜好なんだと分かって、大きい顔で焼き肉屋さんの暖簾をくぐれる勇気をもらいました。あの番組で勇気づけられたひとも多かったのではないかと思います。
 そうかと思うと、「バンキシャ」という番組じゃ、北朝鮮の飢えた子どもたちの姿が放映されて、またまた、肉食だなんだと考えている私の精神を批判してくるのでした。右へいっても、左へいっても、この娑婆では「これでよい」ということはないんですね。「それでいいのか!」と批判されれば、「これでいいんだ!」と居直るしかありません。また「それでいいのか!」と完全無欠の善の側に立って批判できる人間もいないわけですから。ドングリの背比べみたいなもんです。ただひとつ、「それでいいのか!」と完全無欠の側から批判してくるものがあります。それは、如来です。完全無欠の善は如来の側にしかありません。これに批判されると、人間は頭があげられなくなります。
 こういう批判を受けることができるから、少しまともになれるんでしょう。
 そういえば、以前、『同朋新聞』に「そうではないということを、聞くのである」という松原現筌先生の言葉を紹介しました。「あの言葉は、母の聞書の言葉ですよね」と金丸悦子さんから問われました。実は、そうでした。『まるもうけ』という小山貞子さんのカレンダーからの引用でした。この言葉は、小生のこころの奥底に刻み込まれた言葉となりました。
 「そうではない、ということを聞くのである」。
 私は、自分の理解し易い話を聞きたいんです。分かるものは好き、分からないものは嫌いというワガママが、聞くことを拒むんです。しかし仏法は、自分の思っている先入観や固定観念を完全に粉砕してきます。そういうものを完全に否定してくるんです。それが「そうではない」という否定です。その否定の味わいを聞いていくわけです。
 自己保身やら、自己正当化やら、自己卑下やらで、全身をがんじがらめに防衛しているんです。そういうものを完全に否定してくれるのが如来です。念仏は否定の味わいでしょう。否定されることで、がんじがらめにされていた固定観念から解放されるのです。人間が否定するのではなく、如来からの否定は、慈悲が感じられます。
 この娑婆にはどこにも、自分の立つ瀬などないことを教えられてきます。
 

2004年11月16日
●今日は、教学館の特別講義で竹内整一先生のお話を伺いしまた。「みずからとおのずから」というテーマです。「みずから」というのは、真宗の用語に変換すると「自力」ということです。「おのずから」は他力ということになります。それがどこで一致するのかというのがテーマでした。
 面白い例え話をされました。日本人は、「結婚することになりました」と表現します。自分が伴侶を得て結婚するのにも関わらず。「ことになりました」という表現です。それは、自分で決断したことであっても、そう決断するための条件や縁があって、「おのずから」そうなったという表現をとります。この日本文化の特色が面白いことです。
 親鸞には有名な「自然法爾抄」というものがあります。「自然というは、自はおのずからという。行者のはからいにあらず。しからしむということばなり。然というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず、如来の誓いにてあるがゆえに…弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、迎えんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんとも思わぬを、自然とはもうすぞとききてそうろう…」
 南無阿弥陀仏と称えることも、そして、その南無阿弥陀仏と称えた人間を助けることも、すべて阿弥陀如来のはたらきであるという受け止めです。行者というのは、私たちひとりひとりです。ですから、行者が意志して、称えようと思って称えた南無阿弥陀仏も、実は阿弥陀如来の差し金だというわけです。どこにも自由意志を認めないんです。全部、まるごと阿弥陀如来のはたらきだと。
 でも、それを認めない自分があるんですね。お話としては、阿弥陀さんのはたらきだよと言いうるということはあります。いくらでも言えるわけです。だって、絶対の他力なんだから、自分の努力なんてどこにもないよと。しかし、それを拒否する自分があるんです。だって、自分で意識して腕を動かしているんですし、歩いているんですからね。そういう自分という意識は必ず働いているんです。
 その自分が、行者のたましいでしょう。この自分が基点としてまずあって、その自分が破壊されてくるのです。思い通りにいかないという現実に出くわして、破壊されるわけです。破壊されると、こんどは全体が他力の中にあることが自覚されてきます。親鸞も破壊されて、「行者のはからいにあらず」と披瀝し、さらに「南無阿弥陀仏となのませたまいて」と語っています。自分が称えている南無阿弥陀仏は実は如来の催促だったとひるがえっているわけです。自分で生きていると思っているんだけれども、でも、生かされて生きているのだと変わるわけです。
 でも、その転換が一回起こったらそれで終わりということはないのだと思います。永遠に破壊しつづけられていくわけです。自我は固定観念をもちたいし、それで安定したいわけです。でも、生きてるという事実は、いつでも流動体ですから、つねに変化しつつあります。ですから、あの川の流れのようなものが<いま>というものです。つねに変化しつづけています。その川の流れに身を任せ〜ということになるんでしょう。固定したらおしまいです。つねにその固定感を破壊してくれるはたらきがあるということでしょう。その力を信頼することです。
 

2004年11月19日
●子どものころ、よくゴジラの夢を見ました。ゴジラが東京の町を破壊して歩いてゆきます。周りは壊滅状態です。ビルや工場は、破壊しつくされています。向こうのほうをゆっくり歩いているゴジラが、小生のほうに向かって歩いてくるのです。小生は恐ろしくなって、瓦礫に身を隠してやりすごそうとします。しかし、どういうわけか必ずゴジラに発見されてしまいます。ゴジラの眼がすぐ側まで迫ってきて、小生を探しています。こんな恐ろしい夢をよく見ていました。
 大人になってから、「子どものころ、よくこんな夢を見たよ」と話すと、友達も同じような夢を見ていたことが分かりました。同世代はゴジラ世代といってもいいのです。夢を見るための素材は、共通していました。また、シナリオもよく似ていました。心理学を知っているひとに尋ねると、これは、自意識の問題なんだそうですね。自我意識が成長していく過程で見ることができる夢だそうです。あのゴジラの眼は、実は自分自身の自意識の視座なんですね。
 いわば、自分が自分を見つめる視座です。自分が自分を見つめる視座が一番恐ろしいのでしょう。この世の中で、一番恐ろしいものは、自分自身のまなざしなのかもしれません。恐ろしいものは、どこか他にいるように思っているんですけど、実はそうではないのかもしれません。
 自分が自分を許さない、自分が自分を裁くという地獄が一番なんでしょう。他人から批判されても、人間はそうそうへこまないもんです。いや、確かにへこむこともありますけど、でも、自分で「そんなことはないよ。自分はもっとましだよ」と思っていれば、立ち直れます。でも、自分の内側から、「だからオレはダメなんだよなァ…」と自分を裁き出すと、これは地獄が倍加してゆきます。
 自分を裁くという地獄は、人間特有の地獄です。周りのひとから、「あんたは、それでいいんだよ。仕方なかったんだよ。」と慰められても、自分で自分が許せないということになれば、立ち直ることはできません。
 そこで一言。「如来の悪しとおぼしめすほどに、悪しさを知りたるにてもあらめ。如来の善しとおぼしめすほどに、善きを知りたるにてもあらめ」(歎異抄)という言葉に救われるわけです。ほんとうに善と悪を知っているものは、如来だけだよ、お前じゃないんだよとね。お前が自分を裁いて、「これは善い自分」「これは悪い自分」と裁いているのは、思いあがりというものだ!と叱ってくれます。
 教えはやっぱり「言葉」として私を解放してくれるんですね。「言葉」の救い主です。自分で自分を暗く閉ざしていた窓を、一気に開放してくれて、明るみに出させてくれます。


2004年11月21日
●金曜日のBサロンは、おでんパーティみたいな感じでした。タライくらいの大鍋でグツグツとたくさん炊きましたよ。それが最後にはほとんどなくなっていました。それでも、吉本さんの『最後の親鸞』所收の「ある親鸞」は読破しました。
 みんな一様に「言葉が難しい…」と漏らしていました。どうしても、吉本さんは詩人ですから、これは仕方ない現象なのだと思います。その個性あふれる文章のさざ波を分け入って、少し深海に近く潜行していくと、やがて、吉本さんの言いたいことが伝わってくるのでした。
 質問をしてくれたひとの問いが、小生には、「信と知とはどんな関係なんでしょうか?」と聞こえてきました。つまり、「哲学と宗教ってどういう関係なの?」ということでしょう。これは、ヨーロッパでも大きな問題になってきたことです。あるひとは、「信仰のない知性は傲慢であり、知性のない信仰は怠慢である」といっていましたよね。やっぱり、これは人間が生きるうえでの車の両輪のような関係なのでしょう。信と知は別段わけられるものではないと思います。知を突き詰めてゆけば信に行き着くということでしょう。あるいは、信は知を包むことができるが、知は信を完全には包めないということかもしれません。
 これは敵対関係にあるものではなく、相補的ではないでしょうか。信仰といっても、何事かを直覚することですから、その直覚を言語に移しかえていくときには、どうしても知に頼らざるえません。お釈迦様が、悟りを開いて49日間沈黙をまもって、このまま死んでしまおうと考えられたというのも、知に表現することの問題性を感じていたからでしょう。信を知に表現することは、人間の理解可能な領域に信を開放することです。しかし人間の理解可能な領域は誤解の世界です。その誤解の世界へあえて身を投じようとしたわけです。
 人間は「話せば分かる」といいますけど、話せばなおさらお互いに傷つけあうという結果になる場合もあるわけです。それだからといって、話さないという方法は小生はとりたくありません。キリストも、自分がここに来たのは、「親子や夫婦を仲違いたせるためだ」というような表現をしますよね。あれは、たとえ一時的にトラブルが起きようとも、その結果として、トラブルを乗り越えて神の国で必ず和解できるんだという自信がいわせているのでしょう。
 例えていえば、水の味をいってみろというようなもんでしょう。水の味は、山登りの途中に飲む場合と、家庭で飲む場合とは全然違いますよね。でも、水の味を他人に伝えるのはとても難しいでしょう。これは水を飲んでみれば、一目瞭然です。一目瞭然というのもおかしな表現ですけど、アッという間に理解できます。まず、水を飲むという経験がなければなりませんよね。
 今日も、法事で話したんですけど、私たちの思っている仏や浄土は、ほんとうの浄土や仏さんではないわけです。ほんとうの仏や浄土は私たちには分からないのです。分からないということを受容できるかどうかです。分からないということが、虚無感につながるなら、それは分かったことにはなりません。分からないということが、解放感につながらなければダメです。
それを親鸞は「愚」という言葉で表現してゆきます。
 それは知性がないということではなく、知性の限界を知ったということです。この「限界」ということが、誤解を受ける表現ですけど、大事な表現なんです。境界ということです。
 謙虚な老人をみると、その境界を体得しているように感じ取れます。若いときには、体も自由に動き、どこへでも行けるし、なんでもできると思って生きています。しかし年をとると体の不自由がどこかにあらわれてきます。やがて、寿命の終わることも悟ります。そういう限界性を知ることによって、老人というのは謙虚が滲み出てくるものです。
 まあ、現代では、こういうお年寄りはいなくなりましたけどね。身体は年をとって、あっちが痛い、こっちが悪いといっても、こころが年をとっていませんね。こころは若いときのまんまです。つまり自己の万能感だけで生きています。体が年をとれるのだから、こころも年をとらなければならないでしょう。そのこころは「円熟」と呼ばれますし、そこにはおのずと謙虚が滲み出てきます。
 こういうお年寄りには、たまにお目にかかることがありますが、ほとんどいませんね。残念なことです。「若さ」という亡霊にとりつかれて、加齢をできるだけ阻止しようとしているお年寄りがいるだけです。それは人ごとじゃないんですけどね。

2004年11月23日
●帰敬式、終わりました。七名の仏弟子が誕生しました。仏弟子が誕生すること、それだけがお釈迦様の遺言です。教団が大きくなるとか、寺が繁盛するとか、そんなこととは全然関係ないことです。ほんとうに、お釈迦様の精神にいるひとが生まれることだけが、お釈迦様の願っていたことです。その他のことは、全部蛇足です。
 ひとりの念仏者の誕生のために、すべてがあるわけです。それは、教団を大きくするためじゃないかという勘繰りもあります。けれども、仏弟子が誕生したことで、ぜんぜんメリットもなんにもないわけです。ただ、「真実」に教えられているひとが誕生するだけです。それだけが、願いなんでしょう。
 しかし、そんな願いがあるのか!と思います。それは人間の願いじゃないんでしょうね。如来とか、仏さんとか、言わなくてもいいんです。ただ、人間を超越した願いが、人間自身に働いてくることがあるわけです。
 いつでも、そういう願いが聞こえているわけですけど、ただ、こっちが鈍感だから感じられないだけなんです。いつでも人間は因果論で考えます。「いま、こういう結果があらわれたのは、過去に何らかの原因があるからだ」と考えます。それが因果論です。でも、そんな因果論で探求できるような、チャチな因果を人間は生きていませんからね。無量無数の因果を生きているんです。だから、人間には分からないんです。
 分からないんですけど、人間は、なんでも、やたら分かったつもりで生きているんですね。この「つもり」が一番厄介なんです。この「つもり」が徐々に破壊されていくのが、年をとるということなんでしょうね。この「つもり」という鎧が破壊されて、段々と地金が出てきて、やがて、やっと等身大に帰れるんでしょう。
 なんと人間は厄介な構造をもった生き物だと、呆れるばかりです。


2004年11月25日
●本山(京都・東本願寺)に行ってきました。とても暖かい日だったので、とても、11月下旬とは思えない陽氣でした。そのせいもあって、紅葉はマダマダといったところです。しかし、この時期の観光客は半端じゃありません。我々もホテルを予約するのが大変でした。いくつかホテルを当たってみても、すべて満室で、ようやく東急ホテルを予約することができました。 京都〜京都〜と草木もなびく〜といったところです。みんな、京都に一体全体なにを観に行くのだろうか?と、フト思いました。ようするにあの雰囲気なんでしょうね。古都の雰囲気、紅葉の雰囲気、寺社伽藍の雰囲気でしょう。雰囲気です。究極的に、なにを観に行くのかという、対象を限定するような意識はないわけです。紅葉がきれいだといっても、それがどうした!というようなもんです。「あーきれいだった!」で終わるんですね。それはそれでいいんでしょうけど、でも、「それがなんぞや!」と問いかけてくるものがあります。
 観光とは、「光を観る」と書きますけど、その光っていったいなんだ?という問いかけです。まったく我ながら、面倒くさいことにとらわれる奴だと思っております。居眠りしている間に、京都に着いちゃうんですから、まったく近代文明は強烈です。速いということは、近いということにつながって、近いということは、有り難さがなくなるということで、結局、日常を逆照する効果が小さくなるということです。
 青蓮院(東山)へ行ってきました。ここは、親鸞が9歳で得度した寺です。ここに「植髪堂」(うえかみどう)というお堂があります。9歳で出家したとき、剃り落とした髪を植えて親鸞像を作っているんです。それを安置したお堂でした。親鸞の伝記が本堂に飾ってありました。
 青蓮院には見事な楠木があります。ゴツゴツとした根っこ、仁王の腕が突っ張ったような骨太の幹や枝たち、思わずハッとさせられる見事さです。この楠木は、小生の無意識にも働きかける作用があるようで、夢に見たこともあります。あの楠木となって、親鸞の魂が、今もなお蠢いているように感じられました。

2004年11月26日
● 
都市は眠らない。夜中でもタクシーは走っているし、ネコも起きてるんですよ。しかし、その影で、小生のフロッピーは、記憶もできずに死んでました。
 まったく、自由がいくらでも可能な領域が「東京」という都市ではないでしょうか。片方では、ひとが死んでるんです。風俗でひとがしんでるんです。借金苦で死んでるんです。怨恨でひとが死んでるんです。そうかというと、テレビでは馬鹿笑いの音声が流れてきます。
 このアンビバレントが「東京」という都市の素顔なんでしょう。
 でも、生きているのは「生身」の人間なんです。その魑魅魍魎も人間の素顔でしょうけど、夕焼けの田園風景のような穏やかさも人間の事実なんです。まさにアンビバレントです。
 このアンビバレントを自分でももてあましているんです。困ったもんです。
 
2004年11月27日
●確かなものは「言葉」です。他のものは変質していきますけど、「言葉」こそ永遠に残っていくものでしょう。
 私たちには言葉となった教えが厳然と存在します。お釈迦様は、ひとに依るな言葉(法)に依れと教えます。娑婆で苦しんだり、悩んだりしたときには「言葉」へ帰れと教えます。そしてその御言葉によって、ひとのこころは癒され、ふたたび娑婆を生きる勇気をもらえます。
「本願を信受するは前念命終なり。即得往生は後念即生なり」(親鸞作・愚禿鈔)とメモ的に親鸞は書いてます。唐代の善導の『往生礼讃』に「前念命終・後念即生」という言葉はあります。それを親鸞は独自に解釈しています。その親鸞の解釈をふたたび曽我量深は、「信に死し願に生きん」と解釈しています。解釈しているというよりも、自分なりに受け止め直したということでしょう。この「信に死し願に生きん」は有名な言葉です。曽我先生といえば、この言葉をすぐに思い出せるほどです。再解釈というよりも、新たな独創がそこにはあるのです。
 文字通りの意味は「前の思いに死んで、そのまま後の思いに生きる」ということでしょう。山辺・赤沼の『教行信証講義』によりますと「信の一念に、迷いの生命の打ち止めをなし、直ちに後念には浄土往生の身にさだまり」と読んでいます。それを曽我先生は「信に死ぬとき、そのまま願に生きるんだ」と受け止めているのです。
 死ぬというのは、生命体としての肉体が死ぬということじゃなくて、こころの翻りを比喩的に表現しているわけです。そのように、深く受け止めるのではなく、もっと浅く受け止めてみました。前念命終と後念即生は、いのちの事実かもしれないと受け止めてみました。「前の思い」というのは、さっき考えていたことです。人間はいろんなことを考えます。さっき思っていたことを思い出せといわれても、なかなか思い出せないほどいろいろなことを考えます。ということは、「さっきの思い」というのは、すでに死んでいるようなもんですよね。そして、次々と新しい思いが誕生してきます。その思いもやがて死んでいきます。前念に死んで、後念に生きるというのは、文字通り私たちのこころの動きそのものじゃないかと思いました。
 常に<いま>ということの分析が信仰なのでしょう。生も死も、この一瞬一瞬にあるわけですから、ほんとうはフレッシュでないいのちは存在しないわけです。同じことの繰り返しは、この世には存在しないのに、「思い」がルーティンという幻想を生み出すんです。いつでも事実はフレッシュです。「思い」だけが、そのフレッシュさを濁らせるんです。人間はこの「思い」によっていつも悩まされているんです。「思い」を中心にするな、「事実」を中心に生きろと叱咤してくるものがあります。それだけが、信頼できるものです。
 

2004年11月28日
●「生きてるだけで、丸儲け」。
NHKテレビの朝ドラ「わかば」で、耳にした言葉です。そういえば、サンマと大竹しのぶの間にできた子どもが、「いまる」という名前だそうですね。これは「生きてるだけで、丸儲け」の「い」と「ま」と「る」から命名されたそうです。
 生きてるということが、零度で、そこへ帰れればいいんでしょうけど、なかなか人間はそこへ帰れないんです。そこへ帰れれば、茨城で連続しておきた痛ましい両親殺害ということも未然に、何らかの風穴があいたように思えます。風船が膨らむように、人間へのプレッシャーも徐々に膨らんで、持ちこたえられなくなるとき爆発します。ある評論家も言ってましたけど、ニート(NEET)という状態の人々が何十万人にもなっているということは豊かな社会特有の社会現象だと。
 これはイエスの言葉が示しているように「人間はパンのみにて生きるにあらず」ですね。物があっても人間が生き生きと生きるということには、必ずしも結びつかないということです。まず、物がなければならないのでしょう。でも、その次の段階は、物が豊かにある社会で、尚且つ生きる意味が見いだせるのか?という問題がやってくるのです。
 イエスは、その次に「神の口からいずる、言葉によって生きる」というんですね。つまり、それは「意味」です。人間は「意味」を感じることなく生きることはできません。さらにその「意味」を突き詰めてゆきますと、「生と死」をも包んだ意味を見いだせないとダメなんです。目先の「意味」は、家族のためにとか、恋人のためにとか、自分自身のためにとか、社会のためにとか、様々な意味によって支えられていることも確かです。しかし、それをもっとマクロの視座から眺めた「生と死」を包んだ意味をどう見いだすかです。おそらく、そのへんまでを包み込んだ意味を見いだせなければ、このモラトリアム状態の何十万人はなくならないでしょう。
 ニートとかモラトリアムというのは、怠けているとか甘えているというのではないのでしょう。生きるエネルギーはあっても、それが内向きに回りだして突破口がなくなってしまった状態でしょう。その内向きのエネルギーを逆回転させていくには、やっぱり「生と死」までを包み込んだ意味を回復しなければだめだと思います。
 しょせん人間は死をもって終わるわけですから、どうせ死ぬのであれば、ひと花咲かせてやろうという開き直りが、あってもいいと思うわけです。意識が自己内にとどまって、自分の生きる意味を大切にするあまり、一歩が踏み出せないのでしょう。「自分の生きる意味」という閉じられた世界にとらわれているのです。そこで、「自分の生きる意味」なんかを横において、自分は死んているんだというところから生き直してみたらと思います。生を前提に考えると、内向きになります。そうじゃてくて、死を前提にしたらどんなことが見えてくるでしょうか。
 もうすでに自分は死んでいるんです。そう思ってみたら、そこから、なにか他のことが見えてくるはずです。それは「死んだつもりで生きろ」という意味とは違います。死んだつもりじゃなくて、もうすでに死んでいるということです。だいたい、自分なんてどこにも実体はないんですからね。自分を、目の前に出してみろといわれれば、これは無理な話です。自分があるように思っているだけで、ほんとうはどこにもいないわけです。いないものが、仮にいまここにかすかにあるように感じられるのです。
※ニート(NEET)とは、「Not in Employment, Education or Training」の頭文字から命名されました。雇用拒否・教育拒否・訓練拒否の人々を意味しているようです。引きこもりでもなく、失業者でもなく、フリーターでもないというような情況を指しているようです。


2004年11月29日
●風邪をひきました。なんで風邪をひくのでしょうか?それはウィルスが感染したからだといいます。いやいや、ウィルスは常にまわりに存在しているのだけれども、体の抵抗力が弱ったときに発病するのだともいいます。大昔なら、悪鬼にとりつかれたらからだとか、いろいろな解釈があります。
 小生も、どうして風邪なんかひいたんだろう?と過去の行状を反省しているんです。そういえば、朝、シャワー浴びたからじゃないか?いやいや昨夜深酒したからじゃないか?いや、電車の中に咳をしているやつがいて、あいつから移ったんじゃないか?汗かいたけど、着替えしなかったからかなぁ?と様々に原因を探すのです。しかし、これが原因だ究明されたとしても、結果としての風邪の病状は何ら変わることはないのです。
 そこで思い至ったのです。「わが心が悪くて風邪をひくにあらず。わが心がよくて風邪をひかぬにはあらず」とね。風邪をひくと、たちまち「なぜ?おれが?」と過去の行状を思い浮かべて反省しているんです。しかし、なにかが悪くて風邪をひくわけじゃないんですね。ひくときにはひくべき宿業があるわけでしょう。
 どうしても、人間の頭は「因果論」が好きですね。あのときああしなければ、いま、こうならなかったんじゃいかというやつです。因果論で究明しても、何ら結果は変わらないのにね。すべてが宿業だということなんでしょう。結果はひとつであっても、原因は無量無数ですからね。
 そう思ったら、風邪を嫌うんじゃてくて、風邪を味わってみようというこころの構えに変化しました。確かに、薬を飲んだりして、なんとか風邪を排除しようとはするんですけど、そのときのこころの構えが少し変化してきました。良寛さんが「災難に遭うときは、遭うがよろしくそうろう」と引き受けた気持ちが少し分かったような気がしました。結果はどんなことがあっても、引き受けなくちゃならないんですからね。
 生まれたということの結果として死を引き受けなくちゃならないんですからね。まさに「臨命終時」です。「命終に臨む時」はまさに<いま>でしょう。明日は無いのですよ。<いま>しかないのですよ、人間には。
 


 

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