住職のつぶやき2003/02


2003年02月28日

●「たべんたしつ」は「多弁多湿」なのか、「多弁」は分かっても「多湿」の意味が分からない。「多弁」はおしゃべりという意味でしょう。でも「多湿」が分からない。ワープロでも、「タシツ」は「多湿」としか変換してくれません。無理に意味をとると、「おしゃべりだけれども、とても湿気の多い」という意味になりヘンテコです。この女子大生の質問の言葉が分からなかったのです。「私のようなタベンタシツの人間は…」と切り出されたものですから。そして、直感したのです。「タベンタシツ」は「多弁多筆」に違いないと。きっと、生粋の江戸っ子で「シ」と「ヒ」の発音が曖昧なのかもしれないのです。そうすると、「おしゃべりで、言葉の多い人間は」という意味になります。でも、彼女は、まったく臆することもなく淡々と自分の内面を語って質問していくので、呆気に取られました。講演が終了したとき、大学の先生が、「今時の学生はみんなあんなもんですよ」と教えてくれました。

 自分の内面を臆することなく、それこそ「多弁」におしゃべりをするのですけど、あまり深く考えて質問していないらしいのです。先生は「実に感性的です」ともおっしゃっていました。「それは、本を読みませんから…」とも付け加えられました。そうかと納得してしまいました。しかし、小生も人に負けず劣らず「感性的人間」なので、ちょっと「感性的」という言葉にカチンと来ました。パッションおおいに結構だと思います。彼女は、自分が仏教を勉強しているらしく、キリスト教と仏教の違いについて質問していました。「友達に、クリスチャンがいて、仏教はたくさんの仏像を祭るけど、キリスト教は唯一の神をまつります。」云々という質問でした。なんだか、仏教は多神教で、いい加減な宗教で、キリスト教はただひとりの神以外を信仰しないから、純粋な宗教だというニュアンスでした。この手のやり口は、意外に多いようです。うちの子どもも仏教は浮気主義で、あれもこれもで、キリスト教はただひとりにだけ愛をささげるという批判を受けたようです。こう言われると仏教は浮気者の集まりみたいに思えてしまいますよね。先生は、キリスト教は絶対永遠のものを信仰するというスタイルだけど、仏教は自分自身の煩悩の眼を晴らして仏になることが課題であるというような答え方をされていました。

 小生は、「偶像」をどう見るかということではないかと思いました。唯一だろうが沢山だろうが、人間が思い描いた像はすべて偶像です。それは、彫像や写真ばかりでなく、言葉にしたとき偶像になりますし、神や仏のイメージすら偶像になります。聖書にも神は言葉を超えているから、名前はないというフレーズがありますよね。しかし、人間は言葉がなければ「言葉を超えた神」と命名するわけです。その意味で、仏典も聖書も偶像の次元に成り立っているわけです。しかしここに絶対なるものと人間がどう関わるかというときの難しさがあります。永遠に人間を超越しているものであれば、人間には永遠に触れることはできません。そうなれば、救いも成仏も成り立たないのです。しかし人間が絶対なるものに触れたと言ってしまえば、それは絶対なるものではなくなるわけです。ここに難しさがあります。仏教では、そこを「否定形」で出会うと表現します。「無」とか「空」という言葉で、人間の意識の内部にはなりえないという形で出会うのだと語ります。人間が自分の意識の中にとりこめて、これでひと安心という形では絶対に成り立たないという否定形で出会うわけです。その意味で絶対の外部として出会うわけです。浄土真宗ではいわゆる悟りを「信心」と表現します。信心というと、人間の内部の出来事のように錯覚してしまいますけど、そうではなくて、決して自分の内部には取り込めないこころ、いわゆる「外なる心」として表現しています。「外なる心」の立場には立つことはできません。むしろ自分は、その「外なる心」から批判を受ける「受け身」になるのです。ですから、どこまで仏を思おうとも、仏教の理念を思おうとも、それは偶像の次元を出ないのです。どれほど「この神は絶対だ!仏は絶対だ!」と叫ぼうとも、それは人間が了解した範疇の内部でいう限り偶像なのです。しかし、その偶像は、真実を象徴する偶像になるわけです。単なる偽物、紛い物ではなく、真実を隠喩している象徴となってくるわけです。そういう意味で仏教は偶像をまつるわけです。一神教は、形を恐れますけど、仏教は形を尊びます。どれほど沢山の形を前にしても信仰が揺らぐことはありません。それはひとつであろうと沢山であろうと、すべて偶像の次元だと達観しているからです。これを人間の浮気と同じレベルで語ることが混乱のひとつなのです。

 ある牧師さんに結婚観について尋ねたことがあります。その牧師さんは自分の奥さんとの結婚を神との契約になぞらえて了解していました。つまり他の女性に浮気ごころが起こるということは、神への浮気ごころと同じだというのです。その厳しい契約観念があるから、結婚生活が安定するのだといってました。小生はそれを聞いてとてもクリスチャンになることは無理だと思いました。だって、街を歩いていたら、知らず知らずのうちに言い女を振り返っているじゃないですか。ハッと我にかえって「おやおや」と思うことがあります。パッションの方が先に動いているわけです。しかし、こころに姦淫の思いが起こったものは、実際に姦淫したことと同じだとイエスも言ってますよね。つまり、浮気をしない人間は、人間として存在しないという意味に解釈してよいのではないでしょうか。システムとして人間は本来的に姦淫を犯すものだと了解したほうがいいように思います。そういう人間の闇の部分をちゃんと受けとめておかないと、物事の真実を見失うように思います。信仰が薄っぺらになってしまいますよね。そういう闇の部分もまるごとひっくるめて「それでもいいよ」と言える世界がなければ信仰は成り立たないように思います。いわゆる「理性」よりも「本能」のほうが深く確かなんです。そうすると、牧師さんの結婚観はどうなるんでしょうかね。

 それから、もうひとつ質問がありました。先生のお話の中に「仏法は自分を照らす鏡のようなもので…」という言葉があって、その「鏡」について質問していました。自分は容姿に自信がないので、鏡に映った自分の姿を見るのが嫌いで、ここにたくさんのキレイなお花の写真がたくさんあったとして、「こんなところにもキレイなお花の写真が落ちてる」といって、その鏡に貼ってゆき全部その写真で埋めつくしてゆきたいという、そういう意味で先生は「鏡が曇る」ということをおっしゃったのですか、というような趣旨の質問をしました。ほんとに多弁多筆なんですね。そういう意味ではないと先生は応答されていました。鏡に映るように自分の姿が見えたとなると、やっぱり見ている自分は残るわけです。その自分が照らされるということが先生の言わんとされていたことでした。ひとと言い争ったり、愚痴ったり、嘆いてみたり。そういう心が起こっているなぁと映されるわけでしょう。愚痴や嘆きも、ただ無意味に起こっているわけではありませんし、また自分の自由意志で起こせるもんでもありません。まさに自発的に「起こってくる」ものです。自分が人間という生物であるかぎりシステムとしてそうなっているわけです。ですから、愚痴や嘆きがなくなるわけではありません。ただ、それが起こって来たときに、透明の鏡のようにすべてを見せてもらえるということが嬉しいのです。理性は反省という「裁きの自己」です。鏡に映った自己を裁きます。愚痴を言う自分を裁判官のように裁くのです。この裁判官が、信仰ではもっとも深い罪になってくるわけです。裁判官は「善人」ですから、あたかも罪を犯したことのない純粋な自分がどこかに存在しているかのように振る舞います。罪を犯して、今日まで生きてきたのに、その罪を認めようとはしません。本来的に自分は善人であって、一度も虫を殺したことがないと言い張るのです。たとえ間違えて失敗を犯しても、それは運が悪かったか、誰かが悪かったので、自分自身の罪ではないと言い張ります。この裁判官を一回殺さなければなりません。この裁判官はダニと同じで、暗いところが好きで光が苦手です。真実の光によってダニ退治をしなければなりません。光が当たれば、自ずから死んでゆきます。喜んで死んでゆくのです。死ぬことによって、原始人の自分が再生されてきます。野生の自分が再生されてくるのです。まさに「野性的な現代人」として生まれ直すことになるのです。野生を取り戻そうじゃありませんか。

2003年02月27日

●連れ合いが、料理の本を見ていました。小生もわきから「これ、うまそうだねぇ!」と言うと、連れ合いは「写真を見て美味しそうな本じゃないと使えない」と答えたのです。どんなに凄い料理でも、その料理が美味しそうに見えるか見えないかが勝負だというわけです。確かに、その本は、実に写真効果が優れていて、料理から湯気が立ちのぼってきて、鼻をくすぐるような感じでした。さらに、その料理を作るかどうかは別にして、その写真でイメージを受け取っておくと、料理を作るときによいイメージを与えてくれるそうなのです。ですから、写真の通りに作るために料理の本を読むわけではないらしいのです。でも、そうやって普段から料理のイメージを養っておかないと、毎日作る料理が豊にならないらしいのです。実際の料理レシピというよりも、イメージトレーニングとして料理本を見ておくようです。人間は、まったく贅沢なものです。毎日違うものを食べたくなるのですから。特に小生は、典型的です。それにくらべてうちの猫たちは偉いです。毎日同じ餌の缶詰を食べて不平ひとつ言わないのですからね。それでも、多少人間化してきたようで、違う種類の缶詰を取り混ぜてやらないと、文句を言うようになりました。毎日同じ缶詰だと、そっぽを向いてどこかに行ってしまうのです。餌の入っている食器までやってきて、一応「クンクン」とやってみるんです。それがいつもの缶詰だと、クルッと向きを変えてどこかへスタスタと行ってしまうのです。これぞ、元祖「猫またぎ」です。その態度を見ると、「このやろう!」という感情が引き起こされるのです。「猫の分際で、文句をいうな!」という感情です。しかし、「お前こそ、そんなことを言える分際か!」という声が聞こえてきて、「スンマセン」という気持ちに納まってきます。最後には「猫も堕落したもんだなぁ、人間並になっちゃって」と思うのでした。人間は、あらゆる生物の究極の堕落形態じゃないかと思います。「進化論」じゃなくて、「堕落論」として、もういちどダーウインに書かせてみたいですね。

 それはともかく、料理の話に戻ります。昨日の淨土の話と関連してきます。伝統的な仏教は、イメージよりも概念を大事にしてきたのではないでしょうか。悟りを「空」「道理」「縁起」「妙有」「無自性」などと言語表現を駆使して、迷いを解放しようとしました。それはいたって概念的です。しかし浄土教が起こってきた必然性は、やはりイメージを重要視したからではないでしょうか。というよりも、もともと人間の凡情というものは、イメージ的なのです。場所と時間というイメージでほとんど生きているのが人間ではないでしょうか。知を「闇と光」に譬えれば、光により近いものが「概念」でしょうし、闇に近いものがイメージではないでしょうか。人間の知には、やはり深さがあって、浅いけれどもハッキリとしている状態もありますし、深いけれども、混沌としている状態もあります。その全体を、まるごと人間として了解してきたのが浄土教だと思います。この浄土教の妙味が味わえるようになるには、精神的に老齢してこないと分からないものだと思います。これは生理的な年齢とは違います。あくまで精神的な老齢度の問題です。

 小生も若いころは、「なんで淨土なんていうことを言うのだ?」と分かりませんでした。お釈迦様が縁起の法を悟ったというのなら、その教えを解明すればいいじゃないかと。なんだか「死後にある淨土へ往生する」などと言う必要はないじゃないかと。あのチベットの仏教では、ダライラマを生んだように、生まれ変わりを実体的に考えているようです。ある日時に特定の場所に生まれた子どもは、ダライラマの生まれ変わりであると選定されるんですね。いかにも実体的に「あの世」があると考えています。これは、民間信仰として実に馴染みの深い感じ方じゃないでしょうか。現代人といっても、古代人の血と無関係ではありません。私のなかにも原始人の血がちゃんと流れています。原始人は、当然あの世観をもっていました。譬えて言えば、この世と地続きのあの世観でした。いま自分は日本にいますけれども、頭では地球がイメージできていて、アメリカのニュースを見れば、アメリカを空間的に思い浮かべることが可能です。こういう空間感覚は、原始人のもっていたあの世観と通底しています。むしろ歴史的に見れば「あの世観」があるのが、人類としてはノーマルじゃないでしょうか。現代という時代ほど、あの世を見失っている時代はないように思います。現代人は、死んだら死に切りで、無になってしまうと虚無的に死後を考えています。ですから、当然の欲求として、あの世観を復活したいということが現代人を突き動かしています。それは新興宗教が必ずあの世を語るという現象にも現れています。あの世なしには人間は安定できないように思います。そういう欲求が「淨土」を生み出してきたという面もあるわけです。

 ですから、必ずしも、教義的必然で「淨土」という理論が生み出されてきたとは思いません。この世と地続きのあの世観として、最初は生まれてきたのではないでしょうか。そのあの世観を、親鸞は仏教の救済の理論として再構築しました。ですから、「淨土」という言葉は、原始人の感性をもとにしたあの世観と救済の論理としての淨土という両面があるわけです。その「知と情」をまるごと大切にしてゆきたいものです。やっぱり、この料理にはどんな栄養があって、ビタミンがどうで食物繊維がどうで、カロリーがどうで塩分がどうだといわれても、それを一口食べてみれば美味いかどうかが分かるわけです。どれほど体に良いと言われていも、不味いものは食べませんよね。仏教もそうでしょう。ひとに食べてもらえなくては、まったくの無意味です。そのとき美味しいかどうかがカギなのでしょう。料理は、さましく瞬間芸、いや瞬間芸術ではないでしょうか。見た目の色つや、温度、柔らかさ、舌触り、歯ごたえ、香り、甘味辛味酸っぱみ渋み、そのバリエーションはものすごく微妙なものです。絵画は見た目ですから、視覚の世界でしか味わうことはできません。音楽は聴覚の世界ですから、耳でしか味わえませんよね。しかし料理は、視覚から味覚、舌の触覚、嗅覚という様々な感覚の総合作品です。さらにどんなに上手に作られて、美しく盛りつけられた料理でも、瞬間に食べられてしまえば消えてなくなってしまいます。また消滅することが料理の本来のあり方でもあります。眺めてばかりいては、味わうことはできませんからね。ですから食べる前までは最高傑作作品として、人間の口に入ることを待っているわけです。それは消えてなくなるための作品として、実に健気に寂しいものです。まるで花火のような存在です。そこにもの悲しい料理の運命と、人間の人生が呼応しているようにも思います。人間のいのちも瞬間芸ではありませんか。

 

2003年02月26日

●昨日、教団の全国紙『同朋新聞』が送られてきました。第一面は小生も一月号で執筆しているので、興味をもって読ませてもらいました。今月のテーマは「淨土」と書かれていました。作者が、身近なひとの死を題材にして、「ひとは死んだら淨土にゆく」ということに関してエッセイを寄せていました。その方は、いままであまり、「淨土を死後のこととして考えることをしてこなかった」と述べられていました。それは、「仏教は本来、死後のことをあまり問題にしない」また「淨土を死後のこととすれば、現実の矛盾から目をそらす逃避的な生き方になりかねないと思っていた」からだと書かれていました。しかし、自分の義母が亡くなるとき、枕辺で「死ぬことは淨土へかえること」と、ご本人が発した言葉から、あらためて淨土を考えようとしているのです。これは面白いことだと思いました。教義的には、淨土は死後のことではないと考えていても、いざ自分の身近な方の死に直面したとき、死んだら淨土へいくのではないかという言葉が出てきたのです。これは頭で考えたことと、自分の実感から出た言葉が違っていたということなのです。こういう体験自体は実に大事なことだと思います。

 まあ親鸞教学では、淨土は死後のことだとはいいませんね。親鸞自身もお手紙で、「来迎待つことなし、臨終たのむことなし」とおっしゃっています。死ぬ間際に阿弥陀さんが迎えにくるのだということを期待する必要はないと言っています。淨土に行ってからご利益をいただくのではなくて、この世にいる間に淨土のご利益を現在に頂戴するというのが親鸞の教学です。でも、違う場面では、先立って亡くなってゆかれた人にたいして、「お浄土で待っていて下さい、私もあとから行きますから」ということを書き送っています。一方では、淨土は死後のことではないという親鸞と、他方では死んだら淨土だという親鸞がいるのです。普通に読めばこれは矛盾しているじゃないかということになります。まぁお坊さんでも、混乱してしまいますね。だいいち親鸞がそのことについて何も解説していないのですから困ったものです。後から親鸞の言葉を学ぶものは、それをどう解釈したらいいのか迷ってきたのでしょう。それで若いお坊さんは死んだら淨土だという考えを拒否してきたのです。若い頃は、どうしても現世にのみに発想の関心が偏りがちです。ですから、「淨土」をこの世の論理で解こうとしてきました。でも、「現実」は論理によって解明できません。まさに「事実は小説より奇なり」でしょう。現実が、そのお坊さんに「どうなんだ!」と牙を向いたのがその言葉の発露ではないでしょうか。

 この問題を解くには、やはり臨床教学と基礎教学という道具を使わなければなりません。言葉は、場面によって文脈が変わるのです。同じ「バカ」という言葉でも、男が男に対して用いる場合と、女が男に用いる場合では、全然意味が違ってきます。男は批判の意味で用いますし、女は愛情表現で用います。そこには微妙な意味の違いがあります。それは、「淨土」という言葉にも当てはまるわけです。ひとを目の前にして語るときの親鸞と、如来(道理)と対話している親鸞とは、文脈が異なるわけです。ひとを目の前にした臨床教学の場面では、やっぱり親鸞も死んだら淨土へ行くのだといっています。それでいいんです。人間の凡情はそういうものです。やはり、阿弥陀如来を「阿弥陀さん」と人格的に語ったり、物理的に存在するわけではない淨土を、「お浄土に行く」と表現したりするわけです。これは人間が、時間・空間の生き物だから、そういう表現をとるわけです。時間・空間に制約されない生き物であれば、そういう表現は起こってこないのです。原理的にいくら淨土は実体的にどこかに存在しているわけではないと聞いていても、実際に目の前のひとの死に接したときに、どうしても「お浄土に旅立たれた」と表現するのが人情というものです。原理的には人間はどこかに行くわけでもないのです。それは充分親鸞も知っているわけです。でも、臨床の場面では、そう思えてしまうわけです。執筆者が、お浄土に行ったのではないかと素朴に思うことは必然なんです。故、安田理深先生は「浄土真宗は、未来往生であっても、死後往生ではない」とおっしゃっています。これは含蓄のある言葉です。小生は、未来往生と死後往生を一緒くたにしていました。厳密に見れば違うのです。やっぱり、どうしても、往生するということは純粋な未来の出来事です。厳密に言えば「成ってしまった現在」ではありません。「成りつつある現在」「一歩手前の現在」とでもいえるような未来です。過去形で語れば死んでしまいます。「死後」と考えれば、それは固定した過去の出来事になってしまいます。他人の死を見て、淨土に往生したのだと受けとめることは、信仰の世界のことです。客観的に、死んだら淨土に行くんだということではありません。自分にとっては、そのようにしか受けとめられないという意味です。客観的に、人間は死んだらどこにいくのか?という問いに対して仏教は答えません。死後の世界があろうとなかろうと、そんなことはお構いなしです。死後の世界があってもなくてもいいんです。問題は「純粋な現在」なんです。未来も、過去も、実は幻想なのです。そのひとにとって、いまあるのは<現在>なのです。別の言い方をすれば、「未来と過去をすべて含んだ現在」なのです。

 どうしてもいまの教学が混乱しているのは、その基礎の場面と臨床の場面を混乱して考えているところにあります。そういう物事の道理をしっかり見極めてゆくことが純粋な教学というものだと思います。歎異抄では「学問をすれば、いよいよ如来の本当のお心を知って、本願の広々したお心も理解でき、『自分のようなダメな人間では生きる意味がない』と落ち込んでいるひとにも、弥陀の本願は、悩み苦しんでいるひとのための本願だと相手の腑に落ちるように、ちゃんと説明できるようになれば、それこそ学問をしているひとの甲斐性というものでしょう」とおっしゃっています。小生もそう思うのですがいかがなものでしょうか?

2003年02月25日

●沈丁花がもうほころんできました。その隣では梅の花が咲いているんです。沈丁花といえば、お彼岸のころに言い香りをプンプンさせます。この時期にはまだ早い気がします。梅の花は晩冬というか、ごく初春のイメージですし、沈丁花は春も半ばの花ではないでしょうか。ここのところ、ハッキリしないお天気に、今日の一日は晴天のありがたさをしみじみ感じる一日でした。ア〜ア、山にでもハイキングしたいなぁと思うようないいお天気でしたね。天気がよいと心もウキウキしてきます。歩く足どりも軽く感じます。寺から東大島駅までは、徒歩で14分かかります。この道すがらにも、様々な世界が展開しています。「よく見ればナズナ花咲く垣根かな」で、ありきたりの日常にも、様々な世界があります。幼稚園にはたくさんの自転車が止まっていました。そしてお母さんたちが園舎に入ってゆくところでした。今日は父母会でもあるのかなぁと思いながら通り過ぎました。別のところでは、マンションの建設をしています。工事現場はあまり通りたくありませんね。コンクリートミキサーやら建築資材の運搬者やら、騒音がありますから避けて通りたいと思います。以前不思議だと思ったことがありました。新宿のホテルを建築中には、ニッカポッカの人たちが働いていました。ペンキで汚れた服を来て働いていました。しかしホテルができあがると、そういう人たちは姿を消して、まったく無関係な、ハイヒールの女性たちが闊歩していました。極端に言えば、ネクタイをしめなければ入れないような店に変身していました。作り上げた人々は、そんな格好とは無関係の人々です。作り上げた人と、それを利用するひとが、まったく違うことに違和感を感じました。その両方を知っているのは、それらの建物だけです。

 いま江東区はマンション建築が進んで、人間ディスポーザーになっています。それで公共施設が足りなくなり、マンション建築にも許可がいるという話です。江東区は、以前、工場地帯でしたから、マンションを立てるための買収がしやすいのでしょうね。もはや小生が遊んだ「空き地」なるものはまったく姿を消してしまいました。寂しい限りです。区の人口は40万人を超えたんでしょうかね?やがて国鉄の小名木川車庫が再開発されて、ショッピングセンターを含んだアミューズメントが構想されているようです。亀戸駅から東京湾へ延びる唯一の貨物引き込み線も、モノレールにしてお台場に行けるようにするとか、いろいろな案があるようです。これは「便利」という概念に納めることができるのでしょうか。よく分かりません。不景気だと言われていても、マンション建築だけは進んでゆきます。まぁこれもあんまり儲からないとは聞いています。仕方がないので建築しているということだと聞いたことがあります。マンション入居者も、月々のローンの支払いを覚悟で、若い世代がどんどん入居しているようです。そのせいか、あんまり地元の商店街が潤っていないようです。近所に美味しいフランス料理店がありました。しかし、三月で閉店してしまいます。サンパティックもルパパもなくなり寂しい限りです。それから美味しいお好み焼き屋さんのナキスカもつぶれてしまいました。それから、それから、天丼屋さんの天春。よいお店を育てることもできないのかと、自分の無力を感じております。みんな買い物は大きなスーパーに車で買い出しにいくようです。ですから、地元はますますさびれますね。近くにはジャスコやら伊東ヨーカドーがありますから、そこらへんに行くんでしょうね。そういう小生も、やっぱりそういうお店に行ってるんですから、まあ何をかいわんやですわ。そういう目に見えない力学が働くのですよね。不思議です。以前は魚屋さんがあって、お肉屋さんがあって、八百屋さんがあって、そのつど買い物をしていました。しかし、財布を一回開けば、それですべての清算ができるスーパーなる店が出来てきたら、なんとも便利なんですね。この甘さには勝てないんですよ。まったく。買い物でお店のひととの駆け引きという、人情云々という方向には向かわないのですね。御免なさい、としか言えません。

 そんなことを思いながら、駅まで歩いていくと、途中に小名木川を越えてゆきます。番所橋という橋がかかっています。小学校の頃、社会の授業で、「江東ゼロメートル地帯」と習いました。工業用水を地下からくみ上げた影響で地盤沈下を引き起こしてしまったのです。ですから、川の水面のほうが地面よりも高いところにあるのです。ですから、その川を越える橋は、もっと高く作られているので、橋を越えることは岡を登るように大変です。以前、東京で大雪が降ったとき、橋が凍ってしまい、自動車は橋をわたれずに滑っていたのを思い出します。通行人も凍った橋には手こずっていました。橋の頂上?までくれば、あとは下り坂なのですが、頂上まで登り詰めるのがひと苦労でした。上り坂の途中で止まってしまうと、ズルズルと元の場所へもどってしまうのでした。これも江東区ならではの風物詩かもしれません。女房がお遣いに行くにも自転車で、この坂道の橋を登ってゆかなければならないので、坂のきつい丸八橋は避けて、番所橋を渡ると言ってました。この小名木川は徳川家康が作らせたものらしいです。隅田川(当時は、大川)から中川を通って、浦安→行徳への水上交通路として作らせました。小名木川が中川へぶつかるところに番所を儲けました。奉行が門番をしていて、前を通る舟の荷をあらためたそうです。この番所を顕彰するために、江東区が「中川船番所資料館」を新たに新築しました。オープンは三月下旬だそうです。訪れるのが楽しみです。

 東大島の駅までのたった短い14分の時間ですけど、頭の中ではいろいろな旅ができるように思います。その街角を曲がったところに異界が存在しているように思います。家から出るということは、大事なことだと思います。家から出ることによって、自分の内面の記憶に、新たに出会うことができるからです。

 

2003年02月24日

●中島みゆきが、ヒットチャートを驀進中だと聞きました。十年周期説があるんですかね。現在のは「地上の星」で、これはプロジェクトエックスの主題歌で有名になったようですね。ホームページを調べていたら、「中島みゆき研究所」というのがあって、驚きました。これは中島みゆきが何かを研究しているわけじゃありません。中島みゆきを研究しているホームページということです。昔は「別れ歌歌い」とか「悲恋の歌手」と言われましたが、現在では「応援歌歌い」と言われているようです。以前のファン層は若い女性だったけれども、現在では中高年の男性が中心だそうです。うちの門徒にもファンクラブに入っている70歳の男性がおりました。この方は、現在のブームとは無関係に昔からのファンなのでした。聞いてビックリでした。小生もカラオケでよく、みゆきを歌います。京都の木屋町に「チボーの家」というスナックがあって、ここでよくみゆきを流していましたので、いまでもよくその情景を思い出します。あそこでかかっていたのは「化粧」だったように思います。あのスナックもつぶれてしまい、寂しい限りです。確かに昔の傾向は、悲恋を歌ったものが多かったように思います。やっぱり、恋愛の本質は「片思い」ということだからではないでしょうか。これは永遠のテーマですね。これを宗教的に料理してみたいと思います。「如来の愛は人間に対して片思い」というのはどうでしょうか。こっちがどう思おうが、如来は人間を片思いしていると受け取ったらどうでしょう。キリストの神のように契約じゃないんです。契約は対等ですよね。こっちが愛せば、向こうも愛すと。駆け引きですね。阿弥陀の愛は、片思いです。こっちが信じようが信じなくても、まったく無関係に人間を愛しています。その愛に触れたとき、人間はアッと思って、心変わりするわけでしょう。駆け引きの愛情じゃ、愛は成就しません。捨て身で相手を愛しているから、愛されている方は、愛にとろかされるわけです。みゆきの「片思い」の悲恋は、そんな永遠のテーマを暗示しているわけです。

 最近の傾向はおっさんたちへの応援歌と解釈されていますけれども、みゆきさんご本人はどういうつもりなのか分かりません。みゆきも小生より、ふたつくらい年上です。ということは、まさに中年の真っ只中にいるわけです。その彼女が、世代の共感をもって、「地上の星」を世の男性に送ったとしても不思議ではないなぁと思います。歌詞を見てみましょう。

風の中のすばる

砂の中の銀河

みんな何処へ行った 見送られることもなく

草原のペガサス

街角のヴィーナス

みんな何処へ行った 見守られることもなく

地上にある星を誰も覚えていない

人は空ばかり見てる

つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を

つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう

崖の上のジュピター

水底のシリウス

みんな何処へ行った 見守られることもなく

名立たるものを追って 輝くものを追って

人は氷ばかり掴む

つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を

つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう

名立たるものを追って 輝くものを追って

人は氷ばかり掴む

風の中のすばる

砂の中の銀河

みんな何処へ行った 見送られることもなく

つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を

つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう

「地上の星」という題名は逆説を含んでいます。星は見上げるものです。しかし上ばかり見上げてきた人間たちは、自分たちの足元に落ちていた星を見つけることができませんでした。禅宗の「脚下照顧」みたいですね。本当に大切なものは、自分にとって身近過ぎて目に入らないものなのです。それを暗示している歌だと思います。

 

2003年02月23日

●今日も、お葬式とご法事が重なってしまいました。土日の通夜葬儀はてんてこ舞いです。そして、法事と葬式が終わって、反省してしまうのです。いったい何のために法事・葬式をやっているのだろうか?と。それなりの疲労感と感謝の念はいただくのですが、それでよかったのだろうか?と。お釈迦様はお葬式や法事をしたことはありません。ですから、現在の日本の僧侶は葬式を縁として、お釈迦様の教えの縁結びをしているわけです。批判的に言えば、「葬式仏教」です。でも、それじゃダメだと感じている仏教徒もたくさんいるはずなんです。そういうひとにとっては、いたるところに仏縁はあります。ですから葬儀も大事な仏縁になるわけです。でも、その葬儀が、果たして本当に仏縁になったのだろうかと考えてみると、まことに心もとない次第です。今日も、火葬場で、ある門徒の人から、「住職の言わんとしていることは、十人の内ひとりくらいしか真面目に聞いていないと思うよ」と。そもそも「人間はやがて死ぬんだとか、自分は何のために生きているのか、なんて考えて生きてるやつはいないんだから。みんな、その日その日のことしか考えてないんだよ」と。それもそうかなぁと思います。たとえ、そうであってもいいのです。十人にひとりでも、耳ある人がいれば、それでいいじゃないですか。

 今日の喪主は、法事に来たとき本堂に貼ってある言葉がいいと言ってました。「死んだわが子にいいところに行くんだよと、そういう私はどこにいくのだろう?」という法語はいいですね、と話してくれました。「本当に、そうだなぁと思いますよ」と。いつも生きてる人間から死んだ人間を見ている眼差ししかないんですね。死んだ人がどんなに苦しみ、その死を大切に考えよと教えているのに、そのことには耳をかさないのです。生きている人間の悲しみの眼差しでしか、死者を愛せないのです。向こうからの眼差しなんてどうでもいいんですね。「俺が悲しいんだから、それでいいだろう」ということです。今日の葬儀で感じたのは、百人の会葬者がいれば、そこには百の葬儀が行われているのだなぁという実感でした。みんな、お棺のまわりに集まってお花入れという儀式をします。故人との最後のお別れに、みんなが花をちぎってお棺の中に敷きつめてゆく儀式です。そのとき、みんなそれぞれのひとが涙を流しています。どんなふうに涙を流しているかというと、生前の故人のイメージをダブらせて涙するのです。生前の故人のイメージは、会葬者ひとりひとりによって違います。自分の知っている故人に対して悲しみを感じているのです。ですから、そのひとにとっての故人なのです。故人はひとりでも、受けとめる人によって変わってきます。これは面白いことです。やっぱり、人間はひとのためには泣けないのかもしれません。ひとのために泣いているように見えて、自分のイメージに対して涙ぐんでいるんですね。相手のことはどっちでもいいのです。残された自分が悲しいだけなのです。そういうと身も蓋もありませんけど、それが本当のところだと思います。

 骨を拾っているとき、あの骨が自分の息子の骨に見えてしまいました。そうしたら、もうそこには立って居られないという感じでした。力が抜けてきてしまいました。自分の力で立っていると思っていたのですけど、やはり家族に支えられているんですね。「立つ」という単純な行為も、他者に支えられていることをあらためて感じさせられました。普段はそんなことを忘れて生きているのです。でも、お葬式の生の場面に出会うと、いろいろと新しい出会いを教えられます。「死」は無限の想像力の宝庫ではないでしょうか。この世の価値を全部否定してくるのが「死」です。その「死」を目の前にして、自分が完全に否定されてしまいます。まったく言葉を失うものが死です。その「死」に接して日々を生きているのだと、あらためて新鮮な思いを頂戴しました。それに引き換え、焼き場の職員が、骨を拾うとき、足のほうから骨壺に入れろというのは、なんという馬鹿げたことかと腹立たしくなりました。「頭から入れると、足と頭が反対になってしまいますので」だってさ。バカじゃないかねえ。骨に頭も足もあるか!ほとんど粉々になっているんだから、胸と足、背骨と肋骨は混在しているし、頭の一部だって混ざっているんですよ。いかにも生きている人間のように骨を扱うことに対して嫌悪を感じます。いかにも故人を大事にしているようにして、ものすごく冒涜しているように感じるのです。ただ黙々と黙って、骨壺に入れればいいんです。それをいちいち人間の理性で解釈しすぎですぞ。骨を拾う資格もない人間が、骨を拾わせてもらっているんですから、拾うほうもただ黙って、黙々と拾えばいいんです。そこに人間の言葉はいらないんです。

 

 2003年02月22日

●Iさんとインドについて話していました。Iさんいわく「インドはカオスの国ですね」。かたや貧民がたくさん住んでいて、餓死して路上で亡くなるひとがいるのに、一方では、シリコンバレーではたらく超一流の頭脳階級がいるという。インド人がゼロを発明したんですからね。発明したというよりも発見したという方が正確でしょうね。ゼロは、中国に来て「空」といわれました。あの般若心経で有名な「色即是空、空即是色」の「空」です。これは何にもないとか、空しいという意味ではありません。物事の本質を射抜いた言葉です。つまり、何にもないからこそ、そこに自分が存在できるわけです。物質は同じ場所に別の物質が存在することはできません。ここにペンがあれば、その場所に他のものを置くことはできません。邪魔になります。つまり物はお互いにお互いを排除しながら存在しているわけです。これはちと、めんどくさい事でした。ともかく、空とは本来性を表現する言葉です。自分は時間がたてばこの世から消えてなくなるわけです。ですから、空なんです。仮に、いま、ここに存在しているだけなんです。だから今が大事なんです。一瞬しかないから。花火のような存在だから、大切なんです。いつまで、存在し続けることができるならば、尊くもないのです。ですから、ほんとは仏さんなんて、尊くないのです。時代を超えて、場所も超えてある阿弥陀さんなんて、ほんとは尊くないのです。当たり前のことですから。しかし、この自分自身は仮の存在です。一瞬しかこの世に留まっていないのです。ですから尊いのです。自分ほど尊いものはないのです。この尊さに気づかせてくれるから、仏さんが尊いのです。初めに仏さんが尊いのではないのです。自分に気づかせてくれたからこそ、尊いのです。

 今日は六組の聞法会でした。講師は二階堂行寿先生でした。印象に残った言葉は、「自分の居場所はありますか?」です。それから「自分が感じたことからしか出発できない!」という言葉でした。女は自分の居場所をもっているけど、男は年取ると自分の居場所がなくなると座談会で話されたそうです。ここに安心していることができる。そんな場所をもっているでしょうか?という問いかけでした。企業ではリストラで、自分じゃなくても、代替物はたくさんあります。そこには自分の安住の居場所はありません。自分の家庭が平和で何にも問題がないというのは、そのひとがそう言っているだけで、他の家族が聞いたら、「自分が我慢しているからだよ」と言われてしまうそうです。やっぱり、本当の居場所は淨土しかないのでしょう。この世には自分の安住の場所はないのです。安住するときは、死ぬときだと思います。安住できないからこそ、楽しいのでしょう。明日は何が起こるのかワクワクしながら、未来を待ち受ける余裕が生まれます。それが、この世を生きる味でしょう。味には苦みも、甘味も辛味も酸っぱみもあります。単調じゃないのです。どうせ同じ一生を生きるならば、できるだけ、いろんな味を味わってゆきたいと思います。これは食いしん坊ならではの表現かもしれません。

 

 2003年02月21日

●「猫には霊が見える」と聞いたことがあります。そういえば、部屋の中にいるとき、彼らはある一点を見つめているときがあります。人間にはなんにも見えないのに、ある一点を凝視しているのです。あんまりジーッと見つめているので、目の前で手を振ってみました。しかし、彼の眼の焦点距離は変わらないのです。つまり、なんにもなかったかのように動じないのです。ああ、そうか、「霊」を見つめていたのか。あれって何を見つめているんでしょうかねえ。やっぱり霊なんでしょうか。人間でも見える人はいるんですね。運転していたら、バックミラーに後部座席のひとが見えた。それは霊だったそうです。振り返ると、そこにはひとが乗っていなかったといいます。「これはおかしいことなんでしょうか?」と問われたことがありました。「そんなことはありませんよ。見える人には見えるんです。見えないひとには見えないんです。決しておかしなことじゃありませんよ」とお話ししました。自分には見えないからといって、そんなものは存在しないのだと断言するのは傲慢です。そんな失礼な話はないと思います。でも、見える人も見える人で、「なんでお前たちには見えないんだ!」と怒り出すのもおかしなもんです。見えない人は自分の鈍感さを嘆くしかないのです。見える人は見える人で、見えた霊と対話してゆきべきでしょう。まぁ対話しなくても、その関係を保ってゆかれれば宜しいのではないでしょうか。それはおかしいことでもありません。自分の感じている世界ですから、誰もそのことを否定することはできません。長い人生のある期間、霊が見える時期というものもあります。ある時期には見えていたけれども、ふと見えなくなるときもあります。小生は学生の時、よく「金縛り」という体験をしました。でも、金縛りを体験したことのないひともいるんですね。誰でも体験していると思い込んでいましたので、それは驚きでした。布団に入って寝入りばなに起こりました。科学的には覚醒時の意識が眠りに入り、肉体の自由が効かなくなった状態に起こるのだそうです。小生の友人は、誰かが夜中に自分の下宿に入ってのしかかってきたといいます。その時の恐怖は何ともいえませんね。これは体験したものにしか分からない世界です。友人は体がまったく動かなかったといいます。いくらか時間がたって、体の自由が取り戻せた時、走って友達の下宿に逃げこんだと聞きました。単に体が自由に動かないばかりではなく、ものすごい恐怖が襲ってくるのです。小生の下宿は京都市の紫野の旭ヶ丘にありました。そこからは京都の市内が遠くに見渡せました。夏だったので窓を開け放って眠っていました。すると、UFOが編隊を組んで飛んできたのです。小生の下宿に向かってやってくるのです。窓が開けっ放しだったので、窓を閉めて隠れようとするのですが、体がまったく動かないのです。このままでは見つかってしまうと、ものすごく焦りました。そんなおかしな金縛りもあるんです。普通は、時計の秒針の音が徐々に大きくなってくるとか、誰かが部屋のなかにいるとか、のしかかってくるというのが多いようです。最近では、金縛りにあうこともなくなりましたので、これは青春期に特有の出来事なのかもしれません。しかし自分がそんなおかしな体験をしていると、他の人のおかしな体験を聞いても、「そういうこともあるよなぁ」と受けとめることができるようになりました。表層の意識では、どれほど不可解な出来事でも、深層の意識のレベルで受けとめれば、また違った様相を示してくることがあります。小生は「呼ばれている」という表現をします。たとえば、インドは、初体験で大好きになる人と大嫌いになるひとがいるといいます。不衛生だとか、時間にルーズだとか、そんなイメージのひとは大嫌いになり、二度とインドへは行きたくないと思います。しかし反対にインドを旅行するのが大好きになるひとがいます。いわゆるリピーターというひとですね。どうして嫌いになるのか、好きになるのか、その理由が分からないのです。ですから、好きになるひとは「インドに呼ばれている人」だということにしています。これは趣味の世界も同じです。山登りが大好きな中高年は、山に呼ばれているのです。通勤帰りにどうしても、赤チョウチンに引き込まれてしまうひとは、赤チョウチンに呼ばれているのです。ゴルフが三度のメシよりも大好きだというひとは、ゴルフに呼ばれているわけです。「呼ばれている」わけですから、ご本人はなぜ、それが好きなのかを理解することはできないのです。理解できませんから、他人に説明することはなおさらできません。ただ、そのことが好きで好きで仕方がないということだけです。なぜなのかは本人にも分からないのです。このことをよく、周りの人は理解してあげることが大事だと思います。人間は表層の意識、つまり「日常の意識」だけでは説明のつかない生き物なのです。そんなことはないとおっしゃるかもしれませんけれども、案外、そのひとの心の中にも、不可解な部分がたくさんあるはずです。そーっと覗いて見てごらん。そーっと覗いて見てごらん。

 

2003年02月20日

●韓国で地下鉄の火災事故がありました。大勢の方が亡くなりました。原因は放火だそうです。恐らく、過失による出火は想定されていても、放火による出火は予想していなかったことでしょう。日本の地下鉄の場合にはどうなのかとテレビで検証していました。ソファーは燃えにくい素材を使っているから大丈夫だと言っていました。しかし放火による出火は想定していないのではないかと思いました。タバコがソファーに落ちたという程度のことを想定しているのでしょう。放火であれば、放火犯も一緒に怪我をしますから、これは自殺行為として、なかなか想定しにくいことです。かつてのサリン事件のように、何かを撒いて自分は電車から降りるという程度は考えられます。ともかく走行中の地下鉄が火災になったとき、その場では止まらずに、次の駅まで走るそうです。駅のほうが消火行為や非難行為がスムーズにいくからだそうです。しかし燃えにくい素材で出来ている地下鉄だけに、燃え出すと有毒な煙が充満するのでしょうね。亡くなられた方々は、恐らく煙が最初の原因ではないかと思いました。そもそも、電車を地下に通すということ自体が所詮無理な話じゃないでしょうか。モグラかミミズのように、真っ暗なトンネルを走るなど、まったく考えられませんよね。地上には人間が住んでいて、電車を走らせるスペースがないから、仕方なく地下に潜ったということでしょうね。ですから、これは過密な居住空間が電車という移動手段を地上から排除して、地下に押し込めた形になっています。地上に電車が走っていたのなら、その場から脱出することができたはずです。そもそも地下に電車を潜らせたことが原因なんですね。まぁそれをいっちゃおしまいだという声もありましょう。そんなことを言ったって、すでに地下鉄はあるんだからと。それもごもっともです。しかし、地下鉄を利用するときには、そういう目に遭ってもしょうがないということを覚悟して乗らなければならないんですね。それでもいいのです。残された自分が悲しいだけなのです。そういうと身も蓋もありませんけど、それが本当のところだと思います。

 骨を拾っているとき、あの骨が自分の息子の骨に見えてしまいました。そうしたら、もうそこには立って居られないという感じでした。力が抜けてきてしまいました。自分の力で立っていると思っていたのですけど、やはり家族に支えられているんですね。「立つ」という単純な行為も、他者に支えられていることをあらためて感じさせられました。普段はそんなことを忘れて生きているのです。でも、お葬式の生の場面に出会うと、いろいろと新しい出会いを教えられます。「死」は無限の想像力の宝庫ではないでしょうか。この世の価値を全部否定してくるのが「死」です。その「死」を目の前にして、自分が完全に否定されてしまいます。まったく言葉を失うものが死です。その「死」に接して日々を生きているのだと、あらためて新鮮な思いを頂戴しました。それに引き換え、焼き場の職員が、骨を拾うとき、足のほうから骨壺に入れろというのは、なんという馬鹿げたことかと腹立たしくなりました。「頭から入れると、足と頭が反対になってしまいますので」だってさ。バカじゃないかねえ。骨に頭も足もあるか!ほとんど粉々になっているんだから、胸と足、背骨と肋骨は混在しているし、頭の一部だって混ざっているんですよ。いかにも生きている人間のように骨を扱うことに対して嫌悪を感じます。いかにも故人を大事にしているようにして、ものすごく冒涜しているように感じるのです。ただ黙々と黙って、骨壺に入れればいいんです。それをいちいち人間の理性で解釈しすぎですぞ。骨を拾う資格もない人間が、骨を拾わせてもらっているんですから、拾うほうもただ黙って、黙々と拾えばいいんです。そこに人間の言葉はいらないんです。

 

 

2003年02月19日

●「東本願寺の時間」というラジオ放送があります。(日本放送1242キロヘルツ・毎週日曜日午前5時06分〜5時20分・信越放送では土曜日だそうです。)その中に「私の出会った大切なひとこと」というコーナーがあって、小生の選んだ言葉が放送されるそうです。自分でもどういう言葉を選んだのか忘れていたのですが、この言葉だそうです。「ひとはひとのためには泣けない。自分のためにしか泣けない。」だと思います。この言葉は「なんだ、結局、人間が涙を流すのは、自分が悲しいからじゃないか…」という情けない自暴自棄の意味ではありません。また「結局、人間が涙を流すのは、自分のためだけなんだよ!ひとのことなんか関係ないんだよ!」という強がりの居直りでもありません。ただ人間のこころの事実を語っているだけなのです。ひとは自分自身のこころを、そのまままっすぐに見ることができにくい生き物です。自分のこころに起こってきた喜怒哀楽を自分自身で評価するという妙な傾向があります。ちっちゃなことで、腹を立てている自分はなんてダメな人間なんだろうとか。やっぱり、他人のこころは自分には分かりっこないんだ…とか。自分を裁いて苦しんでいるひとが多いです。この裁判官から解放されると生きやすくなりますよ。自分のこころといっても、生まれながらにもっている精神的偏りと、生まれてから育ってきた生育歴による精神的偏りとがあります。ですから自分のこころといっても、自分の思い通りには動かないのです。「どうして、あのひとが好きになれないのだろう?好きなろうと努力してきたのに…(x_x)」と。そういうことはあることです。それはあなたが悪いのでもなんでもない、努力不足でもなんでもない。ただそういう傾向性のあるこころだということです。カニは横にしか歩けないのです。そのカニを前に歩かそうとするのですから無理があります。私たちひとりひとりはみんな異なったこころの形をしているのです。楽しいときの感情の表現も違いますし、落ち込んだときの苦しみの深さもひとそれぞれです。それは、そういうものなんです。でも、人間はもともと「動物」ですから、なんでも自分の思い通りにできると思って生きてきましたから、なかなかそれが分かりません。悪い境遇になってしまうと、自分が努力不足だからだと解釈して、苦しみを倍加させているのです。喜怒哀楽、憂鬱やアンニュイは努力不足でおきるものではありません。そういうこころの傾向性がもたらすものです。憂鬱な時には憂鬱であるしか方法がありません。悲しいときには悲しみに浸っていなければなりません。やがて、台風は通り過ぎて行きます。よく葬儀の時に見かけますけど、人間はどんなに悲しくても笑うことができます。火葬場で身内が焼かれている間にも、親族と談笑することができます。「お父さんたら、ズケズケものを言うひとだったよね。それでデパートで店員を怒らせたこともあったよね…。そのあとお母さんが平謝りに謝ったりしてさぁ…」などと談笑しています。ですから、感情は自分でも思ってもみない動きをします。肉親が亡くなって軽い鬱状態であっても、食欲だけはしっかりとやってきます。「こんなに悲しいのに、お腹ってすくのよね」などとよく耳にします。自分の思い通りに動かない原始的なものが感情や気分なのです。自分でも驚くような動きをします。この微細な感情の動きをよくよく観察してみたいものです。人間はものすごく鈍感な部分と、ものすごく微細な部分が混在しています。その心の動きがやってきたとき、自分はビックリしてしまいます。しかしそれに動ずることなく、まず黙って観察してみましょう。かつて禅僧に、聞いたことがあります。いま道場を建築中だから、坐禅を組む場所がないのです。そのときに師匠から言われたのです。「坐禅を組めなければ、雲を見なさい」と。これは素晴らしい教えだと思いました。禅僧のことを「雲水」といいます。それは「行雲流水」の意味です。「行く雲、流れる水」を生きるものという意味でしょう。空を見ていると、雲が見えます。快晴のときにはありません。快晴とは、まったく感情の動きのない状態かもしれませんね。真夏の空に入道雲がわきおこってくるのを見ると元気が出ますね。あの中に飛行機が突っ込むと、大変な揺れを感じます。入道雲はものすごいエネルギーです。激情かもしれません。秋の空には、鰯雲が、たなびいてゆきます。雲はどこからともなく生まれ、どこへともなく消えてゆきます。そこに諸行無常の意味を読み取るのでしょう。黙ってその動きを観るのです。やがて生まれては消えてゆく感情の雲を発見できることでしょう。たかだか、それだけのことかとおっしゃいますけど。そこにものすごく大事なことが隠されているように思うのです。まさに「仏は細部に宿りたもう」ではないでしょうか。

 

2003年02月18日

●昨日は、脅迫まがいの電話が突然、飛び込んできて、家族一同ビックリしました。「おたくの息子、やってくれたなぁ…。ホームレスに熱湯かけて、相手は大変だよ!オタクの息子だせよ!この落とし前どうつけてくれんだよー!」と。こっちはそれこそ、寝耳に水のことで驚きました。「いま6チャンネル見ろよ!やってるだろー。」テレビを6チャンネルに合わせると、やってました。ホームレスに熱湯をかけて、相手は大変な目にあっているという番組でした。いま、行われた犯罪なのか、どうなのか分からず。息子も不在だったので、こっちもあわてて城東警察に電話をして確認しました。うちの子どもじゃないということが判明しました。そんなことをするような子どもじゃない。でも、うちの名前も知っていて、目撃者もいるというのです。おそらく濡れ衣か、あるいは見当違いかと思いましたが、城東署へ連絡しました。再び電話が鳴って。城東警察に確認したことを告げると、「警察にいくらつかませたんだよぉー」と言うのです。つまり、袖の下を渡してもみ消してもらったと考えているようでした。これは話にならないと思って電話を切りました。それきり今のところ電話はありません。去年の質屋さんの殺人事件といい、年末のサイセン泥棒といい、なんだか不穏な状況が続きます。まったく娑婆は厄介なところです。次から次へと様々な出来事が起こってきます。そのつどどう対応していくか、苦労が多いです。まぁ状況に流されながら、その都度その都度、丁寧に対応してゆかなければなりません。しかし、断固として断るべきことは断らなければなりません。よく商品や証券の勧誘の電話があります。こっちが集中して何かをしているとき、たあいのない電話をもらうと、頭に来ます。でも、一応こっちはお寺なので、そうゾンザイな断り方もできませんので、丁重にお断りいたします。「それは結構でございます」という断り方はダメだと聞きました。「結構」という言葉は、「イエス」と「ノー」の二通りの解釈ができるからです。「よろしい」という場合にも「結構ですね」と言いますし、「それは必要ありません」という意味でも「結構です」と使います。こっちが不必要という意味で用いていても、相手は、「必要です」という意味に解釈されれば、相手の思惑にはまってしまいます。ですから、「いりません」とか「やりません」とか「必要ありません」と拒否のメッセージを相手に伝えなければなりません。これが2003年の現在の日本を生きているということなんですね。平安時代にはなかった新たな厄介事です。江戸時代には、演芸の世界で「もぎ取り」というのがあったと聞きました。木戸銭を初めに「もぎ取って」しまってから場内へ客を入れるそうです。小屋の前では、「いのちの親だぁー」と言って、宣伝するそうです。そして木戸銭を取ってしまって、中へ入れる。「どこにいるの?いのちの親?」「あんたの目の前だよ」。すると丼にご飯がいっぱいに盛ってあるそうです。これは確かにいのちの親だという落ちで、客はしゃれに騙されたことと可笑しさとで、納得したそうです。他にも有名なのが、「六尺の大イタチ」というのがありますね。「六尺の大いたち、どこにいるの?」「お前さんの目の前だよ」「そこに木が立てかけてあるだろ?そりゃ六尺あるんだよ。真ん中に赤いもんがついてるだろ!そりゃ血だよ。大板血(オオイタチ)だよ」というのを、志ん生の落語で聞きました。それでお客が怒って、金返せといわないところが、江戸の民衆の受容力の大きさでしょうね。現代ならば、詐欺行為ということになりましょう。

 やはりこの時代は病んでいるんでしょうね。被害者意識で充満しているように思います。自分はいつも虐げられているという感覚です。そして悪いのは政治家だとか、一部の富裕層だとか、お役所の役人だとか、そういう批判は必ずありますね。自分の被害者意識の目に映った人間を、罪人にしたててゆくのです。自分が被害を受けて苦しんでいるのは、あいつらが悪いんだという発想です。小生も、そういう感覚に襲われていた時期がありましたので、あんまり言えないんですけどね。思春期の学生運動をしていたころは、悪いのはブルジョアジーであり権力で民衆を支配している権力者であると思い込んでいましたからね。しかし物事はそんなに単純に短絡的に見ることはできないのです。物事は、すべからく一つ悪いところがあるからといって、全部が悪いというふうには出来ていないからです。それはひとりの人間の上にも言えることです。ひとつ欠点があるからといって、そのひと全部が欠点だということは絶対にないのです。ひとから見るとものすごく欠点だらけのひとだと見えていても、どこかに必ずそのひとのいい面が隠されているのです。それが人間には見えていないだけです。それが見えているのは仏さまだけなのでしょうけれども。人間は仏さまの眼を持つことはできません。限界があります。でもその限界を知っていればこそ、仏さまの眼から見られたその人はまた違った面をもっているのかもしれないと推測することは可能なのです。こういう意味の想像力が大切だとつくづく思います。現代人は、あまりに即物的になりすぎて、想像力も枯れてしまったようです。あの「千と千尋の神隠し」の世界が生まれてくるような想像力の世界を豊にしてゆきたいと思います。人間の内面の世界は、外の世界以上に広く果てしないのです。

 ユングというひとは「イメージは生命力をもつが明確さに欠け、概念の方は明確ではあるが生命力にかける」と述べているそうです。この言葉は私の大好きな言葉です。イメージとは想像力の世界の出来事です。自分が自分自身について思っているイメージ。これは、他人が自分を見ているイメージとはズレています。試しに、あなたは私にたいしてどういうイメージをお持ちですか?と聞いてみると面白いと思います。小生もそのズレを体験しました。小生はひとから社交性があって明るいと思われているようですけれども、そんなことはないのです。自分のイメージは孤独が好きで、内向的な性格だと思っているのです。今は自分探しブームで、エゴグラムなどの方法で自分の精神的傾向性を知ることもできます。そんなふうに自分を知ると、自分を対象的に知ることができ便利ですよ。それはともかくイメージは力を持ちます。たとえば、「仏さま」とか「如来」という人格的表現をどういうイメージで受けとめたらいいでしょうか。イスラム教等の一神教は「偶像」を排除します。神はこの世の形を超越しているからです。この世の形に神を表現することは、神への冒涜なのです。しかし仏教はたくさんの諸仏の形を大切にします。それは、仏や如来がこの世を超越していることくらいは知っているのです。しかし敢えて形をとることによって、つまり人間にイメージとして内面化しやすい形をとって、超越した如来に触れるきっかけにしてゆこうというのです。もし、まったく超越していて、触れることができなければ「救い」とか「悟り」ということは起こらないのです。ですから、一神教の世界は、神に触れることができなくなります。人間はこの世の生き物です。そのこの世の生き物に、どうして超越者が触れられるのでしょうか。仏教は、この世を超越した仏法に触れることによって、救いを実現してゆきます。ですからイメージを大切にするのです。メタファーとしてのイメージを大切にします。それが概念として人間の理性のまな板の上に載せられれば、仏さまは死んでしまいます。明確だということは、まな板の上の鯉になったということです。理性的に明確に概念化することも必要です。しかしそれはあくまで限界があり、人間の救いとは無縁のものです。ちょうど薬の成分表のようなものです。成分表の世界は、これも大事で、基礎医学の世界では重要な仕事です。これなくして薬は作れません。しかしそれをどう服用するか、いつ服用するか、どの程度服用するかという世界も大事なのです。それは臨床医学の世界です。救いとは、臨床医学の世界のことです。これは車の両輪のように相補的に存在しています。仏のイメージはどこまでも膨らんでいくものです。豊に広がっていったものが「西方淨土」という世界イメージでしょう。それを打ち消す必要はありません。しかし、それを明確に基礎医学の側面で把握しておくことも必要なのです。この時代は、もっともっと「イメージの教学」が豊になるべきではないかと思っております。それが、人類の優しさのゆくえに少しでも貢献できることではないでしょうか。

 

2003年02月17日

●Mさん、なかなかお目にかかれませんね。あなたの疑問は、二度ほどお聞きしました。「死んだお父さんは、どこへ行かれたのか?」という疑問ですね。亡くなったひとは、必ず阿弥陀様のお浄土にゆかれています。小生は、そう受けとめさせていただいております。ただし、阿弥陀様のお浄土を観るには、人間の眼ではダメなのです。人間の眼でみるお浄土は、「月」や「星」や「霊界」や「地獄」とか「天国」です。人間の眼でみるということは、別の言い方をすると人間の手づかみにするということです。仏さまを手づかみにして、冒涜することなのです。阿弥陀様のお浄土は、この世を超越していますから、人間の眼で見ることはできませんし、考えることもできません。譬えれば、望遠鏡なしに火星を見るようなものです。肉眼では見えませんよね。これは譬喩ですが、お浄土を見るには、この世を超越した眼を獲得しなければなりません。それを「回向(えこう)の信心(しんじん)」といいます。この信心なしにお浄土を観ることはできません。ですから、あなたが今のままで、お浄土を観ることは不可能なのです。もし、観たというのなら、それは幻想です。テレビではよく、霊媒師が死んだ人を呼び出したり、声を聞いたりします。あれを信ずるかどうかです。もし、声が聞こえてきたら、死んだ人は成仏していないということですよね。成仏するということは、この世を超越したということですから、肉眼で見たり、音声を聞くことはできません。苦しみもなければ悲しみもない世界がお浄土ですから、人間に対して何事かを要求することは、あり得ないのです。人間は、それでは寂しいといって、霊媒師の口から、亡くなった人の声を聞き出したいと思うのです。自分が寂しいから、人間が仏さまにいろいろな要求をするのです。成仏された仏さまは静かにそっとしておいてあげたいと思います。

 「回向の信心」を獲得するには、聞法(もんぽう)しかありません。聞法とは「教えを聞く」ということです。浄土真宗の行は、坐禅したり、滝に打たれたり、というようなフィジカルなものはありません。いたって、知的修行です。内面の修行ですから、いつでもどこでも可能なわけです。時と場所を限定しません。いつでも、どこでも修行の場だというのが、聞法の行です。聞法の行の手がかりは、先人の「言葉」を手がかりとします。先に聞法の行をされた人々の言葉をです。まぁ、入門書であり専門書である教えは『歎異抄』(たんにしょう) でしょう。これは、親鸞の語録です。現代語訳や解説書もたくさんありますから、書店で見て下さい。なければご紹介します。岩波文庫にも入っていますよ。『歎異抄』は、18章に別れています。短い章が集められて一冊になっています。どの章でも、気になる章を暗記します。暗記するほどに読むということです。できれば10章まで暗記していただくと、だいぶ聞法の行も深まります。できなければ自分の気になる章で結構です。まぁ暗記すると本がなくても、その場で行に入り易いので、暗記して下さい。教えの言葉を深く思い起こしていくと、「自分が読んでいる」という感覚から、「自分に呼びかけられている」という感覚に変わってきます。これが聞法の行の深まりです。そして、だんだんと気になる言葉が響いてきます。この言葉を大切にして下さい。そして、日常生活をしている時に、フッと「このことを親鸞聖人はおっしゃりたかったのではないか」という直感がやってきます。こうなったらしめたもんです。ですから、日常が大事なんです。別に、人に優しくしなさいとか、口をつつしみなさいとか、礼儀正しくしなさいなどという「道徳」は要求しません。そんなことはどちらでもいいのです。ひとと喧嘩しようが、大酒を飲もうが、そんなことはどちらでもよろしい。ただ、いつでもどこでも、教えの言葉があなたと一緒にあることを大切にして下さい。「日常」と「教えの言葉」は密接に関係しますので、「日常」のこころの動きを丁寧に見て下さい。自分で判断して、「こんなこころではダメだ」とか「自分もまんざらじゃない」とか、評価はしないでください。ただ、起こってきたこころを静かにご覧になってください。静かに観ることができるようになれば、それはかなり聞法の行が深まっていることが分かるはずです。

 それから、先人の話を聞くことです。話とはパロールです。書かれた文字はラングです。ラングは規則正しく、紙に印刷された文字をいいます。文字は、どうしても人間のわがままを許します。つまり、読み手によって勝手に意味を受け取られてしまうということです。その点、パロールは生きた人間から発声される音声言語ですから、あなたの思い込みや、了解の間違いを指摘してもらえます。どうしても、生(なま)の教えを通すということが大切になってきます。思い違いや、憶測を指摘されて、そこからまた聞法の行が深まってゆきます。そしてとうとう、「回向の信心」が開かれる時がやってくることでしょう。まぁ聞法の行は20年くらいやる覚悟で考えて下さい。「エーッそんなに長くやらなければだめなの!?」とお思いかもしれません。その覚悟がなければ、あきらめて下さい。まぁ、エベレストに登る登山者が頂上を覗いてしまったような感情かもしれませんね。8000メートルの山頂を見れば、だれしも怖じ気づくものです。脱力感に襲われるかもしれません。しかし、あの8000メートルのエベレストも、決意しなければ絶対に登ることは不可能です。実は、その決意が最初の「一歩」になるわけです。そしてその一歩のところに、頂上が来ているのです。一歩決意すると、そこに向こうから頂上がやって来てくださいます。その一歩を8000メートルまで続けようかと決意すると、8000メートルを行かずして、頂上がやって来てくれるのです。これは不思議です。ですから、20年も一瞬のうち成り立つこともあるのです。まぁあんまり裏の裏まで書かないほうがいいかもしれませんね。一瞬で開けるのなら、やってみようかと打算が働きますからね。そこには、いたって「逆説」があるんです。あの「花咲爺」に出てくる「ズルガシコイおじいさん」の逆説です。殿様が来た時に灰を振りかけて花を咲かせようとします。しかし、灰は花にはならず、殿様にそのまま灰をかけてしまいお目玉をくらうお話です。灰は花にはならないのですが、それが花に変化するところが、あの物語の面白いところですね。しかし「ズルガシコイおじいさん」は打算で考えます。灰をまけば花が咲く、花が咲けば、褒美がもらえると。これは名利打算というものです。「こうすれば、ああなる」というハウツー理論です。信心の世界は、このハウツー理論では開かれません。このハウツー理論をなくしてしまえということではありませんよ。そうなったら人間の生活は成り立ちません。ただ、信心の世界は、そのハウツー理論の底に潜んでいるんです。それは逆説の理論です。一見すると、遠くにありそうだけど、やってみると近かったりといった論理です。お経にも「お浄土は西方十万億土にある」と書かれていますし、他のお経には「おまえのこの場所から、遠くない」ともいわれます。一見すると矛盾しているように見えて、実は、私たちに「逆説の論理」を受け入れよと迫ってくるのです。いろいろ書きましたが、一度ぜひ、お寺の会へも足を運んで見て下さい。お寺は敷居が高い場所です。でも、その敷居がエベレストのように高くとも、登ろうと決意すれば、一ミリにも満たない敷居になってしまいます。何事も逆説です。お大事に…。m(__)m

 

2003年02月16日

●「今」を生きよ!とお説教しながら、自分はなかなか「今」を生きていないなぁと思うことがあります。でも、この法事で、門徒の人々と二度と会うことがないとイメージできると、「今」に全力投球できるような気がします。今が臨終だと思え!というとは、イメージ力なんです。そんなこと、臨終でもなければ考えないわけです。明日はないのだというイメージが強くなるほど、今がよみがえってきます。今日も、法事が六件もあって、嫌だなぁと、初めに思っている自分があるのです。それは、事実です。この事実を打ち消してはダメなんです。そんなことを考えている自分は間違っているとか、本当の仏法が分かっていないとか、そういうマイナス評価をしてはダメです。起こってきた事実は、事実として見つめなければなりません。なぜなら、それは自分が勝手に起している思いではないからです。専門用語では「他力」ということになります。起こるべくして起こってきているこころです。人間であれば、そういう状況に置かれれば、必ず起こってくる思いなのです。聖書では「明日のことを思い煩うことなかれ」と言ってますね。そのとおりですよね。それは、刹那的に「宵越しの金は持たねぇ!」というヤケノヤンパチじゃないんです。明日のことを思い煩って、「今」を殺しているじゃないかという誡めなのです。未来が今を生かすのではなく、殺すハタラキをしてしまっています。まぁ「取り越し苦労」というやつですね。実際には、煩っている未来になっていないのに、ここには存在していない未来を思い描いて苦しんでいるわけです。その場になったら、まったく違う世界が開かれるのに…。未来が現実の今になった「未来」と、今思い煩っている「未来」とは質が違うんですね。これは厄介なことですけど、大事なところです。未来が嫌だから逃げ出そうとしても、それは逃げられないんですね。この寺を逃げても、同じようなパターンは世の中にゴマンとありますからね。そして自分が逃げ出した後の穴埋めをする人間が必ず生まれてくるわけです。自分は救われても、その人間は救われないことになります。

 そうそう、宮戸先生のことを思い出しました。先生は長男じゃないので寺を継がなくてもよかったそうです。ですから、設計の仕事をしていたそうです。ところがひょんなことから寺を継ぐようになって、困ってしまったそうです。すんなりと、職業としてだけの僧侶になっていれば、なんの疑問もないのでしょう。でも、先生は信仰が分からないものは、僧侶として寺を継ぐことはできないと求道的に受けとめられていました。これは当然の要求でしょう。そして、寺を逃げ出して、先生のところに相談に行ったそうです。すると先生は、「お前は、お寺を引き受けられないというのは分かる。お寺はそれほど大変な場所だ。しかし、お前の抱えている課題は全人類の課題だ」とおっしゃったそうです。なぜ全人類の課題かといいますと、すべての人間が自分の現実を受けとめられないで苦しんでいるんだと。それはお前ひとりの問題じゃない。全人類の課題である。だから、その寺という場所で、全人類の課題を解明してみないかとおっしゃったそうです。どこまで逃げてもその課題はついて回るんですね。たとえ寺を逃げ出しても、ついて回る問題です。自分の現実を受けとめられるとはどういうことか、先生は、そこからもう一度寺を選び直したそうです。

 まさに全人類の課題なんですね。この「自分の現実を受けとめる」ということは。よく寺に見えるおばあちゃんで、「早くお迎えが来て欲しい…」とおっしゃるひとがいます。よくお話を聞いてみると、「生きていること」で嫁や孫に迷惑をかけているから済まないというのです。確かに、それは人間の優しさかもしれません。しかし自分のいのちを資本主義で判断しています。つまり、役に立つものは生きている価値がある、役に立たないものは価値がないと判断しているのです。その発想は、資本主義なんです。おばあちゃんは知らず知らずのうちに、資本主義に洗脳されていたのです。自分でも気がつかないうにち洗脳されていました。これはオウムだけの問題じゃないんです。洗脳は現代でも横行しているんです。いやいやだったものが好きになるという洗脳ではなく、自分も好んで洗脳されていったわけです。金とモノは人間の生活を便利にしてくれましたからね。それだからといって、自分も「モノ」と同じだと判断することは間違っています。自分のいのちは自分の所有物ではありません。まぁ生まれたいと思って人間に生まれたわけでもありませんしね。自分の体を自分で作ったわけでもありません。親からもらった体でしょう。その親もその前の世代からもらった体でしょう。自分の身体は、永遠の過去から、いのちが形をとってきた歴史の現実なのです。これは自分の思いを超えた遺跡のようなものです。ですから、死にたいと思っても死ねないのですし、生きたいと思っても生きられないのです。すべて自分の所有意識とは異なった世界にあるわけです。

この「思い」と「身体」とは違うものだと考えてみる必要があります。「思い」と「身体」がひとつになってしまっていると、ひどい目に遭いますよ。みんな死んでいくのですから、限界を受け入れられません。「思い」は永遠に生きたいのです。でも「身体」には限界があります。このギャップに苦しみます。もともと「身体」と「思い」は別の世界のものだと受けとめてみると、違った世界が開かれるように思います。

「住職のつぶやき」ってコーナーあるけど、ずいぶん面倒くさいこと考えているんだねとご意見を頂きました。確かに、そうだなぁと我ながらあきれ返ります。でも、ひとたびパソコンの前に座ると、自分は画面の世界に埋没してしまうんです。ですから、この世とちょっと違うところに行っているんですね。いわゆる「三昧」というやつですかね。(^^ゞ)で、自分の自由に書いているかというと、そうでもないのです。白い画面を前にしてたたずんでいると、向こうから「こういうことじゃないか…」といって、わき起こってくるんです。その沸きおこってきたところを、指が勝手に動いて、文章にしていくのです。なんだか、自分は、その出来事に引っ張られているだけなんです。ですから、できあがった文章は、自分にとって自分が書いたというよりも、受け身形で感じられるのです。自分が書いたものなのですが、書かされたということなのです。不思議なことです。でも、「書く」という作業は、そういう部分が必ずあるんだと思います。やっぱり「書く」という行為は「他力」なんですよね。呼吸もそうです。まず、吸うという行為が先にあって、吐き出すのでしょう。吸うという受動があって吐き出すという能動が生まれるのです。吸わなければ、吐き出せないのです。人間の最後は「息を引き取る」といいます。人間は息を受動して死んでいくのです。この呼吸がこの世での最後のひと呼吸になるのかもしれません。そして、気がついたら死んでいるわけです。そうなると、このひと呼吸のところに、死と生が交互に展開しているのだなぁとしみじみ感じられます。マクロにみれば、永遠の未来からこの身体は受け継がれて今に凝縮してきました。そして、この世を去って、また永遠の世界へ帰ってゆくわけです。しかし、ミクロに見てゆくと、この吸う息と吐く息のところに「生と死」が現前とあったのだと驚きます。

 そういうことに感ずると、法事のときにはお節介だと思いつつも、ついつい法話をしてしまうのです。みんなは、「そんな難しい話は聞きたくないよ」という顔をされているのですけどれも、ついついやってしまうのです。そして「疲れた疲れた」と愚痴を言っているわけです。「そんなに疲れるのなら、法話やめればいいじゃない」と言われるのですけれども、やめさせてくれないんです。だれかがやめさせてくれないんです。【今日も、東京六組の組会が、目黒区であります。行ってきます。m(__)m】

 

2003年02月15日

●(14日分)さっき練馬(真宗会館)から帰宅し、これからブッディーサロンが始まります。本日は少々疲労気味で、更新はやめようかとひよりそうになったのですが、まだまだはいつくばってはいつくばって、なんとか更新します。

 今日は広島から久保田先生がお見えになってカウンセリングの演習が開かれました。「無条件の関心」ということが根本のテーマでした。クライエントの相談にのっているとき、どうしても自分の関心で話を聞いてしまうのです。そして、クライエントに関心を向けるのではなく、自分の内面に目を向けている自分がいました。やっぱり「無条件の関心」はなかなか難しいものです。特に、クライエントという他人の場合にはまだ、敢えて関心を向けようと努力できるんですけど、家族となるともっと難しいものです。寺は、ひと昔前の二世代、三世代同居型家族です。ですから、嫁姑問題やら、舅養子問題やら、大家族特有のマイナスの面がたくさん生まれてしまいます。たしかによい面もあるんですけど、やっぱりストレスがたまるのはマイナス部分ですよね。プラスの部分はなかなか見えません。家族に支えられているという面は当たり前になっていて、見えないんです。それから、住勤一体型が寺ですから、仕事と休息の境目がありません。いつでも家族が一緒にいるということもなかなかストレスのたまるものです。先生も、ご主人が定年退職されて、いつでも一緒に入るということの辛さがようやく分かりましたとおっしゃっていました。

 以前『地図の読めない女、話を聞かない男』という本がヒットしましたね。そういえば、自分は女房の話を聞いていないよなぁと、思い当たる節が多々ありますね。また、そういえば、女房は地図読めないよなぁとも思いました。今ではカーナビがあるので、喧嘩になりませんけど、以前は助手席で地図を見てもらっていました。でも、全然役に立たないのでさんざん喧嘩しました。最後は「もういい!」といってハンドルを握りながら地図を片手に運転したもんです。地図が読めないのは女性の脳の機能と関係しているのでしょうか。でも、話を聞かない男というのは、困ったもんですね。釣ったサカナには餌はやらないという感じで、結婚してしまうと会話がなくなる夫婦が多いようです。これはまずいですね。やっぱり、「無条件の関心」で聞いてやらないとダメだと思います。いちいち話さなくても俺たちはつながっているんだと考えている人が多いようです。しかしいつのまにかコードレスになっていて離婚なんてこともありますから注意しましょう。さっそく、小生も台所にいって、「調子どお?」と聞いてみたいと思います。

 そこから愚痴がぐちゃぐちゃ出てくるんですね。パンドラのツボのように…。でも、無条件の関心ですぞ。お互い頑張りましょう。

ここまでは、14日分でした。どうしてもアップできなくて、とうとう15日に持ち越しです。それで15日分と14日分を、本日アップしました。昨日のBサロンは11時近くに終了しました。飛び入り参加のおじさんがいらっしゃいました。たまに看板見て、飛び入りがあるんですね。家人が外であったとき、「千円で飲めるの?」と聞かれたそうです。ということは、飲むのが目的だったのかなぁと思ってしまいます。それでも、自分は新潟出身で浄土真宗の門徒だとおっしゃっていました。他の人とは、まったくトーンが違って、自分の関心で発言しておられました。突如「南無阿弥陀仏ってどういう意味ですか?」と。単純な問いは、ドキッとするもんですね。小生は「すべてを仏さまにお任せするという意味です」とお応えしました。「西と東っていうのは、どう違うんですか?」とか。他のひとたちの話題とは無関係に、御自分の関心の問いを連発しておられました。それからは黙っておられました。しかし、少しするとまた「南無阿弥陀仏っていうのはどういう意味なんですか?」と問われました。エーッさっき聞いたじゃないの?とビックリしましたが、小生はまた同じように応えました。「すべてを仏様におまかせすることです。すべてをお任せしたんですから、どんな事が起こっても、すべてを自分が引き受けるという勇気なんです」と。「普通は、家内安全、交通安全をお祈りするのが信心だと思っているんです。それは自分の欲望を拝んでいるだけで、部分的にお任せしているんです。もし、家内安全でなくなれば仏にお任せできなくなるんです。南無阿弥陀仏は自分を丸ごとお任せすることなんです。だから、どんなことが起こっても、それを引き受けるわけです。任せた結果が、よかろうが悪かろうが、そんなことに文句をいう筋合いはないんです。」そんなことを申し上げたように思います。おじさんは、「そうですか。任せるということね」などとぶつぶつ言ってました。やっぱりそのおじさんは仏教徒なんです。だから「仏、仏」言ってるわけです。クリスチャンなら「イエス、イエス」とおっしゃるんでしょうか。(^^ゞ)

 それで、昨日は池田勇諦先生の『法事をつとめる』を勉強しました。人間から死者を供養するのが自力回向で、死者から生者という方向が他力回向だと書かれていました。普通の追善供養は、「住職、これで安心しました。亡き父も、これで安心していることでしょう。」というような法事です。これが一般的ですよね。しかし親鸞は、そんなことは仏教徒の法事じゃないとおっしゃるんです。それは他力回向になっていないとおっしゃるんですね。「そんな難しいことは、いいじゃないですか?喪主も親族も喜んでいるんですから、そんな面倒くさいことは言わないで、お酒でも、まぁいっぱいいきましょう」と言いたくなりますね。自力回向は、人間の発想ですから、分かりやすいんです。こっちから死者に愛を捧げるわけですからね。でも、肝心の亡き人は、安心しているのか怒っているのか分からないんですね。たぶん安心しているだろうという考えで法事を勤めるわけです。亡き人に聞いたことがないんですからね。

 それじゃ他力回向って何?ということになります。これが分からないんですね。向こうから回向されているとか言われてもピントこないわけです。まぁ方向を逆転して考えてみましょうという問題提起ですね。愛が一方通行になると、腐ってゆきますよね。親が子どものため思って一生懸命に愛をかける。子どもが不自由しないように、なんでも物を買い与える。せめて自分たちの世代のような惨めな思いをさせたくないという愛情が、そういう行動をとらせるわけです。物さえ豊になれば、幸せなんだと。そうやって戦後世代は親を演じてきたわけです。でも、それは一方通行ですよね。子どもたちがどういうふうにそれを受けとめていたのかは、分からないんです。物があれば、幸せだろう、オモチャをもらって喜んでいたじゃないか、と。しかし、それが現代の物あふれ社会になってしまった要因なんです。物が豊に氾濫していますから、もう何もいらないと。むしろ何を欲求してよいのやら分からないという「豊さゆえの貧困」が発生してしまったのです。愛情はよいことですから、誰からも批判されないんです。親の子どもへの愛情、子どもから親への親孝行など。これは美しい姿だと称賛されても、批判されることはないのです。しかし、いたって、物事、「善いことに潜む毒」が見落とされてしまうのです。「善に潜む偽善」に無自覚になっているのです。悪魔はいつでも天使のような顔をしているものです。そこに光を当てたのが他力回向という言葉でしょうね。

 その愛情は一方通行になっていませんか?愛情を投げかけられている子どもは本当に幸せなんでしょうか?と。いい気持ちになっている愛情に水を浴びせるようなことを言うのです。ほんとに如来は、嫌味です。人間がいい気持ちになっていると、「それでいいのかねぇ?」と問うてくるんです。この問いの方向性が他力回向です。人間が行う回向ではないのです。人間からは生まれない回向が他力回向なのです。

 

 2003年02月13日

●昨日は、広島から、春日キスヨ先生がお見えになりました。現代はモノ溢れ社会だとおっしゃいました。つまり、物が溢れているから、子どもたちは欲求することが出来なくなってしまっている社会だと。そこから様々な問題が起こってきていると。まぁ、この程度のことは、誰もが言っていることで驚きませんでした。そこから、家族の問題を語られました。家庭とは、いろいろ欠点もあるけれど、そのひとは、そのひとのままでいいんだよ、そのひとのままでここに居ていいんだよと受けとめてくれる場所でした。しかし、家族にその受けとめる力がなくなっていることが危機であると語られました。現在は、幼児虐待ばかりでなく高齢者虐待も存在していることにも驚きました。

 登校拒否の問題で、河合隼雄先生が事例を書かれていました。こんなに発達した時代で、ボタンひとつでロケットが宇宙へ飛んでいく時代なのに、なんで自分の息子を学校へ登校させることができないのだろうと悩んでいるお父さん。これは貧困の戦前戦後時代にはなかった問題です。豊さのなかの諸問題が噴出しています。それに、河合先生は、貧しい時代は、物がなかったから我慢するのが当然だった。しかし、豊かな社会で、物が買えるのに、それを押し止めることはものすごく難しい。お金があるのに、敢えて子どもに即座にオモチャを買い与えないというとこはものすごく努力が必要です。豊かな方が、貧しい時代よりも子育ては大変なのだと語っていました。以前は家族など、問題になりませんでした。家族は「ある」のが当然という前提で営まれていました。オヤジは稼ぎ、女房は育児と役割分担がハッキリしていました。しかし、現代は、「家族」を「する」ということに、大変な労力を必要としてきているのでした。自分の家族を対象化して眺め、つねに意識的に家族を考えていかなければならなくなりました。そういう時代に突入してきたのでしょう。春日先生は、家族の未来に明るみがあるためには会話が必要なのだとおっしゃいました。会話が家族を安定させていく要素として、大切になってくると。その会話も、事務的な会話ではなく。気持ちを伝える会話でなくてはダメですとおっしゃいました。つまり、自分の弱さや、正直な感情を伝えなくては会話ではないということでしょう。自分は父親だからとか、母親だからとか、そういう肩書を背負って会話しているうちは会話になりません。子どもと同じ地平に立って実感し、言葉をつたえてゆくことでしょう。これは大人にとってとても労力のいる作業です。オヤジは娑婆の仕事で疲れているのに、また家に帰って、そんなことを演じなければならないのかと頭を抱えることでしょう。でも、疲れていても、趣味だと思えば、違う力が出てくるものです。そこには、他者に対する関心がどうしても、不可欠の要素としてなければなりません。他人であれば、関心を持ち易いのです。それを普段、顔を合わせている家族に持てるかといったら、これも至難の業ですね。何十年も一緒に暮らしていれば、相手に対する関心は当然薄れてゆきますから。知らないことはないくらいもんです。それでも敢えて、家族に対する関心が持てるヒントはどこにあるのでしょうか。小生、そのことについて内心で思っていることがあるんです。それは、「家族は必ず死ぬ」ということがヒントだと思います。永遠に家族が続くということはありません。家族は一時的な人間の集合体に過ぎません。妻も夫も、親も子どもも孫も必ず死にます。死につつある家族に毎日出会っているのだということが、日常の要素に入っていれば、そこに家族への関心が生まれてくるように思います。「死ぬ」ということを忘れていれば、無関心に吸い込まれてしまいます。ですから、日常の中にどうやって「死ぬ」ということを盛り込むことができるかということが大事だと思います。「死ぬ」ということは、別の言葉でいえば「限りがある」ということです。「有限」な存在ということです。人間、「限りがある」ものには、愛着を感じます。ウイスキーのビンが空に近づくと、「惜しい」という気持ちにさせられます。「もうなくなっちゃうの…」という寂しさがやってきます。ふんだんにあれば、物を大切にしません。物はそうです。しかし、いのちはふんだんにはありません。一瞬先に死はありますから、「限りがある」というのが身の事実です。「思い」は永遠を夢見ます。「ふんだん」を夢見ます。でも、事実は有限。ここに帰って今日を生き始めれば、家族も輝かしい未来があると思っています。ですから、家族もこの世の論理では衰退してゆくのです。どうしても「死生観」というか、「宗教観」がないと存在できないのです。

 それから春日先生のお話の中にこんなことがありました。先生は大学で学生を教えています。彼女らは、男性と付き合ってもすぐに別れてしまい、また別の男性と付き合っていくといいます。高齢の先生にはそれが信じられないといいます。昔は「この人こそ絶対のひとだ」と信じて付き合っていくから、そんなに別れるということが頻繁には起こらないのだそうです。でも、彼女らは、失恋してもすぐにまた別のひとと恋愛をしてゆきます。それが不思議に思って、尋ねたそうです。「失恋して、別の男性と付き合う時、どんな気持ちになるの?」と。するとある女学生が言ったそうです。「自分も成長したなと思う」と。つまり恋愛と失恋は、自分が成長していくためのステップになっていると。現代では、そうやって絶えず自分を作り替え成長していくという物語で自己を受けとめているというのです。

 唯一とか、絶対とか、永遠というものに賭けることが、出来にくくなっているのが現代なのかもしれません。恋愛の相手が絶対だ、唯一だと思えない。それで次々に恋愛輪廻を繰り返してゆく。また、結婚しない人間も増えているんですね。「40代未婚率の推移」というデータがあります。1970年代には男性2,8・女性5,3だったものが、2000年には男性18,4・女性8,6となっています。つまり百人のうち18人の男性が、女性は8人が未婚ということです。女性の社会進出や自立が現代の風潮です。それも未婚率をあげているひとつの要因でしょう。先生は卒業生に聞いたそうです。「どうして結婚しないの?」と。すると、彼女たちは「いい男がいないだもん」と答えたそうです。欲求水準が高いのか、あるいは男性に問題があるのか、そこらへんのところはよく分かりません。単純に恋愛だけを楽しんでいたほうが、メリットが大きいことは確かです。女性が結婚をすれば、食事も自分で作らなければなりませんし、炊事洗濯を家族の分もこなさなければなりません。また、男性が結婚すれば、給料も家族に取られてしまい、千円亭主に甘んじなければなりません。損得で考えれば、結婚は「損」ということが分かります。そのうえ、亭主の親を面倒みなければなりませんから。結婚即介護というひとつらなりのデメリットになってくるわけです。

 まぁお寺でも、「帰西廟」に人気が出てきました。つまり、個人で入れる共同のお墓ということです。もはや家単位では、お墓の将来もないわけです。一生シングルのひと、結婚してもお子さんのいらっしゃらないかた。また、たとえお子さんがいても女の子だけで嫁いでいってしまえば、それっきりということです。家そのものが、崩壊してしまっているのが現代なのです。少子高齢化社会とは、個人が、徹底して個人について考える時代に突入したということでしょう。もう、人間が生きるためのひな型やモデルは存在しないのです。これがよいとか、あれがよいとか言えないのです。「本当なら…」とか「常識的に…」とか「世間では…」というスタンダードはなくなってしまったのです。嘆いても、仕方のないことです。それは個人の問題ではなく、社会という大きなうねりのような流れのなかの出来事なのです。そのうねりの外に自分は生きられないのです。むしろそのうねりの中に身を投じて、泳ぎきってみたいと思います。でも、まったく前例のないところから、「家族」を作ってゆく楽しみも生まれてきます。これは面白そうです。

 春日先生は、閉じていく家族を開くには、コミュニティーが鍵だとおっしゃっていました。しかし、これもなかなか難しいことだと思いました。家族は閉じてゆくものですから、それを他者が介在していくことにまだまだタメライがあるのが現状ではないでしょうか。できるだけ、当事者が、自由に選択できる形での関わりが望ましいと思います。しかし幼児虐待やストーカー等の問題は、どうしても社会が介入してゆかなければならない問題なんですけどね。今日は、時間もないので、このへんにしときます。これから、練馬(真宗会館)へ行ってきます。

 明日は、また広島から久保田先生がカウンセリング講座に見えます。なんだか広島に縁がありますね。これぞ「たのくるしい」という授業です。また、ご報告します。お楽しみに。(^^ゞ) 

 

2003年02月12日

●「裏を見せ、表を見せて、散る桜」でしたっけ、良寛の詩は。人間あんまり、裏と表が違い過ぎるのも気持ち悪いですよね。家ではワガママいっぱいのワンマン亭主でも、外に出ると物分かりのよいオジサンになるひとが結構多いようです。ソトヅラしか知らないひとは、まさかそんなワガママな頑固オヤジだとは知るよしもないのです。まぁ大なり小なり、その傾向はあるんですけど、あんまり激しいと背筋が寒くなりますね。ワガママとは、一番安心しているときに出やすいものです。自分が一番自由に、気ままに振る舞える空間で、発揮されます。だいたい、それは家庭が多いようですね。「アレ、取って来いよ!」と怒鳴っているオヤジを見かけることがありました。「アレ」じゃ奥さんも分からねえだろうと思います。しかし、意外と「ア〜あれね」とか言って、分かってしまうときもあるんですね。社会では通用しない以心伝心も、家庭では通用してしまいます。ところが、その「アレ」が奥さんに通じないときがあるんです。そうすると旦那のワガママぶりは大変なもんで、「なんで分からねえんだ!アレだよ!アレ!」なんて、絶叫したりするんです。これは甘え以外の何ものでもありませんね。俺の言うことをすべて分かってくれるのが妻だろう、それを分からないなんて承知しないぞ!そんなお前を、俺は受け入れないぞという表現なんですね。「赤い糸、いまじゃ、夫婦も、コードレス」という川柳があるくらいですから、甘えも程度問題で、あんまり激しい甘えは興ざめしてしまいます。

 小生は、あんまり表と裏の生活が違い過ぎないように気をつけています。裏表がないと言えば嘘になります。どんな人間でも裏表はあるんですけど、その程度があんまりひどくならないように気をつけています。とかく寺の人間は、門徒から特別視されてしまいますから、気をつけなければなりません。「在家仏教」でなければ、聖人でいいんですけど、われわれ在家仏教徒は、裏表があっては成り立ちません。やっぱり、美味いものは美味いと正直でなければなりません。美味しいものを食べた時に感動を表現できないような人間には成りたくありません。寒い時には、寒い寒いというふうにしていなければダメです。寒いのに、なんともないという顔をしていてはダメでしょう。それは自分にウソをついていることになります。美女を見て「キレイ!」と思うとか、ホームレスを見て「汚い」と思うとか、それは正直な感情の動きです。それをあたかも、そうではない、キレイなものを見ても「たいしたことないよ」とうそぶいて見たり、汚いものを見ても、「キレイじゃないか」などというのは、ウソだと思います。やっぱり自分に正直でありたいと思います。先日Kさんから、「よびごえ」の原稿を頂きました。そこには御自分の入院体験談が書かれていました。夜になると叫び声をあげる患者、病室に逃げこんでくる患者、看護婦に当たる患者。病院はまるで動物園のようなありさまだと思いました。これが人間の限界状況の姿だと思います。やはり、限界状況になると人間の中にあった「野生」が目覚めてくるのでしょうか。人間は、あまりにも人工的になりすぎて、「野生」を忘れてしまったようにも思います。普段は、野生を感じても、とりつくろって「人間」というような顔をしています。しかし、ひと皮むけば、みんな野生をもっているわけです。「野生」というと、すぐに「暴力」を思い浮かべるひとがいるようですけど、そうではありません。そうそう、エルナンデス修道士のことを思い出しました。「みなさん、理性と本能、どっちが大切だと思いますか?」と修道士は問いかけました。普通はみんな、「理性!」と答えるのですが、彼は「本能です!」といいました。「もし人間が本能で生きていれば、戦争は起きません。理性が戦争を引き起こすのでしょう。理性があるから、薬物依存するんです」と。そういえば、サルやライオンは戦争をしませんね。本能の復権を叫びたいですね。それから、もうひとつ思い出しました。曽我量深先生は「念仏は原始人の叫びだ」といわれています。小生はこの言葉が大好きです。野生人の叫びが念仏なんですね。人間が、教義的に作り上げた言葉が南無阿弥陀仏という念仏ではありません。虚空に向かって、雄叫びをあげていた原始人のアーッという声が南無阿弥陀仏の阿(ア)ではないかと思っています。「酒は涙かため息か」になぞらえれば、「念仏は涙かため息か」となります。ひとが涙を流すところに念仏があり、ため息をもらすところに念仏があるのです。涙とため息は、どうしよもないときに出てきます。もう限界だよ、というときに出てくるものです。人間、どうしようもないときがありますよね。そのとき、涙やため息と同伴してくれるものが念仏だと思います。原始人が、大空に向かってアーッと叫ぶとき、そこに同伴しているものが念仏だと思います。そして、何十万年もたって、そのため息となったお念仏が私にも起こってくるのでした。

 そういえば、「甘え」で思い出しましたけど、親鸞当時、「本願ぼこり」という異端が生まれたといいます。つまり、阿弥陀さんは悪人が好きなんだから、たくさん悪いことをしたほうが、きっと気に入ってもらえるぞという考え方です。それで、わざと悪いことをする人たちが生まれたそうです。そういう人たちの考え方を「本願ぼこり」と批判したようです。まあ、親鸞は、それはいけないよと一応叱っています。でも、「本願ぼこり」の人たちにも同情的なのです。むしろ「本願ぼこり」はダメじゃないかと批判している人たちを厳しく叱っています。つまり、人間は所詮本願に甘えなければ、生きることもできないじゃないかということなんです。いや、むしろ生きているということは本願に甘えている姿なんだと言うのです。だから、本願に甘えることがいけないと批判することのほうがダメなんだというのです。甘えなければ人間として生きられないということなのでしょう。甘えるということは、阿弥陀様にすべてを投げ出して生きているということです。私たちの身体は、すべて任せきって生きていますよね。明日は生きられるだろうかと、疑って心臓は鼓動を打っているわけじゃありません。まさに明日のことは思い煩うことなく、身体は生きています。その意味で、永遠を信じ、永遠に任せきっている姿が、身体の姿です。それは阿弥陀=永遠にすべてを投げ出している姿なのです。つまり身体は南無阿弥陀仏になっているわけです。しかし、私たちの「思い」が、南無阿弥陀仏になっていないのです。そこが問題なので、身体には問題はありません。身体は、それこそ阿弥陀さまに身を任せ、甘えきって生きているわけです。ただし、「思い」が、こんなことをしたら阿弥陀さんは気に入ってくれるだろうかと邪推している心を厳しく批判しています。「邪見」という形で批判していますね。でも、「甘えてはいけません」と批判する人たちは、いったいどうやって助かっていくのでしょうか。阿弥陀様に甘えないということになると、やっぱり自力になってしまいます。自分で自分の体を持ち上げて、淨土に運んで行くことになりますよね。それは、信仰ではありません。

 やっぱり、「作為」はダメなんですよね。「作為」は、「やがてこうなるだろう」ということですから、<現在>が抜けてしまいます。<現在>は、結局未来のための道具に過ぎないことになります。<いま>をいまとして生ききるということにならなければ完全燃焼できないじゃないですか。煩悩の火を完全燃焼して、灰になるまで燃え尽きたいと思います。それには、<今>がゼロになっていないとダメだと思います。いつでも、どこでも、自分がゼロになっていること。ゼロになっているから、どんなものでも受け入れられるということでしょう。荷物を持ち過ぎているとストレスが溜まります。それもゼロにしてしまえばいいんです。ゼロから出発して、ゼロに帰る。どれだけ荷物を詰め込んでもいい、必ずそれはゼロになっているのですから。いわゆる「空っぽ」になって生きていくことが楽しいのです。先日の小生の法話を評して「ひょうひょうとした法話…」と受けとめくれた人がいました。これは、ほめ言葉だと思いました。この「ひょうひょう」という感じが、ゼロの感じじゃないでしょうか。

 

2003年02月11日

●今朝の天声人語(朝日新聞)を見たら、なんと芭蕉の「よく見ればナズナ花さく垣根かな」と冒頭に書かれていました。この句は小生もよく、お話で用いる句なので、アッと思って読んでしまいました。ちょっと書きっぷりをご紹介しましょう。「一見、何の変哲もない句である。ひょっとしたら、技巧も何もない句だと酷評されるかもしれない▼もちろん専門家はご存じのように、芭蕉の作品である。『要するに、無味・平淡な句である。この無味・平淡のなかに深い『よさ』を感じとった芭蕉の表現意識は、……けっして平凡ではないのである。(小西甚一『俳句の世界』講談社学術文庫)▼」小生は、もちろんそんな簡単なことではなく、もっともっと奥深いものを芭蕉は感じていたのだと、芭蕉に成り代わって叫びたい気持です。「よく見れば」というのは、普段は見過ごしていた「何の変哲もない日常」が裏にあっての表現なんです。普段は気にも止めない、ありきたりの、ただそこにあるだけの垣根だったのです。そんなある日、フッとナズナが芭蕉の目にとまったのです。毎日毎日通り過ぎるだけの場所に、こんなに健気に、いのちいっぱいにナズナが咲いていたではないか、なんということだ!という驚きがあります。そこには人間という生物の傲慢さが、懺悔されているのです。日常のあらゆることが、ルーティンワークになってしまい、「何の変哲もない日常」という世界を作り出してしまうのです。しかし、こんなちっぽけな、誰にも見られることもない場所に、なんと健気にいのちが咲いているのだろうか。ナズナが、「おれは生きてるぞ!」と叫び声をあげているように芭蕉の目に飛び込んできたのです。「当たり前という日常」の残酷さは、いのちをいのちとして見えなくしてゆく力をもっています。この「当たり前」という日常感覚が、いのちを枯らしていく原動力なんです。そのことへの済まなさがよく表現されている句です。ナズナは、誰の世界にも咲いているのでしょう。しかし、それを見過ごして生きているのです。気にもとめないからです。当たり前という意識が、いのちを見えなくしてしまっているんです。つまり、意識は日常生活から、「不思議」というものを抹殺してゆくのです。現代人は、この「不思議」をどうやって復活させてゆくのかと考えなければならないでしょう。もはや東京からは闇は抹殺されてしまいました。夜でも明るい安全な街になっています。犯罪という面からいえば、明るいのがいいのでしょう。しかしそれじゃ幽霊も住めませんね。幽霊で思い出したのですが、あの「リング」という和製ホラー映画?が、アメリカで焼き直されて上映されているそうですね。それがヒットしているとか。あの古井戸から、手が出てくるやつですよね。やっぱり、人間はホラーが好きなんですね。魑魅魍魎が、やっぱり、現代人に襲いかかってくるんですね。遊園地のお化け屋敷は、結構気になる存在でしたね。子どもの頃は、入りたいけど、怖くて途中で出てきてしまったこともありました。しかし、ことあるごとに、入ってみたいなぁという誘惑にかられました。突然お化けが音と共に現れたり、とにかくビックリさせられる場所です。しかし、あの怖さが妙に好きで、何度か入りました。ディズニーランドの「ホーンテッド・マンション」も入りました。でも、このお化け屋敷は、欧米人の感覚しているお化けなので、東洋人にはピンとこないんですね。ぜんぜん怖くないんですよ。やっぱり、民族によってお化けも違ったイメージで描かれるんですね。有名なのは「エクソシスト」でしたね。あれは、ほんと恐ろしい映画でした。日本のリングとは全然違った種類の怖さでした。やっぱり、どんなに文明が発達しても、その手のお化けはなくならないのですね。人間は、やはり、この「当たり前の日常性」には耐えられないように出来ているのでしょうね。芭蕉の目を惹きつけたナズナのように、向こうから日常性を破ってとびこんでくる存在が必要なんでしょう。

 まったく新聞では、イラクの石油をめぐって、アメリカと列強が、以前の植民地獲得戦争のように攻防を演じています。もはや、そこには「正義」という概念すら消滅してしまったようです。本音では、「石油の利権」、表には「世界の平和という正義」を掲げますけど、もう、世界中は本音を見抜いています。日本も、小判鮫のようにアメリカというジンベイザメのお腹にくっついているのです。でも、海にいるジンベイザメはプランクトンのような小さなものしか食べないんだけどなぁ。あっそうか、ジンベイじゃなくて、ホオジロザメだったんですね。芭蕉の懺悔といのちへの驚きを復活させてほしいですね。

 そうそう、話題は変わりますけど、昨日は真宗会だったんです。昨日から法然上人のご和讃(ポエム)に入りました。法然は、親鸞の先生です。お顔は穏やかな、それこそアンパンマンみたいなひとなんですけど、内面はアシュラのようなひとです。ひとにはものすごく優しく、自分にはものすごく厳しいひとでした。自分と他者との人間関係は、包容力のある実に人情味にあふれた優しい方だったに違いありません。しかし自分と如来との関係では、ものすごく厳しい方でした。それは主著であります『選択集』を見れば分かります。念仏を取るのか!それとも、念仏を捨てて他の行を取るのか!と決断を迫ってきます。阿弥陀仏を取るのか!それとも捨てるのか!と、ものすごい厳しさです。(当日お配りしたレポートは、「■真宗会■」でご覧いただけます)信仰は、決断なんです。日本人は、山の神、田の神、森の神などを祭ってきた穏やかなアニミズム主義者なんだ。という主張がありますね。世間では、現代の問題は「一神教」が間違いなので、日本人のようなアニミズムに戻れば平和なんだと。確かに、それも一理あります。でも「一理」ですよ。日本人のアニミズムは、いわゆる「曖昧」ということです。曖昧も大事な面はあります。ある部分に極度に力が加わらないのですからね。つまり「あれでもいいけど、これでもいいよ」という感じです。「これでなきゃダメだ!」という強さはありません。一神教はそうですよね。何に帰依しているか!と決断を迫ります。でも、それは、一神教だけの特徴ではなく、信仰全般どの信仰でも、それは不可欠の要素なんです。「あれか!これか!」という決断がなければ、信仰にはなりません。ちょうど法然上人が、内面では「あれか、これか」という厳しい決断をされたように、しかし、外面的には、まったく穏やかなアニミズムを受容されていたのです。あれが信心のひとのあるべき姿でしょうね。内面はアシュラ、外面は天使という感じです。以前も書きましたけど、井上洋治神父も、「登山理論」で書いてますよね。信仰は、やはりどこかの登山口から登らなければ成就しないと。同時に二つの道は選べないと。ですから、「あれかこれか」という決断が必要だと。あれもこれも同じ頂上に行き着くに違いないと公言するひとは、まだ信仰の道を歩んでいないひとだとおっしゃっています。そのとおりという感じですね。それは、自分にとって信仰は絶対的ですけど、だからといって万人に強要したら絶対主義になってしまいます。他の登山口をちゃんと、尊敬できるのは、自分がたったひとつの登山口を登っているからこそ可能なのです。

 

2003年02月10日

●昨日は、葬式と法事と勉強会で、綱渡りのようなスケジュールで生きていました。昨日の勉強会は「大乗仏教求道会」といって、大それた名前なんです。通称「大乗会」と言ってます。みんなで、どういう会の名前にしようかと考えながら最終的に到りついた名前なんです。あらためて文字にしてみると、ものすごい名前だなぁと驚きました。大乗仏教を求道する会か、これは大変な名称ですぞ。昨夜の会場は、白金台にあるご門徒の家で開催しました。そうぜい13名でした。13名も入るといっぱいいっぱいなんですけど、この窮屈感が実にいいですね。「狭いながらも楽しい我が家」という、ぬくもりを感じます。午後5時から勉強会が始まり、7時に終了。それからシロガネーゼが出没するという噂のイタリア・レストランで会食しました。この会食につられてみんな参加してるんじゃないかと疑われるほど、外で開催するときには参加者が多いんですね。勉強も大事だけど、やっぱり食事も大事ですね。小生も普段、ご門徒に「法事と食事。このふたつの事が大事です」と話しています。やっぱり、法を味わうことと、食材を味わうことには共通点があります。味音痴では、法も味わえないのではないかと思います。やはり物事のもっている微妙な味わいを丁寧に味わい尽くしていくということが、求道にもつながることなんです。仏法グルメになりましょう。

 昨日は、小林さんの読後感想を語ってもらいました。テキストは『高光大船の世界』を読んでます。高光先生の語りは、禅の老僧のような雰囲気ですね。「寄らば切る」という鋭い法の刃を秘めた、求道の厳しさがありありと感じられます。昨日の箇所は「利益功徳を論ず」でした。つまり、人間にとって本当の利益とはなにか?ご利益とは何か?ということがテーマでした。高光先生は「利なきところにある利であり、益なきところの益である。それが大利である」とおっしゃっています。本当の利益は、人間の「ああなりたい、こうしてほしい」という欲望の成就した姿だけではないというのです。人間の欲望は勝手なもので、いつでも不満をもっています。これでよいということはありません。ひとつかなえば、まなひとつという性質が欲望です。まぁこれが生きているという姿です。おとぎ話にこんなのがありましたね。神様が老夫婦に、「三つだけお前たちの願いをかなえてやろう」というのです。それでおじいさんとおばあさんは、何がよかろうかと話し合います。しかし、なかなか意見がまとまりません。だって三つだけなんですから、慎重にならざるを得ませんね。でも真剣に話し合っているうちに、喧嘩が始まってしまいました。そしてお婆さんがお祖父さんを罵るんです。「わからずやなんだから、あんたの鼻なんか、伸びちまえばいいんだ!」と言ったんです。すると、おじいさんの鼻がみるみるうちに伸びてしまいました。それを見ていたお婆さんはおかしくなって笑い転げました。あんまり笑われたので、今度はおじいさんが怒り出して、「お前こそ、鼻が伸びちまえばいいんだ!」とやりました。すると今度はお婆さんの鼻が伸びてきました。こんどはそれを見ておじいさんが笑いました。二人とも冷静になって、自分たちのやったことを考えました。とうとう、最後の一つのお願いを神様にしました。それはお互いの鼻をもとに戻して下さいというお願いでした。結局三つのお願いの結末は元の木阿弥ということなんです。

 人間の欲望は、きりがないんです。それは人間は本質的にどうなったら幸せかということを知らない生き物だということです。隣の芝生は緑に見えていて、ああなりたいと思うんですけど、案外自分の思い通りになったとしても、それでも娑婆は様々な問題を突きつけてくるんです。ですから、自分の欲望がかなえば満足ですけど、一難去ってまた一難です。問題があるのが娑婆の生活なんで、問題がなくなったときには、この世にいないんですね。ですから、問題が起こらないようにしようというのが土台無理な話なんですよ。問題=娑婆ということです。ですから、ああなりたい、こうなりたいといって願いが成就すればいいんでしょうけど、それだけがご利益であったならば、失敗したときはどうするんでしょうね。自分の願いが叶わなかったときには、ご利益がいただけないことになります。高光先生は、そんなのは本当のご利益じゃないといいます。つまり、自分の願いがかなっても、かなわなくても、それがご利益だといえる世界がなければダメだというのです。自分の願いがかなわなくてもご利益だというのはどういうことでしょうか?それは、どんな状況がやってきても、その状況を引き受けられるこころを要求しているんです。自分にとって都合のよいことも悪いことも、全部丸ごと引き受けて軽々と生きてゆける心、それを「信心」といいます。この信心を得て欲しいという願いがあるんですね。これが一番強いこころであり、安心のこころですね。どんなことが起こっても、「ハイ、分かりました」と引き受けちゃうんですからね。このこころこそが、大利益だと思いませんか。都合のよいことだけ欲しいというのが人間ですけど、娑婆はそううまくは生きません。突き詰めれば、一番都合の悪い、「老・病・死」が待っているんですよ。その都合の悪い状況でも、引き受けると言えなければ、安心はないのでしょうね。

 ですから、自分の都合のよいことだけを頂きたいというご利益信仰では弱いわけです。なぜなら、都合の悪い状況がきたら、そんな信仰は吹っ飛んじゃうからです。「信託から全託へ」と信仰を深めてまいりましょう。部分的欲望を仏さまにお願いするのではなく、自分のすべてを仏さまに任せていきる、それが「全託信仰」です。生も死も、善も悪も、利益も不利益も、まるごと仏さまに投げ出して生きる、これをこそみんな願っているんですよ。ご利益を願っているひとの、深層の願いは、そうなんですよ。

 それから、「ひとの口には戸は立てられない」とよく言いますね。人は悪口やら嫌味やら噂話が大好きですね。自分も酔っぱらうと、ひとの悪口をいってはいい気持になって酒を呑んでいるときがあります。またひとの悪口は、いいダシが出るんですよね。話が盛り上がります。でも、自分のことも他の場所では言われているんですけどね。やっぱり人の口には戸は立てられないという実感があります。でも、どんな噂をされても、どんな嫌味を言われても、それに動じない自分にならなきゃ安心できませんね。おそらく嫌味は、阿弥陀さんがその人の口をついておっしゃっているんじゃないかと思います。小生を試すために、阿弥陀さんが言わしているんじゃないかと思います。その言葉に自分はどう反応するのかと。敢えて他人の口をついて、悪口を言わせて、自分がどのような反応するのかを見て、そのうえで、阿弥陀さんは煩悩だらけの反応しかできない自分をすくい取ってくれるという、大スペクタクルの映画のような演出をして下さっているんです。そんなふうに物語風にいただいてみれば、これもまた一興じゃありませんか。

 人間は、堕落しているものでも、崇高なものでもありません。そのままのありさまが人間なんです。所詮、人間の器量といいますか、枠の範囲内でしか生きていないのです。人を殺したり、自殺したり、嘘をついたり、だましたり、からかったり、すかしたり、おだてたり、ごまをすったり、なだめたり、同情したり、怒ったり、泣いたり…そうやって、生きていくもんなんです。人間以上でも人間以下でもありません。ただの人間なんです。そんな人間にビクビクすることもなく、堂々と安心して人間を生きてゆけばいいんです。「悪をも恐れることはありません。なぜなら、阿弥陀の本願を妨げるほどの悪は存在しないからです」と親鸞も言っているじゃありませんか。この「悪」とは「自分」ということです。自分を恐れるな、安心して自分を生きろと。

 

2003年02月09日

●梅が少し蕾をもってきました。今年は、寒かったせいかなかなか蕾を付けませんでしたね。でもようやく春がそこまでやってきているという実感がします。「東風吹かば、匂いおこせよ梅の花…」という風情ですね。ほとんど枯れてしまった梅の古木なのですが、どこかが生きていて、小さな梅の花を付けています。もう今年は無理じゃないのと思っていると、どっこい「わたしゃ、生きてるよ!」という感じで、花を付けます。老木のたくましさというか、したたかさというか、底力というか、たくましさを感じますね。この梅の話をしたとき、ある先生が、「それは大谷派教団みたいなもんだなぁ」とおっしゃいました。外側から見れば、ほとんど枯れたように見える。しかし、どこかの部分が生きていて、そこから若芽が生まれてくる、これは正しく大谷派教団のありさまじゃないかとおっしゃいました。それを感動的に受けとめたことを思い出します。生き生きと全身に花を付けている梅よりも、その古木の梅のほうが、実によろしいのです。何かを人間に訴えかけてくるようで、健気さを感じます。あの梅は一生涯、あの場所を移動することはありません。おそらく植えられたときから、自分はなすがままに、その場所を一生の住処としていくのです。居心地が悪いとか、水はけがどうのこうのという不満は言えません。そんな健気さが大好きです。?小生は動物という筋肉と骨格をもって移動できる生物です。そのために、梅の凄さが分からなかったのでした。少し齢を重ねてみると、植物の方がよっぽど凄いと受けとめられるようになりました。木は愚痴を言いませんからね。不平も言いませんよ。黙って、その場を全身で引き受けているんです。これは仏様じゃないですか。黙って、二酸化炭素を吸って酸素を吐き出して、生き物を助けているんですよね。木がなければ、私たちは空気も吸えないんですよね。当たり前にしてますけど、木はやっぱり凄い。生き物を生存させて、それに恩義一つ感じさせないんです。「おい、動物たちよ!お前たち、いっちょまえに暮らしているようだけど、俺が空気をつくらなきゃ生きられないんだぜ!」などと、脅迫することもないんです。黙って生き物を生かしめて、それでも何の見返りも要求しない。これは仏様じゃなくてなんでしょうか。人間は愚痴を吐く生き物です。しかし、愚痴を吐いているとき、そんな梅の花をみると、頭が下がります。愚痴を言うのをやめようというのではありません。言うだけ言ってみると、恥ずかしくなってくるだけです。梅に教えられるんですね。梅は無口だから、黙って私を見つめているだけです。絶対に口をききませんよ。無口なものほど、たくさんの言葉を発しているのかもしれません。人間は「言葉」の生きもでもあります。しかし、人間が本当に感動したときには、言葉を失うんですね。小生も10年前ネパールでヒマラヤを見ました。みんな、朝日を受けたヒマラヤを見た時、口をアングリを開けてしまって言葉を失ってしまいました。全身には鳥肌が立って、音の無い時間だけが過ぎてゆきました。言葉を失ったとき、人間はシラフに戻るんですね。そしてゆっくりと、あらためて呼吸を始めるんですね。おそらく原始人が初めて言葉を発したときの時間に戻って生き始めるんですね。

ひとは毎晩、天を向いて眠ります。布団に入って、天上を見て、その上には見えないけれども空があり、その上には対流圏があって、成層圏があって大気圏があって、その向こうは果てしない宇宙ですね。それは永遠ですね。ひとは永遠に向かって寝るんです。小生は、一気に眠りに入ります。内面の奥地へ飛び込むように眠ります。まるで飛び込み自殺のように。たぶん、死ぬ時も、そうなんでしょうね。宇宙という永遠の世界へ飛び込んでしまうのでしょう。そこは内面と外面も一緒の「虚無」の世界なのかも分かりません。仏教では「虚無」とは悪い言葉ではなくて、最高の言葉なんですね。からっぽという意味です。からっぽになれば、なんでも入れることができます。何かが詰まっていては、他のものを入れることはできません。ですから、人間がからっぽになること、それが虚無です。百年ももたないこの肉体、これはもともとからっぽなんですよ。からっぽから生まれて、からっぽに帰ってゆく、これまた楽しからずやですね。今日は、万劫の初事としての今日です。いままで生きたことのない今日が始まります。今日はどんな出会いや、出来事があるのか、ワクワクしながら生き始めたいと思います。昨日を引きずっていちゃダメなんですね。まぁ引きずってしまうんですけど。あのとき大酒を呑んで、ひとに嫌味をいっちゃったなぁ、俺ってだめだなぁと引きずってしまうんですけど。でも、それも忘れて、今日を生きましょう。永遠の今日ですよね。まだ「今日」は生きたことがないんですから。ワクワクしながらね。

 

2003年02月08日

●昨日は、三浦半島でお話をしてきました。暖かい三浦半島は、もう春がやっていているという実感です。お寺の境内には、蕾がほころびかけている木々が丁寧に植えられていました。美しく、また落ち着きのあるお寺でした。お天気もよかったので、こんな日には屋根の下でシコシコやっているより、野外に出て、野山でも散策したほうがよっぽどいいなぁと感じつつ、お寺の本堂には60名くらいご門徒が集まってくれました。お寺の雰囲気と聴衆の雰囲気もよかったので、ゆったりと話すことができました。お話も聴衆にしているようにみえて、実は自分の内面に語りかけているということが多いですね。ですから、自分の内面にスーッと入れればいいんですけれども、見えない壁みたいなものがあって、なかなかその壁の内部に入れないで終わってしまうときもあります。これは、大気圏みたいなもんで、なかなか入り込む角度が難しいようです。入り込めればしめたもんで、あとは三昧の世界に入ってゆけばいいんです。あっという間に時間が過ぎてゆきます。夢を見ている時間と、お話の時間は似ていますね。浦島太郎の時間とでもいいましょうか。ないようである、あるようでないという時間です。小生は、お話が嫌いなんですけど、それは後で反省してしまうからだと分かりました。そして、反省することをやめました。そのとき、どんな話をしたかということは、まったく自己責任じゃないんですよ。誰がしゃべっていて、誰が聞いているのか、そんなことは分からないんです。たまたま、ふっと心の奥からやってきて、ふっと話してしまう。それは自分のようであって、自分でもないんですね。ですから、これは自分の責任ではまったくありません。聴衆が感動しようがどうしようが、まったく関係ないんです。小生の内部に、姑息な根性があって、「みんなによく思われたい」という甘えがあったんです。それが、話すのやだなぁと感じさせていたんですね。ですから、反省は敵だ!ということで、反省をなるべくしないようにしました。反省ができるくらいなら、阿弥陀さんの愛はいらないんですよね。反省のこころは、自分で自分を助けようとする姑息な根性なんです。自分で自分を助けられないもののために、阿弥陀さんの愛はあるのに、その愛にどろを塗るようなことをしていたのでした。反省しないぞ!ということにしたら、ずいぶん楽になりました。聴衆がいい反応を示そうと、あるいはブーイングが起ころうと、そんなことはお構いなしでゆきます。岡本太郎も確か、そんなことを言ってましたよね。ひとがいい話だと関心するような話はろくなもんじゃないと。ひとが顔を背けたくなるような話こそ本物だと。人間は、だいたい本物を見たがらないもんなんだ。偽物ばかりを追い求める。だから、人間が好きでたまらないというものはダメなもんだ。人間がそっぽを向いて目をそむけたくなるようなところにこそ真理があるんだと。こんなことを言ってました。これは一理あると思います。だいたい、宗教が流行するというのも、ほとんど誤解で流行するんです。これは新興宗教のことばかりを言ってるわけじゃありません。我が浄土真宗だって、一向一揆のときなどは、誤解ではやったんです。熱が醒めてみれば、元の木阿弥です。最終的にはひとりの世界に戻ってゆくのが本当の信仰だと思います。ですから、教団というのも解体されてゆくべきものかもしれません。組織になると、必ず組織の力学が働いてしまいます。そして組織になると、個人の意見がつぶされてゆきます。ですから、やっぱり一人に解体されてゆくべきことでしょう。「ブッダの言葉」に「犀の角の如くただひとり歩め」という言葉があります。これが小生は大好きです。みんなと手をつないで、というのはどうしても性に合わないのです。これはなんといっても性分ですから、ごめんなさいというほかありません。

 みんなが絶対の孤独に帰って、その内面に豊かな世界を築いていくということにロマンスを感じてしまいます。内面こそ、永遠の創造の世界じゃありませんかねぇ。だって生きるのも死ぬのも人に代わってもらえないのですから。わがままに、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと自由に言える世界が、やっぱり信仰の世界だと思います。何かを言うのに、ひとの顔色を見たり、気兼ねしたりするようじゃ、ダメなんだと思います。 いまこそ「内面の革命」が必要なんだ思います。ひとの「内面」はもっと深く広く掘り進むことができるように思います。お釈迦様が、そうやって掘り進んだひとです。そして、みんなだれもが自分の「内面」という洞穴を持っているわけです。これは宝物ですよね。その洞穴を掘り進みましょう。顔が違っているように、まったく違った世界があるはずです。いまの流行は「一緒」ということです。みんな一緒じゃないとダメなんです。義務教育で、一緒に進学しないとダメなんです。一緒に、同じようなマンションに住まないとダメなんです。違いを見出そうとすると、抹殺されてしまいます。でももともと、人間はまったく違っているんですよね。性格も顔も…。だから、もともとのところへ戻ればいいんです。そこの方がよっぽど創造性があるんです。まぁ「一緒」であれば、他人からとやかく文句いわれませんから、そのほうが無難なんですけどね。おかしな格好をしていれば、それだけで他人から文句を言われます。茶髪、ルーズじゃ文句いわれちゃうんですよね。でも、茶髪とルーズを内面化して、もっと掘り下げてゆくんですよ。そうして茶髪とルーズを哲学にまで深めてゆけば、そこに創造的な世界があるんですね。茶髪もみんなと「一緒」になることだけでやっていたんではダメなんです。それは、孤独への恐怖です。それじゃ、「みんなと一緒」に飲み込まれてしまうんです。それを内面化し個性化しないとダメです。これは難しいことですけれども、そうしたいと小生は思っています。

 本堂に、トイザラスからオモチャを買ってきて、置いてあります。法事の時、子どもが楽しそうに遊んでいると、「やったね!」とにんまりします。子どもだって、法事に参加していいんです。子どもの形で参加すればいいんです。黙って、ジッとしていなさい!では、子どもは参加しません。騒いだっていいんです。お経が聞こえなくたっていいんです。それが子どもです。そんな子どもの毛穴から、仏法は入ってゆくんです。人間は表面の意識だけでは生きていません。もっと深い深層のたましいでも生きているんです。そのたましいを育てる場所が法事なんですからね。(ちょっと、酒が入っているので、このへんでやめときます。m(__)m)

 

2003年02月07日

●久しぶりに坂東性純先生のお話を伺うことができました。目やお体も不自由ながら、肌の色はツヤツヤとして、お元気なご様子で安心しました。鈴木大拙先生のお仕事の重要性や、お人柄などを中心にお話いただきました。大拙先生が教室に入ってきて教壇に立たれると、教室全体がホッと和んだ雰囲気になるんだそうです。体や立ち振舞いから、信仰の香りが立ちのぼっていたのでしょう。ヒョコヒョコと歩かれる姿全体が、軽妙洒脱のさとりを物語っていたようです。言葉で何かを表現する以上に、もう体全体が何かを語っているということがあります。それを身業説法といいます。口で表現するのを口業説法といいます。本物は、身業説法にまで表現が徹底するのですね。もうつべこべ言わずに、立ち居振る舞いを見よ!というようなもんでしょう。私たちもそういう面がありますね。そのひとのご飯の食べ方を見れば、そのひと全体が分かるとか。そのひとの生育歴が分かるという面もあります。ある老人とご飯を食べたとき、その老人はお茶碗のご飯をすべて食べてしまった後、そのお茶碗にお茶を注ぎ込みました。ここまではまあ普通でした。それから、残しておいたタクアンを一切れ箸でつまみ上げ、そのタクアンをヘラのように使い、きれいに茶碗を掃除したのです。そして、このタクアンと共に、お茶も全部すすってしまいました。その姿には、すがすがしさと、そのひとの生い立ちがすべて表れていました。ひとつの「態度・動作」はまことに微妙なものであります。そのひとの一挙手一投足は、そのひとの全歴史を物語るものであります。

 それから、アメリカにおられるとき大拙先生にあるひとが輪廻について質問したそうです。「先生は、輪廻を信じますか?」と。先生は「ワシは猫がすきでなぁ。ひょっとすると、ワシは猫の生まれ代わりかもしれんなぁ…」とおっしゃったそうです。その答えを聞いて、質問者は大いなる賛辞を送ったそうです。それは論理的な答えにはなっていないのです。しかし質問者は、その答えを聞いて、まったく悦服してしまったのです。そしてさっきまで懐いていた問いは雲散霧消したのです。その意味でちゃんとした答えになっているのです。このエピソードも面白いですね。質問者は、論理的な問いを出しているわけです。つまり魂というようなものがあって、それが猫になったり人間になったりして、流転輪廻するのでしょうか?という問いなんです。輪廻する魂があるのかないのかという問いです。大拙さんは、「ある」とも「ない」とも答えてはいません。自分は、もしかしたら猫の生まれ代わりかもしれないなぁという生命感覚で答えているのです。つまり「あるかないか」という問い自体を撤回させているわけです。それは「あるかないか」という問いでは解けない質の問題だということです。「ある」と感じる人はある、「ない」と感じる人にはないというのが本当でしょう。そんなことはたいした問いではないのだと、問い自体を暗に批判しているわけです。そうではなくて、輪廻というのは生命感覚なんです。果たして魂が生まれ代わり死に代わりしているわけではないのです。ただ、そういう譬喩で受けとめてもいいじゃないかというのです。それが衆生感覚というものでしょう。自分と猫が切り離されていません。ズーッと下の所ではつながっているという温かい生命感覚です。論理の世界といいましょうか、日常の世界といいましょうか、この世界では「自分」は自分、「猫」は猫でしょう。しかし、もっと存在の根っこを覗いてみると、「自分」が猫であってもまったく不思議はないのです。逆に「猫」が自分であっても不思議はありません。たまたま縁があって、「自分」は自分になったわけです。偶然に自分になっているわけです。そんなに固定したものではありません。衆生とは、「生きとし生けるもの」とか、「あらゆる存在」と解釈されます。小生は「被生(ひしょう)」という言葉で呼んでいます。「生を被っているもの」という意味です。なぜか分からないけれども、この世に存在するには、「空間」と「時間」を必要とします。小生も、178センチメートルの身長と77キログラムという体重と、体積をもって、この世に「生を被り」ました。この体がここにあれば、他の人体と重なることはできません。他人と重なることができれば、満員電車のラッシュはなくなりますね。物体とは重さと広さと長さをもって存在していますから、他の物体とぶつかり合うわけです。また、「被生」なるものは、時間も必要としています。ひとには必ず誕生日と命日があるということです。有機物は無機物以上にそれがハッキリ分かります。生有るものは必ず死にますからね。でも自分で、存在を選んだわけではありません。気がつけば、自分は「人間」という種に、被生したのです。気がつけば、自分はゴキブリであり、馬であり、猫であるわけです。結果として様々な「被生」が成り立つわけです。しかし、その原因は分かりません。その原因は、「空」とか「妙」」といっていいのでしょう。あるいは「アミダ」と言ってもいいのでしょう。そのアミダなるものが、「自分」に被生したのです。「自分」という方便法身に宿ったのです。そういう衆生の存在感覚の復活が望まれるのではないでしょうか。生きているこの身体は、自分の思いを超えた出来事であるということなのです。

 それから、こんなことをおっしゃっていました。戦後家永三郎さんが「念仏は親鸞にとって躓きの石であった」と記されたそうです。それを以前読んだときには、「躓きの石であるとご覧になっているのは家永さんだ」と受けとめたそうです。しかし、いまはそうではないとおっしゃられました。いまでは「確かに、親鸞にとって躓きの石であった。しかし、躓きの石であったからこそ、教行信証が生まれたのである」と考えていると。師匠・法然の念仏は実に素晴らしい念仏なのに、どうして私(親鸞)の念仏は貧弱なのだろうかと、疑問を持たれたに違いない。その意味で法然の念仏につまずいたのです。でも、つまずいて下さったから、そこらか教行信証などの著述が生み出されてきたのではありませんかとお話になりました。

 この「念仏」とは、まったく入門するものに、まさしくつまずきになります。念仏しなければ救われないのですか?とか、念仏を称えたくらいで極楽淨土にゆけるんですか?という問いは、誰でももちます。親鸞聖人当時の「念仏」と現代の「念仏」は、評価額が随分変わってしまっています。親鸞当時は、まだまだ「魔法の言葉、宝の言葉」だと信じられていました。滅多に口に出してはならない言葉、非日常的言葉として重みをもっていました。昔は、言葉を口に出すということは、それが実現してしまう、あるいは何らかの効果を呼び起こしてしまうと考えられていました。しかし現在では、言葉は単なる「記号」だくらいに考えられ、軽くなってしまいました。そうですから、念仏なんか称えたって何の効果もないだろうと軽く扱われています。しかし念仏は、称える前にまず「聞く」ものです。初めから称えることはできません。呼吸だって、吸えなければ吐けないでしょう。空気を吸わずに息を吐き出そうというのですから、それは所詮無理です。受動があって初めて、能動が生まれるのです。ですから、お念仏の意味(声)が、聞けなければ、称えることの意味も分からないのです。それは単に口で称えることだけが念仏ではないからです。鈴木大拙先生の英訳教行信証では、親鸞著『教行信証』の「行」をTrue Livingと訳しています。本当の生活ということでしょう。つまりお念仏の意味が聞こえてくると、生活全体がお念仏になってくるというのです。そうなれば、口で称えようが、ウンコをしようが同じことに成ってくるのです。歩くことも南無阿弥陀仏です。その初めの一歩をどう聞くかです。もっと難しく言えば、「超越する」ということです。この世の欲望生活をしながら、この世を超えるのです。超越して、この世を生きるのです。この「超越」の味わいが、お念仏の味わいです。オウムのようなタテへの超越ではなく、横への超越です。他人と外見上はまったく変わらない日常生活をしながら、しかも内面には超越的意味世界を生きていく。これが真宗門徒の底力でありましょう。「音の無い川は、底が深い」と田舎でいわれていますね。ザーザーと音のする川は底が浅いです。ですからそれほど危険ではないと。しかし音もなく滔々と流れている川は注意をしろというのです。そこは底が深いから音がしないのだと。真宗は、まさしく音無川のごときものではありませんでしょうか。

 

2003年02月06日

●今朝、8時30頃、玄関のベルが鳴った。「こんなに早く、誰が来たんだろう?」と思った。女房が、玄関に向かった。戻ってきたとき、小包を持っていた。差出人を確かめたら京都の法蔵館書店からだった。辞書かな?でも辞書なんか注文していないしなぁ?と思った。記憶の中を駆けめぐり、ようやく分かった。アーッ、『西田真因著作集』第3観だ!。案の定、中身はそうだった。遅れていた第三巻目がようやく出版されたのである。これで西田先生のライフワークが完結したんだと思った。頑丈に包まれていた包みをほどいた。ビニールに包まれてるご本を丁寧に取り出した。なかに別封筒で法蔵館の編集者の御礼の言葉が入っていた。いっしょに、いわゆる月報があった。月報は、普通一巻ごとに同封されるものだ。今回は三巻まとめて一冊に綴じられていた。西田先生とご縁のあった先生、諸先輩方の言葉が納められている。小生は、初めから丁寧に読んでいった。というよりも、読み終わるまで、そこを動けなくなった。諸先生や先輩方が、西田真因先生とどのような出会いをされていたのか、その歴史が記されていた。

 小生は感動した。読み終わって感じた。これはお経であると。如是我聞のお経であると。仏陀・真因との出会いを、表現され、自分はこのように意味=西田真因を頂戴したと述べている。これは『仏説拝受西田真因経』である。お経は必ず「如是我聞」=かくの如く、我聞けり」=「私はこのように聞かせていただきました」という言葉で始まっている。まぁこの言葉が省略されている経典もあるのだが、意味は同じである。お釈迦様が筆を持って書かれた経典は、この世に存在していない。経典が今日残っているのは、「私はこのように聞きました」という聞き手の編集による。その意味で、この月報はお経であった。諸仏諸菩薩が、先生との出会いを語っている。聞き手の中に宿っている西田真因先生が浮かび上がってくる。みずからが自己を紹介しているわけではない。あくまで聞き手が聞き取った先生である。聞き手が受けとめた西田真因先生は、歴史的な西田真因を超えていた。阿弥陀仏の化身としての意味を帯びていた。第三巻が出版されたことで、先生のライフワークは完結したと書いた。しかし、それは第二幕の始まりでもある。第三巻が出版された暁には、東京において「一人の会」が再会されることになっている。これはまた、楽しみなことだ。歎異抄に一生涯を捧げた仏者から、また新たな歎異抄を聞くことができる。歎異抄はテキストとしては固定している。しかしそこから読み解かれる意味は無尽蔵である。現代という時代が、歎異抄に投げかける課題に応じて、歎異抄は応えてくれる。時代とともに新たな応答が生まれてくるのである。問いが永遠であれば、答えも永遠である。この無限反復が「生きる」ということかもしれない。小生の机の前には、「我は、浄土真宗を学びつつあるものである」と書いてある。この「学びつつ」というところがいい。決して「学びきった」と過去形では語れない。また「まだ学んでいない」とも言っていない。仏陀は別名「無学」という。これは全部を学んでしまったので、もうこれ以上学ぶものは無いという意味で「無学」という。我々はどこまでいっても「有学」である。有学であることが嬉しいのである。「一人の会」の再会を待望したい。

 明日は、三浦半島へお説教に行く。小生はお話が嫌いだ。しかし、請われれば仕方なく行くことにしている。聞くほうも、何が聞きたいのかは分からないで来ているのだ。話すほうも何を話すのか分からないで話にいくのだ。その時、その場での出会いの中から何かが生まれてくる。初めから、これを聞きたいとか、これを話したいとかいうのは、宛にならない。その時その場で変わってしまうからだ。仏法の話とはそういうものだ。瞬間、瞬間に何かが生まれて散っていく。まるで花火のようものが、仏法のお話である。別段、金が儲かるとか、元気になるとか、ご利益がいただけるというものでもない。だから聞きに来るほうも何を聞きたいのか分からないでくるんだ。難しいお話を聞きにくるんだ。懲りもせずに。小生は、日常生活のベールのような薄皮を剥がして、それをお話する。「当たり前」だと思っていたことが、当たり前ではなかったということをお話する。狐につままれたようなお話をする。聴衆は呆気に取られているうちに終わってしまう。そして小生は、その場からスーッと消えてしまう。後には何も残らない。これが法話のいいところだ。何かが残ってはダメなんだ。法話はワクチンと同じだから、その時には痛くもかゆくもない。しかし、ある時、フッとそのときの言葉がよみがえってきて、そのひとが不安定になったときには、復元力を発揮する。それが法話の醍醐味である。西田先生に、「聴衆は、あなたの話を聞いているわけではない」と言われたことがある。しかし「あなたの何かを聞いているのだ」と。この「何か」というところが実にいい。だから安心して、腹一杯をぶちまけてくるだけだ。受けとめるか受けとめないかは向こうの責任だ。こっちは言いたいことをいうだけ。だから聞くほうは、ストレスがたまる。こっちは、千本ノックをするだけ。しかし受けとめるほうは、ヘトヘトになる。このヘトヘト感が法話を聞いたときの味でもある。黙って座っていれば、疲労はしない。しかし全身を耳にして話者の話を受けとめることは、本当に体力のいることである。まったく体力勝負だ。だから浄土真宗は、終始一貫して本当の意味の難行道なのだ。

 

2003年02月05日

●女房が画家・小磯良平の展覧会に行ってきました。人物画にしても、植物画にしても、ものすごく素晴らしいものだそうです。図録を買ってきてくれました。彼女のいま取り組んでいるテーマが人物画なので、先生に勧められて観にいったそうです。帰宅して、どんなに素晴らしいかを話していました。その感動はいいのですけれど、それと同時に自分の描いている絵を見て落胆していました。あ〜あ何で描けないんだろう…と。でも小生は思ったのです。なんで、人間は自分の絵に落胆するのだろうと。小生が見ると、彼女の絵は確かに上達しているように見えます。しかし彼女自身は、それでは満足しないのです。「これではダメだ」と誰が言わしめているのだろうと。これはプラトンがいう「美のイデア」なるものが言わしめているのかなぁと勘繰りました。自分の絵を見て、「もっと、もっと」と言わしめるのは単に欲求水準が高いというだけではありません。どこかで「美」を知っているということなんです。その美にくらべて自分の絵は、まだそこまで到っていないと評価しているわけです。その「美のイデア」なるものが素晴らしいじゃありませんか。芸術の世界はそうでしょう。「美のイデア」がなければ、程々で満足していられるのです。でもそれに満足させないものがあります。それが芸術の源泉なのでしょう。またまたそれを普遍化してみたいという欲求にかられました。人間は、概して自分に満足していません。これでよいというひとはいないでしょう。これでよしという時は、お棺のふたが閉まるときでしょう。やっぱり「もっと、もっと」となります。これは経済的な面だけじゃなくて、人間関係やら、仕事の面やら、自分の度量についても思います。まぁ一言で言えば「向上心」というやつですか。小生は、大嫌いな言葉の一つですけどね、この「向上心」というやつは。人間のいう向上心は「カラ元気」なんです。ジャンプしても届かない柳の枝に、一生懸命にジャンプしているカエルのようなもんです。それはゴールが見えないからです。ゴールが見えて初めて向上心というものが発揮できるんです。

 まぁ、でも現代はみんな「中流意識」ですから、「まぁまぁ幸せ、まあまあ良し」という状況なのかも分かりませんね。戦前、戦後の若いころは散々苦労を重ねてきて、一軒家を構えられるだけになったし、ようやく息子夫婦の仕事も順調で孫も優しくしてくれる。炬燵に入ってお茶を飲み、ふとガラス越しに外を眺めると赤いサザンカがお日さんに輝いて美しい。こんな平々凡々とした老後を描いてみんな生きているのかもしれません。あるひとが先生から「将来、どんなふうになりたいの?」と尋ねられました。すると彼女は「平凡な暮らしがしたい」と応えました。先生はそれに対して、「人間には平凡なんてことはありません」と応えられました。隣の芝生はいつでも緑に見えるものです。実際そこへ行ってみると、穴が空いていたり、芝生が枯れていたりするもんです。他人の生活を見ていると平凡のように見えるだけで、当人にとって平凡なんてことはないのです。日常に鈍感になってしまえば「平凡」ということもあり得るのかもしれません。しかし小生には、そんな日々はこないように思います。

 それは、「美のイデア」じゃてくて、「生のイデア」があるからです。これじゃダメなんだよなぁ、もっとこうしたいんだよなぁという命令がやってくるからです。向上心も、内発的・自発的なものじゃないと長続きはしません。「やらねばならない」ではなくて、「やりたい」という自発性です。それが楽しみであり、やりたいことであり、できることであり、やれるという縁がある、そういう要素が入っていないとだめでしょう。ですから「趣味」が大事なんですね。「趣味」というと、余暇に好き者がやる暇つぶし程度に受けとめられていますけど、本当はすごいことだと思います。お金を支払って、あえて苦労を買って、そのことを楽しむわけです。まったく非生産的です。でも非生産的だからいいんです。山登りをやっているひとは、やらない人には分からないエロスを感じています。やらない人から見れば、なんで好き好んで、汗水垂らしながら山へなんか行くんだと思います。おれは頼まれたって嫌だね!となります。非生産的といいますけど、本当はお金では買えないエロスを生産しているんです。山登りのあとの、心地よい疲れを生産しているわけです。景色を見た時の、あの感動を生産しているわけです。そして、その感動はそのひと個人にとどまらず、身近にいるひとにも波及するのです。仕事が趣味になれたら、どんなにいいだろうと思いますね。でも、それは難題なんですけどね。しかし70代以上の人々は、無趣味のひとが多いですね。特に男性はそうです。もっとも男性は仕事一筋に暮らしてきたから、家庭と職場以外の場所を知らないのです。定年で退社すると、人間関係がバッタリ途絶えると聞きます。年賀状がガクッと減って、幻滅するそうですね。それはちょうど、出家をする頃合いだということでしょう。インドには四住期というライフサイクルがあります。@学びの時期、A仕事の時期、B出家をする時期、C家を出て遊行する時期。日本人はほとんど@とAで終わりです。しかしインドの人々は、Bがあります。恐らく自分の人生を総括する時期でしょう。深く深く人生を考える時期です。最後は、家から出て遊行するといいます。これは恐らく定住しないで死を迎えるということでしょうか。小生も「人生に結論なし」という立場をとっていますから、「これでよい。ここまでやったのだから、これでいいのだ」ということはないと思います。つまり、自分は「人間」に成っていくのであって、完成はありえないと思います。まぁそれは未完成ということではありません。いつでも、どこでも完成しているんです。過去はすべて完成です。しかし完成したといったんでは面白くない。その完成を敢えて、未完成に投げ込んでいくわけです。いつでも完成しているから、いつでも未完でいられるわけです。未完のない完成は絵に描いた餅です。

 出家といっても、家出とは違います。家出は子どもが叱られて家を出るというようなもんでしょう。本当に家を出てしまったんでは困ります。やはり家が大事です。たとえ家を出ても、「自分」という家からは一生涯逃げることはできないのです。家というのは、欲望生活の象徴です。その家の中で、<真実>とは何かと問うわけでしょう。本当の人生とは何か?本当の自分とは?本当の人間関係とは?と。いままで損か得かで生きてきた人間が、<ほんとう>という世界を求め始めるのです。喧嘩をするのは、<ほんとう>の人間関係を求めているという証拠なんです。この<ほんとう>がなければ、喧嘩もできません。そして人間はこの「<ほんとう>のイデア」を持っているわけです。「それは違うんじゃないの…」という感覚を持っています。本の万引きを警察に通報したら、万引犯人(青年)が、逃げて電車で引かれたというのがありましたね。そうしたら、その本屋さんに「人殺し!」というような誹謗中傷がたくさん寄せられたそうです。この群衆心理は「どこかおかしいんじゃないの」と思います。新聞でも、そのことが問題にされていました。その本屋さんには、何の罪もありません。だれでも、普通に取る行動でしょう。青年が電車で引かれたのは、たまたまの縁です。本屋さんが青年を殺したわけではありません。でも、本屋さんへの励ましの手紙もたくさん届いたと聞きます。これこそ、<ほんとう>のイデアが叫んでいる姿ではないでしょうか。

 岡本太郎さんがこんなことを言ってます。「日記を書きたい、書こうと思ったら、続くか続かないか、よりも書こうと思ったことの方が大事で、それを続けなければならないと義務に縛られて書く必要はない。」(『自分の中に毒をもて』)と。ここにも「<ほんとう>のイデア」があらわれていると思います。<ほんとう>は、「考え」の中にはないのであって、「感じる」ことの中に潜んでいるわけです。前後の文脈も考えずに岡本さんの文章を引いたのです。しかしここに、日記を書きたい、書こうという意欲が起こったということが<ほんとう>のあらわれです。欲望は、ダメなことじなくて、意欲という欲望も内包しているんですから。エロスは大事なんです。(脱線します)そうそう、ボケと診断されたご老人にアダルトビデオを見せたところ、すごく興奮して、生きるということへの意欲が起こってきたと聞きました。セックスは、理性よりも深いところにある本能でしょう。その本能に働きかけたんですね。その性的なきっかけが、生きるということへ水を注ぎ込むことになったのです。ですから、この「感じる」ということの方が大事なんですよね。日記を書こうという感じ方、これが大事だと思いました。しかし、「感じ」というのは、瞬間的ですし、長続きしないんです。不安定なものなんです。ですから、支えが欲しくなるんですね。「続けなければ日記を書く意味がない」とか「続けられるだろうか」とか、そういう「考え」が起こってくるんです。「感じたこと」の真実を「考え」は、ねじ曲げてしまうんです。でも、「感じたこと」を「考え」は完全に解釈することはできません。なぜ日記を書こうと思ったのか?と「考え」が問い詰めても、答えはでません。それは「感じ」のほうが深いからです。そして「感じる」ということのほうに<ほんとう>が潜んでいるんです。「感じたことと考えたこと」を峻別しなければならないと、小生はよくお話しています。そして「感じる」というアンテナをどんどん研ぎ澄ましてゆくことです。全身をアンテナにして「感じ」てゆきたいと思います。そうすると、何の変哲もない日常生活の中にある<ほんとう>に出会えると思います。この<ほんとう>から栄養をもらいながら日々をおくりたい思います。

「自分が如来を信じることはできない。大事なのは、如来から自分が信じられていると感じることだ。そのとき<ほんとう>があふれ出してくる」

 

2003年02月04日

●「むかっ腹が立った」

新聞に、こんな手記が載ってました。

 覚悟はしていたが、やはりむかっ腹が立った。友人の告別式で、葬儀業者がディレクターよろしく参列者にあれこれと注文をつけたからだ。起立しろ、そっちに並べ、焼香では香を一度だけくべろ……。無理やり型にはめ込まれているようで、悲しみに沈むひまもない。演出の過ぎる結婚式にも鼻白むが、永久の別れのセレモニー化には耐えきれぬものがある。

 同じ思いのひとは少なくないのではないか。最近の本紙の死亡記事に、「告別式は開かず、葬儀は近親者のみ」というスタイルが目立つのがその根拠。縮刷版で1月中に掲載された日本人だけという極めてずさんな調査をしてみると、全体的に占める割合は近ごろ珍しい右肩上がりのカーブを描いた。93年は2,2%だったのに、昨年は23,6%と実に10倍強だ。

 無宗教式の別れの会や散骨の登場にみられるように、人々の葬式観が多様化している影響なのだろう。だが、葬式の形がい化や商業主義が敬遠されている面も否めまい。「親は泣き寄り、他人は食い寄り」。古来の言葉も身にしみてくる。(三木賢治)

 確かに、そういう傾向が強くなっていることは間違いありませんね。形だけの、こころのこもっていない葬儀は、誰でもいやですよね。小生のいる東京の現状では、お通夜をして翌日、葬儀を行ない火葬場にいって、戻って繰り上げの初七日をし会食して散会するというのが多くなっています。こういうスタイルは葬儀業者が作ったといってもいいのかもしれませんね。あまりに時間に追われて儀式が進んでいくので、遺族が充分に悲しみに浸れないように思います。まあお通夜と葬儀は、そうとしておいても、火葬の時間は自由に決められたほうがいいですね。というのも、現在の通夜・葬儀のタイムスケジュールは、火葬の時間から逆算して決められているからです。まず葬儀業者が、押さえるのは火葬場で遺体を焼く時間と、葬儀の会場です。それが決まってすべてが進行してゆきます。もともとは、ひとが亡くなったら、まず初めにお寺に連絡するのが常識でしたが、現在では遺族とお寺の間に葬儀業者がはさまっているのです。そしてディレクターみたいにすべてを事務的に手配していくのです。これも個性がありますから一概には言えないことなのですが、いかにも事務的にことを運ぶ葬儀業者がいますね。腹が立つのも当然ですよ。遺族は悲しみに沈んでいます。まして普段の精神状態ではありません。葬儀業者は、それが仕事ですから、淡々と仕事をこなしているのでしょうけれども、少しは遺族の身にもなってみろよと思います。あまりに事務的だと、「もう二度と、あそこに頼まねえ!」ということになります。

 それにしても、呆気なく通夜・葬儀は終わってしまいます。いまでは冷凍の技術も発達しているのですから。遺族が充分にお別れができて、もうこれ以上はよろしいのですというところまで来て、初めて火葬にするというのはどうでしょうか?どうもお別れの時間が短すぎるようにも思うのです。24時間のタイムスケジュールの中でことが淡々と過ぎていくようで、何だか寂しさが残ります。いや、遺族の悲しみはきりがないのだから、いい加減に火葬にしてあげたほうがいいんだという意見もありましょう。亡骸にいつまでも取りすがっていては、よけい悲しくなるばかりだという意見もありましょう。しかし、それでもいいじゃないですか。チベットでは、長い間焼かずにいるそうですね。亡骸に向かってお坊さんが、耳元でいろいろささやいている映像をテレビで見ました。また平安期にできた「九相観図」は檀林皇后の死に行くさまを、克明に描いたものです。美女が死ぬと、膨張して肌が黒ずみ、キツネや狼が肉を食い、やがてウジが湧いて骨が見え、雨風で骨が散乱してゆきます。この人間のスーパーリアリズムを見ることによって、菩提心を起こさせようとしたそうです。この身体の自然性が私たちに大切なことを訴えているように思います。

 確かに無宗教のお別れの会等が増えてきましたね。これは、静かなブームですが、そこにはアンチ葬式仏教というメッセージが隠されているようです。高い戒名料を請求されて、わけの分からないお経を読まれて、形だけの焼香をして…これでは、嫌になるのが当然でしょう。小生が坊さんじゃなければ、やっぱり無宗教でやろう!というに決まっています。無宗教葬儀推進委員会の会長にでも成りたいくらいですぞ。まぁ、それではいかんということで、小生は焼け石に水のようなことをいろいろ仕掛けています。たとえば、読経のコピーを作って、上段に原文、下段に現代語訳をつけて、通夜・葬儀の間に見てもらう。教区で作っている『葬儀を縁として』というパンフレットを会葬者全員の返礼品の中に入れてもらう。寺から南無阿弥陀仏という御本尊を持参して法話をする。法名の意味を中心にお話する。それを延長すれば、寺報『よびごえ』を発刊する。このホームページもその一環です。こんな「焼け石に水作戦」を続行中です。昔の農村の寺院であれば、地域住民と寺の関係は親密ですから、そういうサービスも過剰でなくて済みます。しかし、都市型の寺院の場合、そういう努力をしなければ、ますます門徒との関係が希薄になってしまいましょう。まぁ、関係を濃密にするためだけにやっているわけではないのですけれどもね。焼け石に水でも、やらないよりはましです。しかし、読経のパンフレットが捨ててあったりすると、とてもせつなくなります。そして自分自身に問うのです。「焼け石に水作戦」はいったい何のためにやっているか?と。別に、こんなことをしたからといって、お布施がたくさんもらえるわけでもありません。多少、「よくやってるなぁ」という賛辞を頂きますけど、そんな賛辞が欲しいわけでもありません。これを縁として真宗の信者を増やそうということでもありません。それらは部分的には当たっている面もあるんですけど、もっと違うものがありそうです。それはもっと根源的に、なんで僧侶をやっているのか?という問いにまで深まってきます。ただ世襲で後継ぎだからやっているのか?といえば、そうとばかりは言えません。自分は僧侶を選び直したという経験があるからです。生まれたところが寺だから、それだけでは僧侶はできません。やっぱり、もう一度自分から決断して僧侶を選ぶということが大事だと思います。それではなぜ僧侶なのか?そして、ずっと問うていくと、その「なぜ?」に応えられなくなるのです。なぜなのか分からない、しかし自分は僧侶を選ぶと。そもそも僧侶とは何なのか?それは生きる意味を問うて生きるもの。この世を超越して、この世を生きるもの。本願の促しによって生きるもの。「この世」の秩序に当てはまらない生き物。ですから言葉でうまく捉えることができません。親鸞は自分のことを「非僧非俗」といいました。「僧侶でもない、俗人でもない」と。つまり、二つの意味世界に割り切ることのできない者という意味です。人間は、二つに分ける生き物です。理性の本性は、二つに分けることです。「あれかこれか」「善か悪か」「意味有るか意味無いか」と。そもそも「分かる」ということは、「分ける」という言葉から生まれています。二つに分けることによって人間には「分かる」のです。僧侶か俗人かと分けるのです。しかし親鸞は二つに分けることのできない者として自己規定しています。「分ける」ということは「分析する」ということです。小学校の科学の実験を思い出します。あの鮒の解剖実験は嫌でしたね。女教師が、エーテルで鮒をマヒさせようとするのです。おとなしくなったので鮒にメスを入れようとしたら、鮒がビクンと飛び上がったのです。先生は驚いて、たじろぎました。それでも、ガーゼで押さえて切りました。肛門からハサミを入れて内蔵を見えるようにしました。心臓はまだピクピクと動いていました。なんでそこまでやらなきゃいけないんだという感情が湧いてきました。これが「分ける」ということです。腑分けして、これが腸で、これが浮き袋で、エラで心臓でと分析します。泳いでいる鮒の構造は分かりません。しかし殺して腑分けすると、あーなるほどねーこういう仕組みになっていたのかと了解できます。「分かる」ということは、相手を殺すことなんです。殺して分けてみないと分からないのです。でも、分かったときに、相手は既に死んでいるんですね。残酷なもんです、人間の理性は。

 ですから、親鸞は「分けられないもの」として生きるという宣言をしたのだと思います。二項には分析できないものです。これは言葉で表現できないのですけれども、たとえば<いのち>と言っておきましょうか。この<いのち>を完全燃焼させながら生きるものという意味が親鸞の「非僧非俗」ではないかと思っています。そして、小生も、まさしくその<いのち>を生きるものとして爆発したいと思っています。そういうふうな生き物のことを、とりあえず「僧侶」といっておきましょう。かいかぶって言えば、それは<真実>に触れて生きるものという意味でもあります。さらに<真実>をエネルギーとして生きるものという意味です。どこから、生きるエネルギーを得ているかといえば、その<真実>です。<真実>とは、ものすごく気恥ずかしい言葉ですけど、「ものそのもの」とか「あるがまま」とか「真如」とか「如来」という、ものの総称として使っておきます。人間が<真実>に触れるときには、必ず否定形で触れて行きます。ですから私たちの本尊を「無量寿仏」といいます。初めに「無」がついています。あるいは「無碍」とか、「無垢」とか、「無心」などと表現するのです。つまり「真実には触れ得ないという形で触れる」のです。触れ得ないということが、救いなんです。それは触れ得ないという形で、真実に触れたという証拠だからです。普通は、「物事の道理が分かった」ということが救いだと思っているのです。ところが、そうではないのです。「分からない」「不思議」ということで<真実>に触れるのです。ですから、信心とは「外なるこころ」だと思います。こころは内面にだけあるように思っていました。そうではありません。自分の「外なるこころ」があるんです。決して内面化できないこころです。自分の所有物にできないこころです。自慢しようにも自慢ができない心です。自分の内部には徹底して<真実>はないのだと指し示してくるこころなのです。それでは暗いだろうというけど、そうではないのです。外が明るいから、内面がどれほど暗くでも平気なんです。外はものすごく明るいんです。暗黒は自分の内面世界なのです。自分は本来的に自分の所有物ではありません。縁が作り出した作品です。<いのち>が私にまで凝縮してきた作品です。ですから、縁が私の上に無限に展開していくのです。

 その<いのち>=<真実>の促しによって、生きよ!という命令に従って生きるもの、それが自分であったのです。外なるこころから、生きよ!と命じられている私だったのです。その促しを受け入れていくたった一個の器、それが私なのでした。

 

2003年02月03日

●昨日の新聞に「米シャトル空中分解」とでかでかと載っていました。アメリカのスペースシャトル(コロンビア)が帰還途中に大気圏で空中分解してしまたのです。乗組員7名全員死亡でした。墜落原因が様々に推測されていました。どうも機体が古かったとか、出発時の左翼破損とかが有力ようです。まぁ今後原因が究明されるのでしょう。人類の叡知の粋を集めた機械であっても、「諸行無常の響きあり…」という『平家物語』の域を出ないのだとあらためて感じました。ちょうどNHKの朝ドラ「まんてん」の中の台詞で「宇宙飛行士になるということは、宇宙で死ねるかということなんだ。その覚悟があるかということなんだ。」という言葉がオーバーラップしてきました。しかしどれだけ事故原因が究明されて、納得のいく原因が見つかったとしても、もはや7名の人間は帰ってこないのです。そこには無情な時間の不可逆性が横たわっています。ものすごく卑近な例でいえば、走っていて転んで膝を擦りむいたりします。すると、その膝から出てくる血を押さえて、なんでもとへ戻らないのだろうと必死に思います。車で、追突してしまったときにも思いました。ちょっとバンパーがへこんだだけじゃないか、どうして時間が戻らないのだろうかと。なかったことにしてくれないかなぁ、だってちょっと時間を戻せばいいだけじゃないか。もういまはぶつかっていないのだから。それはさっきぶつかっただけだろうと。時間を少しもどせば何にもないじゃないかと。そういう思いに無性にとらわれました。でも無情な時間の不可逆性は、「分かった」とは言ってくれないのです。多分、過失で人を殺してしまったひとも同じ感懐をもっていると思います。「まさか死ぬとは思わなかった」「殺すつもりはなかった」と必ず言いますよね。まあ今まで人を殺した経験がないのですから、この程度殴れば死ぬとか、この程度刃物で刺せば死ぬということは実感としては分からないわけです。何人も殺しているひとなら、「この程度なら死なない」ということも分かるのでしょうけれども、初めて殺すひとは程度が分かりませんから、やってしまった後に、死んでしまったということになるのです。ですから、あの時の時間を少し巻き戻してくれないかなぁと思うはずです。非情な時間の不可逆性は容赦しません。自殺のひともそうだと思うんです。ボーッと何かにとりつかれたように日もを結んで、首に掛けてしまうんです。それで、首吊り状態になったとき、ハッと我に帰るんです。しまった!と。でも時既に遅しで、もとへ戻れないのです。ですから、小生は自殺は他殺だと思っているのです。自殺であっても、本人にとってみれば、事故の被害者なんだと思います。事件や事故もそうですけれども、「老い」もそうですね。残酷です。顔のシワは増えても減ることはありません。シミやホクロも増えこそすれ、減ることはありません。残酷なものです。しかし、この肉体を脱ぎ捨てて、他の道を選ぶことはできません。何だかんだといいながら、この肉体を引き受けて生きざるを得ません。暴力のような時間の不可逆性にさいなまれながら、それでもこの身をまるごとイエスと引き受けて生きられれば、それが最高でしょう。お経に「金がないときは銀が最高の宝である。銀がないときは銅が最高の宝である。銅がないときは鉄が最高の宝である」と書かれていました。これは人生の最高の教えだと思いました。つまり簡単に言えば「無い物ねだりはしない」というだけのことです。目の前に銀があれば、それを引き受けよというのです。目の前にあるものが銀であるのに、金が欲しいなぁと思うなということです。金を望んでも、目の前にあるのは銀なんです。銀を目の前にしていて、銀の良さが見えないのは金とくらべるからです。つまり銀の価値を打ち消してしまうのは、金の観念なんです。銀は、どう評価されようと銀です。それを金とくらべることで銀の価値を汚してしまうわけです。つねに目の前のものを、喜んで受け入れられるということは、他のものとくらべないという心です。くらべる意識から、フッと自分を遠ざけるということです。くらべる意識は、人間特有のものでなくなりません。ただくらべる心が起こってきたときに、その心から離れることができるかどうかです。くらべる心が起こってきて、一番困っているのは自分なんです。人と幸せをくらべて、自分が不幸だと結論を下すと、自分が苦しいです。でも、金と銀の違いならいいけど、自分は金と石だというひともいるかも知れませんね。

 確かに、「老い」は無情な時間の不可逆性です。若い頃には戻ることはできません。まあ美容整形で、シワを延ばして若く見せることはできますけど、限界があります。物理的には、そういう方法しかありません。でも、「美しく老いる」ということも可能なのではないかと思っています。若い頃の美しさとは異なるのですけれども、とうぜんシワやホクロは増えたり、体型も変わります。でも、それとは異質の「美しさ」の質があるように思います。ヘミング・ウエーの写真を見ると感じますね。曽我量深先生の写真にも感じます。彫刻でいえば、何度も何度も削っては彫り、削っては彫りしてようやくできあがった顔のような美しさです。間違いなく全人類が老いるんです。老いを「深み」に変えてゆきたいと思います。

 もうひとつ、「偶然性の説得力」について書いておきます。人間は理性で決めたことには本質的に納得がいかないようです。これは実感したところです。実は、研修会で意見発表を誰がするかを決めることになったのです。そこで、自薦他薦を問わず、誰がいいかを論議しました。「彼は意見を述べるのが上手だから、彼がいいと思います」。そうすると、指名された方は、「私よりは彼がいいと思います」と辞退する。そんな調子で、誰もなり手がいなかったのです。それで、大人の集まりですけど、ジャンケンで決めましょうということになりました。それでみんなでジャンケンをしたのです。その結果Aさんに決まりました。面白いことに、ジャンケンで決まってしまうと、Aさんは渋々引き受けたのです。面白いですね。人間の理性で、ああだこうだというと引き受けられないのです。ジャンケンという偶然性だと引き受けられるのです。ジャンケンの方が理性をしのぐんですね。ジャンケンの偶然性には理由がないからです。理性は理由がある。「○○だから、○○がよい」と。その理性の理由には、理性の異議申立ができるのです。しかしジャンケンの偶然性は有無を言わせません。つまり偶然性は誰にでも平等にやってくるわけです。同じ条件だとみんな思っているわけです。自分がチョキを出した時、みんながパーを出すかどうか分からないのです。つまり賭けですね。この偶然性の条件はみんな同じです。ですから賭けに負けた人間はその負債を負うということを承諾するのです。一応ジャンケンのルールを守れますから成立しました。もし、そんなジャンケンは無効だという人間があらわれたらダメなんですけどね。子どもはそういう手を取りますけど、さすがに大人は共通了解の世界をひっくり返すようなことはしません。このジャンケンを普遍的な次元で考えてみるのも面白いですよ。つまり、ジャンケンという偶然性の賭けと自分の人生は同じじゃないかと思うんです。この世に生まれたということは、ジャンケンをしたということです。ジャンケンをしてパーを出したんです。そんなの自分は承諾した覚えはないといってもダメです。パーを出してしまったのですから。だれが承諾しかたは知りませんが、結果がパーなんです。不可逆性で後戻りはできません。神様がパーを出せといったからだと言い訳はできません。人間はパーを出した理由が欲しいのです。しかしジャンケンは理性が通用しないんです。たとえ理性で答えが与えられたとしても、それには納得できないでしょう。面白いですね。偶然性には全託するしかないんです。

 小生は「全託」という言葉を作りました。依存や信託は、部分的依託です。しかし全託とは、生も死もまるごと全部信託することです。マル投げです。人間は偶然性でしか全託できないのです。理性では、ダメなんですね。ジャンケンの説得力がそのことを表しています。昨日も法事のとき、檀家のひとが「幸福科学」の雑誌を「読んでくれ」と置いてゆきました。真宗の檀家で幸福の科学の信者ということが成り立つのが現代です。まぁ檀家といえども信教の自由があるんですから、強制力を持つものではありませんけど。でも「あの世」を「この世」と同じ感覚で受けとめているんです。月があって、土星があってという空間感覚で受けとめているんですね。自分の意識は何も変わっていないんです。信仰とは自分が変わることです。自分の意識が、表層から深層へと変化するものです。これが難しいのですが、安易にしすぎです。それでは、依存型・信託型の信仰になります。全託にはなっていません。曇鸞というひとは「楽の為に淨土へゆきたいというひとは絶対に行けないのだ」と書いています。いまより素敵な場所、いまより充実した場所、いまより上位の場所へ行きたいという願望は現実逃避なのです。その意識がいっぺん死ななければ信仰にはなりません。いっぺん死んで、<今>へ戻ってこなければなりません。いままで逃避しようとしていた、この娑婆の生活が違った意味を帯びてくるということです。

 

2003年02月02日

●早いもんですねぇ、もう二月になってしまいしまたね。光陰矢の如しですなぁ。先日、ひとに誘われて、初めて「コリアン・クラブ」とやらを体験しました。ひとはなんでも勉強ですから、嫌々でしたけど、勉強のために清水の舞台から飛び下りるつもりで、潜入したのであります。(^^ゞ)それは錦糸町にあるお店でした。錦糸町は、ずいぶんコリアン・クラブが多い地域らしいです。お店に入る前から香水の香りが漂っている場所でした。お店のドアをママらしき人が開けて、我々を中へと導いてくれました。中にはコリアンの女性がたくさん椅子に座っていました。我々四人がテーブルにつくと、その間に女性が座りました。「いらっしゃいませ〜」とかなんとか言ったと思います。小生はとても疲れていたので、「ああ〜っ」という感じで応えたと記憶しています。こんな場合には、「アンニョン・ハセヨ〜」と言うんだったよなァと、内心思いました。二年前に、韓国旅行へ行ったとき、即席でハングル語を勉強しました。「アンニョン・ハセヨ〜」から「アンニョン・ヒケセヨ〜(さようなら)」、「アンニョン・ヒチュムセヨ〜(おやすみなさい)」、「スゴーヘッソヨ〜(お疲れさま)」、「オルマ・イムニカ?(いくらですか?)」「ビザカード・テムニカ?(ビザカード使えますか?)程度の挨拶は覚えました。でも、言葉は道具みたいなもんですから、普段使っていないと、そのモードに入れないのです。日本語モードからハングルモードに変わるには努力が必要でした。そんなことを考えていたら、「何を呑みますか?」と尋ねてきた。もちろんここでの王様は「真露(ジンロ)」です。ジンロかウイスキーが用意されていました。小生はジンロの烏龍茶割りを頼みました。隣に女性がいましたから、何か話さなければいけないなという内なる声がして、話しかけました。「日本に来てどのくらい?」「半年くらい」「日本語うまいね?」「向こうで日本語学校、通いました…」「日本はたくさん儲かる?」「はい」「お金儲けて、どうすんの?」「不動産の資格とって、お店開きます」「ヘエーッ」。これには驚きました。女性たちはみんな、凄い目的意識がハッキリしているのでした。「お客さん、歌、歌いませんか?」といって、カラオケの本を手渡します。知人が、二曲は歌わないと帰れないよといいますので、渋々歌いました。「ええ〜と、デュエットの東京ナイトクラブ、歌える?」と聞きました。その子は、「聞いたことあります。あまり知りません。でも聞けば歌えるようになりますから、大丈夫」というんです。「ええー大丈夫?」と繰り返すと、彼女は「私は歌を覚えられません。でも、神様がそういう子にはちゃんと歌える力を与えてくれるから大丈夫です」というのです。エーッ神様?と思いましたね。もしかして、このクラブは「統一教会」のクラブじゃないのか?と勘繰ってしまいました。あまりに的確に「神様」という言葉を使いこなしているので、ちょっと用心しなければと思いました。そして「韓国行ったことあるんだ」「どこ行きましたか?」「ソウル・釜山・慶州へ行ったよ。でも、韓国じゃキリスト教多いね?夜になると赤い十字架がやたら目につくね」「そうです、キリスト教多いです。日本も多いじゃないですか?全部の三分の一はキリスト教じゃないですか?」「そんなことないよ。国民の一割くらいじゃないのかなぁ」「エーッ本当ですか?」。韓国では、キリスト教の流行がすさまじく、儒教や仏教は下火になってきたと聞いていました。まぁ純粋な信仰というよりも、地域活動で関わっているとか、塾やコミュニティーの付き合いで入っているとか、そういう関わりが多いと聞いています。儒教的な風俗も徐々になくなってきたそうです。韓国は儒教の国ですから、年長の人がいたら、年下はタバコを吸うのを控えるとか、会食に行ったら年長のものが、全員にご馳走するとか。それも聞いてみました。そうしたら「いまでは、そういうことはないです。自分の食べた分は自分が払います」と言ってました。なんだ、日本と同じじゃないの、徐々に、そういう儒教的風俗も薄れていくんですね。そして、「モノと金」の社会に突入していくんですね。ついでに、南北問題について聞いてみました。「統一問題はどう思う?」「ダメだと思います」「どうして?」「ドイツを見て下さい。東西が統一してから、西ドイツは大変なことになっています。立ち直れません。韓国もそうなります」。これは凄い反応だとビックリしました。やっぱり海を渡って日本で仕事をしている人間だけのことはあります。同い年の日本人女性に、同じ質問をしても、こんな反応は望めないのではないかと、内心思ってしまいました。ちなみに彼女は24歳だと言ってました。やっぱり、あの朝鮮半島のひとびとは国際感覚の中で動いているんだと改めて感動しました。長年中国やモンゴルなどに攻められても、ちゃんと生き残ってきた民族の底力を見せつけられました。そして信仰厚き人々なのでした。彼女の反応には、これも驚きました。自分は非力だ。でも、非力だから神様が助けて下さるのだという信仰理論を体得していました。まあ、これは依存型の信仰なんですけど、ちゃんと現実を信仰理論で生きているという素晴らしさがありました。そんなことをしていると、カラオケの順番がやってきました。ステージに彼女と行き、「東京ナイトクラブ」を歌いました。ところが、彼女はとても初めてとは思えない歌いっぷりでした。歌えないというのは嘘じゃないかと思いました。多少はスケベ心も起こったのですけれども、彼女の毅然とした態度にそんな心も冷めてしまいました。外見はドレスを着飾り、お化粧もしっかりしているチャーミングな女の子なんですけど、内面は鋼鉄のような信仰心と人生観をもった一個の人間でした。コリアン・クラブ恐るべしという感想を持ちました。それでも言葉が不自由なので、なかなか抽象的な話は通じません。彼女はまだ日本語はできましたが、他の子はできません。ですから、どうしてよいのやら分からず、居心地の悪い感じが残りました。仕方がないので、薄いジンロの烏龍割りをチビチビやっているのが関の山でした。こんなところに来て、お金を落としてゆく日本人の気持が分からんなぁ。まぁ、同国の人がやってきて、楽しそうに歓談している姿を見ると、やっぱり言葉が通じることのありがたさ、通じないことの惨めさを感じてしまうのでした。 

 しかし他民族の人々と出会うと、その反動でどうしても日本人の姿を想像してしまうようです。何十年も前、関西の友人がいました。彼と呑み屋にいくと、割り勘はいやがるんです。持っているものが払えばいいじゃないかといいます。割り勘なんか無粋なことだというのです。小生は、その都度割り勘にすればフェアーじゃないかと主張しました。それで喧嘩したこともありました。しかし彼は、それでもフェアーだと主張するのです。どうしてフェアーなんだと尋ねると「持ってるものが払えばいいやん。次の時は、自分が払うんやから…」。でもそれじゃ偏りが出てくるじゃないかと反論しました。彼はそれはないというのです。ちゃんと、相手がどの程度負担したのかを記憶しておいて、それに見合った分を次回に支払うというのです。小生は、そんなことは面倒だから、その都度割り勘にした方がいいと主張しました。その議論は、平行線のままでした。いまから思うと、彼のやり方は韓国式だったのかもしれません。韓国では、沢山もっているものが支払う、あるいは年長のものが支払うという風習がまだ残っています。そのやり方は関西人のやり方と同じだったのです。それは韓国のやり方が日本に輸入されたのか、あるいは同じやり方が民族を超えて成り立っていたのか、それは分かりません。しかし、韓国と関西は共通点が多いように思います。また、関西の人には「アンチ東京」という意識が強いように思います。「下らん」という言葉の語源知ってんか?と聞かれたことがあります。それは材木が大阪から、下ってゆき、もうこれ以上下らないところが江戸やったんや。だから「下らん」というのは東京のことなんや、などと揶揄されたりもしました。やっぱり、天皇を京都から東京へ強制移住させたことへの反感があるのかもしれません。自分のところに長い間、都があったのに、それを人工都市東京へ無理やり引き抜いていったのだという反感です。ですから、なんだかんだと東京の悪口を言われたもんです。小生は東京弁なので「○○しちゃって…」とか「○○なんだよ」とか「○○でさぁ…」とか使います。すると気取りやがってとか、笑いのターゲットにされたりしました。最初は、なんで笑われてるのか気づかなかったんですけどね。しかし関西人の「アンチ(反)東京」という態度が、生きる力につながっているのかもしれないと思います。

 それからもう一つ。これは韓国に住んでいたひとの話です。飲み会が終わって家路について歩いていたら、人が倒れていたそうです。するとそこを通り掛かったタクシーが停車して運転手さんが、その行き倒れを介抱していたそうです。運転手は、知人に向かって「おい、早くこっちに来て手伝え!」というそうです。「このひとを見殺しにするつもりか!」と。そして救急活動に加わらないことがなんと非道なことかというのだそうです。知人は、仕方なく一緒に救急活動をしたそうです。こんなことは日本ではあり得ないことだと思います。韓国人の人情の厚さは日本人には想像できません。それからもう一つ。そのひとが近所の八百屋さんと懇意になったそうです。いわゆる「お得意様」になったそうです。しかしそれは大変なことで、「お得意様」になると、傷んだ野菜を売りつけられるのだそうです。つまり、あなたは私にとって特別なひとだ。だから、私が古くなって困っている野菜を引き取ってくれてもいいでしょう、という論理らしい。日本であれば、逆でしょう。お得意様には新鮮な野菜を提供しようとします。そうやって、お客様を大事にするから商売が長続きするんだと考えます。しかし韓国は逆なんです。お得意様だから傷物の野菜を買ってくれるんだと考えるんです。困った時はお互いさまじゃないですか、困ったときに助け合ってこそ友情というものでしょうと。そう言われれば、そうかなぁと思ってしまいます。韓国は人情の国です。それも強烈な人情の国だと思いました。日本人は西欧流の個人主義を真似ています。でも本場西欧の個人主義ではありません。逆に韓国は人情主義の国です。丁度日本は韓国(アジア的な状態)と西欧の中間に位置しているのでしょう。中間にあって、どっちにも行けずに苦しんでいるように見えます。まったく「知にはたらけば角が立つ。情に竿さしゃ流される。とかくこの世は住みにくい」という漱石の嘆きは深いものがあります。

 

2003年02月01日

●こんなこと、ここに書いていいのだろうかとためらいつつ、書きたいことがあります。それは小生が、教団の全国紙『同朋新聞』の一月号(巻頭)に書いた文章についてなのです。ちょっと長いのですけれども、全文を載せてみます。

「淨土真宗はわけの分からないものを本尊として拝んでいるのか?」と質問されたことがあります。阿弥陀とは、「ア(阿)=〜ない」・「ミダ(弥陀)=量る」という意味なのだから、人間には思い量ることができない仏を拝んでいるのではないかという質問です。

 たしかに人間の思いを超えているのですから、人間にとってはわけの分からないものと受けとめられたのだと思います。しかし、本尊は逆に人間に問いかけてきます。「それでは、果たして人間はわけが分かって生きているのか?」と。人間に成ろうと計画して人間に生まれてきたのですか?」と。「果たして自分のいのちはどこから来たのですか?」と。一番身近な自分自身のいのちが一番わけの分からないものなのではないでしょうか、と問いかけてきます。

 自分は両親から生まれました。しかし、その両親は、その前の両親から生まれました。そうやってどんどんさかのぼってゆくと、どこまでゆくのでしょうか。いのちは必ず前の世代から受け伝えられてくるのですから、それをさかのぼってゆくと、地球にいのちが誕生したところまでさかのぼれます。さらに太陽系が生まれる前、銀河系が生まれる前、そしてこの宇宙が生まれる前にさかのぼります。突き詰めると、私のいのちは宇宙の寿命と同じ長さをもってあるのです。いのちの起源は人間には分からないことです。思い量れない、つまり「ア・ミダ」なる世界から、自分のいのちが連綿と受け伝えられてきたのです。

 それでは、「自分の未来は分かっているのか?」と問われると、これも分からないのです。自分のいのちは、後何年生きられるのか誰にも分からないではありませんか。死は、いつでも、「一瞬先」にあるのです。交通事故で死ぬか、癌にかかるか、心臓発作でなくなるか、それは誰にも予測できません。ですから、死からの距離は、誰もが等距離だといえます。

 それでは、いま現在は分かっているのかというと、これも分かりません。時計で量れるいまは、時々刻々過去になってしまいます。「いま」と言った途端に過去になってしまいます。その意味で、いまという時間は、人間にとって、過去と未来に引き裂かれた時間だともいえます。「いまを生きている」と自分は考えているのですが、本当はいまを生きていないのかもしれません。

 そうすると、この一番身近な自分自身のいのちの過去も未来も、そして現在も「ア・ミダ」なるな出来事だったことに気づくのです。お内仏に飾って拝んでいるときには気がつかなかった本尊が、実はこの身近ないのちにまでなって下さっているということはなんということでしょうか。眼で見たり、考えたり、手で触ったりするよりもっと身近ないのちそのものが、まさに人間の思いを超えた「ア・ミダ」なる現実だったのです。そのことへの気づきが、驚きと感動をともなって人類の口から初めて「ア・ミダ」と発せられたのです。 (2003年1月1日発行)

 テーマは、「自身の<いのち>こそ本尊」ということにしました。書いているときは、ことに没頭していますから、何とも思わずに書いてしまったのです。しかし、読み返して見ると、ずいぶん大胆なことを書いてしまったなぁ、出版部に原稿送るのやめようかなぁ、きっと批判が出るだろうなぁ、あるいはボツにされて、改めて書き直せと言ってくるんじゃないかなぁ、などなどとタメライが出てきてしまったのです。でも、自分にとって、正直に、本尊について考えているところを述べよという仰せですから、これより他にはないなぁと思っていたのです。まぁ、文句言ってきたら、そのとき対応すればいいやと思って、原稿を投函してしまったのです。まあ、これを受容できる本山であればアッパレだし、ダメなら、その程度の了見しかないということだから、まぁリトマス試験紙みたいなもんで、試してみようという、姑息な感情もあったのです。しかし、出版部は、これを載せてしまったのです。これは大したもんだと小生も内心、エールを送りました。でも、やはりというか、計算通りといいましょうか、ご意見が出版部宛に届いたそうです。いままでこのような本尊論はありませんから、真面目なご住職には驚きだったのだと思います。真面目なというのは、原理主義的なという意味です。頭の硬いという意味でもあり、発想が硬直化しているという意味でもあります。しかし、こういうご住職が大谷派は多すぎます。それは、大いなる財産でありますが、一方、大いなるつまずきの石でもあります。

 なぜこの文章が批判されたのかといいますと、その根底には本尊というのは、自分が仰ぎ尊ぶものであり、自分を助けてくれるものという漠然としたイメージがあるからです。でも、それも無理はないのです。お経には「阿弥陀さんは、念仏の衆生を摂取して捨てない」と書かれているからです。自分を助けるものが、自分自身であっては混乱するのも当然なんですね。他のところには、「阿弥陀さんは、此処から西方十万億土にいらっしゃる」と書かれていますし、また他のお経には「此処を去ること遠からず」とも書かれているんです。まったく矛盾した表現がされていたりします。ですから、それらのお経を解釈するのにはコツがあるんです。経典の外側からいくら解釈しても、見えてこないのです。経典内部に入り込んで、内部から見て行かなければ見えないのです。

 まあ、普通は衆生を救う本尊が、この自分自身のいのちだということになると、混乱しますね。それは自分の外に超越者としてあるものが本尊だと考えているからなのです。大沢真幸流にいえば「第三者の審級」は自分の外部にあるという固定観念です。毎日、拝んでいる本尊が、どうしてこの自分自身のいのちなんだ!という批判です。そして、こんな一個人の感想のようなものを公の新聞に載せるということは、なんなんだ!という出版部への批判もありました。とても、こんなものは自分の寺の門徒には配れない!ということもいわれました。まぁ、出版部は、そういう意見に対して丁寧に対応して下さいました。大変ご迷惑をおかけしました。m(__)m

小生は、「本尊」といえば、もうすでに自分の外にあるもの、拝跪するもの、拝むものという固定観念が、むしろ生きた本尊から人間を遠ざけていると感じたのです。自分の外にあるものであっては、人間は感動しないのです。人間が救われるといっても、大いなる感動なのです。感動は外なるものが、自分の内側に見つかったとき起こるものなのです。腑に落ちるということは、自分の腑に同質のものが響いて、了解と感動が起こるのです。それが自分と無関係で異質のものであってしまっては、そういう出会いは起こらないのです。

 教義には、「自身は現に迷い多き罪悪生死の凡夫であります。宇宙が始まる以前から、迷い迷いして、まったく救いの手がかりのない存在です」と示されているのです。これが、なぜ本尊なんだ!というのでしょう。確かに一面にはそういう了解は正しいことです。しかし裏があるのです。この身にまでなって、一緒に宇宙の初めから迷い迷いの流転に同伴して下さって、私を救おうとはたらき続けていた本尊でもあるのです。私は、ただ孤独に迷ってきたのではないのです。この身にまでなって下さっている本尊と共に迷ってきたのです。ですから、かたじけないとか、アーッという感嘆が生まれるのです。こんな身近にはたらいて下さっていたのに、そのことにちっとも気づかずに、「青い鳥」を外に求め求めてさまよってきたのだなぁと懺悔が起こるのです。これは難しい言葉ですけど、「超越即内在、内在即超越」ということです。つまり自分を超えている存在が、自分になって下さったということ、そして自分になって下さっているのですけれども、それは自分を超えている出来事だという意味です。そうでしょう。このミクロの世界でちゃんと皮膚が新陳代謝してくれているから、私が成り立っているんです。自分の思いとか都合とは無関係にね。これが超越ということです。あまりに単純すぎて人間は何とも感じないのです。昔はお米の中にも仏さまがいると言ったもんです。このミクロの皮膚細胞の中にも仏さまがいるんですよ。あまりに身近すぎて、感動もしないんです。それほど本尊は見えないもんなんです。でも、注意が必要です。この皮膚というモノが本尊ではないのです。皮膚を皮膚たらしめているコトが本尊なんですよ。ですから本尊は目には見えないんです。コトですから。モノは目に見えるから、分かるんです。しかし、モノをモノたらしめている背景が本尊ですから、目には見えません。モノにとらわれると、この皮膚が本尊か!と批判したくなります。それも無理はありません。引っかけのようなもんです。この文章を読んで、どういう反応を示すかで、そのひとの信仰の質が暴露されてしまうのです。でも、賛否両論あって、様々な意見が届いたといいます。なかには肯定的な意見もあったようです。しかし、物議を醸すというか、話題が沸騰するということは、良きことだと思っています。書いた文章が、何らかのリアクションをもたらすということは、とても大事なことだと思います。無風状態が一番、最悪のことだと思います。ここまでいうとかなり確信犯に近いですけどね。(^^ゞ)

 まあ、批判をかわすのであれば、曽我量深先生の文章などを引用しておけば、それでお茶は濁せるのです。自分の言いたいことは曽我先生のこの表現と同じ意味だと免罪符を付けておけば、問題は起こりません。曽我先生は、「如来は我なり。我は如来に非ず。如来、我と成りて、我を救いたもう」と表現されました。「如来は我なり」とは、本尊が自分自身だという意味です。しかし、それだけだと、身体というモノが本尊だと誤解されてしまうので、その逆も表現しているのです。「我は、如来に非ず」と。しかし、本尊と自分とはバラバラの関係ではありません。その本尊が自分にまでなって下さり、自分を救って下さるのだというのです。この異質のものが、ひとつに出会うというところが、大事なんです。こんなことを書けば、原理主義者も納得するのです。曽我先生がおしゃっていることなら、それはキット真実に違いないと。教学者で、曽我量深・金子大栄・安田理深等々の先生はビックネームですから、これらの名前を免罪符に出しておけば、ことは済むのです。しかし小生は岡本太郎のような、やんちゃなところがあって、通り一遍のことは嫌いなんです。ことなかれ主義は大嫌いなんです。やはり、そういうビックネームに頼らずに、自分の実感で勝負したいということがありました。それで、傍若無人にも、そういうことをやってしまったのです。

 その一件の果てに、五月号と九月号にも執筆することを約束したのでありました。またまた批判の手紙が届くことでしょう。でも、それはとてもよいことだと思います。「誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず」と親鸞はいいます。まったく同感です!親鸞の大胆さや茶目っ気には、まだまだ到底及ばない自分だと思っております。親鸞は、並み居る諸先輩を前にして、自分の信心と、先生・法然の信心は一緒だよ!と吹っ掛けたりするんですからね。あるいは、信心を得たいのなら人を千人ころしてごらんとか言っちゃうんですよ。こんなこと同朋新聞に書いたら、それこそ非難轟々じゃありませんかねぇ。それを思えば、小生の文章など、可愛いもんですよ。まぁいずれにしても、「前向きの異端者」は孤独なもんです。親鸞が、そうだったように、本当に理解されるのは死んでからなんです。ですから、この世にいるあいだは、せいぜい嫌われたり、笑われたりしていればいいんです。ちょっといい気になり過ぎてますけど、「いいか男は〜生意気くらいがちょうどいい♪」という河島英吾の「ノフウゾ」に合わせて、退場したいと思います。ご機嫌よう。

 

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