古代文字と古代文字書道 Q&A

古代文字って何?


 今我々が使っている漢字の古代の文字の姿。漢字の始まりから、第二段階の書体である隷書時代が始まるまでの、千年を遥かに越える篆書(広義の篆書)時代総ての多様な文字をいう。


今の漢字とはどう違うの?


 漢字は歴史的に、三つの書体に分類されますがその最初の時代を篆書時代と呼びます。その次が隷書時代であり、今は楷書の時代です。古代文字は楷書(一応活字、例えば明朝活字の文字と考えればいいでしょう)とは随分違いますが、総て、一系列上の文字ではあります。


古代文字といえばすべて象形文字?


 勿論、始源に最も近い文字ですから、高いパーセンテージで象形文字を含んでいますが、象形文字の絶対数はごくわずかです。絵に表せる文字には限度があるからです。しかしそれらは、文字というよりも「殆ど絵」というものが多く、それが、最も楽しい所なのです。


広義の篆書に対して、狭義の篆書とは何か?


 一般の人に篆書を思い起こしてもらうのに、私はよく「実印」の文字を例に挙げます。「大事なモノ」を強調するために、普段殆ど使われない書体である「篆書」が使われているのです。この実印の文字が「狭義の篆書」であり、「小篆」と呼ばれるものなのです。一般の人や、少し書道を囓った人にとっても、篆書といえば小篆なのです。


それじゃあ、小篆って何?


 小篆は長い篆書時代の最後に位置するもので、有名な秦の始皇帝によって整備、制度化された文字なのです。文字は本来、それ自体神聖なものとして王朝支配者や特殊な職掌の人々によって独占されていたものですが、王朝の支配力が地に落ちた、東周期の戦国時代あたりになると、群雄割拠が文字にも反映して各国が独自の文字表現をしはじめます。A国とB国では文字が通じないというようなことも実際に起こってきたのですが、武力で全中国を統一した始皇帝が、己の権力を誇示するためもありますが、文字を統一してこれをくい止めました。
 皮肉なことに、文字統一のさなか、既に隷書化の波は押し寄せており、始皇帝の秦もあっという間に滅んで、次代を担った漢帝国は隷書をその正式書体としました。けれども始皇帝の行った文字統一は、篆書時代の総浚えとして、中国民族が正しく文字を継承する財産となり、紀元100年に許慎が著した『説文解字』となって結実しました。


どんな古代文字があるの?


 実は沢山ありますが、代表的なのは甲骨文と金文でしょう。なぜ代表的かというと、共に質も量も豊富であることと、ほぼ文字の始源に近いところからそれらが始まっているということがその理由。他に陶文、石文、竹簡、帛書、古印など文字が残された素材の名を冠したものが多いのです。違う角度から、古文、籀文というものもあります。


甲骨文とは何か、もう少し詳しく?


 甲骨文は亀の甲羅や、牛の骨などに彫りつけられ、今の世まで残った文字。今から約3400年前の殷という国の都の跡から、ほぼ100年前に偶然発見されました。殷という国は、王室の日常生活から国家の大事まで、亀甲や獣骨を使った占いで判断していましたが、ある時期からその内容を記録するために、その甲骨自体に彫りつけるようになりました。それで文字が残り、伝説に過ぎないといわれた殷帝国の存在まで証明してしまいました。


金文が何なのか、もう少し詳しく?


 きんぶんと読みます。金属器(主として青銅器)に鋳込まれた文字。青銅器に金文が鋳込まれ始めたのは、甲骨に文字が彫りつけられるのと、ほぼ同じ時期だとされています。その頃から、文字が急激に発達し始めたのかも知れません。殷の金文は成文銘が少なく、一様に短文ですが、西周期に入ると文章は長文となり、文字も美しく発達して黄金時代を築きます。これが、西周期金文なのです。


最後に、古代文字書道とその魅力について、詳しく?


 これまで述べてきました古代文字を用いて「書作品」を作ろうというものです。今までにも篆書の書道はありましたが、殆ど小篆によるものです。古代文字書道はここから遙かに遡って文字の始源に赴き、文字の古代に遊ばんとする趣味領域です。その魅力は、文字に象形の要素が強く、画面に近づく傾向のある近代的な書の表現に向いているということや、ただ書くだけではなく文字学と関わりを持って常に学びながら制作する知的な喜びが得られるということにあるでしょう。
 これまで古代文字書道という名称がなかったのは、篆書が小篆に限って書道が行われてきたからです。篆書のおもしろさが象形的な要素の強さにあるのは言うまでもありませんが、それは小篆よりも古文・籀文。そしてそれよりも金文、更には甲骨文と、始源に近づくほど顕著になっていきます。これら篆書時代総ての文字に目を通し、表現の素材としての文字の種類を増やし、あらゆる方向に可能な限り表現域を広げようというのが城南山人の提唱する古代文字書道です。
 古代文字書道は難しくありません!城南山人の古代文字字典シリーズと入門書によって誰でも適切にアプローチできるようになりました。


(以下は英語版につけたものですが、ここにも参考に置いておきます。)

歴代王朝と文字の変遷

篆書;広義の篆書は、文字の始まりから隷書が現れるまでのすべての古代文字を指して言います。これに対して狭義の篆書とは、秦の始皇帝の制定した小篆のことを言い、今に約一万字を伝えるものです。

隷書;第二番目の正式(定型)書体。流麗で高度に装飾的な姿で登場したが、その寿命は短かった。本来小篆の繁画と生ぬるい曲線を嫌って誕生したはずの隷書であったが、主画に独特のうねりを持たせ、バランスの取り方にテクニックを要求する書体は自己矛盾以外の何ものでもなく、自身が隷変の対象となって楷書の誕生を促した。


*1---甲骨文は亀の甲羅や、牛などの骨に刻みつけられて今日まで残った文字。殷代固有です。

*2---金文は殆どが青銅器に鋳込まれて今日まで残った文字。篆書時代のすべての時期に見られますが、とりわけ西周期の金文が評価されます。

*3---侯馬盟書は春秋末期の晋の文字遺品です。

*4---印文という場合は特に戦国時代の印章の文字を言います。又、この時代が印章の起源であると考えられています。

*5---籀文は古文と共に『説文解字』に掲載されていることによって知られるものである。『説文解字』は起源100年、許愼によって著されたものであるが、この時既に甲骨文も西周期金文も人の知るところではなかった。小篆以前への仄かな憧れが古文と籀文であったのだ。籀文は、確実な証拠はないが、東周王朝が制度化した可能性のある文字とされる。籀文は大篆とも呼ばれ、これに手を加えて小篆が出来たとされている。

*6---古文は籀文も含めて、小篆以前を数多く知りたいと願う、中国人の古代文字に対するあこがれの象徴であった。北宋の時代(A.D.979-1127)にこの機運の大きな高まりがあって、何冊かの古文の字典が編纂されている。それらの信頼度は必ずしも非常に高いとは言えないが、貴重な資料であることには間違いがない。結局、古文は春秋時代を含むが主として戦国時代、斜陽の東周王朝や次代を担った秦(これらは西方に位置していた)の用いた籀文(大篆)系の文字に対して、東方諸国やそれ以外の勢力の侯国の文字を言うと考えられている。

*7---行書草書は正式(定型)書体に対する早書き、省略、筆写のための補助書体である。著者は、行書と草書は「書体」ではなく、文字の始まりから存在する「隷変」に過ぎないと考えている。隷変は早書き、省略、筆写によって正式書体が摩滅、崩壊、変転していくことを言う。隷変は長い篆書時代の中でも随所に見られるし、隷書にも楷書にもどんな場面にも見られる。隷変の極限が新しい正式書体である。これが隷書であり楷書であった訳である。しかし一般的には行書と草書は楷書に対するものとして、その意味ではこのあたりがその起源とされる。しかし一見して分かるように、その位置は楷書ではなく隷書に対するものである。更にその記憶は篆書時代にも溯るものである。このあたりがその起源とされるのは、現行の行書や草書に似たものがこの時期に出てきたという意味においてである。

*8---学者によって様々な意見があるが、楷書の起源はもう少し時代を下げるのが普通である。

*9---石文は石に彫られて現在まで残った文字でこの三字は「石鼓文」のもの。始皇帝が中国を統一する前の秦の遺物で、これが籀文(大篆)のサンプルであるとする人が多い。春秋末期あるいは戦国前期説がある。

*10---東周期の列国

各時代の文字例

 

甲骨文*1

金文*2

「侯馬盟書」*3

籀文*5

 

 

 

古文*6

 

東周期金文

「石鼓文」*9

 

楚の文字*10

中山国の文字*10

 

古印の文字*4

小篆

隷書

楷書*8

行書*7

草書*7


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