長崎先生講義録
学ぶこと 2002.2/3


資格・検定の意味
 特殊法人改革によって、様々な資格・検定への文部科学省のかかわりがなくなっていく。漢検や英検などよく知られた検定からも「文部省認定」の文字が消える、ということは新聞などでも報道された。これからは必要のない資格はなくなっていく、ということである。

 ところでこういった検定・資格は、「合格する」ことが大切なのではない。そのために頑張ろうとすること、実はこのことの方が大事である。そういうモチベーションを自分で高めること、それができること、これは資格の合格にとどまらない大きなそ意味を持つ。そういう意味ではチャレンジしようと思った時点で半分は解決できている。



「せいちょう」
 「せいちょう」という言葉には2通りの漢字がある。それが「成長」と「生長」である。「生長」は放っておいても自然に大きくなる、という意味である。だが「成長」は声をかけ、関わりを持たないと起きない。

 例えば、子供が虫に興味を持ち、夢中になっているときに、つい「何やってんの!」「汚い!」などと声をかけがちである。だがそれでは「いろいろな物に興味を持つ」という部分に水を差してしまうことになる。そしてさらに子供は「くだらないことはやらなくてもいいんだ」と思ってしまう。だが、人生の大半は、くだらないことにどう対処するか、の連続である。



ゆとり
 学習指導要領の改訂の中で「ゆとり」が叫ばれている。だが小学校、4時にサイレンが鳴ると、グランドで遊んでいた子ども達が一斉に帰っていく光景が見られる。教師側からすると、「よく決まりを守ることができる良い子たちだ」と思えるが、一方で怖いとも思える。本来遊びとは、遊ぶときには夢中になって遊び、時間も忘れるというもののはずである。それなのに、まるで工場での労働のようにサイレンの合図でパッとやめられる、そういうものになっているようである。



ことばの限界
 言葉はコミュニケーションのうちの一部である。言葉で伝わることはほんの一部でしかない。この100年で電話、インターネットなどさまざまなコミュニケーションの道具が発達してきたが、これらでは細かなニュアンスというのは伝わらない。もちろん便利ではあるのだが、その分失ったものもある。それは機微といったものである。

 人は機微のない生活ではむなしさを感じるようになる。モノを持つ、得ることによって、人は何かをクリアできたような気がするが、実は何も変わっていない。結局人と人がファフェイス・トゥ・フェイスで関わることが一番大切なことではないだろうか。

 「人が生きる」その根元的なところ、問題にまで遡っていったとき、キカイでは何も解決しないことが多い。
 結局、何万年も前から繰り返している人間の営みの中にこそ、生きることの面白みがある。数年前のコンピュータの本は、もう役に立たないし、書店でも売れない。だが源氏物語はずーっと読み継がれている。

 つまり、すぐ答えの見つかることはすぐ終わってしまうと言える。また懸命に答えを探し、見つけても、それは他人にはあてはまらない。人それぞれのものである。結局「自分を納得させる答えを自分でみつける」ことが大事なのだ。学校で教えることも、そこが一番大切なのではないか。例えば、ワインのソムリエのようにワインを熟知し、分析できることよりも、世界のどこへ行っても好き嫌いなく食べれるように育てる。外国へ行ってその文化・生活を受け容れられる、そういうことが最も大事なのだ。同様に夫婦生活では相手の「一番許せないところ」を許すことが一番大切だといえる。



「しょうがない」と「頑張る」
 徳川家康は「人生は重き荷を背負うて坂道を進むが如し」と言ったという。我々はつい「重き荷」に目がいくが、実は家康が言いたかったのはそうではないのではないか。重き荷を背負いながらも「進む」、このことが大事なことだと言いたかったのではないだろうか。

 究極的に言えば、人生は2つである。「しょうがない」と「頑張る」、これに尽きる。思い通りにならない中、人は「しょうがない」と呟いてやり過ごす。しかし「しょうがない」を愛することができるようになったら人生の達人である。一番いけないのは「しょうがない」をなくしてしまうこと。これではゆとりがなくなってしまう。



学ぶとは
 ある人は、教育が荒廃した理由として、「誰にでも教員免許を与えたから」をあげた。誰でも先生になれる、となると先生は尊敬されない。だから叩きやすい。もちろん多様な人が先生になることは良い面もある。

 百科事典を見るのが好きな子供がいた。子供にその理由を問うと、「親がそうするから」ということであった。親がすぐに百科事典で調べ、「ああそうか」と問題が解決する様子を見ていると、子供もそれを学習する。

 学校の教員は「こうしてこうやればわかる(はずだ)」といった技術を蓄積していく。だが、学ぶということは本来こう言うことではないか。

 谷川俊太郎は中学を「中退」した。「合わなかった」というのが理由だという。その谷川氏に「大学をどう思いますか」と問うと、こう答えたという。「否定はしない。コンパクトに教えてくれるとも思う。ただ、学ぶというのは自分でやることなんだから、単位をくれるからとか、資格がとれるからというのは違うんじゃないかな」


後半は、少年犯罪、アメリカ同時多発テロ、きけわだつみのこえについてなど、生きること・死ぬことの問題についてクロスオーバートーク。




 (文責:菊田)


わがままを直す方法
 わがままを直す方法は、子どもと一緒に遊ぶこと。子どもはわがままなものである。それにつきあうことで、わがままに振り回される体験をすることで自分のわがままさに気づくのである。

 銀行員の飲み会はタチが悪いという。その他、警察官、教員、お坊さんなどの宴会は狂乱状態になる、という。普段押さえている人ほどストレスを発散したくなるものである。

 普段からくだらないことに楽しみを見つけることができるか、実際に楽しむことができるかが大切になる。


2:8の論理
 アリは働き者の代名詞である。毎日毎日一生懸命働いている。だがよく調べてみると、懸命に働いているように見えるアリも、実際に仕事をしているのは2割で、残りの8割はただ右往左往しているだけだという。
 そして、その2割のアリを集めてエリート集団を作ると、その内の8割は怠け出すという。

 一方最初の8割、つまり出来損ないを集めてグループを作ると、やはりその内の2割は一生懸命働き、8割は怠け出す。

 そしてエリート集団の中の2割と、落ちこぼれ軍団の中の2割を比較してみると、それぞれ決して遜色がない。

 とあるシロアリ駆除の会社では、学校で落ちこぼれた者ばかりを採用する。そして上手に動機づけて評価するとすぐにマネジメントまでできるようになる、という。つまり本来的な資質の違いというものは存在しない。また活躍の場さえ与えてやれば誰もが活躍できる、ということである。


家庭の学校化
 昭和40年代から家庭が学校化してきた。それまでは家庭には家庭の仕事があり、「勉強なんかしなくてもいいから、家の手伝いをしなさい」といったように、学校とは別の世界があった。

 ところが昭和40年代、50年代には家庭が学校化する。それまでは学校に居場所がなくても地域、家庭に居場所があった。しかしそれがなくなる。

 現在では、放課後は塾に行く。塾は大人の管理する場であり、そこに子どもの自治はない。こうして子どもはストレスがたまっていく。
 「不適格教師」が話題になることもがあるが、いろいろな先生がいて、いろいろなものの見方があるということを伝えることはとても大事なことである。LD、ADHDなども最近よく騒がれるが、学校で教科指向が強まれば、そういう子の居場所はもっとなくなる。

 これからの学校は能力主義に向かうだろう。つまり、小学校でも落第があるようになる。これをどう考えるかは様々あるが、アメリカでは養護学校が全体の3割をしめる。遅れた子にはきちんと個別のケアを与える。そしてそういうニーズがある。ということである。


「あなたはできるのよ」
 叩いて子どもをしつけようとすると、子どもは混乱する。そして意味もわからず謝るようになる。殴る、という行為は十中八九感情の暴発である。気に入らないから手がでる。というものである。「この子のためだから」「愛情があるから」「しつけだから」と、大人は口が立つのでそれを正当化する。そして暴力はエスカレートする。叩いてわからなければ殴る。殴ってわからないから物で、と。

 それでも暴力は必要だ、という人もいる。そういう時には「最低限にしなさい」「なぜ殴るのか、説明できるときだけにしなさい」と言うとよい。

 教育とはある意味洗脳である。思いこませることである。そこで何と洗脳すればよいか。それは「あなたはできるのよ」である。「嘘は常備薬、真実は劇薬」という言葉もある。子どもはいいことをしようと思って生きているわけではない。その子のいいところを見つけてあげるのは、長年生きているこちらの仕事である。


 後半はエニアグラムのビデオ。鈴木英子さん本人が9つのタイプを、それをイメージした絵とともに分類し、解説している。


 (文責:菊田)