長崎先生講義録
ケーススタディ(1) 2001.5/6
 長崎先生はグループエンカウンターの指導者として活動しており、本の著者として名前が載ることもある。そうすると大人は「すごい人」といったように受け取るが、子どもはそうでもない。「長崎先生はすごいことやるんでしょ」と子どもに聞いても、「そうでもないよ」などと言ったりする。つまり大人の受け取るイメージと子どもが受け取るイメージには差(乖離)があるといえる。それを大人のイメージに合わせようとすると、必ず人間疎外が起きる。

 ナポレオンは「人間の教育は産まれる20年前から始めるべきだ」と言ったという。親、すなわち前の世代がどのように考えるかが、次世代、次々世代に脈々と受け継がれる。

 世の中はどんどんかわっていくように見えるが、かなり大きな部分は、このように受け継がれてくるものである。最近「学力」が問題となり議論されているが、そこのところを忘れて、学力ばかりを問題にしても仕方がない。

 去年、佐賀のバスジャック事件が起きるなど「17歳」が騒がれた。その時「この世代が新しい学習指導要領の第一期生た」ということが話題となった。だが人間の全てが学校で作られるわけではない。

 では学校は何をするところか、ということになる。「一言で言ってみろ」と言われると困る。(國分先生は何でも「一言で言ってみろ」「それができなきゃわかってない証拠だ」と言ったという)その國分先生は問いに対し「社会化」である、と答えた。では社会化とは何か。それは「人間関係が上手にとれること」だという。そしてさらに、それは「強調すること」であり、またそれは「我慢すること」だと言った。

 教育基本法には教育の目的が書いてある。そこには教育の目的が「人格の完成」である、と記されている。ところが一般に学校で行われている国語、算数、理科、社会は「人格の完成」を目指すものだろうか。もしかすると「人格」とは最もかけ離れた事柄なのではないだろうか。つまり「教科内容を通して人格の完成を目指す」のが本来の学校の目的のはずなのである。「学力」「学力」とかまびすしいが、実はそれは論点がずれているのではないだろうか。「分数ができない大学生」と騒がれたりするが、極端な話、そんな大学生がいてもいいんじゃないだろうか。芸術系の大学生なら分数よりも感性の方が重要だろう。

 例えば「蛍光灯がつかない」時、人は「スイッチの接触が悪いのか」「タマ切れか」「配線が悪いのだろうか」と考える。このような科学的なトラブルシューティングの考え方は人間には当てはまらない。人間や人間社会は常に揺れ動いているし、全てが解っているわけでもない。また全て解っているなど思いこむとかえって危険でもある。

 バスジャックの例では、元小学校教員の女性が刺し殺されている。おそらく説得を試みたのだろう。だが精神的に追いつめられた者を説得するのは極めて困難なことであると言わざるをえない。ただ分かりやすく教えてあげればいい、などというものではない。

 障害者を題材にした感動的なドラマが放映されることがある。あれは特別なケースである。「あんなふうにいかないかねぇ」と思うこともあるが、珍しいケースだからこそドラマになるのである。


 さてケーススタディについて。

 ケースステディは、医療、法律など様々な場で行われる。その本来の目的は「事例の中で一般性(規則、法則)を見つけだす」ということである。

 実は心理学では、事例検討というのはマイナーな分野である。それは、一つの特別な事例から、幅広く当てはまることはみつからないだろう、ということである。いくら検討しても「それはその人の場合だけだろ」となりかねない。心理学の中でケースワークがよく行われるのは臨床心理学の分野である。いわゆる多くの人がイメージする心理学は、おそらく臨床心理学clinical psycologyのことである。今心理学ブームなどと言われるが、大学で増えているのも臨床心理学の学部だけである。

(資料プリント)
面接とケーススタディー

 面接:実際に患者と取り組むこと
 ケース・スタディー:面接の結果を検討すること

 ケース・スタディーは、精神科に限らず、法律の方での判例研究もケース・スタディーという

 ケース・スタディーは分類概念を前提にしている。(グループがはっきりしているとは限らない)臨床的研究というものが本来はすべてケース・スタディーである。

 ケースという場合は、何が何のケースになっているかをまず明らかにせねばならない。何を何のケースと考えるかによって異なってくる、非常に弾力性に富んだ概念なのである。


面接には2つの目的がある。
(1)被面接者を一ケースとして位置付けること
(2)ケースの問題点をより深く理解すること


 位置付け:馴染みのものに関係づけること
 深い理解:わからないことがわかること     両者は強く関係している


土居健郎の分類法(Feinstein文献参照)
   わかっている=パラノイア圏
   わかられている=分裂病圏
   わかってほしい=神経症圏
   わかられたくない=精神病圏

 新機軸として、被面接者の面接者に与える印象の違いを正確に記述することを以て分類の根拠としている点があげられる
 精神科で扱う材料において言語的比重が圧倒的に多かった
 もっぱら言語上の意味を追うことに忙しかった

 臨床的分類の原則が(Feinstein参照)臨床家自身の感覚を言語的に記述して出発したなら、面接者は被面接に接して持つ印象こそ一次的データを成立せしめる

 面接の場に患者が臨むときの様態を面接者がどうとらえるかということの方が、言いかえれば非言語的に伝達されるものをつかまえる方が、不安とか幻覚とか妄想とか患者が言語的に訴える事柄についての名称よりも、診断的価値はより高いと考えられるのである。




非言語的コミュニケーションの重要性

 本書では一貫して非言語コミュニケーションの重要性を強調してきた
 非言語的コミュニケーションの方がむしろ主であり、言語的コミュニケーションは従である

 自分の心を伝えることは自然(非言語的コミュニケーション)である。伝えられたものを、伝えられたままに受け取ることは教養(言語的コミュニケーション)である−−−ゲーテの言葉−−−




主観を通して客観へ

 「科学的方法とは何か」中公新書1986年
         浅田 彰・黒田末寿・佐和隆光・長野 敬・山口昌哉

 主観と客観を分離し、主観を棚上げしてもっぱら客観的知識を探究することこそ真の科学であるという近代に始まる科学観が修正を迫られているという事実の指摘

 いま科学が変貌しようとしている。純粋な観念の世界のなかで永遠不変の真理を探究するものと思われてきた数学にさえ、ゆらぎをはらんだ多様な現実と対話しながら自己を確信していこうとする動きが出てきた


   コントロール科学からオートノミー科学へ
   客観的科学から自己言及的科学へ
   手段的科学から遊びの科学ヘ
   ハードな科学からソフトな科学へ

 ただし、徹底的な分析による解像力の高度化こそが、こうした変化をもたらす
(原稿をスキャナで読んでいるため、認識ミスがあることがあります)

 
 後半

 まずリラックスする方法から。ただ「リラックスしろ」「力を抜け」と言ってもなかなか伝わらない。まず、いったんギュッと力を入れ、それから「力を抜け」と指示するとよい。

 続いてイメージについての実習。一人に起立してもらい、30秒間でその人のイメージをメモする。その後それを全員が発表し、当人から感じたことなどコメントをもらう。

 それぞれ「誠実そう」「楽しそう」「しっかり者」「あまり自分を出さない」「日本酒好き」(!)などといったイメージが語られる。

 これは、自分の思っている像と、他人が思っている像を付き合わせるという作業である。(ジョハリの窓)
 当然それは一致するわけがない。だがそれを知れば、自分を再構成するのに役立つ。
 人は思いこみの中に生きている。その枠にとらわれたとき、人は生きづらくなる。


 
 (文責:菊田)
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