長崎先生講義録
カウンセリングの定義、意義、学問的位置づけ 2002.4/14

カウンセリングと何か

 「〜とは何か」というのは難しい。國分先生は、一言で説明できなければ本当にわかっているとは言えない、という。物事を本当に理解していなければ、一言では言えない。だが、例えば学校とは何か、と問われてパッと答えられる人は少ない。ちなみに國分先生は学校とは「社会化」するところだ、という。当然これは人によって違いがあってもよい。
 同様にカウンセリングも定義するのが難しい。定義は各自が作るもの、と考えるべきである。一般にはカウンセリングを次のように定義する「言語及び非言語的コミュニケーションを通して行動変容をはかること」。

 ここでカウンセリングとサイコセラピーの違いが問題になる。カウンセリングは行動変容behavior changeを目標とし、サイコセラピーでは人格変容personality changeを目標とする。

 戦後ルバング島に残って小野田少尉は、28年間戦闘を続けた。その小野田さんを引っ張り出そうと様々な試みがなされた。肉親の声、天皇の玉音放送などありとあらゆる手だてが講じられたが、小野田さんは決して出てこなかった。小野田さんは中野学校で情報将校の教育を受けていたため、全てを謀略だと思っていたのだ。それでは最終的に小野田さんは何に反応して出てきたのか。それは上官の命令だったという。つまり、相手の行動を変えるには、相手の行動が何に基づいているのかを知ることが必要である。

 だが、行動変容など狙ってできるものではない。それよりも相手に寄り添うこと、それがカウンセリングの原点と言える。これは別の言い方をすると、「盗人にも三分の理」ということである。盗みはいけないことにはちがいない。だが、どうしようもなかった、そうせざるを得なかった、という部分を探し、認めてやることで本当にそれがいけないことだと気づく。そこが大事なことである。


人との関わり方
 阪神大震災の時には、ボランティア元年と呼ばれ、多くのボランティアが神戸に出かけた。その時、震災直後にボランティアに行った人は何をしても感謝されたという。何もない状態で、様々な援助がただありがたい、そう反応してくれた。しかし、1ヶ月ほどすると、ある人は仮設住宅に移り住むようになる。一方では取り残された感覚が生じ、また援助に慣れることから、過大な期待を持ったり、逆にねたみ、そねみの感情が出てくるようになる。ねたみ、そねみのイライラ状態に対し言葉は無力である。ただ聞いているだけでいいのについ「しかたないじゃない」などと言ってしまい、人間関係が壊れる、そんなことが多くあったようである。
 常に監視されていると息が詰まる。人は適度に放っておかれ、また適度に見守ってくれているのが望ましい。


子供という言い方
 子供という言い方はしない方がよい。それはみな全て同じ「人」だからである。誉められれば嬉しいし、スポイルされれば嫌気がさす。それは大人も子供も同様である。しかしつい「お前は子供なんだから一生懸命勉強しなさい」と自分の子供時代を棚に上げて要求したり、自分にもできないことを押しつけたりする。そんな大人が多い。

 たくさん学ぶことよりも自分の好きなこと、得意分野を見つけてそれを伸ばすことが大切である。そして大人は、子供の得意分野を見つけてやり、手助けをすることが必要である。


行動変容
 行動変容とは決して相手を思い通りにさせることとは違う。不登校の子を学校に復帰させることが必ずしもいいこととは限らない。親は「高校ぐらい卒業して欲しい」と思うかもしれないが、退学して大検を受けるのも一つのゴールである。かえってこちらの方が大変な道であり、それができるというのは立派なことである。


後半
 「何かをしてやろう」とか「してあげなきゃ」といった気持ちが最も面倒である。これはいつの間にか「自分がルール」と化すからである。人は誰もがルールを持って生きている。ご飯をハシで食べるというのは一つのルールだが、それは日本でのことである。ナイフとフォークでご飯を食べる人もいるし、手で食べる人もいる。世界中に手でご飯を食べる人は40億人、ハシを使う人は15億人、ナイフとフォークを使う人は10億人だという。子供に手で食べずにちゃんとフォークを使いなさい、といったりするが、世界中では手で食べる人が圧倒的に多いのだ。

 小学生に「世界の人は何を使ってご飯を食べるか」と聞くと、「ハシ」という答えが多いという。中学生に問うと「ナイフとフォーク」と答えるものが多い。大学生に聞くと「手で食べる」と答えるものが多くなると言う。成長と伴に知識量が増え、その差に応じて人は変化する。人はいつの間にか思いこみをしているものなのだ。


学ぶこと
 ある僧(道元?)は中国で仏教を学び、帰国して仏教を広めた。その際、弟子から「中国で何を学んできたのですか?」と尋ねられ「空手還(空手にして還る)」と答えたという。「すっからかんでものごとを見ることが大切だということがわかったので、何も持たずに帰って来ました」というのだ。知識を学ぶことは大切だが、一方で知識は物事を見るのに邪魔になることもある。実は学ぶことで、こだわりを捨て去り、ゆがんだ考え方を取り去る、それが本当の学ぶことの目的である。

 学歴を目的として学ぶのであれば、時間も努力も間違った方向に使っている、と言える。
 
 (文責:菊田)
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