長崎先生講義録
カウンセリングの哲学的基礎 2002.7/7

キレる原因
 受験競争を勝ち抜いてきた学生は呆けてしまって何をしたらいいのかわからない、無味乾燥な状態になってしまう、という話がある。
 貧しいときには、クルマを買う、家を持つなど、モノを得れば充実感が得られた。だが、最初からモノに満ちあふれた生活をしてくると、何を得ていいのかわからなくなる。それは人生に意味を見いだせない、ということに他ならない。

 また大学を卒業し、就職した学生の3年間での離職率は40%にのぼるという。仕事がわかるようになるまで3年くらいはかかる、というが、その前に多くの者が辞めてしまう
ということである。これは「がまん」といった価値観が薄れてきているといってよい。

 「キレる子供」、とよく言われる。その要素として「我慢がたりない」「自己主張の強さ」などが考えられるが、おおもととしては「『しょうがない』の受け入れがない」ことがあるのではないか。モノがないときには、食べ物にせよ、服にせよ、なければあきらめざるを得なかった。ところが今の子は「あきらめて自分を抑える」すなわち「しょうがない」を体験してきていないのではないだろうか。

 自己主張をしても「言っていることは正しいよ」と受け入れてもらえる人と、「我が強い」と思われる人もいる。その自己主張の裏には「自分の主張は通るべきだ」「私は正しいんだ」という意味が込められている。それが「我の強さ」につながる。

 「しょうがない」体験のためには、「いっしょに我慢する」ことが必要である。だが、便利な世の中になった今、我慢をすることは難しい。「めんどくさい」「はずかしい」を埋めるように様々なサービスが発展してきた現代は自律型の社会ではなくなっている。

 結局子供がキレるのは、雨が降れば学校まで子供を送り迎えする大人社会の反映と言える。

 どんど焼きなどの行事も昔は子供が全て準備していた。ところが今は大人が手を出して子供にやらせていない。現在では小学校4年生くらいでも塾に通い英語の勉強をしていたいりする。だが、この時期に学ぶべきことは英語ではなくどんど焼きを行うことではないだろうか。体験がなければ、先の見通しも立たない。結局それがキレる原因である。
一方で少数ではあるが、がまんのしすぎでおかしくなることもある。もともとキレる、という言葉は、「がまんのあげく突発的な行動をとる」というのが語源である。そしてがまんにもポイントがあるはず。何に我慢の価値を置くかということでもある。



カウンセリングと哲学
 がまんにせよ、キレるにせよ、抽象的な言葉は誰にでも使えるが、その内実を一つ一つ取り上げたら千差万別になるだろう。これは哲学的な問題と関わってくる。

 学問には大きく分けると2種類ある。一つは科学であり、一つは哲学である。科学は数字・数量に置き換えることができる。だが、心の痛みなどは数値化できるものではない。自分なりにそれを意味づけ、言葉にしていかなくてはいけない。

 例えば「よい人間」とはどんな人間だろうか。「人に優しくできる人」「私にとって都合のよい人」「世のため人のために動ける人」「親分に忠実な人」など様々な意見が出るが、これはそれぞれに人の意見であり、これは当然個人によって異なる。ただ自分のパーソナリティに一致するモノを選ぶことができるだけである。

 またどの哲学の立場をとるかによって「よい人間」は異なってくる。

 精神分析では過去に原因を求めることで、現在の重荷を降ろす効果がある。つまり過去を直視し受け入れられる人が「よい人」である。
 フランクルはユダヤ人としてナチにとらわれ、強制収容所に送られた。収容所の中では人は皆恐怖で発狂していく。フランクルが恐怖を乗り越えた原動力は、収容所を出たらこの出来事を本をにしようという希望であった。現実は誰しも同じであるが、このように意味づけ、希望を持つことができれば生きる意味を見いだすことができる。つまり意味づけできる人が「よい人」ということになる。またこのような考え方を実存主義的アプローチという。

夜と霧 よるときり Ein Psycholog erlebt das Konzentrationslager 
 フランクル(Viktor Emil Frankl 1905〜97 オーストラリア生まれの精神医学者)の代表的な著作で、原著は1947年に出版された。原題は「強制収容所における一心理学者の体験」。
 内容は、原題がしめすとおり、一精神医学者であるユダヤ人のフランクルが、アウシュビッツ収容所に収容されたのちしばらくして、ミュンヘン郊外のダッハウ収容所に連行され、そこで死と背中合わせの毎日をおくりながら、解放をむかえるまでの体験をつづっている。

実存主義 じつぞんしゅぎ Existentialism 
 個人の実存を強調する哲学的立場。19、20世紀の多くの著作家に影響をあたえた。
 実存主義にはさまざまな立場があるため、この用語を厳密に定義するのは不可能だが、いくつかの共通したテーマがある。
1 道徳的個人主義
 プラトン以来たいていの哲学者は、最高の倫理的な善は万人に共通であると主張した。とすれば、道徳的完成に達した人間は、だれもみな似ていることになる。19世紀のデンマークの哲学者キルケゴールはこの伝統に反対し、個人にとっての最高の善は、かけがえのない自分だけの使命をみいだすことだと主張した。彼は、個人のかけがえのない存在をあらわすのに「実存」という言葉をもちいた最初の哲学者でもある。キルケゴールと同様、ほかの実存主義者たちも、道徳的選択は、善悪の客観的判断にたよることはできないとする。19世紀ドイツの哲学者ニーチェは、個人はどのような状況が道徳的状況とみなされるべきかを決断しなければならないとさえ主張する。
2 主観性
 道徳と真理の問題を決定する際の個人の情熱的行為の重要性を強調する点では、実存主義者はすべてキルケゴールにしたがっている。彼らは、真理に到達するには、個人の経験と確信にもとづく行為が重要だと主張する。そのために、彼らは体系的推論に懐疑的である。キルケゴールも、ニーチェも、その他の実存主義者も、みずからの哲学を展開するしかたは故意に非体系的であり、アフォリズム、対話、比喩(ひゆ)その他の文学的形式によって表現することをこのむ。
反合理主義の立場をとるにもかかわらず、彼らは非合理主義者とはいえない。というのも、合理的思考のすべての妥当性を否定するわけではないからである。しかし彼らは、理性や科学は人生のもっとも重要な問題には近づきえないし、科学は一般にそう思われているほど合理的ではないと考える。たとえばニーチェは、規則的な宇宙という科学の想定は大部分有用な虚構にすぎないという。
3 選択と責任
 実存主義のもっとも顕著なテーマは、おそらく選択という問題である。人間の第一の特徴は、選択の自由をもつことである。人間は、ほかの動物や植物のように、固定した本質をもつのではない。20世紀フランスの哲学者サルトルの表現をつかえば、「実存は本質に先だつ」のである。したがって、選択は人間の実存にとって中心的である。選択はさけられず、選択を拒否することもひとつの選択である。選択の自由は責任をともなう。個人は、自分がえらびとったことの責任をひきうけねばならない。
4 恐れと不安
 キルケゴールによれば、人間は特殊な事物についての恐怖を経験するだけでなく、彼が恐れとよぶ漠然とした憂慮をも感じている。キルケゴールはこの恐れという感情を神の個人へのよびかけと解釈する。神はこれを通じて、個人がそれぞれ自分にふさわしい生活をするようによびかける。20世紀ドイツの哲学者ハイデッガーの著作においては、不安という言葉がこれと似た重要な役割をはたしている。不安は個人を無に直面させ、自身の選択の究極的な正当化が不可能であることを思い知らせる。

後半
 C・ロジャースといえばカウンセリングの大家である。牧師の家に生まれ戒律的な子供時代を送ったことの反発から神学を捨て、大学生を対象とした相談活動の中から来談者中心療法を作り上げたと言われているが、最近の説によれば、 それ以前に行っていた児童相談が来談者中心療法のベースになっているともいう。



方法の選択
 さて、行動療法とはアメとムチである。いいところは誉め、悪い行動を罰する。こういう点から、行動療法では「人間は行動の束である」という。
 誤解を恐れずに言えば、箱庭療法では言葉は使わない。子供を相手にするなど、クライエントが言語化できないことがある。そういうときはプレイセラピーを行う。分析者は質問し、解釈するが、操作的なことは言わない。分析者がクライエントの言葉を繰り返したりすることで問題が意識化される。

 作家志望の女の子が「私には人生経験がないからいい小説が書けない」と嘆いた。だが時代小説を書く作家はその時代の人か? SFを書く人は? 殺人を扱った小説を書く人は人殺しを経験しなければいい小説が書けないか? 生きていれば、これまでにやったことのない出来事と出会う。経験不足など関係ない。経験したことなくてもチャレンジしなくてはいけないこともある。



臨床場面での必要性
「私は、刑を終えたら社会生活に復帰できる。しかし、私の殺した相手は永遠に娑婆には戻れない。それ故、私の刑は罰にならない。」

 これは國分先生が刑務所で殺人犯との面談の際、言われた言葉である。國分先生はこれに返答することができなかった。そこでスーパーバイザーである霜田静志先生に相談すると、「自分なりに考えて答えなさい」と言われたという。

 参加者からは「どんな刑ならふさわしいのか?」「死刑より苦しんでいるのではないか」「あなたは十分苦しみました」といった答えが出たが、國分先生は結局「殺した人の分まで生きなさい」と答えた。これはカウンセリングで答えられる問題ではない。あなたの哲学で答えなさい、ということである。あるいは宗教者の方が答えやすいかもしれない。


 妻を殺された男性が、犯人に対して死刑を望んでいるというケースがある。アメリカでは薬物注射で死刑を執行するが、その際には被害者の遺族、犯人の家族の両方が立ち会い、犯人の最後の声をテープに録音するという。これはどこかでケリをつけ、終わりにする。つまり事実を事実として受け入れ決着をつける、その儀式といえるだろう。そして終わりはまた始まりでもある。
 
 (文責:菊田)
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