長崎先生講義録
非言語的表現 2003.2/2

計れるもの・計れないもの
 「コンセプトconcept(概念)」とは、ないものをあるようにするものである。例えば、精神分析では心の中を「自我ego」「超自我superego」「本能es」といった機能に分けている。このような概念をまとめ上げたものが理論と呼ばれる。この例で言えばフロイドの精神分析理論である。
 「哲学」などというとうさんくさいと感じる人もいるが、学問は実は2種類しか存在しない。一つは科学であり、もう一つが哲学である。

 科学は、計(量・測)れるものを対象としており、再現が可能なものである。Aさんがスイッチを押したら電気がつくのに、Bさんが押したらつかない、などということはあり得ない。しかし世の中の全てを計(量・測)れるわけもなく、全てが科学の世界ではないのは明らかである。
 例えば「あの人が嫌い」「好き」といったことは計(量・測)れるものではないし、そこに普遍的なものが見つかるわけでもない。



思いこみ
 人間は、事実を認識するときにフィルターをかけて認識している。例えば「子どもが学校に行かなくなった」というのは事実である。だが、それを「子どもは学校に行くべきである」というフィルターを通して見ると、「この子はダメな子だ」「私の育て方が間違っていた」といった認識になってしまう。

 一方反対に、「家族が話し合うチャンスができた」と考えれば、家族がコミュニケーションを通してまとまっていくきっかけになることもある。

 したがって、「事実をどのように捉えるか」によってものの見方は全く違ってくるといえる。人は常に何らかの思いこみを持っており、その思いこみを通してものを見てしまう。実は事実がどうあるかという問題ではなく、思いこみの問題なのである。思いこみにはラショナルビリーフrational belief(論理的(=まともな)な思いこみ)とイラショナルビリーフirrational belief(非論理的(=まともでない)思いこみ)とがあり、根拠のないビリーフは認識を誤らせる。従って、思いこみbeliefをどう作っていくかが重要になってくる。しょうもないところにこだわって全体がうまくいかなくなる人は結構多い。



カウンセリング上級者とは
 ロジャースがシカゴ大学のカウンセリングセンター時、医師たちは大反対をしたという。一般的に日本では、心理学は学問領域としては文系に属しているとされている。だがアメリカではどちらかというと理系の勉強を要求されるという。長崎先生も筑波に行った際、面接の技法などを中心に勉強すると思っていたのが、統計的な処理が多くてとまどったという。さて長崎先生の修士論文は次のようなものである。

 教員は様々な場でカウンセリングに関する研修を受ける。その際、研修を受けた教員に「保護者との対応」「授業場面」「問題行動」「心身障害」「ピアカウンセリング」の5つの場面ごとにカウンセリング的な対応をする紙上応答を行う。その時、カウンセリングの初級、中級、上級者ではどのような差があるかを調査する、というものである。

 その結果、得点を単純に平均すると、中級>上級>初級の順になった。しかし統計的処理をすると差は殆どなかったという。
 問題は研修の際に学んだことを確認するテストが行われていないことである。上級者とは単に研修を重ねた人、というだけのことでそれが身に付いたかどうかは定かではない。



学校で起きていること
 学級崩壊が話題になるが、学級が崩壊した担任の年齢は、20代と50〜60代にピークがあるという。教員は社会人である。だが、これは「学校社会人」とでも言うべき存在である。、20代の担任のクラスが崩壊するのは単に経験が不足しているためである。だが、50〜60代はなぜか。特に教育学部出身者に崩壊は顕著であるという。大学時代の友人が皆教員であるため、かえって誰にも相談できず、弱音も吐けないのが原因と考えられる。
 この十年来、人間関係のひ弱な教員ばかりが学校に入ってきているという。採用試験で高得点を取れるような人、というのはある意味異常な人でもある。また「出された問題に対して正しい答えを言える人」というのは融通の利かない人でもある。

 さて、日本では先生を評価できるのは校長だけである。アメリカでは、生徒や保護者が投票してワースト1の教師を決定するという。結果は公表こそされないが、そのような教員は校長に呼ばれ、転任か自己改革プログラムを自分で作って実行するかを選ばされるという。日本でも大学ではこのような学生による評価の試みが始まっている。
 ある大学教授は、アメリカでの学生時代、12時までに書く約束のレポートを必死になって書き上げた。しかし一息ついた12時30分ごろ、内容の誤りに気づき、内容を訂正したレポートをもう一本書き直し、いきさつを説明して2本とも提出した。
 結局2本目のレポートの内容は正しかったにもかかわらず、その授業は不合格となった。しかし、返却されたレポートには「Fair Spirit!」と大書してあったという。アメリカではこうやってその文化が大切にしていることを伝えていくのである。

 日本の教育も次第に変化を見せており、外部の人間を校長に据えたり、免許のない教員、いわゆるゼロ免教員に授業をさせたりしている。
 しかし最近の「ゆとり教育」「学力重視」の迷走を見るまでもなく、ちぐはぐな感は否めない。これは指導要領の答申がなされてから実施に至るまでのタイムラグが原因である。

 審議会が答申を打ち出してから、文部官僚が全ての文章を作るのに数年かかる。景気のいいときに考えたことが、景気が落ち込んだころに実行されるということが起きてしまうのだ。だから「ゆとり」に対して「学力低下」が叫ばれることになる。
 「生きる力」などと言われるが、問題は至極簡単である。必要なことは3つ、「知」知識を学ぶこと、「徳」モラル即ち何が正しいかを見る目を養う、そして「体」である。
 かつて日本にはものがあまりなかった。だからこそうまくいった面がある。



後半
 コミュニケーションのうち65%は非言語だと言われる。非言語とはジェスチャーや表情などである。また話の内容に当たるのは7%程度だとも言う。話の内容をいくら考えてもほんの少しでしかない。


 
子ども部屋の与え方
 時間には2種類がある。need(必要に迫られて)とwants(自分でやりたくて)である。
 みんなで生活していく上での基本的な部分をきちんと押さえていくことが大切である。wantsに合わせてやることは大事ではあるが、need即ちきちんとやらせることも必要。両者を上手に両立させていくことが生きる上で何より大切といえる。

 さて、3人の子どもがいたとして、部屋をどのように割り当てると良いか。一番よい方法は部屋をローテーションすることである。固定してしまうと、部屋を自分のものと考えてしまう。期限が来たらまっさらにして返すことで、あえて間借りしている感覚を養うのだ。その方が子どもも部屋を大事にするという。



最後に
 父親が単身赴任をして家の中が良くなることもあるし、悪くなることもある。
 これは単身赴任を肯定的にとるか否定的にとるか母親の態度が差を分けるという。「まったくお父さんがいなくてラクだわ」「この忙しいのに・・」といった母親の感情を、子どもは微妙に感じ取るのだ。

 「こうあるべきだ」と思い込んでいることの大半はたいしたことがないことである。「絶対に○○である」ということはほとんどない。それよりも変化に対応できる柔軟性が重要である。「必ずしも○○でなくてもよい」と思えるか、それは「相手を変えよう」と思うよりも「自分がそれを受け入れる幅を持つこと」が大切だ、ということでもある。
 来年度は、前半ケースワークを中心にすすめる。
 (文責:菊田)
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