<以下が4時間目「戦争を終わらせた力」で使用した資料プリントの1枚目です>
世界史資料2001
赤紙
戦争が始まると、たくさんの兵隊が必要になります。そこで、これまでに軍隊経験のある人を中心に兵隊が集められます。「軍隊に入りなさい」という命令を召集といい、それを伝える書類が召集令状です。赤い紙に印刷されていたので「赤紙」とよばれていました。召集令状は役所の人よって、必ず本人か家族にわたされました。
召集を受けた人は、決められた場所に決められた時間までに必ず集合しなければなりませんでした。出発の時には、軍隊でいるものを奉公袋にいれて持っていきました。家族・親類の人たちが、「のぼり」をたてて旗をふり、「バンザイ」をとなえて盛大に見送りました。
「夫に赤紙が来た!」
あの人と一緒に暮らしたのはたった5ヶ月だった。オレ、嫁に来たのは昭和
17年の春、18の時だった。そして秋の10月には赤紙が来て行ってしまったの
だからナ。5ヶ月一緒に暮らしたっていっても、夢中で暮らした5ヶ月だったの
だからナ。忙しい田植え時に嫁に来て、ただあの人さくっついてばかり働いて、
どうやらあの人の気心もわかってきたな、と思ったころ、もう別れてしまったよ
うなもんだったナ。 あの人「2年たったら、おれェ帰ってくるからそれまで我慢して待ってろ」っ
て言って、オレも大丈夫、この人は生きて帰ってくる、と思ってその話信じて
いたっス。明日、出発するという前の晩、みんな集まって出征祝いしてくれた
時、あの人、急に座敷から見えなくなってしまったス。オレ、どこさ行ったべ、
と思って探したれば、暗い部屋のとこさ黙ってあぐらかいて座っていたス。オ
レのこと見たれば、「おれなあ……」って言ったきり黙って動かないで座って
いたっけ。今でも、オレ、その気持ちわかる。だれェな、喜んで行く人、どこの世界にあるナ。酒飲んだって、騒いだって、なんじょしてその気持ち消えるべな。オレも泣いてしまってろくな力づけもできないでしまった。
(小原ミチさんの話「あの人は帰ってこなかった」より) |
熱海市和田木 平井菊夫『蜜柑の園』より
・8人の 生死は一つ 息を呑む 瞬時を照らす 敵の照明弾
・火焔放射機 負ひて トーチカに進みたる 一等兵は つひに帰らず
・われなくば 後を託すと 弟に 遺書したためぬ 9月21日
・看護婦の 髪の匂ひを なつかしみ 陸軍病院に 検温を待つ
8人とは、陸軍組織の最小単位「分隊」のこと。照明弾を用いるということは、夜間の戦闘なのだろうか。火焔放射機はガソリンを燃料とする。コンクリートで堅固に構築したトーチカに突撃した一等兵は帰らぬ人となる。平井さん自らも深手を負い、これで終わりかと覚悟を決める。陸軍病院で看護婦の髪の匂いを感じ、生き延びたと安堵する。
伊東市富戸 稲葉源一郎『従軍手帳』より
・物入れに ハモニカを持つ 捕虜ありて 楡の木陰に 吹くをすすめぬ
・銃殺の 前の一時 吹き鳴らす ハモニカの曲 何を調ぶる
・捕虜となりて 吹き鳴らす曲は 何ならむ 兵等静かに 耳かたむけつ
・息つきて ハモニカを吹く その胸を 1時間後に 弾丸はとほらむ
戦争に反対しなかった人はいないの?
戦争中に、その戦争に反対したり、自分の考えを発表したりすることは、とてもむずかしいことでした。たちまち警察や軍隊にとらえられ、ろうやにいれられるからです。そればかりではありません。もし負けると、自分の家族や友人たちみんながひどいめにあうにちがいないから、どうしても勝たねばならないとおもいがちです。戦争の善し悪しを考えるよりも、勝つことだけに一生懸命になってしまうのです。戦争を指導した人たちは、それをたくみに利用して、国民すべてが戦争に協力するようにしむけました。
しかし多くの人びとは、「戦争はいやだ」と思い、戦争がながびくほど「早くおわってほしい」とねがっていました。その気持ちを、そっと日記や落書きに書いたり、なかには戦争に協力するのをこばんだり、兵隊にいくのをさけようとした人たちもいます。柳瀬正夢(やなせまさむ)という画家は、まんがやさし絵を描いて、戦争反対の考えを人びとにうったえようとしました。また、日本は、侵略戦争をしているのだから、はやくやめるべきだと戦場で兵隊たちにうったえた日本人の活動をつたえるものもあります。
<資料2枚目>
世界史資料2001
反戦川柳
屍のゐないニュース映画で勇ましい
万歳と挙げていった手を大陸においてきた
胎内の動きを知るころ骨がつき
千人針
千人針は、戦場にゆく兵士の無事をいのって、千人の女の人が赤い糸で一針ずつ縫(ぬ)って千個のぬい玉をつけた布です。これをお腹に巻いていれば、敵の弾(たま)もさけてとおるといわれていました。戦時中は出征する家族友人に贈るため、街頭に出て糸を結んでもらう光景も多く見られました。なかには「死線(しせん)をこえる」というおまじないに、「五銭(ごせん)」玉を縫いつけた千人針を持っている人もいました。
ワイツゼッカー Richard von Weizsacker
1920〜
ドイツ(西ドイツ、統一ドイツ)の大統領。在任1984〜94年。20年、シュトゥットガルトで生まれる。父は38〜43年に、ナチス・ドイツ外務省の最高官僚だった。外交官だった父について各地を転々とし、オックスフォード大学でまなんだ。
第2次世界大戦後、大学で法学をまなび、かたわら戦争犯罪をさばくニュルンベルク裁判で被告とされた父の弁護団助手として、ナチス・ドイツの戦争責任の問題を調査分析した。1954年にキリスト教民主同盟に入党後、政治家として活動する。69年に連邦議会議員、81〜84年には西ベルリン市長。84年7月ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の大統領となり、東西ドイツ統一後の94年6月まで2期10年間つとめた。
1985年5月8日、ドイツ敗戦40年を記念しておこなった連邦議会演説の中で、ワイツゼッカーは、戦時中のドイツ人がおかした数々の戦争犯罪にふれ、「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在についても盲目となります。非人間的な行為を心にきざもうとしない者は、またそうした危険におちいりやすいのです」とのべた。自国の戦争責任をかくすことなく、現代に生きるドイツ人のあり方を指摘したこの演説は、世界じゅうの人々に感動をあたえた。ワイツゼッカーの態度は、自国の戦争責任をあくまで否定する日本の政治指導者たちの姿勢と、しばしば対比される。
なぜナチスを阻止できなかったのか−マルチン・ニーメラー牧師の告白−
ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチスは社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。
それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、自分はそのたびにいつも不安をましたが、それでもなお行動にでることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だからたって行動にでたが、そのときはすでにおそかった。
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丸山真男
『現代政治の思想と行動』 未来社
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