地理の時間にデスクリマドットをやってみる


はじめに



 地理で人種、民族の分類を扱った。パネル教材(8人の様々な人種の顔)を見せて、各人にまたグループで分類をさせる。これを導入にしようと考えた。

 パネルを見せた瞬間あちこちから笑
いが起きた。ネグロイド、アボリジニ、アメリカ=インディアンの顔を見て笑っているのだ。

 その後の授業の中では、単純に肌の色で分類されるわけではないこと、文化の多様性について話したりしたつもりなのだが、どうしてもやはり、最初のあの笑いが気になる。ふと思い出したのがデスクリマドットである。



展開

[必要な物]丸いシール7色(4色は7〜8枚、3色は1枚づつ)

「前回までの授業で人種・民族の分類や、それによって起きる問題について話をしました。今日はその問題を実際に体験してもらいたいと思います」

机を後ろに下げ、クラス全員を円形に座らせる。

「これからみんなの額にシールを貼っていきます。全員に貼り終えたら、同じ色の人でグループを作って下さい。ただしお互いに話をしないこと。はい、目を閉じなさい」

 とは言っても目を閉じる生徒はいない。かなりの生徒が「私何色?」ととなりの生徒に聞いている。なんども「しゃべるな」「色が何か聞かれても答えないこと」とくり返す。

「それでは全員立ち上がって、グループを作りなさい」

 わらわらとグループができはじめる。女の子は不安なのか、自分の色をすでに確認しているのですぐ集まる。そのうち、自分がどこにも入れないことに気付いて立ちすくむ子が3人出てくる。

 そこで追い打ちをかけるように

「何人かのグループでまとまったところは座りなさい」

と指示する。最後には一人の子も立っていられずに、座り込む。

「はい、ゲームはここまでです。ほとんどの人がグループに入れましたが、一人になった人が3人います。」

一人になった子に、今どんな気持ちか聞いてみる。

「ほとんどの人は多数派に入ったけど、一人でどこにも入れなかった人の気持ちが分かるか?」

 そんな質問をしながらお互いに気持ちをシェアしていく。(ここまで15分)

 その後机を元に戻し、プリントの質問に答える形で感じたことを書かせる。(10〜15分)

 シェアリングのころから教室は急速に重い空気に包まれ始める。差別、マイノリティの問題をいきなり突きつけられ、また過去のいろいろな体験と重ね合わせている様子がうかがえる。

 ちなみにデスクリマドットを行うと、教室の雰囲気はとてつもなく重苦しくなる。これは30分程度かかるのだが、残りの20分に活発な意見交換はとても望めない。まるでお通夜である。ただしこれは違う色の3人を誰にするかで多少違ってくる。

 最後に、過去のことを思い出してどうにも気持ちが収まらなくなった人は先生の所に来るよう伝えてプリントを回収する。



考えること

 これはいったい何の授業なんだろうかと自分でも思う。一応地理の授業なのであるが、自分の学年であり、全クラス持っていることもあり、グループエンカウンター的な効果を狙っているのも事実である。生徒は自分の心のかなり深い部分まで降りていっている。

 「地理の時間なのになんでこんなことやるんだろう。『いじめ対策』にも思えてきて、学年にいじめでもあるんだろうかと思った」

などと鋭いことを書いてきた生徒もいる。実際このデスクリマドットをあるクラスで初めてやった日に、いじめ的大事件が学校で発生した。

 また同時にこれはシミュレーション学習であるとも思う。だが、もともとは人権について教えるための活動事例集に載っているものだそうだ。

 これは「社会の授業」としか言いようがないのだろうか。(もちろん名前、分類がなんであろうが問題ではないのだが)

 こちらが意図していたのは人種・民族といった分類そのものには罪はないのにも関わらず、それをいつの間にか優劣関係に転換してしまうことの問題性に気付くことである。

 そこでは、客観的なはずの「分類」に主観的な目が忍び寄り、いつの間にか誰かを貶めている。それは各人の心の中で同時に、無意識に行われていることであり、その無意識の集合体が差別を形作る。その為には「差別はいけない」などといくら言葉を弄んでも意味はない。いったん自分の中に体験に基づく根本的な何かを作りあげる。そこからスタートできるのではないか。自らの体験に基づくのであれば、その解決法も空論ではない自分なりのものが考えられるだろう。

 その為の手段としてデスクリマドットを扱ってみたのだが、その効果はどうだったのだろうか。



感想から

 感想からは、

・(少数派の人が)とまどっていたのでかわいそうだと思った。

・すごくいやだった。

・悪いことをしているようでとても嫌な感じがした。

と、まず仲間外れにすることについて、自分の居心地の悪さが窺える。

 そして、

・多数派の方にいたから笑ってられたけど、一人になったらとてもやな感じだと思った。

と、少数派の気持ちに気付く者、

・すごーくかわいそうで見ているのが嫌になった。3人以外にも自分の色がわからない人がいたか ら教えてあげてしまった。やっぱりかわいそうだと思ったから。

と具体的な行動に出る者もいる。

 また、

・いじめににていると思った。

・世の中にも、(少数派の)3人と同じ状況で、同じ気持ちの人たちがいるんだなあと思いました。 今日やったみたいな、色で判断されて、差別されるなんてすごくイヤだし、判断するのはいけな いと感じました。少しでも差別を減らしたいと感じました。

と書いてくる者もいる。

 ではその解決法はと問うたとき、

・中に入ってしまえばグループなんて分からないから進んで中に入ればいいと思う。

・違う色の人でも区別したりしないで仲間に入れてあげれば解決できると思う。

・これはその人一人一人の気持ちの問題だと思う。気持ちのどこかで仲間外れにする心があればし てしまうし、受け入れてあげられるような気持ちであれば全く平気だと思う。

・人種差別をしないで、同じ仲間としてみてあげるようにする。

・全員が人種なんてくだらない考えをなくして人として助け合う。

・今の(ゲーム)は、はっきり色でわかれちゃってて別に一人でもそんなに困らないと思うけど、 民族とかだと一人で生活できないから、その人の仲間が見つかるまで、一緒の仲間にしてあげる。

・違うからダメじゃなくて、その人が困っているようだったら、少しでも似ているところを探して 助けてあげる。自分がそういう立場になったらってことを考えてみる。

・きっと完全には解決できないかもしれないけど、私が今できることは育った環境や見た目が自分 と違っても、もとは同じように生まれてきたんだと思うこと。?

・誰か一人でも、色の違う人を認めてあげる。そうすればきっと、その色の仲間も違う人を仲間に してくれると思うから。

と考えてくる。

 問題点はある。

・中に入ってしまえばグループなんて分からないから進んで中に入ればいいと思う。

実際に少数者の立場になった場合のうのうと多数派の中に入っていけるだろうか。

・違う色の人でも区別したりしないで仲間に入れてあげれば解決できると思う。

 その優しさ・善意だけで全てが解決するだろうか。

 このように、あくまでも強者の発想であったり、題目の繰り返しであったりするものも多い。また差別の構造を温存したままの、その場限りの対処でしかないものもある。

 だが、彼らは自身の体験に基づき、自分の言葉で解決方法を模索しようとしている。その意味ではこれは極めて有意義な体験である。

 ならば次時に行うまとめで、より掘り下げてやればよい。動き出した彼らの後押しをしてやればよい。

 そのためにはなにが必要か。

 まず各クラスごとの意見を印刷して全体に還元する。そこで気付いたことを発表させる。そういう中で「シールは剥がせばいいけど、肌の色は変えられない」ことに気付いていくだろう。もし気付かなければこちらから問いかければよい。

 一方「かわいそうだから仲間に入れてあげればよい」という意見がある。それは決して相手の文化を尊重した態度ではない。本当はかわいそうだと思う人がかわいそうなのである。どうしたらこれを乗り越えられるだろうか。

 残念ながらここの部分は口頭で語るしか手はなかった。何度も繰り返して訴えるほかなかった。思いつかなかった。

 だがこの教材でうまくゆくのではないかと思われるものがある。それがbafabafaである。

 「社会科教育全書36 グローバルな総合学習の教材開発」

   大津和子(「一本のバナナから」のひとだ!)著 明治図書1997年

 2つのグループがそれぞれ自分の文化をものにし、互いに数人ずつ相手文化を訪問する。その中で奇妙な思い、不安等のカルチャーショックを感じる。最終的にお互いが質問しあい自分の文化を説明することで相互理解の大切さに気付くというものである。

 この教材のことを思い出し、あわてて上記の本を沼津のマルサン書店で購入したものの、急場しのぎでできるものではないことが判明。残念だが今回は見送った。

 なんだか中途半端な形で終わってしまったが、これは地理という科目として教えなければいけない最も大切なことではないかと思う。国名や輸出品・輸入品なんかよりも、気候よりも。

 その後同様のもので1時間内でできそうなものを発見した。

 「エンカウンターで学級が変わる Part2 中学校編」

 国分康孝監修 図書文化社 1997年

   p.106 異文化の国を小旅行

 もうひとりどなたかの手をお借りする必要はあるが、これなら1時間で授業が可能だったかもしれない。ぜひ機会を改めて行ってみたい。

 今年度ももう残り少ないが、今年初めて持った地理の時間、一年果たして良い授業だったのだろうか。自問するこのごろである。

   (授業年月日 1999.1/20ごろ 一年生全5クラス)