“ゆい”長田農園フィールドワーク(2000.7/31)

はじめに“ゆい”で毎年行われている夏のフィールドワーク。今年は伊東市赤沢の長田農園で行われた


    
ヤギを見せてもらう。


  
ニワトリを捕まえる


     
左手に両脚を持ち、右手で首を持つ。その上で「ぐーーー」と全力で引っ張り、コキっとまげる。
これで動かなくなる。だが、まだ死んではいない。

  
頸動脈に包丁を入れる。

  

そしてそのまま漏斗状のものに入れ、血抜きをする。
バタバタ動き、死ぬ直前、自らの生命が抜け出るのを阻止するかのように肛門をぎゅっと絞めるそうだ。




  
熱湯につける。毛をむしりやすくするため。


  
とさか、脚を切り落とし、羽根をむしる。ひたすらむしる。

  
そのうち、鳥皮のブツブツは羽根が生えている所なんだ、と気付く。

    

 
しだいに、クリスマスなどに見られる鳥の丸焼きのようになってくる。
ようやく「生き物」が「食べ物」に近づいてきた。


   
ちょっと休憩を入れ、ヤギの乳を搾る。



再びニワトリの解体
  


  
もも肉を切り取る。いわゆる骨付きもも肉だ。

    
内臓になると、正直お手上げだった。

  



    

明日出てくる卵、明後日出てくるたまご……」




後日、おさださんの「気儘な百姓ぐらし」には

『「農業は育てることに感動と楽しみがある」という一面が「陽」ならば、
「命あるものを身勝手に利用するのが農業」という、生きていくために必然的に持つ「陰」の一面もある。
実は近年このようの面だけがちやほやされている農業体験ばかりなので、
「陰」の面を主張した体験をさせてみたい! とかねがね願っていたのである。

そんな矢先の先日、おあつらえ向き?の農業体験者がやってきた。
小中高の社会科教員による自主勉強グループから「どんな仕事でもするので体験させてほしい!」との申し出があった。』


『逆さになってもがくニワトリを前に、絶命する様子を観察するよう教えるのだが、
説明のために話をすればするほど、残念なことに一人で屠殺するときの尊厳さが涌いてこない。』

容赦のない明るい太陽が悪いのか、二羽目になっても同じで、
屠殺の技術とコツに終始するばかりで「ニワトリの命を奪った事実」が伝わらないのである』



とある。

自分自身も「ニワトリの命を奪った事実」をその時実感できなかった気がする。
客観的事実としてニワトリを殺したことは間違いはないのだが、
主観的事実としてリアルには感じ取れなかったと思う。
自分の手でニワトリを絞めた、にもかかわらずである。

この乖離はどこから来るのだろうか。
これが判らなければ長田さんと、二羽のニワトリに申し訳がない、とおもうのだが。

フィールドワークの報告として、この文章はいったんここで終わりにしたい。