気ままな百姓ぐらし−教員が農業体験−

○ 伊東市八幡野の農業経営者、長田様から寄せられた文章です。


▲▲ 農業とは残酷で、搾取と殺生の営み ▲▲
 農業が身近でなくなったからか、農業体験が人気である。水田やさつまいもなどを授業で作るところも増え、修学旅行で田植えをする学校まで現れた。「作物を育てる楽しみに教育的な価値がある」からのようだが、こうして社会で脚光を浴びるほどに、生来“天の邪鬼”な私は、農業の本当の姿は「残酷で、搾取と殺生の営みである」と、声を大にしたくなるのである。
 自分の食べ物のために「雑草だ!害虫だ!」と他の命を皆殺しにし、作物でも
家畜でも相手かまわず、一番おいしいときに命を奪って食べてしまう。
 「農業は育てることに感動と楽しみがある」という一面が“陽”ならば、「命あるものを身勝手に利用するのが農業」という生きていくため必然的に持つ“陰”の一面もある。
 じつは、近年この“陽”の面だけが、ちやほやされている農業体験ばかりなので、“陰”の面を主張した体験をさせてみたい!とかねがね願っていたのである。

▼▼ ニワトリの屠殺 ▼▼
 そんな矢先、おあつらえ向き?の農業体験者がやってきた。小中高の社会科教員による自主勉強グループから「どんな仕事でもするので、体験させてほしい。」との申し出があった。わずか一日でわが家の農業のいろいろを体験しようとは虫がよすぎるのだが、とりわけ「ニワトリの屠殺と解体をぜひやってみたい!」の要望に前述の期待がこもったのである。
 夏休みの朝9時、セミはすでに真っ盛りで、じっとしていても汗が流れる中、
グループの5人が到着。さっそく、要望のあったニワトリの屠殺と解体から始めることにした。
 じつは、気ままな百姓ぐらしとはいえ、そうそう頻繁にすることではない。まして興味本位での屠殺では少なからず気が引けるのだが、この日は特別だからと
違いが分かるようにオスとメス一羽ずつを提供することにした。
 代表になった教員が、私に言われるまま首をひねって頚動脈にナイフを入れる。「目を合わせるとできないから」と言い訳しながら、二度三度、なんとかまな板に一筋の血が流れたので、血抜きのための専用容器に入れる。
 逆さになってもがくニワトリを前に、絶命する様子を観察するように教えるのだが、説明のために話をすればするほど、残念なことに一人で屠殺するときの尊厳さが湧いてこない。
 容赦のない明るい太陽が悪いのか、2羽目になっても同じで、屠殺の技術とコツに終始するばかりで、「ニワトリの命を奪った事実」が伝わらないのである。
 ところが、羽をむしりながらの話「学校で解剖をやらなくなった訳」を聞いて
合点がいった。私が子供のころやったカエルやフナの解剖は「教育上無益な殺生」なのでやらなくなり、代わりとして「初めから食べ物であるアジやイカなどを理科室で解体している」と言うのである。
 ここが変なのだ。初めから食べ物である生き物には、教育上「かわいそうな命がない」感覚になっているのである。


★★ ニワトリの解体 ★★
 続いて、解体。もも肉と手羽をめいめいが取って皿に並べるまでは料理教室の雰囲気だ。ところが、胴体にナイフを入れて2つに開いて内蔵が現れると空気が一変した。ここからは誰一人手を出さないのである。
 そばにいた小学5年の娘は、これが卵の元で、これが心臓、レバー、そして、
これが砂肝と、手に取っていかにもうまそうに器に並べるのだが、5人はうなずくばかりか「翌日から船で出かける研修で、これを思い出したら座ってはいられないかも…」と、心配するありさまなのだ。
 なんと!今度は、栄養があるからと珍重している食べ物を気持ち悪がっているのである。「食べるために奪った命!大切においしくいただくことが当然!と子供ですら知っているのに!」である。
 どうも拍子抜けしてしまうのだが、最初の体験に私の期待が大きすぎたようなので、次にヤギの乳搾りをすることにした。


◆◆ ヤギの乳搾り ◆◆
 ここでも娘が、昨年までの担任に教える。
「先生、そうじゃないよ。親指と人差し指で乳首の上の方を握ってさ、こうやる んだよ!」
だが、慣れない手つきで言われたとおりにしてもわずかしか出てこない。「たかが乳搾り!」と軽く見ていた教員たちは、娘が搾ると水鉄砲のように出てくるのだから面子(めんつ)はない。
 このヤギ、牛のように家畜として乳搾り用に人為的に改良されていないので、
乳の出る期間は短い。その短い期間の中で、人は巧妙にミルクを搾取するのである。
 ヤギの常食は草。生まれる子供が草を食べることができるようになれば、それ以後の乳を横取りできる。じつは、自然の状態のヤギでは、子供が草を食べるようになれば、乳はだんだん出なくなる。ところが、それでも搾ることで、あたかもいつまでも子ヤギが飲んでいるかのように母ヤギの生理が錯覚させられてミルクが搾取できるのである。
 これは機械で搾る牛の搾乳では分かりづらいかもしれないが、ヤギの温かな乳房から自らの手で乳を搾り取ると、しっかりと実感できる、はずなのである。
 などと、5人がそれぞれに体験していたので、すっかり時間がなくなってしまい、予定していたミカンの摘果や草取りは省くことにして、ここから先は見学と
質疑応答となってしまった。


☆☆ 農業体験の教育的な価値 ☆☆
 食用鯉の池や養蜂場に続き、ゴマを作ってある畑を眺めると、父が草取りの手を休めて出てきた。真っ黒に汚れたシャツが汗で体にぴたりとくっついている。
はめていた手袋を脱いでも汚れている手で、ゴマ殻の1つを割って中を見せ、
「百姓百倍というが、ゴマ作りは1つの種で5000倍以上になる。」
と話し始めた。
 もちろん、稲などと同じで品種改良されたおかげなのだが、ここで考えてほしいのは、1粒の種が「種」として命を全うすれば、残りは食べられる運命だ!ということである。
 こんな具合でその他にも、畑にこうした話題はたくさんある。農業体験というと、とかく体験する方をお客さんとして扱ってしまい、「楽しく過ごしてもらえば、よし!」と考えがちだが、近年のように農業が遠い存在になってしまうと、
“陽”と“陰”の両面を含んだ本当の農業を知らせないと、取り返しのつかない
社会になってしまう気がしてならない。
 農業は、さまざまな命の関わり合いを感じることができる。だからこそ、命を尊び、生きることに感謝できるのだ。そして、そこに教育的な価値があると思うのである。農業体験の役割は大きいのである。