長田農園訪問記

 車を降りると、畑の土と青草が夏の太陽に蒸れる、懐かしいにおいがした。長田さんの農園(自宅の周りが農園)は八幡野の町中から車で6〜7分山道に入った所にあった。
 この日、“ゆい”のメンバーは5人。出迎えてくれた長田さんの案内で、さっそく鳥小屋へ。まずは、ニワトリをつぶす体験から始めるとのこと。「例年ニワトリをつぶすのは冬にしている」ところ、今回は我々のために特別に行う。



1 ニワトリを絞める体験学習

 敷地内を案内してもらいながら、長田さんは淡々と語る。
「ニワトリは我が家の生ゴミ処理班。生活の一部になっている。」
「雄鶏はえさを最後に食べる。雌だけだと、弱いものはいじめられて、えさにあ りつけなくなってしまう。」
「日本人が食べないニワトリの足は、中国に輸出されている。無駄なくすべてを食べ尽くす中国の食文化に心底感心するが、足には動いていたときの『記憶』 が生々しく残っている感じがして、どうしても食べられない。」
 話の端々にどっしりとした生活の重みや暖かい人柄を感じたのは、自分だけではなかっただろう。

 この日、つぶされるニワトリは、ヤギと一緒の小屋にいた。
 まず、宮村先生が網で捕獲に挑戦した。ニワトリは殺されるのが分かるのか、小屋の中を飛び、逃げ惑う。                
 次に、春日先生が頭と首を持って、絞める。力いっぱい、ぐっとひねりながら
引っ張る。顔を背け、目をつぶってしまいたくなるのがよく分かる。これでニワトリも気を失っておとなしくなるというのだが、そこは初めてのこと。ましてや、自分の手で、“命”を奪うという瞬間、そうは問屋が卸さない。気を失いかけたニワトリが暴れだす。でも、ぐっと我慢して手を離さなかったのは、さすが!(いや、春日か!?) うっかり逃がしでもしたら、再び捕まえるのは大変だという。翌日の8月1日から、初任者の洋上研修に出かける春日さん。絞め終わって一言。
「船酔いしそう〜。」
と全身から力が抜けた感じ。

 今度は、菊田先生が頚動脈を切り、血を抜く。血をすべて抜くために、円錐形のブリキのようなものでできた容器に、頭から逆さに詰め込む。
「首のないニワトリが暴れて走り回ることができないようにするためだ。」
「最後の血一滴が流れ落ちるとき、命だけは出すまいと、肛門がぎゅっとしまる。
 そして、肛門の力がすうっと緩み、命が抜け出て、『40億と3年の命』が終わる。」
長田さんの言葉を借りると、上のような表現になる。
「これは、一人では怖い。一人でやるときは、気持ちをハイにしてかからないとできない。」
今までに何度も経験している長田さんでさえ怖いというのだ。ぎらぎら照りつける真夏の太陽の下、大勢だったから救われていたのだろうか。

 私は、ゆでられた鳥の毛をはぎ取る作業を手伝った。今まで元気に走り、逃げ回っていたニワトリが、鳥肉になってしまった一連の場面に立ち会っていることに、違和感がなくなっていた。菊田先生は、一緒に毛を抜きながら、「鳥肌のあのぼつぼつは、この羽が抜けた跡だったのか。」と話す。半ば坊主のボイルされた鳥に触れながら、私もあらためて手の先から理解した。



2 ヤギの乳搾り体験学習

 2つめの体験は、ヤギの乳搾り。先生は、きみえさん。長田さんの娘さんで、
八幡野小学校の宮村学級に通う。きみえさんは、手慣れた手つきで簡単に搾り出す。私もやらせてもらったが、理屈は分かっても、やっと細い絹糸のような白い乳が一瞬かぼそく出るだけ。一番上手だったのが、森山先生。搾り出すときに、シューッという音がしていた。ヤギも気持ちよさそうな表情をしながら餌を食べていた。
「家畜の中で一番野生に近いヤギ。暴れないように餌を与えながら、朝晩の2回乳搾りをする。」
「乳は2つ。両方から搾る。かたくなった乳は、たたいて柔らかくする。」
 ヤギの乳搾りにも、いろいろなコツがあった。        



3 畑の見学とスイカの試食会

 ヤギの乳搾りを終え、畑の見学に移る。とはいえ、実は流し素麺に使う竹を取りに、畑を縫って竹林まで。手入れされたミカン畑を過ぎると、サツマイモ、落花生、胡麻、スイカ、カボチャ、シソ…。その向こうに、麦藁帽子で作業しておられた方がきみえさんのおじいさん。長袖の上着は汗と泥まみれ。にこにこしながら、丹精込めて作った作物の話をいろいろ聞かせてくれた。
 4番目の体験は、スイカの試食会。〔→写真E〕至福の一休みであった。
 水平線が続く青い海が眼下に広がる庭。木陰に設置された手作りの小屋。そこに、長田農園特製の冷えたスイカ。種はまき散らし、汁のたれる心配はしなくていい。食い終わった残りは、下のミカン畑の肥やしに投げ捨てである。何とぜいたくなのだろう。この風景を、この時間を切り取ってしまいたい。ずっと毎日ここで過ごせたらいいな。長田さんの家族がとてもうらやましく思えた。
 この後、きみえさんを先生に鳥肉を解体し、バーベキューの準備をする班と、竹の節を削り、流し素麺の用意をする班とに分かれて作業した。私は、残念ながら午後から学校の当番があり、ここでお邪魔することにした。後ろ髪を引かれる思いで長田さん宅を後にした。 
 我が家もミカン農家だった。今でもミカンの木は残っているが、ほとんどなりっぱなしの状態。祖父が元気だった頃は、よくミカン採り、剪定、消毒、摘果などを手伝わされた。もっと小さい頃には、裏庭にニワトリもいた。3つに仕切られた大きな物置小屋もあった。悪さをして祖母によくたたき込まれた。祖母の背負い篭に揺られてついていった畑には、トウモロコシ、スイカ、トマト、ナス、イチゴもあった。縁側でスイカにかぶりつき、種の飛ばしっこをした。
 今思うと、自分が生まれたばかりの頃(昭和30年代初め)は、我が家にもまだ自給自足の面影があったのだろう。中学校に上がる頃(昭和40年代半ば)には、既に庭から家畜は消え、トウモロコシのあった畑も埋め立てられ、建築の資材置場になってしまった。ミカン畑だけが金のなる木として大事にされ、物置小屋は、ミカン箱だらけでお仕置きなどできるスペースもなくなっていた。
 一人学校へ向かう車中、頭と心は心地よく自然体を装っていたが、胃の中は網の上で焼かれる鳥肉と、涼しげに流れてくる素麺、キンキンに冷えたビールをうらやんでいた。

(2000年7月31日    文責:向井一雄)